米は南京おかずはあらめ 何で糸目が出るものか
   製糸工女も人間でござる 責めりやあ泣きます病みやねます
                        長野諏訪の製糸女工が詠む

 南京米(なんきんまい)は、東南アジアおよび中国などから輸入した外米で、粒は細長く、粘質に乏しかった。アラメ(荒布)はコンブ科に属する褐色の海藻、水に漬けて、しんなりすれば料理に使える。
 蚕は卵→幼虫→蛹→成虫(蛾)と4回姿を変えて成長する昆虫、幼虫時代が蚕で、蛹になる時に繭を作る。蛾から卵を採取する蚕種業と、蚕が繭になるまで飼育する養蚕業と、繭から生糸を製造する製糸業の3つをまとめて蚕糸業という。

製糸女工の賃金   Top

 目次
 1)女工の実状
 2)女工の賃金
 3)製糸業の景況と女工賃金
 4)製糸業界適者生存

1)女工の実状
 製糸業界の職工の殆どは女工であった。明治の後半から既に顕著となり、昭和期まで変わらず、男工はほぼ1割程度で、製糸の工程中繰糸、揚げ返し、選繭も多くは女工が担った。更に煮繭、整理などの仕事も女工が進出することが多くなった。明治初年頃までは、旧来そのままの座繰り製糸法であり、女工は概ね地元の者で寄宿する例は少なかった。
 老若は選別基準にならず共々作業に当っていた。やがて器械製糸となり特殊技術が養成されるようになると、優秀な人材の採用が不可欠となり、遠隔地からも広域的に採用されるようになった。そのため寄宿者が増加し、自然と未婚の女性が主体となってきた。特に諏訪を初め農村地区は、早婚が当たり前で義務教育制度の無い時代であれば、女工の年齢は甚だ低かった。当時の女性の結婚年齢は、当然今より低く、16歳位でもう結婚してしまう女性が多かった。明治7年8月小口村(岡谷市平野村内)役人より提出された16人の器械製糸工場の「生糸取稼名面届書」には、10名の氏名があり、その年齢の最多は13歳で、最年少は9歳、平均すれば11歳であった。当時の器械製糸はいずれも小規模で、設備も不完全で、実状は座繰り製糸の一部を改善した程度で、未だ家内工業の域を脱してはいなかった。
 その後、大規模な工場を建設し、設備を整い完全な工場制器械製糸の経営に乗り出したのが、明治8年、武居代次郎を盟主とする9人の協力による、間下字中山(岡谷市)の地に設立された中山社であった。同社の女工は13歳から17、8歳が殆どで、年長者でも22,3歳とまりであった。その多くは結婚前であり、他社へ移動する事も少ないが、勤務年数も余り長くはなかった。
  明治時代のこの時期、諏訪地方の製糸工場は、もともと家内工業的小規模のものがほとんどだったため各工場の生産量は少なく、横浜での取引に最低限必要な単位の千斤の生糸を揃えるのに時間がかかり、しかも長期間の保存で品質が劣化した。それで、製糸家たちは中山社、開明社などの結社をつくることにした。近隣の工場の生糸をまとめて出荷するだけでなく、共同で揚げ返し作業を行い、品質が統一された生糸の大量生産で名前を揚げた。結果、需要は増加した。万一商品に不良品が混入しても容易に交換ができ、信州の生糸は安心して買えるという信用を勝ち得た。

