第二次大戦前の諏訪の国民運動 Topへ
目次 |
1)小作争議 |
2)活発化する農民運動 |
3)昭和2年以降の諏訪郡の不況 |
第一次大戦の最中、世界各地への輸出を躍進させて、工業生産は5倍にも膨らんだ。しかし、大戦の終了により、日本の中国大陸での独占的地位を失った。わけても貿易依存度が極めて高い綿糸、生糸関連の業界は、その世界経済の変動に直撃された。一方では重化学工業部門に資本が傾斜し、当時、新産業と呼ばれた化学、石油、自動車などの産業が、生産量を拡大させていた。
大正9(1920)年3月15日、日本で株価が大暴落し、大戦後の恐慌が始まる。それは大戦による疲弊から、欧州各国が贅沢品輸入防止策を採ったことが起因となった。綿糸、生糸各市場、未曾有の大暴落となり、12月には、米価も急落し、農業恐慌も始まる。
12年9月1日、関東大震災により、横浜の市場が全滅した。一時的に米国糸価は2,500円と高騰するが、反落するのも早かった。翌13年には、海外のレーヨンなど人造絹糸の台頭で、大幅に下落した。
昭和2年には、山一林組の争議、翌3年には、業界の生産調整などの措置が行われた。
昭和4(1929)年のニューヨーク市ウォール街の株価大暴落をきっかけに、世界大恐慌となる。
最初の暴落は10月24日木曜日に起こったが、壊滅的な下落は10月28日月曜日と同29日火曜日に起こり、アメリカ合衆国と世界に広がる前例の無い、また長期にわたる世界大恐慌を迎えることとなった。株価大暴落は1ヶ月間続いた。
5年9月、遂に米価も大正7年以来の最安値となった。昭和4年の平均1,319円から、775円と半分に下落した。
1)小作争議
明治時代に行われた地租改正と、田畑永代売買禁止令の廃止により寄生地主が増大化した。地租改正により土地所有者は、金銭によって税金を払う義務が課せられ、度重なる増税に、貧しい農民は、その重い負担に応えられず、裕福な者に土地を売り渡し小作人になっていった。
一方、当時の政治家の給料は驚くほどの高給で、明治元勲大久保利通は、現代に換算すれば月収1,000万円を遥かに越えていたといわれている。その元勲の殆どは、薩長の下級武士が出自でありながら、召使には「殿さま」と呼ばせ、愛人を囲い、井上馨を筆頭に蓄財にうつつを抜かしていた。大久保が死後にも借金があったことを、美徳と錯覚されているが、豪邸を立て、暗殺された時点、未だ借金を返済し終わっていなかっただけのことであった。
小作争議は、地主から農地を借りて耕作し、小作料を払っていたが、耕作権を法によって認められていなかった小作農が、地主に対して小作料の減免や様々な条件改善を求めて起こした争議のことである。
農業恐慌や労働運動の発展とあいまって、大正から昭和初期にかけて激化した。 従来の小作争議においては、小作人は多く農民組合または小作料不納同盟等をつくり、この組織的統制のもとに、地主との団体交渉を行った。他方、デモ行進・共同耕作などの大衆動員の戦法をもって闘う事も多かった。また公租公課の滞納を申し合せたり、時には児童の同盟休校の実施など、子供をふくめて部落全体を地主・小作の両陣営に真二つに分裂させ、深刻な対立抗争となる場合もあった。
不況下で米穀類の盗難事件や自殺者が急増する。大正14年から昭和8年までの長野県の親子心中事件は124件で、全国2番目に多かった。その内諏訪郡内は13件を占め県内では最大であった。その動機は借金苦と生活難が殆どで、その手段は猫いらず、剃刀、出刃包丁などで、実に惨酷な状況であったという。
農村恐慌が、学童たちにも深刻な影響を与え始めると、青年教師の間で、大きな問題意識の高まりとなって真剣に討議され、やがて秘密読書会として根を広げ、遂には先鋭的な新興教育運動となり、組合結成運動へと変質していく。
日本教育労働者組合(教労)は昭和5(1930)年11月、東京と神奈川の現職教員20数名を組合員として非合法のうちに結成されたが、日本労働組合全国協議会(全協)傘下の教育労働者組合へと繋がっていった。やがて、この運動が共産党の影響下で反体制的な社会運動となって拡大すると、官憲は治安維持法違反として弾圧していく。
1920年代に入ると、小作争議は、大正デモクラシーの影響を受けて各地で頻発するようになった。小作農たちは、小作組合・農民組合を組織して団結を図り、大正11(1922)年にはその全国組織である日本農民組合が、杉山元治郎・賀川豊彦らによって結成された。
20年代には小作料減免を要求する大規模争議が中心であったが、30年代に入ると農地の耕作権をめぐる小規模争議が増加する。
地主側はこれに対し、優越した経済力と社会的地位を利用して小作人に威圧的態度をもってのぞみ、地主組合をつくって組織的に対抗したり、あるいは懐柔や法的手段にうったえ、あるいは暴力団をやとって争議団を襲撃させるなどの手段を用いることもあった。また官憲は農民の大衆動員に対して厳重な態度をもって取締りにあたることが多く、このためしばしば農民との衝突事件をひき起こし、時には流血事件・刑事事件が発生し、局地的暴動状態に至った事もあった。
