鎌倉時代の守護館址と 前山寺より塩野平を眺める 芦田城、数々の氏族が芦田氏を名乗った

 (こう)ずる;皇族や三位以上の人が死ぬ。薨去(こうきょ)、薨逝(こうせい)する。
 (しゆつ)する;四、五位以上の人が死ぬ場合に使った。
 六位以下の身分が低い官人は「」とか、「臨死(みまか)しむ」と表現をした。

戦国時代前期の信濃武将

 目次            Top
 1)室町幕府季世
 2)信濃武士、戦国時代序章
 3)埴科郡舟山郷
 4)村上氏、大井氏を滅ぼす
 5)武田信昌の時代
 6)武田信虎の登場
 7)諏訪氏と武田氏の和睦
 8)武田晴信、諏訪を攻略
 9)武田晴信、佐久を攻略
 10)村上義清と武田晴信、上田原の戦い
 11)塩尻勝弦峠(かっつるとうげ)の戦い
 12)武田晴信、小笠原氏の本拠、筑摩郡を制圧
 13)戸石崩れ
 14)勇将村上義清の没落
 15)村上義清の葛尾落城
 16)村上義清、塩田城落城
 17)晴信と上杉謙信の初回対決
 18)真田幸隆と海野棟綱
 19)晴信伊那攻略
 20)武田軍、下伊那攻略

1)室町幕府季世
 永享8(1436)年、足利義政は6代将軍義教の次男として生まれた。義政には、日野重子を同母とする2歳上の兄義勝がいた。嘉吉元(1441)年6月24日、義教が播磨守護赤松満祐に、京の赤松亭の酒宴に招かれ、その最中首を取られると、義勝が後を継いで7代将軍に就任した。しかし2年後7月に急死した。弟義政は管領畠山持国細川持賢山名持豊ら宿老に擁立されて家督を継ぐ。元服を迎えた宝徳元(1449)年、8代将軍に就任した。正確には、文安3(1446)年に義成と名乗り、将軍就任後の享徳2(1453)年6月、義政と改名した。
 関東では信濃国佐久の岩村田大井氏の庇護下、潜んでいた足利持氏の子永寿王丸が、文安4(1447)年、鎌倉に迎えられた。元服して足利成氏と名乗り、ここに鎌倉公方の復活が実現した。成氏は関東管領上杉憲忠と不和になり、遂には享徳3(1454)年12月27日、憲忠を謀殺する事態となった。永享11(1439)年2月10日に終決した永享の乱後、鎌倉公方派と上杉派が関東を二分する全面対決が再び勃発した。享徳の乱である。
 成氏は上杉憲忠を謀殺した翌年、京幕府の命により今川範忠が出兵、その攻撃を受け下総古河に逃れ、以後古河公方と呼ばれた。将軍義政は、弟の足利政知を鎌倉公方として送った。しかし、政知は関東の争乱で鎌倉に入ることができず、伊豆韮山の地に館を構えた。これを堀越公方という。以後、関東に二つの公方勢力が登場する。実態は古河公方の成氏による関東の支配力の方が勝り、義政も後にこれを認めることになる。弱体なまま堀越公方は、政知の子茶々丸が、明応4(1495)年、伊勢盛時(北条早雲)に滅ぼされるまで続くが、結局は上杉家の支配地の伊豆の少勢力で終始した。ちなみに、茶々丸の弟義澄は後の11代将軍となる。また成氏も鎌倉に復帰できぬまま生涯を終えた。
 義政執政当初は、父義教の大名抑圧策に翻弄された畠山・斯波ら有力守護家に家督紛争が頻発していた。関東も上杉氏と公方の反目で戦乱状態となり、幕府の統制は実効力を失っていた。政務の主導権も、生母重子・乳母今参局(いままいりのつぼね)らが介入し、康正元(1455)年に日野富子と結婚すると富子の兄勝光や臨済宗の僧蔭涼軒(いんりょうけん;季瓊真蘂;きけいしんずい)・政所執事伊勢貞親らが幕政に容喙し混沌となる。
 義政は尾張国守護代織田氏の内紛に介入しようとしたが、尾張国守護の斯波氏の反発を買い、さらに管領畠山持国や母の日野重子に反対され失敗した。義政は執政の意欲を失い、政務を怠り社寺巡礼や別荘の造営に逃避した。寛正の大飢饉(1460年~61年)に際し百貫文(1000万円)ほどの援助のみで、自身は贅沢三昧で京庶民から憎悪されながらも、寛正2年、その大飢饉の最中に山荘を造営し、後花園天皇から漢詩をもって諷諫されている。
 寛正の大飢饉は中世最大といわれる飢饉で、前年の長雨・異常低温・台風などにより近畿・山陰・北陸地方から、窮乏した難民が京に逃れてきた。幕府が無策のまま餓死者は8万人以上となり、加茂川は一面餓死者で覆われたといわれている。
 同5(1464)年、義政は管領が主導する幕府政治に倦み、子もなかったので弟義視を継嗣とした。翌年富子が義尚を生むと、富子は山名持豊(宗全)と結んで義視排斥に動き、義視は細川勝元を頼んだ。これが応仁の大乱の契機となった。義政の政治懈怠により、富子とその兄妹が幕政を壟断する最中の文正元(1466)年、政所執事で義尚後見役となっていた伊勢貞親が義尚の家督継承を願い出て、義視排斥を企てた。細川勝元・山名宗全ら幕閣の実力者がこれに反発し、貞親とそれに近いとみられた斯波義敏・赤松政則・季瓊真蘂らが失脚すると、義政の実権は、益々無力化した。
 義政は幕閣の有力者である畠山持国の実子義就と持国の養子であった甥の政長の家督争いを調停できず、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。管領細川勝元・前侍所頭人山名持豊は各々地方の諸将を応援に招き、陣営の強勢を競ったため、戦乱は京師を中心に東西を二分し11年の長期に亘った。義政は応仁の乱では一貫して東軍側に属し、弟の義視を後継者としていたが、義視が富子の兄日野勝光の排斥を迫ると、義視の仇敵の伊勢貞親を復活させ、義視を西軍に追いやっている。
 応仁の乱は宗全・勝元の相次ぐ死に伴い、文明9(1477)年、京では終息する。既に文明5(1473)年末、義政は義尚に将軍職を譲って隠居していたが、富子と義尚が不和となり、文明12(1480)年には大病を患い政務にも嫌気が差し、能楽・書画や茶の湯に親しみ、後に京東山銀閣寺(後に慈照寺として創始)と呼ばれる山荘を造営し、「東山時代」と呼ばれる文化史上の一時代を画した。
 義尚は父母とその母方外戚勢力から逃れるように近江国の六角高頼討伐に向かい、長享3(1489)年3月26日、近江の鉤(まがり)の陣中で急死する。細川政元・畠山政長の管領家相互が政争する心労と、自身の深酒と荒淫のよる近江での陣没といわれている。義政と富子は、義政の弟義視の子の足利義材(よしき;義稙;よしたね)を将軍として迎えることにした。義政は延徳元(1490)年正月、観音殿(銀閣)の完成を待たずに病没する。
 興福寺大乗院門跡尋尊による『大乗院寺社雑事記(尋尊大僧記) 』には、幕府統治の実態を次ぎのように記している。
 「文明9(1499)年12月10日、就中天下之事、更以目出度子細無之、於近国者、近江・三乃・尾張・遠江・三川・飛騨・能登・加賀・越前・大和・河内、此等は悉く皆不応御下知、年貢等一向不進上国共也、其外は、紀州・摂州・越中・和泉、此等は国中乱之間、年貢等事、不及是非者也、さて公方御下知国々は、播磨・備前・美作・備中・備後・伊勢・伊賀・淡路・四国等也、一切不応御下知、守護躰於則躰者(守護の身であればそれらしく?)、御下知畏れ入りの由申入、遵行等雖成之、守護代以下在国者、中々不能承引事共也、仍日本国は悉く以不応御下知也」