 中山社創業時について岡谷に在住の、かつての女工の談話が残る。共に万延元(1859)年生まれの武居まんかんの2女子と元治元(1864)年生まれの林ふで女が語る。
 「中山社の工女は大抵諏訪で中でも村の者が多かったが、伊那から来たものも少しあった。大枠工女は上諏訪のものが多かった。年齢は22,3歳が最高で大部分は12、13歳から17、8歳のものであった。朝もおそく(6時頃)始まり、夕方(6時頃)もまだ明るい中にもう夕食をすまして帰った。ドンタクといつて1週1回の半休もあり、作業中も厭きれば自由に山や川へ出て遊び、蒸気の立たぬ時などは上段のふきあげ(揚返)と拳を打っている程で、今と比較して至って自由であり気楽なものであった。工女は多く自宅から通勤であつたが、遠い所のものは9人の仲間の人に分宿していた。見番(班長監督役)は皆仲間の家の人々、蛹よせや手屑集めは見番や教婦がやった。
繰方を教える人は上諏訪から3人来た。2口取であったが中々2つ枠で取れる人は少なかった。煮鍋で煮た繭を繰鍋の半月の中へ1粒宛撰って入れ繰糸するというような丁寧な遣り方であったから、普通は毎日4升桝1盃半位、その頃1日の繰目80匁という人は最優工女であった。大抵14中位の糸をとった。大枠は4角で小形であった。 春挽は始めは20日間か多くて25日間位、夏挽は6月田植終った頃から11月時分迄。賃金は糸仕舞の翌日自分で貰いに行く。1ヶ年12、3圓が普通であった。
その頃歌われた糸取唄
 朝の6時に腰札下げて、中山通ひの程のよさ。
 朝の6時にや閻魔顔、晩の6時にや恵比寿顔。
 今度見て来た富岡器械、薩摩絣に緋の袴。」
 次第に既婚者と高年齢も増え、その年齢差も甚だしくなり、相当年月、勤務する者も増えた。その一方、製糸業界が活況を呈してくると女工の争奪戦が始まった。そのためその移動が激しくなり、工場は募集優遇策として、永続賞金の制度、同盟組合の登録制度を設け、これを防止するよう努めたが、次第に勤続年数は低下する。
 平野村役場書類中、大正2年以降昭和5年までの村内製糸及び揚返女工の勤続状況 (単位;人数)

 

2年未満

2年

3年

4年

5年

6年以上

10年以上

15年以上

20年以上

大正2

不明

3,323

3,307

2,785

2,231

2,359

489

90

24

14,608

  7

不明

6,384

2,993

2,822

2,393

3,886

1,001

176

24

19,659

13

不明

4,463

3,029

2,253

2,612

1,321

963

134

33

14,808

昭和2

7,784

4,125

3,107

2,248

2146

2,990

870

87

29

23,386

  3

7,439

3,852

3,146

2,416

1,959

3,582

1,007

99

36

23,536

  4

7,532

4,380

3,141

2,752

2,105

3,728

1,034

92

29

24,794

  5

6,047

4,606

3,545

2,640

2,221

3,854

1,018

81

33

24,045


 女工出身地は明治以前、既に飛騨、飯田などから取子を雇い入れている。明治も14年頃から、天竜川流域としての便もあり伊那の女工が圧倒的に多くなった。常時飛騨からも多数雇用されていた。筑摩や南安曇野の松本平からも増え、その後甲州からの来るようになった。釜数の増加により、明治20年以降、製糸工場間に女工雇用競争となり、26年以降には公募活動の範囲は広がり、「明治二十七年矢島社工女勘定帳」によれば、既に越中から10数名の女工を勤務させている。しかし、それ以降明治38年まで、それほど郡外県外の女工は増えていない。
 明治38年11月、中央線が開通し、製糸女工の採用地は一層拡大したと考えられるが、製糸研究会事務所が所蔵する「製糸同盟組合登録工男女数年次地方別表」によれば、女工の多くは平野村及び工場の近村を出身地としている。
 しかし、大正7年、初めて朝鮮からの繰糸工女が川岸村藤沢組工場に雇用され、その嚆矢となった。

