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武居城から見た諏訪の中筋、戦国時代までは広く諏訪湖であった。当時までは、西山筋が丘陵地として栄えていた。 |
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諏訪一族は、東勝寺で殉死した |
鎌倉市役所前の諏訪神社 |
大倉山中腹の源頼朝の墓 |
茅野市高部の大祝墓石群 |
源氏御家人としての諏訪氏 Topへ
後三年の役
奥州前九年の役の発端は源頼義が陸奥守の重任を望み、奥六郡の俘囚長・安倍頼時を挑発し、天喜4(1056)年、安倍氏の蜂起を誘い合戦が始まります。この役(天喜4<1056>年~庚平5<1062>年)には、大祝為信は、現.人神であるから自ら出陣は出来ないので、子の為仲を総大将として神長守矢守真・茅野敦貞等を従わせ出陣させています。
当時、衣川の南にいた平永衡、藤原経清は頼義に従って戦っていましたが、二人とも頼時の婿である事から疑われていた最中、永衡は、陣中でことさら、きらびやかな銀の冑を着けているので、これは敵軍への通牒でないかと頼義に密告するものがあり、安倍氏との内通を疑われて殺されます。
これが引き金となって、同じ立場の経清は、安倍氏の陣営に属さざるを得なくなり、結局、前九年の役が長引く原因となり、源氏の力量では制圧できず、出羽の俘囚の主・清原武則に名簿(みょうぶ)を捧げ、やっと清原軍によって鎮圧され、その一族が台頭する契機となりました。
前九年の役の後、約ニ十年を経て起こったのが、後三年の役(永保3<1083>年~寛治元<1087>年)であり、奥州清原一族の内訂に端を発したものです。
永保三年(1083)秋、源義家が陸奥守として赴任します。前九年の役の後、陸奥・出羽を支配する鎮守府将軍清原真衡は、陸奥守として下向した義家を「三日厨(みつかくりや)」の饗応で大いに歓待し、その了解をえて、真衡の棟梁的支配に反発する一族の長老・母方の叔父の吉彦秀武(きみこひでたけ)追討のため出羽に向かいます。子のなかった真衡は、常陸平氏大掾(だいじょう)氏の一族で、陸奥国南部沿岸部を本拠地とする海道成衡を養子に迎え、源頼義の娘をその妻に迎えます。俘囚の主でもある清原氏の家格を高めようとした政略結婚でもあり、棟梁としての地位の確立と、一族の家人化を進めるため、源氏と平氏の血縁が必要でありました。
それに反発した真衡の父・武貞の養子清衡や異母弟・家衡も、吉彦秀武と共に、真衡を後援する陸奥守源義家と対立します。 すると吉彦秀武追討の留守に、館を義兄弟の清衡・家衡が再び攻めたので、真衡の妻は事情を義家に訴えて救援を求めます。
奥州に軍事的覇権を打ち立てようとしていた義家にとって、願ってもない好機到来でした。 義家軍を目前にすると、清衡・家衡は同じ馬にまたがって逃送する醜態ぶりでした。この間、出羽に出陣していた真衡は途中で病を得て頓死します。追討された清衡・家衡は義家に降伏すると、義家は陸奥の奥六郡のうち江刺などの三郡を清衡に、残り三郡を家衡に与えます。やがて吉彦秀武も義家に従い、義家の意図はひとまず成功します。
今度は家衡と清衡が対立することになります。原因は、清衡が清原真衡の養子で、元々清原氏と血のつながりのない、連れ子の藤原秀郷系の清衡が、奥六郡のうち地理的に有利な南半分を継承したことに対する、家衡の不満にあったと思われます。家衡の暴発を誘う当初からの義家の謀略があったと見られる。清衡は陸奥国の亘理(後の磐城国)の豪族藤原経清と安倍頼時の娘の間の子で、父・経清は前九年の役で源頼義に属しながら、途中で反旗を翻し安倍氏に味方し、厨川の戦いで大敗した安倍氏と最後をともにします。この時清衡は七歳でした。敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命でしたが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁することによって、危難をのがれ、連れ子の清衡は清原武貞の養子となり救われます。
家衡はまず清衡の暗殺をはかって失敗すると、清衡不在の館を襲撃し火を放ち、その妻子・眷属を殺害しますが、清衡は命を全うし、義家を頼ります。
義家は数千騎を率いて家衡を出羽国沼柵(秋田県平鹿郡沼館町)に攻めます。これは数カ月の攻防となり、やがて義家軍は大雪によって利を失い、飢えと寒さで凍死する者が続出し撤退を余儀なくされます。時に応徳3(1086)年冬のことでした。
いっぽう、家衡の叔父の武衡は家衡の善戦を聞いて喜び、家衡に加勢します。両者は沼柵を棄てて、より要害堅固な金沢柵(秋田県仙北郡金沢町=横手市の北方)に立てこもります。当時、義家の弟で新羅三郎と呼ばれた源義光は、京都で左兵衛尉の官にあったが、兄の苦戦を聞き無許可で睦奥に下向、これに勇気づけられた義家は寛治元(1087)年9月、数万の兵を動員して金沢柵の包囲を完成します。
金沢柵の攻防戦は、中世前期の一騎打ちを主体とする武士の戦闘形態とはほど遠い、近代戦に似た兵粮攻めによる、非戦闘員の大量殺毅によって決着がつけられました。
激しい攻撃にも容易に陥落の様子を見せない金沢柵に対し、義家は兵粮攻めの策をとります。この作戦は成攻し、柵内の清原軍は飢餓に苦しむことになり、ついに武衡は義光を頼って降伏を願い出ますが、義家は許しません。やがて冬になり大雪が降るに及んで、柵内の飢餓は甚だしさを増し、極限状態に達した清原方は、城門を開いて柵内の女性や子供を追い出します。これに対して義家は、この避難民を一旦は引き取ろうとしますが、同族の吉彦秀武は、柵内の人が減れば糧食の尽きるのが遅れるという理由で、柵から出てきた清原軍の兵士たちの妻や子供を、見せしめに彼らの眼前で皆殺しにさせたのです。