2)信濃武士、戦国時代序章

 
 文明の内訌の舞台となった諏訪大社前宮の神殿

 文明9(1477)年8月、信濃国では水内郡の栗田氏が、同郡内の漆田秀豊の本拠漆田城を奪取し領地を割譲させた。善光寺内に、寛慶寺という大寺がある。浄土宗総本山知恩院の末寺で正式名は寿福山無量院寛慶寺という。治承4(1180)年9月栗田城主であり、戸隠山顕光寺(現戸隠神社)別当である栗田範覚が、善光寺の南、犀川の北の栗田(長野市芹田栗田)に寺を建立し栗田寺とした。栗田氏は代々戸隠山別当を世襲しており、寛覚の代に鎌倉幕府より重ねて善光寺別当に任じられた。以来、代々、善光寺・戸隠両山別当を世襲した。栗田寛慶が、明応5(1496)年12月に没すると、その遺言に依り栗田寺を現在地善光寺東門に移し、父寛慶の名を以て寺号とした。
  国衙が後庁(現長野市南長野町・後町)にあった時代に、中御所守護館は、現在の長野市中御所2丁目に置かれていた。南北朝期から室町期の信濃国の守護所である。その漆田原(長野市中御所の長野駅付近)在地領主漆田氏の館跡が漆田城とも言われ、守護館の北西から西北西の方向に東西約254m、南北118mに漆田城を構えた。源頼朝が建久(1197)8年に善光寺に参詣した際にこの辺りの有力者である漆田氏の館に泊まったとある。漆田は現在も字名に残る。
 中御所守護館は文安3(1446)年の漆田原合戦後に廃された。小笠原宗康 が父小笠原政康からの家督を相続したが、政康の兄長将の嫡子持長と従兄弟同士で守護職と跡目を争い、宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死した際は家督を譲り渡す条件で協力を依頼した。宗康は漆田原で持長軍と戦い傷死したが、持長は戦勝しながら、家督を承継出来ず、その対立が後代にも及んだ。文明11(1479)年9月、伊那郡で松尾の小笠原政秀(政貞;宗康の子)と鈴岡の小笠原家長(光康の子)が争い始めた。小笠原家は遂に3家に分裂し混乱した。諏訪上社大祝諏訪継満は政秀を助勢するため伊那郡島田(飯田市松尾)に出兵した。
 文明11(1479)年7月、佐久郡内の小笠原一族、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めていた。佐久岩村田の大井氏の当主は政光の後嗣、若い政朝であった。ところが、その1か月後の8月24日の合戦で、大井氏は前山城の伴野氏との戦いに大敗し、政朝が生け捕りとなり、大井氏の執事相木越後入道常栄(つねよし)を初め有力譜代の家臣が討死した。この戦いには、伴野氏方に、大井氏に度々侵攻され劣勢にあった甲斐の武田信昌が、報復として加担したといわれている。生け捕りとなった政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。以後、政朝は勢力を回復できぬまま、文明15年(1483)若くして死去した。子がなく、幼弟の安房丸が継いで大井城主となった。「四鄰譚藪」には「大井孤城となる」と記している。
 翌年、村上氏の軍勢が佐久郡に乱入し、2月27日、岩村田は火を放たれ、かつて「民家六千軒その賑わいは国府に勝る」と評された町並みは総て灰燼に帰した。大井城主は降伏し、大井宗家は村上氏の軍門に下った。
 翌文明12年2月、下社大祝金刺興春が、上社方を攻め安国寺周辺の大町に火を放った。3月には西大町に火を放つ。興春には諏訪一郡の領主権と諏訪大社上下社大祝の地位獲得の野望があった。同年7月、伊那郡高遠の諏訪継宗が鈴岡の小笠原家長に合力し伊那郡伊賀良へ出陣し、松尾の小笠原政秀と戦い、8月には、上社大祝継満が、小笠原政秀と共に伊賀良の鈴岡小笠原家長を攻めている。
 一方、高遠の諏訪継宗は同じ8月、伊那郡高遠(伊那市高遠町山田)の山田有盛と戦っている。文明13年の『諏訪御符礼之古書』に記される明年御射山御頭足事条には「一、加頭、伊那,山田備前守有盛、御符礼一貫 八百、代始、使四郎殿、頭役六貫文」とあり、山田有盛が頭役を勤仕している。山田氏は山田地内の山上に居城を構えていた。府中の小笠原長朝(持長の孫)は、高遠の継宗に味方し山田城を攻めたが長朝は多くの士卒を失ったという。翌14年6月、高遠継宗は藤沢荘の高遠氏代官として仕えていた保科貞親(諏訪一族)と、その荘園経営をめぐって対立し、大祝継満・千野入道某らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず不調に終わった。継宗は笠原、三枝両氏らの援軍を得て、千野氏・藤沢氏らが与力する保科氏と戦ったが、諏訪惣領政満が保科貞親の助勢に加わると、晦日、高遠継宗の軍は笠原(伊那市美篶;みすず;笠原)で敗れた。以後も保科氏との対立は続き、さらに事態は混沌として複雑になる。同年8月7日、保科氏が高遠氏に突然寝返り、連携していた藤沢氏が拠る4日市場(伊那市高遠町)近くの栗木城を攻めた。この時、諏訪惣領政満は藤沢氏を助け、その援軍も共に籠城している。
 15日には、府中小笠原長朝の兵が藤沢氏を支援するため出陣をして来た。17日、府中小笠原氏と藤沢氏は退勢を挽回して、その連合軍は高遠継宗方の山田有盛の居城山田城(高遠町山田)を攻撃したが、勝敗は決しなかった。『諏訪御符礼之古書』によれば、「府中のしかるべき勢11騎討死せられ候、藤沢殿3男死し惣じて6騎討死す」とある。

 諏訪氏も小笠原氏同様、一族間の内訌が絶えなかった。諏訪惣領家・諏訪大社上社大祝家・高遠諏訪家、そこに下社大祝金刺家が加わる争乱となる。
 この戦国時代初期、諏訪氏は多くの苦難を乗り越える事で、戦国武将として成長しつつあった。諏訪氏は、下社金刺氏を圧倒し郡内を掌握する勢いであり、杖突峠を越えて藤沢氏を支援し、一族高遠継宗の領域を脅かしつつあった。大祝継満も大祝に就任して20年近い、年齢も32才に達している。諏訪家宗主としての誇りと、度々の郡外への出兵で、軍事力を養ってきた。そして、諏訪大社御神体・守屋山の後方高遠に義兄弟の継宗がいる。彼らは、自ずと連携し、そこに衰勢著しい金刺氏を誘い、「諏訪上社を崇敬すると自筆の誓紙」を差し出した伊賀良の小笠原政貞とも同盟した。
 文明15(1483)年正月8日、その大祝諏訪継満が惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿(ごうどの)で饗応し、酔いつぶれたところを謀殺した。しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、2月19日、神長官守矢満実・矢崎政継・千野・福島・小坂・有賀ら有力者は継満を干沢城に追い詰め、更に伊那郡高遠へ追いやった。文明の内訌である。
 下社大祝金刺興春は、継満に同心していて、諏訪家の総領の不在を好機として3月10日、高島城(茶臼山城;諏訪湖の高島城は豊臣時代以降のもの)を落城させ、さらに桑原武津まで焼き払い、上原に攻め込もうとした。神長官守矢満実らは、敵の攻撃に備えて高鳥屋城(たかとやじょう;桑原城)に総領家一族と共に立て篭もっていた。守矢満実の子継実・政美は、矢崎、千野、有賀、小坂、福島などの一族と共に逆襲に転じ、逆に金刺興春の軍を破り、勝ちに乗じて下社に達し、その社殿を焼き払い、興春の首を討ちとった。その首は諏訪市湖南にあった大熊城に2昼夜さらされた。興春亡き後、諏訪下社大祝は子盛昌、孫の昌春と代を重ね、上下社間の争闘は続くが、このころから下社方の勢力は衰微する。この時府中深志の小笠原長朝は、神長官守矢満実・矢崎政継らに味方し、下社領筑摩郡塩尻・小野などを押領した。
 高遠に逃げた継満は、義兄の高遠継宗と伊賀良小笠原政貞、知久、笠原氏の援軍をえて翌年の文明16(1484)年5月3日、兵300余人率い、杖突峠を下り磯並・前山(いそなみ・まえやま;茅野市高部)に陣取り、6日には諏訪大社上社の裏山西方の丘陵上にあった片山の古城に拠った。その古城址北側下の諏訪湖盆を見晴らす平坦な段丘には、古墳時代初期の周溝墓、フネ古墳片山古墳がある。極めて要害で、西側沢沿いには、水量豊富な権現沢川が流れ地の利もよい。惣領家方は干沢城に布陣したが、伊那の敵勢には軍勢の来援が続き増加していく。 ところが小笠原長朝が安筑両郡の大軍を率いて、片山の古城を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。その向城こそが権現沢川左岸の荒城(大熊新城)であった。伊那勢は両翼を扼され撤退をせざるを得なくなった。 継満も、自らの妄動が家族に残酷な結果をもたらし、却って諏訪惣領家を中心とした一族の結束を強め、下社金刺氏をも無力にし、ここに始めて諏訪平を領有する一族を誕生させたことを知った。以後の継満には、諸説があり、各々信憑性を欠くが、いずれにしても、継満一家は歴史上の本舞台からは消えていく。 惣領家は生き残った政満の次男頼満に相続され、同時に、大祝に即位した。5歳であった。
 諏訪上社大祝諏訪頼満と下社大祝金刺昌春の戦が繰り返され、昌春の拠る萩倉要害が自落して、大永5(1525)年、甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。
 これより先、文明10年12月、深志の小笠原清宗(持長の子)が、享年52で没した。子の長朝が後継となったが、若年と侮られ、長朝が不在中に鈴岡の小笠原政秀が深志に侵攻してきた。
 小笠原長朝は諏訪氏と金刺氏同族間の戦いに介入にし、それに乗じようとする伊賀良の小笠原と戦い、その一方、筑摩と安曇地方で勢力を広げようとしたため周辺の豪族と争乱を繰り広げていた。長朝は、安曇地方の北部の雄族仁科氏(大町市付近)とも争うことになる。長朝は、戦線が拡大し手薄になった府中を、諏訪惣領家政満による攻撃を受け形成が次第に不利になっていた。鈴岡の小笠原政秀が諸所に転戦する長朝の不在をついてきた。家臣団は防ぎきれず、長朝の母と妻子らを守護し、相伝文書を携え更級郡牧城の香坂氏を頼って逃れた。やがて長朝も寄寓してきた。府中の小笠原家存亡の危機に至った。小笠原政秀は長朝の本拠地林館(松本市)を奪い、深志にとどまり安筑(あんちく)2郡を合わせて領有し、名実共に小笠原惣領家たらんとした。しかし安筑2郡の国衆は反発し治政不能の争乱状態となった。やむなく長朝と和睦し、家伝の文書を譲り受け、代わりに、長朝を養子とし府中に返した。香坂氏は長朝と同盟関係となり、延徳元(1489)年8月、府中へ出兵し長朝に助勢している。
 数年後、松尾の小笠原定基(光康の孫)が鈴岡の小笠原政秀父子を誘殺し伊賀良を掌握した。定基は勢いのまま、伊那地方制覇に奔走する一方、しばしば伊勢宗瑞(北条早雲)から要請され三河国に出兵し、更に遠江の大河原貞綱にも頼られ出陣している。
 その度重なる動員で、主力兵力の伊那地方の農民社会が崩壊し貧窮化する。そこへ府中の小笠原長棟(長朝の子)が3年間に亘って執拗に介入し、天文3年(1534)小笠原定基はついに降伏した。こうして信濃の小笠原氏は府中の小笠原家に統一され、長棟は次男の信定を松尾城に配して、府中から伊賀良までの完全支配を達成した。この数年後、小笠原長棟の跡を継いだ小笠原長時が、甲斐国から侵攻してきた武田晴信と戦うことになる。