2)女工の賃金
 諏訪郡内に導入された座繰器は、寛政より享和(1789~1803)に至る間に、上州で改良発明された「ゼンマイ」と呼ばれた、歯車の構成で回転する上州座繰であった。その製糸は「リヤン取」と言われた。平野村上浜の清水久左衛門と新屋敷の林源次郎が、初めて高崎か伊勢崎辺りから2取座繰各2挺移入したと言われている。年代は安政末とも万延元年(1859~1860)とも定かではない。その当時から諏訪女工の賃金は、明治初期まで生糸の良否よりも数量志向的出来高給であった。その後、日常の繰糸能率、経験による実績を加味し1、2、3などの等級を設けた。その1日の日当に、更に賞与を加味するようになった。いつの時代でも、人手はあるが、人材がいない飢餓感があった。
 明治8年には既に器械製糸も登場していたが、大部分は座繰製糸であったため、明治7年6月「諏訪製糸製造業者及び製糸改会社の協定書」の資料によると 
 女工の賃金は、1日の最高が10銭で、最低1銭であり、1年での最高が9.213円で、最低の記録はない。1日1銭の賃金は、初めての見習い工であったようだ。明治7年当時の道路修繕人夫の日当が12銭5厘から15銭であった。また従来、郡内の女子の稼ぎであった撚糸賃が1日2、3百文に過ぎなかった。やがて器械製糸が普及し繰糸効率が向上すると、女工の賃金も上昇して来た。
 明治14年には最低賃金は、11銭となり、最高が25銭、年間の最高が29.425円の向上している。特にこの年は、他の資料からも特に高かったと言える。1日最高賃金が25銭の内5銭は賞与であった。後日、製糸業者間で協定賃金が設けられるが、実際には有能な女工に、その年の市況に合わせて賞与を与えるようになっていた。この頃から、賞与が一般的に普及したと見られる。男工及び繰糸、揚げ返し以外の女工の賃金の多くは日給制度で、勤続年数、技術の巧拙、精勤度などを斟酌する考課制度が確立されていく。
 明治22年矢島社所属の上原製糸場の「工女勘定帳」に、就業100日以上、57人の女工賃金記録が残る。
 

日当最高

日当最低

年額最高

年額最低

年額平均

20銭

35円590

11円455

21円852

内年額賃金に含む賞与

2円820

0円370

1円029

 明治20年代は、職工賃金が大きく増えることはなかったようだ。

 明治30年、諏訪郡役所で、平野村6か所、川岸村2か所、下諏訪町1か所の下筋の主要製糸工場を調査した当時の記録によれば
 男工の日当の最高35銭、最低3銭、平均15銭、年額平均28円40銭
 女工の日当の最高30銭、最低3銭、平均14銭、年額平均29円35銭
 上記女工の賃金の半分が賞与であったという。それで年額平均では、女工が上回った。

