上杉謙信は越後から1万3,000の軍勢を率いて

妻女山に陣営を構えた。
川中島平一帯を見渡せ
武田方の海津城の動静を窺える絶好の場所でもあった。
当時の千曲川は、今より南よりに流れ
妻女山とその東側海津城を沿うように流れていた。


戦国大名小笠原氏の没落    Top

 目次
 1)塩尻峠の戦
 2)武田晴信の府中と佐久両面作戦
 3)小笠原林城の落城
 4)晴信、会田・麻績を掃討
 5)小笠原氏の晩節

1)塩尻峠の戦
 天文17(1548)年の『妙法寺記』に、「「此年世中十分に越えたり。惣而地へ落とす程の物は一切吉。世間出富貴成る事不及言説。」とあるように、五穀豊穣の年であった。武田晴信は正月18日、『高白斎記』に「御具足召し初まる。信州本意に於いては相当の地、宛行わる可くの由御朱印下され候。」と家臣を鼓舞している。  晴信は、埴科郡坂木の義清が支配する小県郡へ侵略を開始し、上田原(上田市上田原下之条)へ進軍した。晴信は、「二月大丁未巳刻、坂木に向かう。雪深くつもり候間、大門峠より御出馬。細雨、夕方みぞれ『高白斎記』。」、諏訪から大門峠を越え、丸子から塩田平にぬける鞍部砂原峠を抜けて上田原に近づき、千曲川支流の産川東方の倉升山の麓、御陣ヶ入畑に布陣した。上田原は、上田城のある市街地から千曲川を挟んだ対岸にあたり、平に見えるものの段丘などもある地形で、武田軍はこの段丘上に陣を布いた。
 一方の村上軍の陣地には諸説あり、上田市の市立博物館では、村上軍の本陣は天白山の須々貴神社の近くだったとある。上田原を一望できる天白山に、村上義清の砦があった。天白山を背にし、千曲川の支流である浦野川を挟んで対峙したようだ。上田原から眺めると北西の断崖上の台地に陣を敷いた。
 武田晴信の戦術は、村上氏の千曲川左岸に於ける中心拠点、塩田平の塩田城(上田市東前山)と、埴科郡坂城の村上氏の本城葛尾城との連携を絶つことにあった。だが村上領塩田平を過ぎ上田原に至り、余りにも村上領の中核地に迫り過ぎた。武田晴信と村上義清両軍合わせて1万7千の将兵が、2月14日、村上軍の本拠地上田原から下之条付近で激突した。この上田原の合戦では、武田軍先陣の板垣駿河守信方が村上軍の第一陣を撃破しつつ果敢に攻め立てた。退く敵を追って、更に深入り過ぎた。葛尾城の属城、千曲川右岸の戸石城から、武田軍東方の側面を襲い得る状況下に入った。