3)埴科郡舟山郷
 「諏訪御府礼之古書」は『信濃一宮』諏訪大社上社の重要祭事の御符入の際に於ける頭役、礼銭、頭役銭などを記録しているため、信濃の中世武士の盛衰を知る貴重な史料となっている。
 『御符礼』とは、上社が翌年の頭役へ『御符』即ち差定書を届け、この差定の文言に従い「頭役」が担当する祭事の際、『御符』を捧げて諏訪郡内に入部した。『御符礼』を戴くことは、『信濃一宮』が認定する当地の雄族の証であり、『御符礼』はその対価となる礼銭のことである。「頭役」は信濃各地に於ける事実上の支配者を認定する公的権威となっていた。
 舟山郷は海野氏が領有していたが、やがて村上氏に奪われた。屋代信仲は、現在の屋代駅付近の一重山(ひとえやま)に屋代城を築き支配していた。
 『御符礼』によると舟山郷の頭役は、文安6(1449)年海野持幸代官平原直光、康正2(1456)年も海野氏代官室賀貞信であった。寛正2(1461)年以降からは、村上氏一族の屋代信仲が文明17(1485年)年まで頭役を務めている。
 応仁元(1467)年、村上氏との戦いで海野持幸が戦死し、本拠の小県郡海野荘は村上氏に奪われた。それ以前に、村上氏の勢力が、舟山郷までに及び、海野氏一族を一掃していた。幕府政所執事伊勢貞親は、8代足利将軍義政の養い親で、隠然たる政治力を有していた。その貞親が、寛正6(1465)年5月5日、大井持光の子政光から馬を贈くられ、その礼状に応え、埴科郡舟山郷入部を認めた。政光は、寺社参詣の名目で、重臣相木越後入道常栄(つねよし)に書状を託し、同年7月2日、舟山郷入部を再度、京都の伊勢貞親に質している。
 舟山郷は、かつて平家没官領から信濃春近領の一つ鎌倉将軍家領となっていた。南北朝時代には、室町幕府は守護領としていた。その領域は、「更級埴科地方誌」に「現在小舟山には舟山が小字として存在し、寂蒔(じゃくまく)や鋳物師屋にも舟山の小字があって、この辺りを中心とした郷であったことが知られる」と記している。舟山郷は、更級郡村上郷(現坂城町の上平(うわだいら)と網掛の間に字名を遺す)のあった更級郡南部から千曲川の川東を北に遡り、現更埴市屋代から現千曲市の戸倉の中間にあり、同じく現千曲市の小船山・寂蒔(じゃくまく)・鋳物師屋付近にあった。
 村上氏は室町時代初期、更級郡村上郷を本拠に、その千曲川以西を領有していた。明治22(1889)年、更級郡上平村、網掛村、上五明村が合併し村上村が発足し、昭和35年(1960)4月1日 その村上村が埴科郡坂城町に編入されている。その領域が大いに関わっている。舟山郷は、南北朝時代、守護所が置かれていた。至徳年間(1384~87)に守護所が平柴(長野市)へ移っている。以後、舟山郷は市河氏や倉科氏の預所(あずかりどころ)になっていた。
 「幕府は反幕的な村上氏や高梨氏に対抗させるため、大井政光に舟山郷を支配させようとした。寛正6(1465)年5月5日、幕府政所執事伊勢貞親は、政光に舟山郷入部を申し付けた。それを援護するため幕府は伊那郡松尾の小笠原光康と越後守護上杉房定に、村上政清と高梨政高の討伐を命じた。
 高梨政高は古河公方足利成氏と通じていた。越後守護は上杉右馬頭(うまのかみ)を大将として高梨の本拠の高井郡を攻め込ませたが、高橋(中野市西条)で逆に討ち取られている。その後文明17(1485)年まで屋代信仲が、諏訪上社の頭役を務めている。大井政光は村上政清に、自力では対抗し得なかったようだ。

4)村上氏、大井氏を滅ぼす
 村上氏は、応仁元(1468)年の頃、既に更級郡村上郷から坂木(埴科郡坂城)に本拠を移していた。坂木は千曲川東岸で、塩田荘の対岸に当たる。海野氏は北側両面から、その圧力を受けることになった。
 関東公方足利成氏没後、坂城の村上頼清が、塩田荘塩田城(別所温泉前山寺後方の弘法山)を拠点に伸張してきた。文正元(1466)年、村上政清は上高井郡山田郷で井上満貞を攻撃し敗死させている。翌文正2年小県郡海野荘を攻め海野氏幸を破り、翌応仁元年10月18日、氏幸を討死にさせた。海野氏一族の筑摩郡会田の岩下満幸は、救援に駆け付けたが、同年12月14日、政清に討ちとられている。翌応仁2年、政清は雪が解ける頃、傍陽(上田市真田町傍陽)の洗馬に攻め入り、海野氏に勝利している。この年の村上氏の洗馬攻めが、真田地方に村上氏が入った最初で、海野氏は村上氏に敗れたことで傍陽地方を維持できず、その地方の国人領主、曲尾氏、堀内氏、半田氏らは村上氏に降伏、後に横尾氏も降伏した。同2年4月に洗馬城(千葉城;傍陽地区)の詰め口を攻める最中、政清は陣中から坂城郷の諏訪上社四月会頭役の役料を届けている。この年の頭役には、政清自身が勤仕している。それまでは、文安5(1448)年の代官重富高信や寛正5(1464)年の代官飯野信宗が勤仕していた。政清は盛清以来村上氏発祥の地更級郡村上郷から、千曲川を越え埴科郡坂城郷へ本拠を移した。翌年には、隣接するに至った海野氏の真田郷内の城と所領を奪い尽くした。
 村上信貞は建武2年、足利直義から恩賞として北条氏の所領塩田庄を与えられ、その代官として一族の福沢氏を充て管理させた。政清は、これより先に塩田平に勢力を張る浦野氏を駆逐し、当地方を完全に掌握していた。
 応仁元(1467)年10月18日、村上頼清は小県郡の海野幸氏を討ちとり、その所領を奪った。その勢いのまま村上勢は大挙して佐久郡内に攻め込んだ。佐久郡の代表的史家である岩村田出身の学者吉沢好兼(たかあき;宝永7年~安永5年)の著「四鄰譚藪」には、村上氏が1万騎を率い大井氏を攻め、大井原の決戦に懸け、これに勝利し岩村田城下にまで攻め込んだ。大井氏は甲州へ逃れたとある。その影響により「妙法寺記」には、文明元(1468)年と文明4年に大井氏など佐久の国人衆が甲斐国に攻め入り、文明9(1477)年4月12日には、甲斐勢が佐久に侵攻して敗北した記録が記されている。大井氏は村上氏に追われ、その一族が甲斐国西部に根を張る切っ掛けとなった。甲斐国の大井氏の勢力は侮りがたくなり、武田晴信の母は、信虎の正室の甲斐大井氏である。
 当時甲斐守護武田氏の力が弱く、隣接する佐久からも侵攻されていた事が分かる。この甲州勢の報復的な佐久侵攻に際し、佐久郡南部の相木谷を本拠とする大井氏重臣の相木氏が軍勢を募り、現南牧村の平沢やその北隣り現野辺山の矢出原で、武田軍を撃退したようだ。当時の武田氏は甲斐守護職についていたが、それは名ばかりのことで、甲斐一国を平らかにする力は無かった。国内は、麻のように乱れていた。若い守護職武田信昌の代に、長い間専権をふるっていた守護代跡部氏を、寛正6(1465)年、西保の小野田城(東山梨郡牧丘町)で討ちとり、下剋上の芽を刈り絶ったが、その後も有力国人の反抗や対外勢力の侵入に悩まされていた。未だ守護大名化には、程遠い情勢下にあった。

