扶余
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 松花江(しょうかこう)は、中国東北部の大河の一つで、アムール川最大の支流となって、長白山(ちょうはくさん;中国語でチャンパイシャン)系の最高峰・白頭山(はくとうさん;朝鮮名でペクトゥサン)の山頂火口のカルデラ湖から発し、原始林地帯を貫通し吉林省を北西に流れ、吉林省白城市(大安市)で嫩江(なんこう)をあわせて北東に流れを変えます。その後、牡丹江(ぼたんこう;ムータンチャン)等の大きな支流をあわせて、ロシア国境の黒龍江省同江市付近でアムール川に合流する、長さは1,927km、流域面積は212,000平方kmです。冬季は凍結し、春になると雪解け水によって最大流量に達します。

『逸周書』に「王會弟五十九成周之會(省略)北方臺正東、高夷嗛羊、羊者,羊而四角。獨鹿邛邛邛邛善走者也。孤竹距虚。不令支玄豹。不屠何青熊。東胡黄羆。山戎戎菽,其西般吾白虎黑文」

上記は西周初年のB.C.1046年頃、周王朝の第2代の王で、2年で崩御した父の武王の後を継いで即位する周の成王が洛邑(洛陽)を創建後、諸侯を招いて大会を催したときの記事の抜粋ですが、ここに高夷の名が見えます。後世、孔潁達(唐代の学者、隋書を編纂)は、この王會篇を注釈して次のように記します。 「逸周書に記された会議に参加した北方台地の東の高夷とは、高句麗族の源流である」 高夷氏は山東省に登場する最古の部族で、大地に鵠(おおはくちょう)のトーテムを祀り、高夷族が中原に進入するのに従い、商代には河南省北部にまで勢力を拡大します。その一勢力が、中原から東北地方に移住し、後に高句麗を名乗ると述べています。
 この解釈が史実であれば、高句麗の祖先は、B.C.11世紀、既に遼寧省に登場していたことになります。確かに戦国時代に高夷の領域とされていますが、両者ともトーテムは「鳥」です。高夷が山東省から北上して、高句麗が高夷の後裔となり、当時の朝鮮半島の主な源流となったのです。ただ後代の朝鮮族の血脈は、混血を繰り返しより錯綜します。一般にツングース語系諸族内のこといわれますが、南米のチリや南太平洋の島々で縄文土器が出土し、北欧のハンガリー人の尻にモンゴロイド特有の蒙古斑が出るように、古代社会は我々の想像を遙かに超えて、広範囲な国際交流がなされていました。従って、一国の古代史であっても、その国の史料だけで古代社会の様々な事象を解明できるほど単純ではないのです。

氷河期、現在タイの中央を流れるチャオプラヤー川が、氷河期に形成した広大な沖積平野をスンダランドと称します。現在ではタイ湾から南シナ海へかけての海底に没していますが、マレー半島東岸からインドシナ半島に接する大陸棚がそれに当たります。氷河期に、海面が100メートル程度低くなり広大な平野が存在していました。少なくとも、B.C.70,000年頃からB.C.14,000年頃にかけての氷河期は陸地でした。B.C.12,000年頃~B.C.4,000年にかけて約8,000年間にわたる海面上昇により海底に没します。広大で、食料豊富なスンダランドは、モンゴロイド系人種の故郷でした。

既に、陸地の後退によりB.C.50,000年頃から、やむなく北上に民族の大移動が始まっていました。モンゴルやシベリアにまで広がり、その多くはマンモスハンターになりました。彼らは徐々に寒さに適応して北方系のアジア民族になります。しかし南氷洋を愛し留まった人々は海洋民族として太平洋に広がりました。一部の人々はスンラダンドと陸続きになっていたジャワ島やバリ島から海を渡りオセアニアに移住します。

この時代、中国と韓国半島、日本海に囲まれた黄海も平野でした。ここは、スンダランドと平野で繋がっていました。人類学的に、中国と韓国半島、日本の人種的根源は、スンダランド系モンゴロイドが人種的根源です。その後の人類学的分類は、時々の一時的な区分けにすぎません。

