諏訪を特徴付ける最古といえる北山地区の入会争論

上川の源流地、湯川村富岡 池の平が今の白樺湖、音無川の源流 信玄の時代以降、大門峠越えの茶屋があった 古代八子ヶ峰を越え蓼科山から佐久へ

 命ひとつ 露にまみれて 野をぞゆく
            はてなきものを 追ふごとくにも   (太田水穂)

    君と二人 物かたり居れは 窓先の
          くは畠ゆすり 秋の風吹く  (島木赤彦;北山湯川にて)


 明治8(1875)年3月7日、柏原村、湯川村、芹ヶ沢村、糸萱村が合併し北山村となる。

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 湯川村と芹ヶ沢の境界論
 山の口明け

湯川村と芹ヶ沢の境界論
 天正6(1578)年3月20日、富岡(湯川村)と芹ヶ沢の境界論武田氏の裁許(裁可)が下された。少なくとも茅野市に残る境界論では、最古といえる。富岡と芹ヶ沢は中世以降徐々に集落として発展していた。当初は集落的な、農耕における自然発生的な集団的協力体制ができた後に、その上部組織としての「村」の自治が戦国時代以降確立されと、水利権採草と採薪権等の諸権利が村自体に付与されてくる。それが「村」相互の「境界」争いの確執となり、「村」の権利として公認される「入会権」の境争い「山論」へと関連してくる。この芹ヶ沢と富岡を含む「湯川村」との「境界」と「山論」は、幕末に至っても解決していない。
  「入会」は一定地域の住民が、秣、木材、薪炭、刈敷等の採取権を持って、一定範囲の森林、原野、または漁場に入って、共同用益とする事をいい、その「入会地」利用権を「入会権」といった。特に田畑の肥料としての刈敷草の確保に、村々は広大な「入会山」を必要とし、その上「汐(せぎ)」等の水利により、新田の開発が進むと、互いに用材の不足をきたし、その獲得のための争いが頻発した。一村だけの「入会山」「内山(うちやま)といい、数ヵ村の「入会山」を「外山(とやま)といった。
 「入会山」は中世から現代に至るまで無税地である。そして中世から近世初頭にかけて「古村」だけが有していた権利であったため、「内山」である「入会山」が多く、「古村」の名前を付けて呼んだ。新田が開発されと新田は、親村へ入会するようになる。
 天正6年の村境に関して武田勝頼は、その家臣安西平左衛門と今福新左衛門の両署名で指図書となる「手形」が出させた。「富岡芹ヶ沢、山問答(やまもんどう)の事は、丙子(へいし;天正4年;1576)已前(以前)の如く左右方(そうほう)支配たるべくの間、仰せ出されたの事は両角(もろずみ)内記立て候境の儀とり捨てべく候」との内容である。この争論には、芹ヶ沢を代表して両角監物内記が、一方、富岡側は両角孫左衛門が立った。「両角」の氏名が当時から多かったようだ。「手形」は芹ヶ沢の監物内記が立てた境は、取り捨てて、天正4年以前の状況で双方が支配するよう指図している。
 当時湯川郷の一部とみられる「富岡」は、現在の北山小学校の西方の地で、功徳寺(くどくじ)や桝形城(ますがたじょう)の北側を流れる滝ノ湯川から、その南側の山間を流れる渋川の間の三角地帯であった。現在「飛岡」の字名があるが、当時は「富岡」であった。芹ヶ沢の監物の主張に、「富岡の内の水上」に、手作り(地主が耕作する)の3斗5升蒔きの畑があり、その地域の「汐添(せぎそえ)」に2斗2升蒔きの畑があると、その文言がある。「富岡」の一部の「水上」とは、渋川の右岸を指し、その北側の滝ノ湯川左岸の功徳寺地域一帯は「下原」と呼ばれていた。
 その後、両村の主張は江戸時代から幕末に至るまで、「入会権」の「山論」へと拡大し、幾度も争論が繰り返された。天保3(1832)年8月5日の記録がその状況を端的に物語っている。「北熊小屋で塩沢村の者が芹ヶ沢の者に鞍11口、鎌6枚、砥(砥石;といし)3挺(丁)をとられ、6日には石安場で芹ヶ沢村の者が湯川村の者に鞍2口、鎌2挺をとられ出入り」となっている。「北熊小屋」は八ヶ岳茶臼山の西山麓にあった。天保13(1842)年、芹ヶ沢村は、家老職の御櫓脇(おやぐらわき)千野家へ口上書を差し出している。「冥加金(みょうがきん)200両差し上げる、往古芹ヶ沢山であったが、現在、湯川村の入会地・湯川山への入会を願い訴えている」。しかしこれも通らなかった。
 貞享3(1686)年11月と元禄15(1702)年9月の裁許状によると湯川山の山元は、湯川村で、入会は塩沢埴原田鋳物師屋福沢下菅沢が加わり計6ヵ村となる。後に中村山口上菅沢の3ヵ村が「札入会」となる。
 北側は上川で、その左岸にある花蒔の西隣順で、山口、中村、上菅沢、下菅沢、福沢と並び、鬼場橋に至る。いずれも南側が日影田川で、その右岸となる丘陵地台地である。その中村、山口、上菅沢の3ヵ村が「札入会村」となった。
 江戸時代の早い段階から山浦地方の水田稲作の発展による人口増加が、耕地の拡大を呼び水田元肥としての刈敷・草木の需要を増大させ、中村とそれが発展した山口新田や上菅沢では、古代から山浦で一番美しい高原と言われた花蒔原の規模程度では無理となり、原村(原山)に入会するには遠く、天明期に入ると飢饉が続出した。
