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目次
(1) 縄文時代の定義
何をもって縄文文化の始まりとするかは、諸説ありますが、通説通り土器の出現を縄文時代の始まりとする。
竪穴式住居などによる定住化と、煮炊きする土器により、それ以前には食料にすることができなかったものを、食料化することによって、年間を通しての食料の確保が可能になった時代となった視点も加味する。但し旧石器時代にも伏屋式住居は存在し、獣皮・樹皮を器としストーンボイリングを行っていたと考えられている。
人類の祖先がチンバンジーの祖先と分かれた約600万年前以降、頻繁に遊動を繰り返し、広範囲に散らばる資源を効率よく利用してきた。たかだか1万年前頃、漸く定住化した狩猟採集社会が登場する。計画的な狩猟採集生活が保障される環境が整った豊かな台地に定住するようになると、動植物の生態への理解が深まり、派生的に農耕・牧畜が始まった。移動生活を繰り返さなくても長期間食料を確保できる知恵・技術・計画性の向上により、安定化した定住生活が確立され、乳幼児を抱える親や高齢者の負担が減り、次第に人口増加へ繋がった。
青森市大字三内字丸山の三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期(約5,500年前~4,000年前)の大集落跡で、そこでは、長期間にわたって定住生活が営まれて、更に栗・瓢箪、牛蒡(ごぼう)、豆等の栽培もなされていた。
今から約1万3千年前に最後の氷河期が終わり、その後約1万年前に、温暖な間氷期への過渡期といえる比較的温暖な晩氷期が始まる。
自然環境の変化は、その都度、人類の生存生活に、大きな試練を与えてきた。それに適応しょうとする懸命な努力が、文化発展の画期となった。日本列島においても、この現象の例外ではない。この温暖化は大型哺乳類の生息環境の悪化を招き、同時に人類の人口増加による乱獲と相まって大型哺乳類の減少を引き起こし、新たな食糧資源を探す必要性を生じさせた。それ迄の遊動・狩猟活動主体の生業体系に、根本的な変革を迫られた。一方、この温暖化は、木の実を豊富に生産する落葉広葉樹の森を育成することとなり、半ば必然的に植物性食料へと、人々の目を向けさせることとなった。縄文人の生業活動は、落葉広葉樹林の高い植物性食料の供給力に支えられるようになり、これにより、縄文文化的定住を実現するための基盤が、整っていきた。
縄文文化確立の前提条件としての「縄文的な定住化」が、はるか1万年以上も前、まず九州地方南部で始まったことにもそれが理由である。
当時は、最終氷期の名残で気候は今よりかなり冷涼、極地を被う大陸氷河も厚く、日本列島周辺でも海面が40メートルほど低かったと言われている。それが次第に温暖化していく過程で、日本列島でまず落葉広葉樹林が形成されたのが、低緯度に位置した南九州の地であった。縄文時代前期を頂点とする気候温暖化の進行をなぞるように、縄文時代早期前半には関東地方、近畿地方、そしてそれに続いて東北地方へと、落葉広葉樹林帯が広がり、それにより高緯度地域にも縄文文化的な定住が可能になっていった。
しかし、後述するように、更なる気候の温暖化は、近畿地方以西の植生を、やがて常緑照葉樹林に置き換えていく。堅果(けんか;果皮が木質か革質で堅いブナ・クリ・トチ・コナラなどの果実)
類採集による植物性食料依存型の生業が困難になっていった。その結果、縄文文化は東日本を主体に発展する。 そんな環境変化の中、木の実などの採集・貯蔵、煮炊き用の容器の必要性から土器が進化した。約1万3千年前という時期には青森県大平山元(おおだいやまもと)遺跡から無文土器と、一群の最古となる隆起線文(りゅうきせんもん)土器が出土した。
同時期のものとして、長崎県佐世保市瀬戸越町の泉福寺洞窟遺跡から最古の土器とされる豆粒文(まめつぶもん)土器が、佐世保市吉井町の福井洞窟遺跡からは隆起線文土器が出土している。この時期、九州北部のいくつかの遺跡では、大陸起源の“細石刃(さいせきじん)”が、土器ともに出土している事実も見逃せない。
縄文文化草創期、九州地方北部と東北地方北部が重要な初源的地域であった、しかし、縄文時代の起源に関しては、未だ、今後、発掘される遺跡によってしか解明されようもない多くの課題が残されている。多くの人々の真摯な根気作業よる、多年の努力の積み重ねによって成果を生む、野尻湖の立が鼻遺跡の長年の調査が好例である。なにより重大なのは、発掘調査は一方では、遺跡の破壊でもある。それは、高松塚古墳における文化庁のずさんな調査だけの問題ではない。
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(2) 大平山元遺跡
青森県の津軽半島の中程に、太宰治の「津軽」にも登場する蟹田町がある。この町の西外れに、旧石器時代(約 16,000年前)から縄文時代草創期(約13,000年前)にかけての大平山元遺跡群が発掘された。それは、東北の縄文文化の幕開けとなる遺跡とみられている。昭和46(1971)年、青森県立郷土館に寄贈された一本の磨製石斧がその発見のきっかけとなりった。刃部のみを磨いた大形な石斧で、それまでも、関東中部地方や青森県長者久保遺跡など、旧石器時代初期からの遺跡から当たり前のように出土する磨製石器である。
当時、この時期の遺跡に関して、東北地方では未だ本格的な調査例がなかった。そのため、郷土館は早速に学術調査を開始、その結果、磨製石斧と石製ナイフなどの石器と一緒に、同じ層から新しいタイプの石鏃(ぞく)とともに、予想さえしなかった土器が出土した。石製ナイフなどの石器は旧石器時代の物、後者の石鏃
(矢尻)と、土器は縄文を代表する遺物というのが、当時の常識であった。土器片は、文様の全くない親指大がほとんどで、30点ほど出土した。それは非常に脆い細片でしたが、無文で隅丸方形の平たい底部をもつ鉢形土器であることが判明、それまで土器の伴わない段階と見られていたこの時代に、既に土器がつくられていたことが、初めて明確になった。これまで北海道以外の日本列島各地に分布していた、口縁部にみみずばれ状の装飾のある「隆起線文」を持つ縄文草創期の土器とは異なり、。むしろ隆起線文付土器に先行する祖源的土器と見られ、同一地層から出土した石器類から旧石器時代末期の土器と認められた。
当時、茨城県後野(うしろの)遺跡から、旧石器時代終末期の大陸起源の石器・細石刃に伴う無文の平底土器が発見されたばかりであった。九州北部が縄文時代の起源で、次第に日本列島を東進したというそれまでの考えに、再考を促された矢先でもあった。
大平山元遺跡から出土した土器は、縄文土器の祖源を示すものであると同時に、土器の起源が、かつて山内清男の主張したように、樺太・北海道経由の北方ルートを通って、遠くシベリアに求められる可能性を再び示すものでもあった。大陸では、広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡など長江中流域の南部で最終氷期最寒冷期の2万~1万8000年前の土器が、広範囲で発掘されている。
日本最古段階の土器が、津軽半島から出土している事実は、その地で創造したのか、あるいは他の地より伝承したのか、未だ判明しない。縄文文化黎明期の東北地方に、それを十分受け入れるだけの文化力が備わっていたことが重要だ。異なった時代に属するとおもわれてきた石器と土器が同時に、しかも同じ地層から出土するというケースはもちろん青森県内では初めてで、土器を除けば、石器群の構成は青森県東北町の長者久保遺跡から出土したそれと、かなりの共通点をもっている。
土器を伴わずに、新旧タイプの石器が混在している文化を御子柴(長野県上伊那郡南箕輪町)・長者久保文化と呼ぶ。それに共通する特徴から「大平山元1遺跡」の問題の土器片は、旧石器から縄文時代に移行する際の「草創期」のものと推定された。それから25年後、新たな調査に伴って同遺跡から出土した、炭化物が付着した土器(無文)片五個について「放射性炭素C14年代測定法」で、年代測定を行ったところ、何と1万4千―1万3千年前という結果が出た。それまで国内で一番古いとされていた隆起線文土器より、さらに古い無文土器の存在が浮上してきた。
縄文草創期の諏訪湖底の曽根遺跡からは、爪形文土器が多いが沈線文土器や無文土器も出土している。無文土器には器面をきれいに撫でて、なめらかに仕上げられているものが多い。指で撫でた痕を遺している土器片もあった。無文土器は片羽町(かたはちょう)遺跡でも見られ、草創期から不可欠な土器であったようだ。
縄文土器には様々な形が工夫され、巧みな装飾文様が施されている。縄文時代を通して各地方で製作量と形体は異なるが、深鉢の煮沸機能を専らにする無文の土器の方が大量に生産されていたようだ。前者を「精製土器」、後者を「粗製土器」と呼ぶ。「粗製土器」には、湧水・厚い堆積の灰層・多量の堅果類が遺っている物が多い。木の実を調理加工する前処理として、土器で加熱し中に灰を入れてアク抜きをしていた。多量の木の実を短時間で仕上げる無文の粗製土器が、生産性を重視した土器、機能を目的とした土器として主流となっていた。
「大平山元1遺跡」の無文土器片は、さらに炭素年代判定の精度を高めるため、今度は「暦年代較正」という新手法を加えて分析したところ、問題の土器片の較正暦年代は、最も古い値で「約1万6千年」前、平均値で「約1万5千年」前、という数値が得られた。
縄文時代はざっと5千年ぐらい前というのが、ひところの常識であった。最近は1万2千―1万3千年前が一般的な見方であった。較正暦年代はそれをさらに数千年も押し上げるデータで、土器の出現時期が旧石器時代、それも最終氷河期の最中となった。
炭素年代と較正暦年代の出現は、大きな宿題を突き付けることになりる。いずれにしても、縄文の年代観そのものが再検討されて、縄文時代の起源は1万6千年以前にまで遡る。
発掘された土器などの遺物には炭化物が付着しているケースが多いので、放射性炭素C14年代測定法は、放射壊変の性質を利用して、遺物に含まれるC14の減り具合を調べることで、土器などの炭素年代(BPで表記)を特定するす。近年はこれが考古学に導入され、年代判定の分野で効果を上げている。
C14年代は、スタンダードのC14濃度と、試料がCO2の供給を絶たれた時のC14濃度が同じであるということを条件に計算されている。ところが実際には、銀河宇宙線の強度変化、地球磁場の変動、太陽活動の変動、海洋に蓄積された
CO2供給量の変動、化石燃料からのCO2の供給、核実験の影響などにより、それらのC14濃度に違いが生じ、C14年代と暦年代の間で計測結果が異なった。厳密に言えば、この炭素年代も実年代とは必ずしも一致しない。
大気中のC14濃度が常に一定でなく、経年変化しているので、その誤差を補正する手法として登場してきたのが「暦年代較正」である。現在では年輪年代測定との照合により、およそ1万年を少し遡る時点まで放射性炭素年代値
(BP) と実際の年代の対応表が作られている。
年代の分かっている木年輪のC14年代測定(約10000yBPまで)、サンゴのC14年代測定とウラントリウム年代の比較(約10000yBPから約19000yBP)により作られた補正曲線が用いられる。年輪年代の及ばない古い年代は、およそ24,000年前までは、サンゴのU/Th(ウラン/トリウム)年代と照合されている。較正された年代値は、calBPで表され、較正年代は、暦年代
(Calendar Age) とも呼ばれている。しかし、約1万5千年前は較正暦年代(calBP)で、未だ、研究途上の段階であり、信頼性の確立が今後の課題となっている。
他方大平山元Ⅱ遺跡は八幡宮境内にあり、地層・石器形態から約16,000年前のモノと見られる数多くの石器類のほか、人々の生活の様子が残されている。石で囲った炉跡・石蒸し料理に使った焼け石などで、出土した旧石器時代の石器類は、槍先形尖頭器・削器(さっき)・石刃・両面調整石器等がある。
大平山元Ⅱ遺跡のこれらの石器類は、遺跡現場付近から採取できる頁岩(けつがん)製で、今日でも境内の地表面から、当時の石器片が顔を出しているといわれている。石器工房跡かもしれない。また、付近から、今でも石器の材料として良好な、頁岩が採取される。
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(3) 上野原遺跡
日本列島の各地で、縄文草創期の後期から早期にかけての竪穴住居や土壙・炉穴などの遺構をもつ遺跡が発掘されている。定住化の始まりで、南九州と東海地方では、他地域に先駆けて早くから登場している。南国の南九州では草創期中葉に定住化の兆しがみられ、暖流が流れる東海地方へと広がった。縄文時代の草創期から早期にかけの約12,000年前は、最終氷期の終わりごろで、かなり激しく気温の変動が繰り返された。約1万年前以降になると徐々に温暖化が進み、日本海が形成され暖流が流れ、列島全体が湿潤となった。落葉広葉樹林が拡大し、「縄文海進」により水面が上昇した。やがて温暖化が北上すると、東日本も落葉広葉樹林帯となり定住的集落が発展した。ナラ・ブナ・クリなどの落葉広葉樹林は団栗などの堅果類が豊富であるばかりでなく、下草を育て人類も食べるが、それを主食とする狩猟対象となる動物を育む。一方、季節により遡上するサケやマスも東日本では主要な食料源となった。
