塩沢寺墓地から塩之原 小見夫人と侍女の墓 塩澤将監の墓 北大塩大清水

諏訪武士の台頭期       Top

 目次
 1)平安時代末の信濃国の公領と荘園
 2)頼朝知行国信濃国
 3)鎌倉時代の諏訪氏
 4)腐敗する京の朝廷
 5)諏訪上下社の所領
 6)古代諏訪郡とは?
 7)諏訪武士の誕生史
 8)禰津氏と山鹿郷
 9)塩原牧後の塩沢区
 10)埴原田小太郎行満
 11)藤沢氏
 12)千野氏
 13)上原氏
 14)矢崎氏
 15)桑原氏
 16)知久氏

1)平安時代末の信濃国の公領と荘園

 荘園制では
 本家(本所)→領家預所(あずかりどころ)→下司(げし)
 の支配体系があった。
 公領では
 知行国主国司目代在庁官人
 の体系があった。
 その領家と国司以上が中央貴族であり、最下層の下司と在庁官人に在地領主が任じられ、武士化する。平安末期の12世紀初頭以後の荘園制では、預所が本家に代わって下司公文(くもん)等の下級荘官を指揮し、年貢徴集や荘地の管理等にあたった。
 公領では、国司の私的な代官として目代が、任国に派遣され執務した。
 荘園の場合、それぞれが、本家職(しき)、領家職、預所職、下司職としての職務であると同時に、権利即ち得分(収益)を伴う行政単位としての公的地位でもあった。荘園内の土地は特定の者だけが、絶対的所有権を有する事はなく、本家、領家、預所、下司のみならず、その下には名主(みょうしゅ)、作人(さくにん)等、複数の重層的な権利が存在し、それに伴う多元的権力が集約されていた。
 また荘域内は、そこに生活する住人の生活の場でもあるから、「領域型荘園」と定義され、田畠のみならず、刈敷き等の生産財を養う山野と、補食生活を支える河海があり、杣(そま)住民や漁猟師の生業を支える広大な領域を有する荘園一円であると、認識されなければならない。

 信濃国は平安時代末、70余の荘園とそれに準ずる牧が存在していた。鎌倉時代の信濃国の郡の枠組みも、それと殆ど変わりがない。依然として、内部が公領と荘園に分かれている。『吾妻鏡』文治2(1186)年3月12日の条に、下総、信濃、越後3ヵ国の「年貢未済荘々注文」があり、それは源頼朝が朝廷より与えられた関東知行国の内、上記3国の年貢未済の荘園や牧への注文であった。この史料によって、諏訪郡に関わる記載をみると、平安時代から鎌倉時代初期の様子がみえてくる。

 3月12日 庚寅
 小中太光家使節として上洛す。これ左典厩(左馬寮の一条能保)の賢息(頼朝の甥)首服を加えしめ給うべきに依って(元服式をなされるから  また関東御知行の国々の内、乃(すなわち)具(詳細に記す)未済の庄々、家司等の注文を召し下しこれを下さる。催促を加え給うべきの由と。今日到来す。
(頼朝が支配する国で、年貢が未納の荘園等を、書き出した名簿が、今日到着した。官吏の人達に通知をして、催促をするようにと命じられた。)

   注進三箇国庄々の事(下総・信濃・越後等の国々の注文)
     合
  下総の国
   三崎庄(殿下御領)        大戸神崎(同)
   千田庄              玉造庄(三井寺領)
   匝嵯南庄(熊野領)        印東庄(成就寺領)
   白井庄(延暦寺領)        千葉庄(八條院御領)
   船橋御厨(院御領)        相馬御厨(同前)
   下河邊庄(八條院御領)      豊田庄(松岡庄と号す。按察使家領)
   橘並びに木内庄(二位大納言)   八幡
  信濃の国
   伊賀良庄(尊勝寺領)       伴野庄(上西門院御領)
   郡戸庄(殿下)          江儀遠山庄
   大河原鹿塩            諏訪南宮上下社(八條院領)
   同上下社領(白川郷)       小俣郷・熊井郷
   落原庄(殿下)          大吉祖庄(宗像少輔領)
   黒河内藤澤(庄号の字無きの由、今度尋ね捜すの処、新たに諏訪上下社領と為す。
         仍って国衙の進止に随わず)
   棒中村庄             棒北條庄
   洗馬庄(蓮華王院御領)      相原庄(相)
   麻績御厨(大神宮御領)      住吉庄(院御領)
   野原庄(同前)          前見庄(雅楽頭濟盆領)
   大穴庄(元左大弁師能領、近年忠清法師領)
   仁科御厨(太神宮御領)      小谷庄(八幡宮御領)
   石河庄(御室御領)        四宮庄南北(同前)
   布施本庄             布施御厨
   富都御厨             善光寺(三井寺領)
   顕光寺(天台山末寺)       若月庄(證菩提院領)
   太田庄(殿下御領)        小河庄(上西門院御領)
   丸栗庄(御室御領)        弘瀬庄(院御領)
   小曽禰庄(八條院御領)      市村庄(院御領)
   芋河庄(殿下御領)        青瀧寺
   安永勅旨             月林寺(天台末寺)
   今溝庄(松尾社領)        善光寺領(阿居・馬島・村山・吉野)
   天台山領小市           東條庄(八條院御領)
   保科御厨             橡原御庄(九條城興寺領)
   同加納屋代四箇村         浦野庄(日吉社領)
   莢多庄(殿下御領)        倉科庄(九條城興寺領)
   塩田庄(最勝光院領)       小泉庄(一條大納言家領)
   常田庄(八條院御領)       海野庄(殿下御領)
   依田庄(前の齋院御領)      穀倉院領
   佐久伴野庄(院御領)       千国庄(六條院)
   桑原余田(前の堀河源大納言家領) 大井庄(八條院御領)
   平野社領(今八幡宮領。浅間社・岡田郷)
  左馬寮領
   笠原御牧  宮所   平井弖  岡屋   平野   小野牧  大塩牧
   塩原    南内   北内   大野牧  大室牧  常磐牧  萩金井
   高井野牧  吉田牧  笠原牧(南條)   同北條  望月牧  新張牧
   塩河牧   菱野   長倉庄  塩野   桂井庄  緒鹿牧  多々利牧
   金倉井
  越後の国
   大槻庄(院御領)         福雄庄(上西門院御領)
   青海庄(高松院御領)       大面庄(鳥羽十一面堂領)
   小泉庄(新釈迦堂領、預所中御門大納言)
   豊田庄(東大寺)         白河庄(殿下御領)
   佐橋庄(六條院領、一條院女房右衛門佐の局の沙汰)
   奥山庄(殿下御領)        比角庄(穀倉院領)
   宇河庄(前の齋院御領、預所前の治部卿)
   大島庄(殿下御領)        白鳥庄(八條院御領)
   吉河庄(高松院御領)       石河庄(賀茂社領)
   加地庄(金剛院領、堀河大納言家の沙汰)
   於田庄(院御領、預所備中前司信忠)
   佐味庄(鳥羽十一面堂領、預所大宮大納言入道家)
   菅名庄(六條院領、預所讃岐判官代惟繁)
   波多岐庄             紙屋庄(殿下御領、預所播磨の局)
   弥彦庄(二位大納言家領)     志度野岐庄(二位大納言家領)
   天神庄(前の齋院御領)      中宮(上西門院御領、預所木工の頭殿)
  右注進件の如し

2)頼朝知行国信濃国

 頼朝の直轄領としての「関東御領」は、平家一門から没収した荘園所領500ヵ所余りがある。それ以外に関東御分国としての知行国を得ていた。
 知行国(ちぎょうこく)とは、院・公卿等の収入源として、古代・中世の日本において、特定の国の知行権を獲得し収益を得た制度、およびその国を指す。知行国は「沙汰国」「給国」ともいわれ、院・公卿等の年料給分的性格の「年給」であった。「年官」「年爵」からなる。この場合の「年」とは、1年間ではなく、「その歳」という意味である。
 知行国は、平安時代中期の院宮分国制を発端する。院宮分国制とは、年限を限って、院宮家(上皇・女院・皇后・中宮・東宮等)に特定国の国守、または受領を推薦する権利を与えるとともに、当該国から貢進される官物を院宮家が収納し、俸禄の代わりとする制度である。延喜8(908)年に宇多上皇のために信濃国が与えられ、10年後に更に武蔵国が与えられたのが最古の例といわれている。院宮家は、その除目の際、自らの側近や血縁者を国守・受領に任命することが通例で、その見返りの多さを期待した。
 「年爵」
とは、叙位の際、一定の人数分の叙爵を申請する権利が与えられることである。要するに、官位を希望する者に、その任官・叙任との引き換えに任料・叙料を得、その収入とした。
  11世紀から12世紀にかけて、この院宮分国制が有力貴族の間にも拡がった。その政治権力を背景として、有力貴族らが縁者や係累を特定の国の受領に任命することが徐々に慣例化していき、現地へ赴任した受領の俸料・得分を自らの経済的収益としたのである。最初は「掾」以下に限られていた。院宮家の場合は、「守」も対象であった。その「年給」の対象として、実入りのよい地方官が選ばれ、それが知行国制の始まりとなった。 院宮分国制と知行国制とは元来、異なる制度である。院宮分国制は国家公認の制度であり、院宮分国からの上進官物は院宮家の収入とすることができた。それに対し、知行国制は国家として公認されたものでなかったため、知行国からの上進官物は国家へ納付しなければならず、知行国主が獲得しえたのは受領の俸料・得分からの分配であった。それで、一つの国がある院宮家の分国であると同時に、ある貴族・寺社の知行国であるという状況もあり得たのである。
 国の上進官物は院宮家に納入され、受領の俸料・得分の一部が知行国主へ納入される。平安時代中期以後、院・女院(にょいん)に毎年受領一人が給せられた。これを「年分受領」といった。 院宮分国と知行国は、ともに11世紀後葉以降の院政期に急激に増加した。摂政・関白が同時に2 ?3か国を知行国とすることも珍しくなくなった。天養2(1145)年、摂政忠通は、備前・伊賀に加え石見国も知行国とした。弟頼長は「2代の政を摂し、3国の務を親しくす。朝恩身に余ると雖も、貪利(たんり)の名、後代に流るべきものか」と批評している。 また当初、有力貴族層を中心としていた知行国制だったが、12世紀後半から寺社知行国や武家知行国が行われるようになった。
 平安末期の平氏政権期には、30数か国が平氏一門の知行国になっている。12世紀終わりに鎌倉幕府政権が樹立すると、関東の9か国が鎌倉殿頼朝の知行国 として 関東御分国となった。その関東御分国は、将軍家が知行国主として、その軍事的実力によって実効支配し、一族や御家人を朝廷に推挙して国司に任じ、国衙領を支配するとともに、国衙領からの収入も得た。文治元(1185)年には9ヵ国に達したが、実朝の時代には4ヵ国に減少する。幕府成立当初は東国支配を誇示する、その意義があったが、幕府体制の安定に伴い役割が低下したためと見られる。幕府滅亡時まで御分国だったのは駿河・相模・武蔵・越後で、相模・武蔵の国司には執権・連署が任命され、実効支配していた。
  鎌倉時代には、知行国制が次第に公的な認知を得ていくとともに、知行国主が特定の知行国を代々継承していく知行国の固定化が見られるようになる。上記の関東御分国や東大寺知行国の周防などは知行国固定化の典型例だが、この他、一条家の土佐国や西園寺家の伊予国などの例がある。また本来、官物収得権は院宮家のみに認められていたが、知行国制が公的認知されるに伴って、知行国主が官物収得権を獲得する例も見られるようになった。 時の最大実力者となった頼朝の関東御分国・知行国はどうであったか? 元暦元(1184)年6月5日、頼朝は三河・駿河・武蔵の3国の国守に、弟源範頼ら3人が任命した。しかし範頼は、一族の義経・行家が粛清され、源氏の長者頼朝の宿命も理解していた。それで三河守の就任を断っていた。それでも源氏一族の主流を、頼朝自ら絶っていく。
 文治元(1185)年8月16日、伊豆、相模、上総、信濃、越後、伊予の6ヵ国の国主に頼朝の家人が任じられている。義経の伊予国以外は、頼朝の申請により、「吾妻鏡」では「皆、これ当時関東御分国なり。」としている。 「吾妻鏡」の翌文治2年3月13日の条に、頼朝の関東御分国は、武蔵、伊豆、相模、駿河、上総、下総、信濃、越後、豊後の9ヵ国となっている。その後、増減はあるが、信濃は終始、その知行国となっている。 その信濃の国司には、最初加々美遠光が信濃守に任じられている。その後も京都では国司の任命は続いていた。ただ国務には関与しえなかった。五節舞姫料等の一部得分は、在京国司に貢進された。建久元(1190)年2月22日、頼朝は知行国信濃等の造大神宮役夫工米の免除を申請している。信濃国は頼朝の知行国となると、比企能員がその目代となり、やがて守護も兼ねるようになる。同様な事例としては、美作国の梶原景時備中国の土肥実平等がいる。守護をして同時に国務に当たらせた。

