片倉工業史   (Top
 目次
 1)片倉の草創期
 2)2代目兼太郎
 3)片倉の独占資本化
 4)片倉製糸巨大化の過程
 5)一代交配蚕種の普及
 6)片倉工業の企業再編
 7)現代の片倉工業株式会社

1)片倉の草創期
 明治6(1873)年、片倉市助が、長男兼太郎、その弟光治と長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)の自宅の庭で、小規模な10人取りの座繰り(ざぐり)製糸を開始した。明治政府が群馬に富岡製糸工場を開業した翌年のことである。市助には4人の息子がおり、長男から順に兼太郎光治、(今井)五介佐一といった。片倉はこの4兄弟が活躍して、後に世界最大の製糸会社に発展させていく。
 『片倉製糸紡績株式会社二十年誌』(以下『片倉社誌』という)によると、明治9(1876)年、市助から家督を継いだ長男初代片倉兼太郎は、時勢に順応し、「地主は貧窮農民を相手に一家の経営を図り、地主として立つことは自己の性格に合わず。むしろ先祖伝来の農を中止しても、時勢に順応し、国富増進に資する事業に進むにしかず」とこの時の気持ちを語っている。
 明治11(1878)年、川岸村字垣外(かいと)の天竜川畔に32人繰りの洋式器械製糸工場垣外製糸場を開設した。同製糸場は長さ13間(23.6m)、奥行き七間(12.7m)で、天竜川にかけた直径3丈7尺9寸(11.5m)の水車を動力に利用した。当時、生糸は「梱(こうり)」という単位で取引された。一梱は約34kで同製糸場では年間17梱を生産できたが、未だ出荷量に課題があった。
 翌年、尾沢金左衛門林倉太郎と共に世話役となり、7月、開明社を創業した。社長を決めたのは翌13年からで、爾後3人が1年交代で、その任に就き、他の2人は世話役と称したが、やがて副社長となった。同盟者は平野、川岸両村の製糸業者と区域を限定し、更に加入者を厳選し団結を強固にすると共に、品質の統一と優良製糸の産出に努めた。組員は18名311釜であったが、その主導者の片倉兼太郎、尾沢金左衛門、林倉太郎などは、後日、大いに事業を発展させた実力者であった。最初は尾沢金左衛門方を共同荷造所とし、林慶蔵が計算方に当った。
 開明社で兼太郎は同業者をまとめあげ、全国初の本格的な生糸の品質管理に乗り出した。
 生糸商からの要望は
 (1)二本揚がりという糸の混乱をなくす
 (2)糸が切れたら必ず結ぶ
 (3)糸の太さを均一にする
という規格の統一だった。だが、当時の製糸業者はまだ10釜前後の小規模経営が中心で、要望に応えるのは難しかった。
 開明社定則に「夫(それ)生糸は皇国の名産にして貿易上に亨利を得るの第一なり。外国挙て美なるを信ず。然りと雖も其の製粗なるときは声誉汚流に至り利を失すること顕然なり。依って同盟を結び、資本を醵金し1社を設立し、目下の小利に汲みせず永遠の大利を謀り、良糸を製し美名を海外に輝し富国の基礎を起さんと協議の上左の条件を決定せり。
 第一條
  此の会社は開明社と称し、平野村307番地へ仮に設立す。
 第二條
  会社資本金惣額弐萬圓也。製糸器械釜惣計三百拾壹、糸繰工女三百拾壹人とす。(中略)
 第四條
  此の会社は五年と定め、延期を望む時は衆議して願伺(ねがいうかがい)の上施行するものとす。
 第五條
  会議は毎年一月四日を定日とし、社長及び其の他の役員を撰挙し其の年の景況を衆議すべし。
  但し役員は一ヶ年を期とす。(中略)
 第十一條
  検査人は社長の命を受け日々巡回し製造の方法を指揮すべし。尤工女の點渉(処々見て監察)は検査人の管掌たるべし。
 第十二條(以後後略)
      結社人名(略、川岸十一名、平野七名)」

