男倉山から眺める鷲ヶ峰、その右隣が鉢伏山・三峰山と連なる。
男倉山から眺めると諏訪大社上社の御神体守屋山が美しく、大きく見える。その山裾に上伊那の箕輪が見通せる。
鷲ヶ峰の西の裾に黒曜石、最良最大の原産地星ヶ塔があり、八島湿原ビジターセンターの裏山が星ヶ台である。大量に石器製作の残滓を留める。
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旧人と新人
岩手日報は平成15(2003)年7月7日、岩手県遠野市宮守村の金取遺跡(かねどりいせき)から出土した石器の地層が、9万~8万年前に堆積した火山灰であることが6日、日本考古学協会の調査で分かった、と報じた。
宮守村の北上山地の国道沿いの丘陵で、昭和59(1984)年5月、当時郵便局勤務の民間の考古学研究者武田良夫(後の岩手考古学会副会長)が「通りがかりに気になっていた丘の断面の上で作業するパワーショベルが掘った穴の底に石斧がのぞいていた」のを発見した。それを契機に、村の教育委員会は県教育委員会菊地強一・武田良夫らと共に発掘調査を行った。そしてその石斧は7万年前~3万年前に亘る黒沢尻火山灰層という長期の火山灰層に遺存し、その3万3千年前頃の地層からは剥片石器を含む31点が出土した。さらに下層の最も古い地層からチョッパー・チョッピングツールなど粗放だが重量感ある大形石器とチャート(珪質岩)製のスクレイパー(削器)など剥片石器など9点が伴出した。
チョッパーは英語のchop、即ち「叩き切る」の意で、片刃がチョッパーで、両刃のものがチョッピングツールという。原人の時代からある素朴な原始的石器群である。平成14(2002)年、同志社大学教授松藤和人が現地を調査し、その土層の火山灰を分析した結果、石器が出土した最下層は、北上上層の序で、8万9千~8万5千年前、九州から北海道まで飛散した「阿蘇4火山灰」と、約10万年前の御岳第1軽石層との間、即ち北原・愛宕火山灰層であることが判明した。松藤和人はさらに調査し「10万年~9万年前の範囲の時期と位置付けた。日本にもホモ・サピエンス以前の旧人が最終間氷期の温暖な間氷期に存在した証明となった。松藤和人は「その前の氷河期の海面低下でできた陸橋を渡ってきた人類の石器ではないか」と、それ以前の氷期に既に渡来したとみている。
日本の火山列島は、酸性土層のため人骨の伴出が期待できないため、ヨーロッパのネアンデルタール人に当たるか定かではないが、旧人が日本列島に確かに存在していた。ドイツ中西部、ノルトライン・ヴェストファーレン州の州都デュッセルドルフ近郊にあるデュッセル川の小さなネアンデル谷で、安政3(1856)年、旧人の骨が発見された。それをネアンデルタール人呼んだ。この年の7月21日、アメリカ総領事ハリスと通訳官ヒュースケンが下田に来航した。
考古学的研究による人体細胞内のミトコンドリアDNA分析により、現代人のホモ・サピエンスの祖がアフリ力で誕生し、20万年前の「サピエンス最初の女性」イヴの存在を証明した。ホモ・サピエンスは現在の研究ではベーリング陸橋を渡り、1万5千年前、アラスカから北アメリカに到着した。その後、気温の上昇とともに氷床は縮小し、1万3千年前ごろにカナディアンロッキー山脈の西のコルディエラ氷床とカナダ全土を覆いっていた東のローレンタイド氷床の間に「無氷回廊」と呼ばれる氷に覆われない領域が出現し通行が可能になった。その回廊ができた時期、カナダのユーコン地方からアメリカ合衆国の北部まで哺乳類を追うように新人類も移動した。マンモスは、北米でも旧石器時代、重要な食料源であった。アメリカ大陸の先住民は1万年数千年前から8千年前ころまで、バイソン、マンモス、マストドンなどの大型哺乳類の狩りを生業としていた。この文化はパレオ・インディアン文化とよばれ、定型化した木の葉形尖頭器の槍先などをもちいていた。大型動物の動きを奪うため湿地に追い込むなど、計画的な協働性を必要とした。それを可能にしたのが言語機能の発達によるコミュニケーション力であった。
13万年~12万年、東アジア一帯で地殻変動が起き、南の島々と周囲のサンゴ礁が隆起し「白い陸のバンド」の浅瀬が九州・沖縄から尖閣諸島・台湾・中国大陸と繋がった。やがて7万年前から1万年前まで続く最後の氷河期がやってきた。5万年前と2万年前に2度の最寒冷期が訪れた。カムチャッカ半島から北海道までが大陸と陸続きとなり、津軽海峡は氷結した。本州は四国・九州と陸続きで、朝鮮半島とは狭い海峡があるだけになる。
既に5万年前に大陸の大形哺乳類を狩ながら新人は日本に広がって行った。南の浅瀬「白い陸のバンド」は、サンゴの陸橋となり、新人の北上を容易にした。5万年前の最終氷期中の休氷期の温暖期、その暖気のピーク時の年平均温度は現在の気温とほぼ同様であった。それはスンダランドの諸島からフィリピンの暖水帯から発した黒潮を房総半島沖へ北上させた。スンダランドの諸島は東アジア系新人の原郷の一つである。その新人は海洋民族として丸木舟やイカダを操り海洋食文化とともに、かつての「白い陸のバンド」を北上した。
東京大学大学院理学系研究科教授木村賛は、現代人の「柱状大腿骨」の横断面が丸いのに比べ、、狩猟採集民族では太くて丸い大腿骨の後ろ側に細い柱がくっついた形状で、その下の脛骨が左右扁平になっている、という。この骨の形態は、前後の方向の激しい動きに対応する走りに強い構造と言われている。縄文人の男性にも多くみられるという。
ホモ・サピエンスが住むヨーロッパの約4万~3万5千年前の遺跡から、槍先の尖頭器を装着したと思われる投槍器が出土している。槍の推進力を高め、遠い標的を射るために工夫された戦闘・狩猟用の補助用具だ。端にかぎ手を備えた棒状の木や獣骨の上に槍を合わせてのせ、槍を強く押し出しながら、かぎ手による推力を最大限に利用して投げた。弓矢よりも登場は早い。フランス・スペインを舞台にしたヨーロッパ後期旧石器時代末期のマドレーヌ文化(1万7千年前~1万2千年前)、ツンドラの平原でトナカイ狩猟をしたマドレーヌ人の投槍器は、主にマンモスの牙やシカの角製でトナカイやウシなど見事な彫刻が施されている。エスキモーおよびイヌイット、カリフォルニアのアメリカインディアンなども投槍器を活用していた。
手投げの槍は、ホモ・サピエンスが創始したようだ。だが至近距離から刺す突き槍より殺傷力は弱い。投げ槍では、大形哺乳動物に直ちに致命傷を与える迄に至らない。槍に射られて逃げ去る獲物を、執拗に追いかけ投げ槍を続けて投打し、弱って動きが止まった時に、突き槍で止めを刺したのだろう。飛び道具の発明と「走る狩猟」、それがホモ・サピエンスの体型をつくった。ただ海洋食文化を育んできたスンダランド諸島の旧石器時代人は、また別の体型になっていたかもしれない。
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは両存し、別々の集落・集団を営み生活していたようだ。ホモ・サピエンスは、ヴュルム氷期の紀元前3万4千頃から、石材から石器製作に不要な部分を取り除き石核とし、それから様々な剥離技法を多用し細長い石刃を作り、スクレーパー、ナイフ、彫刻刀などを製作していた。骨や角で石器を強く押しつけて、きわめて精緻な整形を行う「押圧剥離」という高度な技法も確立していた。骨角器には、槍・銛、装身具らしきものもあり、技術の伝承や集団社会のあり方など新しい文化を創造していた。
ネアンデルタール人の化石遺骨もこれまで百体ぐらい見つかっている。世界中に存在したネアンデルタール人は、10万人程度の規模だったとも考えられている。ホモ・サピエンス人は、百万人ぐらいに人口が増加していたとみられる。それぞれ両存したが、ホモ・サピエンスは技術やコミュニケーション力を向上させ集団力を大きくし組織化し、収穫量を増大させた。ネアンデルタール人には知的に限界があったようで、高度な文化情報の伝達能力に欠け、新しい協働的組織や技術文化を創始できずに人口や集団の規模が拡大しないまま、やがて生活領域が狭まりネアンデルタール人社会は自ずから行き詰まって行き、人口が減少してやがて集団の基本母数すら維持できなくなった。増大するホモ・サピエンスとの生存領域の争いで、不利な環境に追いやられ、結果的に、成員数の減少化が止まらず自滅した。
一方、ホモ・サピエンスは技術やコミュニケーション能力を向上させ集団を大きくし、収穫量も高まり、それぞれの環境に適応しながら地球全体に広がっていった。
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「いまも、シカの通るその道。それに、奇妙にダブるものがある。 日本旧石器時代の尖頭器文化、石槍をたくさん作った人々の遺跡である。いまも残る”しかみち”それは、いったい万をこえる過去の黒曜石槍の狩人たちにとっても、やはり”しかみち”だったのだろうか。」(藤森英一『古道』)
石槍は、木や竹の先端に装着する。やがてその装着部に突起部を造作する。それを英語ではtang (茎;なかご;けい)という。日本では古来より茎と呼ぶ。従って有茎尖頭器が正確で、これをtongue、いわゆる舌と解し有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)というのは謝りである。
1)黒曜石の生成
後期更新世(12万6千年~1万1千7百年前)は寒冷期であったため、日本列島はロシア極東の大陸性気候の影響下にあり乾燥し不安定な厳しい環境に晒されていた。北方系の針葉樹林が列島を広く覆う植生で、堅果類に富んだ湿潤で比較的温暖な縄文時代のように落葉広葉樹林の面的な分布に乏しく、栗・山法師・胡桃・団栗などの植物食糧は極一部の地域を除き低調であった。
この最終氷期に、地球史であれば僅かの期間であったが、複数回にわたりユーラシア大陸と陸接し、時期を違えながらシベリア系マンモス・ヘラジカと中国北部系ナウマンゾウ・オオツノシカなどが列島に拡散した。その大型種は古本土では2万年前頃に、北海道では1万6千年前頃に絶滅したと遺跡調査が証明している。
マンモスの一種であるウーリーマンモス(ケナガマンモス)は、現在のところ、北海道各地だけに出土している。マンモス属の一種のムカシマンモスは、約120万から70万年前にかけて日本各地に生息し、その化石が本州各地で出土もしている。ただムカシマンモスはナウマン象の種類に含まれるとする意見もある。
黒曜石は主として、火山から噴出する流紋岩質マグマが、高温高圧の状態で地上に噴出し、再度、地表近くに貫入して、安山岩に接して急冷した時に、「黒曜石」が生じると言われている。主に溶岩性の黒色ないし暗色透明であるが、赤色系、茶色系、白色系もある石英天然ガラスで、加工しやすく、その縁辺(へんぺん)は鋭利で、石刃(せきじん)・ナイフ形石器・石槍・石鏃 (せきぞく)・石斧(せきふ)・石錐(せきすい)等、その用途は広い。
「信州系」と言われる黒曜石には、2大系統あり、北八ヶ岳連峰の縞枯山付近の国道299号沿いの茅野市の冷山(つめたやま)、渋の湯・佐久穂町麦草峠、大石川上流、双子池など八千穂村の麦草峠を中心とする原産地群がその1系統で、もう1つが諏訪湖の北東13Kmに位置し、径約5Kmの半円内、八島ヶ原湿原周辺にある和田峠、新和田トンネル、星ケ塔、星ケ台、丁字御領(和田峠)・小深沢(和田峠)・東餅屋、鷲ヶ峰、星糞峠、男女倉(おめぐら)・東俣などの原産地群がひしめく。
信州にはさらに浅間山南東麓の軽井沢町長倉の大窪沢も黒曜石の原産地であった。
各々の溶岩の噴出年代と火山系が違うことから成分も異なり、出土品の原産地が明らかになっている。
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2)後期旧石器時代の砥石が教えてくれる事
砥川(とがわ)は、長野県下諏訪町西部を流れる一級河川で、車山に源を発し、観音沢から諏訪湖へ流入している。フォッサマグナ形成期に発生したムラサメ変質作用(珪化作用)で、この付近の火成岩や安山岩が村雨石となった。砥川の場合は、これを砥石に使っていて、これが砥川の名前の起こりになっている。
吹野原A遺跡(上水内郡信濃町大字古間)・貫ノ木遺跡(上水内郡信濃町柏原)・仲町遺跡(上水内郡信濃町大字野尻)などでは、後期旧石器時代前半期の砥石が出土している。いずれの遺跡でも刃部(じんぶ)がよく研磨された石斧が出土している。それらの石斧の多くは磨製石斧とその再生剥片が、近接するブロックで伴出している。近年、野尻湖周辺で石斧が大量に出土し、砥石が共伴する事例が増えている。砥石の研磨面に残る1条から数条の砥ぎ痕と、共伴する磨製石斧の刃部の角度と幅が一致している。
当時代の砥石は主に石斧の刃部研磨に使用されているが、伴出する石斧の点数に比し砥石の数が少ない。しかも砥石には多状の研磨痕で深く抉られ、反復的な動作連鎖が強く想定される。また共伴する磨製石斧は成形上の完成品で、刃部のみが研磨される専門の作業所があり、器体の成形調整段階では研磨されてず、砥石による砥ぎは石斧を完成させる最終工程と摩耗石斧の再利用加工の専門作業で、その固有の製作工程は、当時の剥片素材石器遺跡群に顕著にみられ工程別異所製作場の存在を証明する。
関東地方平野部の遺跡から八島ヶ原周辺及び鷹山周辺の黒曜石が多数出土している。磨製石器の製作には石材原石の入手、その打ち割りから最終研磨まで一連の作業工程がある。
埼玉県所沢市の砂川遺跡では、明治大学考古学研究室の遺跡調査によれば、石器類の出土地点の全記録と出土した石器類の接合調査が初めて試みられ、ナイフ形石器等の製作工程の全貌が明らかになった。砂川遺跡は、狩場で石器製作も行われた旧石器時代の標準的集落とみられている。
長野県小県郡長和町の鷹山遺跡群は、関東地方の平野部へ石器を運び出すため、その黒曜石の原産地で、砂川遺跡の遥か数千倍の労力を費やし石器を量産していた。大規模な石器製作工業団地であったといっても過言ではない。
いろいろな面で、諏訪湖の北東13Km、八島湿原周辺の径約5Kmの半円内にある圏内は、松沢亜生(つぎお)や戸沢充則が先駆的研究をして、考古学史上に燦然と語り継がれ、やがて本格的な調査の再開が待たれる地域である。
3)後期旧石器時代の尖頭器の発展
日本列島は旧石器時代に降った火山灰が層をなす酸性土壌と、日本列島が形成され多雨多湿となり、石器は保存されるが人骨・ 骨器・木器・鉄器などは、全て腐食して残らない。だが堆積された火山灰地層の分析により、地層中に埋もれた遺跡と石器の年代が明らかになる。日本列島の旧石器文化は、主に3万5千年前から1万8千年前を中心に置くナイフ形石器文化が大部分を占めている。その時代の主な石器の形状から便宜的に命名された。
日本の後期旧石器時代の特徴的な石刃で、剥片自身がもつ鋭い側縁の一部をナイフの刃のようにし、ほかの側縁は鈍くつぶす調整剥離を加え、現在のナイフに似た形に仕上げられた石器であった事から名付けられた。しかしその先端の刃の形式は、カンナのように水平のもの、両刃の剣先のように鋭尖なもの、切り出しナイフのように斜めの片刃が切っ先になっているものなど多種様々である。
通常槍の穂先に使用され、突き槍・投げ槍の部品であった。そのナイフ形穂先は、大形動物の狩猟用に工夫され、やがて約2万年前頃から、ナウマンゾウやオオツノシカが死滅して、狩猟対象が敏捷な小形動物になると、投槍器から投げ槍として打ち出される木の葉形尖頭器に改良された。その投槍器から打ち出される石槍式穂先の威力は、ナイフ式穂先と比べ命中率を格段に向上させ、殺傷力は数十倍に達した。やがて比較的加工が容易で、自在に組み替えられる細石器式穂先に代わっていった。同形の細石器から獲物に合わせて、穂先の組み合わせと形状が変えられ多種の穂先を作り出した。それが漁労具のヤスやモリにも改良され用途が広がり、狩猟の不足分を魚介類で補うようになった。
石槍式穂先の改良と更新は日本列島で一律に起きたわけでなく、周回移動先ごとに食料獲得の様相が異なる地域環境への適応と、得意とする狩猟パターン、集団が保有する石材入手ルート、石材ごとに異なる石器技法の伝承と現実との葛藤が繰り返された。そのため地域ごとに個性的差異が生じ穂先の形式も石材も異なるようになった。一般的には製作が至難な有茎尖頭器が未発達な地域が多く、その後の細石器文化も含め、その導入は一様でなかった。
