二之丸騒動 Topへ
1) 二之丸騒動の時代背景
諏訪忠厚(ただあつ)は5代・忠林(ただとき)の子で、延享3(1749)年9月29日江戸・桜田の藩邸に生まれ、兄の夭逝により宝暦13( 1763)年18歳で藩主となり、従5位下安芸守となる。幕府の勤めは明和9(1772)年8月、将軍・家治の生母・心観院の法事に山内警戒道路供奉をした。彼は父以上に 生来病弱で、諏訪に帰城することも少なく、政治にも関心が薄かった。また江戸期は、 家老政治が確立した時代でもあった。高島藩でも3代藩主・忠晴の晩年から藩主は、政治にかかわらなくなった。
文芸等で遊ぶばかりであった。4代忠虎も俳句をよくした。5代・忠林は忠虎に子が無く分家(頼郷家)から入った。29歳で藩主になったが身体が弱く、その上養子ということもあって、学問には極めて熱心だが藩政を顧みず、藩主は飾り物となり、政治の実権は家老たちが握った。忠厚の頃には、家老権がますます増長する一方、
貨幣経済の浸透で藩財政は一段と苦しくなり、そうした中での家臣団相互の野心的な政争が始まり、藩主自らそれに振り回されたといえる。
「御家中被仰出候覚」には、乾龍院(3代藩主・諏訪忠晴)の時代、家中の物成を借り上げたとあり、17世紀半ばには、既に、財政困難となっていた。元禄7(1694)年には、藩の江戸賄(まかない)銀不足のため、下諏訪1万石の当年秋の物成を担保に京都の商人・日野屋から借財をしている。京都の「御用証文留」により、日野屋十右衛門、銭屋久次郎、桔梗屋伊兵衛ら10名から、合計1,130両と銀248貫700匁を借用している事が知られる。 この多額の借財は、4代藩主諏訪忠虎襲封の際の入用金であった。藩財政の逼迫は、呉服代、御仕着代等の藩主と家族の賄い費用が多額であったせいもある。不時の支出は、即、財政赤字となった。享保6(1721)年、江戸上屋敷普請のため、上諏訪町から100両、上桑原から8両借用した証文が残っている。
高島蕃には2家の家老家があった。1つは古い諏訪家支族千野家である。頼忠の諏訪家再興の際、最大の功労者が千野昌房、頼房父子であったが、その頼房が初代家老と成り、三之丸に住み三之丸家と呼ばれた。1つは初代藩主・頼水の弟・頼雄である。頼忠4男で、家老職となって兄の藩政を助け、新田開発では辣腕を振るい、原村中新田では開発の恩人として、頼水と共に鎮守社に奉られている系譜の二之丸家であった。
この2家の家老家が並立し藩政を預かっていた。共に1,200石の最高知行で、上下の差はなく、先任家老が筆頭になり、それぞれ勢力に時々の消長があった。
寛保( 1741ころ)のころまでは、千野氏が貞清・貞章・光豊と優れた人物が輩出した一方、二之丸家(頼英・図書)は代々病弱で若死にが続き、当主は幼弱で員に具わるのみという時代があった。ところが延享2(1745)年直後から三之丸家に不幸が続いた。11歳の貞亮(兵庫)が残るだけとなり実力を失い、逆に藩主忠林の庇護を受ける身となった。
この時代の背景を語ると、宝暦11年(1761)、家重が逝去し、世子の10代将軍徳川家治が将軍職を継ぐと、先代以来の田沼意次に対する信任はより厚くなり、急速に昇進し、明和4年(1767)には、御側御用取次1万石の大名に栄進した意次に、さらに5千石加増、御用人から側用人へと出世した。明和6年(1769)には従四位下に進み2万石の相良城主となって、侍従にあがり老中格となる。安永元年(1772)には、相良藩5万7千石の大名に封じられ、老中を兼任した。前後10回の加増で、僅か600石の旗本から5万7千石の大名にまで昇進し、側用人から老中になったのは、綱吉の側用人柳沢吉安以来であった。田沼意次は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画する等独創的、且つ意欲的であったが、一方では賄賂がはびこり、奢侈に流れる傾向が強かった。
江戸三大大火の1つの明和の大火、安永2年(1773)の飛騨の騒動、安永6年(1777)の信州の百姓騒動、天明の浅間山の大噴火、天明の飢饉等、相つぐ暴動と飢饉、そして天災地変が発生した。その対策として、幕府は種々の政策を試みたが、そのため直接間接に百姓町人の負担が重くなっていった。安永8年(1779)、家治の世子家基が18歳で急死したため、天明元年(1781)に一橋家当主徳川治済(はるさだ)の長男・豊千代(後の第11代将軍家斉)を家治の継嗣とした。天明6年(1786)の家治の死は反田沼派によって直ちには公表されず、田沼意次が失脚した後の9月8日(新暦9月29日)になって発葬された。また家治は、意次の差し出した薬を飲んだ直後に危篤に陥り、それで意次が毒を盛ったのではという噂が流れ、結局、反田沼派の策謀により意次は失脚した。
2)三之丸派の改革
宝暦7(1757)年、千野貞亮(兵庫)を中心とする三之丸派は、「繰廻(くりまわし;一時的遣り繰り)」と称し、家中の知行、物成の御借上と御郡中及び筑摩郡の御郡中3千石から借用金を得ている。その内訳は、御納戸金から5,850両、御貸方から2,052両、江戸藩邸から2,250両、御郡中3千石から1,562両、御郡中から2,696両等、総計2万1,488両の借用であった。前者3つは、藩の特別会計から御勝手方役所の一般会計へ資金を移動しただけであったが、御郡中及び筑摩郡3千石からの合計4,258両は、藩の御借用金となる。御借用金は郡中から石高に応じて借用するのだが、返済の見込みがないままの借用であったから、言わば増税である。本来は臨時的なものであったはずが、賦課の基準を細かく修正しながら継続した。寛政のころには、百姓の当然の負担として扱われた。