11月14日、糧食が完全に尽きた金沢柵はついに攻め落とされ、家衡は逃送しようとして討たれ、武衡は捕らえられて助命を求めたが斬首されます。その際義光は「降伏した武衡の首は切るべきでない」と、義家を諌めます。しかし「戦場で生け捕りにされ、命乞いする者は降伏とは言わない」と一喝します。この時の敗者に対する処遇は極めて残酷なものでした。義家軍の兵士たちは、金沢柵に乱入し、清原軍の兵・女子を虐殺し、「逃ぐる者は千万が一人なり」という凄惨さでした。「わしのすむみやまには、なべてのとりはすむものか、おなじき源氏と申せども、八幡太郎はおそろしや」と謡われた義家の実像を、この話はよく伝えています。逃げ惑う城兵・女子供、乱入する兵に当たるを幸いで切り殺され、目ぼしい女性は陣中に連れ去られます。
「切っ先に首を刺した兵のあとを、妻たちが泣きながら就いて行く」、戦後の世界共通の地獄図です。
後三年の役の諏訪為仲の去就
前九年の役以来、諏訪為仲は源義家と親交が厚く、奥州で苦戦の義家はその援軍を依頼してきます。当時為仲は為信を継いで大祝になっていました。古代から「大祝は現人神、人馬の血肉(ちにく)に触れず、況や他国をや」の厳しい“神誓”があって、諏訪の地を離れられません。しかし義家と共に戦いたいとの決意は固く、父・為信はじめ神使(こうどの)一族や氏人の反対を退け、再度奥州に出陣したのです。
この戦いで、為仲は武名を上げ、さすがに武神と知れ渡り、武神大祝一族は信濃全域に広がり、その一族は、各地で諏訪明神を、氏神として勧請したため諏訪大社の分社が各地に広まる切掛となります。それを契機として、諏訪明神は、水辺の神・狩猟の神・農耕の神から、武神の神として崇敬されるようになります。
日本の神社ほど、時代の風潮に迎合し、その哲学に節度がない宗教も珍しいのです。
合戦の後、義家は睦奥守の立場から中央政府に上申書(国解)を提出しますが、これに対して政府は、「武衡・家衡との戦いは義家の私合戦」で、よって追討官符は発給しない、という対応を示します。これを聞いた義家は武衡らの首を路傍に棄てて、むなしく京都に上ります。
朝廷はこれ以上、義家が勢威を振るうことを嫌ったのです。
後3年の役後、寛治元(1087)年12月、上洛する凱旋軍・源義家の陣中に為仲も同行しています。先に上洛した義家の奏上は、これ以上の台頭を嫌う白河院・関白師実に阻まれて、本隊の軍兵は東山道美濃の国莚田(むしろだ)の荘に長期駐屯を余儀なくされます。そのつれづれに、為仲は義家の弟・新羅三郎源義光の招請による酒宴に赴きます。その時、部下双方が喧嘩し死者を出すに及んで、棟梁源氏を憚って為仲は自害します。それを聞いて義家は駆けつけると、為仲の鎮魂に諏訪神社を建て、莚田の荘を寄進したといわれます。現在の糸貫町の諏訪神社です。
これは、為仲が、諏訪の地を出てはならないとする“神誓を破ったことに対する神罰であると受け止められたので、そのため遺児の為盛は、大祝の職に就けませんでした。『諏方大明神画詞』によると、為盛の子孫は多かったが、共に神職を継がなかったので、為仲の弟の次男為継が大祝を継ぎますが3日後に頓死し、また、その弟の三男為次が立ちます。しかし7日目に急死、ようやく四男為貞が立って当職を継ぐことになり、後胤は10余代にわたり継承されます。
戦勝者の源氏の棟梁、義家は私合戦と断定され、陸奥守を解任され、勲功も賞もなく、任期中の政府や権門寺社への貢納を軍資金に使い、戦後は郎党の褒章に流用し、結果政府に莫大な負債を抱えるようになります。ようやく10年後、白河院の特別の配慮で受領功過定(ずりょうこうかさだめ)で「無過」の判定が得られたのです。しかしながら義家の嫡流は、弟の義光などの一族に、その地盤を侵食され、義親・為親・義朝の三代いずれも、最期は賊将となり生涯を全うできませんでした。頼朝の代になって、初めて天下に覇を唱えますが、一族の内訌の連続で、頼朝以外、以後天寿を全うする者もなく、3代で滅びます。
対象的にこの大きな犠性によって安倍・清原氏の伝統を受け継ぎ、戦勝者として生き残った藤原清衡は、国司交代に伴う権力の空白をつき、清原一族の遺領をすべて独占し、「俘囚の主」であるばかりか、陸奥出羽押領使となり、初めて奥州全域に君臨するのです。清衡によって平泉政権が樹立され、奥州藤原氏の基礎が築かれたのです。
鎌倉時代の背景
12世紀末以来、御家人階層を基盤とする鎌倉幕府は、数度の戦乱を通して獲得した所領を御家人階層に再配分し、その自己増殖欲求に応えてきました。しかし、13世紀半ば頃から中世社会の大規模な変動が始まります。
宝治元(1247)年の宝治合戦により、執権北条氏は、鎌倉幕府の御家人として勢力を振るってきた三浦氏と千葉秀胤系の千葉氏を滅亡させます。ただし、千葉氏の本宗である千葉頼胤は北条氏方でした。三浦氏の一族である和田氏も、和田合戦で没落しましたが、一部の残存勢力が、この戦いで三浦氏に味方し、再度の没落を余儀なくされました。この合戦は三浦氏の乱とも呼ばれ、得宗専制を完成させ、鎌倉幕府の政治体制を安定させます。
以後、所領増殖の機会となる戦乱の発生自体がなくなると、かつて惣領・庶子への分割相続により、御家人一族はその勢力を拡大してきましたが、分割すべき所領を得る機会を失い、惣領のみに所領を継承させる単独相続へと移行します。 単独相続を契機として、惣領は諸方に点在する所領の集約化と在地での所領経営に励みます。この過程で、庶子を中心とする武士階層の没落がはじまり、本所(荘園本家)と在地武士との所領紛争が先鋭化します。
平安後期以降、荘園の所有関係は複雑で、最高の所有者は本所または本家といい、皇室・摂関家・大社・大寺でした。その管理は、その下の一般公卿や寺社の領家(りょうけ)に任されますが、実際の管理は地元の有力豪族・領主に委ねられます。彼らは領家を兼ねることもありますが、実際的支配者ですから、やがて領主として自立していきます。