約11,000年前の東黒土田(ヒガシクロツチダ志布志町)、掃除山(そうじやま;鹿児島市)、鹿児島県の栫ノ原(かこいのはら;南さつま市加世田)では、木の実の貯蔵穴・調理用の集石・連穴土坑・住居跡等が発掘された。掃除山遺跡は錫山山系(すずやまさんけい)から延びた鹿児島市内谷山地区の台地の南側斜面に立地している。2軒の竪穴住居跡とその周囲に遺存する煙道付炉穴(連結土坑)・舟形配石炉・土坑などがあり、多量の隆帯文土器片と細石器・石鏃が出土した。これら定住生活をうかがわせる遺物は、桜島を起源とする大噴火による約11,000年前のサツマ火山灰層直下に遺存した。隆帯文土器は南九州における縄文草創期の代表的土器で、粘土紐を口縁部に帯状に貼り付け、刻み目を付けて文様とした。土を掘る打製石斧・狩猟用の鏃・線刻のある礫のほか、砥石・くぼみ石・石皿・磨石など生活用具が数多く見つかっている。落葉広葉樹林で採集された堅果類を、さかんに調理する定住生活を物語る。
掃除山遺跡の竪穴住居や調理施設からも、定住性を確信できるが、遺構の数や遺構同士の重なりがないため、ムラ人も少数で長期間にわたって営まれたムラではないようだ。竪穴住居も斜面を掘り込んで平坦部を作り出しているが、平面形が粗く柱穴の配置も不規則で、おそらく上屋構造は旧石器時代のような伏屋作りであったようだ。住居が暮らしやすいとはいえない斜面にあるが、北風を避ける南向きであるため、冬の生活の場であったと指摘されている。秋に採集した堅果類を食べながら狩猟漁労で補い、南向きの日溜まりで春を迎え、暖かくなると、より生業にむく台地に移動したようだ。
栫ノ原遺跡でも、隆帯文土器の使用がみられ、縄文時代草創期、1万1千数百年前と推定されている。この時代は気候がまだ不順で、ドングリの収穫量が安定しないため、「振り子型定住」をしていたと考えられている。「振り子型定住」とは自然環境に合わせ、季節ごとに場所を移して住み替える生活のことである。資源が豊かになったとはいえ、季節により食材の収量が大きく変動する栫ノ原に住む狩猟採集民は、冬は竪穴住居があるムラに定住し、夏の一時だけ簡素な伏屋式住居のあるムラで生活した。旧石器時代の「移住社会」から縄文時代の「定住社会」に移り変わる過渡期な生活形態である。栫ノ原遺跡は強い北風のあたる北向きの斜面にあり、竪穴住居が無いことから夏場だけのムラとみられている。遺構として残り難い簡単な構造の伏屋式住居であったようだ。土器・石皿・磨石・敲石などの遺物や、燻製用にも使われた8基の煙突付き炉穴や調理用と思われる多数の集石遺構・火力を有効利用するための配石炉などから定住生活の場であったとみられる。
東黒土田遺跡(ひがしくろつちだいせき)ではブナ科のドングリがつまった土坑が発見されている。そのアク抜き方法が継承されていた。
縄文早期になると、草創期のムラより規模が大きくなり、季節によって移り住む「振り子型」の定住から、その後の食料事情の好転により、上野原遺跡などのように通年定住が可能になる。この時代の鹿児島県内の遺跡は、鹿児島市の加栗山遺跡(かくりやまいせき)や日置郡松元町の前原遺跡などがある。
鹿児島県国分市上野原遺跡は、南に鹿児島湾や桜島、北に霧島連山を望む、国分市街地より南東約2km、霧島市東部の標高約250mの上野原台地(シラス台地)上に展開している。シラス(白砂)とは、南九州の方言で白い砂を意味する。地質学的には鹿児島県を始めとする南九州一帯に厚く堆積している、白色の火山噴出物(細粒の軽石や火山灰など)が集積した地層をいう。シラスの大部分が約2.9万年前に発生した姶良(あいら)カルデラの大噴火時の入戸(いと)火砕流により形成された。
常に噴火をくり返す桜島の鹿児島湾北部には、海水に沈んだ日本最大のカルデラがあり、姶良カルデラとして知られている。南九州地方には、この姶良カルデラ形成時に噴出した「入戸火砕流」と呼ばれる軽石質の噴出物に覆われている。厚いところでは 10m以上も堆積しており、俗にシラスといわれる台地を形成した。このシラスこそ「丹沢パミス」とともに「姶良カルデラ」という同じ母体から噴出したものである。噴出物の中で密度の大きい部分が火砕流となって周辺に堆積し、密度の小さいものが、上空の偏西風にのって遠く東北地方まで運ばれ堆積した。実にその距離は1,000kmを越す。以上のことから、起源の「姶良カルデラ」と最初に発見された「丹沢パミス
(TnP)」から、「姶良Tn火山灰」通称 AT と命名されることになった。
このATは、顕微鏡で見ると、角ばった透明な火山ガラスの破片の集合体で、その粒子の中に含まれる斜方輝石(きせき) という鉱物の屈折率が1.731~1.733という稀(まれ)な高屈折率を示すところから、各地のATの比較が容易となり、その後の、ATの急速な研究の進展を助けることになった。
上野原遺跡発見の契機は、テクノポリス構想にともなうハイテク工業団地「国分上野原テクノパーク」の造成工事であった。その造成中に土器片が発見され、それから地道な調査発掘が
10年以上続けられた。その過程の終盤において、約9,500年前に桜島から噴出降下した火山灰P-13層直下の地層から、上野原台地の北側になるが、集落と水場とを結ぶ2筋の道路跡に沿うように52軒の竪穴住居群を中心に、140基の集石遺構や16基の連穴土坑 (れんけつどこう)・270基の土坑など大量の調理施設をもったムラが発見された。これらの住居の中には、住居址が重なり合っていることや、埋まり方に違いがみられることから、建てられた時期に差があり、ムラは長期間にわたって営まれていたことも分かった。従って、52軒の大集落や竪穴住居をはじめ遺構の殆どが一時代の繁栄を語るものではない。数千年の時代経過を想定しなければならない。遺構埋土の分析や遺構同士の重なり具合などから調査された結果、同時期の住居は、2、3軒から5、6軒位と指摘されている。
竪穴住居には炉がなく、柱穴もない。9号竪穴住居跡では、幅が2m超の隅丸方形の竪穴の外囲に、深さ30㎝の柱穴が11基めぐっている。上屋構造は伏屋作りとみられる。後の縄文前期以降の竪穴住居と違い簡単な作りであった。また住居跡の中に桜島を起源とする大噴火による約11,000年前のサツマ火山灰が堆積していた。上野原の狩猟採取の人々は、その大噴火をどう凌いだのか、その後も定住生活が営まれていた。
上野原遺跡の縄文早期後葉約7,500年前は、深鉢形土器・鉢形土器・壷形土器・小形土器など多様な土器を使っていた。主に煮沸用の深鉢形土器が使われていた。縄文もあるが、「S字文様」や「渦巻き文様」などが多い。
一方、上野原台地南側の最も高い所、第10地点から、縄文早期後葉の遺物とおもわれる多種・多様な土器・土製品や石器・石製品等が約15万点以上も出土した。口縁部が丸いのと四角2個の原初的な壺型土器(壺そのものの素朴な形)が完全な形で埋めてあった。それは、弥生時代によく使われた壷形土器に似た形で、弥生時代よりも更に約5,000年遡る縄文早期後葉の時期に使用されていたことが確認された。縄文時代の壺形土器の出現は、南九州が最初であることが最近明らかになりつつある。液体などを貯蔵するに適した土器で、出土の2個の壺形土器は、何かの祭(まつり)に使用されたものと考えられている。ただ煤が付着した壺形土器もあり、火に掛けられたようでもある。
また,その周りには壺型土器や鉢形土器を埋めた11か所の土器埋納遺構と石斧を数本まとめて埋めた石斧埋納遺構が見つかり、さらに、これらを取り囲むように、多くの石器や割られた土器などが置かれた状態で出土した。
鉢形土器とは、高さに比較して口径が大きい土器を鉢形土器と呼んでいる。上野原遺跡のこの土器は、口の部分と胴の部分の中ほどに穴のあいた把手が付けられていることから、つり下げて使用していたと考えられている。
「縄文文化の中心地は、東北、中部などの東日本である」との見方がほぼ定説となっていた。上野原遺跡での今回の発見によって縄文文化の起源や、東日本の縄文文化との比較等、様々な再検討課題が浮上した。上野原遺跡では、約
7500年前の地層から土偶・耳栓(耳飾り)・土製円盤・壺形土器等が大量に出土し、祭祀儀式を行う場の存在をうかがわせた。
土偶は三重県飯南郡の粥見井尻遺跡(かゆみいじりいせき)では、縄文草創期のものが出土しているが、上野原でも森の恵みをえて定住生活が安定する縄文早期後葉から多彩な文化を開花させ、精神的にもかなり高い暮らしが営まれていたようだ。 土偶は縄文時代特有の遺物のひとつで個性豊かな縄文文化を象徴するものであった。出土した土偶は、安産や多産を祈り、子孫の繁栄や豊かな自然の恵みへの願いや感謝をこめてつくられたと考えられる。その土偶は、高さ5.5cm、幅5㎝と小さく、頭と両腕を三角の突起で表現し、胸には小突起で乳房を表し、横の細い線で肋骨を表現した女性像で、極めて素朴な土偶である。
?状(けつじょう)耳飾りは、ピアスのように耳たぶに、穴をあけて付ける耳飾りで、土製と石製があり合計28点出土した。土製の耳飾りには、土器と同じ「幾何学文様」や「渦巻き文様」、「S字文様」などの文様を付けたり、赤いベンガラで彩色したものもあり、縄文人の美意識や精神世界をうかがうことができる。
石製耳飾りは、軽石や凝灰岩(ぎょうかいがん) を削ったり、こすったりして土製耳飾りと同じ様な形に仕上げている。中には赤色顔料で彩色したものもある。祭り事などで使用されていたのではと推測されている。
このような先進的な縄文文化は、氷期から完新世(約10,000年前からはじまる現在の間氷期)への気候温暖化にともなう環境の変化に応じて花開いたようだ。氷期末の約15,000年前には、南九州では、既に落葉広葉樹林に覆われていた。そして、定住化によって上野原遺跡のムラが形成された約9,500年前は、晩氷期にあたり、遺跡の付近一帯は基本的に落葉広葉樹林であった。温暖化にともない照葉樹林が徐々に混じりはじめたが、一般には、イノシシ・シカなどの動物も、落葉広葉樹林の中に活動範囲を広げたため植物性食料・動物性食料などの食糧資源が豊富で多様になり、食物供給が安定していった。また、定住化の要因としては、平坦であるにもかかわらず水はけの良いシラス台地の立地性、連穴土坑や土器作成時に加工しやすいシラスの土性、国分隼人地区周辺のシラス台地の特性である崖地途中や、山地接続部からの湧水の存在などが、相乗的に働いたことなどが好条件となったようだ。この意味でシラス台地が存在する南九州という利点が大いに生かされ、南九州で、縄文文化が逸早く発達したようだ。
縄文時代の南九州、特に鹿児島の貝塚や洞穴などの遺物から、イノシシ、シカ、カモシカ、ツキノワグマ、オオカミ、イヌ、タヌキ、アナグマ、カワウソ、テン、イタチ、オオヤマネコ、ノウサギ、アマミノクロウサギ、ムササビ、ネズミ、モグラ、コウモリ、サル、アシカ、クジラ、イルカ、ジュゴンの歯や骨があり、少なくとも23種の哺乳類が生業の対象となっている。イノシシは、全遺跡から出土しており、骨片数が最も多いことから、当時、最重要なターゲットであった。現在わが国では絶滅しているオオカミや九州で初めて市来貝塚(いちき串木野市)から出土したオオヤマネコ、それに現在生息が疑われているカワウソなどが鹿児島県本土の遺跡から出土し、当時の動物相を知るうえで貴重な史料となっている。哺乳類の他に、キジ・ヤマドリ・カモ・ツルなどの鳥類、ウミガメ・イシガメなどの爬虫類、両生類のヒキガエル、甲殻顛のモクズガニ、タイ・サメ・ハタ・マグロなどの魚類や豊富な貝類が出土している。
当時の人々の食生活を推定すると、春には野山で山菜を採り、夏には海辺で魚介類を漁し、秋には山野で木の実を採集し、冬はイヌを連れ弓矢や落とし穴などで鳥獣を狩猟していたようだ。
上野原遺跡からは石鏃や植物質食料の調理に使われる磨石・敲石・石匙のほか、樹木の伐採や加工用の磨製石斧も出土している。
連穴土抗は16基あり、大きな穴と小さな穴を掘り、両方の穴をトンネルで繋いでいる。大きな穴で火をおこし、小さな穴(煙突の役割をします)に煙を出して燻製を作っていたと考えられている。
縄文時代、特に狩猟・漁労の技術は高度化したが、常時獲られる安定した食料源ではなかった。燻製し保存した。
140基の集石も、調理施設で、石を焼いてその上に葉などで包んだ魚や肉などを置き、上から土をかぶせて「蒸し焼き料理」をしていたと考えられている。土器の出現は、旧石器時代以来の「焼く」「蒸す」と単純なストーンボイリングの「煮る」から、長時間「煮る」という画期的な調理法を可能にした。更に液体・食物の長期保存と遠隔地へ運搬をも、土器の防腐効果により可能になった。
上野原台地の南側では、縄文前期6,000年前の落とし穴と炉跡とみられる礫石遺構もみられた。縄文後期3,500年前には、その近くで深さ2m~3mの落とし穴が長さ約400m、東西方向に2列ならんでみつかり集団で動物を追い込む狩り場となっていた。被災後の遺構である。縄文晩期2,500年前、生活の場は台地の北側に移り、竪穴住居跡や掘立柱建物跡などが発掘された。その周辺にはドングリなどが入った「貯蔵穴」があった。
石斧には、表面を磨いた斧(磨製石斧)や打ち欠いただけの斧(打製石斧)があり、上野原遺跡からは両方の石斧が伴出している。石斧は、全長20cm・重さ1kg・刃の長さ9cmの大型品から、全長5cm・重さ10g・刃の長さ2cmの小型品まであ、大木の伐採用の斧から加工具の鑿(のみ)まで、幅広く用途に応じた種類の石斧を使用していたようだ。
上野原で出土した環状石斧(かんじょうせきふ)は、ドーナツ形で、外側の縁は鋭い刃がつけられており、全部で5点出土している。いずれも割れたり、表面が焼けてくすんでいたりしている。中国東北部や朝鮮半島でもみられ、円孔に棍棒を通し、武器・農耕・儀式用などに用いられたようだ。