「御貸方」の責任者は、貸方代官で以前は種貸(たねかし)代官と呼ばれ、元禄9年ころ改称された。その任務は
一、藩営の金銭米穀等の貸付と徴収。
一、運上の徴収。
一、三手(東筋、西筋、下筋)御蔵の払い米の取り扱い。等である。
御家中に対する借り上げは、正徳元(1711)年暮れまで、1割半、1割御借上と続き、「延宝三年乙卯年自安永十酉年迄被仰出書抜」とあるのが初見で、正徳3年には、財政不如意であるが家中も貧窮として、御借上をとり止めている。ところが享保17(1732)年11月、家中や浪人、百姓町人の裕福な者は、金子を用立てるよう申し渡している。さらに元文4(1739)年9月26日、江戸表からの書付に、姫様婚礼御用のため、御家中知行取、御扶持米取、御給米取、下々の者まで、当年2百両相当の俵数を、翌年も同数の俵数を借上げと記している。その後も、詳細を記したら切りが無いほど続き、宝暦9(1759)年5月にいたっては、外様(とざま;本来の家来でない意)御徒以下軽い奉公人まで、その身上調査の上、同年暮れから5~6年借上げを申し渡している。この時の借上げは、「一統一割、江戸常住の者五分の割合」であった。その後も借上げは続いた。
藩は3月中旬、払い米といって米手形を売る。村々は、その手形を買って上納とした。払い米のため、村々では、穀物を売るなどして買い上納の資金を手当てしている。
翌宝暦13(1763)年暮れから御借上が止む。高島藩は小藩であり、家中の多くの石高は、数十石単位の知行取が殆どで、数石単位の給米家臣も多かったとみる。家中は貧窮を極め、その救済のため貸付までも始められた。
漸く千野兵庫は新政策を実施する。明暦元(1764)年、行き詰る藩政の改革のため、新役所を置き、積極的に新政策に着手しようとする。宝暦6(1756)年以来停止していた畑直しを解禁し、新役所の下で、新切(新たに開墾した田畑)、新汐(用水路)開削等を進めた。その開削を許可する際、賄賂も行われていた。藩内の賄賂記録は随分と多く、その横行のほどが知られる。
新切、新汐開削と畑直しは、進んだが、既存の水利権者との紛争が絶えなかった。特に鳴岩川と柳川からは、既に多くの揚げ汐が開削されていたため、新たに4筋開削されると、川下の村々の水田に水不足を来たす。それで新汐差し止めの願書が、川下の村々から出された。高島藩では、これらの紛争に関して、明和7(1770)年、「鳴岩川及び柳川筋水量高島藩裁定」を出し、各汐に分水の規定を設け配分した。村と汐相互の話し合いでは解決できなかったようだ。
「畑直し」とは、畑を田に直す事をいう。「畑直し」後は、検地野帳の畑は永引きとなり、その旨が記される。その分は別にまとめられ、「畑直検地野帳」が作成される。「畑直検地野帳」の初見は享保8(1723)年の「癸卯百姓改」の際のもので、以後「畑直し」が盛んになる。逆に田を畑に直す事を「田直し」というが、余り無い事であった。
諏訪湖東岸の見出(みいで;阿原等を耕地した土地)6ヵ村では、明和2年と3年、阿原(湿地)の新田に等級をつけ、年頭にそれぞれ津高(税率)を定めるという新しい検地仕法が採られた。新田村は、通常、湧水のある所や阿原を選んで開墾された。既存の水利権による制約や汐を開削する多大な労働力を賄えなかったせいもある。また当時は、頑丈な備中鍬が普及するまえで、小形の鉄製熊手のような鍬・いわゆるガジで石を除いたと言う。開墾の労苦は、並大抵なものではなかったようだ。
明和2年、畑方の物成の4分の1を金納とし、馬喰(ばくろう)運上を設けた。土地に課する税は、物成、本途物成、年貢と呼んだ。本途物成は田畑の正税で、高島藩の津高は、8津3分(83%)から1津1分(11%)の間であった。同一村内でも津が異なる事も珍しくは無い。4公6民と言われるように、総体的にみれば、高島藩も収穫高の40%、4つ物成であった。しかし実態は、石盛りが低く定められていたから、実質の津高は更に低かった。享保以降は、天領でも3割から3割5分であった。高島藩の津高の実質も、それに近かったとみる。
八ヶ岳山麓や釜無山脈(西山)の山中や山麓では、畑方全部が大豆上納になっている所が多い。柏原、糸萱、笹原、須栗平、金山、新井、山口、上下菅沢等や坂室、木舟、大池、大沢、栗生、大平、平岡、神代等が、それに該当する。従って、その4分の1が金納とされたのだ。村々では、穀物を商品化し、中馬稼ぎに励み、当歳(とうね)馬の生産等で、上納資金を捻出した。
普通、小物成とは本途物成や夫役以外の現物納を総称するが、運上は定額で貨幣納になっているものを指す。それには沿革があって、近世の小物成の初見は、文禄4(1595)年、明海(あけのうみ)の漁業の税を定めたものであった。結氷していない諏訪湖のことを明海という。ここの漁業権は、近世を通じて小和田村(こわた;現諏訪市)、小坂村、花岡村(現岡谷市)の3浜に限定されていた。 正保4(1647)年には、麻、綿が上納されている。寛文7(1667)年になると、氷曳運上(こおりびき)、糀役(こうじ)、豆腐役、紺屋役、問屋役、酒屋役、麻布商人運上、白木問屋役(しろき;白木は樹皮をむいた木材)等が史料上に現れてくる。大部分、その実態は役銭であった。そして明和のころに、麻綿上納以外は運上と呼ばれるようになった。