荘園内部では、本所周辺の武士による侵略を防ぐために、本所は荘園支配の強化に乗り出しますが、在地では荘園支配の実務にあたる荘官領主が、自立した経営権を確立しようとします。ここに本所・荘官間の対立が生じ、当時、急速に進展していた貨幣経済・流通経済の社会への浸透が両者の対立を、一層、激化させます。
一方、鎌倉時代後期、特に元寇以来、北条得宗家の権勢が伸張します。さらに北条一門の知行国が著しく増加します。しかし他の御家人層は、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣流通経済の普及、武士階層の貧窮よる没落者の増加など、ますます世情が荒廃化します。幕府は徳政令を発して対応しますが、諸国では悪党の活動が一層激化し、幕府は次第に支持を失っていきます。
武士階層内部もしくは荘園支配内部における諸矛盾は中世社会の流動化へとつながっていき、13世紀後半からの悪党活動は、各個自立化へ向います。さらに同時期の元寇は幕府に、決定的な打撃を与えました。
執権北条家の推移
北条時政嫡男・宗時は、頼朝挙兵時の敗北の際、伊豆国の平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を経て、早河の辺りまで逃れますが、そこで伊豆の豪族伊東祐親の軍勢に囲まれ、小平井久重に射られて討たれます。 源頼朝の鎌倉入りの時、時政に随行した子は、義時、時房の2人だけでした。それが孫の代になる13世紀半ばには、義時からは嫡流得宗家、名越流、極楽寺流、正村流、伊具流、金沢流と、時房からは佐介流、大仏流と分流します。そして一族は50人を越え、そこに幕府草創期以来の東国御家人と実務官僚としての御家人一族、およそ25、6家が加わり、120余名で幕府を運営します。その家族、家臣合わせて、5百人前後が鎌倉に在住します。その執権を筆頭とする鎌倉在住の有力者を「鎌倉中(かまくらじゅう)」と称しました。
それ以外の幕府の外郭をなす武蔵、相模、上総などの御家人も含めて、地方在住御家人を「田舎人(いなかびと)」と呼んでいました。御家人相互に、既に身分格差があったのです。彼らには鎌倉番役のみ課せられ、幕府組織内の役職には就けませんでした。
正月三ヶ日の椀飯(おうばん;椀飯振舞)は、釜で煮た飯を椀に盛りつけたもので、饗応(きょうおう)すること、また、そのための食膳です。公家では殿上(てんじょう)の集会などに、武家では家臣が主君をもてなすさいに行われ、鎌倉時代に、それが幕府の儀式となったのです。
その椀飯の儀式に参加できるのも、「鎌倉中」の御家人に限られました。『吾妻鏡』には将軍をもてなす時、弁当を出し、それに一洒一肴だけの簡単な宴を催したということが載っています。
鶴岡八幡宮の流鏑馬などの、幕府の年中行事にも「鎌倉中」の有力者が殆ど独占していたため、田舎人の参加の機会は皆無に近かったのです。相模、武蔵の国々の地名を歴代、名字とする関東有数の御家人の当主も、生涯無官のままであったことも少なくなかったのです。
長崎(平)、諏訪、安東(あんどう)氏のように、得宗御内の草分けは、いずれも主君の館近くに屋敷を構え、侍所の上級職員として鎌倉内の警護責任者に任じられていました。彼らも形式上は御家人の身分でしたが、実態は得宗こそ主君そのものでした。蒙古来襲の時代には、御内人家も幾つかの流れに分かれ、諏訪も大祝家のもならず、その氏族の多くも御内人として仕えています。そして諏訪、長崎(平)
、安東、工藤、尾藤の一族からは、10数人の者が衛門尉(えもんのじょう)や兵衛尉(ひょうえのじょう)の官途に就きます。 やがて彼らの中には何十箇所の得宗領を預かり、北条一門の有力者すら凌ぐ権力を有し、大多数の御家人を見下すようになります。
文永9(1272)年4月、御家人渋谷定心(じょうしん)の子、定仏(じょうぶつ)が、諏訪盛重の子、左衛門尉入道真性(盛経)に書状を送っています。内容は「常々3人の息子が、お手元で奉公していましたが、そのうちの与一重員と七郎頼重の2人が、父の命に背き他家の方へ参りました。不幸者として勘当しました。便宜の折、この旨御披露下さい」と、かなり恐縮しています。それには定仏なりの、深い処世術が働いていました。
彼の息子2人は、連署義政(極楽寺流;重時の子)に出仕先を換えたのです。ところが4月4日、義政は突然、出家の暇(いとま)を賜ります。執権時宗の政権の有様に耐え難いものがあったのでしょう。5月12日、義政の使者が来て、盛経に「与一の勘当許すべき由」と告げます。有力御内人の屋敷には、何十人もの御家人の子弟が出入りしていたのです。そして13世紀後半から、御家人でありながら、御内人にもなる者が一段と増え、北条泰時の時代と比べると倍増しています。
得宗領の膨張に伴い、有力御内人の権力は強まる一方です。関東御分国のうち得宗が守護職を兼ねるのは、武蔵、駿河、伊豆、若狭は固定していて、さらに時宜に応じて3,4ヶ国が加わります。この得宗分国の一国ごとに、御内人有力者が守護代に任じられたのです。
その後、義政は家中の者にも告げず、信濃善光寺に向います。6月2日、義政の「遁世」の事実が明らかになります。
13世紀に鎌倉で起こった内訌は10を越え、その度に多くの有力者の家が滅び、その所領は得宗家はじめ北条一門の有力者と勝利者となった「鎌倉中」の御家人に分配されました。
北条時宗の子・貞時執権の後半期に、奉行人から風諫状が提出されます。その内容を要約しますと「御家人たちの所領の規模は、昔は大多数が1千丁前後あった。ところが現在1千丁以上の家領をもつ御家人は10余名にすぎない。その9割方は4、50丁の規模である。」