旧石器時代人は狩人であると同時に、槍の穂先を作る石工であった。動き回る獲物を追い周回移動するだけでなく、消尽される石器石材入手のため、度々原産地へ往復移動しなければならない。獲物をとるため先ず原産地で石材を手当てし槍先を生産し、狩猟は長期に及ぶため槍先尖頭器は個々に複数、皮袋に携帯した。石器は消耗品である。そのため狩猟しながら、繰り返し石材原産地を訪れなければならなかった。
富士山南麓にある標高1,504mの愛鷹連峰(あしたかれんぽう)の山麓に、旧石器時代の遺跡群が遺存している。それらは富士・箱根火山の休灰期(きゅうかいき)の植物が繁茂していたローム層の中の黒色土層に埋没していた。その最下層にあったのが台形様石器で、ナイフ形石器はその上層部から出土した。両石器とも獲物を突き刺す狩猟具であり、その骨肉を更に切り分ける調理具でもあった。
後期旧石器時代以前ではチョッパー・チョッパーツールに代表される石器時代である。獲物に一撃を加えて殺し獣皮を剥ぐための粗放な核石器(礫器)と、木や竹などを削る剥片石器などが主体であった。
台形様石器の登場により、後期石器時代文化が始まったとみる。それは新人が日本列島の旧人を絶滅に追いやる画期となった。台形様石器は手投げ槍の嚆矢で、それまでのライオン・オオカミなどのように待ち伏せし狩り獲る狩猟法から、獲物の棲息領域に積極的に侵入し狩をする事で収穫量は格段に増大した。
台形石器は石核から横長剥片と呼ばれる幅広で短い剥片を欠き取り、その長い両端を削り落として形とし、その多くは粗雑な加工であったため方形・三角形・ひし形など不定形であった。恐らく穂先の刺殺力と石刃の打撃力を重視する狩人であったようだ。
やがて手投げ槍猟法が伝播すると、先端が鋭尖の方が獲物の堅い皮を貫き決定的な打撃を与えると学習した。そしてナイフ状石器に改良される縦長剥片の有効性に気付く契機となった。当初は縦長剥片の先端に、鋭尖部として細長い先端加工が行なわれただけであった。ナイフ形石器の製作は旧石器時代の画期となる石刃技法を確立させた。石核から石材の節理をなぞって縦長にきれいに剥片を剥がし、中央部の幅広部分の抵抗を弱めるため、石器廻りの側縁の突起を潰す加工を施し片刃や両刃に成形した。
尖頭器は、シベリア・ユーラシアでは広い意味をもち、単に先端が鋭く尖った石器を総称した。先端の尖った ナイフ形石器は、朝鮮半島・中国北部・沿海州でも出土しているが、日本列島で特段に発達した尖頭器で、やがて登場する両刃の槍先形尖頭器とは区別し、その片刃の利器をナイフ形石器と称した。
日本列島では、ナイフ形石器文化に3つの階梯があった。先ナイフ形石器文化の段階では、礫器・錐状石器・ナイフ状石器・スクレイバー類などがあった。礫器は人類が作った最古の石器といわれている。石英・安山岩など拳大の河原石を石材として、石のハンマー(打撃具)で石材の一端に直接打ちつけて剥離させる。その剥離面側に沿って同じ方向に打撃を繰り返しことで刃部とし、その裏面にも同様のハンマー打撃をし、それを繰り返しながらジグザク状の刃部を生じさせる。この礫器作業の延長上で、錐状石器・ナイフ状石器・スクレイバー類などが直接打法により製作された。礫器は植物の採集、動物の解体、錐状石器は先端が錐で穴あけ用具として、ナイフ状石器は槍の穂先として狩猟用に、スクレイバーは捕殺した動物の獣皮を剥ぎなめすなど、諸石器は種々の用途に使用された。やがて石斧が開発されると、木の伐採とその用材加工、獣骨肉の処理具、大型動物の解体具などと生業に伴い多岐的に活用される。
ナイフ形石器文化の第1期、3万5千年前に石刃技法という、石器原石の不要部分取り除き石核をつくり、その石核から石刃と呼ぶ縦長の剥片を連続的に剥離させる画期的な石器製造技術が確立された。それは地域ごとに異なる石材原石と技法に左右される。たとえば頁岩が主体の東北・信越地方では長さ10㎝が比較的多い。関東・中部地方の原産地は八島ヶ原湿原の南にある星ヶ塔が最大の供給地で、黒曜石が主原料であるため細密な加工を容易とし、周辺の「諏訪湖東岸遺跡群」でも同様の5cm未満が多い。
約3万2千年前、巧な磨製石斧が作られた。刃先に磨きをかけた石斧のことである。刃先を砥ぐ当時の砥石が出土している。磨製石斧は大形獣の狩猟や解体、木の伐採や切断、土掘りなど多目的に用いられたと推定される。 石材は、黒曜石、珪質頁岩、チャート、サヌカイト、ガラス質安山岩などが利用されている。
敲石(たたきいし)は、木の実を敲き割り,石皿の上で擦りつぶして粉にしたりする調理用具であり、石器製作用具でもあった。出土石器には敲打痕(こうだこん)が残っている。磨石(すりいし)は主としてクリ・ドングリなどの堅果類をすりつぶし、粉をひくために用いた礫石器である。棒状の長いものはすり棒と呼ばれることもある。いずれも調理用具である。
東京都杉並区高井戸東遺跡では、約3万2千年前の旧石器時代の炭化した大型木片と磨製石斧などが出土している。東京都小平市の鈴木遺跡では、石器製作場・たき火跡などが発掘され、蒸焼調理跡とみられる窪地からは拳大ほどの礫群が伴出した。石は加熱され焼けて割れていたものが多かった。炭化木片が集中する場所は、窪みがあり屋外の調理施設とみられている。焼礫の上に肉をのせ石焼きにするか、焼礫の間で蒸し煮にするのが定番であったようだ。
最終氷期の植生は、気候が様々で一概ではないが、東北日本はマツ・スギの樹林帯で、西南日本はクリ・ブナ・ナラの樹林帯であったようだ。礫群は落葉樹林帯に多くみられ、敲石や磨石の登場は既にクリ・ドングリなどの木の実や山菜などを石焼き・蒸し煮にしていたからであろう。縄文土器が突然出現するわけはなく、樹皮・笹・獣皮などの植物製容器や皮革製容器が、早い段階から使われていたと考えられる。旧石器時代の人々は、比較的安定して収穫できる植物の採集を重視し、容器に水を入れ、クリや磨り潰したドングリ団子を浸し、その中に焼いた石を入れるストーン・ボイリングという調理法がとられていたようだ。次第に植物食の種類が広がり、調理用石器と調理方法の開発により、摂取量が増えていった。
その他、削器・掻器・彫器・錐器など石器の種類が一気に増加する。
次第に石器製作者が鋭利さと完成度の均一さに拘るようになると、良質石材産地を探索し石器石材を採取し居住地に運び込んだ。産地が遠く日常的な運搬に適さなければ、集落ごと石材産地へ居住地を移した。八島高原周辺の黒曜石原産地が、一大開拓期を迎えた。
最後の変化が、特に基部に茎(なかご)を備えた有茎尖頭器化する過程であった。ナイフ形石器の改良形、木の葉形槍先尖頭器はナイフ形石器の盛行期の約2万年前から出現し、ナイフ形石器は後期旧石器時代末葉に衰退していく。代わって木の葉形尖頭器が、著しく発達し量的にもめざましく増加した。
槍先形尖頭器は、細石器が多用されると一時的に減少傾向をみせるが復活し、縄文土器が出現する前後に最盛期を迎えた。旧石器時代晩期の槍先形尖頭器は、一般的に小形のものが多く、調整も周辺部調整、片面調整、両面調整などと多様であるのに対し、縄文時代の槍先形尖頭器は長大で、大半が両面調整のものへと定式化されていく。両者とも柄に取り付けられた槍の穂先であるが、前者は投げ槍に多く用いられ、後者は突き槍が主で、中型動物を弓矢で射止めて、槍で止めを刺す。細石器は独特で槍の穂先の替え刃で、組み合わせを変えれば、同じ部品から用途の違う何種類もの槍が作り出された。
2万1千年前~1万8千年前が後期旧石器時代で最も寒冷化した最終氷期の最寒冷期、その気温の低下に耐えられなくなり、大形獣の絶滅が速まった。ナウマンゾウ・オオツノシカ・ヤギュウなど大形哺乳類が本州島では2万年前頃に、北海道では1万6千年前頃までに絶滅した。その結果、イノシシ・ニホンジカなど中型哺乳動物が主な狩猟対象となった。これらは嗅覚が鋭く敏捷で、ナイフ形投げ槍や突き槍よりも、投槍具から打ち出される木の葉形尖頭器の方が飛躍的に威力と命中率を高めた。槍先尖頭器は石槍とも呼ばれ最も槍の穂先らしい左右対称の木の葉そっくりの細長い形状をしており、その製作には、ナイフ形と比べ完成率が低いこともあって原石の投入量は、1点当たりその数10倍に、その作業量もナイフ形の10数点分に相当するという。
一方、細石器は幅5mm、厚さ2mm程度、長さ2cmに満たないものが多く、その名の通り細かい。槍先形尖頭器1点分の原石から数10点の細石器が製作できる。まさにカミソリの替え刃で、骨や木で作る槍の穂先に沿って細い溝を彫り組合せ式に細石器を装着する。剥片石器であるが、石刃技法が最も進化したもので、加工仕上げの容易さは、ナイフ形に比べて格段に勝る。細石刃も横長の細石刃核から次々と節理に沿って剥離させる製法で、破損した部品の交換修復も簡単であった。
九州が姶良火山活動で被災し、その後立ち直って最寒冷期に立ち向かっていたころ、その細石器文化が朝鮮半島から北海道に伝播する。
ホモ・サピエンスも3万年前にはヒマラヤマの北側から極寒のシベリアに進出していった。約2万5千年前に、そのシベリア人が発明した縫い針でトナカイの毛皮の防寒服をしつらえ、ツンドラの永久凍土で果敢にマンモス・トナカイの狩を行っていた。シベリア人がマンモス狩猟具として発明したのが、細石器を両側に埋め込んだ穂先で、その槍で数人掛かりでマンモス狩をした。
マンモスを追いながら、細石器文化はモンゴル・華北・朝鮮半島と浸透し北海道に伝来するが、なぜか日本列島全域に広まるのは、6,000年後の晩氷期で、それは北海道へ伝播した技法と異なる大陸南方系の系統であった。
同時期、津軽海峡以南では、狩猟具に大きな進歩をもたらした有茎尖頭器が急増していく。やがて弓矢の渡来とともに、タヌキやウサギなどの小動物も狩猟対象となっていった。弓矢と槍の中間的な機能を果たした投げ槍(槍先形尖頭器)は弓矢の普及によって消滅していく。弓と矢柄は、旧石器時代晩期のものがヨーロッパで若干発見されている。
ナイフ形石器・槍先形尖頭器・細石器と続く3階梯は、関東・中部地方には当てはまるが、北海道にはナイフ形石器と槍先形尖頭器がなく、九州地方では槍先形尖頭器が見当たらない。
量的には少ないが朝鮮半島の南端にある和順(ファスン)大田遺跡や晋州(チンジュ)長岡里遺跡、長興新北(シンブク)旧石器遺跡などから数点の黒曜石が出土している。その大半が2万年前の、しかも遥か遠く8百Kmの離れた白頭山産の黒曜石であった。新北遺跡では佐賀県腰岳(こしだけ)や長崎県針尾などの西北九州産黒曜石も遺存していた。細石刃文化段階での朝鮮半島と日本列島との交流が垣間見られる。
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4)黒曜石の産出地
考古遺物が埋没している黒土や赤土は、テフラと呼ばれる火山砕屑(さいせつ)物が母材となっている。爆発型噴火では火口から火砕流堆積物が放出されが、テフラはさらに空中を飛行して地表に堆積した火山塵(じん)、火山灰、火山礫(れき)、噴石、軽石、火山弾、火山岩塊などの総称で、火山放出物ともいわれる。特に巨大噴火で200~300Kmに広く分布したものを広域テフラという。
約9万年前に阿蘇カルデラ形成の最後に噴出した阿蘇4火山灰は、北海道まで飛来して厚さ15cmの火山灰層をつくった。鹿児島湾の姶良火山(あいらかざん)の大噴火は、年代には諸説あるが、約2万9千年から2万8千年前頃の後期旧石器時代の火山灰(略称AT)で、考古学の年代測定の重要な基準になっている。鬼界カルデラは鹿児島県口之三島(くちのみしま)の硫黄島北西部から竹島を北縁とする東西約23Km、南北約16Km、面積約233平方Kmと大規模で、約6,300年前の大噴火による火山灰(略称AK)は、縄文時代の早期と前期とを分ける重要な鍵テフラ層の一つになっている。この時代の九州地方の縄文文化に潰滅的打撃を与えた。こうした何枚もの鍵テフラ層が、未だに理化学による放射性炭素年代測定法よりも考古遺物の年代の確かな決め手となっている。日本列島は、約180万年前から現在に至るまでの第四紀の活発な火山は200を超えるといわれているが、少なくとも後期旧石器時代以降、自然災害に屈することなく日本列島には不毛の大地はなかった。
旧石器時代は打製石器の時代とかつてはいわれていたが、後期になると明らかに磨製石器時代に入っていた。
八島ヶ原・鷲ヶ峰に源を発する男女倉川沿いの渓谷の遺跡群を、男女倉(おめぐら)遺跡群と呼ぶ。標高1,200mほどの男女倉川両岸の段丘や台地に遺跡が点在している。この地方の八島ヶ原や八ヶ岳周辺の標高1,300~2,100mの中央高地の高冷地に黒曜石の露頭が数多くみられ、その付近には旧石器時代以降の遺跡が密集している。これら黒曜石原産地では、今日に至っても礫塊の元である巨大な岩の露頭に出合う。その流域の渓流に洗われる礫塊も多く、地表下には礫塊堆積層が隠れている。
旧石器時代初頭では、地表や河川から黒曜石を採集するのが基本であった。次第に原石の露頭を打ち砕く作業から地下の鉱脈や礫塊層の採掘にまで及んだ。長野県鷹山遺跡群の星糞峠では、原石の地下採掘が、旧石器時代に既に行われていた痕跡が発見されている。北海道白滝遺跡群では、原石の露頭採取が専らであった。
5)鷹山遺跡群、旧石器時代前期(4万年前以降)
長野県小県郡長和町鷹山地区は、中央高地黒曜石原産地帯の一角である。標高1,487mの星糞峠と呼ばれる付近の黒曜石原産地とその周辺の石器時代遺跡の密集地、鷹山遺跡群がある。東西にある高松山と虫倉山の鞍部にあたるのが星糞峠で、そこから虫倉山の山頂付近、標高1,547mまで南北220m、東西300mの範囲で黒曜石鉱山の採掘址が広がっている。虫倉山の噴火口址のようだ。その南側には大笹山の緩斜面が下り、鷹山川が山沿いを流れる。その一帯はかつて湿地であった。この旧湿地の地下に黒曜石の礫塊堆積層があり、その一部が鷹山川中流に露出し流に洗われている。星糞峠には黒曜石の露頭はなく、ズリと呼ばれる黒曜石の破片や割りくずが虫倉山の中腹から眼下の旧湿地に達し、鷹山川中流域にまで下っている。それは星糞峠付近の縄文時代の黒曜石地下採掘による鉱山活動から生じた膨大な鉱滓であった。それが鷹山川流域に流れ込んだ。星糞とは、辺り一面に展開しキラキラ輝くズリが由来となっている。
鷹山地区には、旧石器時代の黒曜石石器製作場とみられる遺跡がたくさん集まっており、さらに、星糞峠から続く噴火口のあったと思われる虫倉山の斜面一帯には、旧石器時代からの鉱山跡が発掘されている。黒耀石採掘の鉱山活動が最も盛んになるのは縄文時代であったが、後期旧石器時代初頭の鷹山地区は、既に石器原石の採取場として開発されていた。そこでは製作加工はしていなかった。狩場を広く周回する狩猟と植物採集を生業とする旧石器時代の集団が、各地に広く分布する石材地で狩猟をしながら適宜補充し廃棄していた。割れると鋭い縁辺が生じる非常に緻密なサヌカイトや、層理面に平行して剥げ安い性質をもつ頁岩、加工しやすいガラス質の黒曜石など、既に集団全体で共有する情報の蓄積に基づきながら、諸々の長短を考慮し採集を兼ねながらの狩猟活動であった。産地が限定される石材は、調達地近傍で粗割り(あらわり)され各居住地やキャンプサイトで再加工され破棄された。広く当たり前に入手できる石材であれば、生業過程で使い潰され直ぐ廃棄された。黒曜石などは産地が限定され貴重石材であるため長期間拐帯された。全体でみれば希少な石材であるが、用途が広く再加工に適し、それが繰り返されるため各居住地で多くが遺存されるようになる。
長野県と群馬県の県境、観光地軽井沢の南には、佐久市八風山(はつぷうさん)がそびえる。この八風山は、石器の良好な素材となる「ガラス質黒色安山岩」の産地である。八風山遺跡群がある。旧石器時代初頭の日本列島最古の大規模石器製作地である。安山岩の露頭は発見されていないが、その西南麓を流れる香坂川は、石器の良好な素材となる「ガラス質黒色安山岩」の原石を洗い出していて、巨大な原石を数多くみることができる。その右岸の流域約1Kmに8遺跡が群在する。石槍製作に伴う膨大な小塊が7万点出土したが、完成したナイフ形石器はほとんど共伴しなかった。石器製作地であれば、完成品は消費地遺跡に搬出されたものと考えられる。八風山Ⅱ遺跡では、約3万年前、姶良火山灰鍵テフラ層下位の石器群も発見されており、基部加工ナイフや局部磨製石刃なども出土している。
群馬県甘楽郡甘楽町白倉字下原の白倉下原遺跡は鏑川右岸の河岸段丘上にあり、その出土品のナイフ形石器の素材と完成品が、八風山遺跡群から搬出されているという。さらに南関東の旧石器遺跡からも同じ原産地の石器が出土している。
