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(霧ヶ峰登山歌 中腹より霧至り、雨驟に降る)
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目次 |
1)高島藩の入会権争論 |
2)上桑原山山論 |
3)上桑原山と北山浦の入会権 |
4)埴原田村、鋳物師屋新田、中村、上菅沢新田、山口新田の上桑原山への入会 |
5)塩沢村の奥野入会 |
6)明治以降の車山、霧ヶ峰を中心とする上桑原村の入会権 |
1)高島藩の入会権争論
古代から中世へと時代が移るに従い、山野の利用価値が増していくと、権力者がその領有を主張するようになり、人々が自然の果実を採取するのに際し、次第に制約を受けるようになった。江戸時代になると、人口も増大する一方、城下町、街道宿場、門前町、商人街等の建設に掛かる用材と日常生活に要する燃料、田畑に供する刈敷肥料、家畜の飼料、農家の建築資材等で、その需要が急激に増加した。
高島藩が成立した時から、他領との境が明らかでない所があって、隣藩や隣国との境界争論が、数ヵ所で発生した。これは双方の村民が、草木の採取のため入り込み衝突し、その入会山論が、境界争論となった。国境論では、寛永年間の八ヶ岳とその山麓で、甲州小淵沢村等と間で起きた八ヶ岳山論とも呼ばれる甲信国境論である。郡境論は、慶長年間に始まった真志野山(まじのやま)を中心として高遠藩との真志野山論、同時期の勝弦峠(かっつるとうげ)を中心とする松本藩との塩尻界論、蓼科山の山麓での小諸藩佐久郡との蓼科山論等であった。
高島藩では、初代藩主頼水が諏訪湖の釜口の水位を下げる工事を行い、広大な中筋に水田を拓き、城の付近も干拓させ水田とした。2代忠恒、3代忠晴と水田開発は続けられた。その3代に亘る新田開発は、広大な八ヶ岳山麓に多くの新田村を成立させた。その結果山野の利用価値が増すに従い、供給源の原野が失われていった。平坦地でも阿原(あわら)が見出(みいで)化され草地が不足した。やがて、村全体で共同利用してきた内山(うちやま;自村で持つ山野)だけでは自足できず、草木が豊富な他村や他領の山野への進出が必要となった。
そのための入山には、地元村の入会に支障となるので、山手米という山野使用料を納め入会権を得ようとした。それにより、その利用法と境界線等が誓約され、一旦は治まるのだが、時を経て新たな問題が生じて、誓約を守りきれず争論が幾度も再発し、その都度、境界線、採取物、時期、採取道具、入会道等を決めかね、高島藩領であれば、その裁許による決着か、小諸藩、高遠藩、松本藩等他領との紛争であれば、江戸の評定所の裁定を受ける事となった。
2)上桑原山山論
上桑原山は、南は諏訪湖カントリークラブのある野田原(のたつぱら)から、蛙原(げえろっぱら)とカボチョ山も含み、北は現車山から霧ヶ峰の大部分と八島湿原の鎌ヶ池までに及ぶ地籍である。いわゆる霧ヶ峰高原で、その面積は1,350ヘクタールの広大な原野である。山裾の村々は、北山浦の柏原、湯川、塩沢、北大塩、鋳物師屋、埴原田の茅野市各村から、神戸、上桑原、下桑原、上諏訪町、湯之脇、大和(おわ)の諏訪市各村と下諏訪の各村にまで及んでいる。
日根野高吉の時代(1590年~1600年)、北大塩村と大境を定めて、城下新町の上諏訪町、下桑原、小和田(こわた)、上桑原が入会村となり、その後堀合神戸(ほりあいごうど;神戸村の北側)も入会をするようになった。
慶長18(1613)年3月の「信州諏訪郡高辻帳」によると、諏訪市域では下桑原、上桑原、神戸村、神宮寺村、大熊村(おおぐま)、真志野村(まじの)、有賀村、大和村、文出村、下金子村、田部郷、中金子村、上金子、飯島村、赤沼村、福島村の16か村があった。そして下桑原郷から城下町が分かれ、その内の高島村は高島城築城の際移転し、元禄期には小和田村と改称した。同じく元禄期、下桑原郷から白狐島村(びゃつこじま)が独立し、神宮寺村の中に宮田渡村(みやたど)が属し、真志野村は南北に分離して19の本村(古村)となった。
