朝倉山(朝倉城跡)より柏原・湯川・芹ヶ沢地区を撮影、東山道の道筋。前方が八ヶ岳 |
諏訪地方の国牧
諏訪地方は、縄文時代中期に量的にも質的にも全国でも有数の縄文文化の爛熟期を迎えました。ところが約3千年前~2千年前の縄文時代後晩期になると、かつてない長期間の空白期が生じます。
海戸集落のように漁労に頼れる数ヵ所の遺跡が、人の痕跡を留めるだけです。それ以外は、天竜川やその他の河川流域を、とぼしい魚を求めて、周辺地方の人々が遡上してきた僅かな痕跡が、天竜川、横河川、諏訪湖の畔に遺存するだけです。
その後ようやく中部高冷地の諏訪地方に、弥生文化が本格的に根を下ろし始めたのが、弥生時代中期でした。庄ノ畑遺跡(岡谷銀座2丁目)によって、諏訪地方最初の水田稲作文化の定着が確認されます。庄ノ畑集落は横河川扇状地の末端に近く、前面が低湿地で横河川の細流に囲まれていました。周囲には横河川の氾濫体積物が遺存していますが、集落が冠水した痕跡はうかがえません。横河川の細流の川筋か、谷地の湧き水が流れる奥まった湿沢地を、現状のまま水田とし、直播の稲作が行われたようです。その生業は原初的な稲作と、漁労に多くを依存しながら、狩猟と植物採集に頼るといった多様なもので、大集落を維持できるような内容ではありません。
4~6世紀当時の諏訪地方におけるムラは、新井南(小坂)や海戸遺跡(岡谷天竜町)にわずかに知られているだけで、あまりわかっていません。海戸遺跡は、諏訪湖が天竜川に落ちる釜口から300mと近く、遺跡の最高地点の標高は769mありますが、現在の諏訪湖(湖面標高759m)との比高では、約4~10mしかなく、遺跡の周辺部には、水没の痕跡もみられています。また遺跡の中心部には、その遺物を包含する層の上に、河川敷の痕跡の砂礫層までも発見されています。
八ヶ岳山麓周辺と車山の上川源流域を、古代、北山浦と呼んでいました。諏訪大社の御神体・守屋山周辺部の宮川の源流域を南山浦と称していました。塩尻峠東北部の沼地から発して南南東に流れる塚間川、鉢伏山・高ボッチ高原の沢筋が集める横河川、和田川や八島湿原観音沢を源とする砥川、池のくるみ周辺域から渓流となる角間川など、諏訪湖に流れる大小河川は30を越えるといわれています。それが豪雨の時、諏訪湖に一機に流れますが、出口は釜口の天竜川しかありません。水没被害は、現代でも多発しているぐらいですから、古代では相当の頻度と水かさがあったでしょう。岡谷市域の天竜川は、釜口から4kmの流域で、かつて製糸業が隆盛を極めていた時期、製糸用水や水車動力として利用されていましたが、その施設が原因となって、その上流域で水害を引き起こしています。
しかしながら、海戸遺跡は塚間川の右岸に沿って南北に伸びる丘陵の最先端に位置し、背に西山山地や高ボッチ山地などの山と森林を背負い、動植物の食料と生活資材の供給地を有し、一方諏訪湖・天竜川の低湿地に突出し、その漁場にも恵まれていました。海戸集落が弥生時代後期を迎える頃、近くの榎垣外遺跡や天王垣外遺跡などに、かなりの戸数をもつ集落が出現します。しかし庄ノ畑集落は既に消滅していました。そして海戸集落は、かつての3戸1群がそれぞれ分立する集落構成ではなく、全集落が1単位のまとまりをしめします。この時代に属する弥生式の出土土器の底に籾殻痕がいくつか検出されています。共同体を作り、共に農業生産に従事し、自然の湿沢地だけに頼らず、自ら水路を切り拓く本格的な水田が営まれだしたのです。粘板岩や緑泥岩などの硬い堆積岩を用いて、木を削る手斧(ちょうな)としての扁平片刃石斧、木材に溝を引いたり、孔を穿つ抉(えぐ)りノミとしての柱状(ちゅうじょう)片刃石斧や、閃緑(せんりょく)岩や班礪(はんれい)岩などの重量感のある緻密な岩石を材料にして、木を割ったり伐ったりする文字通りの斧としての太形蛤石斧などの出土から、明白に水田稲作の営みが分かるのです。それらの石器は、朝鮮半島・中国大陸・東南アジアの初期農耕期には欠かせない石器として出土しています。それらは多種類の木製農耕具を作る木工具でした。朝鮮半島から水耕稲作が、北九州に伝播した初期から、既に木製農耕具は完成の域に達して共に伝来したのです。各種の鍬・鋤・シャベル・鋤簾(じょれん)・田下駄・田舟など、現在の農具の形は、ほとんど完成していました。特に湿沢地を水田とする諏訪地方の初期水田稲作では、木製農耕具であっても充分機能します。また海戸遺跡からは、打製と磨製の石包丁が出土しています。石包丁は鎌のような刃で稲の穂先を刈り取るのです。大陸の稲作遺構からは、必ず出土しています。やがて石製の木工具ばかりでなく、金属器も入手します。北九州に、広く水耕稲作が伝播した縄文時代後期には、既に大陸では金属器時代に入っていました。