真田幸隆と武田信玄

   
 西上野侵攻の拠点、浅間山の麓・吾妻郡(あがつまぐん)  上杉謙信・武田信玄・村上義清などの古戦場・筑北地方
 目次       Top
 1)真田幸隆と戸石崩れ
 2)真田幸隆、吾妻郡を支配
 3)武田信玄駿河へ侵出
 4)白井城攻略
 5)武田信玄と真田幸隆の死

1)真田幸隆と戸石崩れ
 真田幸隆は江戸時代中期の寛政年間に幕府が大名・旗本の家譜を集めて編纂した『寛政重修諸家譜』で、真田氏の祖となった人物とされている。しかし真田氏は鎌倉中頃に海野氏から分かれたとされ、室町時代中期の記録にもみえていることから、幸隆は真田氏の名跡を継いだか、真田氏に生まれて海野棟綱のあとを継いだのか、或いは残された系図などによれば、幸隆は棟綱の長男、あるいは次男、あるいは娘婿などと諸説あって一概には決めがたい。年齢や経歴からいって、棟綱とは父子ともいえる世代的隔たりがあることは確かだ。
 幸隆から真田氏が始まったとはいえないが、信頼できる史料に初見されるのは幸隆からで、武田晴信の側近駒井高白斎の日記『高白斎記』の天文18(1549)年「三月十四日土用。七百貫文の御朱印、望月源三郎方へ下され候。真田渡す、依田新左ヱ門請け取る。三月九日己卯、芦田四郎左ヱ門春日の城を再興。」とある。晴信が逸早く帰属した佐久の望月源三郎に宛行う御朱印状を、幸隆が晴信の使者として渡している。史料上、突然、登場している。戦国時代は、幸隆を初め諸侍が実力本位で登用される時代であった。

 天文19(1550)年7月2日、晴信は真田弾正忠幸隆に、当時村上氏領内の小県郡諏訪形などの地を宛行うとして対義清攻略の軍功を促す花押状を与えている。「其の方年来之忠信、祝着に候、然者(しかれば)於本意之上、諏方方(諏訪形)参百貫并びに横田遺跡上条、都合千貫文所之を進し候、恐々謹言」と『真田文書』に遺る。天文17年3月、小県郡上田原の戦い村上義清に敗れ、宿老の板垣信方甘利虎泰など多くの重臣を失っていた。村上勢が幾多の戦塵にまみれた強兵であるばかりか、義清のしたたかな軍配振りを目の当たりして、直接対決は大事な兵力の損耗と知り、村上方の周辺勢力を調略し、まずはその強盛な力を減じようとした。晴信は既に臣従している幸隆が、当地の地誌を知悉し人脈もありとして、千貫文宛行を約束し、調略の使命を与えた。
 上田原敗戦により、7月既に佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆矢島・花岡などが反武田同盟を結んで、武田氏の信濃支配は危機に陥っていた。7月10日、諏訪西方衆矢島氏・花岡氏らは、小笠原長時に内応して武田軍に反旗を翻し、上諏訪を攻めた『高白斎記』。先の6月、小笠原長時を撃退した千野靫負尉((ゆきえのじょう))は、家族を捨て家臣だけを連れて上原城に籠城、諏訪大社の神長官である守矢頼真も占具を収納した"神秘の皮籠"だけを持って上原城に逃げ、甲府からの援軍を待った『守矢頼真書留』。「申刻ニ移候、神秘之皮籠斗(ばかり)持候テ、自余(じよ;そのほか)ハ悉捨候」と、神長周辺も窮迫していた。また武田軍の出兵も遅れたため、諏訪大社上社五官の副祝(そえのはうり)は武田軍を見限った『守矢文書』。
 晴信は上田原敗戦の処理と甲斐の地盤を再構築すると、約1年掛かりで諏訪・伊那・佐久の支配体制を十分に整えて松本平に出兵した。同年天文19年、晴信は前触れもなく筑摩郡の村井城に入り、7月15日には、小笠原氏の本拠である林城をめぐる支城群のうち、最も大規模な埴原城(松本市中山)を陥落させた。
  その報により小笠原氏の本拠林城の属城群は浮足立ち、深志城、岡田城(松本市大字岡田下岡田)、桐原城、山家城などが相次いで自落した。長時は孤立する林城を放棄せざるを得ず、一時、平瀬八郎左衛門が守る平瀬城に逃れたが、村上義清を頼って塩田城に身を隠した。
 時に犬甘城は犬甘大炊助が守っていたが、馬場信房に奪われている。晴信は府中小笠原長時の諸城を、兵力の損耗少なく自落させ信濃府中を掌中にした。19日には武田軍は深志城に入り、晴信臨席のもとで駒井高白斎らによって鍬立ての式が行われ、23日には惣普請を実施し、深志城を中信における武田氏の拠点とし、馬場民部少輔信房日向大和守是吉を城将に任じた。林城を手にした晴信であったが、要路から遠く、これを廃城にした。晴信は林城の支城の一つ深志城が、信濃の中心その四衢の地にあるとして、筑摩地方最大規模の城に改修し、領国経営の基盤作りをした。晴信は、城郭に拠り防戦する事態を想定していない。その後一月も掛けず松本平の全域を掌中にした。
 晴信は上田原合戦で苦杯を喫したが、村上義清の戸石城(上田市上野;真田氏発祥地近く)攻略戦の準備を整えていた。戸石城は上田市北東部にあり、東太郎山の支脈が南方に突き出た先端に築かれ、北に太郎山を背負い、伊勢山と金剛寺に挟まれ、東は神川(かんがわ)が古来から刻む断崖を臨む要害堅固な中世特有の山城であった。戸石城は塩田城と共に村上氏が支配する小県郡における重要拠点であった。当時、義清は北信の古豪高梨政頼と戦闘中にあり、本拠地である葛尾城(坂城町坂城)を空けていた。戸石城を攻撃しても、その赴援はまず不可能な状況であった。8月2日、春日(望月町)の春日意足春日備前守が晴信に出仕すると起請している。5日、先陣の長坂虎房が出陣、10日には足軽衆も出兵すると、その勢威に戦き和田城(小県郡和田村)は自落した。