南関東地方平野部には、流紋岩や珪石など石器石材を産出する地域が各地にあった。しかし南関東の北方の平野部に集落を構える後期旧石器時代の人々は、そうした在地の石材を余り重視していなかった。姶良火山の大噴火までの時代は、
赤城山麓産の黒色安山岩や黒色頁岩が石材として最多となる。狩場内の周回を繰り返しながら、遠隔地の石材産地に出かけ石材原石を探し、その場で石器に加工して狩場に戻り使い潰された。石材産地に戻る往復移動の間でも、大形哺乳動物の狩は行われていた。
この時代、既に南関東地方の平野部台地上と赤城山麓に、軒を並べる様な集落が存在していた。群馬県富士見村の小暮東新山遺跡から竪穴住居が発掘された。直径約3mの円形で炉跡はなく、深さは約20㎝ある竪穴と7本の柱穴が遺存していた。その7本の柱を結束し、獣皮・萱・小枝などで円錐形の屋根が葺かれたとみられている。この伏屋(ふせや)式平地住居の状態は石材原産地でも同様で、解体・可搬を繰り返す、この簡易式の組み立て方式で周回移動する狩人の住居環境が端的に物語っている。移動するに際し、重要な個人財産であった石器・石材と共に携帯したのが小屋の建材であった。
八島ヶ原周辺では、小屋内に炉を設け、這松・ナナカマド・シラビソ・トウヒ・笹などを燃材として夜間の暖をとっていたであろう。
昭和58(1983)年、群馬県伊勢崎市下触牛状遺跡の発掘調査により、3万5千~2万8千年前の直径50mの環状をなす、26ブロック(一家族が同居する住居)からなる旧石器時代の「還状ブロック群」、即ち百人を超える人々の集落跡が出土した。そのブロック内には、石器製作の作業場と見られるスポットがあった。八風山遺跡にもナイフ状石器・剥片・石片、そのもとになる母岩などが散乱するスポットがあった。ブロックを分析すると、その住居には平均して2~3人の人が石器製作を行い、1~2人の子供がいて通常5人前後の家族であったようだ。
仙台市の富沢遺跡は地表下5mの地層で発見された。最終氷河期の最寒冷期、2万年前の後期旧石器時代の地層であった。遺跡から出土した樹木はトウヒやグイマツなどの針葉樹が多く、わずかにダケカンバなどの広葉樹が混じっていた。当時の気候風土が知られる。針葉樹を中心とした湿地林が広がり、まばらな草原の湿地際に、火を焚いた跡を中心に、石器・石核・破損したナイフ形石器・大小の剥片など100を超える石器群と樹木・昆虫の遺体・シカの仲間の糞などと、焚き火跡の南東側からは著しい摩耗痕を留める光沢のある剥片石器も出土している。富沢遺跡は、旧石器時代の人間と自然環境や暮らしを具体的に伝える遺物が多い、と注目されている。恐らくは4~5人の狩人が、焚き火で暖をとりながら、狩で刃こぼれした穂先の補修や獲物の皮を剥ぎ、肉を焼いて食べ、翌日の狩に備えたキャンプ・サイトではなかったか。
相互に原石や石器を交換し合う家族同士の2、3のブロックがユニットを形成し、周回移動もユニットごとで、通常の狩では、そのユニット内の狩人が集まり狩場でキャンプをした。
時として後期旧石器時代人は、「還状ブロック群」と呼ばれる集落を営み、50名を越える大集団を組み大形動物を狙う共同狩猟法が行われた。下触牛状遺跡がそれを語る。やがて共同狩猟が終わると、ユニットごとに別々に数地点に分散し居住した。次の大規模な狩猟まではユニット単独か、親しいユニットと協働して中・小形動物の狩をした。埼玉県所沢市の砂川遺跡では、6ブロックの集落が出土し、3ブロックごとに区分される2つユニットが確認された。それぞれナイフ形石器等の製作工程が明らかとなるが、石器自体に歴然とした差異が目視できた。
6)後期旧石器時代中期(2万6千年前以降)
中期になると原石を入手する鷹山地区でも石器が製作された。産地が限定され優良な石器は珍重され需要が増え、重ねて専門職的に製作されれば希少となり、狩人集団間の社交的交易網に乗り遥か遠方へ運ばれた。鷹山地区の原石製ナイフ形石器素材とその完成品が関東地方平野部に流布した。
神奈川県柏ヶ谷(かしわがや)長ヲサ(ながおさ)遺跡の石器原石は、依然として伊豆半島柏峠(旧伊東街道)・箱根畑宿系が大きな比率を占めていたが、同県綾瀬市の相模野台地にある寺尾遺跡第Ⅵ文化層の石器は、中央高地の黒曜石原産地産が主体となっている。当期の大規模な石器製作地が、鷹山川沿いの旧湿地内の鷹山第Ⅰ遺跡M地点にある。関東地方平野部の狩人集団が、当地を往復する狩場としながら石材を入手し石器を製作していた。その上で、狩場内でも石材を探し副次的に石器を作っていた。
2万6千年~2万1千年前、中部高地に巨大な伏屋式平地住居が出現する。それはユニット単独か、親しいユニット同士が共同して居住し、石材原産地で原石を入手し、大量に石器を製作し、仕上げた石器を狩場集落に運び込む目的のイエであった。彼らが狩場に戻ると、空家として放置され、やがて石器が使い潰されればされれば、終生に亘る石器手工業のの拠点となった。
姶良火山灰鍵テフラ層以降の後半になると、石器製作地は鷹山から星糞峠にまで上がるが、関東・中部地方の黒曜石原産地に大規模な石器製作地がなくなる。関東地方の平野部には、河川流域に東京都の野川遺跡のように多くの遺跡が群在する。当時の狩人団は氷河期の最寒冷期の最中苦戦しながらも、シベリア系のヘラジカ・ヒグマ・オオカミなどの動物群と中国北東部系のナウマンゾウ・オオツノシカ・ヤギュウなど動物群を狩猟していた。ナウマンゾウ・オオツノシカ・ヘラジカ・ヤギュウなど大形哺乳類が本州島では2万年前頃に、北海道では1万6千年前頃までに絶滅した。ナウマンゾウの最も新しい化石は岐阜県美山町熊石洞の16,700年前、オオツノシカは広島県帝釈峡の11,000年前、ヘラジカは岩手、神奈川、岐阜で計4例あるが、いずれも約2万年前のものである。一挙に膨大な収量ができる獲物が消滅し生業の転機を迫られた。
長野県野尻湖で「野尻湖発掘調査団」が、現在でも北欧や北米などに生息するヘラジカの下顎の臼歯の化石を発見した。地層から約4万1千年前、中期旧石器時代の国内最古の化石となる。野尻湖の湖底遺跡は下層の古い順から下部、中部、上部と大きく3つに分けられた。その中部野尻湖層Ⅰは約41,000年~39、000年前の層で、ナウマンゾウの頭骨・脇骨・脊髄骨や牙が、その骨製のクリーバー(cleaver;ナタ状骨器)・骨核・骨製剥片や槍状の木器などと伴出した。当時の湖の岸辺にそって北東から南西方向約40mの範囲にあたる。遺跡からは13,645点の動物化石が出土し、種類が判別されたは6,180点で、ナウマンゾウ・ヤベオオツノシカ・ニホンジカ・ヒグマ・ハタネズミ・ヤギュウ・ノウサギなど7種の哺乳類の骨と鳥類が少々検出されている。その内ナウマンゾウは89.3%とヤベオオツノシカは10.4%で、2種だけで99.7%を占めている。4万年前の旧石器時代の野尻湖人は、ナウマンゾウを湖沼に追い浅瀬に足がはまって身動きができない状態にし狩り獲った。解体し肉をとり分けても重く運び出しが困難なナウマンゾウは、その場を骨製骨器の製作場とした。
現在、ヒグマは本州で絶滅し、ヤギュウは日本列島から消えている。
マンモスは更新世後期に生息し、最終氷期に絶滅した象で、ユーラシア大陸北部からアラスカ・カナダ東部にかけて化石が出土している。インドゾウに近く、体高約3・5m、全身が30~40cmの長い剛毛で覆われ、氷河期に耐えられるよう皮下脂肪が厚く、長く湾曲した牙を持つ。北海道で歯の化石が発見されており、シベリアからは凍結死体が発掘されている。
ナウマンゾウも約2万年前の更新世後期まで日本に生息している。現生のアジアゾウと比べ、やや小型である。氷河期の寒冷な気候に適応するため、皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていたようだ。日本、朝鮮半島、中国に分布している。ナウマンゾウという呼び名は横須賀市で発見されたゾウの化石に由来する。明治9年(1876)、今は海軍基地内にある横須賀市稲岡町の丘にあった洞穴からゾウの化石が発見された。インドで発見されたゾウ化石と比較研究を行った結果、その亜種であることがわった。大正13年(1924)に京都大学助教授だった槇山次郎が「ナウマン象」と命名した。当初、命名者である槇山氏の名前も入り、「ナウマン・マキヤマ」というのが正確な命名であった。その後、最初に日本のゾウ化石を研究した東大の地質学者であったドイツ人ナウマン(明治8~18年日本滞在)の名前で呼ばれるようになった。
旧石器時代人にとって、マンモス・ナウマンゾウ・オオツノシカなどの大型哺乳類の絶滅の危機は、当時日本列島人の生業を脅かす衝撃であった。オオツノシカでも肩高約2.3m、体長3.1mに達し大型獣であった。現在のニホンシカ500kと比較して、当時のゾウは10倍の5千kとなる。正味4千k、それを一人当たり1日400gとすると5人家族で2千日の分量となる。ここに大形哺乳動物の絶滅理由が明らかになる。絶好の食料源が、樹木が叢生しきれない氷河期の原野に散在していれば格好の標的となる。現実には集落家族の1~2人が狩猟に参加し、その扶養家族は4~5人とする、狩猟には少なく見積もっても最低10人が必要となる。それでも扶養家族を加えても一人当たり200日分となる。
寒冷期の草原や沼沢を広域に回遊する大型獲物の枯渇により、狭いテリトリー内を周回する中小型の動物が狩猟対象となり、狩場の周回移動はその生息地の平原部が主となり、石材も周辺地の身近な原石を活用するようになった。シカ・イノシシ・クマ・オオカミ・キツネ・タヌキなどは、車山・霧ヶ峰・八島ヶ原などに生息する固体よりも、里の湯川・芹ヶ沢に生存する方が食料に恵まれ大形であったようだ。結局、黒曜石の原産地から石器製作施設が消滅していく。だが南関東の北方の平野部に集落を構える人々は、蓼科・八島ヶ原周辺・和田峠の中部高地産の黒曜石を圧倒的に活用していく。当時の旧石器時代人は、個体数が減少し続ける大形獲物を追うよりも、狩場内の周回活動の期間をできるだけ長くし小形獲物を狩る方がより効果的と知った。それまで石材産地で石器を製作していたが、原石を持ち帰り狩場内で狩をしながら石器製作に励んだ。更に狩場内にある在地の石材を見直し石器製作にあてようと工夫している。
やがて、平野部の河川流域に遺跡が蝟集し、そこに集住する人々は黒曜石原産地を訪れる事も無く、平原台地の狩場内を専ら周回するようになる。大規模石器製作地もそのエリア内に留まり盛んに石器製作に励んでいた。ただ姶良火山灰鍵テフラ層後は、南関東地方の下総台地や大宮台地・武蔵野台地・相模野台地の各台地とも、石材の構成比では信州系の黒曜石の方が高い。箱根山西麓の伊豆半島の三島市やその南東の田方郡函南町の遺跡でも、箱根・伊豆いずれもが黒曜石の産地でありながら、蓼科・八島ヶ原周辺・和田峠の黒曜石の比率の方が高く、原産地は広く分散しているが地元産が少ない。
ナイフ形石器は日本列島で発達した石器で、日本では後期旧石器時代晩期の両刃の槍先形尖頭器と区別し、その片刃の利器をナイフ形石器と称した。狩猟を用途とするナイフ形石器で、突き槍・投げ槍として使われた。やがて2万3千年前頃からより強度な角錐状石器が登場する。朝鮮半島、全羅北道任実郡(イムシル=グン)でも出土している。強靭な獣皮を貫く槍先が誕生した。従来型のナイフ形石器は、次第に小型化し投げ槍用とされた。それが更に小型化され組み合わせ槍の側刃器となる細石器が替え刃となる投げ槍が工夫されると衰退・消滅した。
関東地方の投げ槍は、ナイフ形石器が画期となり浸透したが、より強靭な角錐状石器となり、ついで2万年前頃、木の葉形の槍先尖頭器となり、次第に大型化し主に突き槍として縄文時代を迎える。
細石器はより有効な弓矢の伝来により、取って代わられた。九州や北海道では弓矢の伝播が遅れ細石器文化が長く続いた。
氷河期の厳しい後期旧石器時代、植物採集資源に乏しく、その主な生業は、多くを狩猟に頼らざるを得なく、狩猟具を進歩させ続けてきた。その厳しい品質と使い易さを条件とする石器石材需要に応えられたのが、信州中部地方の黒曜石原産地であった。旺盛な需要に応えられる産出量を有する原産地と産直供給の需要地へのルート、その交易条件を決められる仲介者がいた。しかも物々交換の流通網が整備されていた。
7)後期旧石器時代後期(2万1千年前以降)
最終氷期の最寒冷期に入ると、旧石器時代人は遠隔地にある石材原産地に行かず、狩場内での生業に専念する。殆どが在地産の原石だけに頼るようになり、良質な石材による良質な槍の穂先より、殺傷能力は劣るが狩の回数を増やす方が生産的とみたようだ。この時期、大形動物が絶滅の危機にあった事と重なる。
国府型(こうがた)ナイフ形石器は、約2万5千年前頃に登場し始めている。旧石器時代後期、近畿・中国・四国から九州地方にかけて、層理面にそって横長に石片・翼状剥片を連続的に割り出す方法で作られる国府型ナイフ形石器が普及する。サヌカイトという、割れると鋭い縁辺が生じるガラス質の安山岩を産出する奈良県二上山北麓遺跡群では、大規模な採掘を伴う石器作りが成されていた。大阪府羽曳野市の中心部にあたる住宅地の翠鳥園(すいちょうえん)遺跡からは、旧石器類がおよそ2万3千点、国府型ナイフ形石器5百余点出土した。遺跡から5kmほどにある二上山のサヌカイトを用いて製作されている。
佐賀県には、サヌカイトと黒曜石の原産地がある。サヌカイトは鬼ノ鼻山北麓地帯で産出され、その石材を使った国府型ナイフ形石器を製作したのが多久三年山(たくさんねんやま)遺跡群で、三年山・茶園原遺跡など22ヶ所の発掘実績がある。熟練した石工による尖頭器専門の石器製作跡で、石器は尖頭器に限られ、それらの尖頭器の殆どは折損した状態で出土している。また製作途中で破棄された仕掛品も多いという。国府型ナイフ形石器は他型式のナイフ形石器と比べて仕損率が高くく、多大な労力を要したといわれている。精巧なナイフ形石器の需要の高まりは、狩人の片手間仕事でこなせるレベルでなくなっていた。依然として狩を生業とする集団は、狩場を周回し獲物を追い奔走しなければならないが、石材産地に石器製作集団が組織化された。彼らも狩を当然行っただろうが、石工色をより強め産直的手法で各地の狩人集団まで赴き物々交換を行ったようだ。
黒曜石は伊万里市腰岳が九州地方では最大の原産地で、その腰岳遺跡群では消費量を上回る原石が備蓄され、本州地方、南は沖縄本島さらに朝鮮半島南部にまで分布している。良材の需要は、安直な流通網で対応できる水準を遥かに超えていた。
この旧石器時代後期後半、近畿と中国・四国・九州では、ナイフ形石器文化の段階であったが、既に北海道では細石器文化がシベリアからサハリンを経由して広がっていた。
最寒冷期を耐えぬいた旧石器時代の後期後半(1万8千年~1万8千年前)、列島の南海上から「温暖前線」がより北上する時期が増え、厳しい寒さが次第に減少すると、ナイフ形石器が小形化し終末期を迎える様相となる。槍先専用の石器木の葉形尖頭器文化(1万8千年前~1万4千年前)が登場した。南関東地方平野部を始原とし次第に東北地方に浸透していた。それは投げ槍の機能を高める必要性から工夫された。
中国・朝鮮半島から渡来した本来温帯性のナウマンゾウ・オオツノシカなどが酷寒で次第に淘汰され、逆にサハリン経由で北海道から本州中部まで南下したヘラジカが、主な狩猟対象となり絶滅した。次の標的は鋭敏な嗅覚と素早い逃走反応をしめすシカ・イノシシ・クマなどのため、「飛び道具」が必須となり投槍器も開発された。合わせて槍先として、微妙な重さの調整加工が施された木の葉形尖頭器が石材原産地に石槍生産バブルを生じさせた。石材原産地における石器の現地生産が頂点に達した。長野県の中央高地の黒曜石原産地帯が大開発期を迎えた。一方、狩場では黒曜石原石を割った痕跡がなくなり、槍の穂先の完成品と仕掛途中の未完成品が出土するだけとなった。
関東地方の山沿いの平野部には、相模野・武蔵野・大宮・下総などの諸台地が広がり、後期旧石器時代を通して絶えまなく相当数の遺跡が遺存している。狩猟と植物採集に恵まれた好条件下の猟場であったようだ。後期旧石器時代の後期後半1万8千年前に、日本列島のなかでも中部地方とともに槍先形尖頭器文化が、他地域を凌駕し盛行した一帯であった。関東地方の平原台地に角錐状石器が登場したのは、姶良火山灰鍵テフラ層後の約2万3千年前であった。それが本格的な突き槍用石器の嚆矢となった。より丈夫な突き槍・木の葉形をした槍先形尖頭器の出現は、恐らくは約2万年前に限りなく近づくと思われるが、既に大型獣の多くは死に絶え、ニホンジカ・イノシシ・カモシカ・ツキノワグマなど、今も現存する中型哺乳動物が狩猟対象となってていた。角錐状石器や木の葉形尖頭器は、主に落葉樹林帯の関東地方以西に分布する。