 文明9(1477)年8月、持光から大井惣領家を継いで30年近くなる政光が、翌文明10(1478)年、身罷っている。政光の後嗣が若い大井城主政朝で、翌11年7月、佐久郡内の同族、大井・伴野両氏が諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めていた。ところが、その1か月後の8月24日の合戦で、大井氏は前山城の伴野氏との戦いに大敗し、政朝が生け捕りとなり、大井氏の執事相木越後入道常栄(つねよし)をはじめ有力譜代の家臣が討死を遂げた。この戦いに、大井氏に度々侵攻され劣勢であった甲斐の武田信昌が、報復として伴野氏方に加担したといわれている。生け捕りとなった政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。以後、政朝は勢力を回復できぬまま、文明15年(1483)若くして死去した。子がなく、幼弟の安房丸が継いで大井城主となった。「四鄰譚藪」には「大井孤城となる」と表している。
 翌年、村上氏の軍勢が佐久郡に乱入し、2月27日、岩村田に火を放った。かつて「民家六千軒その賑わいは国府に勝る」と評された町並み総てが灰燼に帰した。大井城主は降伏し、大井宗家は村上氏の軍門に降った。
 村上氏は、南北朝時代の末期に埴科郡坂城を中心に勢力を拡大し、嘉吉元(1441)年将軍足利義教が殺され、翌年守護の小笠原政康が死に信濃国内が騒然となると、その混乱に乗じて自領を拡大した。村上政清、義清の時代には、北信最大の雄となった。村上姓の由来については、信濃国更級郡村上郷の地名からとされる。
 その村上政清が、大井氏の代替わりを好機とし、1万2千の軍で大挙して大井城を襲撃した。大井氏には、往古以来の有力な家臣が潰えた凋落時、既にこれを撃退する力はなかった。城郭・神社仏閣・民家全てが焼き尽くされた。大井城は、落城「城主没落にあいぬ」「この節大井殿は小諸へお越し候え在城なされ蹌踉」とある。大井宗家は滅亡した。かくして、大井朝光が大井城に居住してからおよそ260余年、名族の城が落ちた。
 小笠原政康死後3家に分裂し、文明以降、信濃国は北信の高井方面では井上・高梨両氏が戦いを繰り返し、佐久地方では同じく小笠原一族同士の大井・伴野両氏が争い、その間隙を衝いて村上氏は、善光寺平・小県・佐久平に支配地を伸張させ、更埴を盤石な本拠地として確立していく。
 村上義清の代には、信濃埴科(はにしな)郡葛尾城を本拠とする信濃北東部の有力国人となり、佐久・小県(ちいさがた)・更級(さらしな)・埴科・高井・水内(みのち)の六郡に及ぶ大勢力となっていた。

5)武田信昌の時代
 武田 信昌は父信守の早世により、康正元(1455)年幼くして家督を継いだ。父信守も若年での相続であったため、信昌の時代の武田氏は守護代跡部駿河守明海(あけみ)・上野介景家父子が専横を極めていた。
 跡部は嘉歴4(1329)年の諏訪大社の『諏訪社上社造営目録案』に『玉垣二間 跡部』とあり、『尊卑文脈』には伴野氏初代時長の次男長朝が阿刀部(跡部)氏を称したという。『貞祥寺開山歴代伝文』には前山城(佐久市前山)を築き城主となったという。佐久郡野沢郷の北側に隣接する地に在し、室町時代、跡部氏が諏訪大社上社頭役に就いている。その後も頭役を重ねているが、10貫足らずで伴野荘内の頭役負担郷村では最小であった。
 笛吹川左岸、甲斐国西八代郡の旧市川大門町平塩岡にあった寺院の『平塩寺過去帳』によると、跡部郷の跡部常賀(つねよし)らの支族が、南北朝時代に佐久から甲斐の八代郡大石和筋(旧勝沼町)に移り勢力を伸張させたようだ。佐久の跡部氏は『諏訪御符礼之古書』に載る以降、不詳となる。

 応永23(1416)年上杉禅秀の乱に際し、甲斐守護武田信満は禅秀の舅であった関係から加担した。翌24年1月、禅秀が敗れ鎌倉で自害し、鎌倉公方足利持氏が上杉憲宗を大将に武蔵・相模の国人衆を甲斐に差し向けると、これを都留郡に迎え撃ったが敗れ、山梨郡木賊山(とくさやま;東山梨郡大和村;天目山)で自刃した。この乱により甲斐武田氏は滅亡の危機に瀕した。守護不在となると、甲斐の国人衆が自衛のため一揆を組み、相互の勢力争いが拡大し混乱を極めた。応永25(1418)年、将軍義持は甲斐鎮定の抑えとして信満の弟武田信元(穴山満春)を新守護に任じるが、国内に自立する国人衆によって信元は入国を阻まれた。
 幕府に要請された小笠原政康の支援により、ようやく信元は入国ができた。甲斐守護家武田氏の権威はまったく地に落ちていた。政康は同じ小笠原一門の跡部駿河守明海を守護代に推し信元を補佐させた。明海は武田氏の衰微に乗じ、子の上野介景家と謀り、甲斐守護職の座を狙った。寛正2(1461)年、景家は八代郡岩崎村(勝沼町)の氷川神社に掲げる新殿の棟札に「専ら跡部上野介景家身心勇猛にして、永く武家の棟梁となり、子孫繁栄して正に武門の枢要たらんことを祈る」と願文を奉げている。

 武田15代当主信守は若年の相続であったが、その信守も早世し、、その子16代当主信昌も幼年であった。跡部氏の対立は甲斐一国規模の戦乱となり、長禄元(1457)年には小河原合戦(現甲府市)と馬場合戦において信昌方は苦戦し一門の重臣吉田氏や岩崎氏らを失っている。跡部明海が寛正5(1464)年に死去すると、信昌は諏訪惣領政満の援護を受け、翌寛正6年、政満の父信満の兵と合わせて夕狩沢合戦(山梨市)において景家勢に大勝し、山梨郡西保下の小田野城(旧東山梨郡牧丘町)に追い詰め景家を自害させる。
 文明4(1472)年、佐久の有力国人大井政朝が埴科郡の村上氏に追われ、甲斐八代郡へ逃れ侵攻してきたため、花鳥山(旧御坂町)で合戦となった 『勝山記』。後に信昌は大井氏の弱体化を見て逆に佐久郡へ侵攻を試みたが、大井氏の重臣相木氏にこれを阻まれた。『勝山記』などによると、信昌守護の時代、風水害、飢饉、疫病の蔓延、農民一揆の勃発などの記録が散見される。こうした中、延徳2(1490)年、穴山と大井(武田大井氏)両氏が合戦をするなど、穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏といった国内の有力国衆が自家存続と領土拡張の野心を剥き出しにする。飢饉の最中、他領への侵略は、その作物の奪取が主要な目的であった。
 信昌は明応元(1492)年に嫡男信縄(のぶつな)に家督を譲って隠居したが、信昌に迷いが生じ、病弱な信縄を廃し、信縄の弟の信恵(のぶしげ)に家督を譲りたいと考え始め、信縄と信恵それぞれを支持する国人衆が、甲斐を2分して争った。