 「中山社則条例」の末尾に載る同社の女工の一日の標準賃金は、明治10年には13銭とある。女子とっては、大変な高収入であり、製糸女工が増加する当然の成行きとなった。中山社は現在岡谷市に属する間下村字中山の地に明治8年、武居代次郎を盟主とする9人で設立された。その創業時の日当は6、7銭、年額では11、2円であったが、逐年増額され、数年も立たずに2倍以上になったと言う。米価1升、当時3銭7厘5毛で、明治10年でも、同額であった。
 「中山社則条例」の賃金算定は、期間内の女工の繰り糸原料産出高を平均し、それにより1日の標準日当の平均高を算出し、個々の女工の生産高と比較し、日給払いと出来高払いとを折衷した。
 「一、召抱月給日当定
   一、教師一等月給にして盆祝儀五拾銭暮祝儀壹圓定め事。
   一、工女日並勘定1ヶ月限り仕立法則、日々取桝之数を〆(締め;合計した高)其日数へ割るべし。
   右平均勘定一人別に日当勘定拵方は、先ず百名の内第一等の取桝高の者34名出し、其他の取桝高の者3、4十名を出し、此3、4十名の取桝を〆、其人員へ平均し一人に付何升何合と成。是を一等の日当拾銭へ食料3銭を加え13銭となる。是を右の平均1日の取桝にて割は1升の挽賃何程となる。此目安を人々1日の取桝へ掛ければ銘々の日当出る。尤其1日給の内にて食料3銭を引去り、右目安を月括惣桝〆へ掛ければ、銘々の月給〆高也。但し上製の糸出来候者、又同等の蛹にして糸目出し候者へは、日々製糸懸りにて検査の上、左の規則の通り褒賞遣し候。
    取桝10盃にて
      星7つを一等  1日5厘増
      星6つを二等  同 4厘増
      星5つを三等  同 3厘増
      星4つを四等  同 2厘増
    但し一等の工女は右の増なし。尤賞札は遣し候得共、唯星数の定価のみ赤星は5厘、青星は3厘、星数丈け銘々の勘定へ加え遣す事。
   一、第一等の者へは月10銭宛褒美遣す事。
   一、繭撰計りの者は一等工女に壹匁落之事。
   一、大枠方は工女一等並之事。
   一、食糧方は工女一等並之事。
     右食糧方へは暮に金壹圓ずつ祝儀遣す事。
   一、男召抱之分は日当8匁暮に祝儀壹圓遣す事。
   一、工女三等蛹は壹升増の事。
   一、休日は1ヶ月月3日定め、但し1の日也。但し半日休にて1日の日当遣す事。」
 以上が「中山社則条例」の賃金算定基準であるが、標準賃金の概念が既に導入されている。諸処興味深い。
 尚、中山社では、初めて生糸検査規則も定めている。
 明治初期までは、製糸業の経営主体は個々に孤立した独立企業人であった。事業に対して独創的な経営を行い、時宜に応じた迅速果断な処置により、漸く生き延びてきた辛酸の歴史を、それぞれが心中深く宿していた。一時の好況に現を抜かす製糸業者の末路を、嫌と言うほど見せ付けられている。平野村の大製糸家の多くは、創業当初なれば、突発的損失が生じば 、僅少な資金力であれば自力で克服できず、親戚一同に一時的救済を求めるが、誰一人、手を差し伸べる者無く、茫然自失し自死も考えたが、翻然、気力と英知を以って、厳冬下あっても炬燵に憩う事もなく、山林に薪を採り、手薄の時には泥船人夫として働き、 刻苦精励し再度製糸業を再建して来た。殆どの製糸経営者は、かつての家内工業的研鑽を失わず、購繭、女工その他の社員雇入、工場の管理、製品販売、帳簿管理など勤勉の限りを尽くしている。それでも足りず現場重視で、「釜焚き」「枠回し」日常作業まで行うのが当たり前であった。かつて古老が「初めは製糸も半労働業であったから、始める事は比較的容易であった。」と語っていた事が伝わっている。
 諏訪郡は寒冷地で諏訪湖の水面標高が759mと箱根芦ノ湖よりも30m以上高く、稲作に困難を伴いながらも、江戸時代高島藩に逸材が輩出しないまま、狭隘な山間の寒冷地でありながら、宝暦の凶作、天明の飢饉、天保の飢饉の時でも、領民による一揆が一度も生じなかったし、餓死寸前の浮浪者が彷徨う事もなく、諏訪郡民はこの劣悪環境に耐えながらも、数々の驚くほどの多才さで、自ら副業を開発し、諸処出稼ぎルートを確立し、その勤勉さが高く評価されていた。
 「元は他に依頼する念少なく、随って官界財界知名の士の来岡(岡谷)に際しても、出迎や歓迎会を開くことなどは至って少なかった。」
 この土地柄で、諏訪の製糸業者は、自ら法被と股引姿で、従業員と共に働き、購繭のために瞬刻の間を惜しんで出張し、戻れば経営者しか気が付かぬ工場内の雑務に負われる孤独な経営者にすれば、優秀で気働の出来る女工は、かけがいのない資産であった。