元禄時代から商品経済が活発になるが、藩財政もその渦中にあって、出費が増大して窮迫してくる。それに伴い、元禄、宝永と新規の運上が始まり、宝暦、明和、安永と営業税的性格の運上が増えてくる。藩政財政は、商工業の発達と表裏の関係であれば、その改革は、常に運上の追加を伴った。明和4年、当歳(とうね)馬運上、翌年、糸蛹(さなぎ)真綿運上、同7年、蝋燭伽羅(ろうそくきゃら)油運上、青物見世運上が始まる。また明和年間の内に水車運上も始まった。
馬の飼主は大多数が1匹持ちであったが、3匹持ちも希にあったが、今年生まれた当歳を、村々では「とうね」といった。当歳馬は、大きくなるまえに換金している。盆直後に売り渡せば、母馬の体力の回復も早く、次の安産に繋がるからである。当歳馬生産は境筋が盛んであった。「境筋当歳村々二十八ヶ村」とあり、御射山神戸から立場川以南に、小東新田(富士見町境)を含めた28ヵ村があった。茅野市域では、山浦地区の芹ヶ沢、堀、新井、金山、糸萱、笹原、須栗平、中村、上菅沢の9ヵ村が、比較的多かった。
明和3年、抜高の制度を停止し、御郡中3千石に御借用を申し付けている。村高が御役儀の基準とされると、一定の基準で夫役や高掛(村高に応じて賦課された付加税の総称)を免除する「抜高」の制度が出来た。寛永15(1638)年5月、「諏訪頼水御蔵方定書」により、家中、奉公人も名請地に年貢、夫銭が賦課され、奉公が終われば、百姓同様に郷役を勤めよと、奉公している時だけの減免となった。
高島藩では、知行または蔵米を支給されている上級武士から藩の奉公人まで、百姓同様田畑を所持している。こうした武士の土地を家中名請地といった。奉公している場合、それぞれの身分に応じて、最高15石、最低は中間の5石の夫銭(高役)が免除された。これら抜高を認められた者には、百姓から召し出され足軽、中間、御厩(うまや)之者、50人者、諸職人等の奉公人もいたが、身分、家格に関係なく皆抜高を認められた。また諏訪上下社領の神官、社人にも抜高が認められていた。それが、藩財政窮乏の折として、明和3年に、その抜高の制度が停止された。
城下町では、旧来から塩、肴、雑穀の問屋があった。明和2年上野砥問屋(うえのと;群馬県甘楽郡産)が新設された。同4年、在方の酒造と新規の紺屋等が禁止された。問屋による商業統制を口実に、在方の商業の発展を阻み、城下町問屋の冥加金の増徴を意図した。
以上の新役所の政策の実施にあたり、吉野屋忠兵衛ら城下町商人や、北大塩村清十ら村方の有力者の力を借りた。清十は郡中に御借用金が申し付けられると、その割当に奔走した。借用金は、清十を通じ役人に賄賂を贈らなければ、返済が困難であったという。清十は、その賄賂の上前をはねて、手元金、貸金、地代、家屋敷、家財、什宝合わせて2千両を蓄えたと言う。
また村町の訴訟等を、新役所の内談で決着させたため賄賂が、益々横行した。
3)明和の一件
新役所を中心にした千野兵庫の施策に、農民の批判は高まった。二之丸家・諏訪大助は、明和7(1770)年12月26日、家中無尽禁止の廻状を出した。藩が大金を必要として、全郡に呼びかけて融通講を開いたのであろうか。翌27日、村方の困窮事情書上げの廻状を出させた。翌8年正月、村々から「難渋箇条の書上」が提出された。それには、家中無尽が禁止されて有難いと述べ、難渋している事は、
一、蕎麦・油荏の上納を増やす事。
一、畑方を4分1金納にする事。
一、毎年御借用する事。
一、川浚い金を毎年掛ける事。
一、下諏訪宿の伝馬札を吉野屋忠兵衛の請負にしている事。
一、魚類の売買を城下の上町、中町だけに制限する事。
一、新汐開削と水田増加で下流が水不足になっている事。
一、近年御役人に音物(いんもつ)を使って出入りしている者や音物を取り次ぐ者の仲介で、金銭の負担が大きくなり、御役人 の不正が百姓難渋のもとである事。
等々と詳細に記している。村方では、それは波多野左膳、井手八左衛門、上田宇右衛門が元凶とみていた。千野兵庫が新設した新役所は、藩内良民に金銭負担を増やすだけで、それが役人の腐敗を生んだ。またそのために困窮する良民に的確な対策も打てずいた。
二之丸派は明和8年6月19日、城下と山浦で藩の役人と結託して、賄賂の斡旋と周旋等で、私益を謀ったもの39人を入牢させた。入牢者は年内には、出牢してはいるが、在所から追放され新田場居住となっている。北大塩村清十は重罪で、闕所となり、翌9年1月牢中で、首を吊っている。清十の資産は、2月、藩により競売に掛けられている。南大塩村の心光寺の庫裏は、この時清十の家屋を落札し移築したものである。
12月19日、千野兵庫は「お勝手係りの致し方が宜しくなく、その詮議も不十分」として、藩主忠厚の自筆で厳重に注意された。新役所関係者20人も処分されている。兵庫派と目されていた波多野左膳、井手八左衛門、上田宇右衛門らの処分は、特に重く、役向きが粗雑として、知行、家屋敷が没収され逼塞を申し渡された。ただ子息に10人扶持が与えられた。上田宇右衛門は、明和3年、かつての湖東村の笹原新田、須栗平新田の東方にある小野子山(御鹿山)が、山手大豆15俵、新規上納を命じられた時、40両を受け取り免除としたが、突然出府となると顧なくなり、免除の事実をうやむやにした。山手大豆や山手米は、林等が田畑にかわった際、その生産性の低さが考慮された上で賦課された。両角十郎右衛門も知行20石と家屋敷を没収され逼塞、千野与右衛門は御役取上げ逼塞、加藤善右衛門は、家屋敷を没収され逼塞を申し渡された。他13人が「お咎め」を受けている。以上が 明和の一件といわれ、二之丸騒動の発端となる。
4)二之丸の執政