3)鎌倉時代の諏訪氏

 頼朝の死後間もない頃、信濃国は建仁2(1202)年4月15日の除目で、左大臣藤原(九条)良経の知行国となった。藤原長兼が国務を執った。その後も知行国主は藤原(四条)隆衡藤原(滋野井)実宣藤原(冷泉)為家藤原(広橋)頼資(よりすけ)、源(唐橋)雅親源(久我)輔通興福寺等に転々と代わり、一家の世襲的所領ではなかった。しかし依然として国務の実権は、鎌倉幕府の目代と在庁官人が握っていた。
 信濃の国衙領が関東御領となり、やがて北条得宗家が守護家となり、その地頭職も占めるようになる。いわば広大な国衙領を、そのまま春近領として大所領のまま関東御領とし、やがて北条得宗家が信濃守護となる。頼朝は幕府を創建し武家政治を樹立するが、朝廷の律令制度を否定せず、寧ろ律令制下の国衙の権力をとり込み、その前提で新たな守護体制を布いた。「春近領」とは、鎌倉幕府の将軍家を本所とする関東御領の名称であり、信濃・近江・美濃・上野・越前・肥後等に広く分布する。鎌倉幕府の有力在庁が「春近」という名義を使って請負人となって設立した所領であることが、その名の由来である。春近領は、信濃国内には3ヵ所ある。それは、近府春近領(きんぷはるちかりょう;松本市)、伊那春近領(伊那市)、奥春近領(長野市)であった。近府春近領は、松本市、塩尻市、旧梓川村にわたる6郷である。伊那春近領は現在の伊那市から下伊那郡松川町に及ぶ天竜川沿いの広大な地域であった。
 建仁3(1203)年9月2日、信濃国守護比企能員が北条時政に謀殺された。 比企 能員(ひき よしかず)は、藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一族で、頼朝の乳母であった比企尼の甥で、後に養子となった。比企尼の縁から鎌倉幕府2代将軍源頼家の乳母父(養育係)となり、娘の若狭局頼家の側室となって嫡子一幡を産んだ事から権勢を強めた。能員の台頭を恐れた北条時政は、先手をうち比企能員の変(比企の乱)が起こす。
  建仁3(1203)年頼家が危篤となると、若狭局の生んだ長子・一幡(いちまん)の擁立をはかり、弟・千幡(実朝)を推す北条氏との対立が決定的になる。比企能員は北条氏追討の謀議を巡らす。それが事前に露見し、同年9月2日、仏像供養にかこつけて北条時政邸に招かれ、その時政の名越亭(大町の釈迦堂の切り通しの近く)で斬殺された。比企一族は、小御所と称する一幡の御所に立て籠もるが、政子が発する追討軍に攻め立てられ、やがて館に火を放ち一幡共々滅亡した。
 この乱では、信濃御家人の多くもまきこまれ粛清されている。建保元(1213)年2月、その2年前から、信濃御家人泉親衡等が頼家の子千手を奉じて、乱を起こす計画を練り同士を募ったが、それが発覚した。「張本130余人、伴類200人」に及ぶ組織で、その処分された関係者に和田義盛の子義直義重と甥の胤長等がいた。これが同年の和田合戦に繋がる。5月2日和田一族は蜂起するが、同族の三浦氏の同心が得られず、夕刻から翌日の薄暮まで続いた激しい戦闘は、実朝を担いだ北条義時方の勝利となった。この2度の争乱では、信濃では依然と比企一族に心寄せる勢力の存在が想定されるが、そのために当時の信濃国目代や在庁官人が、その地位を失うまでには至っていない。
  藤原(四条)隆衡が信濃国を知行国として、その弟隆仲が国務を預かっていた時代に、承久の乱が勃発した。今度は、信濃武士の大部分が、北条氏方に靡いた。乱後、公卿知行主や国衙公家方の支配力は、その権威とともに多いに減退した。藤原定家の日記「明月記」には「乱以降、隆仲卿の使者、検注に忠ならず、百町の郷、ただ麻布の類2、3段之を注す」とその無策を詰ってはいるが、武士階層は保元・平治の乱で、京都政権の無能を知り、承久の乱で自らの実力を再認識し、最早公卿の国内検注等は、その無為徒食のための単なる「たかり」とみられていた。しかし国衙領は未だ減少せず、ただその実効支配は北条得宗家や北条氏一族の守護が、その御内人一族とその家臣を在庁官人とし使い、或いは北条氏の地頭代として諏訪氏尾藤氏等が管理に当たっていた。尾藤氏はかつて高井郡中野牧の領主で、平治の乱では源義朝の家人として仕え、その敗戦で領地は没収されている。元々信濃であれば木曾義仲軍で活躍し、頼朝に属すのは諏訪氏同様、遅かったようだ。
 信濃武士の多くは、義仲軍に属し頼朝と敵対する立場となり、鎌倉幕府草創期には冷遇された。その後、北条氏が信濃守護となるにつれ、北条氏自身も有力家臣団が不在でもあり、信濃武士達も御家人としての展望が開けず、寧ろ北条得宗家御内人に活路を見出した。尾藤景綱は、和田合戦のころから北条泰時の側近として仕え、承久3(1221)年の承久の乱では泰時軍に属し上洛している。その後は北条得宗家の家令(内管領の前身)に就任して、諏訪盛重平盛綱ら御内人と共に北条家の重臣となった。泰時の次男・時実の乳母を景綱の妻がつとめていたが、時実が急死したために出家した。しかしその後も政務に励み、武蔵国太田荘の開発奉行等を歴任した。病となり平盛綱に家令職を譲った。これにより北条得宗家の家令・内管領職は平・長崎一族に移っていった。
 嘉禄2(1226)年11月4日、大納言藤原(滋野井)実宣は、重ねて信濃国を知行国として賜った。「実信(宣)卿斎宮分」とあり、その国衙領は実宣と斎宮とで折半していたようだ。その翌日藤原隆雅が信濃守に任ぜられた。隆雅は国務を、官掌(かじょう;官庁および諸設備の管理・整備などを司った)であった国兼という能吏に委任した。ところが国兼の使者は、2ヵ月ほど経って「存命の計なく帰洛する」。藤原隆雅は信濃守から、早々撤退せざるを得なかった。 信濃では国司など不要であった。「件の国は第一国司用をあてざる国。その故は鎌倉の近習の侍、夙(つと)に夜勤厚の輩2百人、かの国に居住し」、鎌倉に忠勤を励み、各々累代の地主として勢威を誇っていた。
 その翌年3月27日、藤原定家が信濃守に内定し、その日に大納言藤原実宣に200貫を送り、翌日100貫を追送した。ところが実宣は、それ以前に500貫の値で、少将定平を就任させようとした。ところが関白近衛家実が「その身すこぶる国務の仁にあらず。その力定めて叶ふべからず」と見識を示した。 藤原定家が信濃国の国務に就く際、「朝恩により、国務を預かるの由、消息を以て先づ武州(北条泰時)ならびに駿河(北条重時)に触れらるべし。」と忠告されている。要するに、信濃国では、在庁官人とは名ばかりで、国司や知行国主の頤使(いし)とはなりえず、寧ろ北条家の家人としての誇りを持っていた。信濃国の国務は、執権北条泰時及び守護重時に通知し、その意思を尊重し、その限界内で貢進物を徴収するだけであった。
 「明月記」には、安貞元(1227)年10月27日、千田郷の貢進物の到着を咎め、12月21日、干桑、梨、銭500貫文が届けられている。以後その記載がない。定家の投資は、おそらく失敗であったと思われる。
 信濃守護重時後、その子長時(6代執権)、その孫義宗と守護職は世襲された。その居館が鎌倉の「赤橋」近くにあったため、赤橋氏とも称された。現、鶴岡八幡宮境内源平池を横切るように作られている太鼓橋をさす。創建当時は木造で、朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれた。北条氏赤橋家の呼称はこの橋の名称に由来する。重時の3男、義政は文永10(1273)年に連署となり5年間務めた。建治3(1277)年に出家し、その地頭地、現在の上田市の塩田で隠棲し、以後50年を越え塩田北条氏とも呼ばれた。
 比企能員滅亡後、信濃守護職は北条義時が継いだ。承久の乱に際し、承久3(1222)年6月6日、義時は信濃の御家人市河六郎刑部に御教書を与えている。それは信濃守護職が担う、その管国御家人指揮官としての権限に基づく。また当時既に、守護職は世襲が慣習化され義時の3男重時が継いでいる。重時は幕府小侍所別当駿河守六波羅探題北方相模守幕府連署陸奥守等の重職を歴任したため、信濃には赴任せず、信濃守護代を派遣したとおもわれる。守護所は比企能員が目代兼守護であった時代、善光寺附近にあったが、南北朝の頃には善光寺郊外の平芝に移っている。 北信濃に特に多かった国衙領が、そのまま守護領に移っている関係から、当時も善光寺附近に国衙があり、守護所もその近くに設けられたとみられる。
 宮騒動(みやそうどう)が寛元4(1246)年5月に起きる。北条(名越;なごえ)光時が前将軍・藤原頼経と共謀して、5代執権北条時頼を討とうとした反乱未遂事件である。頼経の父九条道家評定衆千葉秀胤(ひでたね)も同心していた。幕府は前将軍頼経を京都へ追放し、光時を伊豆に流し、秀胤を上総に追いやった。この事件により、執権北条時頼の権力が確立され、北条得宗家の専制政治への道を開いた。
 宝治元(1247)年6月、宝治合戦が始まる。時頼が、3代執権北条泰時の女婿であった最有力御家人三浦泰村の一族を滅ぼした事件である。三浦氏の乱とも呼ばれる。乱後の7月、六波羅にいた北条重時を鎌倉に呼び戻して連署に任じた。重時は一門の長老格で、時頼よりも30歳近く年長であった。前年から時頼は、よき相談相手として、その就任を望んでいたが、三浦泰村の反対で実現できないでいた。こうして時頼は就任して1年余りで反対勢力を一掃し、専制体制を確立した。
  時頼の専制は、それまでの評定衆による評定から、自らの屋敷で「寄合」う小人数の会議で国政を評議する。それが 「内々沙汰」「深秘沙汰(しんぴさた)」として発せられた。寛元4(1246)年の宮騒動の政変の際、2度「深秘沙汰」が出された。その時の「寄合衆」は、北条一門から執権時頼、政村、実時の3名、御内人の諏訪盛重尾藤景氏2名、外様御家人安達義景、三浦泰村2名であった。得宗専制は、御内人の地位を、有力北条一族や御家人に比肩するまでに向上させた。
 御内頭人
(みうちとうにん)ともいう内管領として権勢をふるった平頼綱が永仁元(1293)年の平禅門の乱(へいぜんもんのらん)で、執権貞時に滅ぼされた後、北条宗方が一時期内管領の職務を行って「内執権」と称した。しかし後に、嘉元3(1305)年、嘉元の乱で宗方が討たれると、内管領に、平頼綱の一族である長崎高綱(円喜)が登用されて内管領制が復活する。高綱とその子高資は相次いで内管領に就任して、北条高時の時代には、得宗家をも凌駕する専制を布いた。
 
 上記の過程で、有力御内人である諏訪氏の鎌倉幕府内での権勢も高まった。やがて諏訪氏を中心に置く諏訪神党という諏訪明神の氏人(うじびと)を拠り所にする、同族意識を持った武士団が形成されていく。 彼ら神党に属する一族は「神」をもって本姓とする。諏訪・千野・藤沢・上原・矢島・禰津・有賀・知久・小坂・真志野・平出・保科・栗原・関谷・深沢・四宮・市河等、通称に「神」を加え「諏方神左衛門入道」のように、神党を誇示するようになると、滋野氏が「神経長」、望月氏が「神重直」と名乗り、「神」がその本姓となるに至った。 その「神」という姓を「シン」か「ミワ」と読むか定かではないが、その姓は鎌倉時代中頃から見られるようになり、その末期には大いにもち入れられる様になった。 室町時代初期には、足利幕府の奉行だった京都諏訪氏の手によるとみられる「前田本神氏系図」という神氏の系譜までも登場した。また北条氏が滅び、市河助房兄弟足利高氏の軍に加わった際、「神」と署名していた。ただ鎌倉出仕の諏訪氏が、除目等で本姓を表わす時「金刺」を称していることは、その出自を知る意味でも重要である。

   「尾花咲く 穂屋のめぐりの 一むらに しばし里ある 秋のみさ山

 正和元(1312)年に勅撰集として編まれた「玉葉和歌集」に撰ばれた大祝金刺盛久の一首である。諏訪大社による御射山祭のことを詠んでいる。しかも「金刺」を称している。

 「信濃国における北条氏守護領は、志久見郷(高井)、太田荘深田郷(以上水内)、船山郷四宮荘(以上更級)、小県荘塩田荘(以上小県)、伴野荘大井荘(以上佐久)、捧荘浅間郷(以上筑摩)、小井出二吉郷伊賀良荘伴野荘(以上伊那)、諏訪社領等であった。 鎌倉末期頃から信濃国衙領は、久我家の家領となった。久我家が本所職(しき)で、領家職、地頭職は守護一族や国人衆が有していた。それ以前でも、既に国衙領からは、国司検注を名目に、実際の検地を行う代わりに知行者から検注料を徴収していたに過ぎない。
  北条氏が東勝寺において一族郎党と共に最期を迎え、北条高時が自刃する際、隣に諏訪入道真性がいて、その次席に諏訪入道某がいて、共に果てている。他にも鎌倉在住の諏訪一族の主立つ者殆どが、東勝寺で殉死している。高時の次子亀寿丸を伴い信濃に逃れたのは、諏訪盛高である。そして亀寿丸・北条時行を擁立し、鎌倉に一時、北条氏再興の旗を起てたのは諏訪頼重である。そして足利尊氏に破れ、時行を逃さんとして、鎌倉の大御堂(おおみどう)・勝長寿院(しょうちょうじゅいん;鎌倉市雪ノ下4丁目で現存していない) で時行が死んだと見せかけるため、頼重はじめ諏訪一族は誰と見分けが付かないように、顔を切ったうえで腹を裂き自刃した。

 応永7(1400)年大塔合戦(おおとうがっせん)が信濃国に勃発する。大塔合戦とは、信濃守護職小笠原長秀と有力国人領主の連合軍(大文字一揆)との間で起きた善光寺平南部での合戦である。守護側が大敗し、以後も信濃国は中小の有力国人領主達が割拠する大乱の時代が続く。この戦乱以後、信濃国衙領は守護小笠原氏や村上氏国人衆の所領となり、国衙領の貢進は殆ど絶えた。

4)腐敗する京の朝廷

 後鳥羽上皇倒幕の挙兵に踏み切る契機は、承久元(1219)年正月27日、3代将軍・源実朝の暗殺といえる。その1ヵ月後、幕府は実朝の後継将軍として、後鳥羽の皇子の六条宮冷泉宮(れいぜいのみや)を鎌倉へ招聘する事を願い出た。2月の中頃、その政子の意向を呈して、政所執事の二階堂行光が京へ派遣された。これには幕府の宿老・御家人も連署の奏状を差し出している。幕府創成期の初代執権北条時政までも、元久2(1205)年7月に起こった将軍位をめぐる政変・牧氏事件(まきしじけん)で、晩節を汚している。幕府の有力御家人は、主家将軍家の継承を争うことの空しさを、充分認識していた。これ以上の、有力御家人間の争闘を鎮め、北条氏執権職を中心にした実務的武家政治の確立を希望したと考える。或いは、血統を同じくする2人の皇子が、京と鎌倉に並立し皇統を維持するにつれ、鎌倉幕府の天皇として自立させる意図があったかもしれない。  『吾妻鏡』1219年(承久元年)2月13日条に「寅の刻、信濃の前司行光上洛す。これ六條宮・冷泉宮両所の間、関東将軍として下向せしめ御うべきの由、禅定二位家(政子)申せしめ給うの使節なり。」とある。行光は信濃の国司であったようだ。おそらくは実務官僚としての「掾」か「目」、その下に史生(ししょう)等の職員に甘んじていたと思える。その行政能力により、鎌倉幕府で重用され政所執事となった。 しかし二階堂行光と朝廷との交渉は、難航した。
 3月初旬、内蔵頭(くらのかみ)藤原忠綱が、後鳥羽の使者として実朝の母政子を弔問した。その時、後鳥羽は余りにも非常識であった。弔問使は、後鳥羽の寵妾であった白拍子亀菊(しらびょうし・かめぎく)に与えられていた、摂津国長江と倉橋の2つの荘園の現地の地頭職の廃止を申し入れてきた。亀菊は伊賀局と呼ばれてはいたが、出身は淀川と神崎川との分岐点に栄えた江口・神崎の津の遊女であった。長江・倉橋荘は摂関家領の長江荘に近接し、淀川の河口に近くにあり、畿内と瀬戸内を結ぶ交通の要衝であった。また京に兵の動員をする際、重要となる津でもあった。後鳥羽は、その長江・倉橋荘の領家職に、遊女出身の亀菊を就任させた。後鳥羽の能力ほどが知られる。
 その一方、当地の地頭職は、その重要性に鑑み北条義時本人が当たっていた。その義時の現地の地頭代が、亀菊の意向に従わないので、地頭停止を要求してきたのである。義時は院宣であっても、頼朝から戦功として受けた恩賞であるから、地頭職を召し上げる事はできないと拒絶した。これは幕府存立の基盤である御家人保護の大原則である。幕府は義時時房泰時等北条一門と大江広元が評議し、15日、政子の使者として義時の弟時房が千騎を率い京へ向った。しかし後鳥羽は皇子の招聘を突っぱねた。結局、藤原兼実の孫道家の子で2歳の三寅(みとら;将軍・頼経)を将軍として鎌倉に迎えた。三寅は頼朝の妹が一条能保(よしやす)に嫁した事に始まる。三寅の母は、能保の娘が西園寺公経に嫁いで生んだ娘?子(りんし)である。三寅の東下に積極的であったのが、外祖父西園寺公経であった。父方は、九条兼実の息子良経が、その頼朝の妹のもう一人の娘と結婚したが、良経がそれとは別の道家と西園寺公経の娘とも妻帯し、三寅を生んだ。三寅は父方、母方双方から頼朝の血統と擬制され、将軍の地位を継ぐ正統性が認められた。
 鎌倉時代草創の源氏3代の時代は、幕府が国家全体を支配していたのではなく、寧ろ院政はそのまま継続され、朝廷が日本を支配し、天皇を頂点にした公家、寺社、武家等の諸権門が鼎立し、相互補完しながら中世国家を形成していた。幕府といえども、朝廷との交渉の結果、種々の権限と官職が与えられる。東国支配権、御家人を守護地頭に任用する権限征夷大将軍の官職、「諸国守護権」等、幕府は朝廷から様々な公権力を付与され、その権限の授与なくしては、政権を維持できなかった。