3)製糸業の景況と女工賃金
 明治12(1879)年7月、初代片倉兼太郎尾沢金左衛門林倉太郎の3人が世話役となり、開明社を創業した。開明社による共同揚げ返し場設置により、格段に向上する細密な製糸品質の検査法と、それを受けての工女賞罰規則を定め、その試験法に基づく賃金算出基準は、それに倣う各地の共同揚返場の悉くが、これを採用した。
 その結果、強い技術的改良への意欲を助長した。まずその1つは、独特な小枠再繰式であった。しかもそれが効果的に機能すべく、製糸教婦体制の拡充を図る一方、品質志向型出来高給賃金制度を厳密化し、個人別生糸検査の厳格化を通じて、傘下工場間の生糸品質の競争的改良を促した。それもすべてが、この再繰式技術に直結していた。
 開明社による製糸試験項目は、繰目糸目繊度及び粗製検査などであった。最も重要なのは、原料繭の良否は直ちに生糸生産費に重大な影響を及ぼし、かつ糸格を左右することにもなる。換言すれば良い原料は小額の生産費で優良な糸の生産を可能とする。セリプレーン検査(糸むら、節の検査)の実施以来、繊度(デニール)が頗る重要視せられる様になってから、製糸家はいずれも競争的に原料政策に没頭していた。
 繰目は、各女工の繰糸量よる一日の格差調査であった。一定期間内における全工場内の女工一人当たりの一日繰糸量を算出し、各女工のそれとを比較する。糸目は一定量の原料繭から産出される糸量の調査で、通常原料繭1升から生糸1本約18匁を生産する。その全工場内の標準原料高を算出し、同期間内の個々の女工の糸目格差を比較する。
 購繭(こうけん)製糸業の生産費の大半は、原材料費の繭代であった。明治20年代、購繭費用が7~8割を占め、人件費、設備費は2割以下にすぎなかった。なお、原材料繭費の56%が農家の労賃であった。生糸生産原価に占める原料繭の比率は高く、また品質による価格差は著しい。そのため繰目、糸目、繊度及び粗製検査なども含めて、その主目的が能率向上にある事はいうまでもないが、それらの各事目に賞罰採点基準を設けて工賃に反映させた。そのうえに、1か月無欠勤であれば、皆勤賞として割増金を与えた。
 明治30年以後、職工賃金は急激な高騰を見る。岡谷製糸の橋爪忠三郎手記「製糸業雑記」によれば、同32年、上等女工の年額賃金は賞与を含めて百円以上となり、普通でも4、50円になっていたと記す。同36年、平野村73工場の1日の平均賃金は男工23銭、女工22銭となり、前記、明治30年の諏訪郡役所調査と比較して、1.5倍になるという。大正期には、更に一段と高騰していく。
 明治36年、米国絹業協会は我国の生糸の不同綛(かせ)が多い事、絡交(らくこう)不良なる点を指摘してきた。今後、綛は4尺9寸5分(1m半)、重量18匁5分乃至19匁とし、絡交は鬼綾(おにあや)に改めるよう要請して来た。「綛(すが=カセ)状」の糸には「綾(あや)」というものがあり、綛揚げの時に糸を左右に振り、糸の上に糸を斜めに乗せ繰りやすくする。平行に乗せると糸繰り時に糸が下の層の糸に食い込み、糸が繰れなくなる。それで、左右に振って糸の上に糸を乗せていく、この方が使用時に平行になりにくく良いため、業界用語で「綾が乱れにくい」と言い、またこの綾の事を「鬼綾」と呼んだ。
 それまで、発展期にあった米国の絹織物工業が必要としたのは、少量の良質の糸ではなく、ある程度品質の統一された量産に都合のよい大量の糸であった。世界の絹織物工業・製糸業をリードしていた仏国をはじめ欧州の生糸は12デニール以下の優良糸で、諏訪や中国の生糸は14デニール程度の普通糸であった。決して粗悪品だったわけではなく、輸出の基準となる普通糸であった。欧州産は高級すぎ、中国産は品質が一定していない。米国が選んだのは、安さと一定品質が売りの信州上一番(しんしゅうじょういちばんかく)で、未だ経糸に使用できる品質がなく、緯糸専用として使用された。 こうして諏訪地方の製糸家は、米国という得意先を獲得し発展していくことになる。
 明治も終わりに近づくと、米国の絹工業はさらに発展をとげ、絹素材が婦人用靴下にも利用されるようになった。必要とされる糸も、大量であると共に糸斑がないだけでなく、この頃から経糸用にも使用可能な、強度のある、より以上良質品の生糸を要請した。