弥生時代初期には、鉄の農具も使用され始めます。中期には広く普及し、後期になると石器は特殊な農具に限られ、鉄器が主となります。それが、北海道、東北地方を除く列島全体の趨勢となります。元々熱帯性植物であり、日本列島に生息していなかった稲です。高地冷涼な諏訪地方でも東北地方と同様で、その稲作の生産力は低く、尚諏訪湖が今より下筋地域の木舟地区にも、広く深く入り江状態で入り込んでいた時代に、稲作適地は限られていました。諏訪湖畔の低湿地は、毎年幾度も冠水します。富士見町は戦国時代まで、甲斐の国に属しています。信玄の父・武田信虎の時代に、諏訪頼重へその姫君輿入れする際、化粧料として諏訪家に与えられました。古代原村は、江戸時代初期まで神野(こうや)といって、諏訪大社の御狩場として、鍬を入れること自体禁じられていました。諏訪大社前宮周辺の高部地区は、神原(ごうばら)と称し、大社発祥の地として神聖視され、人の立ち入りが禁じられていました。現在の柏原や湯川などの北山地区は、縄文時代中期に隆盛を極め集落が混在していましたが、後期以降ほぼ無人状態となり、10世紀中頃ようやく荘園化されました。しかし高冷地のため生産性が上がらず、11世紀半ばには、放置されました。狭隘な諏訪の平の耕作地は、極めて限定されていました。
海戸遺跡ばかりでなく諏訪地方全体にいえることは、弥生時代後期の住居址から鉄片が幾つかは出土していますが、依然として農具は石器が主体でした。
古代文化の発展は、水田耕作による生産力の如何に、密接に関わっていました。諏訪地方の鉄器の導入の遅れは、それが原因でした。それでも鉄製農具は入ってきます。石や岩が多い丘陵や扇状地のさらなる上の踊り場を開墾し、米以外の穀物や作物を作る畑の領域を広げていきます。こした生産力の増加は、社会構造を変えていきます。海戸集落は3戸1群が、それぞれまとまる集落構成でしたが、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、全集落が7.5×7.5mの大型住居址を中心に1単位としてまとまるようになります。ようやく諏訪地方にも、首長的存在が出現してきたようです。
古墳時代後半期には、1つの集落だけではなく、諏訪湖北盆地を統括する政治権力者が登場します。
個々の住民を一元的に直接支配する体制が確立していきます。7世紀はじめ、諏訪地方にも大型古墳が築造されます。スクモ塚古墳(長地中屋)です。この頃既に、集落の集合がかつてない規模で、湖北盆地の東半、長地の横河川扇状地上に出現します。その遺跡からの遺物は、量・質ともに海戸遺跡をはるかにこえるばかりか、鉄鐙(あぶみ)1組、鎧の一部・桂甲小札(けいこうこざね)、銀環1個を含む金環10個など他に例のない豊富な副葬品でした。広大な横河川扇状地上の高台にあった集落が遺存させた古墳群の副葬品から、経済的な格差が読み取れますが、共通する特徴として、鞍金具類などの実用的馬具と?切先(かますきさき)太刀、尖頭鏃、飛燕鏃(ひえんぞく)などの武器、そして土器の出土です。当時、いくつかの牧が既に存在していて、それを管理運営する各々の専業集団がいたようです。それが後世、岡谷牧などの官牧につながり、馬匹経済・文化を育んでいくのです。そしてスクモ塚古墳からコウモリ塚古墳(長地中屋)と引き継がれ集団は、単なる牧の経営集団ではなく、諏訪湖北盆地を一元的に支配する権力集団に成長していました。この時代、諏訪地方の水田稲作の先進地であった川岸地区には、鬼戸窯などの古代窯業生産地が存在しています。
天竜川は諏訪湖から延々216km南下して、遠州灘に注ぐ、その中流域の伊那谷は長大で日照時間も長く、信濃のなかでも突出して、先進的で豊かな文化を古代早期から築き上げてきました。
その下流域は東海の諸平野に通じ、温暖な気候に育まれた潜在的な生産力を有し、早くから弥生水耕稲作文化の影響を受けていました。信濃すべてが山国でありながら、とりわけ山深く狭隘な諏訪が、歴史上の早い段階から記録されるようになったのも、天竜川を遡上してくる先進文化の流入と、馬匹文化により培われた経済力を背景に、侵攻してきた金刺氏の存在があったからです。
日本列島に馬が登場するのは、古墳時代の中ごろ、西暦5世紀のはじめ頃といわれています。縄文時代や弥生時代の遺跡から馬の骨が出土している、もっと古くから日本列島に馬がいたと説く人もいますが、今のところ確証はありません。また『魏志倭人伝』も、弥生時代の日本について「其の地牛馬虎豹羊鵲(じゃく;さく)なし」と記述しています。古墳時代に副葬品として古墳に埋納された馬具が、現在のところ馬に関する最も古い出土品となっています。雉は野生種として倭にいましたが、家禽としての鶏となると渡来です。『鵲』は鶏を指すのでしょうか?