 承久3年5月15日、後鳥羽上皇は諸国に宛てて、北条義時追討の宣旨が出された。承久の乱の勃発である。その『承久討賊詔』には「義時は威光を発動して、天皇の法令を忘れている。これは謀反ということになる。」とある。しかし義時が「謀反」といわれても、挙兵もしていない。またその「法令違反」も明らかではない。ただ単に後鳥羽の愛人の希望を受け入れなかっただけである。
 建保3(1215)年5月、後鳥羽が三七日(さんしちにち)の逆修(ぎゃくしゅう)を行っている。三七日とは、人の死後、21日目に生前の邪淫の罪が裁かれるとして、その日に営む法要をいう。逆修とは生前に自分の死後の冥福を願って行う法要のことで、平安時代から盛んに行われている。極楽へ行くための生前に善行を積み、仏教的な寺や五輪塔の建立、仏や僧への供養、写経に励み、病人や貧しい人を救済する。この仏事も後鳥羽にとっては、単なる遊びであった。人々が後鳥羽に進物を捧げる最中、亀菊は当時入手困難な「種々の唐薬八枝」を贈っている。その珍奇な品が入手し得たのも、長江・倉橋荘が瀬戸内海を介しての重要な交易の要路であったためである。その入手のため、訳も分からず、領家としての権力を笠に、色々地下役人を酷使したのであろう。当地の地頭代もあきれ無視せざるをえなかったようだ。
 その周辺状況を鑑みず、前代未聞の「宣旨」が発せられたのである。 『承久記』は後鳥羽を「御腹悪しくて、少しでも御気色にたがう者をば、まのあたりに濫罪に行われる」と述べている。 これに対して、伊賀光季(みつすえ)や西園寺公経から上皇挙兵の急報が鎌倉へ発せられた。光季は北条義時の義兄にあたり、また父は幕府の重臣であったことから、幕臣として重用された。建暦2(1212)年、常陸国内に地頭職を与えられる。建保7(1219)年2月、大江親広と共に京都守護として赴任する。
 承久の乱では後鳥羽の招聘に応じなかった。光季は「職は警衛にあり、事あれば聞知すべし、未だ詔命を聴かず、今にして召す、臣惑わざるを得ず」と答えた。再び院宣すると、「面勅すべし、来れ」といった。「命を承けて敵に赴くは臣の分なれども、官闕に入るは臣の知る処にあらず」といって聞かなかった。このため、同年5月15日、後鳥羽は、伊賀光季邸に藤原秀康三浦胤義大江親広大内惟信(これのぶ)ら8百騎を差し向けた。対して光季方は手勢僅か31騎だった。 光季らは奮戦したが、結果は明白であった。光季は鎌倉へ逃げ戻ることも可能であったが、覚悟の上、子の光綱、郎党・贄田三郎(にえださぶろう)らとともに枕を並べて討ち死にした。これも後鳥羽が起こした悲劇であった。後に北条泰時は光季の故地を、遺子の季村に与えた。
 もう一人の京都守護大江親広は、大江広元の長男であるが、後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与し、同職の光季を討ち、その後近江国で幕府軍と戦ったが、敗れて京都に戻った。乱後は行方をくらましたが、出羽国に隠棲していたと言われている。
  「光季の使い」は15日午後8時早々に京を出発している。19日正午頃には鎌倉に到着している。幕府と親密な関東申次(かんとうもうしつぎ;幕府取次役)の「西園寺家の使い」は、同日午後2時頃に届いている。公経の使いが何時に出発したかは不明だが、密書中に光季の死が報じてある事から、光季の使者が、出立した後である。
 当時の東海道は整備されたとは言え、京、鎌倉間は徒歩で約16日、場合によっては数10日を要した。多くの大河には満足な橋が架かっていない。各駅には伝馬が用意されているが、早馬でも7日はかかるのが普通で、至急の場合でも5日を要した。だが中3日間で京から鎌倉まで走り着いている。21日には院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきた。
 幕府の対応は迅速を極めた。『吾妻鏡』には、「二品(北条政子)、家人らを廉下に招きいわく、『みな心を一にしてうけたまわるべし。これ最後のことばなり。故右大将軍(頼朝)、朝敵(平家や義経、奥州藤原氏をさす)を征罰し、関東(幕府)を草創してよりこのかた、その恩、既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ;海)よりも深し。報謝の志(感謝に報いる気持ち)浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族(やから;関東御家人)は、早く(藤原)秀康、(三浦)胤義ら(上皇方についた御家人)を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。ただし、院中(後鳥羽上皇の側)に参らんと欲するものは、ただいま申 し切るべし』群参の士ことごとく命に応じ、しばらく涙をうかべ、返報を申すことつぶさならず。」
 大江広元は迅速に兵を京に進めるべし、それも一刻を争うという。惑えば東国御家人の分裂を招くと。義時の子、後の3代執権泰時はわずか18騎で進発した。そして東国御家人の各家長宛に、上洛軍に一族郎党を率いて参軍する事を命じた。最終的には19万騎に膨れ上がった。これに対して、後鳥羽方は尾張・美濃と北陸道に兵を派遣したが、その兵力1万9,500騎と記されている。その上、後世の後醍醐天皇同様、当人は無能であり、更に戦略的軍師を欠き無策もあって、幕府軍は鎌倉を出て23日後の6月15日には京に入った。無人の野を行く進軍であった。
 この承久の乱後の6月15日、後鳥羽は「今度の合戦は叡慮に起こらず、謀臣らの申し行うところなり。今において申し請うに任せて宣下せらるべし」と院宣を公布する。余りにも厚顔無恥といえる。平氏、義仲、義経等を翻弄してきた後白河の無定見な院宣の濫発を模倣したのか? 以後京都朝廷は、政治責任を担える主体ではなく、寧ろその時々の都合ごとに豹変する無定見な存在であると、再度世人に痛感された。天皇の権威は、以後当代の勢力の権勢に依存する、単なる過去の権力に過ぎないと認識された。そのよい例が、天福2(1234)年5月、新日吉(いまひえ)の小五月会(こさつきえ)に出かけた四条天皇の帰路、武士達の車は天皇の一行を無視し、我先と急いて路上を走ったといわれている。
 承久の乱後の朝廷への処置として、幕府はそれまでの京都守護を改組し、朝廷の動きをいち早く掴むため、白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して六波羅探題を置く。そして乱で上京した泰時と時房を、引き続き六波羅の北と南に駐屯させ、西国の御家人の再編を命じ、朝廷の監視と尾張以西の諸国を統制させた。以後六波羅は独自の裁判機構を備え、小幕府として機能していく。また、その周辺には探題に仕える武士達の邸宅も置いた。また将軍上洛の際の御所も設けた。
 承久の乱の戦後処理として、後鳥羽上皇方に加担した公家・武士等の所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。その所領は3千余ヵ所といわれている。これらの多くは、それまで幕府の支配下になかった西国の荘園で、幕府の支配権が西国に拡大する契機となった。その再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれることになった。それを新補地頭と呼び、それ以前の本補地頭と区別した。

  大君の 命畏(みことかしこ)み 磯に触(ふ)り 海原渡る 父母を置きて
  大夫(ますらお)の 靫(ゆき)取り負ひて 出でて行けば 別れを惜しみ 嘆きけむ妻
  わが母の 袖持ち撫でて わが故に 泣きし心を 忘れえぬかも
 
 防人が、大化の改新の後の663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に敗れたことを機に、九州沿岸の防衛のため、軍防令が発せられて設置された。その東国の民のみが、蝦夷征伐兵として、文字通り消費され、中央政権に翻弄され幾多の悲劇を生む。しかし西国から征討軍が派遣されることはなかった。やがては平将門が東国の独立を期しながら敗北した。源義家ですら武家の棟梁と崇められながらも、後3年の役後は、事実上、白河法皇の掌の中で迷走し、義家はもとより嫡子義親を初めその子孫は困窮を極めた。しかし東国武士は、義家以来の武家の棟梁の再登場を待ち望んでいた。
  東国とは、何か?その範囲は時代と共に若干代わるが、本来的には信濃以東であることに変わりはない。寿永2(1183)年10月宣旨が下され、頼朝は東国支配を承認された。この時の東国は、信濃、上野、下野、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸13ヵ国であった。 文治5(1187)年、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼすと、その領有する陸奥・出羽の両国、現代の東北地方全域の支配権をも認め、東国は信濃以東の本州全域となり、幕府の直轄地ともいえる領域となった。
 承久の乱における幕府方の勝利は、武士の地位が向上させる画期となった。『源平盛衰記』(巻13)で、源3位入道頼政は、それまでの源氏武士の実情を語っている。
 「僅かに甲斐なき命ばかり生たれとも、国々の民百姓となし、所々に隠居して侍るか、国には目代に随い、荘にては預所に仕えて、公事雑役に駆り立てられ、夜も昼も安き事なし」
  『承久記』の古活字本によれば、「朝廷の大番のため侍達は、郎党眷属を率い上洛した。その任務が終わると精魂も尽き果て、蓑笠(みのかさ)を首にかけ、徒裸足(かちはだし)でようやく故郷に帰り着いた。それを頼朝が3年を6ヵ月に短縮し、それも侍の分限に応じて務めるように改めた」としている。
 慈光寺本によれば「内裏大番は、雨の日も晴れの日も庭に敷き皮をしいて詰め、3年間故郷や妻子を思い続けたのを、実朝が改めた」としている。
  乱後、幕府は後鳥羽の所領後高倉院に与えたが、その実権は幕府が握った。同時に反北条方の武士達が一掃され、幕府中枢部の結束が強化され、安定した政権運営が可能となった。対して天皇は、時々の政治勢力が、その都合で利用する「玉」に過ぎなくなった。 治承・寿永の内乱の際、目代・預所に抑圧されていた郡郷司や荘園下司達であった武士階層が、その荘域と近辺の荘園を制圧し、「押領(おうりょう)」しょうとした。各地でその紛争が絶えなかった。
 しかし鎌倉幕府は、全国軍事警察権を握り、御家人階層に支えながらも、荘園制という体制自体は変えようとしなかった。年貢や公事の収納等、日常的荘園支配には、朝廷や幕府は介入しなかった。その荘園個々で解決できない広域的紛争や事態に幕府の軍事力が動員された。幕府の支配は、日本全域を視野に入れた最初の民生的治安体制であり、その成果を受け荘園支配は、寧ろ安定した。しかし、本家、領家の権益は、強まる一方の守護、地頭の権力の膨張により、次第に有名無実化していった。

5)諏訪上下社の所領

 荘園では「八条院御領諏訪南宮上下社」があり、領有関係は本家が八条院暲子(しょうし) 、領家は八条院乳母の子で平頼盛の妻、在地領主が「諏訪南宮上下社」の両大祝で、1つの荘園であった。

その沿革は

 諏訪の地は、信濃国一宮、地方権門の諏訪神社として、律令制の下で神祇官の管轄下に置かれていた。大祝の祝( はふり)は、祝部に由来する神官を意味する。倭政権に奉仕する神職に就く祝部の長が、大祝(おおはふり) を称した。上下賀茂神社大神神社(おおみわじんじゃ)、住吉神社大山祇神社(おおやまづみじんじゃ )等でも、大祝を神官の長として戴いている。
 上下社領として大祝の神領も重層的支配となっていた。当初、平安時代のある段階までは、神祇官の所領であった。宮内庁書陵部に残る「神祇官年貢進社注進状」によれば、信濃国では官幣社・諏訪社だけが、布千反を官年貢として神祇官に納めていた。
 律令体制下、奈良時代の祭祀は、毎年2月の祈念祭天皇の即位時に、神祇官が登録する日本全国の「官社」を対象に、それらの神社の祝を神祇官の庭に集め、幣帛( へいはく)を班幣(はんぺい)した。それが官幣社の名の由来である。
 8世紀末、特に機外の「官社」が、神祇官の召集を無視するようになり、延暦17(798)年、「官社」の多くを、国司が国ごとに幣帛を分かつ国幣とした。それが国幣社の意味である。以後、神祇官が官幣する官幣社は、畿内社と畿外の一部有力社のみとなった。 「官幣社」「国幣社」を併せて「官社」と呼び、神祗官の延喜式神名帳に記載された。延喜式神名帳に記載のある神社を一般に「延喜式内社」または単に「式内社(しきないしゃ) 」と呼び、社格の一つとなり、当時朝廷から重要視された神社であることを示した。それ以外を「式外社( しきがいしゃ)」と呼んだ。
 延喜式によれば、「官幣社」の大社は、198社304座がある。四時祭の時には「?(あしぎぬ)・木綿(ゆう)・麻(お)・調布(みつぎのぬの)・曝布(さらしぬの)・紙、楯・槍鋒(ほこのさき)・弓等の武器、農具の鍬、鰒(あわび)・堅魚(かつお)、酒、塩等」が供えられたという。
 しかし神祇官は、その職務が限定されているため、当初の権力も失い官司も減少し、諸司領の経営を、維持できなかったようだ。平安末期、諏訪社領本家として八条院が現れる。『吾妻鏡』文治2(1186)年3月12日の書状によれば、諏訪社領は八条院領となっている。『久我家文書』には、その領家が八条院女房の孫・平頼盛の室に伝領されたとしている。その記録によれば文治2(1186)年には、諏訪南宮上下社領が八条院の御領とされている。
 八条院暲子(しょうし)は、その父・鳥羽法皇から保延6(1140)年12ヶ所を譲り受けて、八条院領が始まる。その後母・美福門院得子からも領地を譲られる。承久当時には220余ヶ所となっているが、安元2(1176)年当時は、104ヶ所にとどまっていた。信濃国八条院領も、東条荘(長野市旧松代町旧東条村)・捧荘(ささげそう;松本市笹賀)・大井荘(佐久郡)・常田荘(小県郡)の4ヶ所のみで、諏訪社は未だ、含まれていない。それから寿永3(1184年)年までに、八条院領となっているから、平家全盛期に、神祇官領から、その荘園に組み込まれたとみられる。
 平頼盛は、平清盛の弟で、その池殿と呼ばれる母親は、平治の乱(1159)の時、捕らわれた幼き源頼朝の命を清盛に嘆願して救った池禅尼(いけのぜんに)であった。その頼盛の妻が、八条院の乳母・宰相(さいしょう)であった。その縁で八条院を本家としていただき、頼盛の室が領家となり、その夫頼盛が管轄した。
 頼盛の室は村上源氏の源国房の娘父は法印寛雅で、母の代から八条院の乳母宰相で、母子2代にわたる八条院乳母宰相であった。
 頼朝は、平家滅亡後、池禅尼の恩に報いて、頼盛の領家職の継続を認めた。頼盛は平氏の都落ちの際、八条院の後見を頼り京に留まっていた。その後、頼朝を頼って鎌倉に向かい、領家支配の継続が認められた。その後信濃が京から遠い、もっと近く所領をの願いで、伊賀の六箇山と取り替えられた。以後、諏訪社領は頼朝の直轄支配となる。 この時期、諏訪社領の領家職を頼朝は保有したままであったようだ。諏訪氏はその地頭代が最初であったが、北条義時執権以降、得宗家の有力御内人となり、また諏訪社領が信濃守護領となり、義時の子・重時の赤橋家が相続していく、その過程で領家職となり地頭職に任じられたと考える。
 諏訪武士は、平治の乱に際しても源義朝に従っている。乱後、平清盛に敗れ源氏一族はことごとく姿を消し去った。諏訪氏は荘官として忍び、源氏の再起を待つ事ができたのか?それ以前に、古代の諏訪大社を支えてきた経済基盤は、何であったのか?
 『諏方大明神画詞』によれば、坂上田村麻呂蝦夷征伐に諏訪の騎馬兵士が大いに活躍していた時代、桓武天皇は「宣旨を下されて諏訪郡の田畠・山野各千町、毎年作稲八万四千束、彼神事要脚にあてをかる」として、諏訪郡内の作稲が、諏訪大社神事の用途に充てられる神郡(しんぐん)になったと記している。
 4月15日の大宮神事には、神郡領家の所役として「当郡の貢にあつる所也」と命じ、その際の流鏑馬10番も「郡内例郷の役」としている。諏訪郡の領家には、諏訪神社の神郡支配という特殊性から、貢納、賦役と様々な負担が課せられていた。
 諏訪社は官幣社として朝廷から奉幣料が支給され、その上、神田があったようだ。官幣社の奉幣料の『幣』は、『みてくら』と訓読みし、庶民が神に捧げる『幣』、即ち『へい』とは、根本的に違い、いわば『天皇自からの下し物』の意味である。 鎌倉時代初期の諏訪大社上社直轄領18ヵ所の名称と、その耕地面積と在家数を書き上げている『諏訪十郷日記』という貴重な史料がある。諏訪大社上社直轄領とはいえ、領本家は八條院暲子内親王である。「諏訪十郷日記」は高部の守矢早苗氏が蔵している。承久元(1219)年8月15日の日付がある。
 「諏訪十郷日記」の文書名から、諏訪郡は18ヵ所で10郷であったようだ。
その侭記すと  千野耕地15丁  田沢在家9軒  青柳在家4軒  矢崎耕地15丁在家42軒  栗林耕地?十丁、南方5軒半、北方9軒半、合15軒  上桑原耕地37丁大、在家16軒  神戸在家2軒合18軒(示唆に富むが意味不明)  下桑原耕地37丁大、在家11軒半(半とは、1軒と数えるのに値しないという意味?)   福嶋耕地20丁  金子耕地30丁在家20軒  大熊耕地28町在家20軒  真志野耕地48丁2軒他増  有賀耕地14丁  小坂耕地30丁在家27軒  平井弖耕地42丁  宮所耕地80丁  座光寺耕地48丁 となり、 「諏訪十郷日記」の耕地の合計は437町、在家は207軒となる。