 製糸はその取引上荷かさの多い事が不可欠で、村内各所で共同荷造りの結社が多く誕生したが、それ以上に重要な必須条件は品質の均一化であった。それで各結社は生糸の精粗に等級をつけ、検査人を加盟工場を巡回させ繰糸技術の指導と統一を図るため監督させた。開明社は早くから原料の共同購入をしてきたが、更に加盟社の再繰作業を合同化し、品質の完全なる統一のため、明治17(1884)年、共同揚げ返し場(生糸を大きな枠に巻いて綛(かせ)にする設備)を天竜川畔字車田に新設し、品質の均一促進を効率化した。これは岡谷地方最初の共同揚げ返し場であった。長野県下では、既に明治11年須坂東行社が、その嚆矢で、開明社はその施設に倣ったといえる。当時必須の条件は、品質の統一にあったため生糸の精粗に等級を設け、その上検査人を派遣して各工場を巡回させ、繰り糸法の監督と技術水準の向上を図った。ここで加盟者の再繰作業を合同し、共同揚げ返し場で、小枠で持ち込まれた生糸を共同で揚げ返すことで品質の完全な統制と品質別梱包荷造りが可能となった。『片倉社誌』は加盟各工場の製品が、ここで比較されることにより品質競争が始まり、製品価値を高めたという。
 共同揚げ返し場の運用と検査法は「職制並検査法」で規定された。これによると各工場で繰糸された生糸は、小枠のまま天竜川畔の共同揚げ返し場に運ばれ揚げ返しされ、糸捻り、糸目改め、デニール(生糸や化学繊維の糸の太さの単位で、長さ450メートルで0.05グラムが基準で1デニールとし、長さが同じで重さが2倍・3倍ならば2デニール・3デニールとなる。)改め、生糸検査などの後、纏束(てんそく)の作業が行われた。各工場と開明社には通帳が備えられ、その各小枠には目札(めふだ)があり、そこに女工番号、糸目、デニール、等級が記入された。「工女賞罰規定」があって、目札の記載事項と1か月単位の皆勤などが評価され、女工の賃金が算定された。生糸品質は3等に区分され纏束された。
 『片倉社誌』によると、原料繭の共同購入、資金の共同借入し、加盟社中の製造生糸は開明社で共同販売を行い、出荷期日(通常月2,3回送荷)、製糸方法、工場管理、賃金及び関連施設まで統制し、また工場管理や女工対策なども規定して「工女心得」を定めるなど同一歩調の経営を行った。これにより開明社の名声は日増しに高まり、後に「信州上一番格(しんしゅうじょういちばんかく)」と呼ばれる輸出用の代表的な生糸を製造する基盤が整った。
 『   工女心得
 一、第一品行を正しくする事。
 一、出場帰宿発着の時日を記し、主人父兄にて捺印する事。
 一、夜中外出を禁ず。
 一、工場にて雑談余所見を禁ず。
 一、他人の用談あるも工場にてすべからず。
 一、就業中主人へ無断にて帰宿すべからず。
 一、毎朝出場時間遅刻無之事。
 一、踊放歌すべからず。
 一、製糸場の法方は主人の指揮を堅く守るべき事。
     明治16年7月      開明社』

 林富朗氏蔵の「開明社日誌」には、各製糸場の設備等で申し合いをする記録が散見される。既に原料繭の購入と再繰を共同に行っていた以上に、繰糸法に関しても統一すべく仕法を考えていたと見られる。
 片倉発展の要因について、東京大学名誉教授の石井寛治は「当時のアメリカは力織機に合う生糸を求めていた。開明社の糸は品質がトップということではないが、精密なアメリカのマーケットに合う製品を作った」と開明社の功績を指摘する。
  開明社は、諏訪地方の製糸業界では、中心的勢力となり、その好業績により斯業において模範となっていた。明治10年代を共同荷造結社の時代とすれば、20年代は共同再繰結社の時代とも言えた。皇運社、中山社、確栄社等は改変され、矢島社、改良社、平野社となり、共同揚げ返し場を新築し品質の統一を図り、中には開明社同様、原料繭の共同購入を行うなど、その組織、事業仕法は、開明社を模範とした。
 横浜では開明社製生糸のブランド価値を認め、開明社というだけで、高値取引となったという。明治21(1888)年には、年産8,190貫、代価352,315円となり、県下第一の結社となった。この発展は結社の指導者に人材を得ていたことも大きいが、当時の製糸業者は土地所有者が多く、土地の所有権は、今も昔も変わらず資金調達の際には有力な担保となり、横浜の売込問屋や銀行の信用を得やすかったせいもあった。
