帰化人                    Top 諏方の歴史 車山高原
 目次
 1)王仁
 2)秦氏・漢氏
 3)馬韓から百済へ

 1)王仁
 「帰化人」とは、日本史の用語では、古代において大陸から日本に移住し定住するようになった人々のことをいう。しかし、当時、「帰化」すべき統一国家がなく、その証となる戸籍も無い、そのため「帰化人」と呼べる人間がいないとして「渡来人」という語を使う人もいる。
 「渡来」では単に来たという語意で、日本に定着して日本人となったとい観点が欠落している。  「帰化」の語句は、後漢の王充の著書『論衡』にある「帰化慕義」を典拠とし、「内帰欽化(帰属し欽(よろこ)びて化す)」という中華思想が根底にある。中華の国の周辺の東夷・北狄・南蛮・西戎(せいじゅう)などと呼ばれた夷狄の種族が、中国の「君王の徳化に帰服すること」ことを意味し、「帰化」とは、「王化に帰す」あるいは「皇化に帰す」の思想に由来する。
 従って「帰化人」には、侮蔑の意味はなく、古代の倭国には、未だ統一国家でなく、戸籍もないことを批判の論拠にすること自体もおかしい。少なくとも倭国には、4世紀、確実に「王」が存在していた。戸籍の有無は王権統治には、決して不可欠なものではない。日本では、律令制定後、不完全なまま作成された、にすぎない。
 「帰化人」は論語などの漢文に熟達した文化人、先端技術者として宮廷に仕え厚遇されていた。「帰化人」の方も、積極的に王権に帰服している。倭国としても、体制が整うにつれ、政治・経済・外交関係の文書の作成に不可欠な漢文に習熟した人物の招請がいそがれていた。
 『日本書紀』「応神天皇15年の秋8月、百済の王が、阿直岐(あちき)を遣わし良馬2匹を奉った。その阿直岐が経典をよく読んだので、太子の師とした。
 天皇が『そなたより優れた博士がいるのか』と問われた。
 『王仁(わに)の方が優れています』と申し上げた。それで、上毛野君の祖である荒田別と巫別(かんなきわけ)が百済に派遣され、王仁をお召になった」。翌16年、王仁が来朝した。
  阿直岐は阿直岐史(あちきのふびと)の始祖であり、王仁は書首(ふみのおびと)らの始祖となった。

  百済は後漢の204年から西晋の313年にかけて109年間、朝鮮半島の中西部に置かれた中国の植民地、帯方郡を中心に建国された。そこには少なからずの中国遺民が居住し、代々中国文化を継承していた。王仁は、「王」姓であるから、中国遺民とみられる。王仁は書首(ふみのおびと)らの祖である氏族集団の西文氏(かわちのふみうじ)の始祖といわれている。
 官人であった斎部広成(いんべのひろなり)が、大同2(807)年に編纂した、平安時代の神道資料である『古語拾遺(こごしゅうい)』に、蘇我麻智(そがのまち)が三蔵を検校(けんぎょう)したとき、秦氏が物品出納を行い、東文・西文氏がその簿(ぼ)を勘録(かんろく)したとあり、文書作成や管理を専門とした官人であったことがわかる。
 王仁の子孫の西文氏は、河内国古市郡古市郷(大阪府羽曳野市古市)を本拠にした。その北側の羽曳野市誉田(こんだ)に誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん;応神天皇陵)がある。応神天皇との親密性が窺える。

 『続日本紀』「延暦10(791)年4月8日。左大史(さだいし)正六位上文忌寸最弟(ふみのいみきもおと)が、播磨少目(しょうさかん)正八位上武生連真象(たけふのむらじまかた)らに申す。『文忌寸らは、元、二家あった。東文(やまとのふみ)は直を称し、西文(かふちのふみ)は首を号した。ともに揃って職務を行って来た。その来歴は遠い。今、東文は一門挙って既に宿禰に登り、西文は恩恵に漏れて、猶、忌寸のまま沈んでいる。最弟らは幸い治まった時代に生まれた。曲(つぶさ)に調べていただければ、後々の歴代に、それを正したとはいえない。伏して願う。同じ栄号を賜り、永く子孫に栄進の道を貽(のこ)したい』。勅(みことのり)があり、その本となる系統を質すといった。最弟らが申すには『漢の高帝の後裔、鸞(らん)の子王狗(おうく)が百済へ遷った。百済の久素王(くそおう;貴首王)の時。聖朝(倭国)から文人を徴召(めしまね)く遣使があった。久素王は直ちに狗(く)の孫の王仁(わに)を貢挙した。王仁が文や武生らの祖である。ここにおいて最弟及び真象ら8人に宿禰が賜姓された」。
 文忌寸は平安時代初期の弘仁6(815)年に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の左京諸蕃上にも「文宿禰、漢の高皇帝の後の鸞王より出ず」と、出自を飾っている。