 信州の鎌倉といわれた塩田平、この写真の左側後方に別所温泉が広がっている。

 『勝山記』は「此の年の弐月14日に信州村上殿の在所に塩田原(上田原)と申候所にて、甲州の春(晴)信様と、村上殿かんせん(合戦)被成(なされ)候、去程にたかいに見合て、河をこたて(木盾)に取り候而(て)、軍を入れつ見たりつ被食(めされ)候、去程に甲州人数打ち劣(負)て、いたかき(板垣)駿河守殿、甘利備前守殿、才間河内殿、はしかの(初鹿野)伝右衛門尉殿、此の旁々打死に被成候而、御方は力をとし(落し)被食候、されとも御大将は本陣にしは、をふまい(お踏まい)被食候、小山田出羽守無比類動被成候、御上意様もかせて(瘍手;傷手)おおい被食候、(後略)」と記す。
 この武田晴信の上田原大敗を好機として、義清は、北佐久・小県地方のほとんどを支配下においた。義清の動きは果断で、4月5日、府中の小笠原長時・安曇郡の仁科盛政・伊那郡の藤沢頼親と連合し下諏訪に乱入し放火した。『神使御頭之日記』には「、4月5日に、村上・小笠原・仁科・藤沢同心に当方へ下宮まて打入、たいら討ち(討ち平らげる)放火候て則帰陣候」とある。
 義清は兵を佐久郡に遣わし、4月25日、上原昌辰(後の小山田備中守昌辰)が守備する、佐久の拠点内山の宿城以下過半を放火した。また佐久地方の要地前山城も佐久衆が奪還した。
 小笠原長時も好機として、6月10日、塩尻峠を越えて再び下諏訪に攻め入り、武田方の千野靫負尉(ゆきえのじょう)ら諏訪衆主力軍と戦ったが、逆に「小笠原殿外宮まで打入、外宮地下人計(ばかり)出相、馬廻之侍十七騎、雑兵百余討取。小笠原殿、二箇所手おはれ候。」『神使御頭之日記』、長時は2か所の手傷を負い撤退した。
 村上義清や小笠原長時らの佐久・諏訪方面での攻勢は、両郡の諸士を大きく動揺させ、7月には、佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆矢島・花岡などが反武田同盟を結んで、武田氏の信濃支配を危機に至らせた。7月10日、諏訪西方衆矢島・花岡らは、小笠原氏に内応して武田軍に反旗を翻し、上諏訪を攻めた『高白斎記』。先の6月、小笠原長時の侵攻を撃退させた千野靫負尉であったが、家族を捨て家臣だけを連れて上原城に籠城、諏訪大社の神長官である守矢頼真も占具を収納した「神秘の皮籠」だけを持って上原城に逃がれ、甲府からの援軍を待った『守矢頼真書留』。「申刻に移候、神秘之皮籠斗(ばかり)持候て、自余(じよ;そのほか)は悉捨候」と、神長周辺も窮迫していた。また武田軍の出兵も遅かったため、諏訪大社上社五官の副祝(そえのはうり)は武田軍を見限ってもいた『守矢文書』。
 天文17(1548)年7月、晴信は諏訪郡宮川以西の西方衆が、小笠原長時と呼応して逆心し動乱状態となったため、急遽甲府を発ち諏訪へ出兵し西方衆を鎮圧した。この時長時も、西方衆と連携し塩尻峠へ出陣していた。
 『神使御頭之日記』が記録する情勢を、意訳すると「此年7月10日に、西之一族衆并びに矢嶋、花岡甲州へ逆心故、諏訪に乱入候、神長(守矢頼真)、千野殿討ち従い河西の上原へ移り候。同19日に西方衆悉く破り放火し、其の日武田殿、小笠原殿勝筆(勝弦)に於いて一戦候が武田殿討ち勝ち、小笠原衆上兵共に千余人討死候」とあるが、「塩尻峠合戦」の詳細が分からない。
 『高白斎記』は「7月18日幸卯(早朝)、大井の森(現北杜市長坂町)より御馬進められる。翌19日卯刻(5時以降)、塩尻峠にたてこもる小笠原長時責め破り、数多討ち捕りなされ候。」と晴信軍の迅速さを伝える。『妙法寺記』には、「此の年の7月15日、信州塩尻嶺に小笠原殿5千計にて御陣被成候を、甲州人数朝懸けに被成候て、悉く小笠原殿の人数を打殺しに被食(なされ)候。」とある。『神使御頭之日記』同様、戦死者は小笠原方のみで、武田側に関しては、その記録が無い。『勝山記』にしても、武田が一方的に「人数を打殺し」とあるのみである。
 塩尻峠の合戦後、諏訪上社の副祝守矢信実が、長時に内通し武田軍の動静を漏らしたと疑われ、その弁明書である『守矢信実訴状覚書』に「7月19日卯刻に甲州勢が塩尻峠に押し寄せたところ、武具を装着している者が誰一人も無く、過半の者は立ち合える態に在らざる」という小笠原方の有様が語られている。甲斐国内にいた武田軍が、まさか来襲するとは思ってもいなかった塩尻勝弦峠の小笠原本陣へ急襲は、寝込み時であったため武装する間もなく、長時は大敗を喫した。
 長時は府中の総力を結集し、安曇・筑摩両郡をあげて大動員した。応じた武将は、仁科道外・三村入道・山辺・西牧・二木・青柳・刈谷原・島立・犬甘・平瀬・標葉・下枝・草間・桐原・瀬黒・総社・村井・塩尻衆・征矢野・大池らの諸将の名が記録されている。しかし晴信の調略の手が、既に小笠原幕下の諸士に伸びていた。『小笠原系図』には「後之峠に従う、山辺、三村2千余騎裏切り致し」とあり、『溝口家記』には「三十一之年、諏訪峠に於いて、武田晴信、法名信玄と打向合戦刻、西牧四郎左衛門、与洗馬之三村駿河守同心に、其勢千四五百、企逆心、後之峠に於いて、鯨波を咄(とつ)と上げる(ときの声を突然あげる)。拠所無く、両人之方に馳せ向かい、両所の勢傍へ引退、是非に及ばず、塩尻長井坂を御退候。後より慕い、長時帰合、数知れず打捨になされ候。適大将之由、後々申伝候。」ある。長時は塩尻峠側に陣を構えていたが、「後之峠」即ち後方の勝弦峠に陣を置く山辺・三村・西牧・二木らが逆心し、鬨(とき)の声をあげたため、大混乱となり塩尻峠の途中にある永井坂を下り、村井の小屋から林の大城へ退いた。
 『溝口家記』は長時の生誕を永正15年(1518)の生誕としているので、長時31の年とは、天文17年のことになる。
  苦境の最中、晴信は、塩尻勝弦峠の合戦で、小笠原長時軍を敗走させた事で、上田原敗戦の汚名をそそぎ、漸く甲州の雄族を宥める事が出来た。一方、長時勢は、旗本以外は諸豪族の寄せ集めで団結力が弱く、更に小笠原方の山家・三村氏らの大勢力が晴信に内通していた。『勝山記』がいう「小笠原殿5千ばかり」の大兵に驕り、逆に長時の統制力が浸透していない弱点を衝く急襲に脆くも崩壊した。長時は敗兵を連れ筑摩郡林城に引いた。