 創立世話人の片倉兼太郎は、明治9年に家督を継いだ時は8町8反でであったが、21年には12町に増えている。尾沢金左衛門は明治12年約5町3反、林倉太郎の明治12年地価は893円であった。いずれも江戸末期以来の大地主で経済的地位は高かく信用力もあった。また林倉太郎は糸挽惣代として商人の経験もあった。
 その名声は片倉の信用力を増し、資金調達を更に容易にした。片倉が拡張路線を突き進む際、生糸問屋や銀行が積極的に融資するようになり、片倉の成長を後押しすることになった。
 明治23(1890)年、松本工場を新設し、初めて郡外へ進出した。翌年には社員は22名、職工は1,800人に達した。明治26(1893)年、1,836釜に発展したのが頂点であった。諏訪郡内のみならず、全国製糸業界においても覇を唱える規模に達していた。
 しかし、その組織の増大は、却って加盟社の自由な発展を阻害する足枷となり、分割を増長する契機ともなった。明治27(1894)年、尾沢福太郎経営の尾沢組が、開明社から分出した。片倉兼太郎も天竜河畔に360釜の三全社を建設し独立態勢に入った。翌年、製糸事業の拡張に伴い、片倉組を設立しその長となり、以後全国各地に工場を展開した。
 明治27年頃から、諸結社は分解して行く。明治30年、開明社の社員小口音次郎、林布一、橋爪卯之吉、横内玄左衛門などが分出し山共合資岡谷製糸場(小口音次郎が社長)を運営した。会社組織となっても、個人経営が実状であった。

 この頃から片倉組は農林事業に着目し、翌年、内地、北海道、台湾などで土地買収を行っている。明治37年からは朝鮮平壌府に住宅地の経営も行った。この事業と製糸業を統括するため創設されたのが片倉合名会社であった。
 明治40(1947)年春挽限りで解散の議を決して、遂に開明社は解散となり、それぞれ独自経営となった。旧開明社の建物は、前社員の林源左衛門、林要吉等ほか小規模経営者が糾合して日本社を設立し、これを買い取り、共同揚げ返しを請け負った。それも次第に各自成長し自ら再繰り工場を設けるようになると、昭和4年1月、独立解散し消滅した。
 片倉合名会社は、大正期の6年(1917)以降、業容を一段と拡大した。倉庫業、有価証券と株式社債の引受けなど関連事業を拡大した。
 同年には工場20余、釜数1万を数え、わが国製糸業界の最大手となった。また諏訪生糸同業組合長となり、中央東線の敷設に奔走した。「雇人を優遇し一家族を以て視(み)る」と従業員の教育、保健衛生、福利厚生分野にも力を注いだ。
 教育面にも意を用い、育英施設明道館を東京駿河台に建設するなど多方面に活躍した。
 大正6年1月31日、69歳で亡くなり、川岸小学校校庭には頌徳碑(しょうとくひ)が築かれている。

2)2代目兼太郎
 これを継いだ2代目兼太郎は、第一次世界大戦後の日本経済膨張期の経営と世界最初の大恐慌期以降の経営を担った。
 戦火が拡大したフランスやイタリアに代わり、日本に米国向け生糸の注文が殺到してきた。米国は経済発展により所得が増え、世界史上最初の大衆消費時代となり、これまで高級品だった絹が消耗品の靴下にまで使われるようになっていた。
 大正8(1919)年当時、片倉組の本部は川岸村にあった。その拡大期、朝鮮(現韓国慶尚北道)大邱府に製糸工場を開設、海外でも製糸事業を展開する。翌9年、時勢の進展に見て、労資協調を鮮明にするため、利益の1割以上を全従業員に配分すると声明した。
 片倉合名会社は製糸業を核とした一大コンツェルンとなった。製糸部は資本金5千万円の片倉製糸紡績株式会社となり、初代社長となった。1株50円、総株百万株、その内70万株は発起人が引き受け、残りの30万株を  額面超過額30円以上で公募した。当時、製糸値4千円以上の大好況期であった。 株式の応募者が頗る多く、プレミアムは跳ね上がり、最高120円に達していた。この時期、上高井郡須坂町の田中製糸場の958釜と上伊那郡伊那富村武井製糸場1,016釜を併呑している。この年、片倉製糸紡績(株)は、県内外及び朝鮮を含めて23工場11,950釜の企業となった。この状況は、製糸業界に多大な影響を与え、以後、製糸家中の大規模経営者の多くは、これに倣い株式会社へ改変するものが続出した。しかし、株式の保有者は、同族近親者で経営の実態は旧態依然であった。