 
長窪城址から小県郡長和和町を眺める。晴信の北信濃進出の拠点となる

 晴信も19日、深志を出立し三才山(みさやま)を越え、小県郡の長窪城に着陣した。24日には、戸石城に、同心して来た今井藤左衛門、安田式部少輔らを派遣して検分、25日にも大井上野助信常、横田備中守、原美濃守虎胤らを再度戸石城に派遣して検分させなど作戦を慎重に練っている。晴信軍は27日に長窪城を進発し、海野平の向の原に着いた。『高白斎記』には「鹿一陣の中をとおる。」とある。翌日には戸石の城際、神川を間に屋降と号する地に陣構えをした。29日には晴信自らが戸石城際まで馬を寄せて検分、敵方に開戦を通告する矢入れを行った。「8月29日午刻(正午)、屋形様敵城の際へ御見物なされ、御出て矢入れ始まる。酉刻、西の方に赤黄の雲、五尺ばかり立ちて紅の如くにして消ゆる。」とある。度重なる不可解な予兆を解せないまま戦闘開始となった。
 その間、晴信は村上方諸将への調略を怠りなく続けた結果、海津に館を構える清野氏が出仕してきた。晴信は真田幸隆に北埴地方の寺尾・清野などの有力諸士を誘降させ、松代から地蔵峠を越えて戸石城に至る道筋を扼し、その孤立を画策した。清野氏が逸早く晴信に忠誠を誓った。9月3日、敵味方の諸陣に霧降りかかる中、晴信軍が戸石城を攻撃する。9日酉刻(午後6時頃)総攻撃に入った。しかし、10日経っても戸石城は落城の気配がなく、13日には村上義清と高梨政頼が予想外の手際で和睦すると、両者は連合して武田方の寺尾城(長野市松代町東寺尾)を攻撃して来た。それを海津の清野氏から注進されると、真田幸隆が救援に派遣された。一方、晴信は清野氏らを通じ、雨宮渡(あめのみやのわたし)にほど近い唐崎城(千曲市雨宮)の城主雨宮氏や坂木在城衆の調略を進めた。両者はこれを拒み、9月晦日には幸隆も帰陣した。晴信は評定をし攻略は困難、撤退と決断、10月1日卯刻(午前6時頃)から陣払となったが、義清は好機として、激しく追撃した。殿軍の横田備中守高松ら将兵1千余が戦死した(戸石崩れ)。
 戸石城は真田氏発祥地に近く幸隆の本拠地であった。晴信の登用に応える事が一族の再興と、真田氏の命運を懸けて地縁がある村上方の諸城主に対して調略を行っていたようだ。その成果が「8月29日午刻(正午)、屋形様敵城の際へ御見物なされ、御出て矢入れ始まる。」と、その戸石城攻撃を開始して3日後、9月1日、海津に館を構える清野氏が出仕してきた。19日には、須坂に本拠を置く須田新左衛門から晴信に誓句が届けられた。だが、幸隆の懸命な奉公は報われず、結果的に新参者として苦境に陥っいたようだ。
 先の戸石城攻撃に際しては、事前に晴信より旧領の小県の所領を約束されたが、翌天文20(1551)年5月、幸隆は独力で、しかも武田軍7千で攻めても落せなかった砥石城を、地縁を利用した巧みな調略で砥石の城兵を内応させ、たった1日で大兵力に頼ることなく城を占拠した。ここから義清の武運が傾き、晴信の軍配が際立っていく。
 晴信は佐久から小県周辺を得ることになり、幸隆は海野氏の旧領を回復し、戸石城を預けられ、その軍功により、本領1,600貫になる。更に、諏訪形(上田市駅から南周辺)や、砥石崩れでしんがりを勤め戦死した横田高松の遺領・上条郷など1,000貫が加増された。
 晴信は天文22(1553)年8月5日、村上義清が最後に拠る塩田城を自落させ、小県郡内の敵対する勢力を一掃した。室賀氏・小泉氏も武田に臣従し、所領を安堵された。この時幸隆は小県郡の抑えとして当地に在住するため、3男昌幸を甲府へ人質として在府させた。その代償として秋和の地350貫文の新知を宛行われ、先の諏訪形・上条郷など合わせて、現在の上田城周辺部に1,350貫の地を給された。外様の信濃衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えた。昌幸と前後して4男信尹(のぶただ;信昌)も入府し、昌幸は武藤氏を、信昌は加津野氏を、それぞれ武田氏の縁戚と甲斐の名跡を継ぎ、晴信直属の家臣として成長していった。