4世紀の終わり頃、朝鮮半島北部の高句麗好太王(こうくりこうたいおう)の碑文が伝えるように、倭政権は半島で、高句麗と戦いますが、その最中、高句麗の騎馬戦力に接し、歩兵の不利を悟りました。また戦場で軍を指揮するのに馬上が有利で、倭人が乗馬を始めるきっかけとなりました。したがって、日本列島における馬の使用は、戦いの手段、軍備の一部として始まったのです。
諏訪地方では5世紀代に入ってようやく古墳が築造されますが、市内中洲のフネ古墳や元町の諏訪中学校跡地の一時坂古墳など、古い時期の古墳からは馬具が見つかっておらず、ようやく湖南の二子塚古墳や豊田の小丸山古墳など、横穴式石室をもつ6世紀後半代以降の古墳から出土するようになります。これらの馬具は、刀剣や鉄鏃(てつぞく)、鎧(よろい)などの武具と一緒に出土しており、当時、馬が軍事的な用途で活用されていたことがわかります。また、金属製の馬具も含め、馬術を駆使することが、被葬者の地位や武威を示すことになっていたようです。
例えば県内では、諏訪地方では1基乃至2基しか見つかっていない「前方後円墳」が、飯田・下伊那地方では、諏訪とは異なり集中して築造されています。信濃国の前方後円墳(帆立貝形を含む)と前方後方墳は、善光寺平が24ヵ所、飯田地区が30ヵ所と特定の地域に集中しています。その他の地域は、全部合わせても7ヵ所位です。善光寺平の古墳は4世紀~5世紀後半、飯田地区の古墳は5世紀中葉~6世紀に建造されています。古代、飯田地区の権力が善光寺平のそれを凌駕したのです。5世紀、古墳時代中期、こうした権力の地域的移動は、信濃以外でも多く見られる現象です。その5世紀代から、諏訪地区でも馬具や馬の埋葬例が見られるようになります。現代では、古墳から出土する馬具のあり方には、かなりの地域差があることがわかっています。この地域差は、元は大陸から伝えられ馬具と馬をあやつる技術を、当時手にしていた大和王権との関係の差であると考えられています。
後に信濃を含む東国には多くの国牧、御牧などの官牧が作られますが、古墳時代の馬具の分布とその移り変わりは、そういった東国支配の形成過程を示すものであるのかもしれません。
諏訪地方では唯一、下諏訪町の青塚古墳が6世紀後半の前方後円墳の姿を明確に残します。
岡谷のスクモ塚古墳(長地中屋)も平地に築かれた前方後円墳である可能性が高い、残念ながら、現在に至っては、上部を2m近く削られ平らにされ、周囲は宅地化と水田により掘り崩されています。建造時には全長30m近くはあったと想定されています。スクモ塚古墳は、平地古墳として、諏訪地方の前時代の山麓古墳に勝る大きさがあります。諏訪地方最大の諏訪湖北盆地の青塚古墳に先んじる前方後円墳であったとおもわれます。横河川による扇状地上にありますが、東側から流れる十四瀬川(じゅうよせがわ)の低地に向かって傾斜する地形の頂点となる標高783mの高台に立地しています。
スクモ塚古墳の築造年代は、その場所が古墳時代から奈良・平安時代と続く片間町・金山東・榎垣外などの大集落遺跡群に隣接すること、小形の前方後円墳が畿外の地方で盛んに造られた時代との照合、コウモリ塚古墳の出土土器のように8世紀以降のものが見られないことから、7世紀初頭と推定されます。
岡谷市内でもっとも古い古墳は、現在わかっているものでは、6世紀前半期にあたる湊小坂の糠塚古墳です。諏訪地方でもっとも古い古墳である5世紀前半代のフネ古墳(諏訪市神宮寺)に近く、湖北地区にはこのような古い古墳は、造られていません。岡谷にあるたくさんの古墳は、そのほとんどが、日本の国家としての体制が確立した7~8世紀初頭に造られたものです。今井・横川・中屋・中村の山の手山麓に築造された横穴石室の小円墳には、たくさんの武器(直刀、鉄鏃)と馬具で飾られた有力者達が葬られています。
諏訪地方の初期首長の古代守矢氏から、出雲と越の連合勢力の建御名方神一族へと政変があり、「みさぐち」の原始的自然神の影が薄くなり、5世紀前半代、諏訪大社前宮の地を中心に狩猟と漁労の神を信仰する水潟(みなかた)の民が育成されます。
6世紀中頃からの欽明・敏達天皇の時期、朝鮮半島では伽耶諸国が滅亡し、それに先んじる527年には筑紫に磐井の乱が起こり、大和朝廷内部には蘇我氏と物部氏の確執が生じ、国内外共に混乱を極めていきます。そこで大陸対策と内乱の備えとして、強力な騎馬軍団を必要としたのです。方策は東国の適地に飼馬地(牧場の原型)を置き、国造の子弟を舎人として上番させることでした。科野での飼馬は、飯田経由で朝廷に輸送されます。後に飼馬地は「御牧」として発展します。諏訪郡では、山鹿牧(茅野)・塩原牧(茅野)・岡屋牧(岡谷)・宮処牧(上伊那)・平井出牧(上伊那)・笠原牧(上伊那)・萩倉牧(下諏訪町)が存在しました。舎人は主に東国から上番させますが、欽明天皇の舎人は宮殿の金刺宮に仕え、ここの舎人たちは「金刺」の姓を名乗ります。その子・敏達天皇の舎人は他田(おさだ)宮に仕えたことにより、「他田」姓を賜ります。両氏とも科野国造家からの別れです。やがて他田氏は小県の郡司となります。
「大化の改新」と呼ばれる大化元年(645)の政変後、聖徳太子以来の悲願ともいえる中央集権国家の建設をめざして、新しい制度の要である公地公民の制や一元的な地方行政組織の整備などをすすめます。
大化末年、国の制度の実施に伴って科野の国が成立、中央から国宰(くにのみこともち)が派遣され、国の下に諏訪郡がおかれて統治されたと思われますが、この頃の諏訪に関する資料がないためよくわかりません。
大宝元年(701)、大宝律令が制定され、以後、一切の行政は大宝令に定められた諸制度によって行なうようにという勅令が発せられ、律令国家の完成をめざします。それは藤原宮(奈良県橿原市)、文武天皇の時代でした。当然、その制度は地方にもおよび、信濃の国に諏訪郡が置かれたのです。
