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蝦夷及び朝鮮半島と積石塚古墳との関係 Topへ
目次 |
1)飯田市周辺の前方後円墳 |
2)長野県内の弥生文化と朝鮮半島 |
3)蕨手大刀と蝦夷 |
4)俘囚郷と軍団兵士制 |
5)東北地方の古代文化の先進性 |
6)長野県の積石塚古墳群 |
7)積石塚古墳と信濃国御牧との関係 |
長野県の天竜川流域の下伊那地方、特に飯田市に、馬の埋葬例を伴う古墳が相次いで発見されている。現在は30例近くに達している。例えば飯田市座光寺の新井原12号墳は、36mの規模があり、円墳に極めて短い前方部が付いている。いわゆる帆立貝式である。この古墳の周辺を巡っている堀の中から土壙が発見され、その土壙の中に馬が横たえられ丁重に埋葬されていた。2m近い土壙が掘られていて、この中に輪郭を辿ると横倒しになった馬の骨が検出された。そしてこの馬には、f字型の轡鏡板が付けられ、剣菱型の剣のような尖った飾りの杏葉(きょうよう)も付けられていた。横倒しの馬は、轡をはめたまま埋葬されていた。馬の断片的な骨からでは年代の特定は難しく、このf字型轡鏡板等から、5世紀後半ということがわかった。
飯田市松尾の御射山獅子塚古墳は前方後円墳で全長63mあり、周囲の古墳群の盟主的位置にある。その近くの下山村駅の南東300mほどの台地上に、前方後円墳2基を含む10基からなる茶柄山古墳群がある。その古墳の周囲の掘られた溝の中に、土壙が並んでいる。その中の茶柄山9号という古墳の溝に、馬の墓が1から6、飛んで8というように土壙が並んで、丁重に埋葬されている。この9号古墳に埋葬された人は馬を所有していた馬主か、馬を飼育していた牧の管理者か、いずれにしろ馬と非常に関わりが深い人と言える。
ところが、茶柄山2号、3号、5号等周りの円墳でも馬の埋葬例がある。この茶柄山古墳群を遺存した集団というのは、馬との関わりがよほど濃厚な人達であった。そしてその5号墳からは、5世紀に使われた、ねじれた弧文が円周する捩文鏡(ねじもんきょう)が一緒に出土し、土壙中からは、丸い輪に3つの鈴がついているので三環鈴と呼ばれる環鈴も伴出している。馬につける飾りのひとつである。天竜川流域の飯田市周辺に5世紀代から6世紀にかけて、馬と非常に関わりが深かった集団がいたことは明らかだ。
実は、この飯田市周辺には前方後円墳が非常に多く、長野全県の半分以上は、この下伊那地域に集中している。つまり、天竜川が形成した河岸段丘が岡谷市から飯田市まで60kmほどずうっと発達している。そこにどうして前方後円墳が集中しているのだろうか。
前方後円墳に埋葬されている人物というのは、古代の天皇陵がおしなべて前方後円墳であるように、都の大王と同じ墓を模倣して造ったその地域の最有力者達のお墓と知れる。その前方後円墳が飯田周辺に集中しているということは、5世紀代以降、この地域の政治権力が、大和政権と深く関わり、政治的基盤がいかに強固であったかの証明といえる。そして、この前方後円墳に埋葬されている人たちが、馬と非常に関わりが深かった集団であったことは、中央の大和政権が、この時代、いかに馬というものを重要視していたかということの現われだ。しかし、4世紀以前には、馬の骨どころか、それに関わる出土品はない。
ところが、前方後円墳の堀の中からは馬が出てこない。前方後円墳の周りの中小の円墳群、例えば茶柄山古墳群のような、あるいは新井寺所遺跡のような円墳から馬葬例が出てくる。
前方後円墳に埋葬されている人物の配下というか、従属する集団の墳墓の周りから馬が出てくるということは、5世紀以降の、馬を媒介とする重層的な支配構造が見てとれる。大和政権と深い関係を持ちながら、馬の飼育に関わった伊那の地域集団の有力者達は大王自体と直結していた。その首長達は、自分の配下に、馬の飼育をする技術者集団をかかえていた、ということになる。欽明朝に仕える金刺舎人や他田(おさだ)舎人氏が登場以前の5世紀、大和政権に密接な繋がりが既にあった。
この下伊那地方の古墳は積石塚ではないが、長野市の南・松代大室の山裾にある大室古墳群の505基の積石塚古墳の集中度、合掌型石室の状況、あるいは最近の群馬の高崎市や静岡の浜北市の積石塚の発掘のありようを見れば、馬というものが、古代かなり早くから入ってきたことが分かる。朝鮮半島の伽耶、百済等の地域からと考えざるを得ない。
例えば群馬という地域は、榛名山の2つ岳の爆発による火山灰や軽石がたくさん堆積している。その火山灰や軽石を取ると、その下は噴火直前の状況がそのまま遺存する遺跡になっている。北群馬郡子持村(こもちむら)の遺跡等は鋤簾で火山灰を取り除くと、直径10cmから13cmくらいの円形の凹みが無数に現れる。それは馬のひずめの跡で、北群馬郡の白井遺跡群からは何万という馬のひずめの跡が検出されている。隣接する吹屋遺跡群にも放牧地が広がっている。その調査の結果、群馬では6世紀の半ばには馬を放牧していたという状況が次々と分かってきた。