製作実験によれば、槍先形尖頭器作りは、ナイフ形石器と比較すると、表裏両面の刃潰し剥離による仕上げ加工などが伴うため歩留まりが悪く、原石消費は10倍になり、長さや幅など仕様上の制約も多く原石を割る回数も約10倍で、作業時間は数十倍になるといわれている。それが石材原産地の大開発に繋がった。槍先形尖頭器は精巧過ぎて完成率が低いため、かつての狩人兼石工であった後期旧石器時代人のように諸所の狩場を周回移動しながら、石材原産地で原石を入手し、原産地はもとより自分たち集団内の居留地で製作する時間も技術の伝承もなかった。槍先形尖頭器の登場は石器製作専門の石工集団を誕生させる画期となり、彼等は中央高地の黒曜石原産地の各地を再開発し鉱山採掘も成し遂げていた。その場で大規模に良質な石器を作り、関東地方の平野部の狩人集団へ運び込んでいた。
鷹山川中流域の旧湿地帯や星糞山の鉱山地でも、随所で大規模な槍先形尖頭器製作が行われた。鷹山川中流域の旧湿地帯にある鷹山第Ⅰ遺跡S地点が、後期旧石器時代後期後半、石器製作専門集団が原産地に設けた大規模な黒曜石石器製作所跡とみられている。
神奈川県大和市つきみ野の「相模野台地」上にある月見野遺跡群が、槍先形尖頭器文化圏にあったといわれている。この文化期にも石器原産地から離れた平野部でも依然として大規模に石器製作が行われていた。
群馬県桐生市新里町武井の武井遺跡は赤城山南麓の鏑木川右岸の台地全面に広がり、1万8千年前地層からは多量の槍先形尖頭器も含む20万点もの石器や石屑が発掘された。特徴的なのが渡良瀬川水系産の非常に硬く層状で割ると貝殻状断口になり易い石英質のチャートや中央高地産の黒曜石・利根川水系産の黒色頁岩と同系の黒色安山岩・東北地方産の硬質頁岩など石器石材の原産地が複数で、しかも広範囲に及んでいる事にあった。東北地方産の硬質頁岩の産出地は約150Km離れている。産直的営業があり、更には物々交換を時々の相場観を踏まえ、合理的に説明できる商人が既に育っていたようだ。狩人集落が群集する地域では、手早く必要石器を入手できる地元の槍先形尖頭器製作所を重用したようで、特に多量の地場産出石材の槍先形尖頭器が出土している。
昭和28(1953)年、長野県諏訪市上ノ平遺跡が発掘された。温泉寺高島藩主廟所の上の諏訪湖を見下ろす丘陵から谷筋にかけて遺存する後期旧石器時代の遺跡で、黒曜石製の特徴がある槍先形尖頭器が多数出土した。スクレイパー(皮を剥ぐ石器等)などの遺物もみられ、石材は黒耀石、サヌカイト、頁岩、チャートなどもあったが、黒耀石を主体にした石器の製作場であった。
この時期、中部高地と南関東地方平野部の狩場に、竪穴式の床面と住居の周囲に配礫をし、柱は穴を掘って固定し、中央に炉を備えた、他の集落と独立した伏屋式平地住居より堅牢な家屋が登場する。それが狩場内の石器製作所であった。
大形哺乳類を狩猟対象にする時代が終わり、一地域に集合する環状ブロック集落の役割が消滅した。中小の哺乳類を獲物にするため河川流域に数百m間隔でユニットを営み、それを主軸にする数kmの広範囲に展開する川辺沿いの集落を形成した。これは獲物を河川流域に追い詰める狩猟法で、この川辺集落は、順次川筋に沿い狩場と集落を移動させた。
8)後期旧石器時代晩期・細石器文化(1万4千年前~1万2千年前)
関東・中部地方が細石器文化に組み込まれていくと、黒曜石原産地から細石器も含めて大規模な石器作りが衰退した。代わりに原産地から離れた狩場の高原台地で大規模な黒曜石製石器が作られていく。細石刃は幅1cm以下、長さは幅の2倍ある縦長剥片の石刃で、骨や木の軸に沿って複数の溝を掘り、側刃として装着し銛や槍先にした。それは替え刃式の石器で、破損した石刃は取り替えられた。また槍全体が軽量化され投げ槍としての命中率を高めた。
細石刃文化の発祥地はシベリア東部のバイカル湖を源流にするレナ河上流域とその支流アルダン川流域一帯といわれている。最初に原石を整形し、小さく扁平にした楔(くさび)形の細石刃核を作る。それを母型にして、横に寝かして縦割りを繰り返し、小さく薄い細石刃を剥離して量産する。その技法が湧別技法で、シベリアからモンゴル・華北・朝鮮半島、そして氷河期の最寒冷期、大陸の半島であった北海道に広がった。
大陸各地でその細石器製作技術が様々に発展していった。後期旧石器時代の後半期、北海道に入った楔形細石器核と荒尾型彫器は、バイカル湖周辺では、既に約3万年前の地層から出土している。北海道に2万年前に伝播したが、ベーリング海峡を通り北米に広がりながら、日本列島では、当時の狭い津軽海峡を越える事はなかった。
その後も、本州・四国・九州はナイフ形石器の時代が続いた。日本列島に細石器文化が席巻する第2波は、その6千年後の晩氷期に入る1万4千年前であった。最初に九州に入った。
その経緯は中国の黄河流域で発展した細石器文化が、山東、朝鮮半島経由で日本列島に到来した。日本では矢出川技法と呼ばれる、原石を直接うち欠いて円錐形ないし角柱形の細石器核を作る技法であった。さらに中国では、この細石器でシカ・イノシシを狩るだけでなく、漁労用のヤス・モリなどにも活用していた。ヤスは柄を持って直接魚などを刺し獲る、モリは離れた位置から魚などの獲物に投じるため柄に紐を付ける。当時、その刺突部は槍と殆ど差異はなかった。日本列島にも本格的な漁具が初めて登場した事になる。その後、九州には独特な船底形細石器核が登場し、本州列島の各地でも、中国・四国地方ではサムカイトを原石ととするナイフ形石器製作技法を応用する「瀬戸内技法」が発展するなど特有の工夫なされた。この時代20種近くの細石器核・細石器の文化が開花し、後期旧石器時代の最終末期を代表する石器文化となった。西南日本では細石刃に削器が加わる程度で、細石刃自体に各種の用途に対応できる機能を持たせた。東北日本では細石器に彫器(ちょうき)・削器・錐器・掻器などが加わり、用途に合わせて石器を細分化させた。
糸魚川‐静岡構造線よりも北東側の本州および北海道の西部を含む地域の東北日本では、船底形細石器核から湧別技法により細石刃を作り出した。西南日本では半円錐形・円錐形細石器核から矢出川技法により細石刃が量産され広く分布している。
八ケ岳東南麓の長野県野辺山高原、標高1,340mにある矢出川遺跡群で、日本で初めて細石器が発見された。良好な狩場であったとみられる矢出川流域の3km四方に11ヵ所の遺跡がある。ここでは、発掘・採集資料を含め781点の石器作りの残滓と細石核が出土した。殆どが黒曜石であった。その原産地の39%が、神津島の南西沖約5㎞にある伊豆諸島の無人島恩馳島(おんばせじま)群岩産であった。その周囲の海底には、今でも良質な黒曜石層が眠っている。恩馳島は矢出川遺跡群から200kmもの距離があり、しかも海上だ。静岡東部でもこの群岩の黒曜石産の尖頭器らしい石器が大量に発見されている。
その次の原産地が33%で蓼科エリアの冷山群で、23%が星ヶ台、5%が和田エリア産であった。原産地の入手先が複数あり、余りにも広域化している。狩人兼石工が、狩場周回の途上、多年に亘る他集団との交換を繰り返し、他産地の石材を入手していたという単純な説では説明し難いようだ。
日本列島が氷河期の晩氷期に入り寒暖を繰り返す時代、旧石器時代晩期の細石器時代、長野県上伊那郡南箕輪村神子柴で日本列島最古の土器が出土した。旧石器を代表する局部磨製石器と掻器・削器・彫器など旧石器時代の「狩猟生活を満たす」石器群が出土し、同時に土器が伴出された。発掘者林茂樹は、出土した大形尖頭器は両面加工され「長さ25.2㌢の月桂樹葉形を呈し、厚さ1.2㌢の薄さで、長身優美なスタイルをもっており、槍先というよりも短剣としての機能をもつかもしれない」、その上で「月桂樹葉形の短剣?」と疑問を呈した。
土器は長江中流域の南部で、最終氷期最寒冷期の2万千年前に既に誕生していたようだ。シベリア極東地方のガーシャ遺跡下層では、楔形細石器核と木の葉形尖頭器・局部磨製石器と伴出している。それは線刻を施した土器であった。C14年測定法では、1万2千560年前とされた。このシベリア東部の土器の出現は、マンモスの絶滅により、アムール川のサケ・マス漁に生業を転換した結果とみられている。その過程で土器で煮詰めて灯油として魚油を製出した。やがてその煮沸製法は動物の角・皮・魚の浮き袋などを煮込む事になり「ニカワ」を抽出した。それにより細石器を穂先に装着させる接着剤として活用した。
土器文化の日本列島への到来は、縄文時代の開始となり植物採集を生業とする転機となった。動物食料を追い続ける狩人から、森林の栗・胡桃・団栗・椎の実などの植物採集が主な生業となり、中小の動物の狩猟、漁労などがそれを補完する多岐に広がる人類文化の萌芽となった。
この時代、伏屋式平地住居はユニットを形成せず一軒家し、縄文時代の定住集落を目前にしながら、家族単位の狩猟を生業とする周回移動を繰り返していた。
9)諏訪地方の黒曜石採取と石器製作
40万年~35万年前、ドイツのシェーニンゲン遺跡では、トウヒとマツを削った精巧な投げ槍が半ダース出土し、イギリスのクラクトン遺跡でイチイ(アララギ)作りの槍の一部が検出されている。
鷲ヶ峰の西隣にある標高1,576mの星ケ塔の遺跡群では、黒曜石を採掘した凹地が40か所余発見されている。透明度の高い良質な原石を使い、大量の黒曜石製石器が製作された。主に、後期旧石器時代の後半期のものが多く、中から縄文晩期(3,000~2,300年前)の土器も出土するなど、縄文時代の採掘も確認されている。諏訪市内の旧石器時代遺跡から出土する黒曜原石の多くは、大き目で表面がすりガラス状に摩滅していたりして転石(てんせき)であった事がわかる。侵食作用や地震などで鉱脈から離れた黒曜原石は、地表や河川で転がされ洗われうちに、粗悪な不純物が自然に取り除かれ良質の石塊となる。鉱脈から一気に大量に採掘するようにはいかないが、良質な石塊を入手しやすい。旧石器時代までは、八島ヶ原周辺の黒曜石産出地一帯で、豊富で大きめな黒曜石塊が採取できたようだ。
縄文時代の大規模な黒曜石鉱脈の採掘跡が発掘されている。鉱山の本格的な採掘を必要とする大量の需要が生じたようだ。割れば鋭利な石刃ができ、周辺部も精緻で加工がしやすい良質な「信州系」黒曜原石は、刺す・突く・切るなどの諸用途に対応する石器材として広く流通した。特に弓矢が普及し、標的となる対象獣を正確に射抜く、軽く精巧な黒曜石製矢尻の需要は高まった。
ナイフ形石器の出現で日本の後期旧石器時代が始まった。昭和23(1948)年、群馬県新田郡笠懸村(現みどり市)岩宿遺跡の切り通しの道となっていた部分に露出していた赤土から、小間物などを行商する考古研究者相沢忠洋(あいざわただひろ)により石器が採取され、その後の旧石器時代遺跡の発掘の発端となった。翌昭和24年9月、その岩宿遺跡から2つの石器文化遺跡が確認された。下層は、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5千年前の後期旧石器時代初頭のものであった。
昭和24年6月、考古学に興味を持つ中学生松沢亜生(つぎお)が、諏訪湖を見下ろす手長神社から立石公園に最も北寄りに急カーブして上がる丘上で北踊場遺跡を発見した。亜生は、そこの住宅整地現場で掘り返された土壌に、黒曜石器が散乱しているのを見た。亜生は後藤森始・宮坂光昭ら考古学研究仲間たちと、工事現場から大量の石器を採集した。その石器は赤土層の上部に露出し、その層には土器の破片が全くなく、加工された石器の殆どが、両先が尖る「木の葉形」で一見して分かる槍先であった。旧石器時代にあたる日本は噴火列島で、氷河期の最寒冷期でもあるため人類の存在は予想されていなかった。亜生も日本の旧石器時代の存在を認識していなかったため、当時、北踊場遺跡は縄文時代の「石槍」の作業場跡と『南信子供新聞』に発表していた。
松沢亜生らが発掘した「木の葉形尖頭器」が、石槍で後期石器時代後半期に本州・四国に画期をなした重要な遺物と分ったのが、昭和27年、明治大学考古学研究室の杉原荘介・芹沢長介らが、北踊場遺跡の出土石器を調査し、翌昭和28年、北踊場遺跡の西南にある谷一つ隔てた諏訪湖側の小さな丘陵地が畑として耕されていた、そこで掘り返された赤土上に8点の黒曜石製の尖頭器と他の石器を採取した、その上ノ平遺跡の発見によってであった。芹沢らはその尖頭器が旧石器時代のものと確信した。
尖頭器はおおむね木の柄の先に装着して槍先とした。「木の葉形尖頭器」のように細く鋭く薄身であればあるほど、獣皮を貫き深く刺し致命傷を与える。また軽量であれば投げ槍としての命中率を高める。「木の葉形尖頭器」の製作工程は、不純物を取り除いた石塊(石核)から鹿の角などの軟質のソフトハンマーで強い打撃を加えて連続的に剥離させ細長い石刃を作る事から始まる。石器製作者は人類が長年培かって来た、黒曜石・頁岩・サムカイトなど石材ごとの物理的特性を熟知し、ハンマーによる力学的作用を予知し、職人的正確さでハンマーを駆使していた。
諏訪市のジャコッパラ第8遺跡からは、長さ15cm、幅5㎝ある明確なハンマーストーンが出土している。ハンマーで直接黒曜石原石を叩いて石核を作り、そこから更に剥片を剥がす。これを元に、軟質のソフトハンマーでさらに細かい二次加工を加えて、削片を剥がし様々な道具を作る。この最終工程では石で直接打ち欠くのは無理である。石刃自体が剥片で薄い、石で叩けば本体が割れてしまう。ハンマーと石材の間に鹿の角・骨など軟質材でできたパンチ(たがね)を介在させる間接打撃法がなされる。パンチを石材の目的とする破断個所にあて、そこをハンマーで叩けば、より正確な打撃となり、周囲にひび割れを生じさせない。ジャコッパラ第5遺跡からパンチ痕を2つとそのひび割れを残す石核が出土している。それでも失敗はあったようだ。
諏訪市の北踊場遺跡出土の木の葉形尖頭器は、「押圧剥離法」による緻密な加工が施されている。製作者は膝の上に動物の皮を敷き、石刃を置く、鹿の角や動物の長骨などをソフトハンマーとして強くプレスして削片を押し剥がす。これが「押圧剥離」技法だが、押圧剥離する前に削片が剥がれやすいように加工途中の石刃を炉で加熱する処理もなされた。
旧石器時代晩期に北海道から本州・四国・九州と伝播する細石器文化時代、黒曜石原産地から細石器も含めて大規模な石器作りが衰退した。代わりに原産地から離れた、野辺山高原・関東平野部の台地・箱根・伊豆周辺に大規模な黒曜石製石器が作られていく。諏訪市内の上ノ平遺跡からも旧石器時代晩期にあたる細石器が多数出土している。
また、諏訪湖から霧ケ峰へいたる途中の角間新田地区に、神籠石(こうごいし)という岩山があります。昭和23(1948)年に岩山の洞穴から、トラック1台分にもなる黒曜石の礫塊が出土した。一緒に、関東の諸磯C式土器(縄文前期末葉)も発掘された。ここは、星ケ塔原産地から往復1日の行程になる位置で、縄文前期(6,000~5,000年前)の関東人が、現地での集積場としてこの洞穴を利用していたようだ。
東俣川沿いの東俣原産地は、平成5(1993)年に下諏訪町の調査で発見された縄文時代の採掘跡で、今後の研究発表が待たれる。
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10)八島遺跡群
「いまも、シカの通るその道。それに、奇妙にダブるものがある。日本旧石器時代の尖頭器文化、石槍をたくさん作った人々の遺跡である。いまも残る"しかみち"それは、いったい万をこえる過去の黒曜石槍の狩人たちとっても、やはり"しかみち"だったのだろうか。」(藤森栄一『古道』より)
車山を頂点に西から南側になだらかに広がる高原台地が霧ヶ峰で、沢渡の西北からは八島ヶ原の平坦な高原が広がる。その西北にある八島ヶ原湿原に向かう遊歩道の途上で、小さな祠のある旧御射山神社に出合う。中世の旧御射山遺跡との出合いが始まる。その北側に唐松林がある。その一角に旧石器時代の八島遺跡がある。その西方には物見岩遺跡があり、八島ヶ原湿原の西方の男女倉山と物見石との谷間の湧水地に雪不知遺跡がある。