およそ1世紀のわたって繰り返される分割相続によって、「鎌倉中」の有力者の所領でも4、50丁の規模が殆どとなりました。また和田合戦、宝治合戦、霜月騒動などの内訌に連座し、家領の多くが没収されもしたです。霜月騒動後もまた、得宗家への所領移管が集中したのです。それで貞時への風諫状提出となったのです。
金沢北条氏の当主が、六浦湾に橋を架ける際「惣田数、6,539丁4反」と記しています。北条有力者の勝ち組、7、8家も、それ相当に身上を膨らませていたのでしょう。その結果、北条一族が他の御家人階層から孤立し、破滅していく道筋に繋がったのです。
貞時は永仁5(1297)年、永仁の徳政令を発布して金銭・所領の無償取り戻しを可能にして御家人困窮の救済をはかりますが効果がなく、翌年には撤回しています。正安3(1301)年、にわかに執権を辞任して従兄弟北条師時に譲って出家します。しかし寄合により実権は握ったままでした。
この時期執権の代でいえば、10代北条師時(時宗の弟・宗政の子1275~1311.享年37歳)。11代宗宣(大仏宣時の子.1259~1312.54歳)、この時代既に、宗宣は内管領長崎高綱に政治の実権を握られていました。12代煕時(ひろとき;政村曾孫.1279~1315.37歳)と継承されます。13代基時(極楽寺流のうちの普恩寺流.1286~1333.48歳)は、新田義貞らが鎌倉を制圧すると、潔く自害しています。出家していた北条貞時(1271~1311.41歳)の卒去は応長元(1311)年10月のことです。得宗北条貞時の専制時代の末期から、執権のめまぐるしい交替に象徴される政権中枢の混乱時代を経て、14代得宗北条高時(1303~33.31歳)が就任します。
奥州では蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起きます。北海道と津軽で蝦夷(エゾ)の蜂起があり、蝦夷管領の代官・安藤五郎が鎮圧に向かうも、蝦夷に首を取られる事変が生じます。原因については、得宗家の権力の拡大で、蝦夷に対する年貢の要求が増大したことや、北方からの蒙古の圧力により蝦夷の民が疲弊した事によります。
文永元(1264)年以来、40年間に及ぶモンゴル帝国・元によるサハリン方面への征討が続き、北辺に重大な事態を惹き起こしたといえます。 鎌倉初期、北条義時は津軽地方の地頭職となり、同時に「蝦夷管領」職に就いています。その中期には北条時頼が、津軽と合わせて南部地方の地頭となり、末期には岩手県北部と青森県全域を含む陸奥国北部一帯の地頭を、北条一族が独占します。その間、北条氏の御内人が地頭代として現地に派遣されます。安藤氏も代々、蝦夷管領代官として権勢を奮っていたのです。
文保2(1318)年以前から続いていたとみられる蝦夷管領代官・安藤又太郎季長と従兄弟の五郎三郎季久との間で、後継問題や所領の分配等で内紛が起きていました。その上に、元応2年(1320)には、津軽の蝦夷の再蜂起が加わります。そうした時代に、北条
高時が、執権(在職 1316年 - 1326年)に就きます。『保暦間記(ほうりゃくかんき)』によれば、得宗被官である御内人の筆頭・内管領の長崎高資(たかすけ)が、対立する2家の安藤氏双方から賄賂を受け、双方に齟齬をきたす下知をしたため紛糾したものであり、蝦夷の蜂起はそれに付随するものと書かれています。
安藤氏一族の嫡流争いは、津軽半島の東西に双方が堅固な城を構え、それぞれ部下の蝦夷(エゾ)数千人を動員します。岩木川を挟んで争闘を繰り返しても決着せず、やむなく正中2(1325)年と嘉暦2(1327)年に、幕府は工藤祐貞、宇都宮五郎高貞、小田尾張権守高知等に大軍を率いさせますが、鎮圧できませんでした。翌年秋、ようや和睦が成立、蝦夷管領代官職は旧来からの五郎派の季久が引継ぎ、季長の所領は没収されます。この紛争の長期化が、幕府の権威を失墜させ、その滅亡を早める要因となりました。
正中元(1324)年、後醍醐天皇は父である後宇多法皇に代り親政を開始し、同年、京都で幕府転覆を計画し、正中の変を起こします。この倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、土岐頼兼、多治見国長、足助重範など密議に参加した武将は討伐されます。
高時は嘉暦元(1326)年に、病のため24歳で執権職を辞して出家すると、後継を巡り、高時の実子邦時を推す長崎高資と、弟の泰家を推す有力御家人・安達時顕が対立する嘉暦の騒動が起こります。3月、高資は邦時が長じるまでの中継ぎとして北条一族の金沢貞顕を執権としますが、泰家らの反対により貞顕はまもなく辞任して剃髪、4月に赤橋守時が就任することで収拾します。
執権職を退くと高時は、田楽と闘犬に熱中します。北条得宗歴代の質実ぶりからは想像できない有様です。『太平記』には「(犬を)輿にのせて路次を過る日は、道を急ぐ行人も、馬より下て是に跪(ひざまず)き、農を勧(つとむ)る里民も、夫(ふ)にとられて是を舁(か)く」と、鎌倉街中を、錦を着た犬達が徘徊します。諸国から多くの犬を集め、月に12、3回は闘犬を行ったといいます。高時のみならず、鎌倉の有力者も「田舎人」の困窮を省みず闘犬に耽ったようです。禅僧の中巌円月(ちゅうがんえんげつ)の詩文集『東海一?集(とうかいいちおうしゅう)』には、現在の浙江省に人を遣り、犬を求め鎌倉の有力者に献上した者までいたと記します。
田楽にも日夜朝暮の別なく耽溺したといわれています。田楽は宇治平等院に属する本座と、興福寺の新座がありましたが、高時は両座共に鎌倉に呼び出します。当時の鎌倉の様子を金沢貞顕は、その子息宛の書状で「田楽の外、他事無く候」と書き送っています。