同時期、東北の蝦夷も、優れた乗馬と積石塚築造の技術を、朝鮮半島や高句麗から直接伝播されていた。
2)長野県内の弥生文化と朝鮮半島
長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡(ねつかいせき)は、東西105m・南北58m・丘頂標高329.66mの楕円形の低い根塚丘陵にあり、盆地に一面に広がる水田の中の独立した遺跡だ。自然残丘を利用したテラス状の段丘をもつ集団墳墓である。縄文時代・弥生時代・古墳時代・平安時代・中世にわたる複合遺跡であり、その中心が弥生時代である。この根塚と呼ばれる丘の中央部から発見された墳丘墓は、長方形で3段のテラスを造っているが、長方形の斜面には張石が一面に敷かれてある。弥生時代後期のあまり例を見ない墳丘墓といえる。ここから弥生時代後期、3世紀後半の箱清水期の土器が大量に発見された。千曲川流域の土器の特徴である赤色塗彩の特徴が見られる。更にその筆順から、朝鮮半島との関連を示す資料として話題を呼んだ「大」と記された刻書土器、3点もここから出土した。
また墳丘墓墳頂部に木棺が埋葬され、木棺には1振りの鉄剣と多量のガラス小玉や管玉が副葬されていた。この棺内から出土した細形管玉とガラス小玉の点数は県内最多であり、鉄剣は舶載の実戦刀であった。さらに、遺跡内の別地区からは2本の鉄剣が出土し、その内の2号剣には3箇所に渦巻文が確認され、「渦巻文装飾付鉄剣(うずまきもんそうしょくつきてっけん)」と命名された。2号剣は長さ74cm、幅3.5cm、厚さ1cm、弥生時代終末期の鉄剣としては日本最大である。この剣は柄頭の脇から右手に一本突起が出ていて、その先端は渦巻状に丸くなっている。柄尻は鉄を2つに割いて、内側に2ヵ所の渦巻文装飾が施されている。渦巻文の装飾は朝鮮半島南部の伽耶地方独特のもので、また上記3振りの鉄素材の成分分析から、鉄剣は朝鮮半島製であることが確認された。木島平村と伽耶との日本海ルートを通じた直接交流を示唆している。さらに蝦夷の蕨手刀と同様、刀身と柄が一体の共鉄柄で、柄によって反り生じている。
それにしても、弥生時代、2世紀から3世紀代前半に、朝鮮半島の南の伽耶、洛東江下流域の釜山あたりから日本列島にこの鉄剣が運び込まれて、木島平にまで来ている。木島平村から千曲川、信濃川を下ると、すぐ日本海、越後平野に通じる。寧ろ、野尻湖の手前、荒川から関川に下り、直江津に出る最短ルートに興味が惹かれる。しかし約4万~3万年前とされる骨器文化の野尻湖遺跡と、それに匹敵する和田峠を中心とする黒曜石文化の存在は、単にその流通ルートを、河川だけに限定する不自然性が感じられる。古代山間部の生業は、植物採集、漁労、狩猟等で、原始に近いほど、その生産性が低いため、広域的な領域を必要としていた。当然、人類にも獣道的なルートが、現代人には想像できないほど多岐に広がっていたと想像できる。人口密度は希薄であっても、そのルートの使用頻度は、現代を超えるものであったとおもう。現代文明の急速な進歩に惑わされ、古代人の懸命な生存を掛けた営みを軽視してはならない。山間部には、河川に頼らない行動ルートが、現代人の想像を超えた範囲で広がっていたと思える。
いずれにしろ従来の日本の考古学の理解、つまり伽耶の地域から対馬、壱岐、北九州、瀬戸内から畿内へ入り、そして畿内勢力によって、後の東山道を通って信濃の国にもたらされたという見解は、考古学的事実ではなかった。日本列島は、その存在が現代のように形付けられる前より、北海道から沖縄まで、諸民族の大移動が繰り返されていた。北海道も例外ではなく、ましてアイヌ族は、独立して存在せず、どの時点で、その人種が形成されたか、誰が説明できるのだろうか。古代では、国境なき民が、絶え間なく流入し、その生存権を争い、その勝者が支配権を握るが、混血が止む事はない。インドでも、厳しいカースト制の戒律がありながら、インド人の多くの容姿は、明らかに混血民族化している。
朝鮮半島南部の伽耶から人と新しい技術が日本海沿岸に直接に渡来している。海は文化を隔てるものではなく、寧ろ容易に人と物を繋げている。つまり大和政権や北九州を媒介せずとも、越の国や東北地方、更には北海道に、直接伝播する交流が、我々が想像すり以上も前から存在していた。東日本の古代文化の理解は、相当考え直さねばならない。
3)蕨手大刀と蝦夷