6)武田信虎の登場
 堀越公方足利政知の子足利茶々丸が明応4(1495)年、伊勢盛時(北条早雲)によって伊豆国を逐われ、上杉顕定や武田信縄を頼って武蔵国や甲斐国に寄寓していた。伊勢盛時は明応7(1498)年8月、甲斐国に侵攻し、足利茶々丸を討った。盛時は南伊豆の深根城を落として、5年をかけて漸く伊豆国を平定した。伊勢盛時の脅威が去ると、信縄と信昌の抗争が再開する。信昌は長期に亘り守護の立場にあり、国人勢力や対外勢力を撃退する成果を挙げた。後代の甲斐譜代家臣層のなかに「昌」の偏諱を持つものが多い。甲斐国の統一を進展させた結果とみられる。しかしその晩年には国内を2分する内乱を招いた。明応3(1494)年に武田信縄の子として信虎が生まれた頃も、父信縄は信虎から見れば叔父にあたる弟信恵との戦いに明け暮れていた。信虎が生まれた時期には、信縄は信恵に対して優位となり、とりあえず家督争いは小康を保っていた。しかし、永正2(1509)年に信昌がこの世を去り、その翌年には信縄も薨去した。ここに若干14歳の武田信虎(当時信直)が、武田家の家督を相続した。再び油川信恵(武田信恵)と信縄の嫡子信虎との家督争いが発生する。信虎は油川氏の居城である勝山城を先制攻撃し、油川信恵・信貞父子と信恵の弟岩手縄美などと共に討ちとり禍根を断ち切ることに成功した。
 信虎はほぼ甲斐国の統一を成し遂げると、次の標的にしたのが、小領主が分立し抗争を続ける信濃であった。甲斐から信濃へは、八ヶ岳の東麓を北上する佐久口と、八ヶ岳の南麓から西北に進む諏訪口がある。諏訪地方は永正15年(1518)、諏訪頼満が長年対立してきた諏訪大社下社大祝金刺氏を追放し統一を遂げ、軍事的にも侮りがたく、一方、佐久地方は大井と伴野両氏が対立し混沌としていた。
 永正16(1519)に甲斐の信虎が佐久郡平賀城を攻めたのを皮切りに、大永7(1527)年、野沢の前山城主伴野貞慶が大井氏と戦い、信虎に援軍を要請した。信虎は佐久口から入ったが、信濃方がまとまり対抗したため和睦し撤退した。
 享禄元(1528)年8月22日、信虎は先の甲州亡命者金刺氏の旧領奪還を口実に、諏訪へ侵入しようとした。同月26日、諏訪頼満は子頼隆と共に諏訪郡神戸境川(諏訪郡富士見町)で迎撃し信虎に勝利した。享禄4年、浦氏・栗原氏・今井氏・飫富らが信虎に叛き、諏訪氏に出兵を要請してきた。頼満は自ら兵を率い甲斐に侵入した。信虎が下社金刺氏牢人衆を集めて立て籠もらせていた笹尾塁を攻略し、更に軍を進めた。しかし2月2日の合戦で大井信業、今井備州らが討死し、次いで3月3日の韮崎河原辺の合戦で栗原兵庫ら8百余人が敗死し、反信虎軍は壊滅的打撃を被り四散した。頼満は信虎と甲斐国塩河で激戦となり、又も勝利している。天文元(1532)年9月、浦信本は再び諏訪頼満を頼り叛いたが、甲斐国の年代記「『妙法寺記』には「終に浦信本劣被食(おとえなされ)候而屋形へ降参申候。去間城を屋形へ渡し申候而云々」とある。信虎の鎮圧が早く頼満は出兵の機会を逸した。ここに信虎の甲斐国内統一が完成した。
 以後も諏訪頼満と度々交戦するが、天文4(1535)年9月17日、堺川北岸で会見して和議をした。天文9(1540)年5月、信虎は佐久郡へ攻め入った。甲斐国主の軍勢の前に、佐久の小領主の連合軍は脆かった。『妙法寺記』は、一日に36もの城を落したと記す。諏訪頼満の病死後、孫頼重が家督を継いでいた。父大祝頼隆は享禄3(1530)年4月18日病死していた。頼重は信虎に呼応し7月、岩村田大井氏の一族が拠る小県郡の長窪城(長門町)を奪っている。既に長窪城から依田氏の影はなく、芦田氏討伐後間も無く、大井氏は依田氏の本拠を奪取していた。諏訪大社上社五月会頭役などの記録によれば、依田氏は岩村田大井宗家や小諸などで、大井氏の執事・代官として家名を維持している。
 同年11月30日の甲斐国から輿入れがあった。頼満の孫頼重が信虎の姫(3女;信玄の妹)祢々御料人(ねねごりょうにん)を娶った。祢々御料人は14歳、頼重25歳。12月9日、頼重、甲府に婿入りしている。信虎同月17日、上原城を訪れる。頼重には既に小笠原氏の家臣小見氏(こみし)との間に一女があった。当時9歳で、後の諏訪御料人・本名梅であり、勝頼の母、この時、人質交換の意味もあって甲府に送られた。  翌天文10年5月13日、信虎と頼重が連携し海野(東部町)へ出兵した。村上義清も合力し尾野山(上田市生田尾野山)の海野棟綱を駆逐し、翌14日には祢津元直を追い、棟綱は上野の関東管領上杉憲政のもとへ逃れた。長野原には、同族の羽尾氏がいた。この時、真田幸綱(幸隆)も共に逃れたようだ。幸綱の出自については、真田氏自体にも幸隆以前の記録が少なく、棟綱の娘婿真田頼昌の子とする説や、海野棟綱の子幸綱が頼昌の養子になったなど諸説がある。
 同年6月14日、信虎は女婿である駿河の今川義元の館へ向かった。その際、信虎の嫡男晴信は、信虎を追放とし帰還を許さなかった。
 やがて武田氏と村上氏の争いの場となり、大井氏・平賀氏・依田氏をはじめとする佐久郡の諸豪族も村上氏や武田氏、更に関東管領上杉氏などの間で離合集散を繰り返していき、最終的にはその殆どが滅亡し、地名を氏(うじ)名とする名族を継承できなかった。その末流一族は、戦国大名の雄・武田氏に属し先陣先駆衆して、多いなる犠牲を払いながらも一族を存続させていった。