明和7(1770)年5月27日、5代藩主諏訪忠林(ただとき)が没すると二之丸家の専横が目立つようになった。翌明和8年12月、二之丸派が実権を握った。翌9年5月24日、6代藩主諏訪忠厚(忠林の4男)は、「繰廻と称して郡中から多額の借用金を徴収し、新役所の施策も政治の腐敗を生み、却って家中を貧窮させ、郡中の難儀となり、幕府への公訴にまで及びそうになったが、諏訪頼保(大助)は事態を事前に回避し、郡中に静謐をもたらした」と賞した。その功により大助の父・頼英(図書)を主席家老とし、大助は三沢村(現岡谷市川岸村;製糸王片倉兼太郎の生誕地)に150石を宛がわれた。その上、家督相続の節には、その家禄と合わせて1,350石とすると申し渡された。大助は病気の父に変わり、その名代として専権を振るい、以後8年間政権を握った。兵庫はそれに従うのみであった。
大助の政治改革は素早く、明和8年4月、魚類の売買は城下の上町、中町だけでなく、古来どおり清水町でも販売が出来るようにした。同年9月、畑方4分の1の金納も止め、馬喰運上、女馬運上も廃止された。当歳(とうね)、2歳には雄馬もあったが、雄馬は通常去勢され雌馬として数えられた。商人運上も従来に戻して、村役人改めにした。
安永2(1773)年2月、伝馬役の雇人足を禁止し、雇馬については、下諏訪町と隣の友之町(下諏訪町友之町)から雇い入れ、届出制とした。宿場の宿負担の人馬では不足の場合、助郷村へ命令して割り当て、宿場が運ぶべき範囲の分まで、百姓に負担さるなど争論になる例が多かった。しかも、弱い立場の百姓の主張が認められず、彼らの泣寝入りに終わることが多かった。大助はその改善を図った。
同年4月、阿原検地を行った。兵庫が実施した明和2年と3年の阿原(あわら;湿地)に頭付け(等級を付け)をし、年頭にそれぞれ津高(税率)を定めるという検地仕法は不評であった。恐らくは、その際、検地役人から足軽まで賄賂を提供せざるをえず、毎年の事であり、ましてや生産性の乏しい阿原であれば、その負担は耐えがたいものであったと見る。まず上田、中田、下田の等級区分を廃止し、総面積と津高4津3分のみを記録し、実際の貢租高は検見によって決められた。
7月15日、幕府は御普請方菊池惣内と中村丈助を派遣し、上諏訪町清右衛門の居所で、中馬総代に対して、運上上納と鑑札下付が申し渡された。郡によって差があったが、甲州追い1匹2朱、江戸追い1匹1分の運上を上納させるとした。それを宿場の助成として交付する計画であった。それが2匹追いの札であったため、中馬の主立つ者は急遽、御普請方が高遠の栗田村へ向うのを追い、16日面会し実情を申し上げ、中馬は従来どおりに3匹追いが許される口上書を得ている。以後、鑑札の中馬札がなければ、中馬稼ぎができなくなり、一種の株となった。それは運上を納める事に繋がった。この年、塩之目村、山田新田、柳沢新田の検地が行なわれている。
安永4年、大助は難儀の事を書き上げるよう、お触れを出している。この時期までは、民衆の声を聞く姿勢を示していた。しかし、安永6年になると、中馬稼ぎに1匹150文を、高島藩の運上の徴収役を担う御貸方代官所へ上納するよう沙汰を出している。
このころから、諏訪大助の改革も出尽くし、逆に政治の腐敗がはじまる。賄賂次第で罪が許される、村の検地には音物が必要で、それに必要な莫大な経費も草高(総実収高)の減少で充分見合うとか、大助にへつらう者が登用されるとかの話柄も語られている。
安永5年、先に闕所となった清十の子与惣右衛門ら3人が闕所金の返還を郡奉行諏訪貢に願い出、それが叶えば、大助、貢、文右衛門に150両を渡すと裏面工作をする。呆れる事に、それが通り、大助は、貢に、与惣右衛門ら3人に闕所金全額の返還を指示している。その後御貸方代官所からの返戻金から、167両1分を貢が受け取っている。安永6年、大助の叔父にあたる諏訪貢は、姑息なまねをしている。蔦木、金沢、上諏訪、下諏訪4宿の町金の借用は禁止されている事を断った上で、上諏訪、下諏訪両宿から借用している。
安永8(1779)年、諏訪貢は、自宅に町役人を呼び、城下の酒屋から15両借用したいと申し出た。その前に今井村から造酒経営の願いが出ていて、城下の酒屋8軒が反対を申し出ていた。その際、既に10両を借用していた。重ねての借用である。布屋伊三郎は、内意があるから先の3両は差し上げる、代わりに残金7両の返金を願い出た。貢は、その申し出を不埒として恫喝した。町役人が取り持ち15両を、言うがまま差し出した。貢は、証文も書かず、利息も支払わなかった。
5)安永一件
藩主忠厚が藩政を顧みないことをよいことに、大助は驕慢になり奢侈に走り、賄賂を取って検地をして貢租を減じたり、小六新田の見立奉行になって私利を図ったり、入牢者を賄賂で放免したり、政治は乱脈を極めていく。その間、藩主への報告は「御政道順路」とか「御郡中静謐で、税もよく納まり御勝手方差し支えなく」等と言上され、忠厚はそれを信用していた。この間、兵庫は読書や放鷹などに明け暮れ、痴なるが如き日常であったという。
ついに大助の行状に堪えられなくなり、安永8年(1779)3月、千野兵庫は意を決し志賀七右衛門と出府し、大助の暴政を藩主忠厚に告げた。忠厚も困惑し憤りもしただろう。腐敗不正で失脚した三之丸家・千野兵庫の明和の一件から8年も経たず、今度は二之丸家・諏訪大助の賄賂政治への告発であり、その告発者が、先任の執政、しかも賄賂政治で失脚した千野兵庫である。