国鉄中央線茅野駅の南東300m、現在の大塚神社で、7世紀末~8世紀初頭の大塚古墳が発掘された。かなり豊富な出土品で、玉類等の装身具、銅鋺、7本の直刀、馬具等であった。そのうちの鉄製柄頭は、かなり錆びていて確証はないが、蕨手大刀ではないかと考えられている。馬具は環状式轡が4組、精巧な輪鐙(あぶみ)、咬具(かこ)、鞍金具、鉄鎖、大型咬具等があった。馬具の出土例は、茅野市に限るだけでも、釜石古墳、一本椹古墳、姥塚古墳等、古墳名を述べ切れない。
茅野本町の北、南手前には御座石神社がある鬼場城跡の南西山麓、茅野市本町矢ヶ崎土佐屋敷で立鼓柄大刀(たてづつみえたち)が出土している。昭和17年発掘、現在、御座石神社で所蔵されている。刀身は55cm、刃元幅は4.5 cm、共鉄柄刀(ともてつえがたな)で握り部分を立鼓状に絞っている。刀身は短いが外反りが特徴で、後世の日本刀の反りの原型といえる。鉄の茎(なかご)に紐を巻いて握りとし、柄頭に近い部分に懸通孔(けんつうこう)が貫通している。外装の復元からは蕨手大刀(わらびてたち)に近いと思われる。伴出物がないのは、原村柳沢鹿垣(ししがき)と同様であるが、8世紀後半の時期のものとみられている。
ここで重要な事は、蕨手大刀の存在で、馬を飼い馬上訓練をすれば、強兵を養えるほど単純ではない。蕨手大刀は諏訪全体では、岡谷市湊区大林遺跡・諏訪市真志野中塚・同市大熊荒神山古墳・原村柳沢鹿垣等から出土し、白樺湖から佐久に通じる雨境峠近辺の桐陰寮上と赤沼平そして上田方面の大門峠でも出土している。長野県の出土例は17で、上伊那3、諏訪5、小県2、佐久5、松本1、長水1で、諏訪と佐久に多いようだ。一般的に全長は、50~60㎝前後で刃幅が広く、茎(なかご)をそのまま柄とし、柄木を用いないで樹皮や糸などを直接巻きつけて用いている。出土例は全国で180数例を数え、東日本を中心に中部・関東・東北および北海道に多く分布し、西日本では正倉院伝世品の他数例と、極めて特徴的な東に片寄った分布傾向を示している。
蕨手大刀は、宮城県多賀城市に築かれた古代の城柵・多賀城(たがじょう)内、東門西方の竪穴住居からも出土している。刀身に対して柄(え)が角度をもって取り付き、柄の先端が蕨(わらび)のように円くなることから、蕨手刀と呼ばれている。鞘(さや)もよく残っており、外装に樺(かば)皮を巻いた痕跡が残っていた。鞘部を入れた全長は約47㎝、最大幅約5㎝、刀身の長さは35.6㎝、刀身の最大幅3.9㎝。
蕨手刀の特徴は、真っ直ぐな刀身に対して柄が外側にそっている「柄反り」にあり、馬を疾走させながら相手を斬っても、その反動を流し、馬上を疾駆するまま、深く切り込み、致命的斬撃を与える。8世紀後半までは、馬上騎士にしても、武士階級が誕生する前であれば、殆どは軽装であった。その斬撃には耐えられない。また馬上戦の戦法も知得していない。まさに蝦夷が駆使する蕨手刀の威力は「一以当千」があたりまえの殺傷能力であった。大和軍は正面から戦える武技もなく、戦闘となれば、逸早く敗走するしかなく、追いつかれれば殺戮されるままの悲惨さであった。
蕨手刀の刀身と柄が一体の共鉄柄や、熱した鋼を急冷して高度を高める焼入れも、強烈な衝撃に耐えるための技法ある。一方政府軍の直刀の柄は細い茎(なかご)に取り付けられ、疾駆しながらの斬撃の衝撃に耐えられず、柄元から折れる恐れがあった。疾駆しながら戦える「蕨手刀」と馬を止めないと戦えない直刀では、その能力的格差は比較にならず、蝦夷の強さはまさに「蕨手刀」にあったといっても過言ではない。蝦夷はただの乱暴者では無く、高度な戦法技術を持った勇敢な戦士であった。
蕨手大刀は、蝦夷勢力の拠点があった岩手県胆沢(いさわ)地方での発掘事例が多い。特に蝦夷塚と呼ばれる積石塚(つみいしづか)古墳から出土している。積石塚は長野県のみならず各地に広く分布している。それを、ややもすれば渡来系と捉えがちであるが、奈良朝廷は8世紀末から9世紀初頭の蝦夷征服戦争により、大量に受け入れざるをえなくなった帰服蝦夷を、俘囚として国内各地に強制移住させた。これを「内国移配(ないこくいはい)」という。移配が確認される国は、実に44ヵ国にものぼりほぼ全国に移住させている。9世紀後半俘囚料を廃止した国もあり、大分時代のずれがあり、その間の経過は知る事ができないが、延長5(927)年に施行された『延喜式』の時点では、各国の俘囚料が記載されている44ヶ国を参考にすれば、ほぼ内国移配が全国に及んでいた事がわかる。俘囚料から推計される俘囚の数は、肥後が最大で722名と圧倒的に多く、次が近江で437名、常陸416名、下野416名、因幡312名、以下筑前239名、甲斐208名、美濃170名、豊後164名、甲斐208名等でありながら、信濃は12名となる。
俘囚の内国移配は反乱再発の防止策としての同化策であり、総兵力20万人を擁した軍団兵士制を廃止した後を埋める勇敢な兵士として必要であった。また軍団兵士制の廃止は、国衙への軍馬の需要を減らし、国牧の維持を困難にした。