2)真田幸隆、吾妻郡を支配
 北条氏康が上野国に侵攻し、天文21(1552)年2月、関東管領上杉憲政が拠る平井城(藤岡市西平井)を攻略した。憲政は50名の供に守られ平井城を自落し、春日山城の長尾景虎を頼り越後に逃れた。かつて天文16(1547)年、佐久に出陣、志賀城を攻める武田晴信と小田井原で戦い大敗し、関東諸将は憲政を見限り続々と北条に従属していった。憲政の進退が極まり、景虎に関東管領の名跡を継がせる条件で庇護を頼んだ。景虎は関東管領支配を名目に、関東に侵入し北条氏と戦闘を繰り広げていった。晴信は天文23年12月、娘を氏康の嫡男氏政に嫁がせ北条と同盟した。
 永禄2(1559)年2月、長尾景虎は京に上り、将軍足利義輝から関東管領になる事を許された。半年ほど京に滞在し10月に帰国した。この時、海野・真田・祢津・室賀など小県の諸士が太刀を贈り寿いでいる。その間の5月、晴信は信濃から景虎の勢力を一掃しょうとして、佐久の松原神社に戦勝を祈願した。その願文に「信玄」を号している。それが初見とされている。
 永禄4(1561)年早々、長尾景虎は関東に侵出し、破竹の勢いで3月には北条氏康の小田原城を包囲した。その間、鎌倉八幡宮で上杉氏を継ぎ、上杉政虎と名乗り関東管領就任の式を盛大に行わった。同年8月善光寺平に出兵し、海津城の目の前、川中島の中央を横切り、海津城を眼下にする妻女山に陣を敷いた。これで永禄4年9月の第4次川中島合戦物語の舞台が整った。この激戦に際し幸隆は、善徳寺の裏手に巨大な山城・雨飾城に在番していたが、嫡子信綱を伴い参戦していた。海津城が完成を見る永禄3年の2年前、永禄元年、真田幸隆、小山田備中守昌辰、春日虎綱(高坂昌信)などが雨飾の城番に就いていた。
 永禄4年9月の川中島合戦後、信玄はほぼ川中島全域を支配すると、次いで兼ねてからの狙い上野国に侵攻した。天文23(1554)年12月、娘を氏康の嫡男氏政に嫁がせ北条と同盟していた。武田の上野侵出は、北条氏支援を口実に始まった。幸隆も北信の城番から転じ、鳥居峠を越え吾妻郡に送り込まれた。鎌倉時代になると信濃全域から上野国吾妻郡にまで滋野氏流を名乗る支族が広がっていった。三原の庄は鎌倉初期から中期に掛け、海野氏の所領で、中でも海野幸氏は弓の名手として鎌倉幕府の至宝とまでいわれた。『吾妻鑑』には、仁治2(1241)年に海野幸氏が、上野三原庄と武田伊豆入道が領有する信州長倉保(軽井沢)の境堺を争い、3月、鎌倉幕府の裁定を受けている。その海野氏が敷衍して鎌原・西窪・赤羽根・今井などの各氏となり、望月氏からは湯本・横谷氏が、祢津氏の庶流浦野氏からは大戸氏などが、吾妻郡の中西部に開拓領主として、その地名を氏名としていた。海野氏の幸隆にとって因縁浅からぬ地域であった。かつて幸隆は村上義清に小県の故地を奪われ、上野吾妻郡に散在する滋野一族で関東管領山内上杉憲政に仕える羽尾幸全(はねお ゆきてる)入道を頼み吾妻に逃れていた。
 幸隆の当地の任務は、吾妻の要害岩櫃城(吾妻郡吾妻町平沢)の攻略であった。かつて、岩櫃城の周辺に大野氏・塩谷氏・秋間氏の3家が台頭し、領地を3分割していた。やがて大野氏が他家を圧倒し、岩櫃城に居住して当地を治めた。大永年間(1521-28)、岩下城の斉藤憲次は大野憲直から、その家臣植栗元吉討伐の命を受けたが、逆に大野氏に叛旗を翻し、植栗元吉と同心して岩櫃城を襲い、以後吾妻郡一帯を支配した。
 戦国期、岩櫃城の斎藤氏は関東管領山内上杉氏の被官となり、上杉の重要拠点白井城の支城として吾妻郡一帯を支配した。斎藤越前守憲広は吾妻郡に点在する海野一族を従えようとする。海野氏一族・鎌原城主鎌原宮内少輔幸重は、羽尾氏との領土争いがこじれていた。斎藤氏はこれに乗じてと羽尾氏を支援し、鎌原氏の勢いを削ごうとした。鎌原氏はこれに反発し、真田幸隆を介して武田信玄に出仕してきた。信玄は上野計略の好機と見て、永禄4(1561)年、幸隆を上州先方衆として派遣、岩櫃城を攻撃させた。永禄6年5月、信玄は鎌原幸重に兵粮を鳥居峠から送らせて、鎌原と長野原城の守りを固めさせた。同年9月、幸隆は2度に渡り力攻めを行う。兵を2手分け雁ヶ沢と大戸口から攻めた。だが岩櫃城は天嶮要害の地にあり、既に上杉政虎に属していた上沼田城・白井城の援軍などの奮戦で攻撃を中断、和議を申し入れた。その間、岩櫃城内の切り崩し工作を行っていた。斎藤憲広の甥斎藤弥三郎則実、海野一族で羽尾幸全の子、海野長門守幸光・能登守輝幸兄弟が内応をした。永禄6(1563)年10月14日、5百の手勢で奇襲、内応者が岩櫃城内に火を放ち落城した。斎藤憲広と嫡子憲宗は、残党に護られ越後に逃れた。
 岩櫃城攻略における諸将の戦功に対し信玄は12月に感状を出した。『加澤記』によれば、吾妻の守護に真田幸隆、岩櫃の城代に三枝土佐守・鎌原宮内少輔・湯本善太夫が任じられた。内応した斉藤弥三郎を初め植栗主計・浦野中務太輔・富沢但馬・神保・唐沢杢之助・佐藤・有川・塩谷・川合・一場・蜂須賀・伊与久・割田・加茂・直・鹿野・荒牧・二ノ宮・桑原など吾妻の地侍は本領を安堵され、真田御預けとなった。これにより斉藤憲広の手の者が、大挙して幸隆の配下に組み入れられたことになった。これまで幸隆が直接指揮できる配下は、真田を中心とする小県の地侍で、その数も少なかった。この信玄の措置によって、飛躍的に増大した。これらの者の中から、後世の真田家を作り上げる家臣が輩出した。以後、真田家家臣団の中核を担ったのが、岩下郷(群馬県吾妻町)に差し置かれた彼ら地侍であったともいえる。
 『武田信玄書状案』によれば、永禄7年3月、信玄は奥信濃から帰陣したばかりの清野刑部左衛門尉に、帰陣早々苦労を掛けるが、上杉軍が沼田へ出張るという風聞がある、既に曽根七郎兵衛を派遣したが、清野も長野原へ出陣をしてくれないか、その際、一徳斉(幸隆)の指図を受けて岩櫃城に在番してくれと命じている。この幸隆の号『一徳斉』が初見される書状で、幸隆を中心に吾妻郷が守護されていた事が知られる。

