霧ヶ峰強清水 車山山頂へ向う霧ヶ峰高原 蛙原の霧鐘塔 強清水の霧ヶ峰スキー場

  御射山や 人と真分けの 花すすき
  風さそふ  のみや芒の  刈残し     岩波 其残(きざん)

近世近代の霧ヶ峰   Top

 目次
 1)総説
 2)昭和初期の霧ヶ峰
 3)霧ヶ峰スキー場

1)総説
 霧ヶ峰は主峰車山火山(1925m)を中心にして噴出した『アスピーテ(楯状)型火山』で、東西10km、南北16kmの広がりを持ち、その溶岩台地に火山灰が堆積し、現在では殆どが草原で、標高1500m~1900mにかけて、緩やかな起伏が連続する霧ヶ峰連峰が連なる。南面する蛙原から踊場湿原にかけては、広々した草原が展開している。その四方の遠景となる山岳風景の素晴らしい眺望とその草原の雄大な景観は、わが国でも屈指のものと言われている。
 なお、諏訪地域の山野を表現するとき、度々使われるの『アスピーテ型火山』とは、噴火のときねばり気の少ない溶岩が流れ出すため、傾斜がゆるく広がり、高さが比較的低く形成される火山をさす。また『楯状火山(a shield volcano; an aspite)』ともよばれるのも、楯を伏せたような形をしているからで、山形県の「月山」やハワイ諸島の諸火山が、その典型と言える。
  『長野県環境保全研究所研究報告』を引用する。
 「八島ヶ原湿原と踊場湿原での花粉分析結果によれば、霧ヶ峰高原で草原化が始まったのは鎌倉時代以降とされる。平安時代末に八島ヶ原湿原東部で諏訪大社下社の神事の一つ御射山祭が行われるようになり、鎌倉時代以降盛大になる。祭りでは狩猟も行われたが、上社は狩猟を行う神野を御射山社周辺に設置していたことから、下社も神野を御射山社周辺に設置していたと推測される。
 阿蘇山麓では中世に阿蘇社の神事として、茅原に火を放ち、獣を追い出して弓矢で射る狩猟が行われており、 霧ヶ峰高原においても御射山祭で火入れを伴う狩猟が行われ、鎌倉時代以降草原化がすすんだのではないかと考えられる。」
 しかし、近世期までは下社の御柱山で、樅の大木を伐り出していた。当時、八島の旧御射山周辺以外は、大森林地が形勢されていたとみる。現在の車山高原から霧ヶ峰、八島湿原の光景は、江戸時代初期から盛んに行われる野焼きにより、森林化が阻止されたためと考える。
 霧ヶ峰は、遠く江戸時代以前から入会山として、諏訪地方の人々の生活にとって必要不可欠な存在となっていた。原野・山林の村相互の境界線(大境;おおざかい)の大筋が定められたのは、豊臣大名の日根野織部正高吉(ひねのおりべのしょうたかよし)が諏訪を治め、高島城を諏訪湖畔に建造した時代といわれている。しかし初代高島藩主・頼水公以来、諏訪湖周辺の新田増設がすすみ、更に神域であった原山の神野の開墾も黙認され、森林地帯の開発が促進された。新田が増えれば、人も増える。しかも収穫の70数%を年貢として上納する時代では、本田の肥料として菜種・エゴマなどの油粕、焼酎粕(かす)、大豆・下肥などの金肥(かねごえ;きんぴ)といわれた買い肥料に、多くを依存できるはずはなかった。必然、干草、藁、刈敷(かりしき)、厩肥(うまやごえ)などの自給肥料に頼らざるを得なかった。干草は前年に刈り採り干しておいたもの、 刈敷は青草や芽吹いた雑木の小枝(木葉;きば)を刈入れたもので、金肥の買い入れに限度のある農家にとって、大事な基肥(もとごえ)であった。
 「刈敷」の刈り入れは、優良なものをいち早く、それも沢山採りたいと競り合いになり、それで禁猟・禁漁の解禁と同様の、「山の口明け」の取決めが行われた。その「山の口明け」について、上桑原村では弘化4年(1847)4月、村役人が下諏訪町の問屋(といや)へ出向いて「4月21日より5月3日まで、例年通り山の口なので、御伝馬(おてんま)人足を参加させないように」と頼んでいる。それほど熾烈な獲得争いであった。