『史記』匈奴列伝「百有余年後、趙襄子は匂山を越え、代国も破り、胡族と貉(らく)族に臨んだ。」後世の注記に、とは扶余なりとあります。 趙襄子は、晋の大臣として魏氏、韓氏とともに最大の実力者・知氏を滅ぼして晋を3分、そして戦国時代の幕を開いたとされる趙の建国者で、B.C.430年に死去します。 上記から戦国時代初期に、すでに穢系部族の貉が、斉に接する地にまで、勢力を有していたことが窺えます。戦国時代には燕が遼東地方に長城(遼東長城)を築き、秦王朝になって、それを増強していていますが、穢・發・高夷の領域にまでは進出していません。従って、彼らが燕や秦によって故地を追われることもありません。また、穢系部族が、当時の中国領土を侵したという記録もありません。徐々に人口が増加し、新たな開拓地が必要となり、穢系連合も各部族が新天地を求めて移住を始めますが、大規模な軍事的移動はないようでした。 そして、中原諸国の戦乱を横目にしながら、穢王の王統である扶余族は故地の吉林省から黒竜江省に留まり、その他の部族は新天地を求めて南下します。「貉族」は吉林省長春市周辺にもいましたが、吉林省梅河口周辺の「發」、遼寧省撫順市周辺の「高夷」を吸収し、秦時代には「扶余・高句麗」の領域になります。こうして、松花江中流の平原に分布して、最初は吉林省吉林市に建国し、後に吉林省農安に遷ります。その後は農安を拠点として南は遼寧省北境、東は挹悒婁(ゆうろう)と接し、北はアムール河まで広がります。
  吉林省長春市周辺からアムール河までを居住域とした、ツングース語系諸族の部族の国家名は扶余です。古来、中国では天下の覇者になることを「中原に鹿を追う」と表現します。扶余とはツングース語の鹿(ブヨ)を漢字表記したものと考えられています。 扶余は、満州のその松花江流域の平原で、農耕と牧畜を生業にします。馬、珠玉、毛皮の特産品も有名でした。扶余は、1世紀初頭から、王国として、中国と外交関係を結びます。しかし北の鮮卑、南の高句麗と接しているため、3世紀末、鮮卑に侵略され国力は衰退して、494年、同族の高句麗に併呑されます。
 司馬遷も山戎・東胡・鮮卑族を一連の系譜と考えたようです。それであれば、鮮卑族の言語は、モンゴル語系とチュルク語系ですから、ツングース語系の扶余や高句麗とは同族ではないことになります。 氷河期が終わる頃まで、狩猟を主とするツングース語系諸族は、シベリア東部・沿海地方、樺太の一部、中国東北部(満州)で生活をしていました。その後、この部族が南下をはじめ、やがて彼らが中国大陸を経て朝鮮半島や日本列島にもやってきます。他方、樺太経由で、日本の北海道や東北地方にも渡って来ています。それが新アジア人(北アジア人=新モンゴロイド)と呼ばれる人々です。前漢から三国時代の古代中国史に、度々登場するツングース語系諸族には、「粛慎(しゅくしん)?貊(わいはく)東胡扶余沃沮高句麗百済悒婁(ゆうろく)勿吉(もつきつ)・靺鞨(まっかつ)・女真族」などがいます。
  『西周時代』(B.C.1046年-同771)、『晋書』粛慎伝によれが、「周の武王の時代、?矢(こし)石?(せきど)を献じる。周公が成王を補佐していた時代に再び遣使が朝賀に来た。その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(A.D.264年)、弓矢、石?、弓甲、貂皮(てんがわ)の類をもって来貢」と述べています。 ただ、『晋書』は中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書で、唐の648年に、2代目皇帝・太宗・李世民(りせいみん;高祖李淵の次子で、兄の李建成を殺害し皇帝になりますが、唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君と称えられています)の命により、房玄齢・李延寿ら複数の人間が書いて複数の人間が編纂したので、前後相矛盾する部分もあって、『史記』と比較して、慎重に引用する必要があります。 粛慎(しゅくしん)は、早くも周王朝に朝貢しています。その後は千年も来朝が途絶え、突然、三国魏に来貢してきたとあります。粛慎は後漢時代に悒婁(ゆうろう)に代わっているので、この遣使が悒婁を指しているのか、あるいは粛慎の残存勢力なのかは不明です。