 ところで、『加澤記』に「吾妻三原の地頭、滋野の末羽尾治部少輔景幸と云う人あり。嫡子は、羽尾治部幸世道雲入道、二男 海野長門守幸光、三男 同 能登守輝幸と申しけり。道雲入道は、生害ありて、舎弟二人は越後の斎藤越前守に属しける。斎藤没落の節、甲府へ忠節ありて、三原郷御取り立てあって、天正三年夏の頃、岩櫃の城を預けられ、吾妻の守護代となり、輝幸の嫡子泰貞は、矢澤薩摩守頼綱の婿となって真田の姪婿なり云々」とみえ、また上野国志に「岩櫃城、海野長門守、沼田の真田安房守昌幸の時、城代なり」とある。

 永禄8(1565)年、上野国世良田山長楽寺住持賢甫義哲(けんぽぎてつ)が永楽日記に記す。正月、信玄の沼田へ出撃の報に、上杉輝虎(政虎)が沼田の外堡の固めとして河田長親を派遣する。2月、信玄が諏訪上社に箕輪城を10日もかからずに撃破できるよう祈願した(守矢文書)。信州新開明神にも祈願して、嶽山・尻高・総社・白井等の諸城も合わせて陥せるよう願った(山宮文書)。
 信玄は上野国への侵攻を促進させようとした。幸隆は新参者のため家臣団が形成されず陣容が整う前であったが、次の仕事が早々に待っていた。岩櫃城の城番をしながら吾妻の経営に努め、その一方小県の配下常田新六郎・小草野孫左衛門・海野左馬充らを率いて岳山城(群馬県中之条町・嶽山城、嵩山城とも書く)の攻略を策していた。岳山城は、岩櫃城から北東4kほどの位置で、沼田に通じる要路を抑え、先の岩櫃城落城に際し、斎藤憲広の配下池田佐渡守が、憲広の子虎丸を擁して立て篭っていた。
 国道145号線が吾妻町大戸口で分岐するバイパスに入り、善導寺、岩櫃城温泉を左手に見てしばらく行くと、左手前方に、岳山城が見えてくる。中之条町所在の標高789mの台形状の独立峰である。懸崖の岩肌に覆われた険しい山容の頂上に築かれ、全体が岩山で要害堅固な山城であることは一見して明らかである。城は、中之条から大道峠を経て沼田に至る街道を押さえる要衝にあり、吾妻を経略し、利根郡沼田に進出するための拠点として重要な城であった。
 城には、虎丸を擁して、家臣の池田佐渡守・同甚次郎の他・蟻川式部・山田与惣兵衛・割田下総・鹿野大介・植栗主殿介等が、越後上杉の威勢を借り立て籠っていた。背後の沼田には上杉軍の増援もあり、越後に落延びた斎藤憲広の嫡子憲宗もその軍中にあった。
 幸隆の指揮する武田軍は、前後3回、2年にわたって岳山城を攻め、ようやく落城させている。一回目は、岩櫃城の略取に続いて、旬日を置かず攻め立てたが、堅城である上に、籠城軍も頑強に抵抗したため、これを落とすことができず、ひとまず軍を引いた。
 永禄4(1561)年12月に、将軍足利義輝の偏諱を拝領し上杉輝虎となっっていた政虎が、上野への武田勢力の浸透を恐れ、栗林越前守、田村新右衛門尉らが率いる千余騎の軍勢を上野に送り、うち5百騎を岳山城に入城させて支援態勢を整えた。この時、憲広の嫡男斉藤憲宗が岳山城に入った。このため城内の意気が揚がった。この情勢を見て、力攻めが不利なことを幸隆は悟った。新参であり名族海野氏の単なる支族幸隆には、圧倒的な戦力を以て攻撃するだけの子飼い功城軍を擁していなかった。常田新六郎・小草野孫左江門・海野左馬充など小県の諸侍の加勢を得ての攻略戦であれば、幸隆に有るのは、地縁に頼る調略しかなかった。
 岳山城の主将池田佐渡守を調略できれば、岳山城を陥落させられる、幸隆の実弟矢沢綱頼が、有徳である善導寺の住職が使者として有効である推薦した。鎌原宮内少輔が即座に同意し軍議は一決した。善導寺の住職は、和議の申し入れと言う名目で岳山城に赴き、佐渡守に会い、武田への帰属を勧めることになった。この勧説も、即座に成功したわけではない、ほぼ一年の歳月を要している。住職はしばしば岳山城の佐渡守を訪れ、勧説したのであろう。ついに佐渡守に山田郷本領100貫が与えられ、武田に降る時がきた。永禄8年の11月であった。同月、信玄は幸隆の守る岩櫃城 へ日向(ひなた)大和入道是吉を派遣し加勢させている。
 池田佐渡が城を脱出した。2年間この城を支えてきたのは、池田佐渡守の統率力であった。その佐渡守が敵に降ったとなると、城兵の意気が一遍に萎えた。武田軍は、猛烈な攻撃を加えた。武田軍への投降も続いた。最早城は持ち堪えられず、憲宗以下一族が自刃し、虎丸は、大天狗岩から飛び降りて果て、岳山城はついに幸隆の手中に落ちた。幸隆はこの度も、岳山城籠城の諸侍を家臣とした。真田氏の家臣団が漸く形成された。
 永禄7(1564)年には松井田城、安中城も陥落、永禄8年には倉賀野城も落城し、西上野最大の城塞箕輪城(群馬郡箕郷町西明屋字城山)が孤立した。輝虎の6月27日付けの書状に「(城主倉賀野尚行が)若輩故、油断を以て地利を兇徒に奪はれ候」と記している。しかし輝虎方の後詰の軍はどうしていたのか。度重なる城外への出陣で、箕輪城の守備兵は減り続け疲弊し、一方武田軍は武田勝頼・山県・馬場などの主力軍に勢いがあり、城兵の多くが見切りをつけ脱走していった。永禄9(1566)年9月、御前曲輪の持仏堂で城主長野業盛(なりもり)が自刃、享年19、箕輪城は陥落した。業盛の父業政は、関東における名代の英傑で、堅固な箕輪城とその支城網を駆使して信玄を攪乱、何度も撃退している。弱冠14才の嗣子業盛に残した遺言は「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし。」であった。享年63。業盛は無惨にも、その遺言に従った。業盛の2才になる遺児亀寿丸は、家臣に抱かれて落ち延びたが、長野氏本流が再興される事はなかった。内藤昌豊が箕輪城代となり西上野は武田氏の支配下となる(長年寺文書、 守屋文書)。倉賀野尚行は上杉輝虎を頼り倉賀野城奪還を計ったが、信玄は大熊伊賀守を倉賀野城に入れて、飫富・真田・相木・望月らの諸将を援軍として送り、この時は守りきった。
 信玄は輝虎と川中島と西上野方面で熾烈な戦いを重ねながら、個々の戦場結果に拘らず、着実に調略と戦略を組み立て自領域を広げていった。