ただ群盗追捕のため給養してきた俘囚が、群盗化し各地で反乱を起こすようになった。弘仁(813)4年、出雲国では「荒橿の乱(あらかしのらん)」が起こり、俘囚達は郡郷の正倉や富豪層の倉を襲い、稲穀を奪った。嘉祥元(848)年には上総国において俘囚の丸子迴毛が反乱を起こし、朝廷は、上総、下総、相模国などに命じて討伐させている。貞観17 (875)年下総俘囚の乱では、官寺を焼き良民を殺害、武蔵、上総、常陸、下野などの国々から兵を発して鎮圧させた。元慶7(883)年、上総俘囚の乱では、国郡の正倉に備蓄された官物(かんもつ;稲)を略奪した。
終に陸奥国に寛平(かんぴょう)9(897)年、宇多天皇は陸奥国に「全国に逃亡した者達を陸奥国へ呼び戻し、租税免除と生活基盤を与え、かれらに辺境防衛と荒田の再開発に当たらせたい」と申請させ、全国の俘囚を陸奥に還住させた。
4)俘囚郷と軍団兵士制
宝亀11(780)年2月、前年に来日した新羅貢調使が帰国する際、奈良朝廷は外交関係の解消を、一方的に通告した。唐帝国は安禄山の乱により昔日の勢いを失い、律令税制が崩壊する最中、莫大な財政の負担となる巨大軍団制の無意味さを漸く理解した。朝鮮半島出兵は、最早想定外であり、対外的脅威も唐の凋落と、唐・新羅間の軋轢が続く状況下、杞憂に過ぎなくなった。軍団兵士は一度も対外戦争に派兵されることなく、決定的勝利が期待できない奥羽戦での朝廷派遣兵が脆弱であっても、軍団兵士としては動員されることもなく、その戦争の最中、延暦11(792)年、奥羽、太宰符管内諸国を除き廃止された。その代替として、動員されたのが俘囚集団であった。内国移配が北部九州寄りになっているのは、そのためである。
受領は郷の中心から離れた辺鄙な土地を俘囚郷とした。そのため蕨手大刀が「諏訪湖を遥かに見下ろす眺望の開けた丘陵」や「八ヶ岳の山腹千mの高原」で出土する。蝦夷塚と呼ばれる積石塚が、僻遠に多いのもそのためといえる。弘仁(こうにん)3(812)年6月、政府は俘囚の中から、他の者が服従する武勇者を「夷俘長(いふちょう)」として選び、自治的刑罰権を与え管理統制させるよう、受領に命じている。9世紀、諸国の俘囚は俘囚郷を営んでいた。10世紀の全国の郷名を記録する『和名類聚抄』には、上野国の碓氷(うすい)郡、多胡(たご)郡、緑野(みどの)郡と周防国の吉敷(よしき)郡に俘囚郷が見られるだけであった。既に、10世紀になると、俘囚の多くは陸奥に送還されていた。
政府は戦闘では蝦夷には適わない、寧ろ俘囚の内国移配を促進させ、優恤教喩(ゆうじゅつきょうゆ;保護給養し教化する)しょうとし、受領に「夷俘専当(いふせんとう)」を兼任させた。さらに受領に男女問わず全員に俘囚料として米、塩、燃料を支給させた。その上「存問(そんもん;慰問)」を命じ、受領に俘囚の里を訪ねる事を義務化し、その要望を聞かせた。それでも俘囚はしばしば上京して、要望を無視する受領を政府に訴えている。
受領は季節ごとに俘囚達を国衙に招待し饗応する事を命じられている。その度に禄(ろく)と衣服の支給を指示されている。冬季には絹と布を混ぜさせてもいた。上流階級用としての絹と、庶民用布としての藤布、麻布等があった時代に、相当な厚遇といえた。また口分田も支給している。しかも田租を徴収していない。また調・庸も免除している。度々、徴収し賦課しようと布告したが、彼らの免除期間の延長申請と反発から、9世紀になっても殆ど履行されなかった。延暦17(798)年、俘囚の調・庸未進に対して、懲罰をせず、逆に徴収停止を命じている。更に延暦19(800)年、甲斐国が俘囚の暴行や牛馬の略奪を朝廷に訴え出でたが、受領によく説諭することを命じているだけである。ただ処罰事例もある。播磨国では俘囚10人が種子島へ配流され、因幡国では、民の牛馬を奪った件で俘囚6人が土佐国に再移配されている。
受領は国衙の財源で俘囚を給養した。あくまでも、その公民化が目的で、受領への軍役の提供は期待していなかった。しかし、直接俘囚に接し受領によって給養され、国衙に招待され、その饗応後、衣服を支給されれば、受領に忠実であろうとするのが自然の成行きで、現実には受領の傭兵的兵力となった。
縄文晩期から水田稲作の形跡が認められながらも、元々長江流域を根源とする熱帯作物であるため、既に進化していながらも、未だ水田稲作は奥羽に定着したとまではいえなかった。そのため本来的に漁労、狩猟とそれを元にした交易文化圏にいた俘囚男子が、いきなり口分田を支給されても、勤労せずとも最低の生活は保障され、その習俗であり生業でもあった狩猟に明け暮れた。受領からは狩猟特権も与えられていた。それは武芸訓練特権でもあった。移配当初から、馬を公民から奪い、田畑との区別も無く山野を狩場として駆け回った。当然、民の生業の場が荒らされるので、抗議をするが、武力に勝る俘囚の暴行に勝てるわけはなかった。