一方、政府は大正13(1924)年に小作争議調停法を施行し、各府県に地主・小作関係の実情に通じた小作官を置いて、法外調停を図るなどした。しかし、小作農の耕作権を公認する小作法は、地主を有力な支持基盤とする帝国議会では成立しえず、第2次大戦後の農地改革によって寄生地主制が解体されるまで、争議の背景にある根本的な矛盾は解決されなかった。
小作争議調停法が施行された年、風水害による不作から、小作料軽減を要求する小作争議が多発し、長野県下でも過去最高の22件を記録した。戦争前は、小作争議が紛糾激化すると、地主側は一挙にこれを解決しようと裁判所に訴訟を提起することが多く、ことに小作料の請求や土地返還請求などの民事訴訟の提起は増加する傾向をたどった。
大正14(1925)年、上条寛雄、土橋富幸らを中心に、政治研究会諏訪支部が20数人で結成された。軍事教練反対運動を広く展開した。翌大正15年、アナーキストの湖東村の海野高衛は「天皇を主義のため暗殺する」と友人に話し、密告され検挙されている。
2)活発化する農民運動
昭和2年、日本農民組合(日農)長野県連合会が結成されると、小作人組合の直接交渉から、日農が引き受け調停を成立させる事が多くなった。こうして農民運動が急速に高まっていった。
諏訪地方を襲ったこの年の大霜害は深刻で、小作争議は養蚕農家によるものが、稲作農家のそれを上回った。
高揚する農民運動の挫折も早かった。昭和3年3月15日と翌4年4月16日、県下一斉検挙が大きな打撃となった。諏訪地方では、3年の検挙で3人の労農運動指導者が獄に繋がれた。
昭和5年7月、下諏訪農民団による「不況対策郡民有志大会」が下諏訪町御田で開催された。茅野南諏地区を除く各町村から集まった参加者は約3千人で、会場になった御田劇場を埋め尽くした。そこで製糸操業の継続援助、失業者救済、繭価の補償、官吏の減棒と恩給の減額が決議され、関係大臣の陳情団として24人が選ばれた。
彼らは、上京のため野良着のまま下諏訪駅で乗車した。しかし上諏訪駅で、岡谷、塩尻、松本、伊那富(辰野町)の各署から非常召集されて来た約80名の警察官が乗り込み、全員検束された。
過酷な取調べに、団長の黒田新一郎は「集団陳情はしない。今後の運動は警察と相談する。」と供述せざるをえず、ここに諏訪の農民運動は、大きく後退した。
昭和6年以来、共産党、共青同盟の再建運動を内偵していた長野県の特高課は、翌7年の夏、下諏訪と長地の両小学校の御真影盗難事件捜査や私服警官による電話盗聴、全協繊維活動家の逮捕などから全貌が明らかになり、翌8年2月4日未明、上諏訪、松本、伊那、飯田の各警察署に動員をかけ86人を一斉検挙した。以後6カ月まで608人を逮捕した。
警察の取調べは過酷で、黙秘権を行使すれば残酷な拷問が待っていた。 長野県の特高課は、その成果を「根底より潰滅せしめて総決算を終れるの観あり。2・4事件は本県に於ける画期的検挙と言ふべし」と誇っている。その目的が、長野県内の労農無産者運動を壊滅させる弾圧にあった事が知られる。
事件後、岩波茂雄は文部省の質問に「大げさに騒ぎ、一概に赤だといって圧迫し、彼等の理想主義的な改革的、進歩的精神をいじけさせないことを願う」と、卓見を語っている。また取り調べに当った警察官も「貧困児童の欠食、学用品の不足、雨具無きための欠席等に対し同情心を起したる事」が、事件の背景にあると認めている。
こうした弾圧は教育の場を、政府の政策実現に奉仕させていく契機となった。その一方、教員給を全額国庫負担とし、その給与遅払をしないよう行政指導を各県に対し行なった。
3)昭和2年以降の諏訪郡の不況
昭和4(1929)年のニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに発生した世界大恐慌と、翌年1月の井上準之助蔵相の金解禁による経済環境の悪化で地主層にも経済的困難が襲い、訴訟費用が重い負担になって来たため、地主側は訴訟よりも小作調停によってこれを解決しようとし始めた。このため昭和5(1930)年ころより訴訟件数は減少し、ことに日中戦争以後は激減した。
司法省民事局の調査によれば、昭和5年には全国で訴訟件数2,855件を数えたものが、昭和12(1937)年、この年の12月13日、 日本軍が南京城を陥落させ、以降、中国の首都であった南京を占領し、その経過で「南京大虐殺」を犯した時代のせいもあり、2,175件と減り、昭和16(1941)年には858件に落ちた。この年、地域別にみると、これら民事訴訟事件の多い府県は、新潟・秋田・徳島・長野・北海道・鳥取等であった。
昭和2(1927)年、長野県を襲った金融恐慌と大霜害で、農民は2重の打撃を受けた。40年来という5月12日の大霜害は、飼育環境がよいので、夏蚕・秋蚕よりも繭の量・質ともにまさる春蚕の掃き立て直前の桑が被害を受けたから、その痛手は大きかった。