 明治19年(1886)6月、桑原村の別沢組が、「山の口明け」の前日に、抜け駆け的に刈り始めた。村中どころか永明村四賀村連合戸長役場から吏員が出張してきて中止させるという大事になった。農民は「山の口明け」を待ち、競って「刈敷」を採集し、急いで田へ入れたいのだ。寒冷地であれば、緑肥の生育は遅い、しかし田植えを急がなければ、冷害による「青立ち稲」の頻度が増す虞があった。
 昭和の初めまで、田植えが遅れる要因の一つでもあり、高地の信州地域や越後・東北が青立ち稲などの冷害により、貧窮した原因でもあった。これらの地域が、ようやく冷害に強い稲の品種改良の恩恵に浴するのは、昭和も戦後以降まで待たねばならなかった。
 『「刈敷」をすれば、田畑は雑草だらけになるでしょう』。しかし現代人には、想像できないことが行われていた。「刈敷」を田畑に広げると、女子共、家族総出で、あの広い田畑全域、足で懸命に『踏込む』み、土と同化させていた。
 家畜の糞尿(ふんにょう)に敷きわら・草などを混ぜて腐らせた厩肥を作るにしても、「刈敷」同様、草や粗朶の入手は、欠かせないものであり、また屋根を葺くために「萱野(かやの)」も必要であった。そのため、江戸時代、霧ヶ峰の麦搗き沢から車山山頂までの、山焼きを禁じていた。
 霧ヶ峰高原は、日根野織部正高吉の時代、既に上桑原村の外山(そとやま;入山ともいう)となって上桑原山といわれていた。現在、諏訪カントリークラブのある野田原(のたつぱら)の北側、いわば車山から八島湿原の鎌ケ池までの1,350haの原野を指す。日根野高吉が諏訪の領主の時代(1590~1600)、茅野市米沢にあった北大塩村と大境を定めたことが発端であった。上桑原山へは、薪炭を取る入会地として、赤沼村・下桑原村・小和田村・上諏訪町・堀合神戸(ほりあいごうど)も権利を有していた。寛永3年(1626)6月、飯島村から郡奉行に、入会の願い出があったが、上桑原村から「飯島村は、日根野織部殿の時、事があって入会にならなかった」の申し立てによって許されなかった。これにより、霧ヶ峰西麓部は、少なくとも薪炭の供給地として重要であり、森林資源が存在していたと言える。山間地信濃では、薪炭こそが有力な現金収入源であった。
 貞享4年(1687)2月、上川と宮川の2大流域にある中筋、福島・中金子・下金子などの村々も、年来の願い出が許され、厩萱(まやかや;馬の飼料にする萱などの青草)の刈り入れができるようになる。翌元禄元年4月、中金子の願い出により、「駄数を改め、五拾駄分を霧ヶ峰の笹山から厩萱を刈り取る」覚書が交わされた。
 明治7年(1874)10月13日、上桑原村・飯島村・赤沼村・神戸村が合併して、諏訪郡四賀村となる。その地区は、上川西の平坦部から、霧ヶ峰高原・車山そして八島湿原の旧御射山から雪不知(ゆきしらず)・鎌ヶ池(八島池は含まれない)に及ぶ。なお、旧上桑原村は、現在の桑原区・普門寺区・細久保区・武津区の4区である。
 また昭和30年代頃まで地元の牧野組合の方々が、大鎌で草刈をしていた採草地でもあった。牛や馬を飼っていた当時は、 冬の干草を得る為に朝早くから草刈をし、刈り残した部分には「野火つけ」を行った。そのような里山的な管理が行われた結果、この広大な草原景観が人為的に保たれてきた。このように「火入れ・放牧・採草」など人の手により維持・管理されている草原を「二次草原」、または「半自然草原」と呼び、霧ヶ峰は阿蘇秋吉台などと共に日本を代表する二次草原なった。結果、車山高原、霧ヶ峰、八島湿原の草原に千種近い亜高山帯植物が群生するようになった。