5)東北地方の古代文化の先進性
岩手県水沢市から西へ向かう国道397号線を4kほど行った奥州市胆沢(いさわ)区南都田(なつた) 字塚田、その胆沢川によって形成された胆沢扇状地の中央に、大きな1本の杉の木が立つ、かぎ穴のような形の小山がある。これが角塚古墳(つのづかこふん)といわれる前方後円墳で、日本の太平洋側、最も北端に位置する前方後円墳といわれている。5世紀末から6世紀初めの築造と推定されている。
山形県山形市の隣、東村山郡山辺町の北北西、大寺地区の西光山にある坊主窪古墳(ぼうずくぼこふん)群は、かつて40を超える古墳があったとされ、なかでも1号墳は軸長26mを超える前方後円墳で、6世紀の後半に築造されたものとされている。また、前方後円墳としては日本海側の最北端といわれている。
4世紀から5世紀の古代の大王達の墳墓はほとんどが前方後円墳なので、全国各地における前方後円墳の存在というものが、大和の古代政権の浸透度を推測するのに、重要な意味をもっている。その北限が山形県と岩手県まで、北緯40度以北には及んでいないということになる。
数年前、その山形市山辺町の田圃の中、天神大塚古墳という東北地方最古にして最大で、全長51mある円墳が発掘された。見事な円筒埴輪の列が、周囲を囲んでいた。しかもその円筒埴輪をよく見ると、成型技法が「成務天皇陵」と宮内庁が指定している古墳のものと似ていた。日本海側北限となる埴輪でもあった。
京都、奈良間の近鉄線「平城」駅があり、その駅から山寄りに徒歩10分ほどで、「神功皇后陵」とか成務天皇陵とか、垂仁天皇の皇后の「日葉酢媛命陵(ひばすひめのみことりょう)」といった、現在、天皇陵として宮内庁が指定している大型の前方後円墳が並んでいる。江戸時代に、奈良の奈良村の農民達が大挙して成務陵やその他の古墳の盗掘をしている。これが露見して、幕府よって全員が召し捕られ、磔にあっている。 その盗掘の結果、成務天皇陵から円筒埴輪がいくつか発見される契機となった。その成型技法、造形様式が、山形県山辺町の天神大塚古墳から出た円筒埴輪のものとほとんど同一である、ということが最近わかってきた。
畿内の大和で造った円筒埴輪が、遥かな遠い蝦夷の国、東北の山形で、ほとんど同時代に、その史料が発見された。成型焼成の技法等からみて、その間に数10年といった年代のひらきは考えられない。4世紀後半には、山形市の周辺に住んでいた豪族達の墓には、畿内と同様の先進的な技術を伴う埴輪が周囲にめぐらされていた。
6)長野県の積石塚古墳群
現在日本には大小合わせて20万くらいの古墳があると言われているが、見島は山口県萩港沖約45kmの日本海中に周囲18kmの玄武岩石地でできた離島で、見島ジーコンボ古墳群がある。本村の東方高見山から晩台山に至る横浦海岸一帯に、長さ約300m、幅50mから100mにわたって分布している。古墳の数はおよそ200基、現在石槨を残しているものだけでも160基はあり、これ以外に破壊されたものや未発掘のものも相当数あると思われている。海浜の比較的大きな玄武岩の礫を利用して、封土を用いずに造った積石塚で、その密度は全国でもまれな群集墳である。
その中で特に立派な56号墳の副葬品として、岩手県胆沢地方の積石塚と同形の蕨手大刀や鉄族等の武器類のほか、石帯(せきたい)、金銅製かんざし、勾玉、管玉、ガラス小玉、耳環、貝輪等の装身具、貞観永宝(じょうがんえいほう)等が出土した。貞観永宝は9世紀後半に鋳造されている。それは受領から俘囚料として支給された銭であったのか?また石帯具は7、8位の官人が着装する帯飾りであるから、56号墳の被葬者は、「夷俘長(いふちょう)」とおもえる。
ジーコンボ古墳群の積石塚から出土した壮年男子の人骨から、独特の体型が想定された。上腕骨が著しく発達しているが、大腿骨が貧弱であった。そして21基が調査された中の9基から鉄族が出土している。見島の俘囚男子は、受領に給養され、馬上による狩猟と武芸訓練に明け暮れていたようだ。未だ武士化しているとはいえない勇敢富豪層は、農業経営に忙殺され武芸に励むゆとりがなかった。それで当時、多発する群盗海賊追捕の戦力として、受領は寧ろ俘囚の武技に頼った。そして彼らは、現実にその得意とする疾駆斬撃戦法で勇敢に戦った。
ジーコンボ古墳群の出土品には、長門国以外で製作された須恵器、土師器等があり、山城国石作窯(いしつくりよう)系の緑釉陶器もあった。鉄鎌、鉄短刀、紡錘車等の農工具類、銅鏡、青銅製匙、銅鋺、銅鈴等の青銅製品、和同開珎等がある。
