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有賀峠から見る東筋と諏訪湖東岸の見出6ヵ村 |
功徳寺と滝の湯川 |
湯川村と大門道、後方は蓼科山 |
信濃には 八十の郡山(むらやま) ありといへど 女(め)の神山の 蓼科われは 伊藤 左千夫
蓼科山は、女ノ神山と詠まれた。この女ノ神山の水をたたえることから、女神湖と名付けられた。赤沼平と呼ばれた湿原をせき止めてできた周囲2kmの人造湖である。
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1)湯川村と神領の関係
天正6(1578)年3月、
富岡と
芹ヶ沢で山境論があって、武田氏から裁許が下された。そこで両角監物が「富岡の内の水上」に、手作りの3斗5升蒔きの畑があり、同じく富岡の汐添えに2斗2升蒔きの畑があると主張している。孫右衛門は同じ汐添えに3斗5升蒔きの畑があるという。その「富岡の内のとびおか」の二郎左衛門と
湯川の与五左衛門、与七郎、四郎左衛門、三郎右衛門、善三郎、清左衛門らが6升蒔きから6斗蒔きの畑があるという。現在も
飛岡の字がある。当時の富岡は水上と飛岡を合わせた広い地域で、滝の湯川と渋川の間の丘陵で、湯川は滝の湯川の右岸沿いであったようで、両方合わせて湯川郷といった。
そして現在の北山小学校周辺が「
いもり沢(居守沢)」で、その東方が「
かみょう坂(神尾坂)」、その東が「
栗平」で、その辺りでは当時、富岡、湯川、芹ヶ沢衆の起こした畑が入り組んでいたようだ。そして上記の地名は、中世から存在していた。また湯川村には問屋があり、諏訪大社の神領でもあった。
天正10(1582)年、
織田信長が
武田勝頼を滅ぼし、
河尻鎮吉に甲斐4郡と諏訪郡を与えた時、諏訪氏が懸命に増殖し維持してきた諏訪郡外の所領と得分の殆どを失った。本能寺の変後、再興し自立した
諏訪頼忠の支配地は、現在の諏訪郡内に限られた。頼忠は武士領主として生きるため、天正15(1587)年11月、子の頼広に諏訪上社大祝諏訪家を継承させた。
天正18(1590)年、豊臣大名・
日根野高吉が領主になると、
上社大祝に300石、下
社に200石を宛がっている。諏訪大社の自立が認められた。
慶長6(1601)年、
諏訪高島藩の初代藩主となった頼水は、翌7年、諏訪上社の神長官ら神官と社人に宛行状(あてがいじょう)を出している。翌8年には下社にも、同様に知行地を宛行っている。現在、当時の宛行状が散逸して、全貌を知りえないが、下社については寛永3(1626)年の「御神領高物成ノ割帳」で詳細が分かる。
小坂209.5石、橋原38.8石、下ノ原村5.0、石窪村54.4石、武居村27.0石、上之神戸村110.7石、先達村51.3石等の計500.0石であった。
やがて諏訪大社領を朱印地にする動きが起きる。正保4(1647)年4月、「神之原村、山田新田高物成ノ割帳」に、正保3年まで藩領で家臣の知行地・給所であった多くが、翌年神社領となった事が記されて、社領の配置替えがあった事が分かる。同年11月13日、2代藩主
諏訪忠恒が、幕府に上下社の社領高を記し「諏方之儀は大社之儀御座候間、此度御朱印頂戴仕度之旨、両宮之寺社被申而」と願い出ている。18日には、上社5官宛に書状を出し、大祝、5官祝の代表、寺方代表の出府を促している。藩と上下社の願いは入れられ、慶安元(1648)年7月17日、
徳川家光から上諏訪大明神領1千石、下諏訪大明神領5百石の寄進状が出された。同年10月8日、藩は社領に代えるため、安間甚五左衛門に湯川村と神之原村にある給所を塩沢村と矢ヶ崎村に替え、暮れより所務するよう命じ、12月28日、その物成高を記した証文が渡された。