元弘元(1331)年には、高時が長崎円喜らを誅殺しようとしたとして高時側近らが処罰される事件が起きます。同年8月に後醍醐天皇が再び倒幕を企てて山城国笠置山へ籠もり、河内国の下赤坂城では楠木正成が決起し、後醍醐の皇子・護良親王が、大和国の吉野で挙兵します。元弘の変の勃発です。 幕府は北条一族の大仏貞直と金沢貞冬、御家人の筆頭である下野国の足利高氏(後の尊氏)、上野国の御家人新田義貞らの討伐軍を派遣して鎮圧させ、翌1332年3月には、後醍醐天皇を隠岐島へ配流し、側近の日野俊基を鎌倉の葛原岡で処刑します。皇位には新たに持明院統の光厳天皇を立てます。
元弘3年/正慶2年(1333)に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と足利高氏を京都へ派兵します。高家は戦場で倒幕軍を圧倒しますが、野伏戦を得意とする赤松則村の一族・佐用範家が匍匐前進し近づき、矢継早にはなつ強弓の矢に、眉間を射られ落馬し絶命します。勝利を目前にしながら、大将を失ってしまった名越軍7,000余は、大混乱の中に壊走します。高氏は既に寝返っていました。後醍醐天皇方として、六波羅探題を攻略します。
関東では上野国の御家人・新田義貞が挙兵し、5月15日、武蔵野国の多摩川中流、分倍河原(ぶばいがわら;武蔵国府所在地)で、得宗高時の弟率いる幕府軍を撃破して鎌倉へ進撃します。18日早朝、鎌倉の西の境界領域を過ぎ、七里ヶ浜に陣を布きます。22日未明、稲村ヶ崎を渉り大挙侵入すると、それを牽制してきた由比ヶ浜沖合いの何百艘もの船が一斉に姿を消します。遂に前浜の布陣も突破され、鎌倉市街に火が放たれます。
新田軍が目前に迫ると、高時は鎌倉八幡宮の東隣、小町(塔ノ辻)の館から、その後背地の山腹にある、3代執権・泰時が創建した北条家菩提寺・葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らと共に自刃、享年31。自刃した北条一族は283人で、鎌倉に在住し、奮戦するも戦死しなかった諏訪一族の殆どが、東勝寺で殉死しています。鎌倉在住の得宗御内人唯一人も、投降することなく、高時の周囲に集まり殉じます。その数、およそ7,8百名に及びます。源頼朝の開幕以来140余年で、鎌倉幕府は滅亡します。将軍家でない、本来補佐役の執権が、政権を担い、実に質素に政権を維持し続け、その最期にあっても、親類筋の足利高氏以外、一族と家臣集団が奮戦し続け、最期に潔い自決の姿は、日本史どころか世界史においても実に希で、その後の武家政治の鑑となっています。
東勝寺は、この時焼失しますが直ちに再興され、室町時代には関東十刹の第3位に列します。しかし戦国時代に廃絶します。塔ノ辻の館跡が、現在、萩で有名な宝戒寺です。
頼朝時代の諏訪大社
信濃国は平安時代末、70余の荘園とそれに準ずる牧が存在していました。諏訪の地は、信濃国一宮、地方権門の諏訪神社として、律令制の下で神祇官の管轄下に置かれていました。大祝の祝は、祝部に由来します。倭政権に奉仕する神職に就く部民の長が、大祝を称したのです。上下賀茂神社、大神神社(おおみわじんじゃ )、住吉神社、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)等でも、大祝を神官の長として戴いています。
上下社領として大祝の神領も二元的支配となっています。平安時代のある段階までは、神祇官の所領でした。宮内庁書陵部に残る「神祇官年貢進社注進状」によれば、信濃国では官幣社・諏訪社だけが、布千反を官年貢として神祇官に納めていました。
左馬寮が管轄していた信濃の諸牧も、放牧地として荒廃するなかで左馬寮家の田畑主体の荘園に変貌するに伴い、年貢を納入するようになったのです。中央の官司が、その管轄地を荘園化し、年貢を徴収する中央官僚組織の所領を、諸司領といいます。平安時代、諏訪大社上下社領も、ある時代までは、神祇官が荘園領主として、権益を有していました。
しかし神祇官は諸司領の経済基盤を単独では、維持できなかったようです。平安末期、諏訪社領本家として八条院が現れます。『吾妻鏡』文治2(1186)年3月12日の書状によれば、諏訪社領は八条院領でした。『久我家文書』には、その領家を八条院女房の孫・平頼盛の室に伝領されたとしています。その記録によれば文治2(1186)年には、諏訪南宮上下社領が八条院の御領とされています。
八条院暲子(しょうし)は、その父・鳥羽法皇から保延6(1140)年12ヶ所を譲り受け八条院領が始まります。その後母・美福門院得子からも領地を譲られます。承久当時には220余ヶ所となりますが、安元2(1176)年には104ヶ所にとどまり、当時の信濃国八条院領は東条荘(長野市旧松代町旧東条村)・捧荘(ささげそう;松本市笹賀)・大井荘(佐久郡)・常田荘(小県郡)の4ヶ所で、諏訪社は含まれていません。それから寿永3(1184年)年までに、八条院領となっていますから、平家全盛期に、その荘園に組み込まれたのでしょう。
平頼盛は、平清盛の弟で、その池殿と呼ばれる母親は平治の乱(1159)の時、捕らわれた幼き源頼朝の命を清盛に嘆願して救った池禅尼(いけのぜんに)です。その頼盛の妻が、八条院の乳母宰相(さいしょう)でした。その縁で八条院を本家としていただき、頼盛の室が領家となり、その夫頼盛が管轄したのです。
頼盛の室は村上源氏の源国房の娘で父は法印寛雅で、母の代から八条院の乳母宰相でした。母子2代にわたる八条院乳母宰相でした。
頼朝は、平家滅亡後、池禅尼の恩に報いて、頼盛の領家職の継続を認めました。頼盛は平氏の都落ちの際、八条院の後見を頼り京に留まっていました。その後、頼朝を頼って鎌倉に向かったのです。その後信濃が京から遠い、もっと近くの願いで、伊賀の六箇山にとりかえられました。以後、諏訪領は頼朝の直轄支配となります。
諏訪武士は、平治の乱に際しても源義朝に従っています。乱後、平清盛に敗れ源氏一族はことごとく姿を消しています。諏訪氏は荘官として忍び、源氏の再起を待つ事ができたのでしょうか?それ以前に、古代の諏訪大社を支えてきた経済基盤は、何であったのでしょうか?