7)諏訪氏と武田氏の和睦
 文明12(1480)年頃に入ると、諏訪大社の上社と下社の対立が激しくなり、下社の金刺氏は府中(松本付近)の小笠原氏と結び、上社の諏訪氏は伊那郡の小笠原氏と結び、夜毎、戦闘を繰り返す動乱の時代となる。下社の金刺興春は、上社方の諏訪氏惣領家と大祝家の内紛に乗じ一時優勢になったが、逆に攻め込まれ首を討たれ、社殿等を焼かれた。孫の昌春の代には萩倉砦(下諏訪町東山田)を落とされ、已む無く甲斐国の武田信虎(武田晴信の父)を頼って落ち延びた。これが信虎の諏訪郡侵攻の口実となった。>
 信虎の信濃侵攻は、南の今川、東の北条と幾度かの戦火を交えながらも、決定的決着とならず、3者鼎立の膠着状態となった事による。
 信虎は明応3(1494)年に誕生した。永正4(1507)年2月14日、病弱であった父信縄が病死する、享年37であった。信虎14歳で家督を継いだ。叔父の信恵(のぶよし)が有力国人衆を誘い反旗を翻した。 翌永正5年、内戦に勝利し守護大名としての地位を守った。『高白斎記』によれば、永正16(1519)年には、甲斐をほぼ制圧し、それまでの武田氏歴代の居館があった石和(笛吹市、旧石和町)より西へ移り、初めは川田(甲府市川田町)に館を置き、後に府中(現在の甲府市古府中)の躑躅ヶ崎に館を構え、町を整備し家臣を集住させた。現在の甲府の始まりであった。
 大永3年(1523)6月10日、信濃国善光寺に参詣している。大永5(1525)年4月1日、「諏訪殿」に甲府の住居を与えている。「諏訪殿」とは、諏訪頼満に駆逐された金刺昌春とみられる。大永6(1526)年6月19日、将軍足利義晴は信虎の勢威が盛んであることに期待して、上洛を要請した。その際、関東管領上杉氏、諏訪上社大祝諏訪氏、木曽親豊に信虎の上洛に協力するよう命じている。当時、駿河には今川氏輝・氏親父子が、相模には北条氏綱がいて、互いに強国同士が接し、特に氏親と氏綱は北条早雲の縁から相駿同盟をしており信虎の東海道方面の侵出を困難にしていた。この年7月30日、信虎は、北条氏綱と籠坂峠の麓、富士裾野の梨木平で戦い大勝している。しかし、互いに決定的勝利とならず抗争は続いた。このため上洛は実現できなかった。
 信虎が、その全く逆方向の大国でありながら、諏訪氏、小笠原氏、村上氏、木曽氏等の小大名が分立する信濃に、矛先を向けるのは、信虎としては当然の帰結であった。信虎は一代の英傑であって、武田騎馬軍団を育て、その戦法の基本を確立した。その果実を晴信が継承し、類希なる軍略を駆使し稀代の戦国大名として成長した。
 甲斐と信濃は国境を接し、当時両国を結ぶルートには2通りあった。八ヶ岳の東を抜け佐久郡に至る道と、甲府盆地に隣接する諏訪地方への道である。信虎は、小豪族同士がひしめき合う佐久郡への侵入を試みたこともあったが、これは思うに任せなかった。享禄元(1528)年からは、諏訪地方を治める諏訪頼満と足掛け8年にわたる戦いを続けてもいた。天文4(1535)年には頼満と和睦し、後にはその子頼重に娘を嫁がせて諏訪家との同盟を締結し、信濃侵攻の方針を諏訪地方攻略から再び佐久攻略へと軌道修正した。
 頼重は天文3(1534)年に惣領家を継いだ。
 天文4(1535)年9月17日、諏訪頼満と武田信虎は堺川北岸で会見して和議をした。この年の6月、信虎は今川氏の駿河に侵攻した。8月、今川を救援する北条氏と都留郡の山中で戦い敗れている。信虎は西隣する諏訪氏との和睦が緊要となった。諏訪氏にしても文明14年以降、同族高遠継宗との攻防が続き、当代高遠頼継も、高遠氏積年の野望である諏訪氏簒奪の機会を窺っていた。諏訪氏にしても大門峠を越えた小名が群拠する佐久には魅力があった。
 天文6(1537)年2月10日、武田信虎は長女定恵院(じょうけいいん;晴信の姉)を駿河守護今川義元に嫁がせ、甲駿同盟を成立させる。天文5年、駿河の今川氏輝が逝去した際に、今川家では花倉の乱という家督相続が勃発した。信虎は義元の家督相続を支持し、援軍を派遣し義元の勝利を決定的なものとした。それを契機に武田と今川は同盟を結ぶこととなった。甲駿同盟に激怒した北條氏綱が2月26日に駿河へ出兵。興津近辺を放火する。 武田信虎は今川義元救援のために富士須走口に出陣している(『勝山記』須走口合戦)。
 天文7(1538)年、頼重は叔父の諏訪頼寛から弟頼高に諏訪上社大祝を継承させた。同年7月9日、頼重は、大門峠を越えて葛尾城(埴科郡坂城町)の村上義清・信虎と共に海野幸義を討ち取り、矢沢氏・禰津氏を攻め破っている。天文10(1541)年7月、海野氏が逃れて頼る関東管領山内上杉憲政が碓氷峠を越えて海野平に攻め込んできた。頼重はまたも大門峠を越えて長窪(ながくぼ;小県郡長門町)に布陣した。関東軍はこの時突然、軍を引いた。おそらく7月17日に、積年戦い続けてきた北条氏綱が55歳で、小田原城で病没したことと関係しているものと考えられる。
 海野棟綱をはじめとする海野一族は、武田信虎を中心とした諏訪頼重・村上義清らに攻められ、この合戦に敗れた棟綱は小県郡から追われて、上野国箕輪城主の長野業正を頼って逃れた。このとき、真田幸隆もともに上州に逃れ浪々したようだ。
 天文9(1540)年5月、信虎は初めて佐久郡に攻め入った。『勝山記』は臼田・入沢を初め大小36城を攻略したという。小山田昌辰(おやまだ まさとき)に一城を与え統轄させた。『向獄寺年代記』には、信虎は「前山に城を築いて在陣す」と記す。
 先の諏訪頼満と武田信虎との堺川北岸での和議結果、天文9年11月30日の輿入となった。信虎の姫(3女;信玄の妹)・祢々御料人(ねねごりょうにん)を娶った。祢々御料人は14歳、頼重25歳。12月9日、頼重、甲府に婿入り。信虎同月17日、上原城を訪れる。頼重には既に小笠原氏の家臣・小見氏(こみし)との間に一女があった。当時9歳で、後の諏訪御料人であり、勝頼の母、この時、人質交換の意味もあって甲府に送られた。
 祢々御料人は輿入れの際、化粧料として境方18か村を持参する。以後甲斐との国境が現在のように東に寄る。その18か村とは、稗之底(ひえのそこ)・乙事(おっこと)・高森・池之袋・葛久保(葛窪)・円見(つぶらみ)山・千達・小東(こひがし)・田端・下蔦木・上蔦木・神代(じんだい)・平岡・机・瀬沢・休戸・尾片瀬・木之間村である。甲六川(こうろくがわ)と立場川の間の領地を持参した。
 甲六川は、長野県諏訪郡富士見町と山梨県北杜市小淵沢町地区の境を流れる県境の細い河川で、小淵沢町地区・白州町地区の境目を流れる。国道20号(甲州街道)の新国界橋(しんこっかいばし)の橋の下で釜無川に合流する。