上諏訪大明神領1千石の内訳は、神宮寺村447.4石、高部村142.6石、田沢村97.0石、神之原村281.0石、湯川村32.0石であった。
下諏訪大明神領5百石の内訳は、下之原村5.0石、窪武居村81.4石、神之原村199.0石、湯川村214.6石であった。
芹ヶ沢村は文政2(1819)年3月、御櫓脇家老千野家の知行所となり、石高は183石であった。御櫓脇千野家の知行所は他に、南真志野、後山、椚平(くぬぎたいら)、小坂で合計1,200石であった。
上社を例とすれば、諏訪頼水から大祝に250石、神長官38石、宮大工6石、小別当5石、験子4人で8石、末社の太夫8人で8石、斎燈役1石が宛がわれている史料が残る。神官、神人に知行地を宛行い、給人としての格式は維持されているが、諏訪大社の神領自体が、表領としての高島藩領から独立したものではなく、「諏訪安芸守領分之内、諏訪両社大明神社領」であり、「諏訪伊勢守領分之内、上諏訪大明神、諏方大祝」であった。慶安元年に分知され朱印状まで宛がわれているが、神領の村々にたいする政治的支配権は、高島藩が行使していた。神領自体、中世からの支配地を失っていたから、伝統的な権威を伴ってはいなかった。
上社の大祝や5官に対する扱いも、高島藩では家臣並の礼遇であった。宗門改めには、神官、社人、社僧等が高島藩の宗門奉行に宗門一札と寺請手形を差し出している。神領村々の宗門改めも藩の役人が行っている。検地の権限は神領にあったが、その仕法は高島藩と同様とされた。神官、社人、村役人等は藩領なみの抜高が認められた。
宝永元(1704)年、山田新田の神領の百姓が藩に困窮を訴えた時、郡奉行は神社側を呼び出し、藩は水役の出入半人と新筒(しんづつ;高島藩の在地足軽、穀留番所の番役にもなった) にも抜高を容赦したから、神社側も何らかの容赦をするよう要請している。これに応えて、神社側は、宝永元年から8年間、毎年米1石3斗5合7勺4才を容赦する。
高島藩の課役については、神領独自の課役があるため
御馬飼番と
上薪(あげまき)は免れているが、
追鳥(おいとり)は賦課された。上薪は上納する薪で、役儀高100石に付き23駄の割合で、夫役として扱われた。代金納になっている村も多かった。神官の知行の一部となったが、御馬飼番は神領でも課せられなかった。
追鳥は、大勢の勢子(せこ)で雉を追い回し、疲れて地上に降りたところを、網や素手で雉を傷めないように捕える狩である。その雉は将軍への献上や、藩の贈答用に使われた。12月初め、各筋の代官所から追鳥人足の人別を差し出すよう廻状が出ると、村々は「
追鳥一札」という15歳以上60歳以下の村人を書き出した書面を提出した。
道普請や川除人足における百石に付き3人の負担は課せられた。ただ助郷にはなっていない。大通行の時のみ伝馬役に当たった。林改めは神社独自に行った。林野の入会に関しては、神領も区別されていない。寛政6(1794)年、神之原村に下草出入りがあった時、神社側が裁許しようとすると、郡奉行は越権として咎めている。
御頭祭や
御柱祭では、神領が特別負担する事なく、諏訪郡中が共に奉仕した。御柱祭の監視には、藩士が出動している。貢租と課役に多少の区別があるだけで、郡民相互には、神領に特殊な感慨を持つ事は、最早なかったようだ。
しかし、神領の村民には
御造営の夫役がある。高一石につき12匁を負担し、通年では臨時人足300人と掃除と薪人足で100人、計400人を負担した。御柱年になると臨時人足700人と掃除と薪人足で100人、計800人となり、村々の
草高(実質上の収穫総高)割と
役儀高割に半分ずつかけて割り振りしたが、不足が生じると神宮寺村が補った。しかし湯川村への割当がなかった。村高も少ない上、下社との分け郷となっていた事も考慮されたのであろうか?