2)武田晴信の府中と佐久両面作戦
 晴信は合戦の勝利の勢いまま、長時を追い塩尻峠を下り村井氏の居館村井小屋(松本市大字芳川字小屋)を奪い、府中深く侵入し林本城近くに迫った。林城攻略のため中山の和泉(松本市中山和泉地区)に陣を置いた。当時、晴信は府中と佐久両面で作戦を展開していた。
 晴信は府中にいたが、8月18日、田口長能の居城田口城(臼田町)を、小山田信有を大将として攻めさせた。しかし武田軍は佐久国衆が諸所で叛旗を掲げる状況下で取り囲まれた。小諸方面で村上氏が活発に動き出していた。この報に接し、筑摩の和泉の陣を払い9月1日、諏訪上原城から佐久へ救援に向かう。同月6日、諏訪から八ヶ岳の南の谷戸(山梨県大泉)に陣所を置き、7日小海の宮之上、11日辰の刻(午前8時頃)臼田から大雨の中前山城を陥落させ数百人を討ち取った。晴信は、自ら佐久に出陣して村上方勢によって奪われた佐久の諸城を奪還した。田口城も落ち、田口氏は田口長能を最後として滅びた。田の口城は相木氏や依田氏が一時城主になっている。この晴信軍の勢に圧倒され、佐久郡内の諸城13か所が自落した。
 『妙法寺記』は、「此の年8月18日に佐久郡田ノロと申し候要害へ、小山田出羽守殿大将として働き候。去る程に信州人数甲衆を籠の内の鳥の様に取籠め候を、色々調義成され候て、来る9月12日に御上意御馬を出させ申し候て、合力成され佐久郡の大将を悉く打殺す。去る程に討ち取り其の数は5千計り。男女生け捕り数を知らず。それを手柄に成され候て、甲衆人数は御馬を入れ候。(帰国)」と書く。9月には、北佐久郡の拠点、小諸の平原城(小諸市平原)を放火し、かつては当地の名族であった望月・伴野両氏の一族も服属してきた。
 10月、晴信は再び府中に入り、2日、林城と指呼の間に在る村井小屋の鍬立を行った。村井城を築城して前進拠点とし、25日には上原城へ帰陣した。村井城は、現松本市芳川にあり深志の南8kにある。4日、普請がなされ、完全な平城として再筑される。24日には、上原城に帰陣した。その間、埴原城(松本市中山)近くの小笠原氏家臣千石帯刀に本領2百貫を安堵し、その奉公に応えて、胡桃沢の内5百貫を宛行っている。着実に調略が進められていく。