 江戸時代、高島藩良民は、一度も百姓一揆を起こさなかった。寒冷地の高々3万石の小藩・「高島藩」にしてみれば、奇跡とも言える。しかし、高島藩良民は、入会山問題で周辺諸藩との争いが絶えなかった。諏訪郡周辺の村落の葛藤は絶えず、現在でも信濃の民から諏訪住民は、ある種の偏見を持たれている。そういった試練と葛藤の結果が生み出したものが、世界有数の「草原景観」と言える今日の風景であった。
 その風光明媚な様は、既に江戸時代の人々の知るところとなっていた。
 江戸時代、高島藩の藩士・小澤在豪は、「池のくるみ」のことをこう書き残している。
 「峯の松風は漣に音をかし(さざなみのような音がする)。岸の玉藻(水辺の藻)は水の緑に色をあらそふ。靜なる時は(風の吹かない日は)、いさぎよく池の面明鏡のことく。月の夕邊の氣色など思ひやるべし。」ここに、「池のくるみ」の情景のすべてが、語り尽されている。短文にして名文、松尾芭蕉的表現と言える。
 霧ヶ峰の夏の最高気温は25℃前後、諏訪湖の湖面から吹き上げてくる、南または南南西の上昇気流の為に霧の発生することが多く、年間298日にも達する。それが地名の由来ともなっている。このような厳しい地形、気象条件の中、アサギマダラ等の蝶や赤とんぼ等の昆虫、鹿や猪、キツネ、タヌキ等の動物が、懸命に棲息している。
 しかし、人類は本当に偉大だとおもう。現在でも冬期には、-25℃にもなるこの高原台地に、氷河期の4万年以前から、ナウマンゾウやオオツノシカを追い求め、八島湿原のアクの強いヤマドリゼンマイや車山高原の柔らかくて美味な山ウドを食しながら、和田峠や星ヶ塔の黒曜石を、懸命に採石していた。
 霧ケ峰から諏訪へ下る途中に、ちょうど踊り場のように平らな「踊場湿原」(通称「池のくるみ」)がある。東西300mの細長い窪地で、池の周辺には低層、西側では高層と2種の湿原植物が自生する貴重な湿原である。高層部の泥炭層の厚さは2.5m、3,000年かけて堆積したものといわれている。植物は約260種類。東側にはアシクラの池と呼ばれる葦の茂った池があり、絶滅の危機に瀕しているエゾナミキソウは霧ヶ峰では、ここでしか見られない。
 八島湿原、車山湿原、そして踊場湿原が、霧ヶ峰三大湿原(国指定天然記念物)である。池に生えたスゲの根が泥炭状になって持ち上がる「谷地坊主(ヤチボウズ)」という珍しい景観も楽しめる。踊場湿原のこの現象は、元々、湿原全面に植生があったとおもえるが、水の増減により間が消滅して、大株だけが残ったためと考えられている。
 二次草原は本来森林が発達する場所に、生業的営みによって作り出された草原であるから、日本は降水量の多い国でもあり、本来草原は時間の経過と共に植生遷移により森林が進む。レンゲツツジや松、ニセアカシヤ、ズミ、ミズナラ等が繁殖し、自然草原が維持されるのは、木曾駒ケ岳等の限られた高山のみで、人々の痕跡を長く、そして深くとどめる草原の多くは半自然草原といえます。 おそらく古代の奈良時代から維持されてきた放牧地や萱場に由来する霧ヶ峰高原であればこそ、その特徴を表土に現わし、黒い黒ボク土となり、固有の様々な生物が棲息するようになった。
 牛馬を飼わなくなった現在、霧ヶ峰の草原景観を維持してきた「火入れ・放牧・採草」等の人手が加わらなくなり、低木類が繁茂する森林化が進行している。特に、八島湿原と車山湿原のレンゲツツジの群生は、その走りと見る。二次草原は全国的に減少しており、環境庁の平成9年1月16日発表の第4回自然環境保全基礎調査によって、明治・大正時代に国土の約11%を占めていた二次草原は、わずか約3%まで減少していたことが分かった。

2)昭和初期の霧ヶ峰