 応神天皇の時代前後には、王仁だけでなく「漢氏」や「秦氏」などが「本国の乱を避けて」日本に帰化した。倭国が大きく飛躍した応神・仁徳朝に大量の中国遺民が帰化し、技術・文化のみならず政治面でも大いに貢献した。

  2)秦氏・漢氏
 『日本書紀』「応神20年秋9月、倭漢直の阿知使主とその子都加使主が、己の党類17県を率いて来た」。 応神朝に渡来した倭漢直の祖阿知使主やその子の都加使主らは、檜隈邑(ひのくま;奈良県高市郡明日香村南西部の古代地名)を本拠とし、その子孫が栄えて檜隈忌寸(いみき)と称される。忌寸は『日本書紀』に、天武 13 (684) 年に制定された八色の姓 (やくさのかばね) の第4位とされ、主として連であるが、直・造・首姓の国造や帰化系有力氏族に賜わった。
 雄略朝に、新来の渡来系の人々といわれる今来漢人(いまきのあやひと)もこの地に住むようになり、東漢(やまとのあや)は、飛鳥に近い檜隈を中心に勢力をひろげ、巨大な氏族として存続した。 「漢」は「アヤ」と読む。倭漢はその先祖を、「漢」王朝の後裔の系譜をかたるが、「漢」は「アヤ」と読むため、この氏族は加耶南部の洛東江右岸中流域にあった「安羅(アラ)」出身が多く、「安邪(アヤ)」とも読み、「ヤ」と「ラ」「は朝鮮語では通用するので、その渡来人は「安羅」を「漢」として、倭国での氏族名としたようだ。
 『新撰姓氏録』に阿智王は「誉田天皇(諡応神)の御世、本国の乱を避けて、母並びに妻子及び母弟・遷興徳と7姓の漢人らを率いて帰化す」という。

 一方、「秦氏」は『日本書記』の「応神天皇の条」にある 「(前略) 応神14(403)年、この年、弓月君(ゆづきのきみ;秦氏の先祖とされる渡来人)が百済よりヤマトに来朝しました。その時、奏し『私は自国の、120県の民を治めています。その総べての民と帰化しようとしています。それを新羅人が阻み、皆が加羅国に留められています』と申し上げた。そのため葛城襲津彦(かずらきのそつびと)を遣わし、弓月の民を加羅から召されようとした。然し、その後3年経つが襲津彦は戻らなかった」と記される。
 やがて「秦氏」は自ら秦の始皇帝の子孫だと主張しはじめる。『新撰姓氏録の』左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項に「弓月君は秦始皇帝三世の孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝した。さらにその子の融通王(ゆづおう)が別名・弓月君であり、応神天皇14年に27県の百姓を率いて帰化し、天皇に金・銀・玉帛(ぎょくはく;玉と布)などを献上した」という記述になっている。百姓とは、この時代「ひゃくせい」と読み「多くの姓をもつ人々」をさす。