八島遺跡は八島ヶ原の南端にあたり、周辺の車山連峰の鷲ヶ峰・男女倉山・物見石からの谷川・湧水が八島湿原に集まり、その排出水が諏訪湖よりの渓谷に集り観音沢となり、蝶々深山・車山湿原・車山を原水とする沢水が沢渡を過ぎて観音沢と合流しやがて諏訪湖に集まり太平洋へ流れる。また八島湿原の八島ヶ池と鷲ヶ峰を源流とする本沢が黒曜石の産出地の男女倉川となり、旧石器時代と縄文時代へと繋ぐ黒曜石産出の最大規模を誇る和田峠周辺の谷川・湧水を集めて流れる和田川と合流し、千曲川・信濃川となり日本海に注いだ。八島ヶ原は、まさに分水界であり、そこから黒曜石器の交換流通ルートがみえてくる。
八島ヶ原湿原の周辺からは、十数ヶ所の旧石器時代の遺跡が遺存しているが、湿原植物の保護のためそれ以上の調査が頓挫している。未発見の旧石器時代の大規模な遺跡が想定されている。遺跡の全体が見出されないまま「八島遺跡群」と総称された。
昭和27年、霧ケ峰に観光道路が敷設された。その工事に際し膨大な黒曜石器が出土した。発掘調査は昭和30年8月、明治大学生であった戸沢充則(みつのり)と松沢亜生(つぎお)らが調査した。漸く18m2を採掘した。その狭い範囲で、実に5千点を超える多量の石器が出土した。その殆どが剥片だが、ナイフ型石器・石刃など完成品とそれに近い石器が260点ほどあった。戸沢充則は、その調査報告に「大小の黒曜石片がほとんど敷きつめられるほどに濃い包含状態を示していた。」と記していた。「八島遺跡群」全体で埋没される石器と剥片の数は膨大であった。
八島ヶ原湿原の西方に標高1,576m星ヶ塔がある。ここの黒曜石は良質で旧石器時代から縄文時代にかけて、大量の石材を供給し続けた。湿原の周辺には、さらに星ヶ台があり、和田峠・和田山・東餅屋・男女倉山・鷹山など大産地がひかえている。八島ヶ原に湿原が形成される前にも、豊富な湧水と谷川に恵まれ、石材確保・狩猟のためには、最適なキャンプ・サイトであった。
旧石器時代を通して、時期によって量的比率は異なるが、関東平野部の遺跡群の多くは、浅間山南山麓・箱根・伊豆・神津島などの豊富な黒曜石原産地を有しながら、八島ヶ原周辺の産地石材の構成比率が高く、良質な黒曜石材として多用されていた。
旧石器時代の考古遺物は、通常、地表を覆う黒土より、その下層にある赤土ローム層に埋没している。日本列島の火山は、数十万年から1万年前までの長い間噴火を繰り返してきた。そのたびに噴出した火山灰が厚く堆積された。赤土ローム層は1万年以上前までに堆積してきた土層で、長い時間を経て固く締まり、雨水により鉄分が酸化して赤褐色のローム層が形成された。その層から出土した遺物は、まず旧石器時代と推測された。
八島遺跡の主体となる石器は両刃の槍先形尖頭器で、ナイフ形石器も数点あり、石刃とその素材の石刃石核や他の石核も多数出土した。槍先形尖頭器はナイフ形石器の盛行期の約2万年前頃から、その改良型として登場した。長さは5cm前後、幅は1cm×2~3cm前後のスマートなものと1cm×5cm前後のズングリしたものと大きく2形態ある。ナイフ形石器は3cm~4cmと短いので投げ槍用とみられる。
戸沢充則の調査では、八島遺跡の尖頭器は殆ど「直接打撃法」で製作されているという。それはハンマーとなる敲石や獣骨などで石刃石核を直接打ちつけ剥片を欠く方法で、原初的な石器製法であった。石器の片面だけの加工か、表裏両面に仕上げがなされていても完成度が低いようだ。諏訪湖東岸遺跡群の茶臼山周辺の北踊場や上ノ平の尖頭器は、仕上げ段階で「押圧剥離法」が施され、表裏両面にも細かな加工がなされている。
ところが八島遺跡の尖頭器で最も特徴的なのが「表裏非対称の尖頭器」が大部分を占めていることにある。ナイフ形石器では、長い刃部を備えているが、その片面は平である。いずれの面も細かい加工がなされ、平といえども丁寧に仕上げ加工がなされている。装着された木製の柄が、火山灰地の典型地帯で有れば、その出土は期待できないが、投げ槍の装着方法に伴う技巧と想像される。中部地方に細石刃が普及する後期旧石器時代晩期には、骨や木の軸に沿って複数の溝を掘り、側刃として装着し銛や槍先にするため、敢えて凸面をこしらえ柄側とし狩猟獲物の厚い獣皮を破る際の衝撃強度を高める工夫がなされている。八島遺跡のナイフ形石器は、いずれも5cm前後であれば、細石刃を装着した投げ槍としては、重量があり過ぎる。槍先用石刃であった。
八島遺跡群は、名ばかりで依然として埋没したままの旧石器時代の遺跡の宝庫であるといえる。後期旧石器時代は、野尻湖遺跡群の発掘調査が進めば、5万年前を超える考古遺物が検出されるだろう。八島遺跡群では未発掘の遺物を後世に伝えるだろう。戸沢充則と松沢亜生らは、残念ながら本格的広域的な調査ができなかった。
旧石器時代晩期の細石器文化期、野辺山高原・木曽開田高原・赤城山麓・武蔵野台地・相模野台地・下総台地・愛鷹箱根山麓の各地帯では、和田峠・星ヶ台・星ヶ塔・男女倉・星糞峠などの黒曜石石材が、50%以上の割合で利用している遺跡が多い。300Km離れる新潟県樽口遺跡でも、数点が確認されている。ただ関東では、質的にやや劣る冷山などの蓼科産地群の黒曜石の利用は少ない。冷山や麦草峠周辺の黒曜石は、不純物が多く質的に劣るといわれている。箱根・伊豆天城産地群の黒曜石は、武蔵野・愛鷹山など50Km圏内で利用されているが、それも良質で採掘量が豊富な八島ヶ原周辺と神津島・恩馳島群岩の石材を補う程度であった。
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11)池のくるみ遺跡
踊場湿原は、池のくるみとも呼ばれ、標高1,540mで周囲をガボッチョ山(1,681m)、ゲーロッ原(1,684m)などに囲まれた断層によって形成され、東西約820m、南北約100mの盆地にできた湿原で、約8.2haの面積がある。湿原の東部には踊場の池(あしくらの池)があり、 これから流出する小川が桧沢川となって上川(かみかわ)と合流する。池から西部へいくにしたがって徐々に高層化が進み、低層湿原から高層湿原へ移行する過程が分かる。
池から低層湿原への移り変わりは、先ず大型のヨシで始まり、そこにイワノガリヤス(ムギクサ)・オニナルコスゲなどが繁殖し、それらが枯れて、長い年月を経て、大量に積層されていく。それが、寒冷のため腐食せず、次第に泥炭化して堆積して、低層湿原となる。そこに、トマリスゲ・ヌマガヤが生育し、更に泥炭層が蓄積される。
有機質肥料の過剰投入と同様の状態となり、そこから腐食酸が発生し酸性度が過多となり、土壌養液の濃度が植物、特に根の養分濃度よりも高くなり、逆浸透により根の養液が土壌中へ浸透拡散し、植物の体内の水分と養分が欠乏する。特に寒冷地では、この悪条件に耐えられるミズゴケ類を中心にツルコケモモ・ヒメシャクナゲなどが生育する。高等植物は体内に水分を確保するために外側に厚い保護層を発達させている。コケ類にはこのような保護層がなく、水分が直接細胞壁を通って入ってくる。水分は蒸散によって失われるため、コケ類は水分が常に補給される多湿な、又は水が豊富な湿地や沼地に分布する。その植物遺体が積み重なって分解せず、次第に厚い層を形成するようになり泥炭層が一段と積畳され、その盛り上がった湿地を高層湿原と言う。
池のくるみ中央部の「あしくらの池」には、谷地坊主(やちぼうず)が浮かび、多くの蛙が生息している。谷地坊主のこんもりとした塊(かたまり)は、スゲ類などの密生した地下茎が、厳しい冬の地面凍結によって、凍み上がり、最初は歪んだ形であったが、春の雪解け水で洗われ削られ、数百年をかけ序々に、坊主頭に整えられ植物の造形を演出する。「池のくるみ」は、この「あしくらの池」を「くるむ」ところからついた呼び名である。
金井典美とその地元の研究者は、昭和34年、「池のくるみ遺跡」を発見した。金井は霧ケ峰の沢渡で仲間と共に「ゆうすげ小屋」を運営しながら、「山岳考古学」を標榜し研究していた。同年、諏訪大社下社の中世の祭祀址・旧御射山遺跡を調査していた。その当時、戸沢光則が八島遺跡を発掘調査し、星ヶ塔では藤森栄一・中村龍雄による縄文時代の黒曜石採掘跡の調査が行われていた。金井典美は石井規孝・吉川国男らと共に独自に八島ヶ原・霧ヶ峰を調査し物見岩遺跡や「池のくるみ遺跡」などの旧石器時代の遺跡を発見した。
昭和40年とその翌年、早稲田大学考古学研究会が中心に本格的発掘調査がなされた。車山連峰の主峰・車山方面から踊場湿原に流れる通称いもり沢が池のくるみに達する南岸・サネ山の地籍の小盆地状地形の南縁の麓である。いもり沢にはハコネサンショウウオが棲息する清流である。金井らは、いもり沢に削られる崖の断面や川底から黒曜石製石器を見つけたのだが、その後の発掘調査で現在では、旧石器時代や縄文時代の遺跡群が池のくるみの周囲を取り囲んでいることが分かっている。
後期旧石器時代の気候は、7万年前から1万年前まで続くヴュルム氷河期の最中で、その最寒冷期には、年平均気温は今より7~8度以上も低く、海面が120mも低下していた。現在の日本アルプスの森林限界は標高2,500m付近といわれている。ヴュルム氷河期の最寒冷期・約2万年前の「森林限界」は標高1,000m~1,500mと想定されている。旧石器時代の池のくるみ遺跡群は、標高1,540mで、「森林限界」より上である。当然、当時も寒暖の波は長短あって定まらない。通常は小さく灌木化したナナカマドや這え松と笹が植生であったようだ。そんな時代の池のくるみ遺跡から、2,000点を超える石器が出土した。イチョウ葉形の台形様石器や多数のナイフ形石器も出土している。
殆どが黒曜石製で頁岩・水晶などもわずか含まれていた。 安山岩の礫が20個近く数点ずつまとまり発見された。そのうちの数個はタール状の付着物があった。近隣では茶臼山遺跡や上ノ平遺跡でも、こうした「礫群」が見つかっている。焚き火で採暖し調理を行った。
この地の旧石器時代人は、簡易な伏屋式平地小屋を建て種火を絶やさぬようにして暖をとり、ここで食料を得て調理し、槍の穂先となり狩猟具ナイフ形石器や肉を切る調理具となる台形様石器などの製作に励み一定期間、暮らしていたようだ。この時代本州にも北方系のヘラジカやヒグマが棲息していた。ニホンジカ・イノシシ・カモシカ・オオカミもいた。少し下れば桧沢川・前島川・横河川の渓流があり、イワナ・ヤマメなど細流を川石で堰き止め手掴みで獲れっていただろう。冷涼な高原には団栗・栗がないが、灌木や笹の新芽など食せる食物はある。土器はなくとも獣皮や樹皮で器は作れた。その器に川魚や草花を入れ、池のくるみの清水を汲み、焚き火に大き目な石を入れ、器の中にその焼石を投じれば立派なストーン・ボイリングだ。植物特有のアクも減じ魚のはらわたまでも食せた。
旧石器時代人の多くは、石工兼狩人であり、同属の新人は3万年前にはシベリアに進出し、細石器文化と漁労文化を誕生させ、1万5千年前にはシベリアの東端からアラスカに渡っている。池のくるみ遺跡は、新人がシベリアに進出した3万年前より遥か前から霧ケ峰で、八島ヶ原周辺の黒曜石原産地から石材を得、生業に欠かせない突き槍、投げ槍の穂先の製作に励んでいた。この氷河期に2,000点を超える石器が出土し、それも多くが槍の穂先であれば、狩場を往復移動する狩人にとって、「池のくりみ」が単なる石器製作地ではなく重要な狩場でもあった事の証明でもある。
出土し殆どが大きな剥片であったが、形が整った短冊形をした10cm前後の石刃が100点近く出土した。いずれも5mm以下の薄形で扁平、その厚さが4cm以下が多く、横断面は台形や三角形に近い。平面はイチョウ葉形の台形で、その平坦な縁は鑿の刃のようになっている。側縁は小さく厚く剥離する「ブランティング」や薄く削ぎ落す「平坦剥離」の2次加工で丹念に仕上げられている。台形石器は通常、突き槍・投げ槍の穂先であり、獲物の解体具であった。台形石器は石材石核から幅広で短形の横長剥片を剥離し、横位置の両端を欠いて台形にする。ナイフ形石器は石核から縦長剥片を剥離し、その縦長の縁辺を片刃ないし両刃とする。
平成15年、静岡県東部、愛鷹山麓にある富士石遺跡の発掘調査で、愛鷹山上部ローム層最下位(約3万1千年~3万2千年前)の長径10mほどの石器出土集中地点から、200点を超える台形石器が出土した。その石器の石材は主に黒曜石製で、その原産地は八島ヶ原周辺・箱根・伊豆半島・伊豆の神津島などであった。ナイフ形石器はその上層部、約3万1千年前の層から出土していた。
ナイフ形石器の最も古い粗形ともいえる粗い作りの「ナイフ状石器」が、下高井戸の塚山遺跡や佐久市の標高1千mの八風山遺跡の立川ロームX層下部、約3万2千年前の地層から出土している。旧石器時代、例外は多くあるが概ね剥片石器→台形様石器→ナイフ形石器と階梯を歩んでいる。
池のくるみ遺跡出土のナイフ形石器は、剥離したまま先端に手を加えず、柄に取り付ける基部だけに剥離加工する原初的タイプが多い。200点を超える台形石器は、「ナイフ状石器」を遡る石槍と考えられる。約3万2千年前の遺跡とみられる。
車山・八島ヶ原・霧ケ峰の遺跡群と黒曜石の関係は重要で、当初は、石材として生活必需品で、その入手のためやや暖かい時期の夏期を中心に、一時居住生活をしていたものと考えられいた。旧石器時代人の実状は、もっと多岐な生活風景があり、数万年に亘る生活者の知恵の蓄積があった。今や本格的な民俗学的研究が進行している。
富士石遺跡から出土の石製ペンダントは、長さ9.12cm・幅3.5cm・厚さ1.51cm・重さ56.7g、河原石を素材とした製品で、片方の縁が磨かれ、他の縁には連続して14本の線が刻まれている。出土した土層の年代から約1万6千年前の石製と判明した。この一品に込められた当時のロマンに圧倒される。
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12)ジャコッパラ(蛇骨原)遺跡
池のくるみの南端から立ち上がる丘「五千尺」から霧ヶ峰牧場まで、なだらかに延々と続く斜面がある。その霧ケ峰高原の南半分を占める南北に長い高原台地を「ジャコッパラ」と呼ぶ。霧ヶ峰牧場は大井競馬場の大山末治調教師が夏の馬の避暑地として利用した牧場で、サラブレッドの生産も行われていた。「ジャコッパラ」は開拓地で、牧草地や農地があり、その周囲の尾根は植林地であった。
近年、別荘地開発が許可され、旧石器・縄文時代の遺跡への影響が懸念され、初めてこの地域全体の遺跡分布調査がなされた。予想された通り、縄文時代の落とし穴遺構が発見されなど両時代の遺物が殆どで、旧石器時代の物が特に濃密に遺存しジャコッパラ遺跡群と呼ばれた。特に北寄りの池のくるみに近い方から集中的に遺跡が出土し、調査は継続中であるが両遺跡群とも年代的にも重なり、一帯として研究されている。
池のくるみ遺跡同様、約3万年前より遡る台形石器が出土し、2万年前前後以来、隆盛した木の葉形尖頭器も出土している。
「五千尺」を越えた南東にあるジャコッパラ第八遺跡は平成4年の道路工事中に発見され発掘調査が行われた。桧沢川右岸の小さな丘の末端部にある。工事で遺跡が破壊されたため全容は失われたが、出土した石器は385点あった。通常遺跡から出土する大部分は剥片である。旧石器時代の主要な槍先石器を作る過程で大量の剥片が生じるが、石器原石は貴重で、特に黒曜石であれば種々の掻器・削器・錐器など定形的石器として仕上げられたりもした。
この遺跡からは、2万年前前後のナイフ形石器が殆ど出土していない。寒冷期の草原や沼沢を広域に回遊する大型動物の絶滅により、中小型の狭いテリトリー内を周回する動物が狩猟対象となり、狩場の移動がその生息地の平原部が主となり、石材も周辺地の身近な原石を活用するようになっていた。遠隔地の黒曜石原産地まで往復移動し、狩猟具の製作をする余裕と必然性が失われていた。
ジャコッパラ第八遺跡では石刃と呼ばれる短冊形の剥片が少なく、5㎝にも満たない一見不定形で、扇形の左右非対照の石器が多く出土している。これが細石器である。組合せ式槍先で縄文時代に繋がる旧石器時代晩期の遺物である。
この遺跡からは、ハンマーとして使われた石器も出土している。安山岩製で長さ15cm、幅5㎝、厚み3㎝、原石を叩いた「つぶれ」も明確に残っている。このハンマーストーンで、黒曜石原石を叩いて不純物などを取り除き石核を作り、それから剥片を剥がし、剥片の部分をさらに叩いて2次加工をする、直接打撃法による石器製作である。更に鹿角などの軟らかい材質のパンチ(たがね)を、加工石にあて、ハンマーで叩く「間接打撃法」より製作された石器も出土している。