『諏方大明神画詞』によれば、坂上田村麻呂の蝦夷征伐に諏訪の騎馬兵士が大いに活躍していた時代、桓武天皇は「宣旨を下されて諏訪郡の田畠・山野各千町、毎年作稲八万四千束、彼神事要脚にあてをかる」として、諏訪郡内の作稲が、諏訪大社神事の用途に充てられる神郡(しんぐん)になったと記しています。
4月15日の大宮神事には、神郡領家の所役として「当郡の貢にあつる所也」と命じ、その際の流鏑馬10番も「郡内例郷の役」としています。
諏訪郡の領家には、諏訪神社の神郡支配という特殊性から、貢納、賦役と様々な負担が課せられていたようです。 諏訪社は官幣社として朝廷から奉幣料が支給され、その上、社田があったようです。官幣社の奉幣料の『幣』は、『みてくら』と訓読みし、庶民が神に捧げる『幣』、即ち『へい』とは、根本的に違っています。いわば『天皇自からの下し物』の意味です。
諏訪社領とは、諏訪本社の所領で、その郷村総てが寄進され、年貢や御狩役、造営役などの公事の所役が課せられます。諏訪大社前宮から杖突峠を越えて山間地に入ると、最初の郷村・藤沢(高遠)から、黒河内(くろごうち;伊那郡長谷村)、鹿塩(かしお;下伊那郡大鹿村)、大河原(下伊那郡大鹿村)へと、今の秋葉街道の山道にそって分布する山村総てが社領でした。この街道は、諏訪から遠江・東海に通じる要路で、鷹匠や猟師などの山の民が早くから開発してきた山間地です。
一条天皇の時代、道隆・道長兄弟が権勢を極めた藤原氏が最盛期に達し、一方、清少納言、紫式部・和泉式部らによって平安女流文学が花開いた頃です。現在、非持(ひじ)から黒河内まで現在美和ダムとなっていますが、その渓谷の一画、非持郷のことが、『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に取上げられています。一条天皇の時、大番役で京に上っていた鷹匠の知恵で、社領の検校(寺院や荘園の事務の監督役)であった豊平の地位が安堵されています。非持郷も早くから開かれた山間部で、鷹狩りの技術に優れた山人達が居住し、大番役として京に出仕しているのです。そして神氏一族の藤原氏が、文治2(1186)年には藤沢から黒河内を所領としていたようです。
鎌倉時代の諏訪社領
諏訪大社上社の大祝篤光は、いち早く源氏に味方して戦勝の祈祷を行った恩賞として源頼朝から平出郷(上伊那郡辰野町)と宮所郷(上伊那郡辰野町)の寄進を受けます。同時に下社も岡仁谷と龍市(上伊那郡辰野町)の2郷を寄進されます。
諏訪大社は、鎌倉幕府草創期より、源頼朝の保護を契機にして信濃をはじめ全国各地に諏訪信仰を広めます。特に承久の乱(1221)の活躍により、北条氏からも変わらず庇護を受け、やがて幕府御家人から北条得宗家御内人となり、執権泰時、時頼の時代、最も信頼される家臣として重用されます。
幕府内の諏訪氏一族の地位の向上により、軍神として諏訪社が各地の武士に信仰され、信濃以外の諸国にも、勧請されるようになります。そして各地の分社には、その維持管理用に水田が寄進され、郷村の中に諏訪神田が置かれるようになります。
備中国新見荘では、「諏訪祭」が本社の御射山祭と同じ日に行われています。若狭国倉見荘御賀尾浦には諏訪下社が勧請され、延歴3(1310)年、領主から諏訪神田が2段を寄進されています。その用途は分社での五月会や御射山祭での御供膳や御贄としての魚、鳥、散米、濁酒に充てられて、神前読経や神楽も行われています。島津本家の薩摩国にも鎌倉末期には、諏訪社が存在していました。
諏訪分社の数は、おそらくは数千社にも及んでいたでしょう。全国の分社総てではないにしても、諏訪神田からの収穫物の一部が『御贄』として、本社にも貢納されてきました。
先の若狭国倉見荘御賀尾浦の分社からは、鯛・塩・あわび等が御贄として、毎年刀祢(とね)らが、諏訪大社まで運んでいました。その後銭に換算され納入されます。こうして全国から集まる御贄と銭は、膨大で諏訪大社の経済基盤を大きく支え、延いては神氏一族が勢力を張る要因になったのです。
『大徳寺文書』によれば、南北朝時代の諏訪神田に関しては、諏訪大社大祝が支配する「神主管理地(こうぬしかんりち)」と、領主が支配する「給主(きゅうしゅ)管理地」と呼び区別されていたようです。
諏訪一族と北条氏の関係
1) 鎌倉時代における諏訪大社
平城天皇の大同年間に封7戸を、貞観7(865)年に水田2段を賜ったと記録されています。鎌倉末期の嘉禎4(1238)年の文献、『諏訪上社物忌令(ぶつきれい)之事』に「南は鳴沢(茅野市西茅野安国寺)、北はこしき原(諏訪市有賀)のうちは神聖地とし、罪人も殺してはならぬ」と定められています。宮川の南の平坦地が上社の直轄領荘園となり、武居荘と呼ばれていました。上社大祝は時代とともに荘園領主化し武力を養い、一族結束し信濃屈指の有力武士団を形成します。
諏訪神社は、郷村からは五穀豊穣の農耕神として、また中世の武家社会では軍神として広く崇敬されていました。鎌倉時代、諏訪大社では五月会と御射山祭という2大行事がありました。特に御射山祭は、例年旧7月26日から30日に及ぶ大祭で、信濃国の地頭・御家人は行事の度に、頭役(とうやく;当番役)と呼ばれる勤仕(きんし)を順番にあてられ、御奉公としての鎌倉への出仕を免じられる代わりに、幕府が定める公役(くやく)として課せられました。
信濃国の地頭・御家人を12組に分け、輪番制で勤仕させます。しかし、出費負担が重く、有力な御家人でなければ果たせなくなりました。 『諏方大明神画詞』にも「一生の財産を投ぐ」と記されています。その為に、源頼朝の死後に勢力を広げてきた北条一族が、信濃国に多数、地頭に任用されると、この頭役も専ら北条氏が実施するようになります。