初代高島藩主頼水は、釜口の治水・湖辺の水田の干拓・八ヶ岳山麓の新田開発等を藩政の重点の一つとした。諏訪では、慶長年間以後に開発された新田村を単に「新田」と呼んだ。
近世以降、村は行政上の最小単位で、高島藩からの賦課も村高として受け、村として上納した。村の自治的要素は強く、郡奉行や代官も、個々の農民を支配する事はなく、村民に連帯責任を負わせ、村役を通して支配した。その一方では、個人の独立性は低く、自分の名請農地であっても、その用水は共同で引き管理をする、肥料としての刈敷や牛馬の飼料としての秣、生活材としての薪や萱等、いずれも協同して内山や入会地から採集しなければならない。お寺やお堂、行屋(ぎょうや)の維持管理や鎮守の祭りも村単位であった。個人は村の一員として生活するしかなかった。
上桑原山の入会は、堀合神戸から北の山付きの村々で、中筋の村々には入会権がなかった。寛永年間(1624~1644)以前は、上桑原村も中筋の赤沼村も、河原や荒地の草刈だけで賄なえなくなり、元禄6(1693)年のころぐらいから、山手米を赤沼村で2斗、上桑原村で3斗を上納するようになると、上桑原山の車ヶ嵩の久保へ、家材木や薪を切りに入山する。
寛永3(1626)年6月に、飯島村の者が「前々から上桑原山に入っていたのに鎌を取り上げられた。」と奉行所へ訴えた。上桑原は、「飯島は日根野織部正様の時に事を起こし、入会は許されていない。」と反論をしたが、代官に草刈した所は飯島村にも入会権があるとされ、上桑原が納得しないまま、手形持参を条件に刈取りとなった。
貞享4(1687)年2月18日、中筋(なかすじ;福島、下金子、中金子等)の村々と霧ヶ峰の厩萱(まやかや)の事で争論となった。厩萱とは馬の飼料にする萱の青草をいう。翌貞享5年4月、中金子村から願書の提出があり、霧ヶ峰笹山から、厩萱を1駄6把で50駄を、駄数を確認の上、刈り取りが許された。その覚書が残っている。
元禄15年には、赤沼村と上桑原村の内山夏草の争論があった。この時の裁許で、日水(ひみず)久保、?(とち)ヶ原、山神から上の田畑の畔荒畑(くろあればた)までは、先規の通りで、日影林、太夫(たゆう)久保、城のつるかねからは一切入山は許されないとされた。
次第に、中筋の村々にも、家材木、薪、厩萱等の刈り取りが、時期や採取物に制約があっても、上桑原山に入山できるようになってくる。
神戸村は、南組、中組(田中)、北組(堀合)の3部落に分かれていて、堀合神戸村だけは、日根野高吉の時代から上桑原山に入会をしていた。他の2組には入会権がない。しかし寛文10(1670)年、萩や蓬を採りに入り、天和3(1683)年の夏にも上桑原山に入り訴訟になっている。享保元(1716)年5月、原山や後山(うしろやま)の草場が狭められて難渋しているので、上桑原山入会の願書を出したが許されなかった。翌年も、願書を出している。漸く同3年、藩から「馬一疋に付き一斗、歩き一人に付き5升の山手米を納める」という条件で許可され、腰札が渡された。
翌4年には神戸村2組分として、馬5疋歩き5人の山札が渡された。その見返りに、年5俵の山手米をおさめる事となった。山札は、それぞれ3枚ずつを南組に、2枚ずつを中組に分けた。
この神戸村の入会には、初めから入会する上諏訪町、下桑原、小和田(こわた)、上桑原、堀合神戸の5か村は、享保17(1732)年5月、上桑原山は近年刈り尽くし、刈敷に事欠き困っている。15年前は神戸村が入会をし、年間5千駄も刈り取られている。また中筋の村々の厩萱刈もあり困窮するばかりなので、神戸村の入会を指し止めして欲しいと訴えた。その後、元文元(1736)年8月、宝暦6(1756)年7月と訴えが続くが通らなかった。
後山は、神戸の裏山の尾根から東側、埴原田へ流れる沢へ掛けての傾斜面である。古くから神戸村と埴原田村の入会で草刈場になっていた。武田信玄の時代、既に神戸村41枚、埴原田村40枚の畑が開墾され、大豆を神戸村18俵、埴原田村12俵を上納していた。