 一般に立荘に際して、荘内の耕地・在家・林(桑・栗)、原野、河成(かわなり)等を調査する立券検注が実施され、これにより領主権の範囲が決められ、荘園の4至を確定したという。その調査は通常、預所代が京から派遣された実検使や地頭に任命された公文とともに行われる。その過程で、田地は一筆ごとに帳簿に記載され、その面積と耕作責任者が把握される。続いて年貢公事の負担量が決められ、その結果が実検取帳(とりちょう)にまとめられ、「読合(よみあい)」の場で、百姓等の前で読み上げられ、内容が確定する。その収取のための組織が編成され、それは次の正検まで原則として維持される。
 総田数から不作・河成の他、神田(しんでん;かんだ)・寺田(じでん;てらだ)・(つくだ)・給田(地頭給と公文給)等の年貢が免除される給免田となる除田を明らかにし、係争中であれば同じく除田として除き、その残りが年貢を賦課される定田とされた。佃とは、荘園内における領家・領主・荘官・地頭の直接経営地で、領主らは種子・農具等を負担し、下人や荘園内の百姓に耕作させて、すべての収穫物を取得した。
 定田は名田(みょうでん)と一色田(いつしきでん)とに分けられた。名田には公事が賦課された。一色田は年貢のみ負担するが、その一部は名主(みようしゆう)となる者達に、その経営規模に応じて与えられ、それ以外を多数の小百姓に分け与えられた。
 名主達は代々領主・地頭等の圧迫に耐えてきた階層であった。いずれも1町から3町にまで及ぶ田地と私有地的畠地を有し、その耕作を主に家族労働でこなし、時には屋敷内に住まわせていた親類・下人や小百姓に下作させていた。経営が安定している名主達は、村落を指導し、名田の各々に課せられた年貢や公事負担の責任を担い、名内の田地の管理を負わされ、小百姓等の田地の割当も任された。事実上、名主は下級荘官的地位で、郷内の百姓を家人のように公事以外の私事に使い、時にはその農地を没収したりする専横の記録も残っている。
 また百姓等の田畠に対する所有権は「作手(つくりて)」と称され、12世紀前半から定田が百姓名で編成されていく。さらに荘園と公領の地頭領内では、最下層ともいえる下人がいた。時には所従(しょじゆう)とも呼ばれる。地頭、名主、百姓のいずれも下人を従え、その上層ほど下人の数は増える。鎌倉幕府は「奴婢・雑人」と呼び、古代と違い、その売買を禁じている。しかし現代に残る中世の譲状(ゆずりじょう)には、家財道具類とならん譲渡の事例が多い。 律令制では、男女の奴婢の主人が別々であれば、その子は家畜同様、母親の主人が権利者となった。『御成敗式目』では、それを敢えて変え、子が男子であれば父親の主人が、女子であれば母親のそれが権利を得ている。
 諏訪社も、平安時代後期には年貢が免除される給免田としての神田を領有していたようだ。それが諏訪郡神戸郷の言われて考える。宝治3(1249)年の「大祝信重解状」に「延久年中之比、新券を以て上下に四至の境を立た」とある。延久年間は1069年~1074年である。その後三条院の時代、全国の大社でも、社領の4至が決められた事例がみられる。諏訪社でも、境内や門前はもとより周辺の田畠・河原敷き・森林・原野等を伴う社領の確定がなされ、平安時代後期の11世紀後半から、地方権門として武士化する素地が整えられていったようだ。 中世は11世紀半ばのこの時期に始まる。この時代前後から、依然として朝廷の下風に靡きながらも、武士階層の優位性が増し、経済的にも自立していく。在地領主化した武士階層の所領を含め、荘園が全国的に展開するのが11世紀末以降である。
 近年、世界中で温暖化により危機が叫ばれているが、地球規模の温暖化現象は、人類の歴史上幾たびも経験している。約6,000年前にピークを迎える温暖化現象・縄文海進以降、寒冷地の信州は縄文時代の最盛期を迎えた。その後寒冷化が進むと、異常なほど人口が減少し、諏訪地方では遂にその晩期に、ほぼ無人化する。
 11世紀後半以降、地球規模で海水面が温暖化で上昇し、1100年ごろの中世に温暖化の絶頂期となる。当時、在地武士化した諏訪一族は、稲作その他の作物の生産に恵まれたと考えられる。その大いなる流れに添うように、11世紀後半、寒冷地東北地方にも荘園化が進む。12世紀初頭には、陸奥国、出羽国では藤原氏摂関家「富家殿(ふけどの)」忠実の蜷川(にながわ)荘・高鞍(たかくら)荘等の諸荘園がひしめくようになる。
 奥州の前9年の役(天喜4<1056>年~庚平5<1062>年)も、冷静に考えれば、中世初頭のこの時期の源頼義にしても、長期の軍役の兵糧を賄えきれた背景があった。。大祝為信は、現人神であるから自ら出陣は出来ないので、子の為仲を総大将として神長守矢守真茅野敦貞等を従わせ出陣させている。この長期間の遠征にも耐えられる経済基盤が、武士階層に、既に形成されていたと言える。
 なお、諏訪信重は承久の乱(1221)の際、軍の検見(けみ)に遠山景朝伊具右馬允入道(いぐうまのじょうにゅうどう)と共に任じられている。その後嘉禎4(1238)年に上社大祝となり、間もなく信濃権守となっている。

6)古代諏訪郡とは?

 諏訪郡は、平安時代の承平年中(931~937)に源順(みなもとのしたごう)が撰述した『倭名類聚抄』によると、土武(土無;下諏訪町富部)、桑原(上諏訪上・下桑原)、神戸(上社から四賀村)、山鹿(豊平村)、佐補(佐布;上伊那郡中箕輪村)、美和(上伊那郡高遠町)、弖良(てら;上伊那郡手良村)の7郷と記されている。古代諏訪郡は、現代の上伊那郡をも含み、駒ケ根市と宮田村の堺に架かる太田切橋の下を流れる太田切川まで及んでいた。 すると「諏訪十郷」とは、かつての桑原郷(上諏訪上・下桑原)、神戸郷(上社から四賀村)を合わせ、更に平井弖(上伊那郡辰野町平出;有賀峠を辰野に向って越えた上野と沢底の中間)から宮所(上伊那郡辰野町伊那富;桑沢山2k北)までの、ほぼ現在の辰野町一帯になる。
 また座光寺耕地48丁を、下伊那郡座光寺とすれば、諏訪氏の一族で、神氏の一党が信濃国伊那郡下条に住し、後に同郡座光寺村に移り座光寺氏を称した、その関係での飛び地であろうか。諏訪神が軍神として武士に広く信仰されると、諏訪大社の分社が信濃国外にも勧請されるようになる。その分社の維持管理のため各地の郷や村に「諏訪神田」と呼ばれる田畠が寄進されるようになると、諏訪本社にも直接寄進されたり、諏訪神への貢納として「御贄(みにえ)」が輸送され、或いはその「神物」が銭に換算され納入されて来たりした。信濃内はもとより全国の諏訪神田からの貢納であるから、諏訪大社の経済基盤は膨大といえた。島津本宗家も鎌倉末期まで、諏訪社を薩摩国に勧請していた。そして諏訪本社の「諏訪神田」は、地場の領主がそのまま管理する「給主管理地(きゆうしゆかんりち)」と本社の「祝」が支配する「神主管理地」とがあった。座光寺耕地48丁は、その「神主管理地」に由来するのだろうか?
  諏訪大社下社領左馬寮領岡屋(岡谷市三沢・新倉の川岸方面)、平野(岡谷市今井、間下)、萩金井のかつての御牧があった所と考える。平野は岡屋牧が川岸方面へ移転する前の旧地と考える。萩金井は諏訪郡下諏訪町萩倉牧に比定できる。萩倉牧(下諏訪町)の所在地は、現在の砥川上流の萩倉部落ではない。現在の萩倉は宝永年間に、下の原居住の藩士・馬場喜惣次の見立てにより、東俣の地に開発された新田である。新田部落の名称は、開墾地の地名を付けるのが通常であるが、元村の地名を付けることもあったようだ。諏訪では、瀬沢新田、駒沢新田、小川新田、角間新田などがその例である。古くは、萩倉部落は東俣新田と呼ばれていたが、萩倉新田ともいわれていた。かつて萩倉の人々は東山田の小野田に住んでいたが、新田開発に際して居を東俣へ移した。萩倉牧の故地は東山田の小野田が、それに該当する。現在の下諏訪北小学校の周辺域にあった。砥川の右岸と福沢川の左岸にあてはまる地が牧の中心で、傾斜が緩く広大な丘陵は、日照時間も長く牧には最適であったようだ。現在でも、小野田には荻窪、馬飼場の地名が残っている。 萩倉牧も岡屋牧同様、平安時代末期には左馬寮領として荘園化した。御牧の時代、その牧長には金刺大祝か、その一族が任じられたと考えられる。荘園化するに当たり、荘官としてその地位は保障され、やがて在地領主化した。
 また「南宮上下社」領として、筑摩郡白川(松本市寿豊丘;ことぶきとよおか;白川)郷の記載がある。松本市白川を中心とした村落で、坂東平氏の平良文系・秩父武基の孫忠兼が入部して白河氏を名乗った。秩父氏の後裔が畠山氏を名乗り、畠山重忠もその一族である。秩父氏は秩父から入間川(荒川)を通じて、東京湾に至る川筋に勢力を伸ばし、河越の河越氏を初め、豊島氏江戸氏等の名族となっている。その秩父氏一族は関東から松本に進出し、その周辺の小池赤木吉田白姫等にも勢力を広げている。諏訪氏は、尾藤長崎(平)、安東(あんどう)氏と並ぶ、北条得宗御内人の草分け的存在であったための措置であろうか? 領本家は八條院暲子内親王で、その経緯は不明だが、寛元4(1246)年、筑摩郡白川(白河)郷が「上下社」領から上社領となり、4代将軍頼経により藤原惟家が地頭に任じられている。おそらくは、この地も「神主管理地」に由来するものと考える。中世白川郷内に6町4段の「諏訪神田」があり、大祝歴代の即位の際、1反につき200文の田銭を装束料として貢納している。その在地領主権を天応元(1329)年には白河十郎有忠が相続しているので、秩父氏の支配は継続している。
 「黒河内藤沢」領については、「庄号の字無きの由、今度尋ね捜すの処、新たに諏訪上下社領と為す。仍って国衙の進止(支配)に随わず」とある。平安時代から鎌倉時代に掛けては、「黒河内藤沢」領は諏訪上社領の文字通りの直轄地で、神祇官、左馬寮、八條院等は荘園領本家として、権益を有してはいなかったようだ。
 諏訪社領とは、諏訪本社の所領で、その郷村総てが寄進される代わりに、年貢や御狩役、造営役などの公事の所役が課せられた。諏訪大社前宮から杖突峠を越えて山間地に入ると、最初の郷村・藤沢(伊那市高遠町藤沢)がある、そこから黒河内(くろごうち;伊那市長谷黒河内)、鹿塩(かしお;下伊那郡大鹿村)、大河原(下伊那郡大鹿村)へと、今の秋葉街道の山道にそって分布する山村総てが社領であったとみてよいと思う。鹿塩、大河原共に「庄号の字無きの由」の呈である。この街道は、諏訪から遠江・東海に通じる要路で、鷹匠や猟師等の山の民が早くから開発してきた山間地である。
 一条天皇の時代道隆・道長兄弟が権勢を極め藤原氏が最盛期に達し、一方、清少納言紫式部和泉式部らによって平安女流文学が花開いた頃である。現在、非持(ひじ)から黒河内まで現在美和ダムとなっているが、その渓谷の一画、非持郷のことが、『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に取上げられている。一条天皇の時、大番役で京に上っていた鷹匠・豊平の知恵で、社領の検校(寺院領や荘園の事務の監督役)であった豊平の地位が安堵されている。非持郷も早くから開かれた山間部で、鷹狩りの技術に優れた山人達が居住し、大番役として京に出仕していた。そして諏訪神氏一族の藤沢氏が、文治2(1186)年には藤沢から黒河内を所領としていたようだ。
 摂関期、受領の徴税権が強化された。それにより藤原道隆・道長兄弟達は、受領や受領を切望する階層による献身的な奉仕で、その王朝文化の栄華を築いた。そのため一度、受領となると、公領の民に過酷な収奪を繰り返した。民は搾取的徴税を逃れる最後の手段として、かつての山林や荒野を積極的に開発してきた寺社の荘園や富裕層の私営田に逃れた。そのため公領の多くは、耕作民の逃散で荒廃した。
 荒田化する公領の復興を図り、大名田堵小名田堵達に、賦課の免除等の優遇策を講じ、開作を奨励し荘園化の流れをくい止めようとした。その開作地の田畑と農民は、国衙直属であったが、租税賦課を優遇され、従来の郡、郷とは、別枠とされ別名と呼ばれた。それは特別の国司免符(別府)に基づくため別府ともいわれた。「黒河内藤沢」の諏訪上下領は、この別府であったとみられる。それで「国衙の進止(支配)に随わず」と誤解されたようだ。
 『吾妻鏡』 によると、文治2(1186)年、頼朝は藤沢と黒河内の領有に関し「件両郷は、諏訪大明神にご寄進」とある。 ところが当時、藤沢と黒河内は、諏訪氏支流・千野光親の後裔で神氏一族の藤沢余一盛景の知行地であった。文治2年、後白河法皇から頼朝に信濃国内の荘園に年貢未納が多く、その督促の依頼があった。その注文に載る盛景知行地「黒河内藤沢」領に「荘」の字がない、公領ではないかと調査したが、頼朝が「諏訪大明神」に寄進と断を下し、諏訪上下社領とされてしまった。 この突然の下知に藤沢盛景は驚愕し怒り狂ったであろう。しかし鎌倉幕府創立途上の頼朝に逆らえない。新たな武家政権を東国に樹立しょうとする頼朝にとって、在地の論理は通用もしない。
 この年、盛景は恒例の御狩役と諏訪社拝殿の造営役の負担をしなかった。精一杯の抗議であった。諏訪大社大祝が頼朝に盛景を訴えた。頼朝の怒りは激しく、処断は所領没収であった。予想外の厳しさに大祝も慌てて、「これほどの処罰は、却って神の意思に副いません。盛景を許し諏訪社への御狩や造営の賦役を早急に果たすよう命じて下さい。」と願い出た。頼朝は大祝の意を汲み下文で「恒例之御狩と拝殿造営をつとめること先例」、「大明神は、神主大祝の下知を以て御宣事(おのつとのこと)となすなり」と、大祝の命に従い御狩や造営に奉仕するよう御家人に命じた。
  鎌倉時代後期、無住道暁が編纂した仏教説話集『沙石集(しゃせきしゅう)』に、「信州の諏方、下野の宇都の宮、狩を宗として鹿・鳥なんどをたむくる」と述べられている。諏訪神社と狩猟の関係は古く、藤原京出土の木簡に伊那評から大贄として鹿が貢進されている。金刺舎人氏が国造として郡規模の狩猟を行い、その鹿肉を貢進したようだ。 諏訪神社では、古代から現代にいたるまで、神物の贄として鹿の肉を捧げ、そのための狩猟を御贄狩(みにえがり)と呼んでいる。宝治3(1249)年、「大祝信重解状」に「信州諏方明神は、日本第一の軍神、辺域無二の霊社なり」とある。諏訪神は諏訪武士の台頭に伴い軍神としての性格を強め、神事も武技訓練に繋がる生贄を獲得する狩猟を祭事化していく。軍神はまた狩猟の神でもあった。 さらに「大祝信重解状」によれば、 五月会御作田(みさくだ)、御射山秋庵(あきいほ)の4度の御狩神事は、坂上田村麻呂が大明神の託宣を得て設置したと伝えている。特に五月会は信州第一の大営神事で、桓武天皇の宣下より始まり定例化した国家行事として重視していた。信重が大祝の鎌倉中期には、そう信じられていた。
 
