強清水の霧鐘塔 富士を下に飛ぶグライダー 蛙原のすすき野と前方の池のくるみ 壮大な雪原がスノーシュウに最適
霧ヶ峰のグライダー史

 「鐘がものをいふ 霧だ霧だと
      鐘がものをいふ 生きろ生きろと 」
 八ヶ岳やアルプスの連山を眺望する、見晴らしが良い強清水・蛙原(げぇろっぱら)・思い出の丘にたたずむアーチ型の霧鐘塔は、昭和34年に建立された。平林たい子の詩が記される。
 濃霧の日には鐘の音色を響かせてその位置を知らせてくれる。

 「うれしくも  分けこしものか  遙々に
              松虫草の  咲きつづく山 」 長塚 節の歌碑もある。
 目次
 1)霧ヶ峰グライダー発祥の親・藤原咲平
 2)霧ヶ峰グライダー

1)霧ヶ峰グライダー発祥の親・藤原咲平
 藤原咲平(さくへい)は明治17(1884)年、上諏訪町字角間新田に生まれた。明治39(1906)年、23歳で東京帝国大学理科大学理論物理学科に入学、明治42(1909)年卒業、9月中央気象台に入り主に天気予報の研究を始める。大正2(1913)年、「音響の異常伝播」について発表、この業績により大正4(1915)年、理学博士になり、大正9(1920)年、「音の異常伝播の研究」により帝国学士院賞を受ける。
 翌10(1921)年、気象台最初の留学生としてイギリス、ノルウェーに留学。ノルウェーのヴィルヘルム教授に師事、前線論的新天気予報術を学ぶ。大正11(1922)年、中央気象台測侯技術官養成所(気象大学校)主事、神戸海洋気象台技師に任命された。
 大正12(1923)年の関東大震災後、震火災について詳細な報告をし、「地渦論」を発表した。昭和元(1926)年地震研究所員、翌年寺田寅彦の後任として東大理学部教授を兼任、本業は中央気象台において天気予報を担当した。
 昭和16(1941)年、岡田武松の後を受け第5代の中央気象台長となり、気象学会の権威的存在になる。当時、気象庁や気象学会は諏訪中学校出身者が大いに活躍した時代であった。諏訪彰(火山学者)、河角広(地震学者)、矢沢大二(東京都立大学名誉教授、同大学学長。日本地理学会会長を歴任)などは著名な学者であったが、新田次郎は気象台職員から、作家に転身した。新田次郎の本名は藤原寛人で藤原咲平の甥であった。
 咲平は昭和22(1947)年まで戦時中の中央気象台長を務める。後任は和達清夫(わだち きよお)が勤めた。戦後、昭和22年(1947)、軍の嘱託で風船爆弾の研究に携わったことが原因で公職追放される。退職後は『雲をつかむ話』などの一般向けの本の執筆活動に専念して、気象学を普及させ、「お天気博士」の愛称で親しまれもした。「日本気象学史」、「改暦問題」、「御神渡」、「渦巻の実験」、「日本気象史」など啓蒙的著作刊行、渦動論の集大成を行った。昭和25(1950)年、65歳で亡くなり、現在は多磨霊園に眠る。