日本では縄文早期8,000年前頃、九州・東北北部・北海道で出土している。環石(かんせき)は、環状石斧と同じようにドーナツ形だが、環状石斧と違い外側に刃が付いていない。1点出土した。単なる仕掛品か。
石槍の木の葉形尖頭器や石鏃も各種大小出土している。
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(4) 上野原遺跡の消滅
7,300年前に、九州地方に鬼界カルデラの大噴火の猛威が襲い、その恵まれた自然と、それによって育まれた縄文人の文化施設の全てを破壊し尽くした。その後九州地方の縄文文化の担い手は、歴史から姿を消した。それどころか南九州地方は、その間無人状態になる。
鬼界カルデラは、鹿児島県南方の薩摩竹島と薩摩硫黄島を陸上の縁の一部とするカルデラで、噴火後そのほとんどが海中に沈んだ。縄文の早期初頭の異彩を放つ輝きは、九州地方では消滅するが、南九州の文化を特徴づける円筒形で刃部が丸ノミ状の磨製石斧が黒潮の流れに沿って、高知、和歌山、八丈島の各地の遺跡で出現している。大噴火後、かろうじて生き延びた人々が、ある者は陸路を九州中部、北部へと、又ある者は黒潮と共に日本列島各地へと広がっていき、その地域の人々に同化し、新たな縄文文化の担い手となっていったものと考えられている。縄文時代草創期の12,000年前の「丸ノミ形石斧」が、南さつま市加世田の栫ノ原遺跡から発掘され、「栫ノ原型石斧」と呼んだ。用途は木材伐採や加工だが、特に「丸木舟」の製作に使われたようだ
草創期から早期にかけて縄文時代をリードして来た南九州の縄文文化は、大災害により壊滅した。当時、温暖化による縄文海進の最中で、近畿地方以西の植生が、やがて常緑照葉樹林帯にかわる過程にあった。
その食料供給力は落葉広葉樹林と比べて著しく低い。その農耕文化の形態としてサトイモ・ヤマイモなどの栽培がある。しかしうっそうと茂る照葉樹林の再生力は強盛で、集落を営むため切り開いても直ぐに繁茂し呑みこまれてしまう。一年中、台地に日光が届かず、人を含む動物に有用な草本類が育ちにくい。
常緑性樹木の果実は貧弱だが、落葉性ブナ科植物の果実は、子葉を守る種子として肥大化し大量のデンプンを蓄え、また生産量も多い事から、特に哺乳類にとって、秋の重要な食料であり、ドングリの出来不出来が、森に棲む人類や野生動物の秋から冬以降の生存に大きな影響を与えた。その結果、縄文時代のこの時期を境にして、西日本の人口は伸び悩み小規模の集落が長く続き、他方、東日本には落葉広葉樹林が繁茂し縄文時代前期から中期にかけて定住化が促進し、拠点的大規模集落が発展した。
この環境変化に加え、7,300年前に、九州地方に鬼界カルデラの大噴火の猛威が襲い、九州から本州の大半を被うアカホヤ火山灰の存在にも示されるように、九州地方の全ての文化施設を壊滅させた。"東高西低”と言われる縄文遺跡分布の片寄りは、実はこのような過程で生み出された。ただの気候環境の変化程度であったら、九州縄文人も対応しえたであろう。約11,000年前の桜島を起源とする大噴火には耐えてきたのだが・・・・
この大噴火による火砕流と火山灰は、大隅半島と薩摩半島の南部を覆い尽くし照葉樹林を壊滅させた。その後はススキ属が繁茂する草原となった。おそらく600年間は照葉樹林は復活しなかったようだ。
上野原台地は、ようやく、よみがえり、その南側では、縄文前期6,000年前の落とし穴と炉跡とみられる礫石遺構もみられた。縄文時代後期(約3,500年前)には、台地南側の斜面に近い場所からは、深さ2mから3mのおとし穴が長さ約400m,東西方向に2列ならんでみつかり、集団で動物を追い込む狩り場だったようだ。
縄文時代晩期(約2,500年前)には、台地の北側がおもな生活の場となり、竪穴住居跡や掘立柱建物跡などが発見された。建物の周辺にはドングリなどが入った「貯蔵穴」があり、再び森からの恵みを受けている。
弥生時代中期~後期(約2,000年前)、台地北側には、東西約500mの範囲にムラが営まれ、竪穴住居跡5軒や掘立柱建物跡2棟、長さ100mの柵列も発見された。またイネの植物の痕跡やモモの種も見つかっている。
古墳時代(約1,600年前)、竪穴住居跡1軒、中世は掘立柱建物跡8軒、戦後はイモなどの耕作地になっている。
上野原遺跡は、県の逸早い判断によって現地保存が決定された。その背景には、なかなか企業誘致の進まないテクノパークの現状と、近年の考古学ブームに便乗して遺跡を「観光の目玉」としようとする思惑とが絡んでいたようだ。
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(5) 三浦半島の縄文時代
昭和21(1946)年、群馬県赤城山麓を踏査していた相沢忠洋による岩宿遺跡の発見、昭和25(1950)年、神奈川県横須賀市夏島(なつしま)町の夏島貝塚の発掘調査などは、静岡県登呂遺跡の発掘と並んで、戦後の考古学研究に指導的役割を果たしました。
夏島貝塚の発掘調査では、放射性炭素(C14)による絶対年代の測定という、新しい化学的手法を活用したことで知られている。貝塚の牡蠣殻についての
C14 による年代測定の結果、9,240±500BPという値が得られ、この貝塚の年代は、予想を超えた古いものでしあった。この測定値もまた縄文文化の初源年代を、更に遡る契機となった。
夏島遺跡は、三浦半島東岸の金沢湾に面した小丘陵の南端にある。三浦半島の縄文人は、海をすぐのぞむ丘に集落を営み、かなり長期間生活している。9,500年前の縄文早期末から後期(4000年~)前半まで、各年代の土器が出土している。
この遺跡は、世界最古の貝塚で、今から1万年近く前(縄文早期初頭)の遺跡として世界的に貴重なものでる。昭和25(1950)年から5年間に渡り、明治大学考古学研究室の発掘調査が行われ、貝、魚骨、獣骨、土器、石器などが多数発見された。
当時は、世界最古の土器が発屈されたと、世界的に話題になった。各年代層ごとの土器の出土により、撚糸文系の井草式・大丸式と夏島式との新旧関係が確実に把握され、その上層に、縄文時代早期の田戸下層式土器も出土している。
夏島式土器は、夏島貝塚で初めて出土した。尖底深鉢の縄文早期特有の土器様式で、関東地方で、その後広く分布していることが分かった。土器の大きさがまちまちで、最大口径40から10cm程度のものまである。実用的に使用目的に応じて、製作されていたと考える。文様は撚糸文と縄文が主体であった。
最後の氷期で、最も寒くなるのは2万年前で、その後、地球上を覆っていた氷や雪が溶け始め、更には極地の氷河も海水となり、海水面は、次第に上昇を始まった。 こうして、縄文前期(約5,000~6,000年前)から中期(約4,000~5,000年前)には、縄文海進が起こった。それで、横須賀市の横須賀港・日出町など低地は、水没し、海面は、現在より5m前後高くなっていた。
久里浜付近から徐々に海が入り始め、平作川流域が海の底になり、衣笠十字路付近まで海水が進出し、古久里浜湾という内海ができていた。この湾をのぞむ周辺の小高い丘に、三浦半島の縄文人は集落を作り始めまた。 当時の縄文人の生活跡は、横須賀市内の吉井城山、伝福寺裏、茅山など、古久里浜湾を取り囲むような場所で発見されている。ただ、市街地として開発が、早いため、史跡の殆どは消滅していた。それでも、この時代の人々の生活は、夏島・平坂・吉井などの貝塚遺跡で、相当程度、推測は可能となった。
吉井の丘にも、波が打ち寄せますが、内湾なので潮騒穏やかな海であった。汀から少し上がった丘に、竪穴住居を造り始める。目の前の海からマガキ、ハイガイ、アサリなどを採り、マダイやブリを釣りあげまた。
縄文人としては、恵まれた環境下にあって、丘に戻れば、生でも食べられ実がなるシイの山があり、食料源の山野草を採集しながら、猪や鹿を追いかけ、秋になると、無花果(いちじく)など山野の実を、見つけ次第食べながら、懸命に栗やドングリを採集し貯蔵して、厳しい冬に備えたようだ。
縄文早期前半(10000年前~8000年前)、夏島・平坂・吉井の縄文人は、家族単位の小さな集団で暮らしていた。縄文海進の前後の時代(7000年前~4000年前)になると、集落をつくり数十人の集団で暮らすようになっていった。集落では、土器や石鑓、石斧などを共同で作っている。古久里浜湾から採れる海の恵みは、貴重な食糧源で、集団で網漁を行い、魚を浅瀬に追い込んだりした。
この時代の集落は、過酷な自然を相手にしては、抗するすべのない、ただ懸命に耐えぬく生存ための共同体でもあった。血縁関係による集団で、定住し、何世代にもわたり営々と文化を守っていく集落とは、違うのではないかと想像される。生存が容易ではなく入れ替わりが頻繁で、自然淘汰を免れるため、相互の情報の交換が必要不可欠で、そうした職能的な集落であった。
縄文人たちは、日常的に他の地域と行き来をして、広範囲に物や人の交流を行っている。生活物資としての、黒曜石製石器、石器文化の必要材料としてのアスファルト、装飾用としてのヒスイ、縄文晩期の製塩など種々ある。
鹿、猪等を食べていたが、せいぜい一年に一家族で、1頭から2頭くらいだったようだ。 焚き火で、何人かで骨付き肉を焼いて、そのままかぶり付くのとは違い、実際遺跡から出る骨を調べると、焼けているものはほとんどなく、また、骨は意図的に打ち砕かれたようになっていた。それは骨髄を取るために割ったと考えられるす。それを、生のまま食べたとしても、骨には肉片や軟骨などが残るから、それを有効に利用するために、茹でて食べた可能性もある。
また、骨髄は塩分、ビタミン・タンパク質・脂肪等の栄養に富んでいるし、味わいも豊かである。その汁を、ドングリで団子を作る際、入れたりしていただろうと思われている。
縄文人は、成人するまで生きられるのは、4人に1人の割合だった。成人しても毎日が命がけで、無事に冬を越した若者は、春になる頃に、新天地をめざして集落を出ていったのではないかと想像される。狐・狼・熊などの生態と一緒だ。
それでも、縄文海進前後の時代に人口が増え、東日本各地に多くの遺跡を残した。縄文人が最も輝いていた時代かもしれない。狩猟採集に生活の基礎を置く縄文人の活動範囲は、想像以上に広大だ。犬を使って猪や鹿の巻き狩りをする。集落の協力作業の必要性が、一段と高まりる。
夏島式土器を含む縄文時代最古の貝塚の一つに数えられる第1貝層からは、縄文時代最古の犬骨も検出されている。それ以降の各貝層からは、各年代形式の土器を包含する中より,礫器・局部磨製石斧・石皿が多く発見された。鹿の骨や角で作った釣針・ヤス(魚を突くモリの先に付ける)などの骨角器も発見され、漁労活動の一端をうかがうことができる。
9千年前の夏島周辺は、マガキが付着する岩礁地帯だったことが分かっている。魚類は、マダイが多く、ボラ、クロダイ、ブリ、スズキ、マイワシ、サバ、と続く。 この頃、三浦半島の縄文人は、丸木舟を東京湾(浦賀水道)に漕ぎ出して、大物を釣り上げていた。出土した魚の顎の骨からマダイやブリは、体長が60cm以上と推定される。温暖化によって、気候や海流は現在と異なり、近海にも大型魚が群れていたようだ。
縄文早期の三浦半島には、コナラ、クルミなどの温帯性の落葉広葉樹林が広がっていた。暖帯性照葉樹林が残る現在の三浦半島より多少寒かったようだ。
夏島貝塚の発掘後、約1万1千年前の遺跡、愛媛県の上黒岩陰遺跡から埋葬された犬の骨が出土した。それにより犬は、縄文時代の当初から日本にいたことが明らかになった。縄文人は犬をとても大事にしたようで、当時の犬の大部分は、人間と同じように埋葬されていた。稀に解体した痕のある骨が、検出される。飢饉のおり、やむなく食料とされたようだ。基本的には、狩猟犬で出土した犬骨を調べると、殆ど6歳までで死んだ成犬と、生後半年ほどで死ぬ幼犬が多く、その成犬中には、狩猟中に怪我をするものも多くいたようで、背骨が折れて助骨と癒着していたり、前足が1本折れていたのもあった。特に、成犬の歯の強い磨滅が目を引くという。彼らはヒトの補助役を果し、激しい使役に耐えていた。
それでも、骨折が治癒した犬も多く見られ、狩猟犬として役に立たなくなっても、大切に飼育されていたようだ。
縄文犬は体高40cmくらいの小型犬で、狐のような顔立ちで、四肢が太く、短く、強靭な骨格で、立ち耳、巻き尾という、柴犬に近い犬とみられている。狼とは、大きさも骨の形態も違う。縄文犬は、東アジアから人と伴に、狩猟用、警護用、なによりも愛玩用として渡来したようだ。
一方、弥生犬は前頭部にくぼみを持ち、頬骨が張り出している。弥生犬は、モンゴルなど東北アジアから、既に狼から犬に形態的に変異した後、朝鮮半島に移入した犬が、さらに突然変異が起こし、それが朝鮮半島からの渡来人に連れられて、日本列島に渡ってきたようだ。弥生人は、犬を食べるために豚等と一緒に連れてきた。
犬を食べる習慣は稲作と同様、この時持ち込まれた。そしてこの時期の犬が、その後の日本犬の基礎になった。
長崎県の原(はる)の辻遺跡から、殺されて食べられた跡のある、たくさんの犬の骨が発見されている。弥生人は農耕を生業にしており、犬は害獣から農地を守る、番犬だけの役割を果すだけだ。その代りに、食用として手じかな存在でもあった。それが6世紀頃になると、仏教の伝来とともに、犬だけでなく牛、馬、鶏などの肉を食べることが禁じられるようになる。実際にはその後も、わずかながら犬を食べる習慣が残っていた。明治時代以降は欧米の動物愛護思想の影響からか、ほとんど食べなくなった。
この夏島遺跡から、住居跡は発見されていないが、気候が温暖で魚貝類が豊富な夏島に、縄文人は早くから住み始めたようだ。