文化13(1816)年の神戸村南組の大火の時、馬札1枚が焼失、残りの山札も古く磨耗していたので、その年の3月柳口役所へ、神戸村、赤沼村、上桑原村の役人が呼び出され、新しい山札が渡された。柳口は城下町から高島城に入る所で、その最初の門が柳口門で、縄手の入り口のJR中央東線の踏切の手前にあった。柳口役所は柳口にあって、民生の窓口で、裁判もここで行われた。坂本養川が、自らの構想を実現するために日参した役所でもある。
3)上桑原山と北山浦の入会権
北山浦の村々との入会争論は、元禄6(1693)年正月22日が最初であった。上桑原5 人、堀合神戸4人、赤沼1人が薪伐りに出掛けた。上桑原山のあたら沢日影、蜂久保尾根で出合った。北大塩村は当初から予想した対応で、80人近くの村民が、兎狩りと称し木刀、鳶口(とびぐち)、熊手等を所持し、「北大塩村の内山で薪を切るな!」と彼らの鎌を取り上げた。上桑原村側は、直ちに「上桑原山の中で薪を切っていたのに、鎌を取り上げられた。」と郡奉行所に訴え出た。北大塩村との争論が始まった。
北大塩村側には埴原田、福沢、鋳物師屋新田が同調し、上桑原村には、周辺の5か村が加担している。双方共に自村の内山を主張し、それぞれ奉行所へ口上書を提出した。しかし互いに証明するものがなかった。奉行所は久保島十兵衛、鵜飼伝右衛門、安間弥五左衛門、山中三郎右衛門らに実地検分をさせ、さらに6月19日には、双方を現地で立ち合わせたりした。
同9年10月3日、裁許があり「上桑原村側は、牛くびから蜂久保の尾根さきへ出て、小屋場から向大笹(むかいおおざさ)へ上り、そこから車ののぞきまで見通して大境、大境と横道の間は入会、横道から上は上桑原村である」と主張しているが、「上桑原村の申し立てている横道は、往古から上桑原の山路であることは明らかで、墨筋(すみすじ)を横ケ川(よつかがわ)の橋から横道に沿って桜井出(さくらいで)の峰まで引き、更にそこからいもり沢の峰まで引くので、この墨筋を双方の山境とする」とされ、双方の山境の証として絵図面に黒筋が引かれ押印された。
その裏書には「上桑原村並びに下桑原村、小和田村、上諏訪町、赤沼村、堀合神戸村と北大塩村並びに埴原田村、福沢村、鋳物師屋新田山論裁許の覚」と記されている。北大塩村は既に横道上の大水無(おおみずなし)を開墾して山畑としていた。それが上桑原村の領域となり、翌年の暮れから年貢を納めるよう申し渡された。その年貢は、村中で上納した。
安永9(1780)年10月、北大塩村と上桑原村とで霧ヶ峰山論が起こった。北大塩村はから「9月6日、元禄9年の裁許で北大塩地分になった所で、埴原田や鋳物師屋新田の者が萩刈りをしていたら、上桑原の者4、50人に馬の鞍6口と衣類2つを剥ぎ取られた。また9月17日には、北大塩地分に新堀が掘られていた。」と訴え出た。これに対して上桑原村と下桑原村、小和田村、上諏訪町、赤沼村、堀合神戸村らの入会村は、「埴原田や鋳物師屋新田の者30人程が、霧ヶ峰上桑原山で萩を刈っていたので、馬の鞍と衣類を取り押さえた。新堀というのは上桑原山で、これまで目印に掘った所を浚ったもの」、そして「埴原田村や鋳物師屋新田で萩を刈った所は、中筋村々へ厩萱(まやかや)刈りが許された霧ヶ峰笹山であって、往古から上桑原山であった」と反論した。こうして霧ヶ峰山論が始まった。
この霧ヶ峰山論は、安永9(1780)年から天明7(1787)年までの、足掛け8年に亘る激しい争論であった。天明7年9月、「いもり沢(麦搗きの沢)の尾根から車ののぞき(車山頂上の南の端)を境界とする。」と裁許が出た。北大塩村と上桑原村の双方の村役人が立ち合い、境界の塚を築いた。その車ののぞきの塚は、直径3間(約5.4m)あり、土に炭を5俵分混ぜて築いた。そして、東は蓼科山、北は車山の尾根道、西は蛙池(かえるいけ)、南はわしおろし尾根さきと、四方を定めた。この日、この決着を得るまで、多額の入用となり、上桑原村側は、上桑原村4、上諏訪町3ヵ村2、赤沼村2、堀合神戸村2の割合で分担した記録が残っている。