 仁徳天皇の時代、弓月君の民27県の百姓を、諸郡に分置し養蚕を司らせ、その繭から絹糸を紡ぎ絹織物を生産させた。天皇は詔で『秦王が糸・綿・絹・帛を献上するが、朕が服用すると柔軟で、肌膚(きふ)のような温もりがある。それで波多の姓を賜った。後代には登呂志公(とろしのきみ)や秦酒公(はたのきみさけ)を賜り、大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の御世には、秦酒公(はたのさけのきみ)が美しい糸・綿・絹・帛をうず高く山のように積み上げて献上した。天皇が、これを喜び、賜姓したのが「禹都万佐(うづまさ;太秦)」であった。「うづまさ」のウヅは「うづ高き」をあらわし、マサは「勝る」の意で、その優れた品質と技能を称えた。
 「漢氏」が慶尚南道にあった安羅国系とみられるのに対して、「秦氏」は古代の朝鮮半島南東部にあった新羅から来朝した。かつて馬韓の東、新羅の北東部に辰(秦)韓と呼ばれる地域があった。新羅の前身である斯蘆国の初代の王が赫居世居西汗(かくきょせいきょせいかん;在位:紀元前57年? - 4年)である。神話の時代だ。
 『三国史記』「新羅本紀」赫居世居西汗38年の条に
 「辰韓の古老が、自から秦の逃亡者という。苦役を避け韓国へ往く。馬韓は東界の地を割ってこれを与えた。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇(こう)、行酒(ぎょうしゅ;盃をもって人に酒をすすめること)を行觴(ぎょうしょう)といった。互いに徒と呼びなど秦語に相似していた。故に秦韓とも呼んだ」。
 『周礼』の「注」に「大なるを邦といい、小なるを国という」とあるから、それが秦の遺民としての矜持であった。馬韓は東の大地を割譲したが、その周囲に柵を巡らせ長い間隔離していたようだ。そのため韓族と異なる風俗と言語が継承されたという。
 唐の歴史家李延寿(り えんじゅ)が編纂した『北史』新羅伝には、「新羅は、元は辰韓の種族であった。その地は高麗の東南に在った。漢の時代には、楽浪の地に居住していた。辰韓は秦韓ともいう。相伝では秦の時代、苦役をさけてきた逃亡者という。馬韓はその東界を割いて居住させた。秦人であるため秦韓と呼ばれた。その言語や産物は中国人に似ていた」。 『三国史記』「雑志」には、辰韓は現在の蔚珍(ウルチン)付近といもいわれ、や高句麗の国境と接していた。
 『三国史記』「新羅本紀」「納祇麻立干24年条」や「慈麻立干11年条」によれば、や高句麗が大挙して辰韓に来襲していた。4世紀後半には、新羅と高句麗の友好関係が破れ、高句麗が新羅に侵攻し国境地帯を蹂躙した。『広開土王碑』に「辛卯の年の391年、倭がしばしば渡海し、半島の百残(百済)・新羅を臣民とした」と刻まれた。
 秦人の末裔は、高句麗兵に追われるように、再び祖父の地から逃れ、倭国が中国の先進技術・文物や文化知識を身に付けた人々を積極的に受け入れてきた歴史的事実を頼りに渡海した。

 3)馬韓から百済へ
 楽浪の支配階層の多くは、当然、漢民族であった。紀元前82年、真番郡・臨屯郡が廃止され、玄菟郡も前75年に遼東に移転している。四郡設置からわずか33年で楽浪郡を除く3郡が朝鮮半島から姿を消した。これは・扶余や高句麗などの諸民族の勃興がその原因だと考えられている。後漢の桓帝と霊帝の末(146年-189年)、扶余と高句麗がより強勢となり、楽浪の郡県では制することができず、多くの民が韓国へ流出した。
 建安年間(196年-220年)、公孫康は、楽浪郡の屯有県(黄海北道黄州郡)以南の荒野を分けて帯方郡とし、その帯方郡に公孫模・張敞らを遣わし、残留していた漢の遺民を結集して戦いを始め、韓・を攻撃した。そこで、韓・の地にいた遺民たちも、少しずつ出て来るようになった。この後は、倭も韓も遂に帯方郡に属するようになった。

 『晋書』粛慎伝に、「周の武王の時代、楛矢石砮を献じる。周公が成王を補佐していた時代に遣使が朝賀に来た」とあり、粛慎(しゅくしん)は周王朝に朝貢していたが、その後は一千年も来朝が途絶え、突然、三国魏に来貢してきたとある。その粛慎は、後漢時代、ロシア沿海地方付近で勢力を張る?婁(ゆうろう)に代わられていた。周の時代に朝貢してきた粛慎とは、当時、粛慎の居住領域にいた?族ではないか。粛慎の貢献品は「矢(こし;楛の木の弓)、石弩(せきど;石の矢尻)、貂皮(黒テンの毛皮)」であったが、後の高句麗や貊の特産品と同じだ。族が進出した吉林省から遼寧省にかけての土地は、周王朝に通貢する途上の道筋だ。北から遼河を越え、数多くの国境を通過すれば、周都に到達できる。中原に到る通交ルートを熟知したが粛慎から分立し、西南に移住した。そのため行路を絶たれ粛慎からの朝貢が途絶えた。北東アジア地域のツングース語系の民が、古代長きに亘って朝鮮半島北部で勢威を振るっていたようだ。