常に自然の恩恵に浴し、活動的な生業を営んでいた縄文人たちにも、自然の非情な力に対抗するだけの技術は、持ち合わせていない。神奈川県横須賀市平坂貝塚出土の縄文早期人の人骨には、何本もの「飢餓線」が形成されていた。一見“縄文ユートピア”のように見られがちの彼らの生活は、想像以上に厳しく、また必死であったに違いない。
人類は、いまから約4百万年前、アフリカ大陸で誕生した。それから、約1万年前までは狩猟・採集の段階にあったため、「人類にとって有用な自然物」、すなわち資源は、野生の動植物とそれを捕獲・採取するための岩石、骨、調理・暖房用の薪炭などに限られていた。
食料資源になった野生の動植物は、農産物とは異なり、けっして高密度には分布してはいない。このため、1人の人間の生存に必要な面積は、研究者によってかなりの相違があるが、10平方kmとも推定されている(『クリーンな地球のグリーンな資源-新時代の食糧生産システム』農林統計協会、1988年)。
地球の「人口支持力」はきわめて限られ、2万5千年前の人口は約3百万人、1万年前の人口も5百万人から1千万人と推定されている。
約1万年前、日本以外の地では、新石器時代に入り農耕・牧畜が始まる。農地・牧草地が最重要の資源となった。当時は、利用できた土地は限られ、単位面積当たりの収穫量もきわめて少なかった。また、いまから約5千年前までは、原材料資源も、岩石と森林に限られている。文明間の隔たりは大きいが、人類は、3千年前頃から青銅器時代、2千年前頃から鉄器時代に入る。しかし、産業革命以前は資源化された金属の種類は限られ、生産量もわずかなものであった。
縄文時代早期の日本人口は、小山修三の推計に依れば全国で約2万人。既にこの段階で、人口密度は、落葉広葉樹帯の東日本に高く、食料源となりにくい常緑広葉樹の多い西日本では低いという、その後の縄文時代1万年間を通して不変の構図ができあがっていたといわれている。
豊かな縄文時代と時には表現されるが、決して恵まれた環境下にあったわけではなく、ピーク時の人口が26万人、その平均寿命は、30歳位であったと考えられている。これは、100人生まれた乳幼児が15歳になるころには約50人、30歳になる頃には約25人しか生存していないことを意味している。これでは、一夫婦が最低8人の子供を生まなければ人口が維持できない計算になる。
定住生活による文化の伝承が、集落の形成によって可能になり、同時に、集落は自らの生存とって必要不可欠なものとなった。個々の家族では、継続発展は無理だ。しかも縄文晩期には、寒冷化と環境悪化により8万人ほどに、人口は急減している。
人類は、常に生存の危機に脅かされてきた。縄文人の人骨には、何本かの「飢餓線」が、確認されているのもそのためだ。
昭和22(1947)年、神奈川県横須賀市小川町の平坂西貝塚からは9千年前の縄文早期の人骨が一体発見された。発見された縄文人は「平坂人」と呼ばれている。平坂人は身長163cm以上の壮年男性で、当時としては長身で、筋肉は発達していたが、歯はかなりすり減っていた。この事から、縄文人は、硬く砂混じりの食物を食べていたようだ。特に、下顎の切歯部と第一臼歯が、唇側あるいは頬側へ下降するようにすり減っていることから、ものを噛む運動のほかにも、皮をなめすなど、歯を道具として利用していた。
骨をX線写真でみると、横に走る線が現れている。「飢餓線」だ。成長期の頃に極度の栄養失調や重病にかかったりすると、骨の成長が一時止まり、健康を取り戻すときに、骨に変化が起こり線として残る。平坂人の中足骨(ちゅうそっこつ;足の裏を形成する5本の骨)には、11本の年輪のような「飢餓線」があった。
この時代、縄文早期の三浦半島にはコナラ、カエデなどの温帯性の落葉広葉樹林が広がっていた。平坂東貝塚からは、マガキが多量にでている。9千年前の深田台周辺はマガキが付着する岩礁地帯だった。それに、ハイガイ、ハマグリ、アサリなどの貝類、魚ではマイワシの骨が大量に見つかっている。サバ、クロダイも多く、マグロやカツオといった外洋性の回遊魚も出土している。動物では鹿や猪の骨もあった。鹿の角で作った釣針も見つかっている。
以上のことから、その環境は、むしろ恵まれていた方といえる。それでも、11本の「飢餓線」がある。 現在の日本人にも「飢餓線」が見られ事がある。一番多いのが、戦争体験世代のそれである。
平坂人は、9千5百年前のものといわれる夏島貝塚の「夏島式土器」と同じ土器を携えていた。「夏島」で暮らしていた集団から別れて、「平坂」に移ってきたのかもしれない。
丸木舟を使えば1日もかからない距離だ。
海洋に進出し始めた三浦半島の縄文人が、伊豆諸島に移り住むようになるのは、今から8千年前(縄文早期中葉)のこと。横須賀市平坂貝塚から出土した無文土器(平坂式土器)と同じタイプの土器が、伊豆大島で住居跡とともに大量に伴出した。三浦半島にいた縄文人が外洋に積極的に進出を始めた頃の遺跡だ。
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(6) 北海道の縄文時代
流氷の訪れるオホーツク海に面し、常呂川(ところかわ)河口からサロマ湖に至る海岸沿いに延びる砂丘地帯の雑木林を中心に拡がっているサロマ湖の町・北海道常呂町(ところちょう)の郊外では縄文早期、前期の遺跡が発見されているが、数は少なく、遺跡の数では、中期(約4,000~5,000年前)が最も多い。縄文中期の遺跡は、東北地方と共通する点が多い。史跡は延長約4.5km・幅約200mの砂丘上のカシワ・ナラの叢林の中心にあり、竪穴住居群が、約2,500軒にも及び埋没しきれず凹地として残っていた。旧石器時代から縄文時代・続縄文期・擦文期・アイヌ文化期まで常呂遺跡が連綿と続く。常呂縄文人もまた、アイヌの血脈の一つと考えられる。
通常、縄文時代は2千年ほど前に、ほぼ終わりを告げる。本州以南では紀元前5世紀ころから水耕稲作が広く展開し弥生時代へと移るが、北海道は続縄文・擦文・アイヌ文化へと時代をたどっていく。北海道では鉄器のみが伝来しそれまでの縄文文化を継承しながら6世紀頃まで続く。これを続縄文時代と呼ぶが、極論すれば、漁労・狩猟採集の縄文的文化が明治の時代まで続いた事になる。但し擦文文化期には広範に農耕が営まれていた。虻田郡(あぶたぐん)洞爺湖町の高砂貝塚などアイヌ文化期の粟や稗などの畑作跡も数多く発見されている。奥州との交流を通じて広がったようだ。
擦文時代(さつもんじだい)は、7世紀~12世紀・飛鳥時代から鎌倉時代、北海道を中心にした文化であった。土器は煮炊きに使用する深鉢形が中心となり、本州の素焼きの「土師器(はじき)」の影響を受けた擦文式土器を特徴とする文化期である。擦文の一般的な特徴は、器面にヘラ状の道具で擦(こす)った擦痕や種々の刻線文・沈線文がみられることにある。その刷毛で擦ったような紋様から命名された。『縄文』紋様は消滅していった。この頃になると本州との関係が深まり、土師器やロクロで成型し高温で焼いた「須恵器(すえき)」が北海道へも渡ってきた。衣服では、オヒョウニレやシナ、イラクサなどの繊維から糸を紡ぎ、それを機で織るようになった。オヒョウニレは、アイヌ語では「アツニ」、アイヌの人たちは、この木の皮でアツシ(衣服)を作った。
擦文文化と後のアイヌ文化期には、動物や漁労道具などを神の世界へと送り返す「送り」の儀礼がある。 後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとって代わられた。アイヌ文化は擦文文化を担った人々が新たな文化を創出・移入した。鉄製鍋、漆器の椀、捧酒箸(ほうしゅばし)、鮭漁用の鉤銛、オットセイやイルカなどの海獣を捕るための鹿の角や鯨の骨角製の銛、埋葬は手足を折り曲げる「屈葬」式の土葬など物質文化面での特徴を示している。アイヌ文化は動物や植物など人間に恵みを与えてくれるもの、火や水、生活用具など人間の生活に欠かせないもの、地震や津波など人間の力が及ばないものをカムイ(神)と敬い崇めた。その“カムイノミ;神の国”の儀式で、神や先祖に“神酒”を捧げるとき、“イクパスイ”(イク;酒を飲む・パスイ;箸)という独特の儀礼具・捧酒箸を使う。蛇に巻かれた捧酒箸、クマを崇める捧酒箸、シャチが乗せられた捧酒箸など華麗な意匠の捧酒箸、それは、人間の祈りを神へ伝える役目を持つ。
アイヌは鮭をカムイチェプ(神の魚)と呼び主食の中心とした。秋に遡上してきた鮭を大量に漁労し、漁場の近くの専用の加工小屋兼住居で簡単な燻製をし干物にし保存食とした。また和人との交易品上の主要産品の1つで、獣皮・猛禽の羽根など交易による経済に傾斜ていた。アイヌの住居のチセは、周辺の山林から得られる自然木を素材とした簡素な木造建築で、掘立柱を地面に直に埋め柱と梁を組んで、笹・萱・葦・樹枝・樹皮などを壁・屋根に使用し、葡萄の蔓・樹皮などで固定し屋根を支える寄棟であった。アイヌ文化も地域によって差異があり、樺太アイヌは犬橇やスキーを使用するなどオホーツク文化の影響が見られる。
常呂町内全域には竪穴式住居跡が数万ヶ所にわたって点在している。この常呂遺跡からはオホーツク文化という特異な文化の遺物も多数発掘されている。オホーツク文化は6世紀から13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道北海岸、樺太南部、南千島の沿海部で、擦文と平行して発展した。この文化の担い手は、擦文文化の担い手とは別の民族と考えられている。彼らがどこから来た民族なのかは、未だ不明だ。オホーツク文化の人びとは海を生業の場とし、魚類や海獣類を捕獲していた。住居は複数の家族が住んだと思われる5角形・6角形をした大きな竪穴式で、住居内に熊の頭蓋骨を積み上げた「骨塚」があり、神聖な場所だったようだ。
古代の銛は、オットセイやイルカなど海獣の体内に打ち込まれた銛頭が、紐を引っ張ることにより回転して抜け難くくなり、それをを引き寄せて捕獲する回転式離頭銛に見られるような発達した漁具があり、海獣を象ったり波形や魚、漁の光景を描いた独自の土器や骨角器、また住居内に熊の頭蓋骨を祀ったり、独特な死者の埋葬法など、精神文化の面でも独自性が強い。土器のほかに、鏃(やじり)、銛先(もりさき)などといった石器や、柄の部分が蕨の穂先の形を特徴とする蕨手刀(わらびてとう)と、柄の部分が刃の方向に湾曲する生活用具の曲手刀子(まがりてとうす)などの鉄器、鈴や帯金具などの青銅器も使用していた。蕨手刀は、平安時代時代以降の日本刀の原形となった。
青銅製金具は、帯につける飾りで、北の大陸からもたらされた。アイヌ文化の狩猟技術や建築方法も、オホーツク文化の影響が画期となった。オホーツク文化はやがて、擦文文化へと吸収され、アイヌ文化へも受け継がれていくことになる。
この常呂遺跡を発見したのは大西信武である。大正13(1924)年、土木工事の現場監督として25歳の時、常呂町に居を構えた。常呂の港湾施設の工事現場で働くなかで貝塚を見つけた。さらに調べ始めると海岸の砂丘にはおびただしい竪穴住居跡の凹みがあり、竪穴住居の数の多さが普通ではないことが直ぐに分かった。その後、経営することになった常呂劇場の方は妻にまかせきりで、遺跡に夢中になっていった。その大事な遺跡が次第に壊されてゆくことを憂え、保存を住民や役場に訴え孤軍奮闘した。開拓から間もない時代であり、軍備増強という流れのときでもあった。地元の人や役場から理解は得られなかった。
大西氏は常呂遺跡の重要性を人々に理解してもらうには、考古学者に調査してもらうしかないと考えた。旅費を工面し、北海道大学へ何度も赴いた。しかし理解が得られなかった。東北大学にも出掛けたが門前払いであった。
戦争が終わると、昭和22年頃から常呂遺跡保護のために、大西氏は再び奔走した。遂に中央の東京へ出て、政府を動かし、東京大学を動かさねばなるまいと思い込んでいた。
昭和30(1955)年から東京大学の服部四郎博士らは、アイヌ語方言調査のために北海道全土を訪ね歩き始めた。樺太方言を担当した服部は、常呂町に樺太から引き揚げたアイヌの家族が幾組か住んでいることを聞きつけ、さっそく常呂町へ向かった。そこで、樺太方言の希有の話し手である藤山ハルと出会うことになる。これが東大文学部と常呂町との出会いである。 このとき、服部の宿大に西信武が訪れた。東大の先生が常呂町に来ていると聞き、その機会を逃してはならないと服部の宿を訪ねた。そこで服部に、常呂町が遺跡の宝庫であることを弁じた。服部はそれをじっと聞いていた。しかし、しだいに話はアイヌの生活問題に移り、それ以上遺跡について切り出せぬままその年は別れた。
翌昭和31年夏、ふたたび常呂を訪れた服部を大西は訪ね、意を決して、ぜひ遺跡を見てほしいと切り出した。そのあまりの熱意に、服部は言語調査で多忙の中、大西に従って一日つぶして遺跡を見て回った。その重要性を認めた服部に、東大の考古学者をぜひ常呂町に呼んでほしいと大西は願い出た。服部は駒井和愛(カズチカ)という先生がいるからその先生に一度見に来るように話をすると快諾した。
服部は東京に帰って、約束通り駒井和愛に話をした。駒井はすぐに大西に電報を打つ。「ハットリシヨリトコロイセキニツキキイタ スグ ユク アトフミ」。駒井は服部の紹介状を携え秋に常呂を訪れ、大西の案内で遺跡を見て回った。その結果、考古学科として毎年調査をすることに決めた。
実際の発掘調査は翌昭和32(1957)年から始まった。その調査で出土した遺物の一部を公民館の片隅に陳列していたが、毎年調査を続けていると次第に手狭になってきた。そのため、町でサロマ湖のほとり栄浦に建物を建てることになった。昭和48(1973)年に、文学部附属北海文化研究常呂実習施設という東京大学の正式な施設となり今日に至っている。助手を含め教官わずか2名という小さな施設である。