4)製糸業界適者生存
 この米国の需要に応え、早々に蚕種の統一をはかり、良質で同一品質の繭を生産したのが、岡谷の製糸家片倉組であった。それこそが一代交配蚕種であった。遺伝学者の外山亀太郎(慶応3(1868)年~大正7(1918)年)はメンデルの法則が植物だけでなく、蚕でも成立することを発見していた。外山は、性質の違う両親の子供は、その両親のいずれよりも優れた性質を持つという「雑種強勢」を提唱し、蚕の品種改良にも雑種強勢を利用すべきだと主張した。片倉4兄弟の一人、今井五介(今井家に養子)は一代交配蚕種の可能性を見抜き、養蚕農家に「蚕が死んだら責任は片倉が持つ、作った繭は必ず片倉で引き受ける」と約束、蚕種を無料配布して、一代交配蚕種の飼育を委託した。
 できた繭は全て自分のところで、全責任を持って引き取った。売り込み先が決まっていれば、相場に左右されず、養蚕家としても極めて安心であった。五介は大正3(1914)年、合資会社大日本一代交配蚕種普及団を設立した。普及団の活動は効果的で、一代交配蚕種はわずか5年で全国に広がった。ここに 片倉組は全国に先がけて蚕種の統一を成功させた。このことが製糸界にとって、大いなる画期となり生糸の品質の底上げが行われ、それまでの優良糸が普通糸になり、より品質のよい生糸が生産されるようになった。それまで、デニールを揃えることだけに重点をおいていた繊度検査だが、セリプレーン検査(糸むら、節の検査)なども、特に厳しくチェックされるようになった。
 その厳しいセリプレーン検査基準を超えるための研究も既に為されていた。御法川直三郎(みほがわ なおさぶろう)の多条繰糸機が実を結んだ。今井五介が研究開発を支援し、この御法川直三郎の研究室を度々訪ねていたと。直三郎は、速度を速めると繭糸の切断回数が増え、しかも糸質の低下が著しくなることに気付き、このことが、低速多条繰糸機開発の切掛けとなる。巻き取り速度を遅くするためには、振動の少ない金属製の精緻な機械が必要となるなど、多条繰糸機開発の途上に山積した数々の技術問題を解決し、明治37(1904)年には、一人で20条もの生糸を操ることのできる多条繰糸機の完成にこぎつけた。大正10(1921)年、大宮製糸所にこれを試験的に設置した。数多くの実地試験を重ねた結果、新たに32台を導入し、御法川式多条繰糸機による生糸の生産を始め、片倉製糸紡績(株)の製糸工場での実用化に成功した。この前年、大正9年3、片倉組を継承する資本金5千万円の片倉製糸紡績株式会社が設立されていた。その初代社長が2代目兼太郎(初代の3番目の弟・佐一)で、既に衰退期を迎えた製糸業の中で偉才を放つ一大コンツェルンに成長した巨大企業を運営していく。
 良質の繭から多条繰糸機で高品位の糸をひくことができ、大正13(1924)片倉の生糸は世界的な名声を獲得した。高級生糸「片倉ミノリカワ・ローシルク」は、「ワンダフル・ダイヤモンド・グランドダブル・エキストラ」と激賞され、最高級生糸の代名詞になり、この糸名が一世を風靡するまでになった。
 信州上一番が輸出糸の基準とされた時代は、年々生産量が減少するとともに終わった。生産量だけでなく、品質においても国内トップクラスの生糸を生産するようになった諏訪地方の製糸業は、大正に入って最高の隆盛をみる。片倉組は明治末に全国で初めて一万梱の出荷をして以来トップに君臨した。全国の製糸家のベスト10の過半数を諏訪地方のそれが占めたこともあった。当時日本の生糸は依然として幕末以来の輸出額世界一だった。諏訪、岡谷は正に世界一の製糸都市だったといえた。
 製糸業界も、急激な技術進歩が始まり、その発展に伴い、各工場も従業員の考課基準を適宜改定した。特に重要なのは、幕末当初から輸出産業であるが、その対外的市場の景況と需要動向に敏感に反応し、戦術程度の小手先では対応しきれない、日々の経営戦略と詳細な従業員の評価基準を改正し続けなければならない時代となった。かつては、糸況良好であれば、大量生産のため能率奨励と糸目に重きを置き、歩留まりの向上を目標にした。不況となれば、セリプレーン検査、繊度などを特に重視した。
 第一次大戦が終結により、それまで中国大陸に有していた独占的地位が崩れ去っていった。輸出の増大で急成長した綿糸・生糸などの産業への影響は深刻で、とりわけ輸出依存度が高い製糸業は深刻であった。その後も世界経済の大変動に翻弄されていった。翌大正9年、欧州各国は、戦後の疲弊に苦しみ、贅沢品輸入阻止の措置を行うと、7月、輸出生糸の本命である上一番が1,100円と暴落した。大正10(1921)年5月、横浜港の帯荷8万梱、帝国蚕糸(株)で持荷7万2千梱を抱え、1,150円を漸く維持した。
 こうなると、生産費軽減と糸格向上に努め、繰糸量の多少で判断するよりも、糸格向上と糸目歩留まりの改善が、製品検査の最眼目となった。その採点法も製糸業の進歩と共に絶えず適宜の改善がなされ、とくに輸出市場の景況と需要変化に応じる採点標準が採用された。大正8、9年頃より、各工場は繰糸量の増産よりも、糸目重視の生産費の削減と糸格向上に努めるようになった。
 以上のように考課基準が厳密化され、女工の1日の基本賃金、即ち平均技術を有し賞罰の考課の無い者の定めはあるが、最低賃金の規則がなかった。大正15年6月、工場法施行令の改正に伴い、同年8月、長野県令第105号工場法施行令細則の公布があり、更に同月長野県訓令により、工場法令取扱手続も定め、工場主に就業規則を作成させ、それを市町村に届けさせた。その内規に最低賃金1日30銭、養成工の初年は1日15銭とし、標準賃金では、春挽は1日50銭、夏挽は60銭となり、職工の最低賃金は保障された。
 昭和5年、長野県工場課の勧奨により、多年行われてきた罰点給与減額制度は廃止、新たに得点のみによる採点法が実施された。工男及び繰糸揚返し以外の女工の殆どは、日給制度で、その皆勤実績、勤続年数、技術の巧拙等が考課基準となった。