安永8年6月5日、二之丸家・諏訪大助は失脚し、三之丸家・千野兵庫が実権を握った。大助は「御叱り」を受けた。「御叱り」は「刑の申し渡し」である。内容は「自己の取り計りを専らにし、依怙贔屓(えこひいき)の沙汰をし、遊興に耽り乱酒賄賂等の風説もあり甚だよろしからざる趣、不届至極、家老職を免じ閉居を命ずる」とある。賄賂の件は「風説」というだけで、大助の一類も「御叱り」を受けるが、この時は、閉居だけの軽い刑であった。同時に、上田弥右衛門、小沢忠左衛門、鵜飼伝右衛門、中島織右衛門、小平権太夫、諏訪貢、今井彦左衛門らが御役御免となり、計19人が御咎めをうけた。以上が暫定処分で、翌9年6月、本格処分が決まった。
大助の父、諏訪図書は息子の不正も知らず、不調法であるが、逼塞中であれば咎は別段ないとさせた。大助は藩主に伺いを立てず検地を専らにし、清十の闕所金の始末や内証の取次ぎを受けている事、風儀が乱れている事等で、引き続き閉居を申し渡された。ここでは賄賂の話が無い。その外、諏訪貢が知行、居屋敷召し上げ、御城入りと他所出差し控え、小平権大夫が知行300石召し上げ隠居、諏訪甚五左衛門が知行召し上げて給米を下す、二之丸家の家来白川十兵衛奉公召し放ち、御城内他所出構(おかめえ;追放)等、処分は60人に及んだ。
同年6月19日には、安永検地の賄賂に対する村方処分があり、牢舎3人を含む50人が御咎めを受けた。村々にも「御叱り」が出された。その「御叱り書」の前文には、大熊・塚原・矢ケ崎・小坂・南大塩・上桑原の六か村の村ごとに、その村の検地にかかわる入費(にゅうひ)と検地の結果の村高や物成等の減少額を記している。入費は正金音物(しょうきんいんもつ)・音物代・諸入用と分けて記載されている。正金音物・音物代が賄賂で、誰に贈られたかまでの記載はない。しかし六ヵ村ごとの入費の詳細が記載されている。次に「右の村々検地の砌、不届きの筋これ有り、入用多く小百姓難儀の儀相聞候に付、諸帳面取り上げ吟味を遂げ候所、前文の趣候、諸役人へ賄賂を以て取り扱いの儀、兼々仕る間敷筋、右躰莫大の正金、其上御高御物成格別に相減候筋、不届至極に候」と、財政難に苦しみ続け、結局、幕末まで其の解決策をうち出せなかった小藩高島藩の最高位にあった重臣の実態が、これであった。賄賂を工面する小百姓の難儀による悲鳴が、藩の重役達の耳にも達し公然の秘密視されていた。
莫大な正金・音物の渡し先の記録が、大熊村の「方々様への上げ物帳、安永六年」という文書で残されている。この年の大熊村分だけで、99両1分、内訳は諏訪大助が20両、御屋敷15両、小平権太夫15両、百瀬庄兵衛13両、吉田幸右衛門15両、岩波八右衛門13両、以下足軽手明(てあき)までも付け届けをしていた。手明は御用部屋の下働きをする奉公人で、藩主の行列の際は、御持弓組、御持筒組として従った。
村方に対する処分は、大熊村の3人が牢舎に入れられ、一番重い「御叱り」であった。しかし賄賂を罪状としておらず、勝手に「芝請(しばうけ;芝地のまま検地のための竿請けをする)」したことが理由になっている。矢ケ崎村では、名主縫左衛門が戸〆(とじめ)、年寄孫衛門と久内が慎(つつしみ)、地引(じびき)助右衛門と清右衛門が急度叱(きつとしかり)であった。全村合わせて50人が「御叱り」を受けている。「戸〆」とは、家の中に閉じ込め戸に釘を打つことであった。「急度叱」は「厳重注意」、「慎」は家の中での謹慎である。ことの重大さに比して、賄賂に対する「御叱り」は、比較的軽いものといえる。興味深いのが塚原村の地引勝右衛門・今右衛門・清左衛門が「急度叱」の処分で、特に但し書が付き、「偽の書付け取拵え、其の他巧(たくみ)なる致し方に付き」と申渡されていた事である。
地引とは、江戸時代、検地に先だって作成された帳簿で、その所在地・用途・持ち主などを1筆ごとに書き上げ、検地奉行に提出した書類をいう。村方には、その書類を作成し管理する役職があった事が知られる。当時、村には名主・年寄り・百姓代の村方三役(むらかたさんやく)が、主に仕切っていった。名主名(めい)は、近世の初めは「印判衆」と呼び、やがて「肝煎」、次に「庄屋」、元禄以降、名主となる。「年寄り」を一時「長百姓」といい、江戸期には組頭ともいっている。名主の定数は当然一人と想定されるが、各村のおかれた現状により、3人もいた時代もあった。矢ケ崎村では、塚原村が独立する以前、3人いた時期もあった。上原村では2人の時もあった。「年寄り」は通常2人いた。村内は近隣の5軒を1組にする5人組制度があって、隣保互助と連帯責任を負わされた。
高島藩は、明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還まで、百姓一揆がない稀有な存在であったが、検地が賄賂によって不正に行われ、村高、物成、出入の減額が明らかでありながら、藩は村方の願いとして受け入れていた。村方の贈賄に関して、名主以下「戸〆」などの軽い「御叱り」で済まし、以後村方は、その結果がそのまま受忍され、その恩恵にあずかった。文政2年(1819)の検地では、矢ケ崎村は田畑合わせて377石9斗6升6合3勺、塚原村は534石2升7勺と算出された。これは安永6年の検地後の石高とほぼ変わりが無い。
検地に際しての不正の事例は、大助の父・諏訪図書にもあった。その家来田中儀左衛門は、矢ケ崎と塚原の両村から検地願いの内意を、主君図書に取次いだ。7月に金子を差し出すことを条件に、その検地願いが通ったが、直ぐ金子が届かず9月にようやく両村から40両が払われた。その際、儀左衛門は、遅延利息として2両2分を要求し、自分には4両を別途出させた。儀左衛門は同様の事を、大熊村や南大塩村でも行い、その他にも不正が多く「御大法を背き、莫大な賄賂を受け取り主人の禍を弁えない致し方不忠の筋、重々不届きに付、新田場・御城下他所出御構い」を申し付けられている。