神領の人足割当の実態は、万延2(1861)年12月の「諏訪上社人馬割切帳」によれば、年間940人が神領独自の賦役につき、神事祭礼の御供、御駕籠人足として324人、土蔵等普請133人、薪切等96人、用水堀57人が携わっていた。記録はないが、大祝個人の要請による人足もあったと思われる。ここでも湯川村への割当がなかった。
高島藩では、神長官以下の神官等と神宮寺等の寺方に知行地を与えていた。それを
小地頭(こじとう)と呼んでいた。寛延3(1750)年高部村で検地が行われた。その際、小地頭と高部村の間で紛争が生じた。小地頭が大豆、麻、綿、夫役(ぶやく)等の課役を、新たに要求してきた。高部村は、今までその前例がなく、
本途物成(ほんとものなり;本年貢)の減免は、大祝から受けていた事と百姓困窮の節には大祝から御情けを受けていた、小地頭からは村方不景気の折も御情けを受けていないと、拒否をする願書を差し出した。これに対して、小地頭は、「大祝同様、不作引き、荒所引きを負担する以上は、百姓は当然小役を負担すべき」と高島藩へ裁許を仰いでいる。これで神社領の百姓と小地頭の紛争も藩が始末していることが分かる。しかも小地頭たる神官が、村人の安寧を思い遣るスタンスとは、ほど遠い存在であった事も知られる。
寛文8(1668)年9月の3代藩主の諏訪忠晴給人心得書きによると、給所の百姓に夫役を課することを禁じている。恐らくは、高部村の小地頭の主張は認められなかったとみる。
しかし安永4(1775)年閏12月の「神之原村検地割帳」によると、寺方へ麻、綿、薪、よし、杭(くい)、細木等を納めている。文化5年4月の「神之原村麻、綿等上納一札」によれば、麻、綿、御伝馬木(上納薪)、御節木(せちぎ;新年の燃料として、暮れのうちに用意した薪)等を大祝に納めている。これは、村方と小地頭相互の伝統的な信頼関係が、我が寺、我が神社として自発的な貢納に繋がったとみる。
2)大門峠の歴史的位置
諏訪地方から郡外へ通じる北の峠道、
大門峠がある。標高は1,443mで、佐久や小県両郡への通路として、古代から知られていた。寧ろ遺跡の集積から考えれば、氷河期の旧石器時代から、黒曜石の物流ルートがあったと見たほうが正しい。
古代、茅野市域のかつての
北山村、
湯川から
柏原を経て、
池の平を望む大門峠を越え、小県郡
大門、
丸子へ下れば、
上田の国府に通じた。この峠から東に分かれる道を、
古東山道または
役(えん)の行者越えといった。現在の長門牧場の脇、
雨境峠を下れば北佐久郡春日村や立科町
芦田古町に通じていた。
中世、中先代の乱の際、滋野一党とともに鎌倉を攻めるに当たって、建武2(1335)年7月、
諏訪頼重ら諏訪一族が、この峠道を通った。観応2(1351)年の「市川文書」に、湯川宿で諏訪直頼の軍と市河経助らの軍と参会している。当時、既に軍が参会できる集落があったとみられる。
戦国時代、同名の大祝諏訪頼重が天文9(1540)年7月、大門峠を越えて、小県郡
長窪城を占拠している。同10年5月、小県郡海野平へ、同年7月、佐久郡芦田へ出陣、いずれもこの峠越えであった。
湯川村の浄土宗功徳寺は、天文15(1546)年、栄海上人の草創で初めは湯川山法忍寺と号した。
武田信玄が山号を金胎山と改めたと言う。甲州から更埴から北信を攻略する際、この寺を宿とした。武田信玄が長野より善光寺の本尊を甲府に移した時、この寺に一夜安置している。以降、堂内に善光寺如来の模倣仏を祭っている。天正元(1573)年の焼失以後も、幾度かの火災により昔の如来が焼失している。永禄4(1561)年9月、武田信玄が川中島合戦に出陣するに際して、この寺に宿泊し戦勝を祈念する。その時、本堂の裏面に天照皇大神宮を奉安し鎮守したという。なお、陣鐘一個をも奉納した。この由緒によって今に至るまで、鎮護国家の祈願を修している。また、この寺の本尊は武田信玄の念持仏「
木造薬師如来像」だと言い伝えられている。尚、山号金胎山が金台山に変わったのは、江戸中期の安永年間(1772から)以降と言われている。
『武田勝頼伝馬定書』には、天正9(1581)年、大門郷に対し、伝馬2匹の時は、和田村と1匹ずつ、10匹であれば5匹ずつと伝馬同数を定めている。和田峠に比肩する峠道であったことが知られる。
3)湯川村の問屋
湯川村には問屋があった。文政2(1819)年、中馬が大門街道を付け通すことに、湯川村が異議を申し立てた。ここでも問屋と中馬の利害が対立していた。文政4年8月、道中取締青山政五郎と北条源八郎から問屋の継ぎ方等にお尋ねがあり、