 片倉兼太郎は、大正12(1923)年の関東大震災で横浜港からの貿易が途絶すると、すぐにニューヨーク出張所を開設して生糸の販売を継続した。さらに紡績や肥料、製薬、食品、生損保などの事業を傘下に収め、製糸業を中核に、この大正期、日東紡績株式会社、片倉米穀肥料株式会社、片倉殖産料株式会社、片倉生命保険会社、日本機械工業株式会社などを設立し、「片倉王国」を築き上げた。
 同年5月、尾沢組は株式会社尾沢組となり 、資本金550万円、社長は尾沢福太郎が就任したが、同年11月、村内1,029釜、県外1,672釜の計2,701釜の設備を伴って片倉製糸紡績(株)に併合した。これにより片倉の資本金額は5千2百5十万円なり、更に各地に製糸所を新設、又は買収し製糸工場は、全国35か所、17,220釜に達した。そして蚕種製造をも兼営し、その余力を以って各地地方製糸業者と協力して姉妹会社設立し、その製糸会社は15社に達した。この他受託経営釜数4,500釜、傍系会社の釜数6,729釜と、その企業施設は本州、四国、九州、朝鮮から中華民国にも及んだ。
 日東紡績株式会社の前身は、大正8(1919)年設立の絹糸紡績の福島製練製糸(株)で、後に福島紡織(株)となり、不況期の大正10(1921)年片倉の傘下に入った。片倉製糸紡績(株)は、製糸と紡績では経営方法等が異なるため紡績業を独立させ、大正12(1923)年日東紡績(株)を設立し、片倉製糸紡績(株)の取締役片倉三平を初代社長に就任させた。三平は、繊維素材として少しでも可能性があれば、様々な素材の開発に挑戦し、それが企業風土となり今日の発展の礎となった。その成果が、グラスファイバーとロックウールで、日本でいち早く工業化に成功し、現在に至るも、世界でも有数の技術を持つ無機材料メーカーとして業界の中で確固たる地位を築き上げている。
 大正12と13年にかけて、片倉製糸紡績(株)山十製糸会社は、横浜に出張所を設け、自ら売込問屋を開き、片倉は更に神戸にも出張所を設置、米国向け生糸の大部分をニューヨークの出張所と協力して自社による直輸出とした。
 昭和期には昭和興業株式会社、昭和絹靴下株式会社、東部石油株式会社、大東鉱業株式会社その他を設立し、16年には子会社は19社に及んだ。
 昭和2(1927)年3月14日、国会で片岡直温(かたおか なおはる)大蔵大臣が「東京渡辺銀行が倒産した」と失言したのが切掛に金融恐慌が始まった。この日開かれた衆議院予算総会での答弁の中で、片岡蔵相は「本日昼頃、東京渡辺銀行が破綻しました」と妄言を発した。実際には東京渡辺銀行は、その日の決済に必要な資金を手当てすることに成功して営業を続けていたが、愚かな蔵相の発言を切掛として預金者が殺到したため、翌日から本当に休業することになった。明治から昭和初期にかけてわが国の主軸産業だった製糸業の中心地、「生糸の都」とうたわれた岡谷の製糸業界も大打撃を受けた。山一林組では昭和2年、待遇改善を求めた女子従業員による労働争議が起こった。昭和4(1929)年にはニューヨーク株式の大暴落が世界に波及し、日本も昭和恐慌に見舞われる。
 この混乱期に2代兼太郎は、60万円もの巨費を投じて片倉館の建設を推進した。その資金で製糸新工場が3、4つは建つといわれた。需要の激減で、糸価が暴落、多くの大手製糸工場が閉鎖に追い込まれる中、片倉製糸の資金力は際立っていた。いま片倉館に入浴で訪れる人は、年間16万人にのぼる。諏訪市の文化財、湖畔の観光スポットとしても存在感を増している。湯煙の中に西洋彫刻が立ち、ステンドグラスが輝く、レトロな内装を眺めながらラドン温泉に浸る、ほかの温泉では味わえない趣向である。