 建興元(313)年、高句麗が楽浪を覆滅すると、相前後して帯方郡を滅ぼしたのが、馬韓族とされている。馬韓の小国の一つ伯済国が中心となって馬韓の北半部、漢江南岸を中心にして百済国が建国された。その百済の王の姓は”余”である。先祖の種族名の・扶余が、その由来となっている。4世紀に、帯方郡の故地に伯済国を建国した。全羅南道には、馬韓の小国群は、依然として存続していた。
 扶余国は3世紀末、鮮卑の首長・慕容に侵略され国力が衰退した。慕容は扶余・高句麗と戦って遼東地方を制覇し、後の燕(前燕)の基礎を築いた。扶余国の一人の王子が逃れて、東扶余国を建国する。王子は王位継承問題がこじれて再び逃れ、その夫余族と共に南下して、馬韓の北方の伯済国を領土とし、次第に馬韓諸国を併合して百済を建国する。百済の王族・扶余は騎馬民族であり、その民衆の多くは韓民族で、ほとんどが農民であった。そのため言語が違った。百済の王族は当初、扶余姓を名乗り、後に中国風に余と一文字に略した。

 楽浪郡の所在地が、現在の平壌の郊外、大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことには異論はない。土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に、当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土し、考古学的に明らかにされた。これに対して、帯方郡治の比定地については決め手がなく、帯方郡は黄海道鳳山郡文井面石城里(こうかいどうほうざんぐんぶんせいめんせきじょうり)にある唐土城の北方4.5kmの地で、付近の古墳群からは「帯方太守 張撫夷(チョウイブ)」と刻まれた槨墓が見つかった。楽浪郡址と同時代の瓦・(せん;煉瓦)・銭等が出土している。

 百済の古都は「漢城(ハンソン)」であり、そのソウル市を流れる河川を「漢江(かんこう;ハンガン)」と呼ぶ。この百済の中心地に帯方郡や楽浪郡などの中国遺民が多数移住し、その建国に枢要な役割を果たしてきたとみられる。
 342年、高句麗は前燕に大敗し、翌年、高句麗王は臣従する。高句麗王の故国原王(ここくげんおう)は、この敗北の痛手を回復させるために、楽浪郡の故地である平壌を拠点として南進策を画した。これにより4世紀前半に馬韓の地に建国したばかりの百済と敵対する。百済の近肖古王(きんしょうこおう)は激しく防戦し、371年、太子貴須(きす)と共に高句麗の平壌城を攻め、迎え撃つ故国原王は、流れ矢に当たり戦死した。
 百済の王族扶余は騎馬民族であったが、兵力の主体は韓民族の農民兵であるため歩兵であった。機動力のある騎馬集団である高句麗軍にしばしば破れ苦戦していた。百済は急遽、騎兵の養成につとめたが十分な成果をあげられなかった。百済にとって大国の高句麗の南下策は脅威で、隣接する馬韓・加耶と通交するする倭国の軍事力に期待した。倭国も高句麗との戦いで圧倒され、朝鮮半島から騎馬を輸入し各地に牧を設け繁殖につとめたが、馬は依然として希少で、軍馬に用立てるまでにはいたらなかった。倭国の各地の墳墓から出土する埴輪の多くは「飾り馬」であった。
 ついに百済は漢城を放棄し、南遷し熊津江(ユジンガン;現在の錦江;クムガン)に後退した。長期にわたり戦場となった漢江流域では、焦土作戦により家財や田畑が焼かれ、その上の略奪で、多くの人々は難民となり南へと逃れた。その少なからずの人々が日本列島へ渡った。その多くに中国遺民が含まれていた。

 秦酒公は秦氏の本流として実力を蓄えた。その本拠が京都市太秦を中心とする一帯であった。この一族の秦造河勝(はたのみやつこかわかつ)が聖徳太子に近侍し、推古時代の冠位十二階の第3、大仁(だいにん)となった。
 『日本書紀』に「推古天皇11(603)年11月1日、皇太子(聖徳太子)は、諸大夫にいうには『私のところに尊い仏像がある。誰かこの像を引き取り恭しく拝みたてまつる者はいないか』と聞かれた。その時、秦造河勝が進み出て、『臣が拝みます』といって仏像を受け取り、そのため蜂岡寺を造った(後略)」。
 蜂岡寺は秦氏の氏寺であり、広隆寺の前身である。弘仁9(818)年の火災で古記録を失ったこともあり、当時の歴史は明確ではないが、平安京遷都以前に造営された京都最古の寺院である。この時下賜された仏像が、我国第一号の国宝「半跏思惟像」とみられている。