北海道では、南北双方からの文化的影響が見られる地域であり、南西部と北東部とでは文化に地域差が見られる。その境界は石狩・苫小牧低地帯付近のようだ。
北海道の縄文時代は、本州から土器が渡来して、8千年前ごろ始まる。早期の頃は、沈線、爪形、貝殻文などの土器群が、道南には東北地方と共通の尖底土器が多く、北東部では平底土器が発見されている。その後、道南西部では東北地方と関連した「円筒土器」があるのに対し、道東部では「押型文・櫛目文土器」が現れるなど地域的な変化が現れる。また、道東にシベリヤから石刃鏃文化が流入した。標高約18~20mの常呂川右岸台地にある北海道常呂町のトコロ朝日貝塚の規模は長さ110m、幅60m、貝層の厚さは最大40㎝と大規模である。石槍・削器・掻器・砥石・石斧・石刃鏃などと共に、口縁部下に1㎝ほどの円形の刺突文(えんけいしとつもん;丸い押し型が連なった文)が施された土器が見つかっている。この土器は筒形で粘土と植物繊維を混ぜて作られている。石刃鏃はサハリン、沿海州、バイカル湖周辺など北東アジアと共通性がある。貝類はカキ貝が主体で、ベンケイガイ、タマキガイ、ホタテガイ、ハマグリ、ヤマトシジミ、ウバガイなどを採集し、アシカ・トド・、ヒグマ・クジラ・イヌなどが食肉源で、鳥類はカラス・マガモ・サギ類など、魚はヒラメ、ボラ、サケ、スズキなどが多い。温暖な縄文中期を経た貝塚であっても、極めて豊富な魚介類・哺乳類が獲れ食料資源に恵まれていた。
トコロ朝日貝塚の岐阜第2遺跡17b号住居跡は約6,000年前のもの、平面形は隅丸方形、長軸は約10mの大型住居であった。北海道十勝郡の浦幌町共栄B遺跡同様、中央に炉を備えていたとおもわれる。岐阜第3遺跡では昭和46(1971)年から1974年に、31軒の住居跡が発掘されているが、TK67遺跡では掘り込みの浅い多角形の住居が調査されている。
網走郡女満別町(めまんべつちょう)中心部から南西方向およそ5.5kmの地点で、網走川西岸の標高8mほどにある河岸段丘辺縁に位置する、女満別町の豊里遺跡は、約8千年前頃には段丘の裾を海水が洗い、現在より2~3度暖かであった。陸地ではモミ・トウヒなどの針葉樹やミズナラ・シラカバ・ヤナギ・ブナなどの落葉樹が生い茂っていた。
出土遺物には、イルカ・トドなどの海獣、エゾシカ・クマなどの陸獣、ニシン・ヒラメ・カレイなどの寒冷系の魚類及びブリ・スズキなどの暖流系魚類などが混じっていることからも、気温が現在より温暖であったことが分かる。
豊里縄文人は、小形石刃の先端を加工して、特異なヤジリの黒曜石製石刃鏃を作る。その石刃鏃とは、両側縁が平行な石刃を尖らし、裏側の縁を加工して刃とする独特のやじりだ。石刃鏃は縄文早期のものが主体で、豊里縄文人は、氷河期終末期に、中国の東北地方・東シベリヤ地方などから、北海道東部に移ってきたと見られている。豊里遺跡にはオホーツク文化の影響が色濃く、竪穴住居跡には獲物の骨が積み上げられた祭壇があり、住居内で祈りを捧げていた。住居跡中では刀・斧・網・紡績車など、大量の宝物や道具が見つかっている。
この“石刃鏃文化”の源流は中国の東北地方・東シベリヤ地方・サハリン海岸地方などに分布しており、道内では、東部海岸(オホーツク海沿岸・釧路・根室・十勝地方の沿海岸地帯)の低位段丘上に限定されている。本遺跡からは、大量な石器類が出土し、北海道と大陸との文化的繋がりを究明する手がかりとなっている。また型押文土器(女満別式土器)が出土し、浦幌(うらほろ)式以外の土器の存在が明らかになった。縄文早期の石刃鏃文化は、十勝郡浦幌町(うらほろちょう)の共栄遺跡で最初に発見された。石刃鏃と共に、紐を木片などに縛り付けて土器上を転がして付けた絡条体圧痕文を口唇・口頭部に刻む平底深鉢土器(浦幌式土器)を伴っていた。
シベリアのアムール流域に、同種の石刃鏃が存在している。浦幌式土器も、アムール河口の遺跡からも発見されたことから、石刃鏃文化の源流はシベリアに遡るのではないかと見られている。
ソバなども北回りで伝来した可能性が指摘されいる。函館市南茅部町のハマナス野遺跡では、縄文前期のヒエとソバの炭化種子が竪穴住居跡の中から見つかっている。同じく北海道の縄文早期にシベリア方面から石刃鏃文化が伝来したその後も、弥生文化に先駆けて、北海道、東北では北からの影響を受けつつ、それを巧みに吸収し、東北アジア北部に共通の「ナラ林帯文化」を形成していった。しかし、日本海の荒波に妨げられて、細々と交流が継続したという程度だったとみられ、大陸からの影響は、縄文文化の核心を左右するようなものではないようだ。
ナラ林帯文化とは、ミズナラ、モンゴリナラ、ブナ、シナノキ、カバノキ、ニレ、カエデなどで構成される落葉広葉樹帯で、生業を重ねてきた東北アジアの文化だ。縄文文化は典型的な農耕段階前のナラ林文化として位置付ける人もいる。
縄文期を通じて定住性が高まり、他地域への遊動性が低下し、早期末から前期初頭にかけての温暖化による縄文海進により、海峡の幅が最大になり、渡海が困難になると同時に、必要性も低下した。以後、列島の孤立化、そして縄文文化の独自性が確立されていった。縄文文化のなかで最も絢爛たる文化の花を咲かせたのは、東北地方を中心に栄えた亀ケ岡式文化だ。
前述したように、縄文前期(約5,000~6,000年前)から中期(約4,000~5,000年前)には、縄文海進が起こる。千歳の美々貝塚(びびかいづか)は、そのあたりまで海になったことを示している。気候の温暖化も進み、縄文時代の最盛期を迎える。そのころの平均気温は今より2~3度高く、縄文海進により、海面は4~5m高かく、北海道では函館、室蘭、苫小牧、石狩などの低地に海が入り込んで、浅瀬や入り江が入り組んでいた。
温暖な気候のせいか、この時期の縄文遺跡は特に東日本に多く、中でも東北から北海道にかけて大規模な集落が多く見つかっている。縄文時代には日本列島の中心は東日本だったといわれている。
三内丸山遺跡が東北の代表とすれば、北海道側の代表は、函館市南茅部町(みなみかやべちょう)から八雲町、伊達市にかけての内浦湾(噴火湾)沿岸に点在する遺跡群があげられる。中でも89ヶ所に及ぶ南茅部町の遺跡は、その規模や出土品の貴重さから、三内丸山遺跡に匹敵するといっても過言ではない。
北海道と北東北でそれぞれ縄文遺跡の発掘調査が進むと、両者には多くの共通性があることが明らかになってきた。最も明瞭なのは土器の形状で、筒型平底の土器を多用することから、全域を包含して「円筒土器文化」と呼んでいる。その他、住居や装飾品などにも多くの類似性が見られる。
北海道函館市南茅部町の大船C遺跡は南茅部町の中心から8kmほど北西を流れる大船川の左岸、比高20mに位置し、背後には栗の木山や水量豊富な湧水、前面には海産資源が豊富な噴火湾が拡がるなど、集落を維持するのに必要な自然環境に恵まれていた。いまでも大船川をサケ・マスが遡上する。
町営の墓地造成に先駆けて発掘調査がされたが、縄文前期末から中期終焉まで約1,000年間続いた大規模集落跡であることが判明した。
平成8年以降断続的に発掘調査が実施され、現在も継続されているが、遺跡全体の拡がりは7万㎡ほどにも及ぶと見られ、今後は山側に向けて更なる発掘調査が進められるそうだ。
今日までの調査で、密集し重なり合う竪穴住居址110軒・墓穴とみられる土壙64ヶ所・大量の生活遺物が出土した盛土遺構などが発掘されている。サケ・タラ・マグロなどの魚類、ウニ・カキといった海産物、シカ・オットセイ・クジラの哺乳類、クリ・クルミ・トチ・ブドウ・ヒエといった植物種子など、当時の食生活をうかがい知ることができる史料も出土している。石器、土器などに混じり、ミニチュアの土器、垂飾等も共伴した。子供用のおもちゃと装身具であれば面白い。穀物・種子などを磨り潰す石皿が出土している。直径が20~30㎝ほどの比較的両面が平らな石で、石材は様々だが約2千という数の出土であった。炭化したクリの実がまとまって200粒ほど検出された。主な生業が植物採集であったようだ。
今後とも、近くに湧水があることで、水場遺構のほか墓域などの検出が想定されている。平成13(2001)年に“大船遺跡”として国の史跡に指定された。
大船遺跡は、今から6,000年も前に、北海道と東北地方北部との間に活発な人の往来があった痕跡を遺す。一般的な竪穴住居は長さ4~5m・深さ0.5mほどの大きさに対し、長さ8~11m・深さ2.4m以上の大型住居が10数軒あった。防寒対策と共に食糧の備蓄スペースが必要だったためと推測される。住居址の床には8本ほどの柱跡、直径30㎝ほどの大きな穴が壁沿いに穿たれている。床の縦長の一方の隅近くに、石組みの小さな炉の痕跡があった。火災で焼けた住居跡もあった。
平面が円形・楕円形住居と共に、船形住居も見られる。最終的には住居址が1,000軒を超える大集落が推定され、同時代の“三内丸山遺跡”に匹敵する縄文遺跡として期待されている。 大船遺跡の集落が最も拡大したのは中期後半(約4,500年前)で、その後中期末から縮小し、後期初頭(約4,000年前)には消滅したといわれている。炉の形態も小型の土器埋設炉から大型の石囲炉へと変わっている。寒冷化という気候変動に耐える生活が偲ばれる。
秋田県潟上市昭和町でアスファルト(接着剤)などが多量に出土している。日本では、縄文時代、アスファルトを弓矢の鏃(やじり)と柄との接着剤として、釣り針にみち糸を付けたり、土器や土偶等の欠けた部分の補修などに使用されていた。アスファルトを使い石刃を柄につけ、槍にしていたこともわかっている。函館市南茅部町の豊崎N遺跡からは、土器のなかにびっしりとつまったアスファルトがそのままのかたちで出土した。このアスファルトは、分析の結果、秋田県潟上市昭和町槻木が原産地とわかった。同じく南茅部町の磨光B遺跡からは、住居跡のなかに炉のように掘られた穴の周囲に2つの大きなアスファルトの固まりが見つかっている。穴の中に炭化の痕跡があり、この炉でアスファルトに熱を加え溶かし加工した工房だったようだ。
約3,500年前、秋田から津軽海峡を越えてアスファルトを交易するルートが存在し、他には新潟にしかない希少で高価なアスファルトを加工した工房と、専門職人たちがいた。
古代メソポタミア文明の壁画などに、大規模な天然アスファルトの利用がなされている。紀元前3800年頃のチグリス・ユーフラテス河流域、現在のイラク地方に誕生した古代メソポタミア文明だ。ここは石油の産地で、当然、天然アスファルトも豊富にあり、人々は接着剤として利用してきた。イラクのウル地方から出土した「ウルのスタンダード」は、紀元前2700年頃の壁画で、貝殻や宝石を天然アスファルトで接着している。古代メソポタミア文明の技術を継承した古代バビロニア帝国では、天然アスファルトによってレンガを固め、巨大で堅牢な建造物を数多く造った。また、道にレンガを敷き詰めて、それを天然アスファルトで固定することも行っていた。
旧約聖書に出てくる「バベルの塔」は、古代メソポタミアの人々の間で語り継がれていた物語が原形だとされているが、その実在が古代バビロニア帝国の首都・バビロンで確認されている。天然アスファルトの接着力が、当時としては驚異的な建造技術を可能にした。
縄文後期は縄文海進が終わり、現在よりも低温な寒冷期となった。そのため人口が激減する。縄文後期の後半以降、気候が回復し、遺跡の数も増えた。その時代北海道に特徴的なものがストーンサークルだ。これは墓地と考えられている。これは、北方との文化交流の中でとらえられる。縄文後期後半になると、土塁を築く環状土籬(かんじょうどり;周堤墓)の形式に推移した。環状土籬は、いわゆるストーンサークルの環状列石とは違い、石ではなく穴を掘り、その土を周囲に積み円形に盛り上げる。これに同じようなものがサハリンでも確認されている。また、別の場所では人骨も確認されているので、北方系の民族のお墓といわれている。
縄文晩期になると、東北地方の亀ヶ岡文化の影響を受け、呪術・儀式という精神文化の高揚がみられる。
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(7) 三内丸山遺跡
青森湾の湾奥にある青森市大字三内字丸山の遺跡は、縄文前期の円筒下層a式土器から中期の大木10式期まで、土器形式で12期にわたっている。2,000年のAMS(加速器質量分析)による放射性炭素C14年代測定法の補正年代で、縄文時代前期から中期の約5,900年前~4,300年前の集落跡が、1,500年間にわたって継続して営まれていた事が明らかになった。700軒以上の住居跡から、土器形式の帰属年代とそれに伴う遺跡の規模が時代により大きく変貌していた。また時代により石鏃が多かったり、磨石が多くなったりと石器組成にもダイナミックな変化がみられた。竪穴住居も掘り込んだ床の形や家の構造には、時代によって変移し、縄文中期中葉、住居の数が多い円筒上層d式・e式期では、住居の殆どが長軸4m以下と小さくなり、竪穴の掘りも浅かった。通年の定住集落ではなく、季節的定住、寧ろ積極的な「夏季の交易センター」としての市場の様相を示していた。