 大正6年頃より上諏訪温泉で、湧出量が減少し、結局、停止する原湯も珍しくなくなかった。特に本町と中町に集中していた。湧出量の枯渇化は、新掘削の増加と、モーターによる強勢汲み上げによる。
 その一方、昭和3年10月、上諏訪湖畔の田圃に洋風3階建ての片倉館片倉製糸によって建造された。千人風呂と呼称しているが、それでも男女とも100人の入浴が可能な大浴場であった。観光客のみならず、農閑期の憩いの場として入浴した。当時の入浴料2銭であった。
 霧ヶ峰高原は、車山火山を主峰として、その北西に広がる広大な高原には、シバ、笹、ススキに覆われる草原となっている。近世までは下社の御柱山で、その祭事には樅の大木を供給していた。その後、農耕を主体とする諏訪の人々の生業を支えるため、幾度も野火が放たれて森林化が阻まれた。今ではそれが幸いして、1千種に近い亜高山植物の生育台地となっている。江戸草創期前後から、既に独占的入会権を有していたのが、上桑原村であった。しかし、その高原は広大であり、その外の山麓の集落も、高島藩に願い出て入会権を持つようになった。山麓の人々は刈敷や家萱などの採草地として利用し、夏には牛馬を放牧したりした。やがて、それも初期の早い段階に、村人は野焼きを行うようになった。主に馬の冬期の飼料、水田の堆肥・厩肥、草木灰を採集した。8月下旬から2か月間は、仮小屋に滞在し、草を刈り、干し草にして牛馬で運んだ。その利用は、戦後の昭和30年頃まで続いた。
 西麓集落の上桑原は桧沢川右岸の標高1,000~ 1,300mの緩傾斜地を刈敷の採取、急傾斜地を植林地に、標高1,300~1,400mを放牧地に、標高1,400~1,500mを秣の採取に、標高1,300m以下の桧沢川沿いを萱や薪の採取に利用していた。下桑原は桧沢川右岸の標高1,300~1,400mを放牧地に、桧沢川右岸の標高1,500~1,600mと踊場湿原周辺から上部南向き尾根を秣の採取に利用していた。小和田は桧沢川右岸の標高1,300~1,400mを放牧地に、踊場湿原周辺から上部南向き尾根を秣の採取に利用していた。一方、東麓集落の埴原田と鋳物師屋はイモリ沢の谷を秣の採取に、中村、上菅沢、山口、塩沢は車山西麓を秣の採取に利用していた。 これらから、近世末に霧ヶ峰高原全域が採草地として利用されたのは、山麓集落が稲作を中心とした生業を営み、その肥料の殆どが刈敷や厩肥で、霧ヶ峰から自給していた。
 霧ヶ峰高原には、山麓の四賀地区や茅野市の米沢、北山から登る山道が幾筋もあった。上諏訪から角間新田を通って池のくるみへ出て、そこから沢渡から旧御射山を経て男女倉 に達する道は、男女倉越(おめぐらごえ)と呼ばれ、中山道に通じっていて人馬の往来が多かった。更に沢渡から下諏訪宿の諏訪大社下社秋宮や春宮へ下り、東に進めば大門峠から上田、小諸、佐久へ通じた。この高原は、生業の営みと人馬の往来とで、賑わっていたと考えられる。
 明治以降の採草利用の減少は、養蚕が盛んになり現金収入が増加するとともに、格段の増収が期待できる金肥利用が可能となり、肥料としての刈敷の価値が低下したためと、養蚕に忙しく採集するゆとりが無くなったともいえる。大豆粕、下肥、鰊のしめ粕(かす)、大豆、人造配合肥料等の多種有用な肥料が、その殆どを占め、それが田畑の生産性を向上させた。そのため厩肥手当ての馬の飼育も減少した。一方、明治以降も標高 1,500m以上で比較的採草利用が維持されたのは、西麓集落が現金収入を得るために酪農を開始したことと関連していたと考えられる。利用規制の運用状況の変化は、こうした生業自体の転換に伴う草の資源の用途に変化をもたらした。

3)霧ヶ峰スキー場
 昭和2(1927)年2月、豊田村に養豚組合が出来た。養豚技術の改良とそれに関する諸事業、組合員が生産する成豚の共同販売、種牝豚の共同飼育と種付け、養豚に必要な飼料、諸資材の共同購入であった。