以後、上桑原村では、毎年7月の盆が終わった頃、南と北が隔番で、車山の大境の塚を確認し、塚を修築する境回り(大境)を行った。赤沼村と堀合神戸村の者も同行をしている。埴原田村や中村も、上桑原村からの通知で立会っている。塩沢村は、物見石へ4つに縛った酒とカジカの入った煮物を持ち運び、上桑原村の者に振舞い、境回りに立ち会った。
4)埴原田村、鋳物師屋新田、中村、上菅沢新田、山口新田の上桑原山への入会
寛政元(1789)年10月、埴原田村、鋳物師屋新田(以上が米沢)、中村、上菅沢新田、山口新田(以上が湖東)の5ヵ村が、以前から願い出ていた上桑原山への入会が、歩行札と馬札の持参を条件に許された。当時、上桑原村を初め下桑原村、小和田村、上諏訪町、赤沼村、堀合神戸村の5ヵ村は、既に新たに神戸村南が入会に加わった上での、更なる入会であれば、当然反対であったが、長年に亘る霧ヶ峰山論で資金と体力を使い果たし、新たなる争論は成しえなかった。ただ山手米を、埴原田村と鋳物師屋新田は、合わせて年10俵1斗を、中村、上菅沢新田、山口新田は、合わせて年2俵1斗9升を上桑原村へ納めるとした。
その他にも入会条件は細かく定められている。各村別の入会の「山の口」、「期間」、「歩行札の枚数」「馬札の枚数」とか、細部にわたっている。「山の口」は入会地で採取を始める日であり、炭を焼いたりする事ができる期日であった。その開始を「山の口が開く」と表現した。その例が、桑原村矢崎家の諸事手控帳に記されている。
一)、壬辰(天保3年;1832)暮れに定めた通り、秋土曜から25日目に「かや山の口」が明ける。役所から触れを出すが、家を 普請する者は、定め25日前に刈ってよいとする。
一)、霧ヶ峰の「干草山の口」、池坂(池のくるみの手前)から前は、彼岸25日前に明ける。沢山の入会は勝手次第に刈ってよい。
普門寺伊藤家の諸事手控帳には
「8月干草山の口は、彼岸10日前として、埴原田村、鋳物師屋新田、中村まで使(つかい)を出す。この使は南(桑原)から出す。炭焼は、先方から上桑原村へ願い出るようになっている。」とあり、「山の口」は、上桑原村の名主の重責であった。
埴原田村、鋳物師屋新田、中村、上菅沢新田、山口新田の入会地は、向ケ原(むかいがはら)、隠深山(かくれみやま;かぼちょやま)の南斜面の下、麦搗きの沢から霧ヶ峰奥野と定めている。
一)草刈りは、当日限りで干草はしない。
一)灰焼きは、その日限りで、焼いて持ち帰る。
一)炭焼は、埴原田村、鋳物師屋新田が彼岸明けから6日間。中村、上菅沢新田、山口新田が彼岸明けから10日間。
5)塩沢村の奥野入会
文政6(1823)年、塩沢村からから郡奉行所へ、「塩沢村は草場不足となり、田地の養いが行き届かない。」と霧ヶ峰奥野への入会を願い出た。当然、上桑原村を初め赤沼村、堀合神戸村は反対で、郡奉行だけでなく用人や家老まで、入会を許可しないようにと願い出ている。しかし、12月晦日、郡方役所に呼ばれ、「塩沢村入会」を申し渡された。7月からの3ヵ月、歩行札10枚、馬札30枚、山手米年1石4斗を上桑原村へ納める事が条件であった。
その「上桑原外山奥野塩沢村入会申付け方の事」の裏面には、絵図面がある。入会地は、東は物見石から丸山を見通した掘割。南は、物見石から下の平尾根大石の掘割へ見通した。西は大石の掘割から下、男女倉道の掘割の4つ目まで。北は、男女倉道の掘割の4つ目の下から、男女倉道より奥野。となっている。すると北は、男女倉山の稜線までが、高島藩領であったのだろうか。なお、物見石の南西の沢渡(さわわたり)の方は、萱野であるから除き、男女倉道から西は、大境であるから除くとしている。入会の境は、上桑原村初め付け村、並びに札入会5ヵ村が立ち会って立てた。
山札の入会は、その日限りで干草はしない。灰焼きは、その日限りで、焼いてものは、その日に持ち帰る。