現在まで、三内丸山遺跡で発見された遺構の中で、最も重要視されているのは、竪穴住居跡などで、その柱の大きさもさることながら、その柱の穴の間隔、深さがそれぞれ4.2m、2mで全て一致することだ。当時既に測量に基づく定準化技術などが備わっており、三内丸山の住民達が、高度な文明領域に達していた事をうかがわせた。特に4.2mというのは他の遺跡でも確認されており、広い範囲での技術の共有がみられる。柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がし、腐食を長く防いだ一因となっている。発見された竪穴住居跡は、約700棟以上にのぼり、遺跡全体では1,000棟を越すとみられている。縄文時代の家は、地面を掘り下げて床を作った竪穴住居が普通で、それでも時代により形や構造が変化している。特に炉は、地面を掘ったもの、土器片を敷き詰めたもの、石で囲ったものなどが遺存していた。
三内丸山は南北2群に分かれた数軒ずつの竪穴住居から始まった。集落として計画的に施設が配置されたのは、前期後半から中期初頭にかけてである。この時期に集落の中心に超大型竪穴住居と掘立柱建物群が建てられた。竪穴住居の平均面積は約30㎡で、この遺跡の1,500年間を通して最も大きい、安定した定住生活がうかがえた。現在では、発掘された遺構をもとに、シンボル的な3層の大型掘立柱建物、大型竪穴住居、竪穴住居などの住居群、倉庫群が復元され、当時の集落の有様が公開されている。大型掘立柱建物は、地面に柱穴を掘り、柱を建てて屋根を支えたものと考えられる。集落の中央、南の盛土の西側などから密集して見つかった。柱穴は直径約2m、深さ約2m、間隔4.2m、柱材は直径約1mのクリの木であった。木柱の周囲と底を焦がしていたため腐らずに遺存した。地下水が豊富で常に水没した状態であった事にもよる。6本柱で長方形の大型高床式建物を支えていた。柱の下の土の分析から、高さ約20m以上の建物であったと推測されている。大型掘立柱建物跡の木柱2本の年輪を計測したところ、太い方は84年の年輪があった。栗材は水湿に耐え、耐朽性が高い。古くから住宅の土台として特に高く評価され、資源が豊富であった時代には鉄道枕木としても活用されていた。
長さが10m以上は大型住居跡とするが、大型竪穴住居跡例として、長さ約32m、幅約10m程で、床面積は252.38㎡のものもある。その広さから、集会所、共同の作業場、祭祀場、冬の間の共同家屋などの用途が推測されている。
次の縄文中期前葉期、特に円筒上層a式からc式期の間、三内丸山の住居跡は少なくなり、特にその中間の円筒上層b式期の住居跡は10軒にも満たなくなる。このムラの衰退はこの時代の青森県全域の動向であった。大きな環境変化か、それにより生ずる生業の転換期か、何があったのか。
その後ムラ関係の再編が起こり中期中葉以降は竪穴住居が最大の数になる。だが住居群は広く拡散し、以前の計画的集落のように中心に大型竪穴住居もみられなくなる。長軸3~5mが多く、竪穴住居の平均面積は約10㎡と小さくなり竪穴も浅くなる。上屋も殆どが簡素な伏屋作りであったようだ。拠点的定住集落としての佇まいがなくなっていた。
季節的集住が想定される。晩秋から春にかけて三内丸山から離れ、冬はイノシシやシカ狩の季節、春は山採や魚介類の採集に忙しい、秋はドングリ・クリ・クルミなどの植物質食料の確保が優先、小集落に分かれていた人々は、夏は漁労の季節でも夏至前後は収穫量に陰りが出る、その前後に三内丸山に集住し、夏至の祀りとその前後にかけて行われる例年の交易市を盛大に行い、その間、狩猟漁労や植物食材の採集に励み、宴会用にカモやキジなどの焼鳥、鮭・イルカの塩漬けやイノシシの薫製、干し貝などの保存食と果実酒を地元産として交易の場に提供もしていただろう。
ヨーロッパでは、旧石器時代から竪穴住居が出現している。pit-house, pit-dwellingと呼ばれ、世界レベルでは、新石器時代に広く伝播した。中国では、仰韶文化(やんしゃおぶんか)の代表的遺跡である西安の半坡遺跡(はんばいせき)で発掘されている。日本でも、後期旧石器時代ごろから、北海道から九州にかけて諸所の遺跡で出土し、主に伏屋式竪穴住居が殆どであった。ただ日本の蒸し暑い夏を、各地で再現されているような竪穴住居で暮らすのは厳しい。樺太アイヌや北アメリカの北西海岸インディアンなどでも、冬は竪穴住居に住むが、夏は転居し柱穴すら掘らない簡易な掘立小屋を建てて過ごしている。三内丸山でもこの時代の交易を目的とした短期間の市場であれば、遺構として遺らないキャンプサイト的住居の方が多数を占めていたのかもしれない。
三内丸山からは、畳3畳分の場所から植物遺体で固まった厚さ約5~10㎝の堆積層が出土した。ヤマブドウ、サルナシ、ヤマグワ、キイチゴなど「酒造用」植物の種が検出されている。そのうち大部分がエゾニワトコだった。縄文前期の秋田県大館市釈迦内の池内遺跡(いけないいせき)では、植物繊維が絡まったニワトコの果実の種が発見された。縄文人が、植物繊維で果実を絞り発酵させ果実酒造っていた痕跡であろう。池内は内陸深く入った遺跡であるが、ブリ・サバ・サメなどの海産魚が多く含まれ、ブリの椎骨が多数あるのに頭骨が全くない出土状況であった。沿岸部で獲った魚を、腐りやすい頭を除き干物や燻製にして、池内へ運び交易したとみられる。
三内丸山では秋のクリやドングリの収穫後、越冬に備え、それぞれの集落に引き上げて行く。ただこの地で越冬する集団もあった。この時期にも三内丸山内に貯蔵穴が掘られ、また乳幼児の埋葬のための埋設土器が埋められている。
定住生活の度合いが下がるが、この時代、列状墓が拡大し、それに伴い道路整備が進められている。祭祀活動も一層盛んになり、南盛土が厚さ2m~2m50㎝までになる。この縄文時代一般の特徴として儀礼的な祭祀が終わると、交易上の情報交換の場ともなった祭宴が盛んに行われた。宴の後は使用した品々を盛土に廃棄した。
大量の遺物がすてられた谷や北盛土は、壊れた土器や貝殻、魚の骨などが発見され生活廃棄物の処分地だった。一方、興味深いのは南盛土(もりど)で、、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、石の装身具、木器(掘り棒)、袋状編み物、編布、漆器類、骨角器、他地域から運ばれたヒスイや黒曜石などが出土している。 生活廃棄物場ではありえない、ミニチュア土器類など祀りにかかわる遺物なども多数出土している。貴重なヒスイも、その大半が盛土遺構から発見されている。ヒスイ輝石は日本列島でも数ヵ所、産地が限定している。硬玉として装身具の材料になるのは糸魚川周辺と富山県東部の沿岸でしかない。縄文中期から、盛んに装飾品に用いられるようになる。北は北海道から南は沖縄と広く伝播している。それらを含めて儀礼的祭祀の後、宴会を催し、使用した品々を盛土に廃棄した。竪穴住居や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土、灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物も捨てられ、それが長年月に亘り、繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになっていた。土砂が水平に堆積しているので、整地しながら廃棄作業がなされていたようだ。
三内丸山遺跡からは、ヒスイ・琥珀・黒曜石・アスファルトが付着した石鏃など遠隔地から持ち込まれた貴重な物資が多く出土した。それはこの地で交易が盛んに行われた証であった。三内丸山は青森湾の奥に位置し、北海道など各地からの丸木舟で物資を運ぶのに適していた。糸魚川付近か富山県東部の沿岸のヒスイ製の玉類、北海道の白滝・佐渡・月山・霧ケ峰などの黒曜石製石鏃・岩手県久慈のコハク原石・秋田県昭和槻ノ木のアスファルト・イモ貝形土製品などが、交易に相応しいとして、かつての拠点集落に集まって来た。交易に運び込まれた物資の大半はそれぞれのムラに持ち帰られただろう。交易に伴い宴を繰り返す度に、使用された品々も盛土に廃棄された。交易に集う人々は、一時的に数百人相当と説く人もいる。ただ4、500人が同時に、通年的に定住した拠点集落ではなかったようだ。
子どもは亡くなると、埋設土器といわれる、丸い穴を開けたり、口縁部や底を打ち欠いた土器の中に入れられ、住居の近くに埋葬された。土器の中から握り拳大の丸い石が1、2個出土する場合が多く、当時の習慣に関係するものと考えられる。
大人の土壙墓は集落の中心から海に向かって幅12m・長さ約370m延びる道路に沿って、両側に直角方向に掘られた長さ約2mの円形や楕円形の穴に2列に配置され、手足を伸ばした伸展葬で埋葬された。2列とも道路側が深く、道路より遠いほうが浅い。遺体は互いに頭の方を高くし、道路に足を向けて埋葬されていた。行き交う人々を眺める形であろ。この土坑墓列は約420mにわたっている。人骨は出土していないが、石器やヒスイ製のペンダントが副葬されている例があった。大きな土坑や環状配石のある土坑墓もみられた。南方のやや離れた所にある小牧野遺跡と共通している事から注目されている。また、平成11(1999)年10月6日にこの墓の一つから炭化材が検出した。これは「木棺墓」の跡のようだ。家長的リーダーの墓と指摘されているが、豊かな副葬品は出土していない。人骨が遺存していないため男女の区別もできない。
約420mと延びる道路はなだらかな斜面を削って平面とし、5m~14mの幅で掘削し、軟弱な場所には地山から掘り出した黄褐色のロームのブロックを貼り付け舗装していた。そのブロック面を掘って円筒上層c式期の埋設土器が出土しているので、縄文中期前葉以前から既に道路はあったようだ。道路の整備は墓が増設されるに従い延長され修繕された。最近の調査では、南北に延びる道路も見つかっている。いずれの道路もムラの中心に立ち並ぶ掘立柱建物群の間から発している。その中心に近い所ほど広く念入りに整備され墓の密度の高い。それから徐々に狭くなり、おそらく墓が途切れれば舗装もされず単なる道として延びていっただろう。ただ山内丸山を訪れる人々は、道に並ぶ土坑墓の盛土群に迎えられた。ムラの人々は日常、生活道路を歩く度に死者に見守られている事を意識していたであろう。
三内丸山遺跡の東部に縄文中期後半の粘土採掘穴が発見された。第1号粘土採掘穴の規模が非常に大きく、面積は325㎡ある。底面は深さが10~30cmの円形ないしは不整形の窪みの連続となっている。これは粘土を採取した痕跡のためである。この採掘穴からは粒の細かい、粘土に近い火山灰を利用して土器・土偶を作っていた。
この地に遺跡が存在することは、江戸時代から知られていたが、本格的な調査は、県営の野球場を建設する事前調査として、平成4(1992)年から行われた。
その結果としてこの遺跡が大規模な集落跡と分かった。
平成6(1994)年には、大型建物の跡とみられる直径約1mの栗の柱が6本見つかった。これを受け、同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し遺跡の保存を決定した。また、墓の道の遺構が非常に長く延びている事が分かったため都市計画道路の建設も中止された。
この遺跡は現在の敷地から、当初、広場を囲むように住居が造られた環状集落と見られていたが、現実は、住居が非同心円状に、且つ機能別に配置されていた。通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。平安時代の竪穴住居跡は南側のやや高い平坦部に遺存していた。
三内丸山遺跡で出土した動物骨の特徴として興味深いのは、イノシシやシカなど中型動物が少ないことで、その出土する動物遺体の7割が、ウサギとムササビのような小型動物であった。動物性の蛋白質は余り多く摂取されず、胡桃や栗などの植物性蛋白質が主体で、通常の縄文人の食料の8割以上が植物性食料だったことは人骨の分析からも明らかになっている。
貯蔵穴(ちょぞうけつ)は、集落の外側、台地の縁辺部にまとまって造られていた。入り口がせまく底が広い、断面がフラスコ状のものが多く、栗などの木の実、食料がたくわえられたものと考えられいる。中には、幅3m深さが2m近くもある大型のものもあった。遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、さらにはヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。縄文時代の畑作が想定された。
平成16年の調査では、中期末葉・約4,000年前の焼失した住居跡を発見された。長軸が約5mあり、遺存した焼土と炭化材の状況から屋根が土葺きであったとみられている。採取した土の中からクリ・クルミ・クワ・キイチゴ・ヤマブドウなどの植物遺体ほか、炭化材、骨片、石器製作に生じた?片などが共伴した。
出土遺物は土器、石器が中心であるが、最大は32.5cmある様々な大型板状土偶などといった土製品や石製品も多く含まれていた。三内丸山遺跡からは、現時点では日本列島で最多を誇る1,500点を超える土偶が出土した。その殆どは縄文前期末から中期中葉までに作られている。土偶が増加する時期と磨石が増加する時期とがほぼ重なるといわれている。土偶を祭具とする文化は、植物質食料を集約的に生業基盤とするムラ社会から発展してきたようだ。土偶の多くは、この時期の特徴である板状・十字型で、乳房・へそなどを単純な凸型で表現している。土偶は人為的に壊されたようで、頭部と胴体部が別々の場所から見つかる事が多い。中には直線距離で約90m離れた場所から出土している。
三内丸山遺跡の黒曜石は、産地分析の結果、北海道から長野県までの広い地域におよび、北海道白滝(紋別郡遠軽町)・置戸(常呂郡置戸町)・十勝三股・赤井川(余市郡赤井川村)・豊泉(豊浦)、青森県出来島・深浦、山形県月山、新潟県板山、長野県和田峠などの原産地が分かっている。白滝産地の重さ44kgの大型の原石も出土している。この他にも植物の細い蔓が10本使われ、5本編みにされている長さ3cm程度の組み紐・琥珀・翡翠製大珠・骨角器・漆器などが出土している。翡翠は、三内丸山内で加工したようで原石や未完成品が出土している。