 五月会頭役(さつきえとうやく)は、5月2日~4日迄の五月会御狩に奉仕する。2日の「御狩押立神事(おしたてしんじ)」には、鷹羽の矢を差し込む靫(うつぼ)を背負い乗馬する大祝に、5官祝(ごかんはうり)、神使(おこう)、 その他多数の神官が仕えるが、諏訪社4度の御狩は、信濃の国侍とって、それに参加できる資格は、寧ろ特権であり、その御家人の家格を端的に証明する格付けともなった。五官の内訳上社では、神長官禰宜太夫(ねぎだゆう)・権祝(ごんのはうり)・擬祝(ぎはうり)・副祝(そえのはうり)で、下社では武居祝(たけいはうり)・禰宜太夫権祝擬祝副祝と呼ぶ。
 五月会御射山祭では、祭礼に先立って諏訪大明神に捧げる御贄としての鹿を狩猟する。5月5日の五月会では、5月2日に「御狩押立神事」が行われる。2流の旗を掲げ、まず5官の祝を先頭に、神使6人、神官70余人、引き馬数十疋、そして大祝氏子数百人の騎馬行列、最後に雑色、僮僕(どうぼく)等の歩行行列が従い、前宮を出発し宮川を渡る。頭役3人が迎える酒室社(茅野市坂室)の社前に到着すると、力者2人が瓢(ひさご)と引目(ひきめ;大形の鏑矢;かぶらや)を持って現れる。対面の礼が行われる。その後長峰山に登って狩集会(かりつどい)をする。 ここで靫(うつぼ)を付け弓を持って、2流の旗に従い、それぞれ2手に分かれる。狩人は散開し台弖良山(でいてらやま)と言われる大泉山小泉山に鹿を追いたてながら射る。犬で狩り立てる者鷹を使う者もいたようだ。5月4日までの3日間、数百騎が参加したという。参加した武士は八ヶ岳山中で野宿したり、近辺の武士は、一旦は家に帰る者もいたようだ。
 御作田御狩は小の月では6月26日、大の月は27日から3日間、八ヶ岳山麓豊平御作田から「御作田狩押立(みさくだかりおしたて)」が行われ、原村秋尾沢にかけて狩猟が始まる。その狩猟が終わる晦日に、御作田藤島社前で田植祭が行われる。頭役はなく諏訪神社主催の地元氏子等の狩猟祭であり、田植祭の神供(じんぐ)のための御贄の狩猟であった。田植後30日すると熟稲となり、8月1日の「憑神事(たのみしんじ)」で奉納される。それは新米を大祝が食する「新嘗」の神事といえる。
 御射山御狩は、中世、御射山社のある通称原山の一帯は禁野とされ神野と呼ばれ諏訪上社の社領で、上社の御射山御狩の祭事が行われていた。古代国衙領であったころから武芸練磨を口実に山林原野を狩場とする狩猟特権が認められていた。それが神事となったとみる。江戸時代初期から農耕地化されると、秋季の台風等が平穏に過ぎ、五穀が豊かに稔るように祈願する、台風や暴風を鎮撫する「風の祝」を祀るの農耕神事ともなった。それが8月1日の「憑神事」へとつながる。 祭事は旧暦の7月26日から30日まで4泊5日間にわたり、ススキの尾花で作られる穂屋(ほや)を造営して大祝・神長官をはじめ多数の神官や武士等が泊り込み、狩りの獲物を神供し、豊作を祈願し、また流鏑馬等の武技を競った。
 神事用の穂屋は諏訪十郷高遠外県(とあがた)の賦役奉仕であった。外県は「外諏訪郡(そとすわぐん)」 と呼ばれ古代まで、伊那郡大田切川が郡境であった。伊那郡手良八乙女(やおとめ;箕輪町中箕輪八乙女)、金原(箕輪町中箕輪上古田)等で、神使(おこう)の巡回路でもあった。祭事は鎌倉時代以降、内容の変化や戦乱等による一時的な中断はあったものの、数百年間にわたって継承された。盛時には諸国から貴賎、伎芸人、乞食、非人等の参詣人が、施行に際しすき間がないほど群集し、その警備に武装して武士が当たったという。明治以降には庶民の民族的信仰と結びついて幼児の健康祈願も行われるようになり、一般的に「原山様」とよばれ、昭和初期までは草競馬や露天商も加わり賑やかな祭りであった。 しかし広大な神域も、明治中期の下原山入会地の分割によって10ヘクタールほどに縮小され、更に太平洋戦争中の開墾と戦後の農地解放によって半減した。
 御射山神戸村は古くからこの祭事の賦役を受け継ぎ、集落から社までの参道には年輪を重ねた松並木が続いていた。それが今では300mほどに残る老松が往時をしのばせている。
 秋庵御狩諏訪十郷が交代で祭祀に当たっていたが、延宝年間(1673年~1680 年)に開拓が始まった室内新田創立以後は原村室内区の氏神として祭祀が行われている。 庵御狩神事も諏訪大社年4度の御狩神事の一つとして、9月下旬、日不定の巳・亥日より3日間行われたが、現在では8月26日から3日間にわたる御射山御狩祭の中で行われ、第1日目の上り祭として諏訪大社上社の神職によって執り行われ、御射山神社祭事の一つと位置付けられている。天地開闢の際に出現した神・国之常立神(くにのとこたちのかみ)の御輿が、当日の朝諏訪大社上社を出発し、原村室内の闢廬社(あきほしゃ)に立ち寄り神事を行う。社の表示は諏訪神長官守屋文書によると、秋尾、秋庵、秋穂、闢庵、闢廬等いろいろである。また闢廬社の歴史は古く、同文書によると嘉禎(かてい)4年(1248)9月申日、秋尾御狩神事が行われたことが記されている。
 鎌倉時代の盛時には、大祝以下闢廬社に登り3日間宿泊した。秋庵は「御庵(みいほり)」、「大御庵(おおみよ)」とも呼ばれ、大祝が祭事の際に使う円形の宿泊所であった。神殿、御厩等の造作と合わせて諏訪10郷の賦役であった。御庵の周囲には庭火が焚かれ、饗膳には餅、酒、馬草、粟、稲を大盛りにする。 3日目早朝より、神野で鹿の巻狩をする。諏訪円忠の『諏訪大明神画詞』はその光景を「山麓の紅葉は風に散り、山路の霜に打たれて紫菊は秋風が濃い風情をみせている」と記している。  下山の日は、寅・申日で、国司の使者も本社に参向する。 国司代官と在庁官人を率いて祭使官幣を捧げた。

 諏訪大社の御狩は豊作祈願の御贄を獲るための狩猟でもあった。諏訪大社上社の頭役は年間4度ある。信濃国の地頭、御家人が頭役に当たるのは花会頭五月会頭御射山であった。諏訪神社における花会は、上下社への真言宗、天台宗の影響で、両社は神宮寺を建立し、釈迦の誕生を祝う花祭をおこなった。室町幕府創立時の雑訴決断所寄人(よりうど)諏訪円忠は、夢窓国師を開山とする信濃安国寺を貞和元年(1345)、諏訪宮川に建立するのに貢献した。この頃に花会の頭役勤仕体制が整った。足利尊氏も頭役制度により、信濃国武士団の統制を意図したようだ。
 頭役の神役負担金について、15世紀の室町時代までは莫大であったが、16世紀末には減少していく。 『画詞』は頭役の負担を「一生の財産をなぐ」とまで述べている。『諏方上社物忌令之事』には御頭役の精進潔斎に厳しい定めあり、頭役の 郷内を清浄にし、郷境4ヵ所に境締めを立て、原始自然神のミシャグジを降臨させ、悪霊の侵入を防がせている。 しかしその代償として、数々の特権を与えている。「新任国司の初任検注免除」、「鎌倉番役免除」、「鷹狩の公認」、「御頭役の罪科免除」等である。
 「鷹狩の公認」とは『吾妻鏡』二十、8月19日の条に、建暦2(1212)年、全国の守護、地頭等に鷹狩を禁止している。「但於信濃国諏方大明神御贄鷹者被免之由云々」と、諏訪大明神の御贄の鷹狩は平安時代以来の例として公認されている。
 「御頭役の罪科免除」の例として『画詞』縁起第5に、硫黄島に流された御家人が御射山祭の酒室頭役となった。一族は先規通りの罪科免除を愁訴した。その結果、早舟をし立てて帰還させている。

7)諏訪武士の誕生史

 10世紀中頃、租税徴収・軍事警察等の分野で、中央政府から現地赴任する筆頭国司へ大幅な権限委譲が行われた。任国支配に大きな権限を有する国司の最高官・受領が登場する。国内に自らの行政権をあまねく及ぼすため、行政機能の強化を目的として、国衙政所(留守所;文書管理のみならず行政全般の指揮命令、訴訟、財政等の実務機関)・田所(たどころ;田地の調査を司る)・税所(さいしょ;徴税実務を行う)・馬所(駅馬と国衙用の馬を管理)・細工所(職人技能者を支配)・健児所検非違使所等の受領直属機関の政庁・「(ところ)」を設置した。「所」の目代(もくだい)には、京下りの受領の子弟郎等を当て、その下に実務官僚として職員・雑色人(ぞうしきにん)を置く。その下級職員に現地の富豪層・田堵負名在庁官人として採用され、地方行政の実務にあたるようになる。このような状況は10世紀後半から11世紀にかけて顕著となっていき、国司4等官制は実体を失い、受領と私的関係がない任用の「掾(じょう)」「目(さかん)」は、在京して俸給を受けるだけとなる。以後受領主体の国内体制が確立する。
 受領が宿舎とする館や国庁を警護する館侍(たちさむらい)がいた。また国一宮の神事や軍事訓練に国内の有力武士団の動員は不可欠で、有力国侍(くにさむらい)の国衙登録がなされていく。公地公民の律令制度は、未だ基本法として有効であり、未開の地は、総て国衙領であるから、武士団の武芸練磨のため山林原野を狩場とする狩猟特権を認めた。諏訪上社では神野の地・原山であり、下社では霧ヶ峰の旧御射山であった。それが御贄狩として諏訪大社の御狩神事に繋がっていき、大祝一族を諏訪武士として成長させた。
 『前田家本神氏系図』によれば、桓武天皇の御子・有員から14代後諏訪頼信の時代から、系図的に明らかになる。頼信の子為信から次の為仲に継がれ、為仲から弟為貞に移って世襲となった。この為貞の嫡流である3男・諏訪敦家は鷹上手であったらしく検校に名を留め、長男貞方が大祝となる。この諏訪貞方の嫡流が大祝貞光であり、禰津貞直の猶父となる。
 奥州の前9年の役(天喜4<1056>年~庚平5<1062>年)に際し、大祝為信は、現.人神であるから自ら戦塵にまみれる事が出来ないので、子の為仲を総大将として神長守矢守真茅野敦貞等を従わせ出陣させている。この長期間の戦闘に参軍している事により、諏訪氏が既に在地領主として武士化し、経済的な基盤も確立していたとみられる。
 前九年の役以来、諏訪為仲は源義家と親交が厚くなり、後三年の役に際しても、奥州で苦戦の義家はその援軍を依頼してきた。当時為仲は為信を継いで大祝になっていた。古代から「大祝は現人神、人馬の血肉(ちにく)に触れず、況や他国をや」の厳しい“神誓”があって、諏訪の地を離れられなかった。しかし義家の下で戦いたいとの決意は固く、父・為信はじめ神使(おこう)一族や氏人の反対を退け、再度奥州に出陣した。この戦いで、為仲は武名を上げ、さすがに武神と知れ渡り、武神大祝一族は信濃全域に広がり、その一族は、各地で諏訪明神を、氏神として勧請したため諏訪大社の分社が各地に広まる切掛となった。それを契機として、
 合戦に勝利して、義家は睦奥守の立場から中央政府に国解を提出するが、これに対して政府は、「武衡・家衡との戦いは義家の私合戦」で、よって追討官符は発給しない、という対応をとった。これを聞いた義家は武衡らの首を路傍に棄てて、むなしく京都に上ることになる。 朝廷はこれ以上、義家が勢威を振るうことを嫌った。これにより義家は戦費も賄えず、さらに、受領としての功過定(こうかさだめ)に合格できず、当初の狙いである睦奥守重任も不可能となり、既に戦費として税収をそれに当てていたため、こんどは租税未済となり、私財で弁償しなければならなくなった。義家以後、源氏嫡流家は困窮していく。しかし、源氏の棟梁家としての地位は、神格化され、絶対的なものとなった。
 後3年の役後、寛治元(1087)年12月、上洛する凱旋軍・源義家の陣中に為仲も同行していた。先に上洛した義家の奏上は、これ以上の台頭を嫌う白河院関白師実に阻まれて、本隊の軍兵は東山道美濃国、莚田(むしろだ)の荘に長期駐屯を余儀なくされた。そのつれづれに、為仲は義家の弟・新羅三郎源義光の招請による酒宴に赴いた。その時、部下相互が喧嘩し死者を出すに及んで、棟梁家源氏を憚って為仲は自害した。それを聞いて義家は駆けつけると、為仲の鎮魂に諏訪神社を建て、莚田の荘を寄進したといわれている。現在の糸貫町の諏訪神社である。
  これは、為仲が、諏訪の地を出てはならないとする“神誓を破ったことに対する神罰であると受け止められたので、遺児の為盛は、大祝の職に就けなかった。『諏方大明神画詞』によると、為盛の子孫は多かったが、共に神職を継がなかったので、為仲の弟の次男為継が大祝を継ぐが3日後に頓死し、また、その弟の三男為次が立つ、しかし7日目に急死、ようやく四男為貞が立って当職を継ぐことになり、後胤は10余代にわたり継承された。
 保元元(1156)年、平安時代末に京都で発生した保元の乱では、武蔵国に次 いで信濃国の武士が多く参戦した。保元の乱の1年程前、源頼朝の父である源義朝は自己の勢力拡大を図り、長男の義平に弟である源義賢(木曽義仲の父)を討ち取らせ、上野国を手中に治めた。さらに源義朝は、父・源為義の4男源頼賢(よりかた)の討伐を名目に掲げて信濃国へ攻め込み自己の地盤を固めた。このような理由により保元の乱の頃 には、信濃国の武士の大半が源義朝の配下となった。
 保元の乱の戦いの最中、源為朝の守る西河原面の門に、信濃国の住人根井大弥太宇野太郎望月三郎諏訪平五進藤武者桑原の安藤次安藤三木曽中太弥中太禰津神平静妻小次郎熊坂四郎をはじめとして27騎が駆け入った。門の中で散々に戦ったので、為朝方の手取の与次、鬼田与三、松浦小次郎も討たれてしまった。為朝が頼みにしていた28騎の武士のうち、23人が討たれた上に、ほとんどが傷を負った、ということが保元物語に語られている。
 平治元(1159)年源義朝と平清盛の争いを中心とした平治の乱が勃発した。源義朝には保元の乱と同様に、信濃国は源義朝の影響が強いことから多くの信濃の武士が味方をした。片桐景重(上伊那郡片桐中川村)、木曽中太木曽弥中太常葉井(飯山市常盤)、平賀四郎義宣(佐久市平賀)、片桐景重等が記録に残っている。この時に有名な話しが平家物語等に残っている。源義朝の息子で勇名を馳せた源義平(別名 悪源太)の片腕として戦った片桐景重(中川村)が、平清盛の息子である平重盛と内裏で戦ったことが記されている。平治の乱では源義朝が敗れ、源義朝側に参戦した信濃国の武士は、捕らえられるか討死にした。この時に多くの領地を平氏に没収されたが、数10年後に平氏を滅ぼした源頼朝が、父である源義朝と共に戦ってくれた恩に報いて、信濃武士の没収された領地を復旧している。
 『神氏系図』には、千野太郎の欄外に「保元・平治の逆乱、養和・寿永の征伐(源氏と平家の争乱の時代)の時、禰津神平貞直藤原次郎清親が、大祝の代官として参戦し、その武勇は比類が無かった」と記している。諏訪氏一族は源氏の郎党として活躍している。
 鎌倉末期の嘉禎4(1238)年の文献、『諏訪上社物忌令(ぶつきれい)之事』に「南は鳴沢(茅野市西茅野安国寺)、北はこしき原(諏訪市有賀)のうちは神聖地とし、罪人も殺してはならぬ」と定められている。宮川の南の平坦地が上社の直轄領荘園となり、武居荘と呼ばれた。上社大祝は時代とともに荘園領主化し武力を養い、一族結束し信濃の有力武士団を形成した。