蝦夷風俗の古墳が築造できたのは、「夷俘長」を頂点とした自治管理が認められ、その刑罰権も付与されて、その上、俘囚には、俘囚料支給と租税免除で、公民とは比べものにならないほど豊かな文化生活が営まれていたからであった。
長野県には積石塚古墳が多数、点在する。積石塚と推測される長野県の針塚古墳は、美ヶ原を源に松本市里山辺を流れる薄川(すすきがわ)流域で発掘された。山辺地区には奈良時代、御牧があった。この地域には多くの古墳が分布していたが、開発により多くが消失し、針塚古墳のみが残った。おそらく多くの積石塚古墳が破壊され、闇に葬られたようだ。積石塚はその性格上、単独では存在し得ない。かつてはここに数10基の積石塚があったようだ。それが農水省主導の土地改良事業で、ほとんどなくなってしまい、最後に残ったのが、針塚古墳、円墳の積石塚であった。
墳丘をめぐる周溝の中から、土師器と須恵器と呼ばれる鼠色をした高杯が出土した。須恵器は朝鮮半島から日本に流入した窯業技術で、この須恵器は大阪の古代須恵邑の須恵器窯・高蔵光明寺池208号の窯で、5世紀の後半に造られた須恵器であった。さらに積石塚の墳頂に、わずか30cmの浅い長方形の竪穴式の石室があって、そこからは内行花文鏡が出土した。
こういった内行花文鏡や須恵器、土師器、そして鉄鏃等から見て、この積石塚は5世紀後半に造られたものと推定された。副葬品として、鉄斧、小刀、ガラス玉、鉸具(かこ)も出土している。
積石塚は、日本だけではなく、朝鮮半島にあった古代国家・高句麗の首都・扶余(現在の中華人民共和国東北地方集安県)でも、多くの積石塚が発掘されている。それは、中央アジアにもあり、積石塚は極めて一般的な墓で、その置かれた環境に則した墓制とみられる。それをもって、直ちに積石塚を、遊牧民の墓とするのも肯けない。中国と北朝鮮との間を流れる鴨緑江の流域の集安周辺にたくさんの積石塚があり、数万という数で密集して分布している。さらに、北朝鮮の慈江道にも何万という積石塚が発掘されている。こういう積石塚は鴨緑江周辺だけでなく、朝鮮半島全域に分布していて、最近では韓国の地域の慶尚南道等でも数多くの発掘実績がみられている。
長野県は長野市の南・松代大室の山裾にある大室古墳群が、日本最大の積石塚古墳群である。全部で505基、盛土墳や土石混合墳もあるが、8割近くが蝦夷塚と称される積石塚とみられる。中には天井が三角形をした合掌型石室墳もあり、30基がここに存在している。既に明治10年代に、イギリス人ウィリアム・ガウランドという大阪造幣局の技師がこの古墳を見にきていた。大室古墳群は標高350mから700mくらいまで、谷沿いに積石塚が点在していて、山全体に広がり、かなり上のほうまで密集している。墓の領域は満杯となり、上の方は林の中にあり、日もあまり射さず湿りがちで、こうした限界地まで大量の石を運んで作っている。積石塚古墳はこの谷に臨んだ窪地に、20基、30基というように、5つの群集墓がみられ、そして各グループの中に合掌型石室が2基か3基ずつ含まれている。もっとも規模の大きいものは大室谷の古墳群で国指定の史跡になっている。指定部分だけで166基で、積石塚 118基、合掌型石室7基ある。ただし墳丘そのものはかなり崩れている。
大室244号墳である将軍塚古墳は、直径約18m、高さ約8.5mの円墳で、南西に開口する両袖型横穴式石室は全長11.7mの規模がある。
長野市の東南部、善光寺平にある若穂という山の傾斜面に、ニカゴ塚という古墳がある。ここの古墳は石室の天井の石が屋根型になっていて、手を両側から合わせる形に似ているので、合掌型石室と呼ばれている。確かに両側壁が垂直に立って、その上にかなり分厚い石を合掌の形に置いていて、人間の身長くらいの高さとなっている。このニカゴ塚のすぐ隣の谷間に大室古墳群があり、大室の505基の中で約30基が合掌型をしている。この合掌型石室は善光寺平にしかなくて、あとは山梨県に一例あるだけだ。したがって、合掌型石室も渡来系集団の墳墓とみられている。
大室古墳群は完全に盗掘され尽くされているが、しかし合掌型石室の調査を進めて、盗り残した土器片等から、築造年代その他のことが分かってきた。その調査結果、合掌型は新しいものではなくて、すべてが古く、日本の古墳時代中期の5世紀代と判明した。
つまり、畿内では古市古墳群の誉田御廟山(こんだ)の応神天皇陵とか大仙古墳群(だいせん)の仁徳陵が出現する時期と重なる。その5世紀代に大室古墳群の合掌型石室が登場してくる。しかも、積石塚が20基、30基と集中する中に、合掌型石室が1基、2基、多くても3基混じっているが、この合掌型が群の中でいちばん最初に築造されていた。