 江戸幕府は徳川家治徳川家斉の時代であった。村の再建には、新しい刈敷場が必要で、村から遠いが豊富な採草地で広大な原野を有する柏原山湯川山、現在の車山から霧ヶ峰一帯の上桑原山に、3ヵ村が共同して入会をしたいと藩に願い出た。天明8(1788)年10月の事であった。高島藩にとって、「二の丸騒動」とその後の飢饉に藩財政は、困窮を極めていた。その藩財政立て直しの一助として、この願書を受け入れた。
  翌寛政元(1789)年2月の「郡方日記」に「御相談を以て3ヶ村引立て候様仰せつけらるべく」とあり、3月3日には「中村上菅沢山口三村草場願、郡方存じより通り申し付け候様、鵜飼伝右衛門殿御申聞」とあり、5日に「右山入之儀双方村々役人百姓召し出し」、20日には上桑原山へ3ヵ村代表が上桑原村と一緒に車山に登り、「入会山」の山割りを決め藩庁柳口へ出頭し、その結果を報告した。同25日には柏原山、湯川山も、同じ手続きを経て山割りが決められた。その日に「山入札(やまいりふだ)が3ヵ村の代表に渡された。それと同時に、上桑原山へ、埴原田や鋳物師屋新田が「札入山」となり、いずれも明治以降まで続いている。その山札を持って入山する権利を「札入会」といった。
  湯川山南側が中道境北側が滝ノ湯川を越えて御鹿山境である。中道は滝ノ湯川と渋川との間の山間の道で、文字通りの「山への中道通り」であった。なお、鹿山の山元も湯川村で、入会は芹ヶ沢、新井、金山、糸萱等計10ヵ村であった。
 芹ヶ沢山の範囲は、南は渋川境で、北側湯川村としばしば「争論」となり、結局、中道境と裁許(判決)がでた。宝暦4(1754)年11月の裁許状には、山元は芹ヶ沢村、入会は新井、金山、糸萱、中村、山口、上菅沢の計7ヵ村で、既に貞享3(1686)年11月の湯川山裁許状により、埴原田、鋳物師屋、福沢、下菅沢も外山入会となっている。
 柏原山の範囲は、上川の支流・音無川の両側に広がり、現在の白樺湖池の平では、佐久郡との境界争論に破れ、八子ヶ峰の峰を下り、池の平琵琶石までとされた。「蓼科山論」で寛永14(1637)年に、鰍原村(柏原村)と小諸藩の佐久、芦田村相互で「争論」が起こり、延宝5(1677)年9月25日、江戸幕府評定所の裁許が下され、蓼科山麓どころか八子ヶ峰の西麓、池の平(白樺湖)の南岸まで戻される、鰍原村が代表する高島藩側の大敗北となった。ただ現在の境界が白樺湖の北端、池の平ホテル近くなっているのは、明治になって北山村の柏原区が芦田村から買い入れたからであった。
 柏原山の山元は、柏原村北大塩村が入会していた。延宝2(1674)年2月26日「柏原村・北大塩村、山出入り裁許の事」が出ている。それは郡奉行中島甚五兵衛他の名で、北大塩村が柏原山へ入会する範囲を定めていて「柏原山、観音堂つるね峯より一の橋の方へ、川西はホウロク坂より車坂の方入逢に仕るべき者也」とある。「観音堂つるね峯より一の橋の方へ」の場所が、現在私には分からない。「ほうろく峠」は一本木新田方面から藤原川を遡ると、カシガリ山の南方にある小さな峠で、音無川右岸に沿って栃窪岩陰遺跡を通り、柏原村から1km先の大門峠よりの所に出、そのまま西岸の山沿いを登り、大門道に合流した。「車坂の方入逢に仕るべき者也」で推測される。現在坂本養川「車沢汐」が別荘地「みどりの村」内にある。その場所の碑に、坂本養川の名がなく「吉村午良知事の名」があった。
 延宝の裁許の13年後の貞享4(1687)年4月、柏原村と北大塩村で出入りがあり、郡奉行高山善右衛門等の名で裁許が下された。北大塩村が、「ほうろく坂」下のこうじろうヶ沢日影山まで入会の願いが出された。「ほうろく坂」も「日影山」も現在の地図には載らない。塩沢地区から藤沢川を遡り朝倉山の北側を進む山道が現在でもあり、おそらくはそれが栃窪岩陰遺跡から「みどり村」に至る山道に繋がり、塩沢村南側の旧道から、湯川村、柏原村へと平坦に抜ける道より近く短距離なので、古来、より多く利用されていたようだ。 柏原山の音無川右岸、朝倉山の北から西側にかけての入会を申しでたのであろうが、郡奉行は「柏原村百姓の申し分は慥(たし)かで、北大塩村百姓の申す所不届き、向後異議申し出れば重科に処す」と延宝の裁許のままとなった。それが明治になるまで、変わる事はなかった。 天明6(1786)年10月、中村、芹ヶ沢、糸萱、金山(芹ヶ沢と堀の間)、山口、上菅沼、新井の7ヵ村から、柏原山へ「山手米」を出すから入会を願いたいと申請が出された。
 「山手米」とは、他の村が山元村の山林から薪、刈敷、秣等を採取する代償とし米、大豆を提供した事による。この申請に関して、既得権のある柏原村と北大塩村は反対した。結果、寛政(1789)元年3月、中村、上菅沼、山口の3ヵ村だけが、聞き届けられ柏原村と請け書を取り交した。「4、5、10月の3ヵ月間、馬札10枚を中村、8枚上菅沼、1枚山口、徒札5枚が中村、上菅沼と山口は1枚とし、山手米は1升1斗3升を柏原村へ差し出す」とした。その「入会地」は北大塩村と重複した。