 翌天文18年、晴信は佐久の経営に追われていた。4月、鹿曲川と細小路川に挟まれ、北方向に延びた丘陵地の先端、標高892m 比高120mに築かれた山城の春日城を陥落させた。7月には、伊那郡の箕輪城の鍬入れを行い、8月には、佐久郡内の桜井山城に戻った。8月23日、諏訪郡高島より出馬すると、同月26日、細雨の中、桜井山(前山城)に着城する。翌日辰の刻には御井立を放火、9月1日、鷺林(常田)に陣構えすると、4日には平原(小諸の東南)の宿城を焼き払った。7日には平林氏(南佐久郡平林村)が出仕してきた。それでも攻撃は止まず、佐久の古族望月・伴野氏らは、その幕下に降った。
 『高白斎記』は「9月11日癸未辰刻、打ち立ち臼田(現臼田町)。大雨。前山(現佐久市)責め落す。敵数百人討ち捕りなされる。城士2ケ所自落。」と、前山城の伴野氏を攻め落している。
 9日から14日に亘り坂木の村上氏と折衝を重ねたが不調、14日には内山城に軍を再結集させた。更に望月城を攻めたが落とせなかった。21日、躑躅ヶ崎館に帰府した。
 「9月21日癸巳、前山の城普請始まる。」晴信は前山城の拡張普請を命じた。23日には、伴野貞祥(さだよし)に桜井山周辺を宛行う判物を発給した。