奈良時代に入って、養老5年(721)、信濃の国を割いて諏訪の国が設置され、10年後の天平3年(731)には諏訪国を廃して信濃の国に合併されます(続日本記)。
たとえわずか10年でも諏訪の国がおかれたことについては、これまでさまざまな学説が出され、また諏訪の特異性とも言われる所以でもあります。これについては近年の考古学調査の成果 において、榎垣外遺跡(長地中屋スクモ塚地籍)から、古代官衙(役所)跡と見られる掘立柱建物跡が発見され、郡衙(郡の役所)址である可能性が指摘されています。成立後間もない小国では、郡衙がそのまま国衙になったのでしょう。郡衙は国衙に準じて造営され、郡司などの役人が主に税の徴収に当たるなど、中央政権の最先端機関であり、実務の殆どが郡司に依存していました。律令体制の施行後、これまでの古い勢力、国造など地方の有力豪族を退けて、都から派遣されてきた国司が政務を遂行する、そのため古い豪族の力が比較的弱かった湖北の地に、新しい官衙を設けたのです。「金刺氏が忽然と湖北の地に現れ、その後、元々諏訪大社に何の関わりもない湖北の東寄りに、諏訪大社下社が造営された。」その辺の事情を物語っているようです。
古代国衙は、政務や儀式を司る庁(政庁)や徴収した稲(税)などを収納する正倉、国司など役人が生活する館といった諸施設から構成された、言わば計画的に造られた都城にちかいものでした。榎垣外遺跡は2km四方に及ぶ広い範囲から、7~11世紀頃の竪穴住居や掘立柱建物跡が発見され、特にスクモ塚地籍では、1×10間(柱が11本2列に並ぶ建物)の長い建物や、2×3間の高床式住居、2×2間、3×3間の高床式倉庫などが規則的に配置されています。これは、県内では唯一の建物群です。
奈良時代前期から平安時代にかけて『信濃の名馬』として名を成していました。諏訪地方の名馬は特に評価が高かったようです。標高が高い高原の紫外線は、良質の牧草が涵養され、牧として最適でした。後世、昭和時代の戦後に至っても、牧畜は盛んでした。しかし高度経済成長へ離陸し始めると、一挙に衰退します。
『日本書紀』によれば、応神天皇の時、飼部(うまかいべ)を置き、天智天皇7年(668)7月、多数の牧を設置し馬を放牧します。その時初めて牧を組織的に全国展開したのです。これは、白村江の敗戦により、一層の軍備の増強こそが緊要の課題となります。大和政権は、唐と新羅の同盟軍が侵攻してくる可能性は高いと判断していました。ただ唐と新羅は、新羅が朝鮮半島を歴史上初めて統一すると、以後反目し合います。
牧で飼育された馬は、主に各国に設置される軍団の兵馬として徴用されました。また、中央にも貢進され朝廷の儀式や行事、都の警備などにも用いられ、天皇家・官司・諸官庁などの馬の供給源になっています。さらには、駅馬・伝馬などにも使用されています。
『続日本紀』に文武天皇4年(700)3月17日、「諸国をして牧地を定めて、牛馬を放たしむ」とあります。牧は、兵部省の兵馬司(ひょうまし;つわもののうまのつかさ)が所管しました。この時から、令制による牧制の運営が始まったのです。諸国におかれた牧は、各国の国司がこれを監理し、兵馬司が統括しました。左・右馬寮(めりょう/うまのつかさ)は、諸国の牧から貢進された朝廷保有の馬の飼育・調教にあたったのです。諸国から貢上されてきた国牧、御牧の馬は、馬寮直轄の馬寮厩舎や牧(寮牧)で飼養され、或いは、畿内及び周辺諸国の6ヵ所に置かれた近都牧(きんとまき)で飼養されました。また、後には勅旨牧(てしのまき)の御牧(みまき)も経営監督します。そして軍事や儀式で必要なときに牽進させて必要部署に供給します。
大宝令にある厩牧令(くもくりょう)には、牧における牛馬の飼育に関する細かな規定があります。例えば、慶雲4年(707)3月には、焼き印が摂津・伊勢など23カ国に配布され、牧の馬や仔牛に押印を命じます。厩牧令によれば、「馬は左の髀(ひ;もも)の上に、牛は右の髀の上に押印せよ」となっています。
「凡牧は牧毎に長一人、帳一人、群毎に牧子(ぼくし)二人を置け、其の牧の馬牛は皆百を以て群と為よ」。各牧には、牧長1名と牧帳1名が置かれ、牧長は牧の管理・運営にあたり、牧帳は文書事務を担当します。牛馬は百頭を群と呼び、1群ごとに2名の牧子と呼ばれる飼育係が置かれます。
第6条 群の構成1群となる100頭は、3歳以上の雌牛、4歳以上の雌馬に雄牛馬を各1頭加えて構成する。
第11条 毎年正月以後に一方から放牧地に火を入れ、草生を万遍なくするように管理する。
官牧や厩において馬を放失した場合は弁償させる条令「六典」があり、その規定を受けて「厩牧令」は、100日の猶予で探させ、連れ戻されなければ牧子、牧長の負担と定めています。
また、乳牛牧(ちちうしのまき)から典薬寮へ牛が供給されます。平安時代に設置された乳牛院は典薬寮に付属した施設で、乳牛の飼育・管理、搾乳を行います。別当が総監し、乳師預に統轄された乳師が職長として職員を使い、乳牛を飼育し、牛乳を採取すると天皇家に供御します。牛乳や蘇(そ)・醍醐(だいご)は薬としても使われていました。都では、荷馬、牽き牛ともに需要は多かったようです。厩牧令の施行は、牧畜を産業として飛躍的発展させたのです。
初期の官牧には、国牧、近都牧、国飼牧(くにかいまき)、御牧があり、信濃には国牧と御牧がありました。国牧は諸国に設置されました。
『類聚三代格』十八太政官符に『神護景雲2年(768)正月廿八の格にいわく、内厩寮(ないきゅうりょう;うちのうまやりょう)の解(げ)にいわく、信濃国牧の主当 伊那郡大領外従五位下勲六等金刺舎人八麿の解にいわく、課欠駒(かけつごま)は数を計り決すべし』