8)禰津氏と山鹿郷

 禰津氏の系図としては、「信州滋野氏三家系図」「海野氏系図」(ともに群書類従所収)や、系図纂要所収の「滋野朝臣姓」等がある。
 禰津氏(ねづし)は、信濃国小県郡禰津(現長野県東御市祢津)を本貫地とした武家の氏族である。信濃国の名族滋野氏の流れを汲み、滋野重道の2男とも甥ともされる道直が禰津を名乗ったのが始まりとされ、滋野氏を出自とする諸族の中でも海野氏望月氏と並び、滋野三家と呼ばれる。天暦4(950)年、滋野恒信が御牧・望月牧の牧長となって信濃国小県郡海野(現在の長野県東御市本海野)に住し、海野幸俊を名乗ったともされる。承平8(938)年、平将門との闘争に嫌気がさして京で再起を図ろうとした平貞盛が、2月29日に追撃してきた将門の軍勢100騎と信濃国分寺付近で戦った記録が残されている。このとき貞盛は、信濃国海野を拠点とする望月牧の牧長・滋野氏に頼った。当時、滋野氏のみならず信濃国衙の者達も貞盛に加勢したが将門軍に破れたとされる。
 禰津氏の当主は、代々「小次郎」を名乗った。これは滋野三家の中で嫡流とされる海野氏が、代々「小太郎」と名乗ったものに因むとされる。系図では、海野太郎則重の孫道直が禰津小次郎を称し、その子貞直は『諏訪大明神画詞』に、大祝貞光の猶子となって神氏となり禰津神平貞直を称したこと、諏訪郡内に一庄を領有し、諏訪氏に属し保元・平治の乱に出陣したこと、そして、東国無双の鷹匠であったことなどが記されている。
 建暦2(1212)年8月、守護地頭の鷹狩が禁じられた。この禁令は順守されず、寛元3(1245)年、文永3(1266)年にも出されている。武士層にとって鷹狩は、単なる娯楽ではなく、弓馬の技芸を磨く絶好の鍛錬でもあったからだ。しかし諏訪大社の神供祭の鷹狩は許されている。 しかも諏訪大社の鷹狩は、鎌倉幕府が保護する御狩神事であり、高い格式のみならず東国武士層が積極的に参加を希望する権威も備わっている。それが契機となり、全国各地で諏訪神社が勧請された。若狭国倉見荘・御賀尾浦(おがいうら)、備中国新見荘(にいみのしょう)、島津家の鹿児島等、諏訪神は狩猟の神として全国に勧請された。諏訪神に捧げる御贄のための、幕府公認の狩猟神事なのだ。
 『神氏系図』には、千野太郎の欄外に「保元・平治の逆乱、養和・寿永の征伐の時、禰津神平貞直と藤原次郎清親が、大祝の代官として参戦し、その武勇は比類が無かった」と記されている。後醍醐天皇の関白・二条道平は嘉暦2(1327)年に『白鷹記』を著し、信濃の禰津神平が献上した白鷹について述べている。代々、禰津神平を称していたようだ。ただ戦国時代でも、本家筋の禰津氏は小県郡を拠点としている。 『諏訪大明神画詞』に諏訪郡内に一庄を領有したのは、禰津氏の支流であって、その「一庄」とは、先の「山鹿牧」に当たる左馬寮領荘園の「大塩の牧」であった。同族の海野氏が、信濃国最大の望月牧の牧長であった関係から、「大塩の牧」の荘官とされ、やがて在地領主化した。
 禰津神平貞直の子盛貞は、「大塩四郎」を号した。盛貞の支配地は、南大塩、中村のみならず、かつての「塩原牧」の北大塩、塩沢にも及び、さらに芹ヶ沢から大門道沿いに北上し、湯川、柏原まで、7ヵ村に及んでいた。当時の埴原田は諏訪大社の神田とされていた。「年内神事次第旧記」や「守矢満實書留」に記されている。『吾妻鏡』建武元(1190)年11月、源頼朝上洛の際、貞直の子・宗直は先陣畠山重忠の随兵となっている。
  「塩原牧」も左馬寮領荘園となっていた。昭和61年発掘された棚畑遺跡からは、平安時代住居址9軒、小鍛冶址1ヵ所が発掘されている。棚畑は埴原田の集落から300m余り北にあり、東に横河川が流れ、西には上原山、神戸山、桑原山がある。棚畑の北東、鋳物師屋集落、米沢等を過ぎ、北大塩の東側に、平成6年発掘された塩沢の上ノ平遺跡がある。そこからは、平安時代の須恵器片が出土している。上ノ平遺跡の北東、一ノ瀬遺跡は、一本木集落の北、カシガリ山の南の藤原山を源流とする東の藤原川右岸と、カボッチョ山南麓から流れ下る西の前島川左岸との間の扇状地に位置する。そこでは平安時代住居址14軒が検出された。 平安時代の「塩原牧」の風景は、草原の牧野で、居住者は僅かに台地上で生活していた。そして「塩原牧」との関わりで、今にも残る地名の中でも重要なのは、北大塩地籍の「監物屋敷」と「太夫屋敷」であろう。そこが牧の要所であった。
 塩沢地籍には「塩壷」「塩之原」があり、「山鹿牧」の「塩之目」同様、牧馬の飼育に欠かせない「塩」が、牧野から自前で得られたのである。「塩之目」の「目」とは何を意味するのか。国司の制度は、律令制度下、守、介、掾(じょう)、目(さかん)の4等官制をしく。「塩之目」の「目」も「主典(さかん→しゅてん)」とみれば、「目代(もくだい)」即ち「監督、管理者」の意味に繋がり、「塩」を管理する「所」があったとみる。
  現在の北大塩区の「南組」は「高之目組」ともいい、江戸時代は「鷹之目村」と呼ばれていた。その由来を鷹匠の居住地とみる。諏訪大社では古来、贄鷹の神事を執る諏訪大祝一族に継承されていたと考えられる「諏訪流鷹法(すわりゅうようほう)」があり、御射山祭では、大祝が鷹によって捕えた獲物を「鎌隼の贄(かまはやぶさのにえ)」の「幣物(へいもつ)」」としていた。「鎌隼の贄」とは、翼が鎌のように鋭く、獲物を切り裂くといわれるハヤブサのような鷹が、捕えた獲物を供える神事である。蓼科、八ヶ岳山麓は、絶好の鷹の狩場であり、その技術の伝承の場が、「鷹之目村」の名を残した。
  「山鹿牧」の塩源は、内陸部の諏訪地方の御牧にとって、貴重であったといえる。現代では、大鹿村鹿塩」のように塩の産出する場所はない。とすれば、僅かな塩の産出は、重要資源であり、それを特に管理する「牧官」が置かれたことによる地名とみる。 古代から現代に至るまで、高遠の遥か南、大鹿村鹿塩(かしお)では、海水と同じぐらい濃い塩水が湧いている。明治時代には、製塩もおこなわれていた。しかし、興味深いのは、「塩壷」「塩之原」「塩之目」「鹿塩」のいずれもが、南北に貫く大断層「中央構造線」の東側に全て集中していることにある。
 松本市東北部の四賀地区一帯には、新生代第3紀の化石を多く含む地層が広く分布し、長野県内でも有数の化石産出地の一つとして知られている。昭和63(1988)年、反町の保福寺川川岸の露頭で、小学生が偶然発見した化石が、発掘の結果マッコウクジラの全身骨格であることがわかり、環太平洋でも2例しかない大発見となった。地殻のダイナミックな変動は、現代人の想像を遥かに超えている。
 鎌倉時代、諏訪氏大祝一族が、北条得宗家歴代当主の最も信頼できる御内人として仕えていた。当時、諏訪上下社領全体が、得宗家の家領に組み込まれていたようだ。諏訪氏は、少なくとも、平安時代に神戸郷桑原郷山鹿郷と呼ばれていた地域を、北条氏守護領の地頭として、事実上支配していたと思われる。また諏訪大社前宮から杖突峠を越えて、最初の郷村・藤沢(伊那市高遠町藤沢)から黒河内(くろごうち;伊那市長谷黒河内)、鹿塩(かしお;下伊那郡大鹿村)、大河原(下伊那郡大鹿村)へと、今の秋葉街道の山道にそって分布する山村総てが社領であったとみてよい。

9)塩原牧後の塩沢区

 天文年間(1532~)塩沢安兵衛が、武田信玄に従い、信州大門の戦いに功績があり、「塩原牧」の北端、大岩鼻の上の山・朝倉山の朝倉の城主に任じられたとあるが、その以前の事績は定かでない。しかし近年の郷土史家の活躍は目覚しく、過去の歴史を度々書き換えるほどの実績をあげ、中央の出版社の発行本に頼りすぎては、その判断を誤る事となるほどである。塩沢氏は信玄により、「朝倉(塩沢)の城主」になったのではく、諏訪の古文書により、それ以前、既に「朝倉(塩沢)の城主」であって、「塩沢城主、長享元(1487)年、社方(諏訪大社)に鎮守様を勧請」と記されている。ところが「米澤村村史」によると、その鎮守様が「瀬神社」で、その祭神を塩沢区の「産土神(うぶすながみ)」としている。それは須佐之男命の娘「須勢理姫命(すせりひめのみこと)」で、大国主神の嫡妻である。諏訪大社の建御名方神の母は、越の国の女王・奴奈川姫神であり、古代の2大文化資源、糸魚川の「ヒスイ」と諏訪和田峠周辺の黒曜石文化とを繋げる重要な神であった。それが「社方(諏訪大社)に鎮守様を勧請」した神が、諏訪でありながら「瀬神社」であり、それが「産土神」であるとは考えられない。寧ろ、その考えに至った根拠を、塩沢地区の郷土史に問いたい。

天文11(1542)年の「御頭役請帳」に「丁卯3月頭17日、1の御頭諏訪郡之福島郷(中略)甘利殿御勤候、頭殿塩沢殿」の記述がある。その時、塩沢氏は頭役を務めている。

武田勝頼滅亡後、塩沢安兵衛の子供の塩沢将監は、城主を子の新兵衛に譲り、出家して塩沢寺(えんたくじ)を開基した。寺の北側裏手の塩沢地区を見下ろす岡に、墓地がありその最上段に、塩沢将監の自然石の墓がある。その近くに塩沢区森元家が、古くから2柱の菩提を祀る家形の墓がある。その1柱には院号があるため、高貴の方の墓として伝承されていた。近年の研究で、それが諏訪頼重の先室の大方様(たいほうさま)・小見夫人(こみふじん)と侍女のものと判明した。小見夫人は頼重の悲劇の娘・梅(由布姫)の母にあたる。小笠原家の家臣・古見の城主・小見氏の姫であった。

その経緯は、昭和63年、NHK大河ドラマ「武田信玄」のブームで、この墓の謎が東筑摩郡朝日村古見(こみ)に伝わった。古見には「勝頼の祖母は新府城を出たものの、故郷古見に帰れぬまま、八ヶ岳の裾野で亡くなった」という伝承があった。それと結び付いた。

 頼重の祖父頼満は「文明の内訌」後の混乱期に、僅か5歳で家督を継いだ。成長に伴い軍事祭事の両権を掌握し、上原城下の居館に拠って、諏訪下社方・金刺興春の子・昌春を甲斐に追放し、高遠継宗の子・頼継を降伏させて諏訪地方一帯を統一し、さらに昌春を助ける甲斐の武田信虎とも戦う。享禄(1528)元年には国境の神戸境川(諏訪郡富士見町)において信虎勢を撃破した。天文4(1535)年9月17日、その境川で和議が成立すると、天文6年松本の小笠原長棟を塩尻に攻め、その勢力を伊那の北部まで拡大する。このように諏訪氏の最盛期を築き上げた頼満は、『諏訪氏中興の祖』と言われた。

 しかし天文8年暮れに、背中に腫れ物が出来、12月9日60歳で逝去。墓所は永明寺、江戸初期焼亡し今は定かでない。後嗣は嫡子頼隆が早世したため、当時24歳の孫の頼重となった。頼重も凡庸ではなく、翌年7月、大門峠を越え長窪城(小県郡長門町)を陥落させ、その先の海野平に侵攻している。

 祖父頼満をも越える果断さと知れ、小見夫人が、既に頼重に嫁していたが、信虎は頼重に3女、弥々御料人(梅)を輿入れさせた。その際、化粧料として境方18か村を持参する。以後甲斐との国境が現在のように東に寄る。その18か村とは、稗之底(ひえのそこ)・乙事(おっこと)・高森・池之袋・葛久保(葛窪)・円見(つぶらみ)山・千達・小東(こひがし)・田端・下蔦木・上蔦木・神代(じんだい)・平岡・机・瀬沢・休戸・尾片瀬・木之間村である。甲六川(こうろくがわ)と立場川の間の領地を持参した。