湯川村と有賀村が差し出した口上書が残っている。有賀村にも問屋があり伊那郡から有賀峠を越えた荷物を継ぎ立て、湯川村から大門村へ、その先に上田があり、松代に通じた。
湯川村の口上書では
一)私ども村方問屋が何年前から継ぎ場になったかのお尋ねには、年久しいことなので分からない。
一)人馬を継ぐので村高の内15石を領主より諸役儀免許され、問屋役料15石を領主より支給されている。
一)商人荷物継ぎ送りは1年に500駄ほどあり、その口銭は7貫ほどあった。1駄に付き14文ずつ受け取っていた。「御武家様」の継ぎ送りは「
邂逅の御儀」である。(邂逅の御儀」とは、恐らくは公儀公用であれば無償ということか)
一)当村より継場賃銭は以下の通りであった。
上諏訪宿へ4里、本馬1匹160文、軽尻1匹108文・人足1人78文。
有賀村へ5里、本馬1匹248文、軽尻1匹164文・人足1人124文。
金沢宿へ4里、本馬1匹160文、軽尻1匹108文・人足1人78文。
大門村へ5里8丁、本馬1匹288文、軽尻1匹190文・人足144文。
として、湯川村年寄竹右衛門、名主品右衛門、問屋孫左衛門(幼年のため後見九左衛門)が署名している。
本馬(ほんま)は40貫(ab.150kg)または36貫(ab.135kg)を積む馬、
軽尻は荷なし馬に通行人が乗るもので、5貫(ab.19k)までの手荷物が認められた。人を乗せない時は本馬の半分20貫(ab.75k)までとした。
有賀村の口上書も、同趣旨で街道宿場と同様、問屋があり、人馬の継ぎ立てを行っていた。『郡方日記』は、湯川村高札場普請の記録が有り、『手元絵図』にも高札場が見られる。問屋の門口に、人馬の継ぎ立て賃銭を書いた高札があった事が分かる。
文政5(1822)年8月、今度は湯川村役人と問屋が
道中奉行に呼ばれた。金沢宿及び上諏訪宿から下諏訪宿へ継ぎ立てる商荷物は扱ってはならないが、伊那郡平出村、松島村より有賀村を通り、湯川村から大門村へ継ぎ立てるのは、往古以来の慣行であるから従来通りとされた。
文政7年、和田宿から道中奉行へ、商荷物が金沢宿から湯川村問屋へ継ぎ立てている、一方飯田からは有賀峠を越えて有賀村の問屋から湯川村の同問屋へ継ぎ立てて、大門峠を越えて長窪に運ばれるため、和田宿の荷物が減って難儀しているので、差し止めを願い出ている。湯川村と有賀村は、扱い人を立て和田宿へ、幾度も掛け合ったが和議に至らず、同年11月、両村は郡奉行所へ口上書を差し出した。湯川村側の署名には、問屋、村名主、村年寄と、神領でもあったので神領名主と年寄も署名をしている。
翌8年、和田宿から『間道附越出入(かんどうつけごしでいり)、相手方有賀村、湯川村、大門村、長窪村』と長文の訴状が差し出された。「飯田辺りから出る荷は、元々平出村、岡谷村を通し、下諏訪宿、和田宿で継ぎ立て長窪村へ送った。近年、有賀村が継ぎ立て、金沢宿と上諏訪宿の間を抜け、北大塩峠を越えて、湯川村で継ぎ立て、大門村から長窪村へ運んでいる。和田宿の馬役は往来稼ぎができず難儀している。なにとぞ有賀村、湯川村に問屋継ぎ立てをしないよう仰せ下されたい」と訴えている。
双方は幾度も江戸へ呼び出され、
道中奉行石川主水正の尋問を受けた。漸く8年6月に示談となり、訴訟方相手方連名で
済口証文(さいくちしょうもん;和解の内容を記し、双方が連印した文書)を道中奉行へ差し出した。結局、有賀村、湯川村は敗訴したも同然で、古来よりの慣行で文政5年にも確認済であったはずの、有賀村⇔湯川村⇔大門村の商荷物の継ぎ送りが禁止された。
4)商荷物の継ぎ送りが禁止後の大門道
文政10(1828)年、中山道沿いの下諏訪宿から上州高崎までの17宿から、道中奉行へ、
湯川村、
柏原村、
大門村、岩村田、香坂の道筋を、
甲州九一色村郷の荷物が通らないようにと、裁許を願い出ている。関係の宿と甲州九一色村郷の
西湖村、
精進村、
本栖村等14ヵ村と道筋の村々が呼び出された。
湯川村の問屋孫左衛文は、当村は往古より諸荷物の継ぎ立てをしてきたが、文政5年以降、宿継ぎ荷物は通行せず、中馬荷物が通っている。その中に九一色村郷の荷があるかは分からないという。柏原村も往来道であるから、荷物はよく見るが、九一色村郷の荷が含まれているかは、分からないと答えている。
茅野村も間の宿であるから、呼ばれてはいるが、湯川村同様の返答をしている。ただ、茅野村、柏原村、湯川村の3ヵ村は当事者ではなく、証人の立場であった。