金刺舎人八麿は伊那郡司の長官・大領(こおりのみやつこ;おおきみやつこ)に任じられ、さらに信濃の国牧の主当、即ち国衙の牧担当の主任官でもあったのです。律令制初期の国牧は、制度上国司が監理しますが、郡司の大領が国牧の主当として実務を担っていたのです。
大宝令で牧を定めて馬を放つことが命じられるますが、恐らくこれ以前から信濃には朝廷直属の牧があったでしょう。斉明天皇4年(658)4月、越国守であった阿倍比羅夫は180艘の船団を率いて蝦夷征伐に出発しました。その時の兵は、越国はもとより信濃国からも徴用しました。さらに信濃国は軍用馬の供給基地でもあったのです。
国牧は官営事業ですから、朝廷への貢馬の義務を課します。母馬100につき60頭の責課を命じます。当然、不可能となります。朝廷は愚かにも、延暦22年(803)、貢馬の制を止め、馬1頭につき稲400束を代納させます。牧子は国牧馬百頭を二人で管理しながら、24,000束の稲を貢進するのです。困窮して未進が積もり、牧子の逃散が多発します。弘仁3年(812)12月8日、馬1頭につき稲200束に減じます。天長元年(824)100束とします。こうして国牧制は崩壊しました。
稲穂を束縛したものを「把」、穎稲(えいとう;刈り取った稲穂)1把には、稲穀1升(米5合)ぶんの稲実があります。この10把をまとめて「束」といっていうのです。
奈良時代の中頃には、兵士の調練もおざなりになり、軍団制もくずれ、馬の需要も減り、御牧のみが存続し、他の牧制は平安時代初期には消滅していきます。信濃国の国牧も同じ時期に消え、荘園化していったのです。
御牧は勅旨牧(てしのまき)ともいわれ、左・右馬寮の直轄にあり、形式的には天皇の牧場でした。平安時代中期、『延喜式(律令の施行細則)』四十八に甲斐国3牧、武蔵国4牧、信濃国16牧、上野国9牧、合計32牧をあげています。
信濃国のみ突出して16牧があるなかで、諏訪郡には「山鹿牧(茅野)・塩原牧(茅野)・岡屋牧(岡谷)・宮処牧(上伊那辰野町上島横川沿い;諏訪社領)・平井出牧(上伊那辰野町平出;諏訪社領)・笠原牧(旧伊那市)・萩倉牧(下諏訪町)」の7牧が置かれています(延喜式)。諏訪郡の官牧がいかに盛んであったかがわかります。大宝令により信濃国は、佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の10郡に分かれていました。現在の長野県のうち、当時美濃国の木曽地方を欠く大部分です。そして諏訪郡は、平安時代の承平年中(931~937)に源順(みなもとのしたごう)が撰述した『倭名類聚抄』によると、土武(土無;下諏訪町富部)、佐補(佐布;上伊那郡中箕輪村)、美和(上伊那郡高遠町)、桑原(上諏訪上・下桑原)、神戸(上社から四賀村)、山鹿(豊平村)、弖良(てら;上伊那郡手良村)の7郷と記されています。古代諏訪郡は、現代の上伊那郡をも含み、駒ケ根市と宮田村堺に架かる太田切橋の下を流れる太田切川まで及んでいたのです。その郡境は、諏訪頼重が武田信玄により自刃させられるまで変わりません。
なお、山鹿牧は上川の左岸、茅野市豊平南大塩を中心にした北山浦一帯です。山寺にある白山社は牧者の守護神でした。後の大塩牧です。塩原牧は山鹿牧に対して、上川の右岸にあたり、その中心は茅野市米沢地区といわれています。
岡屋牧は、伝承によると、往古に勝弦峠(かっつるとうげ)付近の十五社平にあったが、牧の繁栄と増大する牧民の食料の手当てとの関係から、平地に下り、現在の今井・間下・岡谷から三沢・新倉の川岸方面 一帯に展開するようになったと。
上記の部落のいずれも十五社を氏神としています。現在岡谷公園には、小部沢(おべざわ)神社があります。この社は馬の神が祀られ、牧の守護神といわれています。江戸時代、高島藩の藩士による乗馬参詣が常に見られたといわれています。また正月2日には、馬に鞍を置いて美しく飾り参詣する人々で賑わい、2月12日の祭りには、馬具の市も行われています。しかし寛政年間に焼失したあと、だんだん廃れ、祠も小さくなります。現在の神は白山比昨命(ひらやまひめのみこと)ですが、元々は古代牧場管理を担ったと言われる帰化人の祭神といわれています。現状では、小部沢神社付近が、岡屋牧の中心であったとみられています。
萩倉牧(下諏訪町)の所在地は、現在の砥川上流の萩倉部落ではありません。現在の萩倉は宝永年間に、下の原居住の藩士・馬場喜惣次の見立てにより、東俣の地に開発された新田です。新田部落の名称は、開墾地の地名を付けるのが通常ですが、元村の地名を付けることもあったようです。諏訪では、瀬沢新田、駒沢新田、小川新田、角間新田などがその例です。古くは、萩倉部落は東俣新田と呼ばれていましたが、萩倉新田ともいわれていました。かつて萩倉の人々は東山田の小野田に住んでいたのですが、新田開発に際して居を東俣へ移したのです。萩倉牧の故地は東山田の小野田が該当します。現在の下諏訪北小学校の周辺域にあったのです。砥川の右岸と福沢川の左岸にあてはまる地が牧の中心で、傾斜が緩く広大な丘陵は、日照時間も長く牧には最適であったのです。現在でも、小野田には荻窪、馬飼場の地名が残ります。
萩倉牧も他の御牧同様、平安時代末期には荘園化しました。そしてその牧司には金刺大祝か、その一族が任じられたでしょう。牧司は荘園の地主職や地頭職とかわらず、事実上の領主的権能を有し牧司領の土地人民を支配しました。毎年の駒引きの貢上を行い、その際田畑から年貢を徴収して、京都の左馬寮に納めます。
貞観18年(876)、「信濃国解」に「勅旨牧(てしのまき)の御馬二千二百七十四疋」とあり、これは信濃国16牧の総数です。牧には大小ありますが、平均すると1牧142頭になります。牧には牧長、牧帳、牧子がいて、牧の監理は国司のもとに置かれましたが、後に牧の専属管理者として甲斐、信濃、上野には牧監(ぼくかん)を置き、武蔵には別当を置いて、各々の御牧を管掌させます。牧監は馬寮から派遣された令外ですが御牧の専任官で、最高監理者の国司と共同監理に当たります。