平成5年、踊場湿原の南側の「五千尺」の西端の窪地にジャコッパラ第12遺跡が発見された。この地にはかつて小川が流れていた。その小川を中心に石器が集中する3ヵ所の遺跡が発見された。いずれも5㎝未満の投げ槍用のナイフ形石器と細石器が多数出土している。後期旧石器時代の後期・晩期の遺物であった。
ジャコッパラ第12遺跡では、2点の「打製石斧」が出土している。1点は長さ23.3㎝、幅6.3㎝、厚さ1.3㎝の撥形、もう1点は長さ17.2㎝、幅6.9㎝、厚さ2㎝の草鞋形で、両方とも粘板岩製で、しかも横に2つに折れていた。粘板岩は片理に沿って薄く板状に剥離する性質をもつ、その自然石を巧みに利用して、2次加工は刃と柄の部分に施されているだけだ。一般に打製石斧は大きさにばらつきがあり、使用痕跡にも違いが見られ、土堀り・動物の解体・伐採と木材の加工など複数の機能があったと考えられている。石斧と名はついていても実際にどのように使っていたかは未だ定かでない。厳密には打製斧形石器というべきではないかとも言われている。
ジャコッパラ遺跡で出土した石斧は、石質が脆い粘板岩である。実際折れた状態で出土している。掘削用にも伐採用にもむいていない。しかし片理に沿って薄く板状に割れやすい性質をもつため、同様のものが複数製作できる。また狩猟用に、投擲に便利な重量と鋭さで加工できる。「打製石斧」は旧石器時代の各地の遺跡から出土しているが、ナイフ形石器などとは違い、各遺跡から数点程度しか伴出しない。
投げ槍が投槍器から投じられ、ナイフ形石器、そして細石器の穂先が鋭く軽量化すると、飛距離と命中率が増すが、通常、即死するまでには至らない。狩人達は、手負いの獲物を追い続け、弱ったところで突き槍で止めを刺す。ジャコッパラの「打製石斧」は、その穂先であったと考えられる。耐衝撃が劣る粘板岩なのに、敢えて薄く加工したのは、その刺突力を高めるためであった。
ジャコッパラ遺跡から、さらに南に下り、JR諏訪駅の北側、丸光の北側の段階状の丘陵に北踊場遺跡がある。出土した木の葉形尖頭器は、押圧剥離法で加工されたと考えられ、非常に細密な剥離の作業が施されてる。押圧剥離法の一例をあげれば、鹿皮等を膝頭に敷き、剥片をその上に置き、手に持った鹿角等の尖端を、目的の剥片の縁辺に押しあてて、少しずつ剥がしていく方法だ。高度な手工技術で裏打ちされている。旧石器時代には、既に加工技術は精緻で、職人芸といえる領域に達していた。その技術の蓄積と承継は、最重要な文化として縄文時代に伝承されていった。
それをジャコッパラ遺跡が語る。
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13)茶臼山遺跡
諏訪市上諏訪駅の東北に、上段から立石、踊場、茶臼山、手長丘と段階状に丘陵が形勢さている。その先端、現在の裁判所や丸光デパート付近は、かつて諏訪湖に接していた。諏訪市のその茶臼山と呼ばれる丘陵上に、長野県で初めて旧石器時代の遺跡が発見され、茶臼山遺跡と呼んだ。以後、他の段丘上にも、続々と旧石器時代の遺跡が発見された。
群馬県岩宿遺跡は、昭和24(1949)年に本格的発掘調査が行われ、日本列島で最初に公認された旧石器時代の遺跡となった。縄文時代を遡る旧石器文化は、それまでその存在が認められていなかった。岩宿遺跡の発見が契機となり、その後の昭和26(1951)年の東京都茂呂遺跡の発掘調査を皮切りに、全国各地で遺跡が続出した。無土器時代、先土器時代とも呼ばれた日本列島の旧石器時代の遺跡の発見は、現在1万6千ヶ所以上と言われている。
茶臼山遺跡は、岩宿遺跡発掘以後、関東地方以外で初めて確認された、いまから2万年以上前の旧石器時代の遺跡であった。
「昭和27(1952)年、諏訪湖を臨む上諏訪の高台で行われていた住宅工事の現場に立ち寄った高校生が、たくさんの黒耀石で作られた石器を見つけた。茶臼山遺跡の発見である。高校生の名前は松沢亜生(つぎお)。藤森栄一の主宰する諏訪考古学研究所のメンバーだった。」(『諏訪の旧石器展』展示図録より)。発見者の高校生は、後に笠懸野岩宿文化資料館の館長となる。
これにより、同年、その市営住宅建設の整地工事の最中、藤森栄一・戸沢充則(後の明治大学学長)・松沢亜生ら「諏訪考古学研究所」によって本格的な調査が行われた。岩宿遺跡(群馬県)の発見から3年後であった。既に造成工事中のため総てを調査できず、また茶臼山は戦国時代末期、諏訪頼忠が本城とした茶臼城の遺構があり、その3つ土壇が築かれる過程で一部が破壊されていた。それでも茶臼山の最高70cmもの厚さがある赤土(ローム層)の中から、黒曜石製の石器が発見された。当時の発見による石器の総数は695個で、ナイフ形石器が多く、その外、掻器、削器、彫器、刃器、石核、石片、磨製石斧、打製石斧、棒状石器でその殆どが黒耀石であった。この遺跡では、ローム層中に2基の炉跡が発見された。1号炉では100個以上の大小の礫群が直径2m超、深さ60㎝の穴の中で出土した。焼け土や炭の破片など焼痕も認められている。採暖と調理が行われていたようだが、住居址は検出できなかった。
ローム層は火山灰が堆積した赤土層であるから、下の古い時代から順次新たな火山灰が噴出順に堆積されるため、出土品の絶対年代を決める有力な根拠となっている。茶臼山遺跡では、その出土品から木の葉形尖頭器がないため、遺跡の年代の特定が狭まるはずが、寒冷地であるがため、年代ごとの土層に遺物が整然と並んで出土する事がなかった。土中の物体は、寒冷地の宿命で、凍み上がりによる凍結融解が繰り返され、赤土から掘りだされる黒曜石器は、小さく軽いものが上層で、大きく重いものは下層に沈み、比較的細長いものは、重い方が下層に潜る状態で発見される。
この遺跡でも他の石斧に混じって幅5cm、長さ10cm超の蛇紋岩製の局部磨製石斧が出土した。当初学会では無視された。なぜなら「磨く」技術は、ヨーロッパで言えば「新石器時代」の技術であり、それが旧石器時代の遺跡から出土するはずがないという先入観があった。しかし、現在では、旧石器時代の代表的石器の一つに「斧形石器」があげられている。しかもその大半は、刃部を研磨した磨製石器で、それは、昭和24(1949)年日本で初めて「旧石器文化」が確認された「岩宿遺跡」の第 I 文化層でも、既に2点発見されていた。それでも「磨製品」史料をめぐって、日本の先史考古学者たちは、先入観にとらわれて混乱した論争を展開していた。
その後、全国各地の旧石器時代遺跡から磨製石器の出土が続々と公表された。昭和43(1968)年~昭和45(1970)年頃、東京・武蔵野台地を中心に、旧石器時代遺跡の大規模発掘調査が行われた。昭和48(1973)年、石神井川流域の氷川台の栗原遺跡で、刃部を研磨した立派な磨製の斧形石器が出土した。同じ頃、千葉・三里塚55地点遺跡でも、栗原遺跡と同じ年代の関東ローム層から磨製石斧が出土した。この確かな年代的裏付けをもって発見された「磨製石斧」の登場で、旧石器時代の磨製石器の存在は疑う余地がなくなった。
更に分析され、驚くことに、その「磨製石斧」は、姶良(あいら)火山の降灰層(約2万8千~2万9千年前)以前の、約4万年~3万年前の立川ローム層に集中して発見されていた。その後、全国の遺跡から出土している同種磨製石斧も、姶良火山灰層前後の地層や、約4万年~3万年前のローム層に埋没していた。
茶臼山遺跡からも10点余りだがナイフ形石器が出土している。初期の時代と思われる9cm前後の大形のナイフ形石器は作りが荒い、突き槍として用いたようだ。5㎝前後のものは、木の葉形尖頭器といっても良いぐらい精巧なものもある。投槍器までは出土していないが、投げ槍用と見られる。定型的石器としては、獣皮をなめすために、先端に半円形の刃を備える掻器や彫器・錐器も出土している。しかし定型的石器は出土した石器の総数695個の5%に過ぎず、石核が100点近く含まれていた。95%の大部分は剥片であった。剥片の中には左右の縁が平行な短冊形の石刃もみられる。石刃の多くは「石刃技法」で、石刃石核から剥離されたナイフ形石器の仕掛品である。
出土品から木の葉形尖頭器がない事から、約2万年~3万年前に石工兼狩人達の集落グループが、八島ヶ原周辺の黒曜石原産地から比較的暖かな諏訪湖を見晴らす当地に、その石材を運び込み、ナイフ形石器やその前行程の石刃を作り狩場に戻る、往復移動の痕跡が、茶臼山に大量の剥片を遺存させた。
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14)上ノ平遺跡(うえのたいらいせき;諏訪市上ノ平)
「茶臼山の発掘が終了して、私の家で、杉原(荘介)さんの記者会見のようなものがあった。その直後、諏訪考古学研究所の保管標本を検討していた芹沢長介さんが『石槍もくさいですな』と妙な事を言い出した。それは標本の中に、松沢亜生・藤森始・宮坂光昭などが採集してきた、300本に近い石槍についてであった。そこは、茶臼山の一段上の丘陵、北踊場の一か所で、昭和24年6月に、市営住宅工事で掘り出されたものであった。」(藤森栄一『旧石器の狩人』より)
昭和27(1952)年における明治大学の考古学研究室の芹沢長介らの茶臼山の発掘調査が、関東地方以外での旧石器時代の遺跡発掘の最初の事例となった。出土品も695個と当時としては極めて大量であった。その調査終了後、藤森栄一宅にある諏訪考古学研究所の保管の石器類を調べていた芹沢が、北踊場遺跡から松沢亜生らが採取した多数の尖頭器に着目した。上ノ平遺跡は、茶臼山遺跡から、北に300メートルほどの位置にある。昭和24年6月、考古学に興味を持つ中学生松沢亜生が採取し、縄文時代の石槍と見なしていた。当時としては当然であったが、芹沢はそれらの尖頭器を旧石器時代の出土品としての可能性があるとした。
藤森・杉原荘介・芹沢・戸沢光則らは、早速北踊場遺跡を訪れたが、市営住宅建設は完了していた。新たな調査は不可能となった。その帰路4人は北踊場遺跡から谷を一つ越えた諏訪湖側の小さな丘陵地上に「行ってみると、赤い土の露出部は、何か野菜の貯蔵所が埋まった跡らしい。その赤土の中に、明らかに赤土にまみれ、5、6本の石槍が散乱していた。日本の考古学が、石槍は旧石器に属することを確認した最初の瞬間である」(藤森栄一『考古学とともに』より)
藤森先生の見解とは異なり、昭和21(1946)年、小間物などを行商する考古研究者相沢忠洋は、群馬県新田郡笠懸村(現みどり市)岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、細石器に酷似した黒曜石製石片を発見した。ただ旧石器時代とは断定できないまま、独自に岩宿で確実とみられる旧石器時代遺物の発掘調査を続けていった。漸く昭和23(1948)年、岩宿遺跡の切り通しの道となっていた部分に露出していた赤土層から、5㎝の黒曜石製の槍先形石器が採取された。この石器を相沢から見せられた当時の明治大学院生芹沢長介は、同大学助教授杉原荘介に連絡した。それが旧石器時代遺跡の発掘の発端となった。翌昭和24年9月11日、杉原荘介が指導する明治大学考古学研究室員が、相沢忠洋の発見した石器が真実、赤土層から出土した遺物か確認するための試掘を行った。その後本調査が2度実施された。切り通しの断面調査が幸いして、石器群その他の遺物が複数の文化層から出土した。表土近くの黒色土層下部に縄文早期の稲荷(いなり)台式土器片などの遺物が出土し、ローム層面を約50㎝発掘した黄褐色ローム層中から瑪瑙(めのう)、黒曜石製の切出片石台式土器などの小形石器群が出土した。ローム層上面から約1mの下位にその下約40cmの厚さの暗褐色の有機質を含むローム層があり、この層中から頁岩(けつがん)製の大形石刃、握槌(にぎりつち)状敲打器(こうだき)などが出土した。しかも旧石器時代、既に磨製石器が存在していた事も証明された。
杉原荘介は、既に戦後間もなく、登呂遺跡の発掘を牽引し、岩宿遺跡の調査により日本の旧石器時代の存在を最初に実証した。
昭和14(1939)年、縄文時代早期の東京都板橋区稲荷台遺跡で赤土層に入った土器が発掘された。それが日本最古の稲荷台式土器であり、日本人類最古の手作り品と断定されていた。赤土とよばれる関東ローム層は、黒土の下に厚く堆積している。それは関東平野の西方および北方の富士山、箱根山、八ヶ岳、浅間山、榛名山、赤城山、男体山などの噴火による火山砕屑(さいせつ)物が風化し土壌化したものである。岩宿遺跡が発掘されるまでは、旧石器時代に日本列島では人類が住める環境ではないとみられ、赤土の発掘など狂気の沙汰と思われていた。
それ以前にも明治41(1908)年、イギリスの医師で、考古学者・人類学者でもあるニール・ゴードン・マンローが既に神奈川県早川で旧石器時代の石器を、大正6(1917)年、京都帝国大学教授、東北帝国大学国史学研究室の講師を歴任した喜田貞吉(きたさだきち)が大阪府国府(こう)の石器を、昭和6(1931)年、明石原人の発見者・直良信夫(なおらのぶお)が兵庫県明石の石器を、それぞれが発掘していた。しかし、いずれも礫層から発見され、しかも人工的な石器と断定できなかった。それ以外でも各地で採取されていたが無視され、杉原荘介のように発掘調査まで行われる状況ではなかった。
岩宿遺跡発見に刺激され昭和26(1951)年、中学生滝沢浩が東京都板橋区小茂根5丁目の石神井川のほとりでナイフ形の黒曜石製石器を見つけた。この茂呂遺跡での発見で、武蔵野郷土館の吉田格と明治大学考古学研究室の杉原荘介・芹沢長介などが共同で発掘調査しナイフ形石器・礫器・剥片などを出土させた。そして昭和28(1953)年の諏訪市上ノ平遺跡の発掘と繋がった。
上ノ平に立ち寄る帰路の途中、たまたま赤土が露出していたところから石槍など8点の尖頭器と局部磨製石斧を見つけた事が契機となり、翌昭和28年、明治大学によって発掘調査が行われ、石槍73点をはじめ掻器・錐器など合計4,500点以上の石器が、土器の破片1つない層から発見された。
当初の発掘調査では、ローム層やその上の褐色土層から多くの石器が出土した。この遺跡で最大の量を占めるのが黒曜石製の小さな尖頭器であった。中形や大形の尖頭器になると、黒曜石以外の石材も多く使われていた。杉原荘介は「尖頭器石器文化」と呼び、旧石器時代の終わり頃、1万3千年~1万2千年前と予測し、上ノ平遺跡出土品で最も多い小さな尖頭器を「上ノ平型尖頭器」と名付けた。将来、発掘される遺跡で同型の尖頭器が続々と出土すると予想し期待していた。だが「上ノ平型尖頭器」と断定される尖頭器は、未だ出土していない。隣の北踊場遺跡で類品が含まれているだけである。むしろ北踊場遺跡の「柳葉形尖頭器」と同形のものがみられ、全体的に「上ノ平型尖頭器」の方が小型で、左右非対称が多い。石槍の最も太い部分の片側が幾分張り出している。杉原は、炯眼にも、これは槍先として用いるのではなく、槍の両側に差し込む側刃器と見抜いた。
旧石器時代末期から縄文時代初頭に、基部を逆三角形や半円形にする長さが通常2cm前後、幅1cm以下の細石器文化が登場する。木の葉形尖頭器と比べ、上下どちらが先端か基部かがはっきりする。上ノ平遺跡の上下非対称の尖頭器は、そのはしりといえようか。
石槍は遺跡ごとに形や種類の組み合わせが微妙に違っている。「尖頭器の個性」が明らかになっている。ナウマンゾウ・オオツノシカ・ヤギュウなどの絶滅後、地域における主な狩猟対象獣が異なる状況に対応した結果とみられる。
石槍は岩宿遺跡でも、相沢忠洋によって発見さたが、明治大学による調査の際には出土せず、岩宿遺跡の「尖頭器文化」の確証が得られなかった。しかし、上ノ平遺跡の発見によって、旧石器時代に尖頭器文化が存在することが、初めて確認された。
定型的石器としては、尖頭器以外に掻器、削器、錐石、局部磨製石斧が出土した。掻器は長さ4㎝位で、3~4㎝の幅広の剥片の先端に分厚く斜行する半円形の刃を作り出している。Scraperとして獲物の皮と肉を剥がし皮の腐敗を防ぎ、また硬化を防ぐため皮をなめしたりする石器とみられる。削器は石器の長い方の辺に刃を作り出し、獣皮を切り、木器や骨器を削るのに使ったと考えられている。木槍の速成には随分と有効であったろう。錐石は錐のように尖った先端を作り出した石器をいう。獣皮や樹皮などに穴を開けるための器具といわれる。上ノ平遺跡の場合、旧石器時代の通常の石器は5㎝を超えつことはないが、形態が種々あって単なる錐具とは断定できない。