3)武田信玄駿河へ侵出
 信玄の次の標的になったのが、南の隣国駿河・遠江の今川氏真であった。永禄3(1560)年5月15日、富裕な三河・遠江・駿河3国の太守今川義元本隊が桶狭間で、豪雨を衝いて襲いかかる織田信長の猛攻に遭い、義元自身が首級を奪われ全軍総崩れとなり完敗した。享年42。義元の子氏真が当主となるが、桶狭間を契機に急速に勢威が衰えた。特に三河衆は、被征服地の宿命といえる先駆け衆となり、前線の捨て駒とされてきた。好機とばかり松平元康(徳川家康)が自立すると諸将の離反が続発した。遠江でも家臣団・国衆、井伊谷の井伊直親、曳馬城(浜松城の前身)主飯尾連竜(つらたつ)、見付の堀越氏延、犬居の天野景泰など離反が留まらなかった。
 井伊直親は、井伊直満の子として生まれた。天文13(1544)年、父直満が讒言により今川義元に殺害されたため、幼少の直親は信濃へ落ち延び、成人した後、天文13(1544)年に井伊谷へ復帰した。井伊氏の当主で養父の井伊直盛が桶狭間の戦いで戦死したため、家督を継いで当主となる。当時の遠江は「遠州錯乱」と称される混乱の最中で、直親も家臣の讒言により松平元康との内通を主君の今川氏真に疑われ、永禄5(1562)年に今川の重臣朝比奈泰朝に攻められて戦死した。享年28。これにより井伊氏は一時的に衰退した。家督は養父直盛の娘婿井伊直虎が継いだ。その娘婿の嫡男が虎松で、流浪した末に直虎に代わって当主となり、徳川氏に仕え、のちの徳川4名臣の一人井伊直政となった。
 永禄7(1564)年6月には東三河の最重要拠点である吉田城(豊橋市今橋町)が松平元康に攻略され、今川氏の勢力は三河から完全に駆逐された。元康は重臣酒井忠次を吉田城に入れ、その南の田原城に本多広孝を置いた。その布石で堅固に備えると酒井忠次に戸田氏・牧野氏・西郷氏などの諸士が領知する東三河4郡を統轄させた。
 この間、氏真自身も手をこまねいていたわけではなく、三河の一向一揆に乗じて徳川を攻め、松平元康と内通した飯尾連竜を、今川氏に再属する許しを与え駿府に再出仕させると謀殺した。さらに楽市や徳政の実施・役の軽減など、領民領主の歓心を買う諸策を実施するが、駿河の諸侍の離反は止まらなかった。永禄9(1567)年、元康は三河の一向一揆を平定すると松平から徳川氏に改姓し徳川家康となった。

 武田と今川間では、義元に信玄の姉が嫁ぎ、義元の娘を信玄の嫡男義信娶るといった歴代当主間で政略結婚を繰り返してきた。戦国時代では、当主間の有効な結束手段として多用されながら思惑先行の御都合主義で、平然と姻戚関係を紐帯とする盟約を無視してきた。
 永禄8(1565)年の7月義信の傅役飯富兵部虎昌の実弟山県昌景が、意図的に義信を謀叛の罪で信玄に訴状を上申した。それを根拠に義信が後継を廃され、8月には虎昌、側近の長坂源五郎昌国、曽根周防守らが処刑された。9月頃には義信が東光寺に幽閉され、10月には自害させられた。11月、その室・氏真の妹(嶺松院)が今川家に戻され、甲駿間の婚姻関係が解消された。信玄も家中が緊迫する最中、配下の将士が忠誠を誓う起請文を作成し生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)に奉納した。12月、幸隆の守る岩櫃城へ日向大和入道を派遣し、上杉勢侵攻に対しての協力を命じている。同時期に諏訪勝頼の正室に信長の養女を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。氏真は上杉輝虎と同盟し、また氏真が北条氏康の娘を娶っている関係もあって、相模国とともに甲斐国への塩留を行ったという。
 武田は孤立し、吾妻郡を治める幸隆を初め西上野に滞陣する武田方の諸将は、北の上杉、南の北条と南北の強敵と対峙する事態となった。信玄は祢津信貞・大井高政・同満安などの小県・佐久の諸侍を上野箕輪城へ出兵させ加勢させた。信玄自らは、永禄11(1568)年2月から9月まで、北信水内郡の長沼に在城していた。長沼城は千曲川左岸の自然堤防上に拓かれた長沼集落に築かれた平城で、同年、馬場美濃守信房が城を再建していた。海津城と共に川中島地方を支配し、野尻や飯山方面へ進出する武田軍の重要拠点となっていた。
 信玄は、この間の7月、越後の揚北衆(あがきたしゅう)に対する調略が功を奏し、本庄繁長が輝虎に叛旗を翻す、その間隙を衝いて、長沼城を拠点に、上杉輝虎の属城水内郡の飯山城とその支城群を攻撃し、上蔵城を陥落させた。飯山城は7月10日の攻防では、双方に死傷者が出たが落城に至らなかった。信玄は小諸に在番の芦田五郎兵衛尉・丸子善次・武石左馬助など小県・佐久の諸侍を越後境に派兵し、上杉軍の備えとして帰府した。