牧監には公廨田(くげでん)が給されます。律令制において、官職についた者へ支給された田地です。701年制定の大宝令において、職田(しきでん)と公廨田の制度が規定された。職田は、大納言以上の太政官および地方郡司へ支給される田地で、公廨田は、地方国司および大宰府の官人へ支給される田地です。両制度とも官人を対象としたもので、実質的な差異はなく、職田・公廨田ともに田租が免除された不輸租田でした。757年に施行された養老律令では、職田・公廨田を一本化して、職分田(しきぶんでん)と規定します。太政官の官人、大宰府官人、地方国司、地方郡司に対して、官職に応じた面積が支給され、原則として不輸租田ですが、郡司への職分田のみが輸租田で、田租の対象となります。しかし、郡司への支給面積を見ると、国司と比べて非常に広い面積が支給されています。事実上、地方支配は郡司が実務をこなしていたからです。9世紀~10世紀になると、律令制自体の本質的な欠陥から維持しえなくなると、大宰府官人、国司、郡司らはその職分田を原資の一つとして、その一族の富の蓄積を行っていきます。律令制下の苛政は逃散浮浪人を多発させ、その多くが荘園内に逃げ込んだのです。荘園はその豊富な労働力を使役し、盛んに新田を開墾し庄域を拡大したのです。その荘官とも地頭ともいえる現地支配者の中から、富豪と呼ばれる者も出現し、農業経営に特化して経済力をつけた田堵(たと)へ成長していきます。律令制の土地国有化が解体して荘園化が進み、軍団制が崩れ、中央の統制が乱れる、特に10世紀以降、地方の小豪族の富豪や田堵が土地開発に励み、事実上の私領化がなされていきます。その自己防衛手段として武士化していくのです。
延暦16年(797)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、東北地方の蝦夷を一応鎮圧した年ですが、その6月7日の太政官符の条に
「監牧の司は正職に非ずと雖も而も家を離れ任に赴くこと国司に同じきものあり、宜しく埴原牧田六町を以て公廨田となすべし、今より以後永く恒例となせ、但し当土の人を以て任せば賜う限りにあらず、其新任の年は便りに牧田の稲を以て佃(でん)料町別一百二十束を給せよ」とあります。
この時初めて6町歩の公廨田が支給されたのです。各牧には牧長、牧帳、牧子が飼育管理をしますが、牧田があって多数の牧子が、百姓として農耕を営んでいました。信濃国には左馬寮水田が184町5段253歩あったとの記録もあります。一般的に牧の経営費は、牧田収入と牧馬の売却で賄われますが、信濃では牧馬の売却が禁じられています。左馬寮荘田の地子(地代)で、諸費用が賄われ、貢馬の羈(おもずら; 轡を用いずに引くため、馬の鼻の上にかける麻または鎖の緒)代にも当てられています。
「延喜馬寮式」は記します。
「右諸牧の駒(2歳の馬)は、毎年九月十日国司は、牧監若しくは別当等と牧に臨みて検印(官字の焼印)し、共に其の帳に署す。歯(よわい)四歳已上(いじょう;以上)用に堪ふべき者を簡(えらび)繋ぎ、調良(調教)し、明年八月牧監等に附して貢上す。若し貢に中らざれば即ち駅傳馬に充てよ、信濃国は此の限に在らず、若し賣却あれば正税に混合せよ。其の貢上の馬は、路次国(貢上馬が通過する国)は各(おのおの)秣蒭(まぐさ)とあわせて牽夫を充て前所に逓送す。其の国解(こくげ;国司から朝廷への上申書)は主当(国衙の牧の主任官)が寮外記(左右馬寮の書記官)に附して大臣に進め、奏聞を経て両寮に分かち給ひ、其の品を閲定す。」
『帳』とは、厩牧令(くもくりょう)による馬帳で、馬の数、年齢、毛色を記帳した書類で、2帳作成し、1帳は保管し、1帳は馬寮へ進上します。
信濃の御牧からは、毎年朝廷に貢馬が納められます。それを「年貢の御馬」と呼び、甲斐国60疋、武蔵国50疋、信濃国80疋、上野国50疋で、信濃国80疋の四分の一、20疋が望月牧に割り当てられ、残りが他の15牧から貢上されました。この貢馬を朝廷に牽き進じ天皇に御覧に入れる式が、有名な「駒牽の行事」です。左馬寮から太政官を経て奏上され、「政治要略」二十三によると、所定の期日に天皇が南殿に出御すると、親王と公卿が参入して着座する、すると左右馬寮の騎士が馬を牽いて日華門から入り御覧となる、ここで馬が選ばれ取手が決まる、そして牽かれていきます。これが儀式化し詩興を呼び、詩題として有名になります。駒牽の全盛期、貞観年間より5百年後の、貞治5年(1366)12月「年中行事歌合」に岡屋牧が詠まれています。筑紫国の僧・宋久の作です。
引き分けて をかやに立ちし あら駒の みなれる袖に おどろきやせん
山奥の岡屋牧から京に上った荒駒が、駒牽の盛儀にでて、絢爛に着飾った公卿たちの服装に驚嘆した、との意です。
しかし駒牽には牧監が牧子(騎士)・居飼・馬医・書生・占部・足工(蹄鉄工)を従え上京します。1日1駅を行く定めで、路次国は秣の手当てと牽夫を提供しなければなりません。しかも駒牽の制度も次第に華やかになり、牧子や雑色人の数も増えるとともに横暴になり、途中の駅は随分と迷惑したようです。貞観13年(871)6月、駅馬の乱用を禁じています。しかし駒牽する方も大変で、信濃から上り21日、下り10日と定められていたが、途上、馬の病死により割当頭数に不足をきたし、大雨で逗留が長引き期日に遅れ、水害に遭い馬具を流されたりしています。
「駒牽の行事」は望月駒を主に、鎌倉時代まで続きますが、岡屋牧がその後どのような変遷をたどったか明らかではありません。