 諏訪盆地では牛耕が普及し、昭和5(1930)年頃の農村恐慌以降は酪農を始める集落も出現した。昭和6(1931)年の入会集落の牛馬飼育は、西麓集落137頭 (馬29頭・牛 108頭 )、東麓集落42頭 (馬40頭・牛2頭 )の計 179頭であった。近世末と比較すると、牛が馬より多くなっており、牛と馬を合わせた頭数は西麓集落が東麓集落を上回り、全体の頭数としては近世末より減っていた。
 この時期、経済恐慌により諏訪の養蚕と製糸業が行き詰っていた。昭和4年10月24日、米国の株式市場での大暴落に端を発して、世界大恐慌となる。翌5年2月、帝国議会で糸価安定融資補償法が成立し、釜数の20%封印した。9月には、米価が大正7年以来の安値となり、糸価も平均で前年の半値775円に下落した。
 霧ヶ峰高原が観光地として喧伝されるのは、昭和7(1932)年1月のことであった。この年5月15日、海軍青年将校ら9人が首相官邸に乱入し、犬養首相を射殺した。この前年からスキー同好会によるスキー漫談会が数回開かれ、スキークラブが創設されとスキー場開設まで話が及んだ。
 特に 「霧ヶ峰を語る」の著者・上田貢ら地元住民の働きかけで、「池のくるみ」一帯が、スキー場として好条件であることが、マスコミを通じて全国に報されるようになった。上田らは、中央線により、東京、名古屋の大都市から便利で、その上、上諏訪町からも近く、アクセスに要する開発費が抑えられ、上諏訪、下諏訪、蓼科の温泉旅館の協力も得やすいと考えた。この年は全国的に雪不足であったが、霧ヶ峰は積雪に恵まれた。時事新報通信部は飛行機で空から雪原を写し、その勝山為如(たかゆき)の航空写真が公表され、1月8日の『南信日日新聞』に写真入で、「冬の化粧を空から探す、諏訪連山初消息」の記事となり紹介された。
 上諏訪町主催で「池のくるみスキー場」視察を兼ねた、霧ヶ峰登山が行われた。朝日、東日、南日などの新聞記者も参加し、それが14、15日、朝日、新愛知、時事、信毎、長野、南日、信陽など各誌で記事にされた。
 1月15日の『大阪朝日新聞』には
 「霧ヶ峰一帯に絶好のスキー場。上諏訪から二里の行程。この暖気に積雪三尺―ウインタースポーツの王座を占めるスキーもスケートも、記録的な今冬の暖気に氷雪融けて山は地肌を露はし、湖沼はさざ波を漂わせて少なからずスポーツマンの気を腐らせているが、長野県上諏訪町から二里弱、スケート場蓼の海から約二0町の霧ヶ峰一帯に新スキー場が発見された。ここは周囲約二里の擂鉢型のスロープで、昨今硬雪一尺五寸から三尺に達し、更にこの霧ヶ峰から車山、大門峠に至る東西一五km、南北六kmの大スロープは積雪一尺以上あって、到るところに一滑り二km、三kmというコースがあり、また霧ヶ峰から約五kmの立科山山麓には、一滑り優に五kmの大スロープがある附近一帯は、南に富士、西に南北アルプスを一眸に集め得る絶景で、交通も至便であるから、上諏訪町役場、商工会議所、諏訪スキークラブ、温泉協会では早速ヒュッテを造り全国的に宣伝することになった。」と記されている。当時のスキーのダイナミズムが知られる。これにより各地のスキー場が、雪不足であったが、霧ヶ峰の積雪は充分であった事が分かる。
 2月に東京と名古屋の鉄道局、甲府運輸事務所並びに鉄道関係視察員による実地調査がなされた。それを受けて各紙は、「諏訪湖と温泉を懐に、長野県中部随一のスキー場であり、中部山岳の名峰を展望する眺望を誇る。鉄道も支援、専門家も推奨する。」と見出しが躍る。2月下旬、名古屋鉄道管理局一行、帝室林野局長一行、東京運動記者クラブ一行、長野県庶務課長と体育主事一行の来訪が相次いだ。蓼科温泉親湯に1泊して、「池のくるみ」までの20kmのスキーツアーを堪能した一行もいた。名古屋鉄道管理局一行は、上諏訪駅長室で国鉄バス運行を懇請されている。それにより9年より運行となった。