もし韓国の合掌型石室と大室古墳群の合掌型石室が、歴史的な関係があるとすると、長野県の大室古墳群の合掌型石室に埋葬された人は、明らかに渡来系集団で、しかも百済との関係でとらえられていた。従来、合掌型石室は百済の都の公州の墓制に関係していたと考えられていた。ところが公州の柿木洞の石室は、韓国では6世紀から7世紀代くらいの石室構造と考えられている。現代では、合掌型石室は、寧ろ高句麗系統を受け継ぐものと理解されている。
A.C.450年頃、大室古墳群の合掌型石室が築造されて、北信濃地方で先駆けになった。最初に1基、2基、ないしは3基の合掌型石室が築造されて、その後から積石塚が永く続き、竪穴式石室や横穴式石室に変わっていく。善光寺平に合掌型石室が出現する前は、千曲川の流域には積石塚ではなくて積土塚があり、それは円墳周囲を土で盛った原初的な墓であった。その自然発生的な在来の工法が、5世紀の半ば頃には石で造形するようになった。
積石塚の出現と同時に合掌型石室が善光寺平の大室に現われて、後世そこに「大室の牧」が置かれる。信濃の国には御牧が16あったことが『延喜式』等に記され、その中に大室の牧もある。信濃の国の牧監(もくげん)は朝鮮半島の出身者であった。大変な功績があったということで、大和政権から位を授与されている。それは平安時代のことである。
7)積石塚古墳と信濃国御牧との関係
昭和25年、松本市立考古博物館前の農地から、牧監庁跡らしい敷地が見つかり、昭和60年「信濃牧監庁跡」として、長野県から指定を受けている。各国の牧の管理は、最初その国にいた国司が主当となり兼任していたが、管理が杜撰となり、国々に専任官として牧監が置かれた。当時、信濃16の牧を管理した牧監は、松本市中山鳥内に置かれていた。
当時、朝鮮半島から、百済や新羅や高句麗系の人々が渡来し、例えば武蔵の国に千何百人も移住してきて新しく高麗郡を作ったということも事実であった。しかし、もっと早く5世紀に朝鮮半島から技術を持った集団が日本列島にやってきて、日本各地に住み、新しい技術を駆使して生産に従事したということは、考古学的に確実である。
大室古墳群の積石塚は、馬の飼育に関わった集団の墓が大半といえる。牧官は大宝の厩牧令(くもくりょう)によれば、牧ごとに長を1人、帳を2人、馬100疋を1群として牧子2人を置く制度であった。在地の人達も牧司となる。その牧ごとの直接管理者は牧長と呼ばれた。そうした有力者が積石塚を造っていくことになる。つまり、東日本における馬の飼育は、5世紀代の後半には長野県の善光寺平でも、かなり大規模に行なわれ始めていた。その技術を持ち込み、馬の飼育を担ったのは、当初は渡来系集団であった。科野氏は、その先端文明を受容して勢力を拡大し、信濃の国造となったとみる。
下伊那の飯田市を中心に、5世紀 馬匹文化が開花する。その歴史的証明として、信濃国の大半を占める前方後円墳の5世紀代早期の築造があった。6世紀に名を現す金刺氏や他田氏は、科野氏の支流である。広大な伊那谷の台地に、その文化を移植し、やがて養老5(721)年、信濃の国を割いて諏訪の国が設置されると、諏訪国の国司が金刺氏に、信濃国の国司に他田氏が任じられる。他田氏は金刺氏の支流である。共に伊那谷を基盤に、その勢力を拡張し、金刺氏は岡谷氏長地の中屋スクモ塚地籍(榎垣外遺跡)で諏訪国司に、他田氏は更埴市(千曲市)屋代で信濃国司の任に就いた。後世、信濃の国府が、今の松本、筑摩郡に移されている。おそらくは仁和4(888)年、宇多天皇の時代の大洪水の結果がもたらしたとおもえる。平安時代中期の承平年間(931-7)に編纂された『倭名類聚抄』の信濃国の項に「府は筑摩郡にあり」と記されている。また信濃には「伊那、諏訪、筑摩、安曇、更科、水内(みのち)、高井、埴科、小県、佐久」の10郡あったとしている。養老5(721)年に置かれた諏訪国は、伊那、諏訪、筑摩、安曇の4郡で構成されていた。
大室古墳群からも馬の生産と関係する遺物が出ている。墳丘の裾周辺から土師器、須恵器のほか、土馬が発掘された。御牧・「大室牧」の立地、険しい溶岩流が織り成す狭くて細長い谷は、馬の牧場には適した地形で、官営の大室牧と馬を駆使する俘囚との関係が想像される。
桓武天皇の蝦夷征夷は不振を重ねていた。その打開策に苦慮していた時、坂上田村麻呂が中央で近衛府の武官として立ち、延暦12(793)年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。その前年、延暦11年、奥羽、太宰符管内諸国を除き軍団兵士制が廃止された。結果、兵部省管轄下の官牧は、軍団騎兵隊に用立てる馬の繁殖が目的であったため、急速に衰退した。左右馬寮管轄下で朝廷の御用馬を飼育する御牧も荒廃し、次第に左右馬寮管轄の荘園に変貌する。その一方、私牧が増加する。坂上田村麻呂の懐柔策で、この地に移配された俘囚達も、積石塚の継承者であった。