 昭和9(1934)年1月8日、2代兼太郎は72歳で没した。
 2代兼太郎の死後、その子脩一が3代目の兼太郎を襲名する。昭和14(1939)年に、旧官営富岡製糸場を合併、片倉製糸の積極経営は戦時経済が強まるまで続く。

 片倉市助の長男兼太郎を初代として、4男佐一(1862 - 1934年)が2代目、その子脩一(1884 - 1947年)が3代目の兼太郎を襲名する。2代目は文久2(1862)年生まれで、明治10(1877)年、長男兼太郎の準養子となった。大正6(1917)年に兼太郎を襲名して事業の拡大推進に奔走し、片倉米穀肥料株式会社、片倉殖産料株式会社、片倉生命保険会社、日本機械工業株式会社なども設立した。
 3代目脩一は昭和9(1934)年に襲名し、八十二銀行頭取、日本蚕種製造社長、諏訪工業社長などを歴任して実業界で活躍し、貴族院多額納税議員にも選ばれた。終戦後財閥解体指定を受け追放されて、その10日後の昭和22(1947)年1月15日に急死した。

3)片倉の独占資本化
 製糸業者は低金利で行政機関から融資を受けていたが、不足分は売込問屋、荷為替商である倉庫業者、第19銀行などの地方銀行などから借り受けていた。明治34(1901)年、平野村の「陸川製糸」の金利は日歩平均4銭1厘(年14.6%)と、想像を絶する高金利であった。それでも、明治、大正期など比較的好況に恵まれた時期であれば、金融機関からの融資も期待できたが、不況の昭和初期では、それも困難となり、かつて大手ともてはやされた山一林組、山十組、小口組など、次々倒産している。生き残るには企業合同により資金力を強化するか、大企業の傘下へ入るしかなかった。長野県では昭和7年には、短期購繭資金156万円、8年200万円、9年139万円と多額の資金を融通している。その際、減釜その他の設備の整理統合、共同設備の設置等が要請されている。
 片倉、郡是など大手企業の寡占化が進んだのも、大正期後半からであった。ただ、この時期、「片倉工業株式会社三十年史」の付録の表をみると、片倉では、大正9年からその末期まで、設備台数ですら漸増し、生糸売上額や生産額は、不況期といわれながら好調であった。

4)片倉製糸巨大化の過程
 片倉組は大正9(1920)年に「片倉製糸紡績株式会社」と社名を変更した。当時の製糸所は全国23か所、設備釜数11,950台、絹糸紡績所1か所、支店48か所で、その年産額は生糸3,800余梱、絹糸紡績製品27万斤となっていた。
 資本の不足から株式組織にし、発行株式百万株、一般公募30万株とした。原富太郎(三渓)、小野哲郎茂木惣兵衛など、横浜の売込商が顧問に就き、本社を東京の京橋に置いた。以後、昭和12年まで買収、合併、賃借経営、委任経営、創設などで、傘下の製糸所や工場が逓増していった。特に、大正12(関東大震災)、15年、昭和5年(井上準之助蔵相の金解禁)、11年(2・26事件)、12年(南京陥落)など不況期に委任経営や買収が増えている。その間、関東大震災、昭和6年の世界経済恐慌などがあり、製糸不況下、蚕糸業の合理化、過剰製糸設備の破棄、滞荷生糸の処分、糸価の安定、人絹糸との競合など課題は多かった。
 同社の社誌によれば「これらの内根本は、新興商品である人造繊維との闘いであった。これを解決しない限り、日本の製糸は自滅の他は無い状態においこまれたかもしれない」と述べている。この解決のため一代交配蚕種の普及による生糸の品質向上を図り、信州上一番から経糸用の優良品の製造に努めた。蚕種試験所、栽桑試験所、蚕種製造所などの設置をした。更に、優良繭の量的確保のため特約養蚕組合も設置した。
 この特約取引は、優良原料繭を確保するため是非とも必要で、組合製糸に加入していない零細養蚕農家がいる近畿、中部地方で発展した。大正期、片倉製糸や郡是製糸などが優良な経糸用生糸を得るためには、その品質の統一とその原料繭の継続安定確保が不可欠で、不安定な海外市場や国内絹織物業者の需要に応えるための絶対条件にもなっていた。