2)霧ヶ峰グライダー
 藤原咲平は、渡欧中、ドイツ、ローエンのワッサークッペの高原でグライダーの飛行を見学した。気象学的見地から大いに触発された。咲平は、大正15(1926)年に帰国すると、グライダーが飛翔する適地として、多摩川原、鹿島砂丘などで試航してみたが芳しくなかった。たまたま上田貢らの霧ヶ峰スキー場の記事を読み触発されたという。霧ヶ峰高原が地形的にワッサークッペの高原に酷似していることも知られ、ここに滑走場を設けようとした。
 昭和7(1932)年、理化学研究所員白石襄治やグライダー協会幹事磯部鉄吉など各界有志の協力を得て、霧ヶ峰グライダー研究会を設立、自ら会長となった。翌8年7月、日本最初の格納庫が上諏訪町の寄付で完成した。それは研究所も兼ねていた。その開所式当日に、グライダーが霧ヶ峰上空を初めて飛んだ。参加者は100名を越えていた。当時はKS号、TS号、ST号の3機の練習機と会員20名で開始された。「グライダーを見る会」も生まれ、次第に夏の霧ヶ峰は賑わうようになった。
 昭和9年、日本で最初のグライダー大会が霧ヶ峰で開催された。ゴム索発航のグライダーで、霧ヶ峰グライダー研究会の主任教官鵜飼昭彦が滞空時間16分30秒の日本記録を樹立した。不幸にも鵜飼は日中戦争で戦死した。その碑は強清水の格納庫跡にある。
 翌10年、ドイツ滑空協会長のウォルフ・ヒルが霧ヶ峰を上空より見て、ワッサークッペの高原に匹敵する、この滑空場で練習できる人は幸せだと述べると、世界一流の滑空士の賛辞を得たとしてグライダー熱は一層高まった。11年には諏訪に帝国飛行協会の支部ができた。同年9月、第一回全日本グライダー大会が朝日新聞社の主催で、霧ヶ峰で開催される。この大会は、日本のグライダー史上初の全国大会で、全国から22機が集まり、霧ヶ峰上空で飛行技術を競った。朝日新聞には「大平原に群がる観衆3万余、壮絶!妙技に酔う」と見出しが躍った。全国各地から観衆が集まり、10kmの山道は長蛇の列だったという。当日は藤原咲平を初め県知事や、帝国飛行協会と日本学生航空連盟の関係者が来賓の席にいた。この全国大会の成功は、霧ヶ峰グライダーの名を不動のものとした。それまで無名だった霧ヶ峰高原を、スキーとグライダーを両翼として日本有数のスポーツ観光地へと飛躍させた。
 日本学生航空連盟は、昭和5(1930)年、大学生の間で飛行機操縦熱が高まるのを機に、朝日新聞が呼び掛けて結成した。最初は飛行機訓練だけであったが、昭和10年にはグライダーも加わった。そのグライダーの訓練は霧ヶ峰で行われてた。またプライマリーセコンダリーソアラーなどの3種類のグライダーが、全国の各学校へ配置されると、愛好者は急増した。やがて東京、関西から東海、東北、九州、北海道と支部が広がり、大学生の全国スポーツ組織となり、その主催する滑空大会は、全国中学校野球大会に匹敵する人気を得ていた。
  昭和12(1937)年、大日本青年航空団が、当時予備役であった元陸軍大将井上幾太郎を団長として発足した。団員は150名で、全国から知事から推薦された精鋭が、霧ヶ峰を軍用飛行機滑空場として、その年6月、第一回訓練が実施された。8月、東久邇宮が査閲を行った。この年は日中開戦があり、軍の指示により、その団員は選抜優秀であれば特訓となり、9月まで続き軍隊以上に厳しかったと言われている。こうしてグライダーの技術研修は軍事目的を優先とするようになった。翌13年、上諏訪滑空研究会が町長を会長として創設された。同研究会などの努力により、格納庫、講堂、宿舎の建設、滑空場の整備が行われた。一方、諏訪中学の生徒もグライダー訓練を受ける事になった。現在の諏訪清陵高校を下ったJRの踏切附近にあった競馬場で、田中喜善の指導により開始された。機体は霧ヶ峰グライダー研究会が貸与した。しかも競馬場には格納庫も設置された。冬には諏訪湖で行われた氷上滑空訓練にも参加した。翌年には自前のグライダーを寄贈されている。以後毎夏、霧ヶ峰で学徒の滑空訓練が行われるようになり、この年、日本学生航空連盟と朝日新聞が主催する学生グライダー大会、第1回が開催された。16年の第3回、17年の第4回も霧ヶ峰であった。
 昭和15年、第11回明治神宮国民体育大会の滑空プライマリーの部で、諏訪中学が団体加入している上諏訪滑空研究会チームが優勝している。翌年には、田中喜善が5時間47分の滑空記録を樹立している。
 昭和17年、大日本青年航空団や霧ヶ峰グライダー研究会などの団体が統合され大日本飛行協会中部滑空訓練所となり、霧ヶ峰第2滑空場に設立された。以後終戦になるまで、霧ヶ峰はわが国最大且つ最高の滑空場として育っていた。それまでに養成された滑空士は120名、団体は12、研究試作されたグライダーは20余機に及んだ。
 昭和20年8月、終戦により93式複葉機3機とグライダー数十機をGHQ立ち会いの下焼却した。格納庫は破却された。再開は昭和27年7月であった。この年に朝日新聞社の協力で昭和26年に、再発足した日本学生航空連盟を始め各団体の訓練が始まった。格納庫も諏訪市民の尽力で建てなおされた。昭和28年頃の参加校は、東大、東京工大、早稲田、慶応、法政、学習院、立教、青山、成城、東京教育大、関東学院、中央、東北、東北学院などであり、使用機体は、霧ヶ峰式鷹七型ソアラー、光式セコンダリー、霧ヶ峰式Kー14型プライマリーなどであった。グライダーは、近代スポーツとして再起した。
 霧ケ峰滑空場に、昭和43年5月、諏訪市グライダー協会設立され、その会員数85名の練習と記録飛行の他、日本学生航空連盟をはじめ各団体、大学航空部の合宿に利用されている。前年霧ヶ峰から引きあげた日本学生航空連盟から機体の寄贈を受けていた。さらに、44年、45年には地元企業から中級、上級機が寄贈され、また協会員により中級機が購入され、52年には西独製上級単座競技機を購入した。毎年、霧ヶ峰グライダー競技選手権大会が開催されるなど、活発な活動が現在も続いている。 霧ヶ峰のスロープは、パチンコ式のゴム索使用による動力による初級式練習機には最適で初心者の安全な低空訓練のメッカとなったが、時代とともに滑空場が平地の河川敷飛行場に移り変わっていった。
 しかし最近は国際競技に山岳滑翔技術が求められ、その愛好者も増え、日本において簡単に実施できる霧ヶ峰滑空場が見直されてきている。諏訪市グライダー協会所属の水畑弘志氏は、平成14年5月25日に霧ヶ峰滑空場から、北アルプス大町上空で高度8,030mまで上昇、獲得高度6,030mを記録し、国際滑空記章ダイヤモンド距離章規定の500km以上をクリアした。霧ヶ峰滑空場は、八ヶ岳連山縦走・美ヶ原・長野市往復・志賀高原・南アルプス連峰越え300km飛行など山岳滑翔のメッカとなってきた。
 霧ヶ峰には藤原咲平の詠んだ歌「草に臥て 青空見れば 天と地と 我との外に 何物もなし」が刻まれた記念碑と胸像がある。