当時、この祭りには諸国から多くの庶民も参加し、帰国の際には薙鎌などの諏訪大社の分霊を受け、郷土に鎮守神として祀るようになります。また各地の豪族も、その氏神として奉斎し、中世のこの時期に広く諏訪神社が祀られるようになりました。
2) 諏訪大祝家と北条得宗家との関係
信濃国における北条氏の諏訪信仰は、政治的にも重要な意味を占め、諏訪上社の大祝である諏訪氏が、北条氏の有力御内人(みうちびと、みうちにん)として、重要視されていったのもこの頃からです。御内人は、鎌倉時代、北条宗家の得宗家に仕えた武士達です。当初は、得宗家の所領(北条代所領、得宗領)の代官として管理を担当していました。北条氏の一門が、守護となった国では守護代を務めます。
得宗家の勢力が強化され、それに伴い御内人も幕府内で権勢を持つようになると、中には諏訪氏一族などのように、御家人でありながら、陪臣である筈の御内人へと転身を図るようになります。むしろ一般の御家人にとっては、名誉でもあり、勢力を伸張できる地位でもあり、経済的に保障されることでもありました。
諏訪氏は3代執権泰時以降には、有力御内人として大きな勢力を持つようになりますが、鎌倉幕府の滅亡と同時に多くの諏訪氏の一族も北条氏と命運を共にし、鎌倉の地で死んでいます。
諏訪大祝家一族は、最期まで北条得宗家の有力家臣として、幕府の警固と謀反の鎮圧に奔走し、文官としては、公事奉行人として政務に励んでいました。
元弘3(1333)年5月18日、新田義貞は鎌倉に討入り際、兵を3手に分け、稲村ヶ崎近くの極楽寺の切通し、現在の大船よりの小袋坂、扇ガ谷の化粧坂(けわいざか)から攻め込みます。その時諏訪氏は、北条一族の大仏貞直に率いられ、長崎氏と共に極楽寺の切通しで防戦します。しかし22日、義貞軍が稲村ヶ崎から鎌倉街内の侵入に成功するようになると、果敢に善戦していた北条一族の諸将も力尽きて討ち死にしていきます。高時が東勝寺で自刃する時も、諏訪盛経、諏訪入道直性(宗経)も共に殉死しています。『太平記』は直性は自らの腹を切ると、その刀を引き抜き高時の前に置き絶命すると、高時はその刀で自刃したと記します。
3) 諏訪大祝家と承久の乱
元来、信濃国は源頼義・義家以来、源氏を棟梁と仰ぐ地域で、頼朝・義仲の挙兵に際しても、信濃武士は大いに活躍しています。頼朝は幕府創設後、諏訪神社を崇敬し保護します。しかし源氏は3代で滅亡しますが、その後実権を握る北条氏も頼朝以来の諏訪神社信仰を継承します。また信濃武士団も、源氏同様に北条氏に忠誠を尽くします。信濃は頼朝以来、関東知行国であって、その公領・荘園は共に幕府の支配下にあったのです。
承久3(1221)年5月14日、後鳥羽上皇は、現在の京都市伏見区にある鳥羽にある離宮・城南寺の流鏑馬にかこつけて、畿内とその近国14ヶ国の武士1,700人を集めて、執権北条義時討伐の宣旨を諸国に下したのです。 諏訪一族にとって、この承久〈じょうきゅう〉の乱・1221年が大きな契機となりました。鎌倉幕府の源氏は3代27年間で滅び、政権の実権は執権職の北条氏に渡ります。その時、朝廷は幕府の混乱とみて、政権奪還の好機と考え、倒幕の軍を鎌倉に向けます。鎌倉の北条氏は、都方の軍を討つため大軍を東海道、東山道、北陸道の3手から都へ進めます。この時、上社大祝盛重は、帰趨に迷い、諏訪明神の神判を、仰ぎます。神判は「鎌倉方について直ちに出陣せよ」との、お告げでしたが、大祝盛重自身は、大祝で古来からの神誓で、郡内から出られません。長子の信重を総大将にして諏訪一族を出陣させます。
信重率いる諏訪勢は、武田五郎、小笠原長清らを将軍とする東山道軍に従い京を目指します。尾張の葉栗原に達したときは、諏訪勢の数3千騎を超えます。美濃の大井戸(岐阜県美濃加茂市太田町)で、川をはさんで京都の軍と対陣しますが、これをを突破して美濃と尾張の国境・尾張川で宮方を撃破します。朝廷軍は戦闘開始早々、ほとんどが逃亡してしまったようです。後鳥羽は比叡山の僧兵らの協力を求めますが、14日には宇治川・瀬田川において宮方が敗れ、翌15日に北条泰時ら幕府軍が入京すると、後鳥羽は義時追討を取り消し、宮方についた御家人藤原秀康、三浦胤義(三浦義村の弟)らの逮捕を命じます。
北条義時は大祝盛重に書を送り、功を賞すると伴に、諏訪明神の神徳に報いる為と土地を寄進します。大祝盛重は、大祝職を子に譲り、武士として幕府に仕え、承久の乱の手柄により、鎌倉に重く用いられ、その後の上社大祝家発展の契機になります。また諏訪一族が多数、信州一円のみならず、西国・北国などに所領を得て、広く「諏訪」の氏族が広がることになります。 また諏訪系諸族も論功行賞として、幕府が朝廷より没収した土地の新補地頭として所領を得たのでした。諏訪盛重は、北条氏に信任され、泰時、経時、時頼の3代の執権に仕えます。
承久の変後の信濃の公領・荘園は有名無実化し、実態は北条氏の所領が信濃全域に及んだのです。信濃の守護は北条義時以来、鎌倉幕府終末期まで北条氏でした。その国司と政庁にしても、北条氏が実権を握っていました。この時代、上伊那郡を含んだ諏訪郡の殆どが、諏訪大社上下社の支配下に入ったと考えられます。
4) 承久の乱後の諏訪大祝盛重(諏訪兵衛入道蓮仏)