上ノ平遺跡では、長さ17cmを超え、幅も7cm超の緑色片岩(りょくしょくへんがん)を原石とする局部磨製石斧が出土している。緑色片岩も一定方向に節理を有し薄く剥がれ易く、緑色が美しく水をかけると一段と彩が鮮明になる。それが、藤森・芹沢・戸沢充則が昭和27年、上ノ平に露出した8点の尖頭器と共に偶然見つけた局部磨製石斧であった。そのため旧石器時代のどの年代かは不明である。また当時、日本の後期旧石器時代が数万年前にまで遡ると誰が予測し得たであろうか。
昭和28(1953)年、明治大学の杉原荘介は、日本の旧石器時代の編年をする際、「岩宿文化」「茂呂文化(板橋区小茂根五丁目)」「上ノ平文化」と並称した。当時、この遺跡が旧石器時代研究に占める重要さと期待度の高さが知られる。
翌昭和29年 、諏訪考古研究室が部分的な発掘を行った。その際4cmにも達しないナイフ形石器が出土した。現在でも、当時のナイフ形石器の出土状態が不明で年代を予測できないままにある。日本の旧石器時代が、縄文時代の期間を遥かに超え、5万年前に接近するとまでは予想されていなかった頃であった。それでナイフ形石器の出土状態が十分に検証されなかった。以後も同形の石器が出土せず、尖頭器も槍先形が殆どで、上ノ平は旧石器時代晩期の遺跡とみられた。その後も、本格的調査がなされぬまま上ノ平遺跡は小さな丘陵に営まれていた遺跡と思われていた。
平成5年、諏訪市教育委員会のよる発掘調査で、上ノ平遺跡は、その東部にあたる北踊場遺跡との谷間の領域にも達していたことが明らかになった。この谷は上ノ平遺跡の丘陵に沿うように南から西の諏訪湖に向かって広く展開し、眺望がいい湯の脇の2代藩主諏訪忠恒以来の高島藩主廟所がある温泉寺に達する。そのため、この谷は「温泉寺の谷」と呼ばれている。
上ノ平遺跡の中心は、この丘陵の東側の谷底と思われるほど、辺りから石器類が多数出土した。谷底から上ノ平遺跡に達する西側の崖が急斜面となっている。東側に長い斜面が伸びていて、約200m先の北踊場遺跡の丘陵地に上る。それが北西向きの緩い日だまりの斜面となっているが、調査結果、その緩斜面は約数万年に及ぶ東側の丘陵地から流れ下った土砂の堆積の結果で、旧石器時代にはより深い谷が形成され、その底部が上ノ平遺跡の丘陵に接していた事が知られた。その深部に近い所で、濃密に石器が出土した。旧石器時代にも繰り返された崩落により、最上部の2つの文化層は上ノ平遺跡同様の、黒曜石製の小さな5㎝未満のヤナギ葉形尖頭器が多く、その形に共通性があり規格的製作が行われていたようだ。それ以外に、5㎝を超える中形のケヤキ葉形に近いものもいくつか出土している。旧石器時代晩期の槍先形尖頭器製作所の遺跡に共通する仕掛途中の仕損品も多数出土している。ここでも木の葉形尖頭器の完品の製作の難しさを物語っている。また丘陵上の上ノ平遺跡よりも、槍先形尖頭器を盛んに制作していたようだ。
それよりも下部の文化層から茶臼山遺跡でも出土している石刃と中形のナイフ形石器が発掘された。特に丘陵の南端では多数の石刃と石刃を剥離した痕跡を遺す石刃石核が出土している。主に槍先としてのナイフ形石器製作は、不純物を取り除いた石塊(石核)から鹿の角などの軟質のソフトハンマーで強い打撃を加えて連続的に剥離させ細長い石刃を作る事から始まる。石刃は、ナイフ形石器文化から始まる後期旧石器時代、4万年前に限りなく近づく文化層からは必ず伴出して当然の?片石器であった。
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15)北踊場遺跡(諏訪市上諏訪)
北踊場遺跡は、手長神社から水道部を抜けて立石公園に上る道がカーブする丘陵状にある。茶臼山遺跡は桜ケ丘配水池を越えた南にあり、上ノ平遺跡は谷を挟んで南西に位置する。この土地名の踊場は、諏訪地区でも何箇所もあり、坂の途中の平らな高台と言う意味で、全国にも限りなく、この地名がある。
茶臼山遺跡の発見から遡る昭和24(1949)年、当時中学生だった松沢亜生は、住宅地建設現場の掘り返された土の中にたくさんの黒曜石製石器が散乱しているのに気付いた。それを契機して藤森始・宮坂光昭ら考古学仲間を誘い、造成作業の合間に大量の石器を採集した。
その発見に先立って、藤森栄一は、隣接する南踊場遺跡で縄文時代の遺跡を調査していた。そのため藤森は、北踊場遺跡の石器も縄文時代の石器と見誤った。
その後、上ノ平遺跡の発掘調査により、北踊場遺跡の石器も旧石器時代の遺跡であったことが明らかになった。もしこのとき藤森が、この石器を「旧石器かもしれない」と思って調査をしていれば、旧石器時代の発見者は相沢忠洋ではなく、中学生の松沢亜生になっていた。岩宿遺跡の発掘によって旧石器時代の存在が証明されたのは、その北踊場遺跡発見の3ヶ月後のことであった。民間考古学者相沢忠洋の調査結果に応じ、直ちに当時の明治大学助教授杉原荘介とその研究室員生芹沢長介らが炯眼にも本格的調査を行った。それが初めて考古学界も公認せざるを得ない成果を生み、以後、旧石器時代のおびただしい遺跡の発掘に繋がった。
松沢らが北踊場で発掘した石器は、黒土の表土より下のローム層の上部にあった。その多くは「木の葉形尖頭器」であった。それも多種多様で、比較的小さく細長いものは両端が鋭尖で、長さ40~60mm、厚さは殆どが8mmにも満たず、幅も12mm前後で左右に刃状の縁辺を持つ。殆どが破損し完形を留めたものが少ない。次にやや30mmと幅広で、長さは70~80mm、厚さは殆どが30mm位あるが、ほぼ同形で、破損品が極めて多い。
「木の葉形尖頭器」に至るまでの発展過程とも思われる、数は少ないがポプラ葉形の尖頭器が出土している。意外に不定形で説明するのが難しいが、平均的すると長さ60mm、厚さは不揃いで21mmのものもある、幅も38mmに近いものもある。ここまで不揃いだと破損品も少ない。次第に狩猟環境が厳しくなる前の槍先は、自給品でまかなっていたようだ。
非常に大形で長さが157mm近く、厚さ18mmと長さの割に薄い、幅も57mmと鋭い、出土品の殆どが折れている特殊な「木の葉形尖頭器」が伴出している。北踊場遺跡の尖頭器は黒曜石製が主であるが、この大形の「木の葉形尖頭器」は頁岩など、多くが他の地域の石で作られている。しかも発見された殆どが折れていた。投げ槍の刺突に逃げ惑う獲物の止め用であれば、本数はいらない。薄く鋭ければ、刺突力は勝るが脆い。
松沢亜生は、この遺跡から出土した千点を上回る剥片を分析した結果、仕掛品と破損品が余りにも多い事に着目し、それが槍先尖頭器の製作過程、「剥離」作業の経過を想定させた。
精緻な「木の葉形尖頭器」の登場は、旧石器時代における貴重な狩猟専用具の開発といえる。その作業工程でハンマーによる剥離が繰り返される、まさに「意図の化石」の典型だが歩留まりが悪かったようだ。掻器・削器・石刃として併用される代物ではなかった。
赤城山南麓の鏑木川右岸の台地全面に広がる>群馬県桐生市新里町武井の武井遺跡の1万8千年前地層から、大量の槍先形尖頭器も含む20万点もの石器や石屑が出土した。特徴的なのが渡良瀬川水系産石英質のチャートや中央高地産の黒曜石・利根川水系産の黒色頁岩と同系の黒色安山岩・東北地方産の硬質頁岩など石器石材の原産地が複数で、しかも広範囲に及んでいる事にあった。旧石器時代後期後半の槍先形尖頭器の登場は、石器製作専門の石工集団を誕生させる画期となり、彼等は中央高地の黒曜石原産地の各地を再開発し鉱山採掘も成し遂げていた。鷹山のように原産地で、或いは近場の池のくるみとジャコッパラや、より夏季気候が温暖な諏訪湖の湖畔の高台北踊場などで、大規模に良質な槍先石器を作り、静岡や関東地方の平野部の狩人集団へ運び込んでいたようだ。
北踊場遺跡では、折れた尖頭器が余りにも多く、その仕損品と比較して完成品の遺存が少ない。それは槍先の多くが関東地方を主に各地の狩猟集落に流通していった証であり、やがて製作技術の伝播となっていった。
松沢は後に、北踊場遺跡の300点に上る「尖頭器」を検討して、「長野県諏訪・北踊場石器群-特に石器製作工程の分析を中心として-」(『第四紀研究』1-7 1960年)を発表して、石器製作研究の方面に大きな示唆を与える。
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16)手長丘遺跡(諏訪市上諏訪)
上諏訪駅の東南にあたる長野地方裁判所の裏手の丘に手長神社がある。その南隣りに上諏訪中学校がある。通称「手長丘」と呼ばれる。昭和31(1956)年8月、台風で倒れた校庭の西側のポプラを、生徒たちと片付けていた林茂樹教諭が、その根元の抉られた土底に古墳時代の素焼土師器が一部露出しているのに気付いた。根を掘り返しながら更に調査すると多数の土師器が出土する古墳時代の遺跡と分った。しかもその下層の赤土の中から黒曜石製石器が出土した。林茂樹教諭は勇んで藤森栄一に会い「土師器群の下層のローム層の中から出てきたんです。旧石器でしょうか」と尋ねた。林と生徒達は、藤森の指導と諏訪市教育委員会の協力を得て調査をした結果、丘陵の西端、諏訪湖よりの崖付近から1,000点にも達する石器を発掘した。手長丘遺跡と名付けられた。諏訪湖東岸遺跡群の最下段にあたる。手長神社と上諏訪中学校の間には、現在でも湧水箇所がある。
出土した石器の多くは、黒曜石製であったが、頁岩やチャートなどの石材も、諏訪湖東岸遺跡群中、出土点数が最も多い。注目されるのが、ナイフ形石器が30点以上あり、その殆どが5㎝未満の小型である事と、2cmにも満たない細石器も少なからず出土している事である。いずれも先端が極めて鋭尖で、細部にも拘った丁寧な仕上加工である。特徴的なのが、2次加工のない石刃も、それを剥離した石刃石核も5㎝以下で小さい事であった。
オオツノシカ・ナウマンゾウが絶滅した約2万年前、鋭敏な中小動物を狩猟の対象にせざるを得なくなり、投槍器の威力をかりて、鋭尖で速く勢いのある投げ槍の開発が迫られていた。それに適応したのが小形で細いナイフ形石器であった。やがてぶれの少ない照準を定め易い左右対照の角錐石器や木の葉形尖頭器を誕生させた。
投げ槍の柄は、主に鹿の骨や木が素材となる。鉄製工具の無い時代、その細部にわたる加工が困難で、通常挿入する石製槍先の柄元の加工を重視し、その精度を極めていった。
細石器は大陸から渡来した。長野県では細石器文化の遺跡が多い。ところが八ヶ岳西南麓にはその遺跡が少ない。白樺湖の「御座岩遺跡」が同時代に属する。手長丘遺跡の石刃石核と、その石刃から判断すると、東北日本に分布した船底形細石刃核から楔型の石刃を剥離し、その2次加工で細石器を作る技法のようだ。バイカル湖周辺で3万年前に生まれ、東方にに広がり中国・シベリア各地で独自に発展工夫され、日本列島には1万4千年前以降に伝播した。手長丘遺跡の石刃の中には5㎝位のものもあり、削器として使っていたかもしれない。
旧石器時代の生業は、狩猟である。それを前提に出土した石器を分析すべきである。旧石器時代人は、何十万年のスパンがある。後期新旧石器時代でも、数万年の期間に及ぶ。
興味深いのが5㎝以下の石核が上下両辺から剥離されているのが複数出土している。それを「両設打面(りょうせつだめん)」の石核と呼ばれている。石刃石核から石刃を剥離し、槍先の穂先として2次加工した。この遺跡では上下両端が折られたものが多い。約2万年前以降、薄い精緻なナイフ形石器の需要が高まり、それに応えるべく石工を主な生業とする一団が登場し、最も難しい刃先と柄元の加工に失敗し破棄された仕損品ようだ。
この遺跡の調査により、上ノ平遺跡、茶臼山遺跡、手長丘遺跡と隣接しているにもかかわらず、それぞれ独立した丘で異なる時期の旧石器時代遺跡が残されている。
これらの遺跡は現在では「諏訪湖東岸遺跡群」と総称されている。
手長丘遺跡からは3㎝以下の角錐状石器が出土している。小形であるため投げ槍用であろう。ナイフ形石器は日本列島で発達した石器で、日本では後期旧石器時代後半以降の両刃の槍先形尖頭器と区別し、その片刃の利器をナイフ形石器と称した。それに前後して2万3千年前頃からより強度な角錐状石器が登場する。朝鮮半島、全羅北道任実郡(イムシル=グン)でも出土している。強靭な獣皮を貫く槍先が誕生した。従来型のナイフ形石器は、次第に小型化し主に投げ槍用とされた。それが更に小型化され組み合わせ式替え刃の槍の側刃器・細石器が登場すると衰退消滅した。
旧石器時代晩期の細石器文化期、野辺山高原・木曽開田高原・赤城山麓・武蔵野台地・相模野台地・下総台地・愛鷹箱根山麓の各地帯では、和田峠・星ヶ台・星ヶ塔・男女倉・星糞峠などの黒曜石石材が、50%以上の割合で利用している遺跡が多い。和田峠から八島ヶ原周辺は本州最大の黒曜石原産地である。旧石器時代人はその原石を求めて数万年の長きに亘って往復移動を繰り返し、和田峠遺跡群・男女倉山遺跡群・八島遺跡群・池のくるみ遺跡群・ジャコッパラ遺跡群に、その足跡を留めている。しかも旧石器時代の文化の変遷を余すところなく網羅し伝えている。
「諏訪湖東岸遺跡群」は、特に八島ヶ原周辺の原産地との関わり合いが濃厚である。八島ヶ原から諏訪湖に下りルートは限られている。なだらかな丘陵を越え強清水か池のくるみで西進し角間川の上流に出て、広い谷筋に沿って下っていく。その角間川が諏訪湖に流入する地点の右岸に「諏訪湖東岸遺跡群」がある。霧ケ峰高原の南側の末端部の丘陵で、諏訪湖全域をほぼ見下ろし、南アルプスの山岳と富士山が眺められる南西に開け、氷河期最後の寒冷期の西日は、なによりも有難かったであろう。しかも八島ヶ原から直線で5kmであるが、谷筋を通れば15kmで、現代人でも一日で充分往復できる。厳しい寒冷地に留まるよりも、丘陵地にあり安全で、霧ケ峰からの豊富な湧水があって、諏訪湖周辺は動植物の繁殖地で食料源に事欠かない。
平成11(1999)年6月、国学院大学考古学研究室の谷口康浩を団長とする発掘調査団が「大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき)の考古学的調査」を刊行した。本州の北端、津軽半島北東部にある外ヶ浜町の遺跡から出土した5点の土器片に付着した炭化物の年代をC14・AMS法で測定し、暦年較正年代で換算した結果、現在までに発掘された最も古い土器片が16,520年前とされた。
福井県の三方湖の花粉ダイヤグラムによれば、1万2千年前にはツガが消え、既に退いていたブナ・コナラ・オニグルミが再び三方湖の周囲を巡り、ブナの花粉が20~30%という高い比率を占めていた。ブナの実はオニグルミに次いで脂肪分が豊富で渋みがない、生のままで食べることもできる。コナラの実は、まさに団栗だ。既に日本列島は狩猟から植物採集へ生業を転換する準備を整えていた。
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17)雪不知遺跡(ゆきしらずいせき)
雪不知遺跡は、八島湿原の北東、標高1,650mに位置する日本で最高位にある旧石器時代遺跡で、男女倉山(おめぐらやま)と物見石(ものみいわ)に挟まれた沢沿いにある。八島湿原を一望する小高い台地の低位にあり、雪不知という地籍名がある。
昭和38(1963)年に発掘された。規模は小さく、ナイフ形石器、掻器(そうき)などが出土した。特に多数出土したナイフ形石器は、長さが5cm前後以下で、諏訪圏内では最高レベルの加工技術に達している。
この遺跡では長さ5㎝もない彫器が複数出土している。溝を彫る彫器は道具をつくるための道具、即ち加工具といわれている。彫器は、その先端部に「樋状剥離(ひじょうはくり)」と呼ばれ精緻で細長い加工を施した彫刻刀の刃を備えている。雪不知遺跡出土の彫器には、激しくこすった摩耗痕が認められている。
雪不知は名水地である。
「雪不知」の地籍名、その地域は雪深いのになぜ「雪不知」なのか。その場所は、地理的に八島ヶ原湿原の西、車山寄りの「物見石」と男女倉山の狭間にあり、八島ヶ原湿原の最深部にあたる。すると冬季に迷い込めば雪深く出てこられない場所として畏れられていたことから、反語的に「雪不知」と呼ばれたのか?
この場所は江戸時代以前より上桑原村の入会地(いりあいち)であり、他の地域の住民はみだりに入ることが許されず、また入会地として絶好の土地であったため、その土地の存在を隠すため「雪不知」と言われたのか。湧水が豊富だが、岩地であり、良質な萱が採集できるとたとは思われない。
唐代の詩人賈島(かとう)の一節、「雲深不知処(くもふかくしてところをしらず )」に由来するのか。「雪が深く所在が知られず」の意が字名に隠されていたのか。「雪深不知処;雪が深く安易に入ると抜け出せなくなるよ!」警告!