骨角器は錐・釣り針・銛から、ヘアピン・カンザシ・牙玉などの装飾品まで多数出土している。年間を通じてとれる貝類、季節的に押し寄せるサケ、 ニシン、イワシ、アジなどの周年漁労も生業であった。漆塗りの遺物は、皿、くしなどの木製品と土器製などがあり、鮮やかな赤色をとどめ、極めて質が高い丁寧な加工が施されているため、祭祀目的とみられる。ウルシは日本へは縄文時代以前に朝鮮半島から渡来した。出土ウルシ種子のDNA分析の結果、ウルシ属のうちウルシのものであること、日本列島のどこかで栽培された品種であるようだ。イグサ科の植物を使って十字に編まれている籠にはクルミの実が入っていた。その編み方は今日でも使われている。その他、ヒスイ、コハク、動物の歯、貝などには、穴をあけてビーズ状
にして、首飾りや腕飾りにした。
遺跡は、他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握されていない。これほどの遺跡がなぜ終焉を迎えたのか?縄文人が大規模な村落を、三内丸山に形成して1,500年もの長い期間、ここで暮らしていた。それに伴い食物残滓や排泄物が蓄積され、自然の浄化能力を超え、それまで定住生活を保障してきた環境を破壊した。一方、気象変動の寒冷化によって栽培していた栗の収穫が激減し、他の採集食糧も欠乏した。また海が後退し、周辺の森林資源が長年月に亘る過度の収奪で、大規模な集落の営みを支えてきた諸々を消滅し尽した。
その一方、後期・晩期の人口激減は、寒冷化と共に疫病説も唱えられてる。4,500年前から気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少したと推測されている。社会実情データ図録より
縄文前期から中期にかけて拠点的集落を発展させ、遺跡の数・規模・内容ともに東日本が西日本を遥かに凌駕した。西日本は依然として小規模な集団によるムラの生活であった。しかし東日本の縄文社会が大集落から首長制社会に到達することはなかった。一方、西日本は衰退する東日本の縄文文化とは次元を異にする文化力を背景にして、集落社会から部族社会を経て、首長制社会を発展させ『国』造りへと大きく複雑な社会形成に突き進んでいった。
平安時代の集落跡(約1000年前)、中世末(約400年前)の城館跡の一部もみつかっている。
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(8) 北陸地方の縄文時代
旧石器時代の漁労活動の痕跡は、当時の海岸部が海底下にあるためか出土実績が無い。一方、漁労は縄文人の生業を特色づける重要な1つで、地域的特性の好例にもなっている。縄文早期の末から前期の初め(6,000年前)頃の、富山湾周辺の遺跡群、朝日町の明石A遺跡、石川県穴水町の甲・小寺遺跡、能登島町佐波遺跡など海岸部の遺跡から石錘が出土している。石錘や土錘が多量にあれば、漁網の使用が推測される。日本列島では、漁労は川から始まり海へと生業範囲を広げ、海に乗り出したのは縄文時代になってからのようだ。釣り針・ヤス・モリなどの漁労具の改良とともに漁網が広く活用された。網の断片は縄文晩期の愛媛県松山市船ヶ谷遺跡でも出土し、現在の漁網と結び方は一緒であった。その網のの間隔が最大9mmと小さくタモ網と見られている。
縄文早期には網でイワシ漁も行われていた。北海道渡島半島の縄文早期遺跡からは多量の礫石錘が発見された。関東地方の縄文中期の貝塚からは、大量の土器片土錘がでている。単なるタモ網漁ではないようだ。
実際、現代同様、網の製作・手入れには大変な作業が伴う。縄文時代貝塚には網でなければ獲れない小型の魚が貝塚から出土している。昭和35(1960)年、宮城県鳴瀬町里浜貝塚で鹿角製の網針が発見された。
日本列島の酸性土壌では、直ぐに骨を溶かしてしまうため、丘陵や平野部から、縄文時代の人骨や食べ物の残滓が遺存しない。海浜部の貝塚では、貝殻のカルシウムによって魚介類の骨や食物残滓などと、土器や石器類などの生活用具が多量に層をなして累積している。その時代の生業を知るうえで貴重な史料となる。弥生時代以降の貝塚遺跡もあるが、食料源として貝の比重が、縄文時代と比べて少ないようで、その規模と数でともに及ばない。縄文人は陸産の植物資源のみならず海産資源も盛んに利用していた。骨角製の釣り針やヤス・モリなどの刺突具の本格的な活用がなされた。特に漁労具の改良は著しかった。シカの角が複雑で精度の高い種々の加工を容易にした。陸の槍を水界に転用したのがヤスであり、それに紐を結んで投げて突くように工夫したのがモリだ。ヤスは浅瀬の魚、モリは大型の魚や海生哺乳類用となる。シカの中手骨や中足骨が人の手の甲の骨にあたるが、シカのこの骨が真っ直ぐで長いので、細かい加工がし易かった。それで縦に裂いて使った。ヤスは縄文早期にはかなり浸透していた。前期には多種で独創的な逆鉤(あぐ)をつけたヤスが関東地方に現れている。
6,000年前をピークとする縄文海進は、栃木県南部にまで至り、鹹水(かんすい)産貝類を含む貝塚が出土しているぐらいの環境変化が、重要な縄文時代の画期となっている。
北陸地方の縄文前期初頭の集落で、どんな魚が食膳に上ったかが分かる。氷見市朝日貝塚(中期)では、アカエイ・タイ・マグロの骨が検出されている。石川県能登町の真脇遺跡(前期~晩期)では、サバ・カツオが比較的多く、スズキ・クロダイ・マダイ・イシダイ・マフグ、あるいは大型魚のマグロ類・サメ類など、20種近くの魚骨が検出された。
網漁のほかに釣りによる漁も行なわれていた。縄文前期後半の富山市呉羽町字小竹の小竹貝塚(おだけかいづか)からは、イノシシやシカの骨製釣り針、同じ素材の装身具のヘアピンなごが出土している。埋葬された人骨13体が、イルカやサメ、クロダイ、イヌ、イノシシ、シカなど生物の骨や歯などと伴出した。釣り針は関東地方では早期や前期から既に出土例が多く、中期後半以降は仙台湾周辺から、後期中葉からは西日本でも増加していく。
朝日貝塚は、アカガイやハマグリ・バイを主とした貝塚で、発見された貝の種類は40種類にも上っている。その朝日貝塚出土の骨で見落とせないのが、イルカで、現在氷見市立博物館に保管されている資料では、少なくとも24頭を数えることができる。内訳は、マイルカ17頭、カマイルカ3頭、バンドウイルカ2頭、ゴンドウクジラ類1頭、不明1頭。この数は朝日貝塚出土のイノシシやシカなどの陸獣の2倍以上にもなる。
朝日貝塚の人びとは、殆ど、富山湾から生活の糧を得ていた。小竹貝塚でも、イルカの骨が他の獣骨より多い、真脇遺跡でも、285頭のイルカの骨が確認されていて、ここでもイノシシやシカに圧倒的な差をつけている。縄文時代全体を通して、今より暖流が北上していた。全てが温暖種で、カマイルカ・マイルカ類が主である。
縄文時代にイルカ漁を盛んに行っていた遺跡が残されている地域は、富山湾岸以外では、北海道東部の釧路川河口付近と中央部の内浦湾沿岸地域、それに東京湾口の千葉県館山市鉈切洞窟遺跡(なたぎりー)と横浜市称名寺遺跡・相模灘沿岸地域などがある。大量のイルカの骨が出土し、まさにイルカ村であった。同じ北陸でも、日本海に直接面している石川県宇ノ気町の上山田貝塚では、イルカの比重が極端に少ない。北海道網走郡女満別町の豊里遺跡の出土遺物には、イルカ・トドなどの海獣が含まれている。同じく北海道常呂町のトコロ朝日貝塚では、貝類はカキ貝が主体で、ベンケイガイ、タマキガイ、ホタテガイ、ハマグリ、ヤマトシジミ、ウバガイなどを採集し、アシカ・トド・、ヒグマ・クジラ・イヌなどが食肉源であった。東京都あきる野市の前田耕地遺跡(まえだこうちいせき)は多摩川に面している。縄文時代草創期の住居の床からサケの顎が出土した。多摩川の河原で採取した石材で大量の石槍を製作し、秋に遡上するサケを獲っていた。
岸近くまで深さを保つ富山湾では、真脇の小さな湾や、かつての十二町潟(じゅうにちょうがた)や放生津潟(ほうじょうづがた)の潟口まで、イカやイワシの群を追って、イルカが回遊していた。
縄文時代もイルカは大量に捕獲されていた。真脇遺跡のイルカ骨の出土は、「足の踏み場もない位」の285頭にも上る。骨の56%がカマイルカ、35%がマイルカで、この2種類が殆どで、他にバンドウイルカやゴンドウクジラ類が含まれていた。その多くに、5、60㎝単位の解体痕があった。
真脇遺跡の近辺では、江戸時代から昭和初期までイルカの追い込み漁が盛んであったという記録も残されている。
イルカの捕獲活動について研究を進めた平口哲夫氏(金沢医科大学)は、「1回に何十頭も捕獲したのではなく、5、6頭以下というのが平均的な捕獲数ではなかったか」といわれる。数十頭数百頭という大量捕獲でなくとも、小型イルカ類の平均体重は、シカやイノシシと極端な差はないので、その数頭の捕獲はムラの食卓を潤して、なおもあまりあるものであった。
カマイルカの平均体重は約100kgあり、食料以外にも、脂肪は燈下用の燃料、骨製道具材として、また皮もなめして利用されたかもしれない。干肉や脂肪は、他地域へ交易品として運ばれた。真脇で捕られ、解体されたイルカは周囲の縄文の村と交易された。同遺跡から入江まではわずか200m、縄文海進時には真脇湾を見渡す高台にあった。七尾まで直線距離にして約33km、氷見まで約52kmある。同遺跡からは舟の櫂(かい)が出土している。イルカの切身の塩蔵を土器に詰め、丸木舟で一気に七尾辺りまで運び込んだ。
日本の製塩は縄文人が発明した。土器の海水を煮詰める。その煮沸効率を上げるため、底が薄く小さな深鉢形土器を製塩専用に作り出した。関東地方の縄文後期には登場し、やがて東北地方や東海地方へと伝播した。縄文の塩は食料の保存用であった。それも魚が主体であった。関東地方には製塩用土器片が広く分布している。塩がこびりついた魚と土器片を一緒に漬けこみ流通させた。真脇の縄文人も、土器技術・海の塩・海産資源の三拍子を備え、大いに交易に励んでいただろう。なお縄文人が必要とした塩分は、動物の髄や血などから自然に摂取していた。
縄文人は、それぞれの地域環境に適応し、採集経済社会として極めて高度な生活を、各地で展開していたが、富山湾岸に住む人々には、対馬暖流に乗って春から秋に回遊して必ずやって来るイルカは、まさに富山湾からの贈り物であった。内浦湾岸の北海道伊達市北黄金貝塚(きたこがねー)出土の縄文人の骨による食性分析では、タンパク質の7割以上が海洋哺乳類から摂取されていた。この傾向は北海道沿岸部の近世アイヌ人まで続くという。富山湾岸の人々の生業の様子も同様であったであろう。
イルカの群れが発見されると、丸木舟で漕ぎ出して湾内に追い込み、網で仕切り、石銛や鹿角製大型モリで突き刺し、浅瀬に追い込んだものは素手で引き上げた。獰猛なシャチや巨大クジラは海岸に漂着したものを捌いた。危険性と緊張感を必要とするこの共同作業には、集団の結束が欠かせない。イルカやクジラの肉の保存は、日干し・火干し・煮干しなどの乾燥方法、海水で煮る塩煮、製塩が行われていれば塩漬け、或いはイルカの油による油漬け、燻製も考えられる。
長野県富士見町境の藤内遺跡(とうないー)九号住居跡から炉上の吊り棚に貯えられたとみられる多量のクリが出土した。古代の住居は屋根が低い、火炎や火の粉が天井に達しない様に、炉の上に火棚を設けた。日常的に火棚に各種食料を置き、燻蒸貯蔵をしていたようだ。真脇の人々は塩煮したイルカ肉も火棚に置き、いつでも食べられる食料としていたかもしれない。
朝日貝塚で発掘された15歳前後と推定される男性人骨は、魚の脊椎骨を首飾りとしていたと報告されている。イルカの歯に穴を開けた装身具もあった。 |
(9) 亀ヶ岡遺跡
亀ヶ岡遺跡は、青森県つがる市木造亀ケ岡で発掘された。木造亀ケ岡は、最終氷期後半の極寒期(約2万5千年前)まで、うっそうとした針葉樹林帯であり、その後温暖化により針葉樹林は水没し、洋々たる入り江になった。西北からの風波が泥土を堆積させ、三角州ができ砂丘が築かれ七里長浜になった。この地に、今から約3千~2千年前、縄文時代の晩期の文化・亀ヶ岡縄文文化が開花した。
縄文中期まで、土偶の出土の最西端は滋賀県であった。後期になると石囲炉のある住居・抜歯の風習なども含めて東日本の縄文文化が西日本に伝播した。
環状集落も血縁集団の帰属意識の高まりを根底にする東日本の文化的特徴とされてきた。縄文中期末から遺跡の形成が始まる宮崎県宮崎郡田野町大字本野原の本野原遺跡(もとのばるー)で、それもようやく後期中葉に環状構造が出現する。だが環状に集落の中心を占拠するのは墓坑を含む土坑群であった。当時、東日本では環状集落の中心に、墓地を独立させる形で環状列石などのモニュメントを配置した。それが集落内外に対してのムラ人のアイデンティティとなった。歴史ある古くからのムラである本野原も、先祖祭祀をムラ人のアイデンティティとするため、後期前葉には竪穴遺構が作られた。そこには住居がなく、祭祀儀礼を念頭においた竪穴遺構と、大ぶりな石を用いた配石遺構が作られた。
東日本では縄文中期末から後期にかけて、伝統ある定住性の高い集落が、その地域から消滅するほどの大規模な気候と社会変動が起きる。一定地域に固執した定住集落を維持できず離脱遊動し、それが結果的に西日本にまで、ムラの人々の紐帯となる先祖の思慕を根底に置く祭祀観念を伝播させたようだ。
この時代、寒冷化により、中部・関東地方以北の縄文文化が衰退した。その過酷な自然環境の中、当時の亀ケ岡縄文人は、優れた知恵と卓越した技術を駆使し、縄文文化の集大成ともいえる、数々の精巧な石器や、華麗な装飾をほどこした洗練された土器等を作りあげた。