3)小笠原林城の落城

 
小笠原長時の本城(林城)や深志城・岡田城・桐原城・山家城が相次いで自落した   以後、信玄は林城を顧みることなく、平城の深志城を拠点に大北・北信へ

 天文19(1550)年5月4日、将軍足利義晴が薨じ、義輝が将軍に就任した。7月5日、小笠原長時は、それを賀して、盛光の太刀1腰と川原毛(灰白色・黄白色で、たてがみ・下肢・ひづめが黒い)の馬1疋を贈った。将軍義輝から答礼の品が送られて来た。その間、晴信は村上・小笠原らの信濃の名族の領地を侵略すべく、先ずは弱体の小笠原府中から麻績を経て西方から攻め上り、村上義清の拠点川中島地区を抑え、安曇の仁科氏も臣従させ、安筑地方のおおよそを押さえ、小笠原・村上両氏の後援を絶った。『高白斎記』によれば7月3日、甲斐府中を発した晴信は、10日には村井城に着城した。13日酉の刻(午後6時)、府中小笠原氏が重視する南の備えとして構えた熊井城(塩尻市片丘)を陥落させた。15日酉の刻「イヌイノ城を攻め敗り勝鬨」とある。この「イヌイノ城」に比定されるのが、確たる史料を欠くが、松本平南東の丘陵地に築かれた埴原城(松本市中山埴原)である。埴原城の土塁は丘のように巨大で、林城と同系統の要害城であり、小砦を複合する大規模な馬蹄形で構成されている。その土塁東側の堀切も大規模で、主郭側の切岸はまさに断崖で、その城域は、さらに東側尾根の稜線にまで及び、巨大な竪堀が穿たれ、主郭方向に延びている。その創始は鎌倉時代に遡り、戦国時代、府中小笠原氏により大規模に改修された。この「イヌイノ城」を陥落させた。「其の軍に草間肥前、泉の石見討死」とあり、その泉の地とは、現松本市中山の和泉の地籍で、ここに所領を有する長時の有力な武将であった草間肥前、神田将監などの重臣も討死した。その際『高白斎記』は「イヌイノ城を攻め敗り勝鬨」とまで、その達成感を端的に評している。その落城により、深志・岡田・桐原・山家など小笠原の主城林城を守るべく取り囲む、重要な4か所の支城が自落した。二木豊後守重吉が主君小笠原秀政(貞慶の長男)の求めに応じて記した家記『二木寿斎記(『二木家記』)』によれば、「長時公に背き、晴信公の方へなる衆、山辺・洗馬の三村入道・赤沢・深志の坂西・島立殿・西牧」らの「5千貫、3千貫取候侍衆」で、多くは深志周辺の重臣であった。この時期長時に従った重臣は犬甘平瀬と、府中を離れた刈谷原麻績などに散る僅かな武将達だけであった。二木氏は既に、塩尻峠で長時を裏切り、小笠原氏敗北の主因となっている。
 小笠原を支える諸城・重臣を失い、孤立無援となり本城の林城も戦う術が無くなり子の刻(午後12時)自落した。「イヌイノ城」こそ、府中小笠原氏にとっては、戦略的に最重要な拠点であった。間もなく深志周辺の小笠原一族の島立氏と浅間氏が降参し、仁科道外が晴信の下に出仕して来た。
 『小笠原系図』に「従林之城少々雖防終落城」とある。落城後、晴信は林城とその居館林之館を破却した。9日、小笠原氏の重臣坂西氏の居城深志城で鍬立を行い、村井の城から前線基地を北上させた。23日、惣普請を行い、城代を馬場信春日向大和是吉とした。坂西氏は小笠原貞宗の3男孫三郎宗満を祖とし、上伊那郡坂西に居館を置き、初めて坂西氏を称した。小笠原貞宗が府中井川に居館を構えるに際し、同族の坂西氏を伴い深志をその所領とした。その時に2流が生じ、伊那郡の坂西氏は小笠原宗満以来の「ばんざい」を称し、松本の坂西氏は「さかにし」と呼んだ。