 永禄11年9月、織田信長が足利 義昭を奉じて入洛する。10月18日、15代将軍に就任した。12月6日、信玄は、徳川家康と大井川を境に駿河を分割することを申し合わせ、甲府を発して駿河への侵攻を開始した。この時、佐久の依田(芦田)信守・信蕃父子も従軍していた。同月12日、駿河の薩峠(さったとうげ)で武田軍を迎撃するため氏真も興津の清見寺に出陣したが、瀬名信輝・葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡(よしあき)など駿河の有力国衆21人が信玄に内通していたため、同月13日には今川軍は潰走し、駿府もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城遠江掛川城へ逃れた。だが遠江にも、今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧された。この事態に、同月、氏康は将軍義昭の御内書に応える形で謙信に和睦を求めている。
 翌永禄12(1569)年早々、信玄は駿河を転戦し今川の諸城を攻略し、一転して8月24日、甲府を出立し碓氷峠を越え西上野から武蔵国の諸城を攻撃した。多摩川と秋川の合流点にあり関東有数の規模を誇る滝山城も攻めるが落城は困難と知ると、相模へ転進し、10月1日、氏康の本城小田原城を包囲した。氏康はひたすら籠城を決め込んだため、僅か4日間の包囲であったが、戦勝を誇示するため小田原城下を放火し帰府に向かった。

 撤退する武田軍に対し氏康は戦機とばかり追撃策を練る。武蔵国滝山城の北条氏照、鉢形城の北条氏邦らに命じ、信玄の帰路にあたる相模国愛甲郡の三増峠(みませとうげ)に軍勢を布陣させた。小田原からは氏康本隊が北上し挟撃する戦術であった。信玄も当然予想していて、最大の弱点小荷駄隊を勇将内藤昌豊に預け、峠を突破する先陣部隊馬場信春、武田勝頼、浅利信種の3部隊に従わせた。津久井城への抑えには小幡信貞をあて、敵の背後をつく別働隊を用意し、山県昌景小山田昌行ら8部隊を、三増峠の南にある志田峠方面へ向かわせ三増峠で待ち受ける北条勢の背後を奇襲する戦法を練り、信玄本隊は旗本衆と残余の兵で備えを固めた。
 10月6日の早朝から戦闘は始まった。武田勢は遮二無二峠を押し通るしか術がない、北条勢もここぞとばかり射撃でこれを阻もうとする。内藤昌豊の小荷駄部隊は狙い打ちを受け被害も大きく、先鋒の浅利信種が戦死するなど、武田軍は苦戦に陥った。そこに志田峠へ向かっていた山県昌景や小山田昌行の別働隊が、周囲の北条勢を打ち破りつつ三増峠に馳せ参じ、北条勢の背後を急襲したことから、たちまちに形勢は逆転した。北条軍は不意を突かれ多数の死傷者を放置し敗走した。武田軍は峠を通過、道志川河畔で勝鬨をあげたという。この三増峠の戦いには、幸隆の3男昌幸も信玄旗本の使番として参戦していた。この間今川と北条から再三再四、輝虎に同盟を根拠に出兵を要請しているが、上杉は動かなかった。
 永禄12(1569)年2月、北条氏康の将遠山新四郎康英から輝虎の属将松本景繁らに宛てられた書状では、大戸・岩櫃城など、真田幸隆らを番主する吾妻の地を輝虎の標的と明記し出兵を依頼している。だが輝虎は信濃・西上野いずれにも出兵しなかった。信玄も、その動きを懸念し、信長の嫡男信忠と信玄の娘松姫との婚姻による盟約があるため、織田信長に上杉勢を牽制させようとしたが、どれほどの効果があったであろうか。
 永禄3(1560)年の今川義元の非命後、衰微する今川氏を支援する北条氏が、富士川右岸、由比ガ浜と薩捶峠を眼下にする「海道一の堅城」と呼ばれた蒲原城に駐屯していた。永禄11年、北条氏康は布施佐渡守康則に鉄砲隊を預け城番を命じていた。永禄12(1569)年4月、信玄は再び駿河へ侵攻した。これに対し北条氏康、氏政父子は大軍を伊豆三島に派兵し、水軍3百隻を沼津から清水の海上に展開した。武田軍は薩捶峠に布陣し滞陣したが、兵糧が尽きたため駿河から退却した。氏康は武田の去った後、蒲原城の重要性を再認識し、北条幻庵長綱の子、北条新三郎氏信(綱重)、箱根少将長順兄弟を蒲原城に在番させ城郭を改修させた。同年7月、信玄は再び駿河へ侵攻した。この時、暴風雨により富士川が増水して混乱したところを、夜襲され敗走している。12月にも、信玄は駿河に出兵し、同月5日夜から翌6日未明にかけて武田勝頼、武田典厩信豊を総大将に蒲原城(静岡県庵原郡蒲原町蒲原)を攻撃した。
 12月6日の「武田信玄書状案(真田文書)」によれば、勢いに乗る信玄は「今6日蒲原之根小屋放火之処、在城之衆悉出合之条、逐一戦得勝利、為始(始めと為す;し始め)城主北条新三郎、清水・狩野介不残討取、即時城乗取候、誠に前代未聞之仕合に候、猶本城江者(は)山県三郎兵衛尉(昌景)相移し、此表一返(一遍に)本意可心易候」と喜悦するままに、一徳斉幸隆とその嫡子真田源太左衛門信綱と宛名を連名にする書状で報せていた。信綱は当時35才で、父と共に上杉・北条の2代強敵と対戦し上野国吾妻を拠点として善戦していた。