 各地の山岳会員やスキークラブ員に知れ渡り、霧ヶ峰の「池のくるみスキー場」は僅か2ヶ月半の短時日で盛名を馳せ、その地位を確立した。名古屋放送局は、その積雪情報を全国放送している。しかし、このシーズンのスキー客は410名に過ぎない。しかもスキー客の施設は貧弱で、「池のくる」には休憩所の山小屋や露天の汁粉屋しかなく、道路は舗装されず泥濘状態で、バス代は高く3円50銭で、しかも「科の木」から先は徒歩で登る。
 当時、諏訪湖の結氷が不安定で、そのスケートが不評となり、製糸業も行き詰まり、新たな産業として、霧ヶ峰スキー場の観光開発が着目された。霧ヶ峰の「池のくるみスキー場」は、経済恐慌に対応する南信地方の開発事業でもあった。
 その背景には、全国的に鉄道網が整備され、都市のスキー人口も急増した。県内のスキー場は、2年には菅平に、4年には志賀高原、木曾谷、北アルプス一帯と、急速に開発されていった。
 7年4月には、上田貢編集による「「霧ヶ峰を語る」が、全国のスキー関係者に送られた。著書は5編まで継続出版され、「池のくるみスキー場」の雄大な滑走コースの宣伝効果に大いに貢献をした。6月、東京白木屋デパートの県商工会主催の「観光と物産、宣伝即売会」に参加した上諏訪商工会は、パンフレットを配布し宣伝に努めている。同年10月には、長野県スキー連盟が結成された。競技スキーを主催し、スキーの大衆化を促進するためスキー場の増設を助長した。同年10月には、長野県観光連盟が設立され、スキー場の観光宣伝に着手した。11月、上諏訪体育協会が発足し、スキーとスケートを統括する冬季スポーツの観光開発を通して町の振興が図られた。
 この頃である。上諏訪体育協会から、茅野市の北大塩財産区が管理するカボッチョ山の北側付近をスキー場として借用したいと申し出があった。年10円の10年契約で貸与された。翌8年10月、北大塩財産区は、山野開発の第一歩としてカボッチョ山頂にスキー神社を建立した。祭神は「大山祇命(おおやまずみのみこと)」であった。建立費は25円とある。そして14年、カボッチョ山の傾斜を利用してジャンプ台が設置された。
 昭和10年~11年、上諏訪駅のスキー降客数は、その調査によりと、東京方面、10, 843人、名古屋方面2,303人、大阪方面1,339人、その他4,954人で、計19,439人となっている。スキー客は順調に年毎に増加した。
 ニューヨーク州レークプラシッドで昭和7(1932)年に開催された第3回のオリンピックスキー選手岩崎三郎が、上諏訪の高島実業補習学校の教師に招かれ、当スキーの開発に助言を与えている。岩崎氏は早稲田大学出身で、オリンピックには長距離(37位)と耐久(18位)に出場している。
 「池のくるみスキー場」の成果に刺激され、下諏訪では八島高原沢渡スキー場と岡谷では塩尻勝弦スキー場などが開発された。同時に「池のくるみスキー場」には、休憩所や山小屋が整備され、強清水には「ヒュッテ霧ヶ峰」、250人収容の施設も整った。
 「池のくる」に山小屋が増設されと、、各方面への踏査がなされ、美ヶ原への難コースを初め霧ヶ峰を基点とするスキートレールも置かれ、大ジャンプ台も完成した。昭和8年、森林・原野・山地などの山岳コースを設定して、走破するタイムを競う耐久レース的な「霧ヶ峰大環状スキートレール」が、総延長178kmで完成した。当時のスキーは、今ほど大衆化はされていないかわりに、本格的な山岳スキーを堪能する層が存在していたようだ。東は蓼科から西は松本市山辺の大和合に至る総延長178kmが完成している。北は現在の佐久市の望月までをコースにしていた。大衆化された現在では考えられない至難のコースである。