 天文20(1551)年、晴信が信濃を侵略し始めてから10年の歳月を経た。今、10月20日、深志城に入り、抵抗を続ける犬甘氏の一族平瀬氏の城(松本市島内)へ進軍する。平瀬城は深志の北約4k先で、松本市街地から国道19号を北上すると、右手に山並み、左手に奈良井川が迫り、奈良井川と梓川が合流して犀川となる右手、山並みがひときわ突出した峰の先端の山上に平瀬城がある。安筑を一望する要害であった。麓には館址がある。城主は犬甘一族平瀬氏であった。
 この時期の『高白斎記』は詳細で、それだけ契機となる事件が多かった。14日、村上義清が北安曇野の丹生子(にうのみ)の制圧のかかったとの注進を受け、晴信はそれに備え翌15日甲斐を発ち、20日深志に着いた。府中を追われた小笠原長時のみならず、村上義清の勢威も安筑地方では既に過去のものとなっていた。同年5月26日、武田の信濃先方衆に過ぎない真田幸隆が突然戸石城の乗っ取りに成功した。幸隆の地道な調略が功を奏した事を知り、晴信は戸石城を幸隆に預けた。これで晴信は佐久の反武田勢力を一掃し、小県から北信濃へ向かう侵攻が可能になた。
 安筑地方の諸豪も陸続と武田に靡いて行った。10月22日、安曇野郡の岩原城主(安曇野市堀金烏川)で仁科氏の一族堀金氏が出仕して来た。24日、遂に犀川をその裾にひかえる平瀬城を攻め破り204人を討ちとった。『高白斎記』は「終日細雨、栗原左衛門手において、首18討捕、酉の刻(17時~18時59分)より大雨」とある。『小笠原系図』は「終日相戦えども、終に落城、平瀬切腹」とある。また小笠原氏の属将であった山家左馬充が、晴信から平瀬城攻略の戦功を賞され感状を与えられている。以後、平瀬城は深志城以北の前線基地として、安筑統治の要となるべく、28日、栗原左衛門らに鍬立を命じている。11月10日には、城攻めに長け鬼美濃と恐れられた原美濃守虎胤を城代とした。更に犀川対岸にある仁科氏一族真々部氏の居城真々部城も占拠した。
  『高白斎記』天文21年6月8日、「熊野井の城鍬立。」とあり、筑摩郡熊ノ井(駒井)城は現塩尻市北熊井にあった。扇状地の段丘上にあり、堀が深く大規模に築城されていた。北は赤木から遠く松本平を一望する。鉢伏山西麓の抑えとして塩尻口からの最初の城塞であって、天文19年、晴信が府中を制圧した際、村井小屋から熊ノ井(駒井)城に入り、ここを拠点として松本平の東の山麓にある林城の属城を陥落させていった。晴信が府中深く北上するにあたり、兵站基地として鍬立を行った。一方府中を追われた長時は、当時、信濃を去り京都に在住していた。晴信は主将なき安曇郡の平定のため駒を進めていた。
 『高白斎記』に依る。
 「7月27日、小岩竹(嶽)に向い御門出」。晴信は前年の天文20年10月27日、小岩竹(小岩嶽城;安曇野市穂高有明)の本城を攻撃したが落とせず、宿城を放火して軍を引いた。
 「8月大朔日幸亥。午刻、御出馬。昼より細雨夕方晴る。府中(深志)の新屋敷の材木取り始むる為」
 「8月12日小岩竹を攻め城主生害」。
 仁科氏庶流の城主古厩盛兼(ふるまや もりかね)は自刃した。この戦を『勝山記』は「此の年、信州へ御働き候、小岩タケと申す候要害を攻めおとし被食候、打取る頸5百余人、足弱(老人、女、子供)取る事数知れず候」と記す。
 「8月15日乙丑未刻、府中の屋敷の鍬立始まる。並びに慈眼寺の西の造作」。
 「8月17日丁卯辰刻、平瀬御陣へ参る」。
 「8月25日、府中へ御馬納めらる」。
 「8月27日丁丑、府中の新屋敷の地形屏普請始まる」。
 天文19年7月19日、初めて「深志の城酉の刻高白鍬立」をなし、終に惣普請を行う。その後も度々城地を拡大し城下町を形成していく。深志は軍事上・政治上共に、その要地であり、深志城は信濃を支配する武田氏の中信の要城として30余年に亘って存続していく。
 武田軍は、翌天文22(1553)年になると、府中深志を拠点として会田(あいだ)・麻績方面へと北上する。