4)白井城攻略
 元亀元(1570)年6月の姉川の戦いで、浅井氏と朝倉氏の連合軍は、織田信長と徳川家康の同盟軍に敗れた。
 佐野昌綱は下野国唐沢山城主佐野氏の当主で、佐野氏は当初、古河公方足利晴氏に仕えていたが、その権勢が衰微すると北条氏康の属将となる。しかし、越後の上杉政虎が、関東を侵略すると、他の諸将同様その靡下に入り小田原城攻囲軍にも加わった。だが、その輝虎(政虎)の関東制覇が失敗に終わると、北条氏政の率いる大軍にさらされ、上杉軍の援軍を得て漸く守り切る。しかし佐野昌綱は永禄5(1562)年以降、度々北条氏康に内通し輝虎に叛旗を翻し、その都度越後勢に唐沢山城(栃木県佐野市富士町、栃本町)を攻められては降伏を繰り返しいた。上杉軍が帰国すると即座に北条に属するという、当時、両毛(上野・下野両国の古代からの呼称)を基盤にする諸将は、命脈を保つ処世術を駆使せざるをえなかった。
 両毛地方を切所として戦い続けた北条氏が、信玄による今川氏駿府の侵略を盟約違反として、突然、輝虎と盟約を結ばんとするが、北条の形勢判断に左右される輝虎ではなかった。軍神と称される歴史上の人物は数多くあるが、上杉謙信こそ、真にその名称に値するが、織田信長と比較すると、謙信は、その才智を戦略と軍政両面に発揮したとは言い難い。
 北条氏康は幾度も、信玄の強腕鋭鋒を恐れ輝虎に信濃及び西上野出兵を要請したが、逆に北条氏に属する佐野昌綱が攻められている。さすがに北条の重臣の多くは憤るが、信玄の強盛さを恐れる氏康・氏政父子が輝虎に起請文を送り、漸く盟約が整ったと思った。だが輝虎は、信濃、西上野に出兵することはなかった。
 元亀元(1570)年5月以降も信玄の攻撃は続き、伊豆の韮山城や駿河の興国寺城などを攻めるが、戦果無く信玄は伊豆攻略を断念した。悠然と駿河から遠江へ侵攻し、暮れには深沢城、興国寺城を攻めた。家康は信玄と断交、輝虎と講和した。元亀2(1571)年正月、信玄は駿河出兵のため、下伊那宿の住人から 兵を募った。2月に入ると武田と家康との対戦が激化し、北条との攻防は小康状態となった。一方8月、真 田幸隆白井城(群馬郡子持村白井)を攻撃すると、関東管領山内上杉氏の重臣だった長尾憲景は白井城を捨てて八崎城に移る。白井城は利根川と吾妻川の合流点の崖上にあり、天文15(1546)年の河越夜戦で山内上杉家が衰退し北条氏が侵攻してくると、上杉憲政は天文21(1552)年、平井城を捨て越後に亡命した。永禄3(1560)年以降は、白井城は輝虎の関東侵攻の基地の一つとなった。永禄12(1569)年、甲相駿三国同盟が崩れると北条氏康は輝虎と同盟した。永禄13(1570)年にも岩櫃城の幸隆が白井城の長尾憲景を攻め一時開城させていた。

 元亀2(1571)年9月12日、早朝のうちに信長軍は近江坂本へ出兵し、入るやすぐに町に火を放った。寺社勢力と戦う信長が天台宗比叡山延暦寺の堂塔を悉く焼く。当時、病床にあった氏康が、「越相同盟を見限り、再び武田と同盟を結ぶように」という遺言を残し、10月3日、享年53で病没した。里見氏・佐竹氏・宇都宮氏などの諸雄族と緊張関係にある氏政は、実効が乏しい相越同盟を破棄し、12月27日には相甲同盟を復活させた。信玄にしても西上作戦の展開で、西上野での北条氏との攻争が足かせとなっていた。
 翌年、吾妻の幸隆は、北条からの脅威がなくなると、再び果敢に白井城を攻撃し3月には攻略した。「武田信玄書状案」に信玄から幸隆・甘利・金丸らに宛てた3月6日の書状がある。一徳斉(幸隆) の計策で僅かな日数で陥落させたことを褒め、輝虎の帰国が確認されれば翌日には出馬し、西上野の備えに付いて下知するから、沼田の状況を早く報せるよう命じていた。その2日後、幸隆・信綱父子に、思わぬ幸運で白井城が陥ち大変満足している、この上は早く箕輪城に移り、その普請と知行の配分を行うよう、沼田の様子は早々飛脚を以て報せるよう、と書状を送っている。