 この時、先室・小見夫人(こみふじん)と頼重との姫が、弥々御料人と引き換えに、信虎の嫡男晴信(武田信玄)に嫁することを前提に、甲府へ送られた。その人こそが諏訪御料人で、当時12、3歳と言われている。父頼重が甲府で自刃させられた時、その姫諏訪御料人は、既に側室になっていたかは不明だが、その地にいた。先室・小見夫人も同じかもしれない。その後、天文15(1546)年、晴信の4男勝頼を産んでいる。

孫の勝頼は、9歳にして母「諏訪御料人」梅(由布姫)を、弘治元年(1555)24,5歳で亡くしている。墓は高遠町の建福寺にある。永禄5(1562)年、16歳で勝頼が高遠城主となった時、その菩提を高遠に移し、この寺で弔ったのであろう。

庶子である勝頼が、心許せる肉親は祖母しかいなかった。武田氏滅亡が迫った時、その祖母を故地に逃がすため新府城から送り出した。しかし織田軍の侵攻は速く、諏訪はもとより信州一帯は、既に席捲されていた。小見夫人が、武田氏との因縁が浅くない塩沢寺(えんたくじ)を頼った時、当主・塩沢新兵衛は、逃亡しており、寺は無住であったという。夫人は、やむなく塩沢寺の隣の森元家に身を寄せた。その庇護を受け、結局、その地で終焉を迎えた。当時の松本周辺は、織田信長自刃後、上杉景勝が後援する小笠原貞種と徳川家康が支援する小笠原貞慶との同族同士の権力闘争の、まっただかにあった。塩沢新兵衛は、慶長2年不遇の中、北大塩で没している。

昭和63年7月10日、朝日村古川寺住職、古見区長、上條一族の要請があり、古川寺に分骨された。古見城主上條佐渡守室(小見夫人の妹)の墓地に埋葬された。その境内には「小見夫人(諏訪頼重公室)法要記念塔」が建てられている。

天正18(1590)年10月、豊臣秀吉の検地を、その家臣弓削清左衛門が行った。その時の「塩沢検地野帳」には、「北大塩」「鋳物師屋」「埴原田」はあるが、「塩之原」の地名がなく、「塩沢」は「北大塩」に含まれていた。
 翌、天正19(1591)年、日根野高吉が諏訪湖畔に高島城を完成させる。

10)埴原田小太郎行満

 ところで茅野市米沢の埴原田城は、文明年間(1467~87)、応仁の乱当時、諏訪氏惣領・政満の弟埴原田小太郎行満が築城したという。標高891m、比高40mで茶臼山城ともいわれ、小高い山の上に在る。上原城とは永明寺山を挟んでちょうど反対側、北東方向に位置し、山浦地方に睨みを利かせている。
 主郭背後の尾根は比較的広く、裏山の防備は甘い。上原城の背後を抑える役目であった思われる。主郭は23m×20mで、北側に土塁が残っている。一番北東隅の御明神様の祠の傍らに、高さ85cmの「埴原田小太郎頼之」の石碑が建っている。「頼之」は諏訪に伝わる系図には載らない。ただ北側の沢は五輪久保といわれ、かつては数基の五輪塔があったと伝承されている。行満一族の墓所の可能性がある。城地は小屋平といわれ西側には「姫御前」、「寺屋敷」、「狐久保」等の地名が残るので、沢筋に平時用の居館があったのだろう。
 塩原之牧は、牧としての姿を変え、戦国大名化を図る諏訪一族の領地となり、田畑集落に変貌していた。 鬼場城方面は城域内だと山の陰になって見えないが、直線で約1.2㎞の距離にある。 文明15(1483)年上社勢力内で「文明の内訌」が起こり、大祝諏訪継満により、小太郎行満は諏訪大社前宮神殿で諏訪氏惣領である 兄政満らと共に謀殺された。行満の埴原田の支配は10数年に過ぎず、その後惣領家領地に戻った。 以後、埴原田城に城主は置かれていない。

11)藤沢氏
 藤沢氏は『神氏系図』によると、千野光親の次子親貞が上社領伊那郡藤沢郷に住してより、藤沢神次を号したという。藤沢氏の出自が神氏の支流と明確になったのは、明治になって世に出た千野氏史料の系図によってである。同系図により、藤沢氏は諏訪社大祝有員を祖とする千野太夫光親の系統と知れた。その光親の次子親貞(清貞)が藤沢神次を称し、その子が清親で伯父の光弘とともに保元・平治の乱に大祝の代官として出陣し、武功があったと記されている。
 保元・平治の乱では、大祝の代官として祢津貞直千野光弘藤沢清親を遣わしたとある。藤沢氏は後に木曽義仲の挙兵に加勢したが、義仲が滅んだのち源頼朝に従い、鎌倉幕府が開かれてからは頼朝の御家人となって忠勤を励んでいる。鎌倉幕府創設当時より御家人となり、神氏一族で最も早く鎌倉に出仕している。
 清親は弓の名人として知られ、幕府の弓矢始めの行事の射手に幾度か選ばれている。『吾妻鏡』文治3 (1187)年8月20日の条で、「土佐国弓百張を献上す、二十張は営中に納蔵し、八十張は壮士に分給す。うち射手たる輩は三張を賜う。清親はその七人の一人なり」とみえ、ついで、建久4 (1196)年4月の条に、「将軍が下野国那須野、信濃国三原等に狩倉、弓馬に達した狩猟の輩二十二人が選ばれた」とあり、そのなかに望月太郎重義藤沢次郎清親の2人も選ばれ、武蔵国入間野における狩で「藤沢は百発百中、まれにみる弓の名人であると将軍より賞言を賜った」と記されている。
 文治より仁治元(1240) 年まで50余年の間将軍家に仕えている。清親は幕府の弓始、的始、流鏑馬、小笠懸、巻狩等の行事には、欠くことのできない名手であった。

 天正10(1582)年2月、織田軍の伊那侵攻により下條の本拠吉岡城を追われた下条頼安は、徳川家康に属していた。同年3月、武田氏を滅ぼした信長は、駿河国を家康に、伊那1郡を毛利秀頼に与えた。しかし家康は駿河国の隣国信濃への経略が、既にあったようで、同年4月、下条頼安に領内守備を専一にするよう命じている。そして6月2日、本能寺の変で織田氏が没落すると、7月6日、下条頼安は、かつて武田幕下にあった伊那の諸士に働きかけて、家康忠誠への起請文を出させている。その中には片桐衆中沢衆飯島衆いなへ衆上穂衆の諸士の名前が見られる。
 同月、下条頼安は小笠原信嶺箕輪の藤沢頼親を誘い、高遠の保科氏を攻めた。その後保科正直は、家康の重臣酒井忠次を頼り、「今後最前より馳せ参じ、忠信に抽(ぬき)んぜられ候事」と誓い、家康の靡下に入った。家康は今後の働き次第で、伊那郡の半分を所領に与えるとした。
 『家忠日記増補八』に「(天正10年)9月1日保科越前守正直、高遠の城に在って、酒井左衛門尉忠次を以て、大神君の靡下に属し、軍忠を励んと請う、忠次、此の旨を新府中の御陣に達す、大神君是を許し給う」とある。以後保科正直は、家康配下として、実弟の内藤昌月と共に高遠領地の統治にあたった。
 正直は、家康配下として、重用されていく。天正11年10月1日、正直は、今度は、家康の命で箕輪の藤沢頼親を攻め、3日、箕輪城(福与城)を陥落させている。 『箕輪記』には「福与城へ攻め懸け取り囲む事3日3夜、藤沢頼親ちっともひるまず諸手を下知して防ぎ戦いしが、箕輪左衛門重時、向山主水、白鳥四郎を初めとして城中の兵多く討たれて、頼親今は詮方なく城に火をかけ腹切りて失いにける。福与城既に落居しければ松島氏を初めとして小平漆戸、柴、辰野、平出、有賀皆保科にこそは帰伏しぬ。」とある。
  藤沢頼親が、なぜ家康に反旗を翻したかは定かではないが、木曾義昌と家康の当時の動向で推測はできる。義昌は武田家の滅亡後は、信長から戦功として安曇・筑摩2郡、10万石を新たに加増され、深志城(後の松本城)に城代を置いて松本地方を統治した。しかし僅か3ヶ月後に本能寺の変が勃発する。信濃国の松本平でも、越後に居た小笠原貞慶の叔父小笠原貞種が、この好機に越後の上杉景勝の助勢を得て旧臣らに蜂起を促した。木曾氏は深志城を奪われ、本領木曽へ撤退するに至った。貞慶は本能寺の変の時、家康のもとにいた。家康の求めに応じて信濃に入り、馳せつけた小笠原旧臣たちを率いて叔父のいる深志城を攻撃、7月17日にこれを奪取、ついに念願の深志入城を果す。
 天正10年(1582年)、義昌は徳川家康と盟約を結び、安曇・筑摩2郡および木曽谷安堵の約定を得た。義昌は安曇・筑摩2郡の奪還を期して、箕輪へ北上して来た。藤沢頼親は家康に見捨てられた。義昌の勢力は、既に箕輪まで侵出していた。同年5月8日、義昌は筑摩郡洗馬郷(せばごう、せまごう)の三村勝親に、箕輪における忠節を賞して感状を出している。同年8月晦日、箕輪御射山大明神の三室神子等に神領を寄進している。
  箕輪城攻略後、正直は家康から伊那郡2万5千石を与えられたが、その時期と領域は不明である。天正12年7月、正直は、家康の異父の妹多劫姫(たけひめ)を室に迎え、高遠城で婚儀を行っている。
  
12)千野氏
 千野氏は平安末期、諏訪上社大祝の代官職であったようだ。『前田氏本神氏系図』によると、上社大祝諏方為貞(為仲の弟)の孫光親千野郷現茅野市宮川茅野に住居して千野(茅野)氏を称したという。光親の子光弘は、『神氏系図』に、千野太郎の欄外に「保元・平治の逆乱、養和・寿永の征伐 (源氏と平家の争乱の時代)の時、禰津神平貞直と藤原次郎清親が、大祝の代官として参戦し、その武勇は比類が無かった」と記されている。
 千野郷の東北部、長峰台地の最末端に四つ塚古墳群がある。4つの古墳が集積している事よる名称で、諏訪地方では最後の古墳群といわれている。7世紀末から8世紀にかけての築造とみられている。 そこには、平安後期からこの地域に居館を構えていた有力豪族千野氏の墳墓があり、その初期の居館が字千護宮 (ちごみや)といわれる御社宮司遺跡の西に連なる広い地域にあったとみられている。
 明治初期までは鎮守の森があり、茅野郷の口碑に残る居館があった千野氏発祥地の千護宮一帯は、 度々、宮川の大氾濫にあって押し流された。そのため宮川左岸の宮川西茅野中村に屋敷を移し、承久の乱当時もこの地を根拠にしていた。茅野は古くから諏訪10郷に数えられ、千野氏の本領として栄えていた。室町時代にも洪水があり、さらに戦乱も加わり一時は田畑も荒廃し、村の移転もあったといわれているが、慶長年代の1596年以降、茅野村は、西村、中村、東村の3村に分かれていた。
 千野氏の屋敷地の西南部に駒形城がある。駒形城は別名茅野城ともいわれ、現在の西茅野の集落の背後、標高840m、比高40mの御岳山と呼ばれる小高い尾根の北端寄りにあった。大祝諏方為貞の孫・千野光親の居城であったという説がある。或いは後三年の役後、大祝為信が孫の諏訪敦貞(為貞の子で大祝を承継 )に、駒形城近くに牛首砦を築かせ、守らせたのが始まりだと言う。駒形城は、当時大祝家の居館があった前宮を守る干沢城の枝城でもあった。
 西茅野集落に駒形神社があり、そこから山に入った所にあるので駒形城の名がついたのか。諏訪大社前宮まで続く鎌倉街道も宮川左岸の、やや高い所を通っていたらしく、駒形城下あたりを通って鎌倉へとつながっていたようだ。駒形城背後の山道を南へ登っていった標高1300m、比高500mという山奥に御天城 (ごてんじょう )がある。諏訪大祝家の詰め城の説が有力である。
 『諏訪大明神画詞縁起第四』に美濃国筵田庄芝原で双六の賽のことで、源義光と争い自害、その後義光が甲斐守として須玉に居館を構えたため、先の大祝為信が御天城を詰め城として築城したとしているが、近年、義光が甲斐守であったという史実には、文献上の確証がないとみられている。
 ただ御天城址の北端からは諏訪湖から茅野、原村、富士見方面まで見渡すことができる。北西側には杖突峠、藤沢村からの脇道小飼峠の谷川沿いから安国寺村(旧小飼村 )へ、南側には金沢峠などが通り、諏訪東部と伊那を結ぶ主要道が通っている。甲斐国に対して、極めて重要な位置関係にあることは確かである。西茅野中村の屋敷跡の北に千野式部屋敷跡があり、平坦地には御頭御社宮司社の祠がある。

13)上原氏
 『前田氏本神氏系図』によると、上社大祝諏方為貞(為仲の弟)の孫敦成上原五郎を称した。茅野市下河原の上原に千鹿頭神社 (ちかとうじんじゃ )がある。旧永明寺村役場所蔵の『神社明細帳』に、上原五郎敦成一族が千鹿頭神社の祭祀を司り、近くに館を構えたと記されている。神社は 茅野市ちの字九頭井の葛井神社から鍛冶小路、千鹿頭小路と登る最終地点で、上原郷を一望する国見ヶ丘でもある。その北側は永明寺山であるが、千鹿頭神社の同方向の裏側台地、西側に井戸跡という口碑が残る湧水がある。
 敦成の子・成政は上原九郎と称し、父と同じ館の主であったが、『覚一本平家物語』の判官・源義経都落ちの項に、成政は鎌倉幕府軍に属し、源行家の追討に当たっている。『吾妻鏡』文治2 (1186)年2月、北条時政が源義経らを追討するため上洛し、その後鎌倉に戻る際、35人の武士を京都警護の任に就かせた。その中に桑原二郎と上原九郎の名が記されている。以後、成政は京都に地盤を移した。
 大正15年発行の『何鹿郡誌(いかるがぐんし)』によると、源頼朝より丹波国何鹿郡内の地を与えられた上原右衛門尉景正が、建久4 (1193)年信濃国上原より丹波国何鹿郡物部に来住したと記され、『綾部市史』では「承久以後に何鹿郡に入ったのではなかろうか」と記している。
 『諏訪上下社家系図』でも、上原九郎成政は同年、丹波国物部郷並びに西保地頭職を拝領とある。これが上原氏来住の資料として最も真実に近いのではないだろうか。上原氏で、神太とか神六とかの仮名を持つ者がいる。これは上原氏が(諏訪大祝家)神氏より出ていることを現わしている。神氏は信濃国諏訪大社の神官の家系で、それから分かれて上原に住し、上原を苗字とした。家紋も信州に縁の深い「梶葉」紋である。今も、綾部市物部城跡の麓に信濃より勧請したという諏訪神社が祀られている。
 丹波国には、古く物部氏がいて、天暦6(952)年に、船井郡大領・物部惟範、治承2(1178)年には丹波の目( さかん)となった物部正清等が知られている。しかし、上原氏は信濃から物部に来住して物部を称したので、先の物部氏らとは系譜は異なる。また諏訪氏であるので、当然、信州筑摩郡等の物部氏の系譜の流れでもない。
 応仁の乱が終わって間もないころ、何鹿郡物部を本拠とした上原氏が、丹波国で権勢を振るった。上原氏は、中世の丹波に管領細川氏に仕えて丹波守護代となっていた。『御的始記』によれば、上原一族は、京都の幕府の「御的始」に射手に選ばれている。
 『年内神事次第旧記』には、本家筋が京畿を基盤として去った後も、残された支族は上原郷の領主としてとどまったが、本家諏訪氏に吸収されたようだ。
 しかし、諏訪一族が武士化し、在地領主として勢威を振るい、大祝家を寧ろ別家として神事に専従させる頃、諏訪大社上社の神殿 (ごうどの)の地より、日のあたる上原の地は、戦国大名を目指す諏訪氏の本拠として優れ、以後上原城の城下として繁栄する。しかし上原氏の存在は、諏訪地域から影を潜めていく。