牧監には職田が給され、牧の経営の生活基盤として多数の民が農耕に従事します。当然ながら牧場とは別 に、ムラや役所があったわけですが、それがどこかはっきりしません。鎌倉時代になると、岡仁屋郷、岡屋郷の名はあっても岡屋牧の名は見えなくなってしまう。平安時代末頃には荘園化してしまったものと考えられています。
駒牽の行事は長く続き、光孝天皇の時には、席に侍る者33人に及んだと記されている。在位は元慶8年(884)2月23日- 仁和3年(887)8月26日、宮中行事の再興に務めるとともに諸芸に優れた文化人でしたが、経費の節約を実行し、貢調の期日履行を命じ、任に赴かない国守をいましめるなど地方官の綱紀粛正を行ないます。しかし、牧の実情は天長元年(824)太政官符によると
「課欠駒の直を徴するに牧子の苦しみ堪えず、競って他郷に散る、信濃もっとも甚だし」とあり、ここにも律令体制以降の苛烈な搾取が、民の社会を破滅させたのです。太政官符はさらに命じます。
「国司は政治己に?(す)ぶ、牧事を兼掌すべからず、須(すべか)らく監牧二員、一員を省き一員を留め、国司一人相共に検校すべし、その監牧の歴は六年を以て限りとなし・・・・」
牧監の任期を6年にし、国司との連帯責任を明らかにします。天安2年(858)には、牧監を二員に戻しています。
貞観7年(865)頃になると信濃国の御牧は荒れ果てて生きます。「類聚三代格」に載る貞観18年(876)正月26日の太政官符の全文があります。
「 まさに牧監等をして牧格(牧の周囲の柵)を検校せしむべき事。
右、信濃国の解(げ)を得るにいわく、案内を検するに、太政官去る貞観7年六月廿八日の符を被るにいわく、諸牧の格は料稲を請くるのを停め、牧内の浪人の?(えだち)を以て、破損に随ひ修繕せしめん者(てへり)、しかして牧長等勤守を加へず、或は火の為に焼損し、或は競って以て盗み取る、茲に因りて常に造格の弊ありて、曾(ひい)て圉牧(うまかいまき)の益なし、今ある所の勅旨牧の御馬二千二百七十四疋、格外(柵外)に放散し湟中(堀内)に留まらず、唯に民業を践害(踏み荒す)するのみに非ず、兼ねてまた頻りに亡失を致す、国司須(すべか)らく格によりて検校し、損失せしめざるべし、而して国務繁多にして巡り糺すに遑(いとま)あらず、牧監の職とする所専ら撫飼(なでかい)を事とし、所摂の長・牧子・飼丁等、牧毎に数多にして、守禦に堪ふるあり、望み請ふ、拵造(囲いをこしらい・造る)の後件等の人に預け、一向に勤めとなして検校を加へしめん、若し朽損の外焼亡窃失せば、拘(とどめる)に解由(げゆ)を以てし、尽(ことごと)く造り備えしめん、謹みて官裁を請ふ者(てへり)。右大臣宣す、請に依り立てゝ恒例と為せ、上野・甲斐・武蔵等の国も亦宜しく此に準ずべし」(前文漢文)
以上の太政官符により、公領は租庸調の苛政による逃散浮浪人が続出し、御膝下の御牧にまで流入していて、そのことを朝廷は知悉していた事がわかります。その?役をもって牧の柵の修復を命じているのです。御牧の状況は惨憺たるもので、牧柵が朽壊その他で破損しても補修しないばかりか、柵が焼かれ馬を盗まれ、あるいは勝手に逃亡して行方不明になる事態が多発します。また牧馬が柵外に出て周囲の田畑を荒らします。これは地方政治紊乱の様相の1つで、律令制の崩壊が窺えます。遂に同年の貞観18年(876)の太政官符は「牧司懈怠して遂に牽き来らず」、定例の8月15日の「駒牽の行事」は行えなかったのです。
この貞観年間は平安時代中期に当たります。既に御牧自体の荘園化が始まっています。諏訪郡7牧の立地条件を考えてみて下さい。文献上は「庄牧」と称されますが、水田・畑の適地が多かったのです。放牧草原や周辺地は農耕地となり、荘園化が進みます。『吾妻鏡』の治承4年(1180)9月10日の条に、「甲斐の国の源氏武田の太郎信義・一條の次郎忠頼」が「諏訪上社に平出・宮処の両郷を、下社に龍市(辰野)・岡仁屋二郷を寄進」した事を、頼朝に事後報告すると記されています。元御牧であった4ヵ所は、既に郷となっています。
「吾妻鏡」文治2年(1186)3月12日の條には、信濃の御牧は「延喜式」の16牧から28牧に増えています。諏訪郡でいえば小野牧が新たに加わっています。宮処牧より北に隣接し、同じく現代の辰野町内の小野です。それに山鹿牧が大塩牧に変わっています。しかも御牧は完全に荘園化し、実態は大きく変貌し、牧場の中には村落があり、その域内の河川を利用する田畑が多くあります。荘園御牧は、左馬寮の官僚組織が荘園化したのです。近衛大将の馬寮御監(めりょうみげん)を本家とします。その職掌は、左右馬頭(さうのめのかみ)からあげられた儀式の際の馬についての報告を、天皇に奏上するだけの職掌で、実際には名義のみが継承されています。但し、左右近衛大将との兼務が慣例とされたために、その官位相当は従三位と大幅に上昇しており、馬寮では名目上の最高職でした。平安時代後期以後は、実質上の最高職である左右馬頭に、源頼信を祖とする河内源氏の著名な武士が相次いで任じられます。それ以後、源氏に仕える諏訪一族の構図ができあがり、諏訪大祝家為仲が前9年の役に登場するようになる。荘園御牧は、左馬頭を領家とし、牧司、荘官一族が在地領主として武士化していきます。御牧の数の拡大は、御牧の隆盛を示すものではなく、むしろ左馬寮官司の荘園の拡大の現われで、鎌倉時代承久の頃は信濃国の牧は19となります。荘園化した御牧からは、貢馬と共に、田畑の年貢を本家と領家に納めたのです。
一方慎重に検証しなければなりませんが、禰津氏は神氏系図によると、「諏訪郡一庄領主」とありますが、その一庄とは南北大塩付近の大塩牧と塩原牧を指しますが、それが禰津氏の所領となっています。官牧が私牧に変わる場合もあったといえます。それを基盤として武士が台頭したのです。諏訪武士の誕生です。望月牧を根拠地とした滋野(しげの)氏も同例です。