山の口明け
 入会山の入山開始を「山の口明け」と呼んだ。それは入会村の村民一人ひとりにとって重大で、死活問題でもあった。夜の明けるのを待って入山した。それは、その年の入山開始でもあったため「山の口明け」といった。良質の刈敷、飼料用の草類即ち秣、薪炭材、屋根用の萱、建築用材、食材等の採取等で競った。最も需要が多かったのが、「御田地養草」といわれた肥料としての草類で、次が飼料用としての草類であったから、広大な秣場が必要であった。
 秣場は狭義では、飼料用秣を刈る所であるが、広義には入会地域をいう。それで「諏訪領九ヶ村反別差上帳」に「秣場刈敷取出し候儀は3月中頃(穀雨;こくう)より4月中頃(小満;しょうまん)に刈敷始め廿日(はつか)程刈取り、直ちに刈敷申し候」とある。
 刈敷は一日違いで、田畑の収量に大きな差が生じたという。さらに「5月中過より6拾日余り程草刈取り、厩へ入れ置き馬に踏ませ、その他刈干にも仕り候て、来春刈敷前に田肥に用い候。馬これなき者は刈干仕り候」とある。春の刈敷として刈った後に伸びる夏草を、厩へ入れて馬の食べ残しが厩肥(うまやごえ)となり、それを干して来春の刈敷前の田肥とした。馬を持たない者は、秣場で干してから背負い運んで田肥にした。
 「夫より彼岸過ぎて枯野まで刈取り、畑肥に仕り、又は灰に焼き、或いは刈干し、薪にも用い申し候」とある。当時の薪とは原野の藪、荊(いばら)、雑木等であったようだ。
 芹ヶ沢山の例では、「享保11(1726)年申付通り、山元芹ヶ沢村、山の口明け2日刈り、3日目より中村、上菅沢、山口両新田共に入会うべく」とされ、山元の芹ヶ沢村が夜の明けるのを待って入山し、2日間掛けて刈った後で、中村及び上菅沢、山口両新田が刈敷を採取した。この2日間の遅れは、その収量に大きく影響し、幾度か高島藩に変更の裁許を仰いだが、認められなかった。
  御鹿山の山元は、湯川村であるのに「山の口は中村、福沢初山(はつやま)1日、2日目より惣入会」となっている。これは中村、山口、上菅沢、下菅沢、福沢の5ヵ村が1日刈って、2日目からは、更に山元の湯川村をはじめ芹ヶ沢村、糸萱、金山、新井の5ヵ村が入山した。北山の奥山に張り詰める緊張感、切迫感が伝わって来る。
  御鹿山上野田山と呼ばれていたが、高島藩初代藩主頼水が、慶長19(1614)年3月、この山で鹿狩をした、その後「御鹿山」と名付けられた。それ以後70年間は御留山となった。その面積は1,200町歩と広大である。
 元禄2(1689)年、芹ヶ沢、中村、福沢3ヵ村から藩庁に願書が出された。「山手米3拾6両、拾5ヶ年賦にて立木、下草共に申し請け頂戴仕り候間、買山と申し候」とある。
 同6年の「指上げ申手形の事」に「湯川村の御林残らず癸酉(みずのととりorきゆう;通常は8月)の春より午の暮まで拾ヶ年年期小判3拾両、当月中に指し上げ申すべく候。元禄6年癸酉3年6日。芹ヶ沢村庄屋庄兵衛、年寄杢兵衛、中村庄屋長右衛門、年寄伊兵衛、福沢村庄屋長三郎、年寄源左衛門」とあり、留め山であった御鹿山が、湯川、芹ヶ沢、中村、福沢4ヵ村の入会山となった。「立木、下草共に申し請け頂戴仕り候間」といいながら、「買山」と表現しているが、山の立木や草の採取権を買うという意味であったとみる。

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