 片倉合名会社は、先に述べる様に製糸業を核とした一大コンツェルンとなった。製糸部は資本金5千万円の片倉製糸紡績株式会社となり、2代目兼太郎が初代社長となった。1株50円、総株百万株、その内70万株は発起人が引き受け、残りの30万株を額面超過額30円以上で公募した。当時、製糸値4千円以上の大好況期であった。株式の応募者が頗る多く、プレミアムは跳ね上がり、最高120円に達していた。この時期、上高井郡須坂町の田中製糸場の958釜と上伊那郡伊那富村武井製糸場1,016釜を併呑している。この年、片倉製糸紡績(株)は、県内外及び朝鮮を含めて23工場11,950釜の企業となった。この状況は、製糸業界に多大な影響を与え、以後、製糸家中の大規模経営者の多くは、これに倣い株式会社へ改変するものが続出した。しかし、株式の保有者は、同族近親者で経営の実態は旧態依然であった。
 片倉兼太郎は、大正12(1923)年の関東大震災で横浜港からの貿易が途絶すると、すぐにニューヨーク出張所を開設して生糸の販売を継続した。さらに紡績や肥料、製薬、食品、生損保などの事業を傘下に収め、製糸業を中核に、この大正期、日東紡績株式会社、片倉米穀肥料株式会社、片倉殖産料株式会社、片倉生命保険会社、日本機械工業株式会社などを設立し、「片倉王国」を築き上げた。
 山一林組は、昭和2年には県外4工場を含む9工場、4,200釜の岡谷第4位の製糸会社に発展している。しかし、昭和4年から始まったニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに始まった世界恐慌は、農産物価格を更に暴落させた。農村の生活難から、工女として就業を希望する者が増え、益々労働力は過剰となった。その一方で、同年末には、県下15の製糸工場が、休業となり、翌5年、全国5大製糸の1つ岡谷の山一林組を初め、山十組、小口組が倒産している。

 東京大学名誉教授の石井寛治は、今井五介の功績を高く評価する。 「五介はアメリカで遊んでいたといわれているが、片倉に合理的な発想を持ち込んだ。人絹が台頭すると、片倉郡是製糸(京都)以外の大製糸は没落した。片倉がこれを乗り切ったのは、五介が世界のマーケットをきちんと見ていたからだ」。
 五介は、昭和8年、片倉製糸紡績の2代目社長に就任した。就任から7年、同社の製糸場は国内外に62か所、蚕種製造所13か所、所有面積は計123万坪、従業員は3万8,000人に上った。

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