山形市山辺町の田圃の中、天神大塚古墳という小さな円墳が発掘され、4世紀後半には、山形市の周辺に住んでいた豪族達の墓には、畿内と同様な先進的な技術を伴う埴輪が周囲にめぐらされていた。その文化の伝播速度は、かつて想像していたよりも、格段に速かった。やがて善光寺平の大室の台地に505基が築造された。
受領は国衙の財源で俘囚を給養した。また季節ごとに俘囚達を国衙に招待させ饗応させ、その度に禄(ろく)と衣服を支給している。それも冬季には絹と布を混ぜさせてもいた。上流階級用としての絹は、庶民には使用が許されず、麻・苧(からむし)・葛・藤・楮(こうぞ)等の植物性布がせいぜいであった。その入手自体困難な時代に、相当な厚遇の傍証となる。その当時の御牧の実情は天長元(824)年太政官符によると、「課欠駒の直を徴するに牧子の苦しみ堪えず、競って他郷に散る、信濃もっとも甚だし」とある。
見島ジーコンボの積石塚古墳群は9世紀末から10世紀初頭に、忽然と消滅する。寛平(かんぴょう)9(897)年、宇多天皇は、全国の俘囚を陸奥に還住させた。見島の俘囚集落の人々は、故国・蝦夷に戻った。全国にあった「俘囚郷」もその姿を消した。
東日本における古墳時代は、突出するものでは既に5世紀代の半ば、中には5世紀の前半にかかるものもあるが、おおよそ5世紀代の後半に突如として積石塚が登場している。福岡県の糟屋郡新宮町の波止場から船で約30分、博多湾の相ノ島に積石塚が発掘されている。波打ち際の石を積んで造っている。4世紀の後半から5世紀にかけての時代とみられる250基で、方形の積石塚が多い。そのうちの1つ120号墳が、東日本のものとまったく同じような内部構造であった。しかも相ノ島の積石塚から、奈良県天理市の布留から出土する4世紀後半の布留式土器という土器が出土した。しかも韓式土器も出ている。
西日本では4世紀の後半にすでに積石塚が出現しており、東日本では5世紀代に新しい埋葬方法が朝鮮半島から入ってきた。同時に横穴式墓制も入ってくる。須恵器という新しい窯業技術も、装身具に鍍金というような新しい工芸技術も入ってきた。そういう時期に、地域によっては盛土墳や土石混合墳が積石塚古墳に変わる。
須坂市八町の八丁鎧塚古墳は鮎川の河岸段丘の果樹栽培地帯にある。この八丁鎧塚からは長野盆地一帯が一望でき、遠くには雪をかぶった北信五岳と北アルプスの壮大な景観が展開し、多いに感動させられる。その鮎川の流域、とりわけ右岸に多くの積石塚が築造されている。鮎川の上流にあるのが八丁鎧塚1号、2号古墳で、鮎川の川原石を積み上げて築造された円墳であり、5世紀の長野県内の積石塚古墳では最古のものとされ、長野県指定史跡となっている。全部で6基の古墳が確認されている。1,2,6号墳がほぼ同じ位置にあり、その他が離れていることから、八丁鎧塚というと1,2,6号墳を指す傾向がある。1号墳は東西径23m、高さ2.5mあり、2号墳は南北径25m、高さ3.6mある。1号墳からは、方格規矩鏡片2、碧玉製勾玉1、蝋石製勾玉6、碧玉製管玉4、碧玉製石釧残欠4、スイジガイ製の貝釧2、そして鉄製鉾断片1、直刀小破片4、刀子小破片4等の鉄製武器類、鉄鍬26、家形埴輪破片少量、土師器破片少量が出土した。2号墳からは鍍金青銅製の獅子の獣面文帯金具が3点出土している。同例品は韓国で多く見られ、特に獣首面は加耶周辺で多く出土している。腰帯金具かどうかは不明で、馬具の帯に用いる飾金具か鉸具(かこ)だとみる。さらに鈴付杏葉(ぎょうよう)も出土している。杏葉とは馬の装飾品に使われる金具又は皮具だ。
長野以外でも、山梨、群馬でも積石塚が見られる。東京にも積石塚の系統に連なる古墳がある。甲府市北部では長野県松代に次いで、積石塚古墳が多いことで知られている。なかでも八人山中腹の「横根・桜井積石塚古墳群」は松代の大室古墳群に次いで積石塚が群集している。全部で142基確認されている。墳丘は5~8mのものが多い。最大でも10mである。金環、土師器、須恵器、ガラス玉などが発見されている。積石塚が山間部よりの環境や出土品の豪華さとの関係で、敗残の立場にあった高句麗系集団とは関係はなく、当時多く移配された俘囚集落と考えられる。高句麗の古墳の作り方とかなり違う。さらに高句麗系渡来人がいたとされる中巨摩郡等で積石塚が発見されていないこと、古墳から渡来系の遺物が出てこないこと、低いところは積土墳であり、積石塚のあるところは元々適当な大きさの石が多いこと等を鑑みれば、蝦夷文化の残影が濃い。また弥生時代初期と違い、この時代の朝鮮半島の移民は、内陸の山間部に追い遣られている。それで蝦夷の移配と重なったとみる。
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