4)晴信、会田・麻績を掃討
 天文22年3月29日、深志を発ち、北上し会田(あいだ)へ駒を進め苅屋原へ着陣した。晦日にはその城の近辺を放火し、翌4月2日昼近く、苅屋原城を攻落した。城主太田長門守資忠は生捕られた。夕刻過ぎには塔原城が自落した。苅谷原城は現在苅谷原宿の南西にある鷹巣根城を称しているが、晴信が攻撃した苅谷原城というのは鷹巣根城、荒神尾(七嵐)城(こうじんおじょう;松本市七嵐錦部)の両城を指し、実質的な本城は遺構からみて、七嵐部落に所在する荒神尾城であった。寧ろ、戦国時代の苅谷原城は荒神尾城の方だった。
 宝永6(1709)年生まれの佐久郡野沢の庄屋瀬下敬豊の子瀬下敬忠(せじものぶただ)の郷土史『千曲之真砂』には、武田軍による苅谷原城攻撃の際、米倉丹後昌友が銃弾除けの竹束の楯を作って城に迫ってことが書かれて、「是日本竹束之起本也」としているが、説話の域を出ないとされている。
 『高白斎記』に依る。
 「四月三日己卯、会田虚空蔵山まで火を放つ。苅屋原の敵城を割り(破砕)、酉の刻寅の方に向い御鍬立。栗原左兵衛相勤むる七五三(3献;さんこん;の膳を言う。本膳に7菜、2の膳に5菜、3の膳に3菜を出す盛宴)。」
 晴信は「疾如風、侵掠如火」、早くも小県郡の海野氏を祖とする会田氏の本拠会田虚空蔵山を放火した。麓の会田殿村に居館を置く城主会田氏は降伏せざるをえなかった。晴信は次ぎの標的青柳氏攻略のため、既にその背後にある屋代・塩崎両氏に調略の手を伸ばしていた。
 「四月六日壬午御先衆十二頭立てさせられ候。昨日屋代(越中守正国)方、塩崎方同心致し桑原の地恙無きの由御注進。」とあり、調略に成功した。村上義清の属将、屋代政国(荒砥城主)、塩崎氏(塩崎城主)らが武田に内応した。特に村上氏歴代の重臣屋代氏の変心が趨勢を決定した。武田軍は村上氏の本城葛尾城(埴科郡坂城町坂城)攻撃の準備に入った。同月9日には、義清は葛尾城を自落して逃亡した。晴信と義清の軍略的差配の結果であった。越後春日山城の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。義清は、晴信に対して軍事で勝利しながら、戦略に敗れ孤立して村上の本城葛尾を戦わずして放棄し逃亡せざるを得なくなった。軍事の天才上杉謙信も武田信玄の高等戦略で、川中島周辺の支配権を、結果的に失う事になる。
 「四月八日甲申、苅屋原の城主今福石見守仰せ付けらる。御使い典キウ(典厩・信繁)栗原左兵衛。」
 「四月九日辰刻、葛尾自落の由申の刻注進。屋代、塩崎出仕。」
 「四月十日、石川方へ使いに朝見越前守(未詳)来る。」
 「四月十二日、典厩御伴致し葛尾に使いに参る。上意の旨長馬に越秋善(秋山善四郎)に申し渡す。」
 「四月十五日辛卯巳刻、苅屋原御立、青柳へ御着陣、泊る。石川出仕。大津賀久兵衛御目にかけ候。」
 晴信は青柳に着陣した。青柳近江守清長、頼長父子も、周辺の諸勢力が武田に屈し丸裸状態となり、青柳城(東筑摩郡坂北村青柳)を無血開城したようだ。
 「四月十六日高坂出仕。」
 「四月十七日節。典厩青柳の城の御鍬立。」
 「四月十八日甲午、没日室賀(山城守信俊)出仕す。」
 「四月二十二日、御人数八頭八幡(現更埴市)の筋へ御立ち候。敵五千ばかり打ち向うの由。」
 峠を越えて八幡平に進軍するが、長尾軍五千が行く手を阻んだ。この時、晴信は敗れ一度は苅屋原まで退いている。
 「四月二十三日己亥葛尾在城の御味方衆、於曾源八郎方討死す。」
 晴信は葛尾城代に於曾源八郎を置いて守らせたが、村上義清は4月12日、長尾景虎の援軍を得て更埴市八幡附近で武田軍と激戦、4月23日、葛尾城は落城して於曾源八郎は討死にした。義清は別所の前山の塩田城に入った。晴信は一旦兵を退いた後、7月25日、躑躅ヶ崎館を出陣し、8月には塩田城包囲のため軍を進めた。村上方の和田城初め諸城16が一日で陥落、村上義清は8月5日、塩田城を脱出し自落した。義清は3ヶ月余りで再び越後へ逃亡した。
 「四月二十四日辰刻、御馬苅屋原へ納めらる。晩より大雨。」
 「四月二十五日、大日方入道御代方へ参られ、某陣所に泊る。麻積、青柳、大岡の儀談合。」
 再び、武田氏は峠を越え八幡筋に向かった。