二之丸家の腐敗ぶりが際立つ、同じく諏訪図書の家来河西粂右衛門は、塚原村の検地の折、村方がその内意通りになれば、二之丸の屋敷内の稲荷社に50両の奉納金を差出すと談じ、河西は礼金として3両受け取った。河西粂右衛門の資料が残されていて、その検地の際、足軽・手明の詳細な収賄ぶりが記録されている。手明彦右衛門、南大塩1両2分、塚原村より3両2分、北大塩の記録は判読できず、足軽善右衛門は、塚原村より4両2分、小坂村より1両2分、同じく足軽十右衛門は、塚原村より4両2分。この3人に重き戸〆(とじめ)の「御叱り」が出された。足軽幸八と又七が矢ケ崎村より1両1分を受け取り、「御叱り」を仰せ付かっている。この事犯では全体で足軽60人が「御叱り」を受けている。
これが発覚し取り調べの結果が、「諏訪大助に伝えず、賄賂を奉納金と号し、主家に禍をもたらす不忠且つ不届至極」として、河西粂右衛門に奉公召放(めしはなち)と戸〆(とじめ)の「御叱り」が申し渡された。困窮する藩の財政の根本にかかわる犯罪が摘発されながら、諏訪図書、大助ら重役に対し、賄賂に関わらずと看過し、その家臣や下級の者が「主人の禍を弁えない不忠の筋」として処罰された。こうした藩上層部の腐敗を処断出来ない高島藩の現状を、心ある藩士達が暴発するその時宜を、よく捉え処置した三之丸家千野兵庫の技量が光る。江戸時代に多発したお家騒動を、たまたま姻戚関係にあった幕政の重臣・松平乗寛(のりひろ)と千野兵庫が、幕府に知られる直前に穏便に治め得たのは見事であった。
6)二之丸騒動の顛末
安永8(1779)年6月22日、今度は兵庫が賞され家老筆頭となり藩政を任された。兵庫は藩の風儀を正し、一転して謹倹第一、文武奨励で賄賂等の不正が介入する余地を無くした。ただ余りにも守旧的で、ある面では頑迷固陋、坂本養川の開拓計画も受け入れられず、長く頓挫した。林平内左衛門を江戸へ遣わし、藩邸の総理として、奢侈を取り締まらせた。
大助は勢力を回復しようとして、同族で姻戚関係にある諏訪貢、渡辺助左衛門、上田宗右衛門、同宇治馬、近藤宇右衛門、同主馬、小喜多治左ヱ門らとはかり、江戸藩主の周囲を自派で固めた。これに対して三之丸派も姻戚関係を中心に自派を結束する。その中核は千野兵庫、千野十郎兵衛、安間弥五左衛門、山中志津摩、吉田式部左衛門の5人であった。やがて他の諸氏も、いずれかの派閥に加わらざるを得なくなった。
藩主忠厚は病弱で藩政に関心がなく、その夫人は備後国福山10万石阿部正福(まさよし)の姫で子がなく、夫人の侍女とめ子が明和5年4月4日、産んだ庶長子・軍次郎を夫人が愛育していた。ところが同8年11月晦日、家女きそ子が庶次子・鶴蔵を生んだ。忠厚は鶴蔵を寵愛し、福山侯が軍次郎の嫡子届出を勧めても聞かなかった。
大助派は忠厚の歓心を買うため、軍次郎を不孝不行跡と誣告して、鶴蔵を世継にと願い出る一方、軍次郎派の夫人・阿部氏の離縁計画と、軍次郎の毒殺と呪詛調伏の陰謀が企てられた。
兵庫は江戸の様子を知り、意を決し天明元(1781)年正月、志賀七右衛門と再度出府した。次いで吉田式部左衛門・前田和左衛門らも出府した。兵庫は2月3日、江戸に到着したが、忠厚は病と称し会おうとしない。忠厚の周囲を固めた近臣たちは「何事も御前様の御意」と言い立てるだけで埒があかない。そうこうしているうちに兵庫を守ろうとする者、君側の佞臣を切って直訴しようとする者が続々と出府してくる。江戸藩邸は騒然となった。しかし藩主の周辺は二之丸派で固められ、3ヵ月も経過するがお目通りが許されない。逆に多数の出府を咎められ、4月17日差し控えを命じられ22日江戸を発ち、甲州路で26日諏訪に着到した。
兵庫は忠厚に憎まれること甚だしく、3ケ月待ってもお目通りを許されず、逆に多人数と徒党を組んで出府したと罪に問われ帰国を命じられた。国表に帰国すると追うようにして5月、家老職を罷免され隠居申し付けの直書(じきしょ)が届き、家督は7歳の貞慎(さだちか)に下された。直書は「自己の存意で諸事改正をはかり、伺いも無く多数出府し、林平内左衛門と謀をめぐらし、帰国命令を受けても出立を遅らせ」、「不忠の至り、家老職取り上げ隠居、押込み」という。そして図書と大助が江戸出府を命じられると、5月6日、藩侯の前で大助は今までの罪を許され江戸詰めとして再勤を命じられ、図書は国家老として藩政をみる。二之丸家は1年10ケ月ぶりに再び優位となった。二之丸派は、上田宇治馬が軍次郎の御付きとなり、近藤主馬が藩主の近習となって、君側を包囲した。国元では大熊善兵衛を年寄に任じ、兵庫周辺を厳戒させた。
兵庫は大助派に厳重に見張られ、兵庫に味方する者多数も禁錮、謹慎となり、江戸では阿部夫人が離縁され、藩政は総て大助派に専断された。そして遂に千野兵庫の抹殺を図る。忠厚に願い、兵庫切腹の直書を得て諏訪に届けさせた。これは御用部屋で開封されたが、あまりのことで用人達も兵庫に渡しかねた。
この頃大助派の実権は忠厚の近侍・近藤主馬が握り、主馬は遂に忠厚に「鶴蔵を次の藩主にする」の誓詞を書かせた。大助自身も鶴蔵支持の誓詞を提出している。大助も主馬の顔色を伺い江戸藩邸のことにあたる始末であった。