入会地とは、元肥としての刈敷や厩肥(うまやごえ)などの自給肥料、屋根葺き材や生活燃料として、更に厩萱(まやかや;馬の飼料にする萱などの青草)など採取し農業用牧畜生産や中馬荷物運送業を経営する目的で、特定地域住民が共用する場所として定められた土地であった。「雪不知」も入会地であったことから上桑原村の住民からすると、やたらに利権外の人が入ると恐ろしい目にあう場所として、牽制する意図があったのか。現実、入会権を侵し進入し、発見されるとその証拠として、鎌・鉈・鞍などを取り上げられる。更には鉄砲を撃ち掛ける事もあった。さすがに、元禄時代、郡中法度で「境論水論の義、武道具を持つ者は曲事(くせごと)」とされ、以後、鎌や鉈などを振るう実力行使はなくなった。但し、利権侵入者の証拠として、鎌・鉈・鞍の奪取は依然行われていた。
「雪不知」の東隣りにあたる「物見石」の頂上の巨石に、「塩原地区」と、まるで落書きのように書きなぐられている。観光地としてその見識を疑う。江戸時代以降、諏訪を領する高島藩は、その初代藩主諏訪頼水公から水田開発を盛んに行い、その結果、その水田を支える山野資源の絶対量が不足となり、藩内の入会権の争論にとどまらず、高遠藩や小諸藩との境界争いにまでしばしば拡大し、江戸幕府の裁決までも仰いでいる。時には、他藩との争論に、藩内の農民が高島藩主から激励されたとの記録も残っている。
明治19年(1886)6月、桑原村の別沢組が、「山の口明け」の前日に、抜け駆け的に刈り始めた。村中どころか永明村四賀村連合戸長役場から吏員が出張して中止させるという大事態に拡大した。農民は各部落ごとに「山の口明け」を取り決め、その時を待ち、競って「刈敷」を採集し急いで田へ入れていた。寒冷地であれば、緑肥の生育は遅い。しかし田植えを急がなければ、冷害による「青立ち稲」の頻度が増す。 毎年逼迫した状況下の過酷な作業であった。
「雪不知」という、場違いな字名が意味するのはなにか。千葉県市川市八幡の「八幡不知森(やわたのもりしらず)」など各地に散在する事例を今後とも民俗学的に研究する必要が在り、その結果、多くの事が見えてくると思う。
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18)黒曜石を運び出すルート
シカ・イノシシ・カモシカ・タヌキ・キツネなどの動物は、通う道が定まっている。一度通れば、ブッシュの妨げが無いため多くの動物類が共用する。やがて、草原や山林の藪地が踏みしかれ「獣道」が大地に刻まれる。旧石器時代の人々は、目的によってそれぞれの「獣道」を追って狩をした。
ナウマンゾウやオオツノシカなどの大型哺乳類も、闇雲に原野を行き来するのではなく、それなりにコースを決めて移動する。当然、移動しやすい場所と経路を選ぶはずだ。
車山や霧ヶ峰のシカ道は、殿城山・カシガリ山などではブッシュの中を直線的に、何本も縦横に走っている。道筋には、大量の糞があり、特に眺望のよい場所や山ブドウの実がたくさん実る樹叢地には異常なほど高く積っている。
人類も学習済みで、獣道をたどって狩猟し、その狩りの道として活用した。マンモス・ナウマンゾウ・オオツノシカ・ナツメジカ・ヘラジカ・ハナイズミモリウシ・ワカトクナガゾウなどの哺乳類が、日本列島で絶滅した大きな要因がここにある。特に氷河期が落ち着き、日本海ができ大陸と途絶され、渡来しなくなったためでもある。ヒグマも当時は本土に生息していた。
人類も獣の一種であれば、それを利用し続ければ「踏み分け道」となる。古道の多くは、このようにして始まった。「踏み分け道」は、尾根や沢・川筋を通り、やがて日常生活圏以外の周辺集落の主道と連結し合い、広域に及びネットワークとなる。旧石器時代の人々は、当初は狩猟をしながら、その狩猟石器に適する良好な原石を求め石器を作りながら、獲物を追い、移動を繰り返すハンターであった。「踏み分け道」はやがて公道のように日本列島に縦横に展開し、良質石材と石器の流通ルートとなった。
「信州系」黒曜石をブランドとする中央高地原産地群は本州最大の産出地で、大きく2つのグループがある。和田峠から八島湿原周辺に至るまでの原産地群と、北八ヶ岳連峰の冷山(つめたやま)から双子池にかけて原産地群とがある。諏訪市内の旧石器時代遺跡は、前者と近接し、星ヶ塔の黒曜石に代表されるように、不純物が少なく硬質で透明度が高い良質な主力石器材として活用していた。
ジャコッパラ第8遺跡から6cmの拳大にも満たない黒曜石製石核が出土している。その表面は転石の特徴であるスリガラス状の表面が残っていた。これは一事例に過ぎないが、諏訪市内の遺跡群から出土する旧石器時代黒曜石製石器の多くに見られる特徴である。当時、良質の黒曜石材は、鉱脈に近い高原や川底で、その需要をまかなえるほど豊富な転石としてあった。それも縄文時代になり、温暖化が進み人口が増えると、生活用材として木材以外では、石鏃や重要な道具材として重用された。その大量の需要を賄うため、各地で黒曜石鉱脈の探索と開発がなされた。
黒曜石は通常、黒色透明な天然なガラス質で、割れば鋭利な刃先となり石器製作としては、加工しやすい最適な製材であった。それでも石器はただ単に割り、偶発的に生じた石刃から石器は製作されたのではない。もともと黒曜石材は貴重で、製作者による「意図の化石」と呼ばれるほど物理的分析を前提にした緻密な石器製作工程を経ていた。
旧石器時代人が、和田峠から星糞峠を含む八島ケ原周辺の黒曜石原産地から黒曜石を運び出すルートは、「遺跡群」としてその痕跡を留めている。諏訪圏内では主に2つ、1つは八島ケ原湿原からか角間川の谷筋を下り、北踊場遺跡・上ノ平遺跡・茶臼山遺跡等の諏訪湖東岸遺跡群に至るルートであり、もう一つが霧ヶ峰南麓の池のくるみ遺跡群からその南下の丘陵地・ジャコッパラ遺跡群方面に下り、前島川・桧沢川(ひのきざわかわ)・横河川沿いを進み米沢に至るルートである。前者からは諏訪湖から天竜川流れる伊那谷に通じ浜松に至る。後者は八ヶ岳の西山麓に至る道で、桧沢川・横河川を辿り、南大塩峠を経て八ヶ岳山麓の現在の米沢方面に向か道がある。尚、池のくるみやジャコッパラ遺跡群は2万年前を更に遡る遺跡が多い。ナイフ形石器文化初期を代表するナイフ形石器や局部磨製石斧が出土している。更に約3万8千年~2万8千年前頃迄遡る遺跡群と推定されている。諏訪湖東岸の茶臼山遺跡・北踊場遺跡・上ノ平遺跡・手長丘遺跡など丘陵遺跡群は2万年前以降の遺跡が多い。角間川の谷筋を下るルートは、ジャコッパラ遺跡群方面ルートより後の時代と考えられている。八島ヶ原湿原周辺の信州中部の黒曜石の最大の消費地は、北関東の平野部の諸遺跡群である。今後の発掘調査と、黒曜石石材の成分分析が進めば、4万年前を更に遡る関係が解明されていくであろう。
最近の研究では、原産地に近い諏訪盆地や松本盆地の縄文中期(5,000~4,000年前)の遺跡には、黒曜石が集落内に貯蔵されている場所があることが分かってきた(1984年で22遺跡がある=長崎元廣氏調べ)。
また和田峠産の黒曜石は、松本~大町を経て姫川沿いを下り、糸魚川に達している。富山県では、和田峠産黒曜石の縄文時代遺跡からの出土は一般的である。立山町の吉峰遺跡では、縄文時代早期(10,000~6,000年前)から前期(6,000~5,000年前)の住居の配置が円を画く環状集落で 中央部に広場がある。出土した黒曜石の分析結果、八島ヶ原湿原周辺が産地と判明した。また、縄文中期(5,000~4,000年前)の集落跡の天神山遺跡(魚津市)や縄文時代中期から晩期(3,000~2,300年前)の集落・浦山寺蔵遺跡(黒部市宇奈月町)などでも黒曜石で作った石鏃などが発掘されている。
旧石器時代の殆どの人々は、河川流域の大洪水を避け、また海岸線が定まらな海辺の扇状地も危険であり、海から離れる内陸部の台地上に集住した。
富山県大沢野町の野沢遺跡は神通川(じんづうがわ)右岸の舟倉段丘上北西端に営まれた旧石器時代・縄文時代・平安時代にかけての遺跡である。A地点では40m×15mの範囲からナイフ形石器や彫器も含む674点の旧石器時代の石器が出土した。彫器は彫刻刀形石器とも呼ばれ、先端の刃先を樋状に剥離する。骨・角・木に溝を彫る石器道具といわれている。投槍器製作用道具でもあった。
19)旧石器時代の住居
旧石器時代の野沢遺跡の集落全体が調査され、3か所の石器や剥片が集中する地点があり、そのそばに3軒の住居があったとみられている。石器の分布、礫群、焼土から3つの生活空間・いわば所帯が想定された。石器はそれぞれ直径4mほどの範囲に分布し、そこに石器製作場があったようだ。また、南砺市(なんとし)福光の立美(たてみ)遺跡でも4か所の石器製作場が発掘され、火の使用も確認されている。いずれも旧石器時代後期の約1万5千年前の遺跡である。野沢遺跡や立美遺跡は1~2人程度の男性を中心とした小家族集団が10数人の狩猟仲間を結成し、自前の石器作りを行っていた場所とみられている。
当時の住居は、深い竪穴や大木の柱を備える事は稀で、地上に数本の簡易な柱をたて上端を結んで支柱とし、萱・小枝・毛皮などで屋根を葺いた円錐形住居を基本とした伏屋(ふせや)式平地住居であった。 風雨から身体・火種・道具などを守れば足りる構造であり、移動を前提としていた。
20)八島湿原周辺の黒曜石遺跡群と車山を最高峰とする鷲ヶ峰から連なる車山連峰が分水嶺となる関係
地図を見ると分かり易い、男女倉山も含む鷲ヶ峰から連なる車山連峰と八島ヶ原湿原を含む分水界から、北東に流れ下る和田川・男女川・大門川などの川が千曲川・信濃川の原水となり日本海に通じ、それが黒曜石の運搬ルートなり山内丸山遺跡にまで達している。古代、川の流域と狩人がたどる獣道こそが複合的に繋がる交通要路であった。
分水界から南西に下る東俣川・砥川・角間川・音無川などが諏訪湖に集まり、ただ一本・天竜川として太平洋に達する。塩尻峠・小野峠を越えれば、木曽と伊那谷に通じる。
この八島ヶ原周辺で採れる黒曜石の品質が優れ、天然の物流ルートに恵まれ、それらが八島ヶ原周辺の黒曜石が広く日本に伝播した理由でもあった。
長野県には、全国に誇れる遺跡群が各所にある。その代表例が野尻湖遺跡群である。その遺跡群は野尻湖の西岸を中心に、旧石器時代から縄文時代草創期(1万3千年から1万年前)の遺跡が約40ヶ所も集中する日本を代表する遺跡群である。
その発見は、昭和28(1953)年、芹沢長介、麻生優両氏による野尻湖・杉久保遺跡の調査で始まった。その後は野尻湖遺跡調査団を中心に、野尻湖周辺の発掘が進められ今日に至る。この杉久保遺跡でも、見事な研磨痕が認められる磨製石斧が発見された。
芹沢 長介(せりざわ ちょうすけ 1919年0月21日 - 2006年3月16日)は静岡県静岡市出身の考古学者で、東北大学名誉教授となった。日本の旧石器時代、縄文時代研究の第一人者で、日本各地の旧石器時代遺跡を調査している。重要なのは、岩宿遺跡発掘の最大の功労者相沢忠洋の終生の友であり、当初からの理解者であり協力者であった。父は人間国宝で染色家の芹沢銈介である。
明治大学助教授の杉原荘介と対立し、明治大学大学院を中途退学し、昭和38(1963)年東北大学へ移籍した。その契機は、文部省で行われた岩宿遺跡の新聞記者発表にあった。その発表原稿を杉原荘介助教授より渡された、その研究員である芹沢長介は、相沢忠洋の名前がまったく載っていないことに気づいた。驚いて杉原に原稿の訂正を申し入れられた。その結果、発表時に「地元のアマチュア考古学者が、収集した石器から杉原助教授が旧石器を発見した。」という表現に変えられた。だが相沢忠洋の名前は依然としてなかった。芹沢は「相沢忠洋は単なる情報提供者などではなく、日本旧石器文化研究のパイオニアである。」と言い続けた。それで、相沢忠洋が岩宿遺跡の発見者であることが、広く知れわたることとなった。
野尻湖遺跡群の「野尻湖Ⅰ期」を代表する上水内郡信濃町古間富濃日向林に所在する「日向林B遺跡(ひなたばやしびいいせき)」の約3万年前より遡る文化層を中心に、星糞峠産の黒曜石が大量に出土している。次が和田エリア小深沢群、蓼科の冷山・和田エリア土屋橋北群・星ヶ台が続く。興味深いのは、出土した黒曜石製石器に、遠隔地産の原石を加工したものが見られる事であった。野尻湖遺跡群などから出土した遠隔地産の黒曜石製石器は、ただ単発的に持ち込まれたのではなく、後期旧石器時代(約3.5万~1.2万年前)を通して和田峠産のみならず、青森・秋田産や神津島産の黒曜石が、長期間に亘り持ち込まれていた事実であった。
旧石器時代に黒曜石が遠くへ運ばれている例は、富山県南砺市の山間部にある約1万4千~1万5千年前の立美遺跡(たてみいせき)でも知られる。昭和49(1974)年に行われた調査で、1,525点の石器が発掘された。長さ7.5cmの槍先形尖頭器や長さ5.5cmの剣先のように鋭いナイフ形石器をはじめ、錐器、掻器、削器、彫器、剥片などが出土した。このうち、1,300点が「黒曜石」であった。立教大学の鈴木正男教授による理化学的分析では、100kmも離れた和田峠産であるとされた。8~10cmの拳大の礫塊で運ばれたようだ。また青森県深浦産の黒曜石製石器も出土している。奈良県の二上山では和田峠産とおもわれる石器が出土している。
旧石器時代人たちは狩猟をしながら、一定地域内を周回移動して生業を営んでいた。しかし、青森―野尻湖、神津島―野尻湖の距離はそれまで想定されていた旧石器時代人たちの往復移動の範囲を遥かに越えた距離であった。既に流通の主体となる物流が整えられ良質な黒曜石がもっと近くで採れるにもかかわらず50kmも離れた場所や、伊豆半島下田から海上遥か54km、直線距離にして290km離れた神津島から黒曜石が持ち込まれていた。青森・秋田・神津島の黒曜石よりも長野県産の黒曜石が質や産出量が劣るとは考えられない。野尻湖と、これら遠隔地の黒曜石原産地との交流が、なぜ必要だったのか。
黒曜石の交換を明らかにする史料が関東地方各地の遺跡で発掘され、その黒曜石の原産地が判明している。多くの遺跡で黒曜石が大量に使用されていることから、理化学的分析が最も行われている地域である。使用されている黒曜石は、大きく信州(長野県)系、箱根(神奈川県、静岡県)系と神津島(東京都)系の原石などが、複数利用されている。平成9(1997)年、その分析結果では、神津島系の黒曜石が、約3万5千年前頃と東京の旧石器遺跡(武蔵台X層文化)の石器原石と確認された。旧石器人が、海上航海を行っていたことが分かった。黒曜石の流通には商流と物流がある。関東地方の数万年に亘る遺跡から大量の石器原石に、僅かに混じる他産地の数点の石器がしばしば交じる。近辺の直接採取に止まらず、物々交換が広域的に行われていた証である。逆に黒曜石の供給地に近い諏訪地方の遺跡からも、池のくるみ遺跡からは頁岩が、茶臼山遺跡からチャートが、原村の向尾根遺跡から安山岩製石器がそれぞれ出土している。旧石器時代、既に石材の交換を大々的に行う商流があり、それを実現する物流網があったといえる。
昭和28(1953)年12月、厳寒の八ケ岳・野辺山高原の矢出川遺跡(南牧村)で、カミソリの刃のような形の小さな石器が、地元研究者の由井茂也氏らよって発見された。細石器(さいせっき)と呼ばれる1万年以上前の石器であり、槍先の刃として使われたものであった。細石器の発見は日本では初めてで、考古学上、重要な成果となった。
今では北海道から九州まで1,800ヶ所もの遺跡で細石器が見つかり、この時代を含めた後期旧石器時代(約36,000万~10,000万年前)晩期の遺跡は全国で5,000カ所を超すに至っている。
野辺山の矢出川遺跡から出土した黒曜石細石刃石核を蛍光X線による産地分析をした結果、はるか太平洋上に浮かぶ伊豆七島のひとつ神津島と恩馳島群岩産の黒曜石であることが判明した。この地域では、地理的に主に八ヶ岳や和田峠の近場の黒曜石を利用していることは当然しながらも、なぜ、200kmもの距離をおいて、野辺山の地まで神津島の黒曜石が運ばれたのか。氷河期の最寒冷期でも、120m以上の海面低下があったが神津島と本土は陸続きにはならず、舟でなくては渡れない。旧石器人は、我々の想像以上に、発達した広域的な社会的流通網を展開していたようだ。
縄文時代になると、箱根系、信州系、神津島系の3者の黒曜石出土割合を比較すると、早期(10,000~6,000年前)と前期(6,000~5,000年前)では、43:49:8%という比率であり、中期(5,000~4,000年前)になると、42:42:16%となる。
神津島産の黒曜石は、沿海州の各地にも運ばれている。日本海沿岸では隠岐の黒曜石も広く運ばれている。黒潮や対馬海流を渡る現代の想像を超えた航海術の発達があったとみられる。
神津島とならんでもうひとつ、黒曜石の謎が浮かんできた。それは黒曜石分析の結果、和田峠でも麦草峠でも神津島でもなく、日本中どこの黒曜石産地とも成分が、一致しない謎の原産地の黒曜石がたくさん見付かった。この黒曜石は京都大学原子炉実験所の藁科哲男先生によって"NK産地"と仮に名付けられ、その場所をつきとめるための調査が八ヶ岳旧石器研究グループによりなされている。
沼津高専の望月明彦先生の分析によるとNK産の黒曜石は最近静岡県沼津市の遺跡からも数点みつかっているという。ただ、その分布量からすると、野辺山周辺にかたよる傾向が顕著で、八ヶ岳周辺に人知れず存在した産地の可能性が濃厚となっている。
北陸沿岸地域に広く利用された黒曜石は、日本海西部地域での唯一の産地・隠岐であることも重要である。出雲世界の領域であり、海神族(わたつみぞく)との関わり合いで、移動生活が基本の旧石器時代人が、その必要とする食料や資材を、まずは自分の手で確保しょうとするのが自然である。しかし、「交換」という高度な社会的広がりと、その当事者となる双方に独立した集団の存在を前提にしなければ理解できない、その出土例が多い。例えば、池のくるみ遺跡では、頁岩、茶臼山遺跡は、チャート、原村の向尾根遺跡では、安山岩と、それら非黒曜石で作られた大型で整った石刃が出土している。上記3遺跡では、他の出土石器のほとんどが地元の黒曜石材である。複数の遺跡で、地元の石材を使わない石器が、それぞれ単品で出土したことは、この時代、既に物品交換のルートが、かなり遠隔的に発達していたと考えられる。
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