 
 長野市大岡から千曲市八幡方面を眺める

 村上義清は越後春日山城の長尾景虎上杉謙信)の支援を得て旧領回復を企て、4月23日には葛尾城を落城させて奪還した。これに対して信玄は青柳城をはじめ、麻績城、大岡城を重点的に守備することとした。同年9月、第1次川中島の戦いで、更級郡布施と八幡で武田軍を破った上杉軍は、筑摩郡にも侵攻し、武田方の青柳城に放火、会田の虚空蔵山城も攻め落とした。これに対し、武田軍は麻績城、荒砥城に放火し、一帯は武田・上杉両軍の激しい攻防戦が繰り返された。
 「二十五日、大日方入道御代方へ参られ、某陣所に泊る。麻積、青柳、大岡の儀談合。」とあるから、武田軍は麻績地方を完全に制圧し、麻積城主は服部氏、大岡城主は香坂氏であれば、麻積地方から長尾勢を押し返したとみられる。
 「五月朔日、上様深志へ御出で、麻績の儀落着候由、大岡・屋代方従う書状に候」
 麻績の服部氏は武田氏に靡かず越後へ去ったようだ。筑北地方が攻略されると、青柳氏が青柳城から麻績城に移り、もともと麻績氏の一族であったことから、麻績氏の名跡を名乗り、筑北地方を治めた。
 「九月小朔、麻積小四郎方へ来国光の刀遣わされ侯。栗原左兵衛方へ信国の刀下され候。越後衆八幡に動き、破れ新砥(荒砥城)自落。」
 長尾軍が大挙して南下、第一次川中島合戦が始まった。9月1日、更級郡八幡筋で武田軍は敗れ、屋代氏の本拠荒砥城は支えきれず自落した。9月3日には青柳城を放火した。
 「九月三日土用、青柳を敵が火を放つ。」
 「九月四日戊申、山宮と飯富左京と苅屋原へ越し候。会田の虚空蔵落居。晴信公御吉凶天祐の裸大吉。敵景虎吉凶無明裸大凶。尾州に向け義元御出馬。」
 武田軍は苅谷原城に山宮氏、飫富左京亮らを援軍として送った。
 「九月十三日夜、尾見(麻積城)、新戸(荒砥城)を忍び焼く。敵の首四拾栗原討ち捕る、敵首七、室賀方討ち捕られ候。翌朝、各に御褒美下され候。」
 9月13日、上杉軍の占領する麻積城・荒砥城に夜襲を掛け放火、敵の首4拾を栗原氏が討捕えった。
 「九月十五日己未申刻、御注進敵夜中に除くの由申し来る。」
 長尾軍は15日夜中、一旦撤退した。
 「九月十六日、窪村源左衛門高名。敵、仁内匠(仁科修理)、彌津治部少輔、奥村大蔵少輔討ち捕り、並びに景虎書状三通大集取り来り、塩田御陣下へ参り候間、御褒美をなし、則ち、源左衛門へ此忠節によって百貫地下され候。」
 麻積地方の窪村源左衛門が、長尾景虎に内応した仁科修理、彌津治部少輔、奥村大蔵少輔を討取り、その際景虎からの書状3通を確保した。後の上杉謙信も晴信同様、調略を行っていた。寧ろ、善光寺平から南の筑北地方に掛けては、熾烈な調略戦が展開されていた。長尾勢は9月17日に坂木南条を放火したものの塩田城までもは攻略できず、20日には越後へ撤退した。
 「九月二十日甲子、越後衆退くの由巳刻に申し来る。」

 武田氏滅亡後、会田氏の一族は、上杉氏の支援を得て小笠原氏に抗したが、深志城を回復した小笠原定慶(おがさわらさだよし)により天正10(1582)年に亡ぼされたという。

5)小笠原氏の晩節
 天文21(1552)年6月8日、晴信は府中小笠原氏が伊那からの備えとして構えた筑摩郡熊井城(塩尻市片丘)の鍬立を行った。府中を追われた長時は、天文22年、越後へ逃亡した。翌天文23年、小笠原信定は溝口長勝を越後に派遣し、兄長時を下伊那鈴岡城へ招いた。同年7月、晴信は大挙下伊那郡に侵攻、伊那郡の諸豪は続々と武田の軍門に降った。最後まで抵抗した知久頼元は捕らえられ、誅殺された。下伊那はことごとく武田氏の支配下に入った。
 小笠原信定の居城鈴岡城は防戦に努めまたが1か月程で落城し、府中より逃亡していた小笠原長時と共に下条(下伊那郡下條村;伊那郡伊賀良荘)へ退却しました。晴信の伊那進攻に際して松尾の小笠原信嶺は武田氏に従い、鈴岡城は松尾小笠原家の持城となった。同じ小笠原一族下条氏も武田氏の軍門に降り、以後、その麾下に属した。晴信は西上に際し、伊那郡の下条郷の重要性を認め、下条信氏の室に自分の妹を嫁がせ、信氏を義兄弟として遇した。信氏もこれに応えて武田方として三河方面に出兵し、信玄の西上に尽し、信玄から感状を賜っている。『下条記』では信氏ら下伊那衆は、山県昌景の相備衆(甲斐国以外の寄子)に加えられている。
 信定は、駿河へ出て伊勢へ逃れ外宮御師の榎倉武国のもとに身を寄せる。弘治元(1555)年、兄小笠原長時とともに摂津芥川城の小笠原一族三好長慶を頼る。永禄12(1569)年、三好一族と共に足利義昭を本国寺に襲撃するも敗れ、信定は戦死する。

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