この様子を知った兵庫は閉門隠居の身でありながら、再度の出府を計画、国表の一類に決意の書をしたため残し、天明元年8月1日、手長社の八朔の宵祭りで浮かれ警戒が緩んだ隙に、侍僕数人を連れただけで屋敷を抜け出した。三之丸川から漁舟で湖上に出て、高浜(下諏訪湖岸)にあがり、和田峠を越え、間道を選んで追っ手を逃れて、8月6日明け方江戸に着いた。8月5日、兵庫の出府が知られ、中山道と甲州道の2手に討手が向った。忠厚の妹婿の松平乗寛(のりひろ;三河西尾6万石城主、後に老中)の鍛冶橋上屋敷に駆け込んで、乗寛に実情を訴えた。乗寛は当時29歳の若さで奏者番の重職にあり、兵庫の訴えを聞き届け、丁重に匿った。そして福山藩主阿部正倫(まさとも)や忠厚の従兄弟で伊予吉田3万石城主伊達村貞ら、諏訪氏親族を集めて相談して、その総意ということで再三忠厚を訪ねるが忠厚は耳を貸さず、遂には近侍に遮られ忠厚にも会えなくなった。高島蕃では流言が飛び交い、藩士の出府が増え、江戸でもこの風聞が知れ渡り、そうこうして3ケ月経過して、遂に乗寛も呆れ果てて、9月28日、高島藩留守居役へ「向後御世話之義はお断りに及び候」と義絶の書状を渡した。
この間諏訪では、9月20日、高島藩諏訪氏の菩提寺・温泉寺(諏訪市湯の脇)に藩士35人が集まり決起し、血判して出府し、藩主に諫言しょうとする決死の者が続出する。その出府して来た藩士達で江戸の藩邸は騒然となった。最早、幕府の公裁を願い出るしかないという藩存亡の危機に陥る。
乗寛は兵庫にも「一切手を引くから、藩邸から出てもらいたい」と伝えさせた。ここに至り兵庫は高島藩留守居役渋江理兵衛と藤森要人を呼んでもらい、「この上は公儀に訴えるしかない。お前達には忠義の心がないのか。もっと取り計らい様もあるだろう。」と迫った。2人はやっと立ち上がり、近藤主馬・上田宇治馬らを取り押さえ逮捕した。この日は9月晦日であった。兵庫は乗寛邸を辞して、芝の東禅寺宗法院へ移った。
兵庫はやっと藩主に対面し総ての顛末を語り説諭した。ここで事の重大さをやっと悟った忠厚は、目がさめ、兵庫に諭され乗寛に陳謝したが、その怒りは収まらない。阿部、伊達両家や諏訪分家に頼んで取りなしてもらい、乗寛の次の条件を飲んで解決を引き受けてもらった。
大助一味の処罰
千野兵庫の復権
忠厚の隠居と軍次郎・忠粛(ただたか)の襲封
7)二之丸派の処罰
安永10年(1781)10月、大助は解職され罪人として処分されることになった。こうして乗寛の尽力で幕府の介入、一歩手前で解決された。江戸の罪人16人は柳口牢に送られてきた。10月26日、忠厚から兵庫の忠勤を賞する直書が与えられ家老職に復した。三之丸邸もやっと門を開けた。嫡子貞慎(源太)も慎み御免となり30人扶持が下された。なお、貞慎は幼少のため、兵庫の嫡女に婿養子を迎え貞慎の後見をするよう仰せ付けられた。兵庫は翌年まで江戸に留まり事後処理にあたった。12月11日、忠厚が隠居し忠粛が藩主となった。
罪人の審理は天明3(1783)年5月から白洲での尋問で始まり、兵庫が主審となった。1年8ヶ月の牢舎暮らしでやつれた大助らの姿はかなり惨めだったと記録されている。同年7月3日、判決申し渡し、即日刑が施行された。安永のとき軽く罰して、その後問題を大きくしたことに懲りて、兵庫は、今度は厳しく処断した。
永牢 諏訪図書
切腹 諏訪大助
討首 渡辺助左エ門・近藤主馬・上田宇次馬・同父上田宇右エ門の4名
永牢 小喜多治太夫・小平権太夫・加藤善左エ門・白川庄蔵・大助子時太郎・同銀次郎・渡辺助左エ門子順之進・右次馬子助之進の9名
さらに、親類預け座敷込、知行取上、隠居減石、軽い者には遠慮、戸〆、また「急度叱り置く」等々「お叱書」にのせられるだけでも75筆に及び、その中には「急度叱り置く、小六新田村惣百姓」等もある。百姓、町人も処罰されていた。
兵庫はこのとき二之丸方の資料の悉くを始末させている。
兵庫は家老職に復したとはいえ、既に家督は貞慎になっている。天明3(1783)年4月、越後高田藩士伊那主水の2男左近が、貞慎の姉の婿養子となり、10月25日、義弟の後見役となった。兵庫は既に隠居の身のため、天明2年4月、二女に婿養子を迎え、別家を立てたよと申し渡された。同5年8月、両角政珍の二男貞臣を婿養子とした。それが本丸の東・御櫓脇(おやぐらわき)千野家で、知行は三之丸家と同じ1 ,200石であった。またも家老職は二家になった。ただこれが高島藩の最初で最期のお家騒動であった。
大助らの切腹や打首は、7月3日、上諏訪市教念寺(諏訪市小和田)の西隣、牢舎前のお仕置場で行われた。大助の首は藩主の実検後、罪人のため檀那寺の頼岳寺にではなく、地蔵寺(諏訪市岡村;旧中洲福島村)に葬られ、墓石の小さな自然石には「了性」とのみ刻まれた。こうして二之丸家は断絶したが、後年天保(1830~)年間に二之丸分家・諏訪十郎左衛門が郡奉行の時、凶作の年にその救恤(きゅうじゅつ)に功があったとして50石が加増されている。その際「頼雄以来の功を思い、その祭祀を絶やさぬようとの含みあり・・・」と記録されている。
処刑後取り捨てられた大助の遺体は、福寿院(茅野市本町)の僧天空がもらい受け葬った。現在福寿院境内に大きな墓石があり、福寿院殿一頓了性大居士と齢松院殿一操寿院大姉と2行刻まれている。前者が大助で、後者が大助の後妻、その横の小さな石に寂照院と刻まれているのが、大助の子である。墓石は藩の目を憚って下向きに倒されていた。福寿院は大助の初代(頼水の弟)頼雄が開基であって、そのため矢ケ崎村と塚原村との繋がりは深い。さらに8代目・大助は福寿院が貧窮した時に中興に尽力している。さらに矢ケ崎村から安永6年12月15日、塚原村が独立する際、その検地に大幅な裁量を加えている。
忠厚は天明元年12月、36歳で隠居、文化9(1812)年6月、67歳、江戸で逝去、温泉寺に葬られる。
8)お家騒動の背景