また、塩沢村霧ヶ峰奥野入会地は、他領との境目であるから、他領の者と出入(でいり)があれば、「取り交わし一札の通り罰する」としている。
上桑原山は、広い原野に木を茂らせず、草刈場や萱野にしていたので、所々に掘割を作って、境界や目印にしていた。
6)明治以降の車山、霧ヶ峰を中心とする上桑原村の入会権
上桑原山は、四賀村上桑原を地元とし、入会は四賀村赤沼・堀合神戸、上諏訪村下桑原・小和田(こわた)、米沢村埴原田・鋳物師屋・塩沢、湖東村中村・山口新田・上菅沢、豊平村下菅沢であった。
明治10年の入会慣行は柴と秣の刈取りで、6筆に分割され、その合計は1,359町6反歩あった。
① 字南山ノ神より直坂(すぐさか)まで、原野24町歩
地元は上桑原、入会は赤沼、堀合神戸、下桑原、小和田、上諏訪町で、堀合神戸は享保4(1719)年より米5俵の草刈料を出して入会をした。
② 字峠山ノ神より乗落(のりおとし)まで、原野42町歩
地元、入会ともに①と同様。
③ 字乗落より池ノ台中道、東は相ノ倉、西は下桑原境まで、原野432町歩
地元、入会ともに①と同様。
④ 字沢渡より男女倉ブドウ沢水流境まで、原野342町6反歩
地元、入会ともに①と同様。
⑤ 字蛙原(げえろつぱら)より箕手御巣鷹山水流境まで、原野240町歩
地元、入会ともに①と同様だが、文政7(1824)年より塩沢村は、米3俵2斗9升の草刈料を出して入会をし、明治9年には別途米1俵1斗1升の草刈料を出して入会領域を広げた。
⑥ アタラ沢より留塚、北は箕手より車ケ嶽、役の行者まで、原野276町歩
地元、入会ともに①と同様だが、寛政元(1789)年から埴原田村は米10俵1斗、中村は米2俵1斗9升の草刈料をだして入会をした。鋳物師屋、下菅沢、上菅沢、山田新田は7月1日から10月30日までの間「貸渡し山手米」を出して草刈をした。
明治政府の林野政策の第一が、筑摩県が明治8年共有山の民有地認めたのが最初で、翌9年長野県が成立すると、翌々10年、共有山入会山の慣行成跡調がなされ、11年には樹林地の入会山が次々と官有地とされた。中央集権的な政権が誕生すると、一方的に原野の森林化を図ろうとした。明治13年3月制定の「部分林仕付条例」で、その意図は明らかである。 民有入会地が官有地となると、今まで入会をしていた近隣村民は、無料で入山できなくなった。この一方的な官有地編入は、当時の生活環境から見て、関係村民の生存を不可能にするもので、すぐさま郡を通じて県に、民有地入会の請願がなされ、再三却下されるが、死活問題であれば、度重なる請願がなされ、次第に村民の生活維持に不可欠であり、農村経営に重大な価値が認められ、順次払い下げられていく。
それまでは、角間沢東と西の御料林は、明治27年7月6日、上諏訪町長は、御料局静岡支庁諏訪出張所長あてに、角間沢東御料地秣払い下げ契約を行い、秣54,997束に1ヵ年83円48銭3厘を支払い、利用が許された。この契約は3年乃至5年ごとに更新された。
明治29年には、隣接地の角間新田33戸は御料林立木永遠払下願を提出した。これは自家用薪炭を得るためで、その理由に「馬一頭一ヶ年、銀一分を上納し」とあり、入会券が下付された。この願書には上諏訪町長が奥印をしている。
諏訪でも早く民有地に回復できたのが、明治13年11月、日陰入官有地1,479町9反であった。 日向入り及び青山の入会地で、この2つの共有山は、諏訪郡と上伊那郡との郡境を、遥か伊那側に入り込んだ所にあり、明治27年7月10日、行政裁判所で勝訴となり、民有地に復帰した。当時は特例中特例であったが、明治40年代から大正初年にかけて願書により多くの官有地が、民有地にされた。
昭和24年9月、農地解放があり、上桑原村は、車山を頂上とする上桑原と入会権のある赤沼、下桑原、小和田、埴原田村、鋳物師屋新田、中村、山口、上菅沢、塩沢に、各々に牧野農業協同組合が組織され分有された。
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