車山の野鳥 ・ 八島湿原  ・車山レンゲツツジ  ・蓼科高原  霧ヶ峰高原  車山高原料理  車山の山菜  ・車山の名水  男女倉山紀行

☆車山高原リゾートイン・レア・メモリー  ☆諏訪の歴史散歩

車山創生記 | 八島湿原生成 | 八島遺跡群 |八島遺跡と分水界| 縄文のヒスイ | 縄文時代総説 | 縄文時代の地域的環境 | 縄文草創期 | 縄文早期 | 縄文前期 | 縄文中期 | 縄文時代の民俗学的研究 | 縄文後期 | 縄文晩期 | 弥生時代総説 | 倭国大乱 | 箕子朝鮮 | 扶余史 | 中国からの避難民 | 遼東情勢 | 衛氏朝鮮 | 長江文明 | 黄河文明 | 臨潼姜寨遺跡 | 半坡遺址 | 大汶口文化 | 山東龍山文化 | 中原龍山文化 | 朝鮮新石器時代 | 旧御射山物語 | 諏訪の字源と語源 | 諏訪の古墳群 | 中山道と諏訪の江戸時代 | 阿倍比羅夫と旧東山道 | 大化以降の諏訪の郷村 | 長野県の積石塚古墳 | 諏訪郡の御牧 | 古代塩原之牧と山鹿牧 | 蕨手太刀と諏訪武士 | 信濃武士誕生史  | 佐久武士誕生史 | 諏訪武士誕生史 | 諏訪家と武家の棟梁源氏との関係 | 中先代の乱と諏訪一族 | 室町・戦国の諏訪氏 | 佐久・伴野氏 | 佐久・大井氏盛衰記 |北信の雄・村上氏 | 鎌倉幕府滅亡から南北朝時代の信濃武士 | 村上信貞の時代 | 大塔合戦(信濃国一揆) | 小笠原政康、信濃国を制覇す! | 信濃戦国時代前期 | 信濃戦国時代後期 | 真田幸隆と武田信玄 | 真田昌幸の生涯 |戦国大名小笠原氏の没落!| | 諏訪氏と武田氏 | 諏訪家再興 | 諏訪湖・高島城 | 高島藩お家騒動 | 江戸期の諏訪民俗史 | 江戸期の北山村 | 坂本 養川汐 | 諏訪と浜松を結ぶ中馬と通船 | 富士川通船と中馬 | 大門街道湯川村 | 諏訪の民話 | 車山の天狗伝説 | 天狗党事件前夜 | 天狗党挙兵 | 天狗党中山道へ進軍 | 天狗党と高島藩 | 天狗党高遠藩領を行く | 天狗党と伊那街道諸宿 | 天狗党事変の結末 | 車山霧ヶ峰入会論 | 霧ヶ峰峠道 | 明治の霧ヶ峰 | 大正期の諏訪の農業 | 大戦前の諏訪の国民運動 | 製糸女工の賃金 | 山一林組争議 | 諏訪の製糸不況 | 片倉工業史 | 近世近代の霧ヶ峰 | 霧ヶ峰のグライダー史 | 車山開発史