下社大祝盛澄は、文治3(1187)年の鎌倉鶴ヶ岡八幡宮で行われた流鏑馬の際に、頼朝にその妙技を認められ、鎌倉殿の御家人になります。『吾妻鏡』には、その年から16年後の建仁3年まで、正月3日の御的始めの射手として、「諏訪太夫盛澄」の名が登場します。しかしその後、金刺氏は幕府との関係が、それほど緊密でなくなります。むしろ諏訪氏やその氏族の射芸による活躍が、『吾妻鏡』に記されます。金刺氏を後援する梶原景時の失脚が影響しているようです。
上社大祝家は「嫡流の大祝は、在職中は諏訪郡外に出てはならない」とする“神誓”があり、当初は幕府の御家人にはならなかったのです。ただ一族の支流、祢津氏や藤沢氏は、早くから御家人として鎌倉に出仕していました。
承久の乱後、大祝盛重はその地位を息子の信重に譲り、北条得宗家の家臣として鎌倉に出仕するようになりました。 『吾妻鏡』には、貞永元(1232)年、泰時の代に、鎌倉和賀江島(わかえじま)に埠頭を構築する際、検使役として登場します。嘉禎元(1235)年9月1日、鎌倉法華堂の火事のとき、風が強く大火の恐れがあるとして、民家数十軒を壊して、それをくい止め恩賞を受けます。その時、屋敷を執権北条泰時(3代)の居館に隣接する地を賜ったのです。そこが現在の鎌倉市役所と御成小学校の辺りです。当時は諏訪屋敷内に諏訪の社がありましたが、現在では市役所前の道路を越えた鎌倉商工会議所の左隣に小さく存在しています。
盛重は5代執権北条時頼から、長子宝寿丸(時輔)の傳役(もりやく)を、おおせつかります。時頼の執権就任は、先代執権・兄経時が23歳で夭逝し、兄の子が幼いため、その中継ぎの感がありました。その時頼が、やがて泰時の嫡孫の後継者として、北条家における得宗家の地位を揺るぎないものにします。時頼が最も信頼するのが盛重でした。傳役は宝寿丸成人後、後見役として大きな影響力を行使できます。しかし盛重は、その役目を一月余りにわたって固辞するばかりではなく、日々の諸用途も負担しませんでした。
宝寿丸の誕生は宝治合戦の翌年です。母は将軍家に仕える女房、讃岐局(さぬきのつぼね)です。しかしこの時既に、時頼は信濃守護でもある連署重時の娘を娶っていたのです。時頼にとって祖父泰時の弟で、北条一門の長老を舅にもつことは、自分の子孫を新たな嫡流と認めさせることに繋がります。建長3(1251)年、重時の娘は、甘縄(あまなわ)の松下禅尼の館で男子を産みます。正寿丸(しょうじゅまる)、後の時宗です。翌々年には、同腹の弟、後の宗政、その後更に、宗頼が誕生します。なお松下禅尼は時頼の母で、有力御家人・安達景盛の娘です。これにより時頼の子孫が嫡流家を継承することが確定しました。
盛重ばかりではなく、有力御内人たち全てが、この事態を予測していました。宝寿丸の傳役は、自家の滅亡を伴う危険を孕んでいたのです。
盛重は以後も、なにより重要な時期に、幕府の重責をあずかります。将軍・頼経と三浦泰村の謀反・宮騒動のとき、その弁明に三浦泰村が弟・家村を使者として、執権・時頼館に差し向けた際、時頼は会わず、諏訪盛重を介して、その弁明を聞き置いたといわれます。
この時代、諏訪氏のように、幕府御家人であるより、広大な領地を支配する北条得宗家の御内人の方が、経済的に優位で一族に繁栄をもたらします。既に有力御家人以外は、随分と困窮していました。
それで三浦泰村の謀反の恐れありと、時頼が事前に打った手が、三浦の庶子家の佐原流三浦盛時に、時頼の得宗家被官となり、得宗領・陸奥国糠部郡五戸郷の地頭代補任による、調略でした。宝治元(1247)年5月、宝治合戦・三浦氏の乱で惣領家が滅んだ後、三浦盛時は三浦の介を承継しています。この有力御家人の三浦泰村の反乱に際し、盛重は 時頼の命を受け戦い、時頼から「無双の勲功」と称えられています。
宝治合戦直後の寄合衆、内々の御寄合の座に、時頼・政村・実時・義景の4人が揃った際、得宗家被官・諏訪盛重が奉行を勤めています。その信頼は篤く、時頼臨終の時「極楽往生ができたら、お前を迎えに来るぞ」と言われたほどでした。享年37。盛重は、4年後、文永4(1267)年4月27日鎌倉で、没します。
諏訪盛経は諏訪盛重の子で建長3年(1251)11月、将軍九条頼嗣の祖母が死去したために、北条時頼の使者として上洛しています。その後は執権北条時宗の内管領・平頼綱のもと寄合衆の一員として、評定衆・佐藤業連(さとうなりつら)と共に蒙古襲来に対しています。その子の諏訪直性(じきしょう)は 侍所の一員として、元寇後、益々困窮する御家人の救済を目指し弘安徳政を推進する安達安盛が政争に破れ滅亡すると、専横となった平頼綱が、主の執権貞時に討伐された後の貞時政権を支えます。その後も順調に出世し、再審によって敗訴人の権利を保護しようとする越訴の制度・越訴奉行(おっそぶぎょう)へと進み、北条時宗忌日斎会には八番衆筆頭として務め、貞時13回忌法要には一品経の徳行品や銭百貫を調進しています。
鎌倉幕府の執権職をほとんど独占し、北条時政、北条義時、北条泰時と続く、北条家の嫡流を北条得宗家と呼びます。鎌倉幕府の関東御料とされていた肥沃な伊那春近領(はるちかりょう)は、しだいに北条得宗家の領地とされ、政所、地頭代と呼ばれる得宗家の家臣が、伊那春近領に派遣されてきました。北条得宗家は、諏訪大社を中心として諏訪地域から上伊那地域の支配を強めて、経済、軍事力、或いは思想面の基盤の強化を意図していたのです。
上伊那地域には、諏訪氏の分流、藤沢氏、中沢氏、平出氏、宮所氏、松島氏、深沢氏などが、北条得宗家の地頭代となって在郷を支配していました。伊那春近領片切郷、飯島郷には物品を交換する市場があり、京都へ通じる東山道沿いとして、物流の拠点となっていました。
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