県南部と北佐久郡の山間部を除く県全域に及び、被災桑畑は4万6千ヘクタールという。諏訪地方では、比較的軽く約1千ヘクタールと推定されている。
前年長野県知事となった高橋守雄県知事は「斯くの如き窮状は本県として未曽有の事で」「本県のみが独り嘗むる所の悩み」と述べている。高橋守雄は、明治41(1908)年に東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格し、翌年内務省に入り、昭和9(1934)年、第34代警視総監に就任している。ここに山一(林組)争議など、女工哀史が綴る苦難の歴史の遠因があった。
この国民が貧窮する最中、官僚として慨嘆はしても、治安維持優先で根本的に何の施策もなかった。それが明治以降の政治であった。
昭和2(1927)年、長野県を襲った金融恐慌と大霜害が重なり、前年2千円台であった糸価は、同年1,500円まで急落した。この時既に、県下の製糸工女就業率は30%下がっていた。この場合の就業率とは、製糸工女人口に占める現実の就業者の割合を示すから、極めて悪化していることが分かる。翌3年、諏訪地方の製糸工場では、全釜数の20%を封印した。
昭和4年から始まったニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに発生した世界恐慌は、農産物価格を更に暴落させ。農村の生活難から、工女として就業を希望する者が増え、益々労働力は過剰となった。その一方で、同年末には、県下15の製糸工場が、休業となっている。
翌5年、全国5大製糸の1つ岡谷の山一林組を初め、山十組、小口組が倒産している。糸価は翌5年1千台を割り、9月には、500円台に下落した。6年3月、県下の製糸工場は糸価下支えのため1ヵ月の一斉操業停止とした。この年の、県下製糸労働者の解雇率は10%にもなった。7年には最安値390円を記録している。そして長野県民の一戸当たりの生産所得は、大正8年の指数比で、驚くべき低下を来たした。昭和4年71、翌5年40、6年31と低下し、同年昭和6年の『信濃毎日新聞』は「実際の下層農民の生産所得激減の内情は驚くべき状態」と記事にしている。 昭和5年の長野県の農会の農家負債調査によれば、一戸当たりの平均負債額は、ほぼ1千円で、諏訪郡下では県内最小で512円であった。最多は北佐久郡で所得の40%もあった。当時農家は、月々百円不足と言われていた。
製糸労働者の平均賃金をみると、昭和4年の指数を100とすると、5年88、6年57へと急落した。
諏訪製糸研究会は、長野県工場課の反対を押し切り20%の女工賃金の引き下げをした。当時の「信濃毎日新聞」には「不況だから下げると言われるなら、景気の良い時はたくさんくれたのでしょうか。私は7年も勤めていますが、一度だってそんな目にあったことはありません。随分虫がいいじゃありませんか」と1工女の談話が載っている。現在にも通じる経営者のレベルである。好況の後に、必ず来る不況に対策を講じるもことなく、その果実に酔う経営者が殆どであった。
昭和6年6月、遂に長野県工場課も「本年に限るという条件付で、年間平均賃金40銭以上、最低賃金25銭以上、養成工12銭以上とする」賃金カットを認めざるを得なかった。事態はそれ以上に深刻で、解雇と賃金未払いが増加し、やむなく帰農した工女は県下では、数万人と言われている。
翌7年度の県下の完全失業者は、約1万5千に達し、その20%は困窮者であったと見られている。 それで、市街地地区では欠食児童が増加し、弁当の盗難も珍しくなく、翌7年、長野県から諏訪郡に給付された給食費は1,265円で、その支給児童は122人で、上伊那郡に次ぐ県下第2位であった。同年11月、支給された給食費で下諏訪小学校や高島小学校では、欠食児童や虚弱児童のため給食をおこなった。
学校給食は明治22年、山形県鶴岡市の大監寺の境内にあった私立忠愛小学校で、弁当を持参できない子ども達に、坊さんがお握り、焼き魚、漬物など、昼食を提供したことが始まりで、昭和7年全国各地で国庫補助による給食が始められた。
大正期以来の製糸業の隆盛は、下層小作人の離農で農民人口を減少させ、労働者人口を増加させた。大正9(1920)年の戦後恐慌と昭和4(1929)年の世界恐慌により、翌5年以降、製糸業界からの失業により、帰農者が増加し、労働者人口は減少していった。 製糸労働者の減少は諏訪地方の全人口を減少させた。昭和5年は189,902人と急増していたが、以降減少し、昭和10年には、171,248人になっている。当時の町村別人口では、依然として平野村が約4万1千3百人と第一位で、上諏訪町が約2万3千7百人、下諏訪町が約1万8千2百人と続いていた。
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