14)矢崎氏
  桓武天皇の皇子と称する有員(ありかず)親王から14代を経て、大祝諏訪頼信から明らかになる『諏訪上下社家系図』によれば、頼信の子為信から次の為仲に継がれ、その不慮の死により、為仲から弟為貞に移って、以後この為貞が嫡流となる。その長男貞方が大祝を継承する。貞方からの嫡流が貞光であり、禰津貞直の猶父になる。また為貞の3男諏訪敦家は鷹上手であったらしく検校 (鷹匠の監督)に名を留めている。矢崎氏は、鎌倉初期、敦家の孫家直が矢崎神六を称し、上原郷の東南に隣接する矢崎郷を支配したことに始まる。現在の茅野市塚原と本町が、その地籍である。矢崎郷は承久元 (1219)年の「諏訪十郷日記」に「矢崎15丁42間」とある古くからの郷村であった。江戸時代、矢崎村から独立したのが塚原村である。
 家直の子孫は、築城年代は定かではないが齢松山城(しろやまじょう)を 矢崎氏の居城とした。諏訪惣領家の居城である上原城と同じ永明寺山麓にあり、上原城から南東方向約1 .6㎞の位置にあり、上原城の弱点である後背地を守った。国道152号本町西信号を北へ登った、福寿霊園とは東側の谷を挟んで向かい側になる。城跡の麓には、矢崎氏が日常居住していたとみられる「土佐屋敷」「殿屋敷」「殿の堀」等の地名が残る。「本町古屋敷」の信号の意味は、このことを指すのか。
 また、齢松山城から麓伝いに北東へ約600mの位置、矢崎郷東部に鬼場城があり、齢松山城の支城であったが、後に位置の重要性と堅固さから、矢崎氏の本城となった。国道152号、鬼場橋信号西側の尾根先端部の展望台への階段を登り、その最頂部にあり、山浦地方に睨みをきかせていた頃が偲ばれる。鬼場城からは尾根の山道で上原城と連携ができた。主郭は26×15mで、その西の背後は2mの大土塁が築かれている。東側の虎口を守る2の郭北側下に、コの字形に帯郭があり、そこに2m程の深さがある井戸跡が残っている。
 諏訪氏から武田氏の時代を経ても、矢崎氏は武田に属し生き残り、その城を守り、大門道を扼し、上原城の背後に備えた。しかし鎌倉時代の矢崎氏の事績を伝えるものは、未だ発見されていない。室町時代、応永7 (1400)年におきた大塔合戦における信濃守護小笠原長秀に反抗した信濃国人衆による大文字一揆の戦記には、諏訪上社大祝方の武士団として、上原、矢崎、千野、古田等の名がみえる。3百余騎を率いて国人方に参陣し、 大塔古要害の大手口を攻めたことが記されている。
 古田氏に関しては茅野市豊平に字名を残す。明治8(1875) 年2月18日、上古田、下古田ともに福沢村、南大塩村、塩之目村と共に合併し豊平村となっている。諏訪東京理科大から東側柳川にかけての地域である。残念ながら、未だ古田氏一族の詳細は不明である。郷土史家の奮起を期待したい。
 『神長守矢満実書留』の文正2(1467)年正月の条に、「諏訪惣領家諏方信満の代官矢崎」とある。室町時代の祭政分離のため、惣領は諏訪有継の子・兄の信満が継ぎ、大祝は弟頼満が継承した。このため諏訪氏は分裂し、大祝頼満は惣領の信満としばしば対立した。この対立はそれぞれの子の惣領家諏訪政満大祝家諏訪継満の代にも継続し、遂に文明15(1483)年に、継満が金刺氏や高遠氏と組んで政満らを謀殺する「文明の内訌」が勃発する。 しかし、惣領家の家臣はもとより、大祝家の最大有力者守矢一族の反感を買い、反撃に遭い継満は脆くも伊那に逃亡する。この混乱の中、隠居の頼満は病床にあったため逃げ切れず討ち取られている。
 「諏訪信満の代官矢崎殿」とは、当時の代官は家老職であるから、上原城下の館跡・板垣平の一段下に、家老屋敷があった。現在は畑地になって、鳥獣の被害に悩み周囲を網で覆う。『神氏系図』によれば、神氏諏訪氏の有力一族として、千野、上原、矢崎は記録され、諏訪武士団の中枢として活躍する。

15)桑原氏
 『参考保元物語』に、源義朝軍の信濃武士の主力として、諏訪上社系の武士として、諏訪平五桑原安東次安東三禰津神平(貞直)の名が見られ、桑原安東次、安東三、禰津神平ら3氏が戦傷を負い退いたとある。
 諏訪市桑原区にある桑原城の築城年代は不明であるが、桑原安東次、安東三等によって、その本領地に築造されたといわれている。 桑原郷は『和名類聚抄』によると諏訪郡の1つで、現在の上原地籍から角間川右岸の湯の脇にかけての諏訪湖の東岸一帯で、霧ヶ峰山塊の西麓末端部が諏訪湖に下る、かつては湖岸に沿う細長い平坦地を構成していた。やがて赤羽根の丘陵が張り出す地を境に上下桑原に2分された。上原よりが上桑原である。赤羽根の南が武津であるから、諏訪湖の舟着き場か渡し場があったとみられ、当時の情景が想い描けられる。鎌倉幕府執権北条義時の時代、得宗家重臣としての諏訪氏は、桑原郷も地頭職として支配していたとみられる。
 その一族を一分地頭として上原氏桑原氏と名乗らせ「名字の地」として与えたようだ。 「神氏系図」によると大祝安芸権守貞光の子に諏方次郎清貞がいて「桑原」とあるから、桑原氏も諏訪神氏を発祥としている。 ところが『諏訪大明神画詞』祭第7冬の項に「中古の比より、神事のひまと号して、神官・氏人窃に神野を犯し、狩猟をいたして禽獣をみる、厳重の恠異によりて事顕れて、罪名の裁断に及ぶ、近くは則当郡桑原郷、甲州加世上郷等の地頭職は、彼料によりて没収せられけり」とある。桑原氏は愚かにも神野の禁猟地を犯したのである。 少なくとも江戸時代以降、桑原地区の人々は、当時桑原山と呼ばれた車山から霧ヶ峰、諏訪大社下社の旧御射山にまで及ぶ、八島湿原に達する広大な入会地有していた。 桑原氏の本拠地は狩猟の格好の場でありながら、何故、神野・原山の神聖地を侵したのであろうか?
 『画詞』の成立は、南北朝の延文元(1356)年であるが、この事態について年号が示されていないが、鎌倉末期とみられる。『守矢満実書留』は文正元(1466)年の室町幕府の末期的混乱期、 神使御頭は上原郷、翌2年は上桑原郷とある。いずれも諏訪惣領家安芸守信満が御頭を勤仕している。領主権は諏訪家に移っていたとみられる。
 桑原城は高鳥屋城(たかとやじょう)とも呼ばれた時代もあった。後に城主として桑原左近の名もみえ、諏訪氏被官の桑原氏が居住していたと見られる。文明15(1483)年の下社金刺興春との抗争の中で桑原氏の名が見られる。桑原氏 の地位は低下しているが、存続していた。
 天文11(1542)年6月24日、武田晴信は突如諏訪頼重を攻撃するために甲府躑躅ヶ崎館を出立し、29日に諏訪郡に侵入、神野・御射山に布陣した。当初頼重は晴信の侵攻を信じなかったが、ようやく28日に軍勢を上原城に召集、7月1日に出撃して武田軍と対峙した。7月2日、親族の高遠城主・高遠頼継が武田氏に呼応して杖突峠から諏訪に侵出、諏訪氏の居城・干沢城を落とし安国寺附近を放火した。
 頼重は挟撃を恐れて上原城を焼き払い桑原城に立て籠もった。武田軍は桑原城下に兵を進め、落城寸前と見られたが、7月4日に武田軍より和睦の申し入れがあり、頼重はこれを受け入れて7月5日に桑原城を開城、弟の大祝・頼高とともに甲府の東光寺に幽閉され、7月21日に切腹し諏訪氏は滅亡した。桑原城はまもなく廃城となったと思われる。
  天文9(1540)年、武田信虎は娘の弥々諏訪頼重の室として送り込むことで、長年争ってきた武田と諏訪の同盟を図った。しかしその信虎は息子の晴信のクーデターによって駿河に追われた。電光石火のような政権交代劇の後、晴信が手をつけた最初の大仕事が諏訪侵攻であった。晴信は甲信国境に兵を進めるが、半信半疑の諏訪頼重は貴重な時間を無為に過ごしてしまい、いよいよ危機に気づいた時には既に遅く、兵も集まらず、敵の挟撃を避けるため上原城を捨て桑原城に立て籠もる。  頼重にとって不運だったのが、頼重が夜間、桑原城内の備えを検めるために歩いているのを、浮き足立った城兵が見て「頼重が夜陰にまぎれて脱出しようとしている」と誤解された事であった。頼重が自らの陣に戻ったときには、城兵の大半は脱走し、残った将兵はわずか20人という。もはやこれまで、と覚悟を決めたときに、武田軍から意外な使者が舞い込む。それは和睦の申し入れであった。頼重は、ひとまず武田と和睦し、晴信とともに躑躅ヶ崎館に向かう。しかし、頼重はそのまま東光寺に押し込められた。
 頼重は自身の最期は当然と、当時の武将として悟っていた。勝算のない徹底抗戦は、天皇家と遜色ない諏訪氏棟梁家の歴史を思うと、その再興を不可能にする。自身の切腹により、名門諏訪氏の傷口を最小にし、その再起のため残存勢力の温存をはかった。 頼重は甲府の東光寺から、武田晴信の股肱の臣・坂垣信方の屋敷に移された。7月20日、自刃を迫られた。その際「自分ほどの武士に腹を切らせるのは、武田氏にとって初めてであろう」、ついては酒と肴を所望した。信方の臣は、酒は出したが肴はないと断った。
 頼重は信方方の武家の作法の無知を諭し、「肴とは脇差のことだ」とたしなめた。頼重は脇差を受け取ると、11文字に腹をかき、介錯のない無残な仕打ちに耐え、最期は胸を刺して、見事に自刃したとされている。武田晴信、坂垣信方の非情さが知られる。
 頼重の辞世

  おのずから 枯れ果てにけり、草の葉の 主あらばこそ またもむすばめ

と残して割腹し、諏訪惣領家は一旦滅亡している。頼重27歳であった。当時禅者の間で「野火焼けども尽きせず、春風吹いてまた芽を生ず」と語られている。 禰々の方は憐れにも、実の兄に裏切られ、夫を奪われ、国を奪われた。後に晴信は、禰々の方の遺児(虎王丸千代宮丸)を高遠攻めの際に、名目上の諏訪氏後継者として担ぎ出し、諏訪諸勢力の結集に利用している。
 憔悴しきったの弥々方は天文12(1543)年正月19日、悲嘆の中、16年の短い人生を終えた。残された千代宮丸のその後は不明ながらも一説に憎き晴信に復讐を企て、駿河へ亡命の途上で捕縛され殺されたとも、また上杉家で諏訪氏を名乗り活躍した武将になぞらえたりした。 そしてもうひとりの女性、梅(由布姫)もまた、過酷な運命を背負わされていく。頼重と先室小見夫人との姫も、弥々御料人と交換で、信虎の嫡男晴信(武田信玄)に嫁することを前提に、甲府へ送られた。その人こそが諏訪御料人で、当時12、3歳と言われている。 やがて梅は身ごもり、父の仇である晴信との間に一子を設けた、それが諏訪四郎、この人物こそ武田氏最後の頭領となる、後の武田勝頼である。父と国とを奪われた恨みと晴信への愛憎入り混じった感情、そして甲斐源氏・武田と神氏・諏訪の血を引く我が子への思い。過酷な戦国に生きたこの美しき女性も、若くして患い、やがて歿していく。 ふたりの女性にまつわる哀話を残すこの諏訪の湖、その悲劇を招いた張本人である武田晴信もまた、上洛の夢半ばに歿し、その遺骸は遺言により諏訪の湖に沈められたという説もある。
  桑原城そのものは規模も小さく実に単純な縄張りであるが、上原城は「天嶮」というだけあって防備に硬い城であった。規模の小ささを考えれば、なぜ頼重が本拠の上原城を棄ててこの桑原城で最後の一戦を試みようとしたのか。城の裏手から間道を抜け、和田峠から佐久や上田に逃れることは可能であった。また角間川から八島の御射山を通り、男女倉の山道から東山道に出られたはずである。 諏訪氏終焉の地、桑原城から見下ろす諏訪湖は、どこか儚く、早春、カタクリの花が群生していても、物哀しい色に満ちている。築城時期は詳らかではないが、文明年間(1469年~1486年)には諏訪氏被官の桑原氏が居住していたと見られ、文明15(1483)年の下社金刺興春との抗争の中で桑原氏の名が見られる。その後、桑原城は武田氏の代官が管理していたが、天正10(1582)年に武田家が滅亡するに伴って廃城となった。
 天文11(1542)年、諏訪頼重敗戦後、武田氏の40年間の長き支配に耐え、頼重の叔父満隣(みつちか)は剃髪し竺渓斉と号して、諏訪氏の系図と位牌を安国寺に託し、自らは安国寺や湖南の竜雲寺等に身を隠した。諏訪氏再興の機を待ち天文14年には、満隣の第2子頼忠を大祝とするも、軍事に関わらせなかった。満隣の頼豊頼辰の2子は武田方に属し、武田家滅亡時に、それぞれ討死している。武田氏滅亡の翌年、天正11(1583)年、頼忠は徳川家康から旧領を安堵される。頼重の辞世に寄せた思いが適ったといえる。

16)知久氏
 諏訪氏の武将・知久(ちく)氏は、有員から26代目大祝敦忠(あつただ)の弟・敦俊が知久氏の祖となる。治承4(1180)年の源頼朝の旗揚げに際して、源氏勝利の瑞祥を顕したことで有名な諏訪大祝敦光(篤光)の子敦俊が、知久十郎左衛門尉を称したことに始まる。
 初代の知久敦俊は、始め上伊那の知久に居館を構えて、その地方を治めたので、この血筋を知久氏といった。知久敦俊は、承久の乱(1221年)に参戦し、幕府の恩賞により下伊那の伴野庄の地頭に任じられる。それ以来、上の平から下伊那郡の下久堅の知久平へ移り住み、神峯城(かんのみねじょう)を、本拠にした。北には知久沢川が流れていたことからこの名をなのった。
 上伊那郡蕗原庄箕輪
に居館を構え、他田信貞を養子に迎えた。 11世紀の他田太郎重常は、源義家に従って「後三年の役(1083)」に出陣し勲功をあげている。重常の孫好行は依田為実の猶子となり、子の他田右馬允信行は依田三郎とも称している。また信行は中津小太郎為貞の娘を娶って信忠が生まれ、信忠は中津頼継の猶子となった。のちの知久氏はこれによって、源氏を称するようになったようだ。 そして、信忠の孫が知久氏の祖となる信貞である。
 承久の乱(1221)後、知久氏は上伊那の小河内から知久平に移っている。『守矢文書』によれと、鎌倉時代、知久氏の勢力は伴野庄にまでは及ばず、知久郷以南であったと推測される。 敦俊の子・敦幸は、仏教を重んじ、下伊那の各地に、多くの寺院を建立した。その上、上社が祖父の地になるため、上社神宮寺普賢堂五重塔をはじめ多くの堂を寄進した。五重塔は高さが30m近くあり、その姿は優美で、奈良・京都の塔に比べても見劣りしなかったと言われている。
 明治元年、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって一瞬の内に破壊された。            

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