しかし駒牽の行事は、鎌倉時代にも継承されます。承久3年(1221)7月25日左馬寮から信濃19牧への下文(くだしぶみ)があって、立野・岡屋2牧は、頼朝の寄進により諏訪下宮社領となっていましたが、駒引役以外の諸役は免除されています。貞治6年(1367)4月13日「十九牧大使幸舜によって駒引役も免除され」となり、完全な社領となります。
望月牧
信濃国には、時代により変動がありますが、16以上の御牧がありました。その中で最大のものが『望月牧』です。
「日本書紀」には文武天皇4年(700年)「諸国をして牧地を定め牛馬を放たしむ」とあり、望月の北東の台地に、勅旨牧・御牧がありました。その望月牧は、蓼科山2,530mの広大な裾野が、北東へ長く延びて、千曲川が東側から北上し西に湾曲、対する西側を鹿曲川(かくまがわ)が北進し西進する千曲川と合流、南端を布施川(ふせがわ)が東進し「耳取」の地籍辺りで千曲川の合流、その3河川に囲まれた御牧原(みまきはら)台地上にあります。河川に囲まれ、それが天然の堀となっています。その面積は約1千町歩と、広大な面積のわりには土塁、溝などの造作も比較的容易で、また恵まれた水流を得て、草が繁茂し優秀な馬を育てます。断崖が迫り自然の柵をなす部分を除き、周囲を約38kmに渡って土手を築き、馬が逃げ出すのを防いでいます。現在でも10ヵ所、数㎞の野馬除(のまよけ)土手が残っています。
御牧としての望月牧が置かれる以前から、望月一帯では馬が飼育なされ、町内の古墳から馬具などの副葬品が多数発見されています。東国の御牧から毎年、旧暦8月15日の日に貢進されます。この時期に貢進される馬が「望月駒」と称され、特に、信濃16牧の貢進馬のなかでも望月駒は20疋と多く、尚、良馬として評価が高かったので、「望月」を特に牧名としたのです。信濃国から都へ馬を運ぶ8月15日の夜の満月は「仲秋35夜の月」、または「望の月」とも呼ばれ、「望の月」に都へ引かれていく馬として「望月駒」と呼ばれるのです。このときから、天皇が毎年旧暦の8月23日に、貢進される馬をご覧になる駒牽(こまひき)の行事が行われました。望月駒の名は、信濃産の代名詞になっていきます。
牧場の南には古東山道が東西に走り、その道沿いに高良社(こうらしゃ)があります。高良玉垂命(こうらたまたりのみこと)を祭神とし、元々は高麗社と呼ばれていたらしく、朝鮮半島からの渡来人が創建し、望月牧の牧場経営に携ったとみられています。
駒形社が望月の牧をまるで囲むかのように配置されています。小諸市駒形坂の駒形社は、千曲川をみおろす河岸段丘の中腹にあり、目の前の千曲川を渡れば御牧原の台地です。塩名田宿から岩村田宿に向かって中山道の坂道を登って行くと、小川のむこうに塚原という地籍があり、その「流れ山」上の社が駒形神社です。近くに耳取城があります。佐久市下塚原の駒形社は、眼下には千曲川の流れがあり、はるか旧浅科村方面が見通せます。立科町には駒形社が2つあります。旧望月町の牧布施の駒形社は、元は布施川に近い平地にありました。
駒形大神は、一般に馬の守護神とされ、東日本に多くの駒形神社が現存しています。古代の軍馬の一大産地であり、元々高価で大切な「馬」ですから、それが馬神信仰へ結びついたのでしょう。
望月の駒を、往昔の人は次のような歌に詠んでいます。
逢坂の? 関の清水に 影見えて 今やひくらん 望月の駒 (貴貫之)
あつま路を はるかに出つる 望月の 駒にこよいは 逢坂の関 (源仲政)
嵯峨の山 千代のふるみち あととめて また露分ける 望月の駒 (定家)
あしひきの 山路遠くや 出つらむ 日高く見ゆる 望月の駒 (平 兼盛)
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諏訪地方の馬具出土古墳一覧(諏訪市史上巻より) |
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市/町名 |
古墳名 |
所在地 |
出土馬具の種類 |
諏訪市 |
綿の芝古墳 |
上諏訪岡村 |
轡(くつわ) |
四ッ塚C号古墳 |
四賀桑原南沢日向 |
轡 |
|
四ッ塚D号古墳 |
四賀桑原南沢日向 |
轡・鉸具(かこ) |
|
まわり場古墳 |
四賀桑原 |
轡 |
|
小丸山古墳 |
豊田有賀平林 |
銅鈴・鐙・轡・杏葉・辻金具・雲珠・鉸具 |
|
二子塚古墳 |
湖南大熊大道上 |
轡・鉸具・辻金具 |
|
茅野市 |
釜石古墳 |
永明塚原 |
轡・鉸具 |
一本椹古墳 |
永明塚原 |
轡・留金具 |
|
大塚古墳 |
永明塚原 |
轡・鐙・鉸具・鞍金具・鉄鎖 |
|
姥塚古墳 |
永明塚原 |
轡 |
|
王経塚古墳 |
永明本町西 |
鉸具 |
|
四ッ塚B号古墳 |
宮川茅野 |
轡・鏡板 |
|
金鍔塚古墳 |
宮川塚屋久保 |
轡・杏葉・雲珠 |
|
蛇塚古墳 |
宮川安国寺 |
轡 |
|
神袋塚古墳 |
宮川高部 |
轡 |
|
疱瘡神塚古墳 |
宮川高部 |
轡(鏡板付き) |
|
乞食塚古墳 |
宮川高部 |
轡・鋲付金具 |
|
岡谷市 |
唐櫃石古墳 |
長地横川 |
鉸具 |
塚の山古墳 |
川岸三沢塚の山 |
轡 |
|
荒神塚古墳 |
川岸三沢垣外 |
轡・吊金具・辻金具 |
|
コウモリ塚古墳 |
長地中屋 |
鉸具・鞍金具・辻金具・轡 |
|
スクモ塚古墳 |
長地中屋 |
鉸具・鞍金具・辻金具・轡 |
|
下諏訪町 |
大祝邸古墳 |
東山田神宮寺 |
馬具 |
天白古墳 |
下原天白 |
轡・鐙吊金具 |
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