 周の時代に朝貢してきた粛慎とは、当時は粛慎の居住領域にいた穢ではないかと想像できます。粛慎の貢献品は上記にも記された「弓矢、石?、貂皮(黒テンの毛皮)」だが、後の高句麗の特産物も同様です。 中国の周代の文献の中にしばしば見られるほか、日本の日本書紀の中にも粛慎の記述が見られますが、中国文献中の粛慎と日本文献中の粛慎が同じものであるとは言い切れません。ただ、中国三国時代に、現在のロシア沿海地方付近に移ったことは確かです。容貌は扶余に似ているが、言葉は異なっていたとあますから、扶余はその分岐と認められます。元々、粛慎は、ツングース系で、前漢代以降は同属の扶余に従属していましたが、しばしば反抗を繰り返します。その後は高句麗に一部は吸収されますが、靺鞨として『渤海』を建国します。別流は女真族として、現代の黒龍江省・吉林省・遼寧省で長く活躍します。12世紀建国の『金』と『清』の王族も、女真族でした。 穢系部族連合が進出した吉林省から遼寧省にかけての土地は、周王朝に通貢する途上の道筋で、目星を着けていた場所だったのであったのでしょう。北から遼河を越えても、数多くの国境を通過しなければ周都の宗周には到達できません。中原に到る通交ルートを熟知した穢が粛慎から分立し、西南に移住したことで、粛慎からの朝貢が途絶えたのだと考えられています。
 粛慎は後漢時代、悒婁と中国の呼び名が変わっています。勿吉の前身である悒婁が、前漢から後漢滅亡までの4百年以上も扶余に臣従していたようです。楽浪郡を通じて中原文化を吸収していた穢系部族に、少数部族として隷属していたかもしれません。靺鞨とは、中国の隋、唐時代、勿吉の表記が変化したものと考えられます。勿吉は蒙古にも通じます。また靺鞨は、高句麗に服属し、後に『渤海』を建国した南の粟末(ソックマル)靺鞨と、後に遼国金国清国を建国した女真族の黒水靺鞨に二分されます。満洲に居住していた黒水靺鞨が、女真と称されたようです。樺太の北部と東南部にも広がっています。 ただ、松花江は、『魏書』では速末水、唐代には粟末水、遼代には鴨子河・混同江、金代には混同江・黒水、契丹人は松阿哩江といい、女真族が松花江と呼んだのです。粟末も黒水も、同じ松花江をさすのです。 主に狩猟採集・牧畜・農耕に従事し、中国との間で朝鮮人参・毛皮をもって交易していました。よく略奪遠征もしたようです。

  寛仁3(1019)年3月28日。船で対馬・壱岐・博多に刀伊の入寇(といのにゅうこう)と呼ばれる海賊行為をして、かなりの被害をもたらしました。やがて、一条天皇の摂関を務めた藤原道隆の四男・大宰権帥(だざいのごんのそち)藤原隆家らの大宰府官人に撃退されました。この海賊集団こそが、女真族でした。当時、中国黒竜江省方面に住んでいたようです。 刀伊は賊船約50隻の船団を組んで対馬・壱岐を襲撃し、例えば壱岐島では、400人の島民が捕らえられるか殺害されるかして、残る者わずか35人に過ぎなかったといわれています。対馬守遠晴は難を逃れますが、壱岐守理忠は殺害され、壱岐島分寺の僧・常覚は住民などを率いて、3度にわたって賊を撃退し奮戦しますが、ついに数百の敵に抗い得ず、単身太宰府に逃れています。 刀伊は壱岐守理忠を含む多くの島民を殺害・拉致した後、筑前国・怡土の郡(いとのこおり;現在、糸島郡)に襲来、48日から12日にかけて志麻郡や早良郡等も略奪されています。 被害は、記録されただけでも殺害された者365名、拉致された者1,289名、殺された牛馬380匹、焼失家屋45棟以上で、女子供の被害が目立ち、当時有名であった白鳳以来の対馬銀鉱も焼損したそうです。
  たまたま風波が厳しく、博多近辺で留まったために、藤原隆家率いる豪族・志麻郡の住人文室忠光(ふんやのただみつ)等の武士達や70歳を超えた前少監・大蔵種材(おおくら たねき)太宰少弐平致行(むねゆき)等の日本軍が激戦の末、海上に追いやります。刀伊軍はなおも上陸を試み、4月12日、13日にも水際で合戦が起こりましたが、日本軍は奮戦して、刀伊軍の上陸を阻みます。刀伊軍はそのまま海上に去ります。 女真族は、1115年に遼から自立して金を建国しました。やがて、金がモンゴル帝国に滅亡させられると、故地を既にモンゴル軍に奪われて中原に取り残された大勢の女真が、モンゴル人と漢人双方からの攻撃を受けて大半が死滅し、中原から女真の集団は消えたそうです。

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