九一色村郷の商人は、
諸商売御免の朱印状と鑑札を得ていた。この解決は長引き、関係の宿場や村が、幾度も江戸へ呼ばれ、漸く同12年8月、裁許が下された。九一色村郷の商人は、鑑札持参であっても、諸国商いの道筋は勝手という免許ではない。ことに山浦通り大門道は、商荷物の継ぎ送りが禁止されている道筋であるから、今後は鑑札1枚につき馬子1人、馬2匹で柏原村までの商いで、残余の荷物があっても大門峠を越えてはならない。と・・・・
天保7(1836)年、「往還筋書上」が道中奉行へ提出された。そこには、岡谷村、蔦木村、金沢宿、上諏訪宿、下諏訪宿の各年寄、名主、問屋が署名している他、湯川村と有賀村も同様に署名している。その上、湯川村と有賀村の相互間の人馬賃銭が定まり、湯川村から大門村への賃銭も決まっている。その一方では、文政8年の済口証文により、間道筋荷物継ぎ立てはしないとしている。要するに、商荷物以外の荷物の継ぎ立てはしていたことになる。
明治3(1870)年、湯川村篠原九兵衛、柳沢孫左衛門ら24名が連署して、甲州巨摩郡小林鶴吉、都留郡嶋田幸造へ宛て、貴殿方の発願として、朝廷と高島藩の指図で、「
禁裏諸品買入出張所と荷物継立会所」を湯川村に置いてもらえれば、謝礼金200両差し上げるという一札を出した。甲州側からの働き掛けは成功した。甲州からの
商荷物に、菊の紋章を記した絵符、小旗、提灯を付けて寄越すことにより、長年の懸案だった商荷物の取り扱いが可能となり、再び大門峠を越える事となった。
5)大門峠
柏原村から池の平(白樺湖)へ上がって、さらに北方への道は、大門道と佐久道の2筋に分かれていた。以前には「右ハ作道、左大門道」という道標が立っていた。ここは交通の要衝であったから、信玄の時代、両角右近、北沢与市が
茶屋を建てていた。現在も史跡として
古屋敷の名が残っている。恐らくは、問屋的な機能も果たしていたとみられる。
大門道は大門峠を越えて小県郡大門村を通り、北国街道に合して上田、松代、善光寺、古間、野尻から越後へ向う。佐久道は、現在のように樽ヶ沢へ回らず、三本松の鞍部(あんぶ)を越えて、本沢へ下り割橋(われはし)を渡って箕輪平から
役之行者越えと雨境峠と2筋に分かれる。前者は
望月宿に出、中山道に合した。後者の雨境峠は、北佐久郡立科町八ヶ野(はつかの)の地籍で、現在有名な長門牧場とは東に隣接している。佐久郡芦田村を過ぎ中山道に出る道筋であった。
諏訪郡山浦地区でも、慢性的な草場不足で、佐久郡や小県郡から草等を買い入れている。その通りは、大門峠ばかりではない。南平から八子ヶ峰を越す「
たてしな山道」がある。南平から八子ヶ峰に上る道が、余りにも急で、通常の1駄6把は無理で、4把を乗せた。それで「
4把坂」と呼ばれた。
また大門村の大笹や駒場に通じる山道もあった。現在の白樺湖手前の西側に広がるなだらかな斜面から、旧車山料金所からの山越えで、車山乗越(のっこし)を過ぎ山彦尾根を越える行程はなだらかであり、大門道への近道となる。古代より獣道が里人の道であり、里人の道が獣道となっている事実は重要である。かつて道は、現代人が想像できないほど、山野を縦横に巡らされ、生業のため人々が、懸命に駆け巡っていた事実を認識し得なければ、真実の歴史的光景は見えてこない。
享保年間から他領へ通ずる要路には7ヵ所の
穀物番所(口留番所)を置いて、穀物の流出の取締りを行った。7ヵ所の穀留口は、
大門峠が湯川村又は柏原村、
和田峠が餅屋村、
塩尻峠が四ツ屋村(今井村)、伊那
小野峠口が三沢村、
有賀峠が有賀村、
杖突峠が神宮寺村又は高部村、
甲州口が蔦木村にあった。特別な建物は設けず、従来からの道路脇の施設を詰め所として監視に当たった。要するに、凶作年に藩から米穀が郡外へ流出する事を恐れた措置であった。寛永元(1748)年10月の「口留番所定書」によると、口留番所の数も増え、一層厳しい番人の定めとなり、音物の受け取りを一切禁じている。
番所には藩からの出役1人と役人2人が詰め、近在の村々から新筒2人が交代で勤めた。もし他領へ米穀を出す場合、穀改印鑑という証明書が必要で、これは名主や年寄の村役人が、口留番所の新筒や肝煎等の役人に申請しなければならない。その証明書があっても、領主や役人の裏書切手がなければ番所を通過できなかった、厳格な対応といえる。
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