8)武田晴信、諏訪を攻略
 天文10(1541)年5月、村上義清は諏訪頼重とともに信玄の父・信虎に加担、海野平の戦いで海野棟綱を破り、望月氏や祢津氏など滋野3家の嫡流海野氏を信濃から追い出している。海野棟綱は小県郡海野庄太平寺(たいへいじ;現・東御市本海野字太平寺)を本拠としていた。武田・村上・諏訪3氏の草刈り場となり、その連合軍に敗れる。この戦いで領地と弟幸義を失い、 その後、関東管領山内上杉家を頼り真田幸綱(幸隆)ら少数の一族の者を率いて上野国へ逃れる。しかしこの直後に信虎は晴信(信玄)のクーデターにより駿河に追放され、以後武田氏は果敢に信濃侵攻を促進し、義清は武田晴信との対決を余儀なくされることになる。
 信虎父子に敗れ上州に浪々中の海野棟綱と幸綱は、上杉憲政に信濃国出陣を願い、小県の失地を回復しようとした。憲政も晴信の勢力が佐久に根を張れば、上野国への脅威となると同年7月の初め兵3千騎を率い佐久郡に攻め入った。
 『神使御頭(おこうおんとう)之日記』は
 「7月、関東衆3千騎計にて佐久海野へ働候、頼重7月4日に東国之向人数、長窪まで出張候、然所、此方之様躰(ようたい;ようす)能候(宜候;ようそうろう)て、関東と和談分に候、甲州の人数も村上殿の身をぬかるる分に候て、此方まてのやうに候処、長窪へは関東の人数不相働、葦田郷をちらし候て、其の侭帰陣候、葦田之郷にはぬしもなき躰に候間、頼重知行候て、葦田方の子息此方之家風になられ候間、其かたへ彼郷をいたさせられ、同17日に御帰陣候」と記す。
 村上義清は憲政の佐久郡侵攻に即応して、直ちに諏訪頼重と武田晴信に急使を遣わし救援を求めた。頼重は直ちに出兵し7月4日には小県郡長窪で対陣した。ところが義清と晴信らは、戦線に近づこうとしない。頼重は単独で憲政と和談とし小県郡への侵入を抑えた。武田・村上・諏訪3氏の戦国武将らしい臆面もない駆け引きが露呈されている。上杉勢は佐久郡芦田郷を狼藉しただけで兵を帰した。芦田郷は領主不在となり、頼重は、依田氏一族の芦田信守を被官させ代官とした。
 武田晴信は、天文11(1542)年3月、諏訪に軍を進め諏訪大社上社の富士見の御射山に陣を張ったが、間もなく陣払いした。6月、晴信は手堅く布石を打ち、高遠の諏訪頼継諏訪下社金刺氏牢人衆と謀り、同月24日諏訪郡を急襲し、28日には上原城に攻めかかった。高遠頼継の軍も、杖突峠を越え安国寺に到着し、その門前の大町を焼き払い側面から攻撃してきた。諏訪軍は武田勢と高遠勢に挟撃にされることになった。7月3日、頼重は仕方なく上原城に火を放って後方の桑原城に退いた。
 7月4日、頼重は、弟頼高と共に討ち死覚悟で出撃しようとするが、武田軍は城壁まで押し寄せ、和睦を迫る。板垣信方の策で、武田信繁を介して「協同して高遠氏を討つ」との条件で開城を要求してきた。頼重は、ひとまず武田の軍門に下り、機を見て諏訪家を再興しようと思い、城を明け渡した。」それは敗軍の将としての言い訳であった。
 7月5日 和睦の条件どおり諏訪頼重が甲府に送られる。諏訪の人たちは頼重が送られても、諏訪大社の大祝・頼高が残ったので安堵していた。ところが、上社祢宜矢島満清に預けられていた頼高も9日に甲府へ送られた。 この後の武田氏と高遠氏の戦いでは、信玄は諏訪頼重の子・寅王を奉じて戦う。また上原城の城代に板垣信方が就き、諏訪の郡代となる。
 頼重は甲府に連行され、板垣信方の屋敷に捕らわれの身となる。その後、武田晴信に会う事もなく、甲府市、妙心寺派臨済禅の東光寺山内に監禁され、7月20日の夜自害を迫られた。享年27であった。
 諏訪頼重歿後の諏訪氏は、大祝の継承と安国寺の住職の地位は認められるが、武士たちは諏訪先駆け衆として武田氏の兵団に組み込まれて、上原城(後に茶臼山の高島城に郡代は移る)の城代の軍令に従った。永禄10(1567)年の記録には、武田家旗下諏訪50騎、千野同心衆交名(きょうみょう)、高島10人衆の名が記されている。下社系の武士も少なからず武田の軍団に組み込まれていたようだが、永正15(1518)年、上社大祝頼満に反撃され、下社大祝金刺昌春方は、『当社神幸記』(諏訪頼宣氏所蔵)に「下宮遠江守金刺昌春、萩倉要害自落し、一類面々の家風悉く断絶しおわんぬ」と記されるほど、一族と有力諸士が殲滅され尽された。旧下社方は徒兵士を供出する程度であったと考えられる。兵農分離がなされていない時代の武士は、知行地で農耕を営む大百姓でもあった。それに歩卒する民百姓がいた、大百姓は、それぞれ知行を得、身代に応じて騎馬か歩卒として働いた。
 武田氏支配の諏訪40年間は、善政を敷き民政の安定に心をくだいたと考えられる。後世、悪政を呪う記録も口碑も遺っていない。だが民の軍役負担は兵役・兵粮の徴収・輜重荷役・軍道の開設と整備・河川の改修・城普請などに及び、元々の租税負担も重く苛政そのものであった。甲斐国でも大百姓までもが逃散する事態となり、その追及は家臣相互の他領まで及ぶとし、晴信は他領主の積極的な介入を指示し実効を挙げている。
 諏訪郡内の諸士は、甲斐軍の先方衆として、いわば戦場での捨石とされた。その捨石は諏訪郡内一族の重責であった。それが消耗され続けられた。
 諏訪は宮川を境にして東が武田氏、西が高遠氏と領土を分断された。諏訪下社一党も武田方であったが、それは名ばかりで、衰微しきっていて、戦功も乏しく領地は与えられなかった。
 天文11(1542)年9月10日、高遠頼継は、諏訪上下社明神権と諏訪郡全域を手中にしょうとして、藤沢頼親と結び禰宜太夫矢島満清と図り、上原城を攻め奪うと、直ちに上社・下社も支配して、積年の念願を果した。
 晴信は、甲州にいた頼重の遺児寅王を押し立てて、頼重の遺命と称し、高遠氏打倒の軍を進発させる。この時、諏訪は割れた。寅王を迎えて、諏訪宗家復興のかすかな望みをつないで武田氏に味方したのは、頼重の叔父満隆・頼隣(頼忠の父)、矢ケ崎大炊守(おおいのかみ)・千野伊豆入道・小坂兵部・有賀紀伊守・諏訪能登守等と頼重の近習衆20人、社家では、神長守矢頼真・権祝花岡氏・福島平八等、そして山浦の地下人達であった。一方高遠方は、上社祢宜・満清、有賀遠江守、有賀伯耆守(ほうきのかみ)、権祝、頼重の近習衆等であった。近習衆の動向は割れていた。
 新大祝頼隣は武田方の守備兵と茶臼山(諏訪市上諏訪桜ヶ丘)にたてこもり、高遠勢に備えた。『高白斎記』によると、武田軍の先発は板垣信方が率いって、9月11日に府中を出陣した。19日晴信も、躑躅ヶ崎館から本隊と共に出立した。9月25日上川の南、宮川沿いの安国寺ヶ原で、両軍ほぼ同数の2千同士で激突する。上伊那軍の箕輪衆・春近衆を率いる高遠方は大敗北、高遠頼継は高遠に逃げるが、弟蓮峰軒(れんぽうけん)頼宗は討ち死に、禰宜満清は行方不明となり、満清の子は討ち取られている。武田勢はさらに高遠勢を追撃し、杖突峠を越えた片倉で800人近い兵を討ち取っている。 
 天文11(1542)年9月下旬、晴信の命により駒井高白斉は伊那口に侵入、26日藤沢集落に火を放ちこれを攻めた。9月末には、諏訪全郡が武田領土となり、以後40年、武田氏の支配下に入る。
 さらに晴信は板垣信方に命じて上伊那口に兵を発し、高白斉とともに上伊那諸豪族への示威運動を繰り返させた。晴信は、西上の志をいよいよ強くし、その通路にあたる伊那谷の攻略に着手した。

9)武田晴信、佐久を攻略

 
 小県郡長和町の長窪城、相木昌朝や芦田信守が調略され貞隆は捕らえられた。

 天文11年12月15日、晴信は小県郡祢津(東部町)の名族祢津元直の娘を娶り、諏訪攻略後の東信に重要な布石を打った。祢津一族は村上義清が佐久に侵出する際の障壁となり、逆に晴信が中信に向かう拠点となる。天文12年、晴信は伊那攻略と同時に、海ノ口から佐久・小県に侵入して9月17日、長窪に着陣した。19日長窪城を陥落させ、城主大井貞隆を捕えた。貞隆は武田氏や諏訪氏と敵対し、天文9(1540)年諏訪頼重に長窪城を奪われていた。 天文11(1542)年、頼重が信玄に殺されると、それに乗じて長窪城を奪回した。また佐久郡望月城を攻め一族を生害させている。貞隆は曽根出羽守と高白斎に警固され21日甲府に送られた。
 貞隆の子貞清は内山城に拠って抵抗を続けていた。晴信は天文15年5月3日、内山城攻略のため出陣した。6日に前山城に布陣して、8日先衆が内山城に向かい、9日攻撃が開始された。10日には内山城の水の手を断ち、14日には曲輪全てを陥し、大井氏は本城のみで6日間抵抗した。20日、貞清は内山城を明け渡し野沢城に蟄居した。晴信は7月18日、内山城将に上原伊賀守昌辰(のちの小山田備中守昌辰)を置いた。降伏した大井貞隆・貞清父子は翌天文16年に躑躅ヶ崎館への出仕を促され、生命の安全を条件に5月6日、武田氏に臣従した。
 大井氏が降ったことで佐久地方は殆どが武田氏の支配下となった。志賀城の笠原清繁が佐久で唯一抵抗する。天文16(1547)年閏7月9日、晴信は大井三河守ら先衆を出陣させ、晴信の本隊も13日に甲府躑躅ヶ崎館を出馬し、20日に桜井山城(前山城)を本陣とした。
 笠原方は狭い志賀の本城を捨てて上野国境に近い笠原城(佐久市大字志賀)に籠った。笠原城は志賀城から東方2kほごの標高1,047mの笠原山の頂上にあった。比高250mで詰め城とみられる。佐久の「最後の砦」として立ちはだかったこの城には、上州平井城の関東管領上杉憲政麾下の上州菅原城主高田憲頼一族と高田右衛門佐父子らを将とする援軍も立て籠っていた。
 武田軍は閏7月24日卯刻(午前6時頃)から笠原城を攻撃、翌25日には水の手を切った。この日、武田方に府中小笠原一族や山家(やまべ)氏などの助勢軍が加わっている。晴信は既に筑摩郡諸士の調略を働き掛けていた。笠原城方も、水を蓄え籠城を覚悟しており簡単に落ちなかった。笠原清繁は上杉憲政に援軍を求めた。これに応えて金井秀景を総大将とする西上野国人衆を中心とした上杉軍2万余が、8月、碓氷峠を越えて小田井原(北佐久郡御代田町)に布陣した。晴信は、本隊をそのまま笠原城を包囲させ、板垣駿河守信方、甘利備前守虎泰、横田備中守高松、多田三八ら勇将軍を小田井原に出撃させた。同月6日の激戦となり、武田軍は上杉軍の兜首14、5と雑兵3千を討ち取った(小田井原合戦)。晴信はその首級3千を夜間のうちに、兜首は槍にかざし、平首は棚に掛け並べ笠原城を囲んだ。笠原城の籠城兵は、水不足に喘ぐ最中、これを見て戦意を喪失した。8月10日午刻(正午)には外曲輪に、深夜には二の曲輪に火を放った。11日正午頃笠原城は陥落した。笠原清繁を甲斐衆の萩原弥右衛門が、高田憲頼を諏訪衆の小井弖越前守が討ち取り、城兵3百余が討死した。笠原清繁の妻は甲斐郡内の領主小山田出羽守信有に与えられ、甲斐の駒橋(大月市)に連れて行かれた。城内の男女は生け捕りにされ甲斐へ連行され、親類縁者がある者は2貫文から10貫文で身請けされたが、その多くは黒川金山の坑夫や娼婦・奴婢として人身売買されたという。
 この笠原城は佐久の反武田勢力の最後の望みであるだけでなく、碓氷峠を越えて上野に向う重要な要路を守る砦であった。境目の志賀城と笠原城の防戦の成功を期待していたのは佐久衆だけでなく、関東管領上杉憲政も同じであった。結果的に憲政は、小田井原に大軍を展開、笠原城の後詰として武田の背後を襲おうとした。その決断をした憲政は、この時期、北条氏康との河越夜戦に敗れて上州平井城で窮していた。箕輪城主の長野業政などは「なにもこの時期に遺恨の無い武田を敵に回すこともない」と憲政に諫言している。結果的には2万余の軍勢を派兵しながら敗北した。関東管領の威信は更に失墜した。
 憲政は北条氏康により領国上野国に侵攻され、天文21(1552)年3月頃には居城である平井城を捨て、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後国へと落ち延びた。謙信は憲政を庇護し、その居館として越後国府中に御館(おたて)を築造し、「管領様」と呼び遇した。憲政は弘治3(1557)年、上杉氏の名跡や重宝・系譜などを謙信に譲って養子とした。
 信玄は佐久・小県の諸城を陥落させると、遂に北信濃の雄・村上義清の居城葛尾城と対するようになった。