 この特約取引が全面的に展開したのは、昭和恐慌期であった。大正期既に「優等糸」産地と知られた京都、兵庫、鳥取、島根、大分など西日本では、この取引が多かった。しかし昭和恐慌期以降も組合製糸との関係もあって、東山地域の大規模養蚕農家の多い地域での特約は進まなかった。

5)一代交配蚕種の普及
 今井五介(安政6(1859) 年~昭和21(1946)年)は、初代片倉兼太郎の2番目の弟として、諏訪郡三沢村(岡谷市)で生まれ、明治10年(1877)、隣の平野村の今井家に養子に出、今井姓を名乗った。「資本の蓄積を計り誠実を旨とし天職を完せよ。明朗なること太陽の如く不平は一掃せよ(云々)」で始まる16項にわたり経費節減や能率向上などの心得を説く五介の遺訓はかつて片倉が経営する全国の製糸工場に掲げられていたというほど、「片倉王国」を築いた最大の功労者といわれている。後に片倉工業株式会社の2代目社長となる。
 片倉工業社史によると、五介は明治19(1886)年、農商務省の蚕病試験場に入り、後に渡米した。それは全くの遊学であったという。父・市助が病床に伏したとの知らせを受け、明治23(1890)年に帰国した。帰国すると完成したばかりの松本製糸所主任となった。明治28年片倉組結成後は、その経営に参画した。明治32年、松本製糸所を348釜に増やして、片倉松本製糸場と改称した。初代兼太郎の逝去後は、片倉製糸紡績副社長として弟の佐一・2代目兼太郎を補佐した。
 五介の功績は多条繰糸機導入など多岐にわたるが、最大の功績は何といっても一代交配蚕種を全国に普及させた事であった。
 当時、遺伝学者の外山亀太郎(慶応3(1868)年~大正7(1918)年)はメンデルの法則が植物だけでなく、蚕でも成立することを発見していた。外山は、性質の違う両親の子供は、その両親のいずれよりも優れた性質を持つという「雑種強勢」を提唱し、蚕の品種改良に雑種強勢を利用すべきだと主張した。
 養蚕農家は飼育上の失敗や繭が売れなくなることを恐れて、一代交配蚕種の飼育には及び腰だった。五介は一代交配蚕種の可能性を見抜き、養蚕農家に「蚕が死んだら責任は片倉が持つ。作った繭は必ず片倉で引き受ける」と約束、蚕種を無料配布して、一代交配蚕種の飼育を委託した。
 結果は予想を上回るものだった。一代交配蚕種は旧来種よりも病気に強く、繭の品質は向上した。五介は大正3(1914)年、合資会社大日本一代交配蚕種普及団を設立した。一代交配蚕種はわずか5年で全国に広がった。
 一代交配蚕種に加え、研究開発を支援していた御法川直三郎(みほがわ なおさぶろう)の多条繰糸機が実を結んだ。直三郎は、速度を速めると繭糸の切断回数が増え、しかも糸質の低下が著しくなることに気付き、このことが、低速多条繰糸機開発の切掛けとなる。明治37(1904)年には、一人で20条もの生糸を操ることのできる多条繰糸機の完成にこぎつけた。大正10(1921)年、大宮製糸所にこれを試験的に設置した。数多くの実地試験を重ねた結果、新たに32台を導入し、御法川式多条繰糸機による生糸の生産を始め、片倉製糸工場での実用化に成功した。良質の繭から多条繰糸機で高品位の糸をひくことができ、大正13(1924)片倉の生糸は世界的な名声を獲得した。高級生糸「片倉ミノリカワ・ローシルク」は、「ワンダフル・ダイヤモンド・グランドダブル・エキストラ」と激賞され、最高級生糸の代名詞になり、この糸名は一世を風靡するまでになった。
 大正9年、片倉組が本店を東京の京橋に移転し、資本金5,000万円とし、片倉製糸紡績株式会社を創設すると副社長となった。当時、23工場11,950釜に達し、中国などへ進出した。
 大正10年以降、「特約取引」は活発化する。諏訪では、大正14年、片倉製糸の下諏訪工場が、茨城県と山梨県下でも「特約取引」工場が組織化された。その特約では蚕種の配付を伴うことが多く、昭和5年には福島県と沖縄県に蚕種製造所を創設され、翌6年には佐賀、9年福岡、11年姫路と設置され全国13か所となった。「特約取引」も進められた。