二之丸家を含む諏訪家一族と三之丸家を含む千野家一族相互で、姻戚関係を結ぶ事はなかった。他の諸氏も、藩財政困窮による知行物成の借上げが続く中、いずれかと結び付き同属意識を形成していった。残念ながら、高島藩では、民百姓を養育する政治家は登場せず、その政治改革は賄賂政治へと、それも短日の間に堕落する状態であった。治宝暦13(1763)年暮れから御借上げが取り止めとなり、家中救済の貸付も始められた。しかし3年後の明和3年、50石以上の者の知行物成の7分(7%)を御借上げとし、その後も借上げが続いたようである。安永3(1774)年、70石以上7分、50石以下5分、御中小姓格より下3分の御借上げが仰せ付けられた。
郡中からの御借用も、寛延元(1748)年10月、御家中借上げに伴い、郡中の石高に応じて申し付けたのが初見である。諏訪郡中からは、抜高2分米以外、役儀高を含む物成りの7分の借用米、3千石領は籾を物成りの5分の借用となっている。その後史料上、明らかなものでも、延享2(1745)年と4年、宝暦元(1751)年と2年と続いている。そして上記の検地と運上がなされても、高島藩の困窮に改善の見込みがなく、山林を田畑に強引に変えさせていく。
林検地を行い草間、荒間にも竿入れして名請けさせ、15年季で開発させ年季明けには、山手米、山手大豆を代官所の筋御蔵に納めさせようとした。しかし後述する坂本養川汐のような総合的で緻密な計画が伴わず、「此分は不残十五年之内に畑に成し畑に致せと言う事に而(しか)、十五年目に而御検分有り而ども相成らずに付き、又年賦次を願い上げ候」と文政3(1820)年から明治12(1879)年まで、年賦継ぎが重ねられている事例もある。藩政側は、年季明けになれば、林畑、萱畑等として村高に加え、年貢、諸役を負担させたかったのであろう。その目論み通りにいかなかったとしても、諏訪郡内の私有林の成立に大一歩が刻まれたといえる。
諏訪の民はしたたかであった。「耕して天に至る」、焼畑はもとより耕作が可能であれば、山地のいたる所田畑とした。今でも、山林の中に、よく段々畑の痕跡が見られる。村方は畑直し、新切(新たに開墾した田畑)、新汐(用水路)開削等を進めた。その開削の許可を得るため、贈賄をした。阿原(湿地)に等級をつけ、年頭にそれぞれ津高(税率)を定めるという新しい検地仕法を行なう際にも、賄賂で有利な決裁を得ようとした。そのため村々にある給所や家中名請等で関係のある給人に働き掛けた。それが贈賄の第一歩であった。
城下町商人は商品経済の高まりから問屋を積極的に誘致し、後発であるが次第に力を付けてくる在方の商業活動を、結束して阻害していった。二之丸派と三之丸派の政策相互に、際立つ相違も、斬新な発想もない。しかし、武士、百姓、町人達は、いずれかの派閥に属す事により、その目的を達成しようとした。両派の主要な面々も、その要請に応えようとした。そこに賄賂政治が、隅々に浸透していった。
千野兵庫は、二之丸騒動の際の天明元年8月1日の江戸出府から、翌2年3月までの間、1,862両3分の資金を調達している。天明2年12月の御蔵米相場は、金10両に付き米19俵であるから、3,539俵に相当する。三之丸家の知行物成り1,296俵余りであるから、その2.7倍になる。しかも、それ以外の史料に無い出金もあったと見られるから、その掛かりは相当な金額であったとみる。その内兵庫自身の出金は10両くらいで、資金は借用しているが、その後返済をした形跡がないという。兵庫を応援する層は、武家にとどまらず、百姓、町人に及んでいて、その施策を遂行する過程で、見返りが期待できる情勢であったようだ。
9)坂本養川の叫び
|
|
早春の諏訪の湯川、前方の山が武田信玄公ゆかりの朝倉山城祉 |
前方の車山山塊の山裾に、養川は汐を設けた。 |
このお家騒動の混乱期、諏訪に戻った坂本養川は、蓼科山から流れる豊富な水量の利用を考えた。滝の湯川や渋川の余り水や各所の出水を繰越汐(くりこしせぎ)の方法で、農業用水として八ヶ岳山麓に流すことだった。自然の川が、谷に沿って流れ下るのに対して、汐は等高線に沿うかのように、一部では谷を超えて、山肌を横に流していく、滝之湯堰や大河原堰等新しい用水路の開削によって農業用水を作り、水稲の収穫高を飛躍的に増大させようとした。この計画を安永4(1775)年12月、家老(二之丸家)諏訪大助に願い出た。
養川の一大水利事業計画は、高島藩の混乱期(二之丸騒動)でもあり、その当時の家老に人材を得ず、一方、藩主・6代忠厚は病弱で帰国することが少なく藩政をかえりみない最悪の状態の中で許可が得られない。養川は山浦地方の模型を作って、柳口の役所に説明に出向いたり、郡奉行・両角外太夫の実地見分を実現したりしたが、計画の採用に至らない。そのうえ湯川や芹ケ沢の水元の村々では、自分の水利が侵されると、養川の暗殺計画を図る者まで出現する。
蕃の騒動は、天明3(1783)年、二之丸家断絶と蕃主・忠厚の隠居で結末を見た。
高島蕃は多年の財政難の上に、この事件の失費と天明3、4年の大凶作で、流石の頑迷固陋な家老・千野兵庫も養川の計画に期待するしかなかった。天明5年2月大見分、7月18日普請の開始、寛政12年までに約350町歩の開田を成し遂げた。
養川の工夫は単純な用水路の開削だけでなく、渋川の流れに魚住まず、その水は稲作に適さない、それで幾度かの繰越汐をへて他の水と混ぜることにより水質の改良を行っている。
養川は享和元(1801)年、小鷹匠の藩士となり16俵2人扶持と抜高(免祖地)15石を与えられる。大正4年11月の御大典に、従5位を追贈される。歴代高島蕃・藩主と同位である。