5)武田信玄と真田幸隆の死
 元亀3(1572)年に入ると、信玄は遠江・三河への出兵が相次ぎ、徳川家康の背後にいる織田信長との対決が始まった。同年10月には、信玄自ら大軍をもって甲府を出発し、西上作戦を開始し遠江に侵入した。二股城のほか諸城を攻略する一方、山県昌景を三河へ出兵させ、秋山信友を信濃から美濃へ侵略させ岩村城を奪った。12月には家康の居城である浜松に近づき、三方ヶ原で家康と信長の援軍佐久間信盛平手汎秀(ひろひで)の連合軍を打ち破った。更に進んで三河へ侵出し、徳川方の諸城を相次いで攻め落とした。浜松城に近い刑部で越年すると、翌元亀4(1573)年1月北上し三河の野田城(愛知県新城市豊島)を攻略、更に長篠城を調略した。
 家康は窮迫し越後の上杉謙信に信濃へ出兵を要請する書状を送った。謙信はそれに応えて沼田・厩橋などの諸将を率い、幸隆に攻略されたばかりの白井城を奪還し、前主長尾憲景を復帰させた。更に吾妻郡を再三に亘り侵略した。
 信玄は3月には兵を東美濃に進め織田軍と戦っているが、4月、三河野田城を包囲する陣中で病に伏した。已む無く甲府へ帰陣する途中、信濃伊那谷の駒場(下伊那郡阿智村駒場)で4月12日、享年53をもって病没した。くしくも1月前、村上義清が越後の根知城で逝去していた。享年73であった。
 武田家は4男四郎勝頼が継いだ。母は信玄により自刃させられた諏訪頼重の娘であった。遺言により喪を3年間秘し、信玄の竜朱印と「晴信」の朱印を用いたが、その事実は世上に直ぐ知れ渡り、4月の時点で謙信は、家康に信濃・甲斐に出兵を要請する書状を送っている。
 元亀4年(1573)4月の信玄病没、7月に宇治槇島城で挙兵した足利義昭が全面降伏し、信長は義昭を京都から追放し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を信長は自領とした。これにより包囲網の突破口を開いた信長は、再度の北近江侵攻を開始した。朝倉義景は近江浅井氏からの要請を受け、救援のために兵を率いて7月17日に一乗谷を進発した。敦賀安養寺でしばらく滞陣した後、天正元(1573;7月28日改元)年8月6日に北近江に着陣した。この間、浅井氏の家臣が次々と信長に調略され、浅井・朝倉連合軍の劣勢が明らかとなった。
 信長の鋭鋒は素早く転回し、家臣の信任を失い統制を欠く義景に向けられた。翌月の近江国刀禰坂(とねざか)の合戦で朝倉軍は織田勢に惨敗を喫し、10日からの攻撃で朝倉の拠点である敦賀城が陥落すると、自滅に向かって敗走する。義景は僅か数騎を従え15日に一乗谷に帰着したが、頼みとしていた平泉寺の宗徒が信長の調略に応じて挙兵したため、ここで自害しようとした。大野郡司である朝倉同名衆朝倉景鏡(かげあきら)に説得され一乗谷を捨てて大野郡へ逃れた。そこで景鏡にも裏切られて手勢を差し向けられ、終に大野六坊賢松寺で8月20日に自刃した。享年41。
 その間の家康の動きも早く、8月には信州小県郡室賀の城主の室賀信俊などが守る長篠城を奪還している。直ぐに武田氏の侵攻に備えて、土塁を堅牢に築き城自体も拡張充実させた。これが長篠の戦いの前哨戦となった。これに呼応して三河作手城の奥平貞能・貞昌父子が勝頼を見限り、家康に再出仕した。貞能は今川氏に仕えていたが、永禄3年(1560)の頃、今川氏真から離背し家康に属した。永禄11(1568)年、氏真が逃げ込んだ掛川城を攻める徳川勢に従軍していた。元亀元(1570)年6月の近江姉川の合戦では、酒井忠次麾下として参陣し、戦功を挙げていた。
 元亀3(1572)年の信玄侵攻に屈し、その調略に応じた。信玄の病死により翌天正元年、再び徳川家に属すようになった。家康は長女亀姫を貞能の長男貞昌に嫁がせた。
 三河方面の武田氏の属将の動静が武田氏に味方せず、これを再度制覇しようとした勝頼が自ら軍勢率い西上した。当時、長篠城(愛知県新城市長篠)には奥平貞昌が在番し、5百の寡兵で守っていた。長篠城は寒狭(かんさ)川と三輪(みわ)川が合流して豊川(とよがわ)となるあたりの断崖上に本丸があり、天然の地形を利用した要害であった。 また信濃から東海道に出る戦略上の要衝であった。
 貞能の長男貞昌は家康の娘婿で、貞能の娘は本多重純に入嫁さていた。再三に及ぶ裏切りは一族の没落とわきまえ奮戦した事により、天正3(1575)年の長篠の合戦に繋がった。
 三河に展開される情勢下では、信玄の遺言は甘い判断であった。晩年の勢いのまま諸国周辺を侵攻し、多くの仇敵を生じさせ病没した。そのつけを勝頼が負い、四囲に喫緊の対応を迫られた。父信玄の遺言に従い自重すれば、周辺諸国の包囲網の最中、孤立し侵略され武田氏はやがて没落する。天正2年1月美濃の岩村城を攻めている。さらに遠江を侵攻した。越後の謙信も、度々辺境を越え出兵した。武田軍の疲弊に乗じ家康・信長らに協同を促し、自らは沼田から西上野に出兵していた。勝頼の不運は、この時、西上野を守護すべき幸隆が重篤な病に侵されていた事であった。

 それでも勝頼は父の遺業であった西上作戦を続行し、天正2(1574)年5月28日の初戦で、遠江の高天神(たかてんじん)城を包囲していた。その陣中で、真田信綱から幸隆の病状が小康を保っていると知らされた。実はその前の5月19日、幸隆は逝去していた。海野氏の庶流でありながら、真田氏隆盛の基礎を築き海野氏一族を再興させて、信玄の後を慕うように吾妻の地で病没した。海野氏の家系は一族であった真田氏一門が継ぎ、上田藩、その後の松代藩の藩主真田氏に属し、江戸時代を通じて残り今日に家名を伝えている。
 幸隆の後継は嫡子真田源太郎左衛門尉信綱が38才で継いだ。信綱には父幸隆の死を悼む間もなく、長篠城攻略戦に苦戦していた。
 天正3(1575)年4月の長篠城の籠城戦で、長篠城主であった奥平貞昌は、家臣鳥居強右衛門等の決死の働きにより、勝頼の包囲戦から城を死守した。5月には、信長からその功績を賞され、翌年貞昌は、信長の偏諱を下賜され信昌と改名した。
 信長は、5月18日には長篠城西方の志多羅の郷(設楽ヶ原)に布陣し、極楽寺山に本陣を置いた。同月21日早朝、武田軍と織田軍は連子川を挟んで対峙した。織田軍より高台に布陣する武田軍は騎馬隊の勢いのまま駆け下り織田軍を粉砕する作戦だった。一方織田・徳川連合軍は、三重の馬防柵を連子川沿いに並べ、三千挺の鉄砲隊を五隊に分け、柵内に配置した。信長の充実した鉄砲隊が、初めて組織的に実戦で活用された。
 武田軍の騎馬隊は圧倒的な数の火器で迎撃され潰滅した。信玄以来の重臣、馬場信勝・山県昌景・内藤昌豊など名立たる武将多数が戦死した。真田家を継いで1年余りの真田源太左衛門信綱と弟兵部昌輝も長篠設楽ヶ原の大地に伏した。信綱享年39。

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