 一代交配蚕種普及団の功績はこれだけではない。普及団が売った蚕種は、片倉が派遣した養蚕指導員が技術指導を行い、肥料代などの貸し付けも行った。その代わり繭は必ず片倉に売り渡すという約束が交わされ、これが繭の安定した確保につながった。これは片倉が先鞭を付けた「特約取引」と言われ、繭不足の時代にあっても、片倉の製糸業を支えた。
 五介は昭和8(1933)年、片倉工業株式会社の2代目社長に就任した。就任から7年後の記録によると、同社の製糸場は国内外に62ヶ所、蚕種製造所13ヶ所、所有地は計123万坪で、従業員は3万8,000人に上っている。
 東京大学名誉教授の石井寛治は、五介の功績を高く評価する。  「五介はアメリカで遊んでいたといわれているが、片倉に合理的な発想を持ち込んだ。人絹が台頭すると、片倉と郡是製糸(京都)以外の大製糸は没落した。片倉がこれを乗り切ったのは、五介が世界のマーケットをきちんと見ていたからだ」

6)片倉工業の企業再編
 山十製糸は、山十組として明治36(1903)年、小口村吉により諏訪郡平野村に結成された。第一次大戦期を通じて事業は拡大し、全国第2位の製糸規模を誇ったが、大正12年の大震災の打撃が大きく、事業が低迷し、大正14年株式会社として再生を図ったが赤字が累積する一方であった。昭和2年2月末には、借入金は4,095万円となり、資金繰りがつかず原料繭の購入も不可能となった。漸く安田銀行の融資によって倒産は免れたが、11月社長を廃し代表制とした。同族外の藤田英雄が代表者となった。しかし不振のまま昭和5年遂に破綻した。昭和6(1931)年、主要工場は、昭栄製糸株式会社が賃借経営する。昭栄製糸は安田銀行が、同年山十製糸株式会社の事業を引き継ぎ創立した会社であった。しかし翌7年8月、破産宣告を受けた。その大製糸家の倒産は、その危機対策として企業再編成が課題となった。
 昭和6年1月、諏訪の製糸業とかかわりの深い第19銀行の株主総会の席上、不況対策として企業合同が問題となった。同月25日、上諏訪片倉館に飯島保作(第19銀行頭取)、黒沢利重(第19銀行常務)、片倉兼太郎(第19銀行取締役)、小口義重(第19銀行監査役)、中沢才治郎(岡谷支店支配人)、片倉脩一(兼太郎長男)や橋爪中三郎(岡谷製糸株式会社)など有力製糸家らが協議し、席上、古村敏章(若宮製糸所)の「商業部門を担当する新会社を設立し、これに加盟する製糸業者は工業部門を担当する」商工分離する再建策が討議された。片倉兼太郎らの賛成もあって、製糸経営行き詰まりの打開策として新会社設立が決まった。その中心となったのが片倉工業であった。第19銀行の取締役でもあった片倉兼太郎が、第19銀行の融資を指導したとみられる。
 会議の中で、片倉工業の事業所中、諏訪事業所が著しく成績が悪い、米国において靴下用生糸の需要が多いが、高級格生糸を求めている、諏訪は一般に設備と技術が劣り、その需要に応えていない。そこで商工を分離し、販売部門と生産部門を別会社とする。結果、片倉工業、第19銀行、加盟工場で1/3ずつ出資し資本金は80万円とした。加盟工場の出資は、株券を担保にして、その約8割を銀行が融資した。加盟工場の自己資本が極めて脆弱であったといえた。
 3月31日、片倉兼太郎の嗣子脩一の立案に基き、創立総会が開催され丸興製糸株式会社が創設された。資本金80万円、本社は平野村3,808番地に置かれた。参加した製糸業者は片倉製糸紡績(株)、小口組、岡谷製糸(株)など9名、合計釜数は4,908釜であった。経営は、第19銀行の前頭取黒沢鷹次郎の養子黒沢剛と片倉工業専務取締役森谷彦太郎が、社長と専務になり、旧工場主は取締役となった。尚、常任監査に古村敏章が就任した。