この遺跡の発掘は、元和8年(1622)年津軽藩主信牧(のぶひら)公が亀ヶ岡築城を計画したことに始まる。信牧は、弘前藩祖・津軽為信の三男である。津軽為信(ためのぶ;1550~1607)は、戦国大名の典型的な道を歩んだ。津軽地方を支配する南部一族の内紛に乗じて、元亀2年(1571)5月、石川城(別称:大仏ヶ鼻城)の津軽郡代・石川高信を急襲(石川城の戦い)して自立し、それより和徳城、天正3年(1575)に大光寺城、天正6年(1578)には浪岡城、天正13年(1585)には油川城・田舎館城・横内城、天正16年(1588)には、飯詰高楯城など南部氏の属城を蚕食して勢力を伸ばし、津軽地方を統一した。
これに対し南部家当主・南部信直(なんぶ・のぶなお)はこれを奪還しようと企て、配下諸将に津軽氏討滅を命じたが、九戸政実(くのへ・まさざね)以下の諸将は、事前に為信と密約を結んでいたため、これを拒否、一方の為信は小田原討伐に向かう羽柴秀吉に沼津で謁見し、津軽3郡3万石の安堵状を得たことで既成事実を作り、信直の策動を封じた。以降両家の反目の感情は江戸時代に至っても続く。
こうして、為信は元々は南部氏の家臣であったが、小田原征伐の際、自立せんとして逸早く、豊臣秀吉への働きかけが成功し大名となる。
信牧公当時の木造地方は、一面不毛の湿地帯であったが、信牧公が、新田開拓事業に乗り出し、その拠点として亀ヶ岡城の築造準備を進めた。その際資材運搬のため、湿地に材木を敷いて街道を造ったことから、「木作村」と称されるようになり「木造」の地名の由来となった。
その後、築城は幕府令により取り止めになったが、4代津軽藩主信政の時代も引き続き新田開拓は進められた。開拓に障害となる七里長浜からの砂塵を植林により克服し、約4千町歩の田畑を開墾した。また信政は三新田を管轄する代官所、さらにはその中に仮館を設け、新田各地を巡視した。
以後の藩主も同様に巡見を行ったことから、「木作」は新田地方の中心として栄えた。
先に述べたように、元和8年(1622)年、信牧公が亀ヶ岡築城を計画、工事を始めたところ、多数の瓶(かめ)や壷等の土器類や石器類が数多く出土した。それが「亀ヶ岡」の地名の由来となった。
「永禄日記」の元和9年の条に「ここより奇代の瀬戸物を堀し・・・・・」とわが考古学上の最初の記録がなされている。「元禄日記」にも、昔から瓶(かめ)が多く出土することによる地名の由来が記載されている。
縄文時代に漆製品があり、それも高度な技術を伴う事は、今や考古学上では常識である。かつて青森県八戸市是川字仲居の是川中居遺跡(これかわなかいいせき)の出土品が高く評価されなかったは、縄文時代晩期を主体とした籃胎漆器・木胎漆器・弓・櫛などの漆製品が、余りにも精緻で装飾的であり過ぎて、江戸時代のものだという説があった事などによる。漆の木は日本には自生していないという植物学界の見解が、正確な判断の妨げにもなった。その上、漆液採取から製品仕上げまでの複雑な工程が、日本で突如誕生したとは思えなかったからのようだ。漆製品文化は日本には、奈良時代以前、中国経由で渡来したという説が有力であった。しかし採取法の違いなどから、日本の漆器を独自のものとする説も有力となった。
1984年に福井県若狭町の鳥浜貝塚で出土した木片を、2011年に東北大学が調査したところ、およそ1万2600年前の漆であることが判った。日本には、既に縄文時代以前に、朝鮮半島経由で渡来していたようだ。ヤマウルシが北海道から九州、千島列島南部など広く分布しているので、日本国内に元々自生していた可能性も考えられる。
漆は元々接着剤として使用されていた。埼玉県大宮市の寿能遺跡(じゅのうー)では、シノダケ類の矢柄に石鏃を装着する際に使われている。木屎漆(こくそうるし)は、弱火で加熱しながら生漆(きうるし)に木屎をねり合わせたもので、布や木の接着剤、塗り物などの割れ目の充填剤などにする。神奈川県小田原市の羽根尾遺跡(はねおー)で出土した結歯式の櫛は、一本ずつ作った歯を糸で縛り、根元を薄い板で挟んで漆で固め、黒漆を重ね塗りして、仕上げに赤漆で彩色したものであった。
塗料として使用する場合、その素地により木なら木胎漆器、竹・蔓・茎なら藍胎漆器(らんたいしっき)、土器なら陶胎漆器という。亀ヶ岡遺跡の出土品は縄文後期から晩期のもので、特に、黒漆の地に赤漆で紋様を描いた藍胎漆器が美しく、竹・樹皮等を編み、麻布を貼り付け黒漆を塗り重ね皿状にし、赤漆で模様が描かれている。櫛などの漆塗、漆やベンガラを塗った土器や装身具、ヒスイの勾玉、丸玉、ガラス玉など、その形状、紋様、塗飾などは精巧で完成度が高く、卓越した芸術性がうかがわれる。そのため、江戸時代から既に「亀ヶ岡もの」として好事家の手により江戸、長崎ばかりか、オランダあたりまで輸出され、乱掘がくり返えされた。
出土品が散逸することをふせぐため、昭和19年文化財保護委員会が「亀ヶ岡石器時代遺跡」、および近くの縄文前期~中期の土器が、出土している「田小屋野貝塚(たごやのー)」も史跡として指定した。
明治20年に亀ヶ岡遺跡から出土した高さ34.5㎝の土偶は、胴体からすぐ頭部で、顔面を覆う目がエスキモーが使う真ん中にスリットが入っている雪眼鏡(ゆきめがね)に似ているため遮光器土偶(重要文化財)と名付けられた。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、体は左右対称の文様で全面に亘って覆われ、肩が張り、腕は短く逆円錐形で、指は3本しかなく、胸には半球形の乳房が貼り付けられ、大きな臀部と太ももで女性をデフォルメした。遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期の特色となっている。昭和32年国指定重要文化財に指定され文化庁が所有している。
その斬新な形、驚くほどの精緻さ、赤く彩色されていた事、その文化力の高さに圧倒される。遮光器土偶をはじめ、縄文晩期の亀ケ岡の土器は黒漆の地に赤漆で描いた文様などが特徴で「亀ケ岡文化」「亀ケ岡式土器」と呼ばれている。
ただ、遮光器土偶は、他にも旧都南村(現在の盛岡市)の手代森遺跡からも発見されている。現在では、黒っぽく見えるが、当時は朱(しゅ)が塗られていたようだ。今はきちんと復元されているが、発見当時は、ほかの土偶と同じようにバラバラになっていた。それ以外にも岩手町豊岡遺跡・宮城県恵比寿田遺跡・宮城県尾田峯貝塚・宮城県北上町泉沢貝塚でも出土している。いずれも、念入りに作られて、大きいものが多い。ほかの土偶には無い深い思想が込められていたのかもしれない。
亀ヶ岡遺跡では、完全な形の土器が1万個以上も出土したといわれている。その中でも、精製土器は、薄い器壁に文様を描き、朱色に塗色され装飾されたものが一般的で、浅鉢、壷形、台付き浅鉢、注口などがあり、縄文時代のなかでも際立った多様な器種分化を遂げている。中でも朱・丹などベンガラ塗飾、漆塗り、独特な入組文様などが施された、赤色顔料塗り壷形土器、漆塗り彩文土器、漆塗り異形土器、彩文藍胎土器片などは、亀ヶ岡縄文人の高度な技巧に驚嘆させられる。
全体が、赤色ベンガラで彩色された“藍胎漆器”は、竹・樹皮などを編み、麻布を貼り付けて漆を塗り、それに模様を描くという漆文化の知恵、及び卓越した芸術完成度には目を見張るばかりだ。香炉形土器は、上部2ヶ所に窓状の穴を開け、周囲に緻密な透かしを彫り、下半部には流麗な雲形文が施されており、装飾効果を高めている。それは、呪術的文様を超えて、意欲的な美的構想にもとづいて文様を施した創作とみられる。
さらに、鯨骨に塗飾した皿らしき器・玉類用の砥石・朱塗り耳飾り・ペンダントなど身体装飾品・作業工具に秘められた知恵・彫刻風の多様な文様・工夫を施した形状など、多才な芸術感覚が示されている。
亀ヶ岡縄文人が、どのような物を食べていたかを知るためには、貝塚を調べてみるとよく分かる。大浦貝塚は、青森市野内字浦島の海岸線に立地し、昭和43年の発掘調査の結果、亀ヶ岡文化を有する縄文晩期の貝塚遺跡であることが判明した。
青森県内の縄文貝塚は、八戸市・三沢市など太平洋沿岸に集中し、50ヶ所以上確認されているが、亀ヶ岡文化期の貝塚は極めて少なく、陸奥湾岸では大浦貝塚1ヶ所だけと云われている。
貝塚は、陸奥湾を望む鼻繰崎の西側で、汀から50mの畑で、丘陵裾に道らしいアクセスもなく、隔離された海岸線に、ひっそりとある。
貝塚は、貝殻やごみ類などを捨てた場所で、貝殻に含まれるカルシウム分が酸性の土壌を中和するため、普通腐ってしまうような貝類・骨類・木材・布などの有機質が良好な状態で保存された。
漁労用具として網や土錘、骨角製の釣針とモリなど、この貝塚から出土した。特に、鹿の角で作った各種釣針は、返しがあり、糸を巻く溝も付けられている。
鹿の角の先端を2股にして、その間に石鏃を挟み、それをアスファルトを使って矢柄の先端に装着する、異色な骨角器も出土している。鹿角製のヤス、猪の犬歯の装身具もあった。
骨角器のほか、食料源のアワビ・レイシ・イボニシ・イガイなどの岩礁性貝類、ボラ・マグロ・サバ・マダイ・メバルなどの魚類、ウミガラス・アホウドリなどの鳥類、狸・鹿・猪・イルカ・クジラなどの哺乳類なども検出された。
大浦貝塚の南へ150m離れた、汀から150mの平坦な畑で、製塩址が発見された。海水を煮詰めるための製塩土器片が、火熱を受けて赤や灰色に焼け、細かく割れ、バケツのように上向きに口が広がった状態で出土し、それ以外にも、製塩土器の破片が多数発見されている。塩作りも盛んに行なわれていたが分かった。
塩作りによって、海産食料の塩漬け保存が可能になり、内陸部のムラとの交易も容易になり、この地域に住む人びとの生業を格段に向上させた。塩作り遺跡は陸奥湾岸に集中しているが、作られた塩は、生活に欠かせない大切な食料保存材として、山間部の集落などとの交易物資にもなっていた。
亀ヶ岡遺跡は、東に岩木川と広大な沖積地・津軽平野を眺望する台地の先端部にある。史跡は、亀山・近江野沢・沢根の3地区に亘り、2万5千m2ある。台地上の亀山地区は、居住地と墓地群がある。台地下の近江野沢・沢根の泥炭層が、天然の冷蔵庫となり多数の植物性遺物、漆器、植物の種子、花粉を遺存させた。炭化米・籾殻・粟ときびの雑穀・栃の木の種実などが出土し、イネやソバの花粉が検出された。
亀ヶ岡では農耕が始められていた。縄文時代の生業の有様から鑑みて、植物質食料の採集と加工が、主として女性の仕事と想像するに難くない。その女性の営みから畑作へ自然に流れていった。農耕は女性によって始められたようだ。男が担う狩猟・漁労の収穫は安定しない。それを補うにあり余る成果を上げれば、自ずと女性の地位は向上する。女性は出産の直前まで採集活動や畑作に従事する。出産後は数週間の産褥期を経て、乳飲み子を背負い再び生業に戻る。農作物の豊穣と家族を「生み育てる力」をデフォルメ化すれば、たくましい女性を象(かたど)る土偶となった。亀ヶ岡の遮光器土偶の分厚い胸と肩の筋肉の盛り上がりは、当時憧憬された女性の理想像であった。雪原の照り返しを防ぐスリットが入っている雪眼鏡も、雪深い青森の冬季、かつて体験されていない最寒冷期の猛威に晒されながら、縄文晩期ならではの照り返しのきつい雪原での、野外における生業の営みの必需品と素直に理解したい。藤森栄一が縄文中期の中部地方で既に農耕が営まれていたと説くとき、女性の土偶がその農耕社会にとって重要な豊穣観念を具現化したと唱えた。そうした土偶はヨーロッパ南東部の新石器時代の遺跡からも数多く出土している。初期農耕社会では女性の地位が高く、やがて女神信仰に繋がり、終には「ミロのヴィーナス」を創作する迄に至ったといえようか。
土偶が出土する縄文時代、それが出土する遺跡は少数で、さらに土偶が盛んに製作する時期と地域がある一方、全く遺存しない地域もある。土偶は畑作が営まれる中部地方以東の東日本の縄文中期に多く、前期以前は少ない。西日本でも、縄文後期・晩期の九州や晩期の近畿地方へ広がっている。この出土実績が語る女性を象る時期と、西日本地域の水田稲作農耕文化の初源と重なる。
縄文晩期を代表するこの「亀ヶ岡文化」は、北海道では函館を中心とした西南部が、青森県の影響を受け、同じような変遷をたどり、共通の文化圏を形成したと思われている。縄文晩期後半には、その分布はほぼ全道的な広がりを示す。本州でも青森県・岩手県を中心として、更に新潟・富山の北陸や、東海・近畿地方の一部に影響を与えた。東日本で亀ヶ岡文化が栄えたようだ。
「亀ヶ岡文化」が、隆盛期を迎える約3,000年前から約600年の間に、西日本は、大陸からの渡来人による稲作文化によって、縄文後期以降の荒廃から弥生時代へと復興していった。一方、関東や中部地方の1万年を超える縄文時代は、退潮期を迎えた。亀ヶ岡文化も、気温低下→動植物資源の枯渇→森林資源の荒廃→海岸線の後退→貝塚減少→人口減少→縄文時代の終焉といった、東日本の宿命からは逃れられなかった。
現在、亀ヶ岡遺跡に行って見ると、小さな神社と、昔、遺跡があった事を示す看板があるだけで、なにもない。ただの住宅地になっている。出土品のいくつかは、少し離れた所にある公民館の一室で展示されている。肝心の遮光器土偶は東京国立博物館が所蔵している。壁に遮光器土偶の大きな写真が張ってあり、文化庁に召し上げられてしまったというような事が書いてある。出土資料の一部は、県立郷土館・木造町縄文館等で公開されている。
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