 昭和9年、道路は改修され、冬季には臨時の大型バス40台が上諏訪から運行され、中央線では新宿、上諏訪間には、週末スキー列車が運行し、スキー客は県下一となった。
 昭和10年、山小屋と売店の数は、22軒となり、収容人数は約600名、宿泊料は1円20銭であった。同年、上諏訪町では、町をあげての誘致、第5回冬季オリンピック会場に立候補している。しかし同12年6月、ワルシャワでのIOC会議で札幌に決定した。それも日中戦争の戦火が拡大し、戦況が悪化し、日本は軍事一色に染められていき、ついに同13年7月、東京、札幌両オリンピックの返上が決まった。この頃から県スキー競技会、全日本スキー連盟主催のスキー講習会が、次々と開催された。
 日中戦争下、同14年2月26日には、全国スキー連盟主催の第1回国民精神総動員全国皆スキー行進日の主会場として霧ヶ峰スキー場で開催された。この年、英・仏がドイツに対して宣戦を布告し、ノモンハンで日・ソ両軍が衝突した。国内では物価統制令が実施された。そうした情勢下、スキーなどというと、都会地の金持ち階層の遊びと誤解される、なにか名目を掲げ、当局の歓心を買っておかないと、今にもスキーが履けなくなる、そんな懸念から発案されたもので、国民精神総動員の趣旨に沿ってのスキー大行進を行う主旨であった。吹雪の中、中央会場霧ヶ峰スキー場に参集した若人、3,000人、文部省や厚生省も後援し、開会式には国民精神の高揚を説き、戦雲の急を告げ、皆雪上訓練の意義を叫んだ。そして栗本体育官の号令一下、和田峠目ざして出発した。松本放送局から全国に中継され、全国各地のスキー場に集うスキーヤーも、栗本の号令で一斉にスキー行進が行われた。東京や名古屋方面からのスキーヤーの中に、地元の高島小諏訪中諏訪高女の生徒や上諏訪男女青年団員の姿もあった。
 中央会場を霧ヶ峰に招致した上田貢は、霧ヶ峰は武技を競った御射山遺跡を有し、6大都市の中央部にあり、雪質は粉雪で、スケート場もある適地であると主張して入れられたと語っている。翌15年、第2回も霧ヶ峰スキー場が中央会場で、参加者は2千数百名であった。翌16(1941)年、第3回は日光が中央会場であったが、霧ヶ峰スキー場には2千名が参集した。しかし以後、全国的に競技会開催は許可されず、霧ヶ峰スキー場も戦技スキー場となった。
 この間、上田貢の功績は大きい、昭和16年町制実施50周年記念式典で、町長から「昭和7年霧ヶ峰スキー場開拓、以来鋭意その発展向上に努め私費出版物を利用して紹介宣伝に尽瘁し(じんすい)・・・」と表彰された。
 同年10月16日、第3次近衛内閣総辞職。10月18日、東条英機内閣発足。12月8日、シンガポール攻略を目指し、侘美浩(たくみひろし)少将率いる第18師団侘美支隊はマレー北部のコタバルに奇襲上陸。タイ南部のシンゴラとパタニーにも上陸、タイへ進駐。一方、ハワイ・オアフ島の米太平洋艦隊に対して空からの攻撃を行い、壊滅的打撃を与えることに成功。臨時ニュースで「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と放送。遂に大東亜戦争に突入。
 戦後、霧ヶ峰スキー場は、益々盛んになったが、昭和27年、強清水まで道路が開かれ、バスが通年運行されると、車山にまでスキー場ができるようになった。そのころから霧ヶ峰スキー場の中心が、「池のくるみ」から「強清水」へ移っていった。

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