 本社は当初の計画通り商業方面を担当し、原料の購入と生糸副産品その他の販売に当った。原料仕入れも、輸送中の損傷を恐れ、関東と信州地方を主力とし、乾繭能力を高めるため、諏訪倉庫(株)に本乾燥と保管を委託した。加盟工場は原料繭と共に送致される「原料各付表」と「賃挽料率決定通知書」により、本社が指定する各合の生糸を製造するため仕掛繭の保管、繰り糸揚げ返し、整理包装荷造などの現業に努めた。本社は、各加盟工場の設備、職工の技術その他の特性と製品販売上の都合などを考慮して、なるべく同一原料を同一工場で製品化するよう原料繭を選繭し配分した。なお、その秤量は諏訪倉庫(株)に委託した。
 旧債務は大口の銀行口は棚上げとなり、生産された生糸1俵につき10円の割りで、各加盟工場へ賃借料として支払うことになった。売込問屋の神栄など8店への負債は棚上げされた。丸興製糸が原料繭を購入保管し、加盟工場で加工請負の賃挽をさせ製糸は、従来各工場が取引していた問屋へ出荷し、旧債ある場合は売込手数料の割引と会社の配当金を以って逐次償却した。その賃挽料は1釜当たりの生産費の基準とした。
 賃挽料の基準決定には、片倉製糸紡績(株)に50釜の格付け試験工場を設け、公正精密な生糸の品質試験をして定めた。加盟工場はひたすら優良糸の繰糸生産に専念し、その品質に責任を負い、かくて工場内の空気は一新し、生産費が逓減する一方糸質と能率は向上した。かくて企業改革の成果により信用力が増し、本社へ中央一流銀行の直接融資も可能になった。その一方翌7年、全国5大製糸の1つ岡谷の山十製糸と山一林組を初め、小口組が破産宣告を受け完全に破綻した。

7)現代の片倉工業株式会社
 本社は東京都中央区銀座一丁目にある。平成20年12月31日現在、資本金は18億853万円、従業員は585名。
 主な事業内容は
 1.肌着関係 :紳士・婦人・子供インナー、カジュアルインナー、各種シルク製品、スクール水着等の企画・製造・仕入・販売
  靴下関係 :婦人パンティストッキング、スパッツ、タイツ、紳士・婦人ソックス等の企画・仕入・販売
  ブランドライセンス関係:DAVID HICKS、PAUL MAURIAT等のブランドライセンス業
 2.自動車部品、工業計器、各種バルブの開発・設計・製造・販売
  洗浄機・乾燥機・濾過装置・蒸留再生装置等の環境関連機器の開発・設計・製造・仕入・販売
  切削油・塑性加工油・潤滑油および関連商品の輸出入・仕入・販売
 3.ホームセンター、フラワー&ペット、カーショップおよびサイクルショップの事業
 4.ショッピングセンター、ゴルフ練習場、総合住宅展示場および不動産賃貸事業
 5.遺伝子組換タンパク質の生産・分析サービス、釣用昆虫、訪花昆虫、農薬等の製造

 代表取締役社長 竹内 彰雄氏挨拶
 「片倉工業は、明治6年に創業以来、シルクを通じて広く社会に親しまれ、近代産業の発展に大きな貢献を果たしてまいりました。
 時代とともに多様化する社会のニーズに応えるため、『シルクのカタクラ』として積み重ねた有形無形の経営資源を有効活用することにより多角的な事業を展開し、現在では繊維事業、医薬品事業、機械関連事業、サービス事業の4つの柱を中心とした事業を積極的に推進しております。
 当社は『くらし豊かに快適な生活シーンの提案』をコーポレートスローガンに掲げており、これは、お客様の『くらし』に焦点を当て、様々な角度から日々の生活を支援させていただくことで地域・社会へ貢献し続けたいと願うものであります。
 今後も片倉グループとして『進取の精神』で培われた伝統を大切にし、お客様の期待に応えられる製商品やサービスを提供できるよう、鋭意努力してまいります。
 今後とも一層のご支援、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。」
以上、片倉工業株式会社ホーム・ページより;http://www.katakura.co.jp/

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