10)村上義清と武田晴信、上田原の戦い

 上田原の古戦場、千曲川左岸、その支流浦野川右岸にある板垣信方の墓

 村上義清は天文10(1541)年、甲斐守護の武田信虎と諏訪頼重らと計って海野平に侵攻し、滋野一族を追って小県を掌中に収めた。
 『神使御頭之日記』は亨禄元(1528)年から天文23(1554)年までの、年ごとに御頭役を務めた神職と諸士やその郷名を記録している。日記は、この海野の合戦を詳細に記している。
 天文17(1548)年2月、晴信は既に、諏訪・佐久・上伊那の経略を完遂させていた。「此の年5月13日、頼重・武田信虎為合力海野へ出張、同村上義清殿3大将同心にて尾山攻めをとされ候、次の日海野平、同祢津悉く破れ候、(中略)祢津之事は神家候之条、従此方被召帰候、矢沢殿も色々詫言被申候、海野殿は関東へ越、上杉殿憲政頼被申候(後略)」
 この合戦で滋野一族は敗れ、当主海野棟綱(むねつな)の嫡子幸義は戦場となった神川付近で討ち死にした。海野棟綱は、弟幸綱(真田幸隆)を連れて上野国惣社に奔り、箕輪城主長野業正を頼った。その後幸隆は業正を見限り、関東管領上杉憲政に身を寄せた。祢津氏は神家一族のため諏訪頼重の取成しで、武田氏に臣従することで罪を許された。
 『妙法日記』に「此年、6月14日に武田大夫殿様(晴信)、親の信虎を駿河国へ押申候。余りに悪行を被成候間加様被食(なされ)候。去程に地下侍出家男女共喜致満足候事無限。信虎出家被成候而、駿河に御座候。」とある。武田晴信は海野の合戦の一月後、父信虎を駿河に追放した。以後、晴信の諏訪・伊奈・佐久への侵攻は加速していく。
 村上義清方の佐久の国人衆は、武田氏の傘下に入った諏訪大社の御頭(祭礼役)を拒否し、塩田城の福沢顕昌らの支配下に集まった。義清は坂城の葛尾に山城を備え、その南山麓にある現在の満泉寺とその周辺に館を構えた。館跡は南北160m・東西160mほどあり、村上氏の所領は更級・埴科両郡の南部から更埴北東部、さらに犀川を越え、水内郡へと伸張し、川中島から小県まで勢力を広げていた。その所領地を一族に与え、分地された支族は在地名を姓とした。北方の善光寺平の抑えとして屋代氏が一重山に屋代城を構え、倉科氏が倉科(千曲市倉科)に鷲尾城を、清野氏が鞍骨城(くらほね;長野市松代町清野)を、雨宮(あまみや・あめみや)氏が唐崎城(朝日城;千曲市雨宮)を構えていた。更級北東部や水内中部にかけては、長峰氏・広田氏・藤牧氏・今里氏・栗田氏などがいた。葛尾の東方の小県郡神科の戸石城(上田市上野)は、松代から地蔵峠を越え下る軍勢に堅固に備え、小県方面からの進入路に当たる川東・川西を、塩尻狭間鼠の山上の和合城(鼠城)と岩鼻の北に三水城(福沢城)が扼していた。

 村上義清は何と言っても「信玄を二度破った男」として有名な武将で、最初は天文17年(1548)のことであった。前年に佐久郡の志賀城(佐久市)と笠原城を落とした晴信は、埴科郡坂木の義清が支配する小県郡へ侵攻を開始し、上田原(上田市上田原下之条)に入った。晴信は、諏訪から大門峠を越え、丸子から塩田平にぬける鞍部砂原峠を抜けて上田原に近づき、千曲川支流の産川(うぶがわ)東方の倉升山の麓、御陣ヶ入畑に布陣した。上田原は、上田城のある市街地から千曲川を挟んだ対岸にあたり、平に見えるものの段丘などもある地形で、武田軍はこの段丘上に陣を布いた。義清の本拠地、坂城を中心とした小県・佐久軍勢に対する備えとして前方に千曲川の大河とその支流浦野川を置き、一方、義清が千曲川を超え上田原を支配し、その拠点とした別所・塩田方面の別働隊に対して浦野川の支流産川を、その西南方面の備えとした。義清の本拠に極力迫りながらも、防御にも満遍なく配慮した稀代の武将ならではの布陣であった。
  一方の村上軍の陣地には諸説あり、上田市の市立博物館では、村上軍の本陣は天白山の須々貴神社の近くだったとある。上田原を一望できる天白山に、村上義清の砦があった。天白山を背にし、千曲川の支流である浦野川を挟んで対峙したようだ。上田原から眺めると北西の断崖上の台地に陣を敷いた
 武田晴信と村上義清両軍合わせて1万7千の将兵が、2月14日、村上軍の本拠地上田原から下之条付近で激突した。武田軍先陣の板垣駿河守信方は村上軍の第一陣を撃破しつつ果敢に攻め立てた。退く敵を追って深入り過ぎたようだ。
 『勝山記』は「此の年の弐月14日に信州村上殿の在所に塩田原(上田原)と申候所にて、甲州の春(晴)信様と、村上殿かんせん(合戦)被成(なされ)候、去程にたかいに見合て、河をこたて(木盾)に取り候而(て)、軍を入れつ見たりつ被食(めされ)候、去程に甲州人数打ち劣(負)て、いたかき(板垣)駿河守殿、甘利備前守殿、才間河内殿、はしかの(初鹿野)伝右衛門尉殿、此の旁々打死に被成候而、御方は力をとし(落し)被食候、されとも御大将は本陣にしはをふまい(お踏まい)被食候、小山田出羽守無比類動被成候、御上意様もかせて(瘍手;傷手)おおい被食候、(後略)」と記す。
 板垣信方、甘利虎泰らは村上軍の術中にはまり、反撃に出た村上軍重囲の中、鑓で串刺しにされて首級を挙げられた。勢いづいた義清の本隊が武田軍本陣を襲い、脇備えの内藤昌秀、後ろ備えの馬場信春らが奮戦、小山田出羽守信有が村上軍の横腹を衝いたため辛うじて村上軍を押し返した。甘利備前守虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門らの宿将や武将が打ち取られた。晴信自身も2か所に薄手を負った。一方の義清方も、唐崎山城主の雨宮刑部正利、小島城主の小島権兵衛、屋代源五基綱らの将を失った。村上、武田両軍合わせて戦死者は約4千人とも6千人ともいわれている。
 武田軍の大敗北で、晴信はこれを隠そうと、退き陣せずに、寒中、更に1か月ほど陣に留まった。諏訪上原城で敗報を聞いた駒井高白斎や今井兵部らの機転で、生母の大井夫人に手紙を書いてもらい、やっと晴信は撤退した。

 義清は、北佐久・小県地方のほとんどを支配下においた。義清の動きは果断で、4月5日、府中の小笠原長時・安曇郡の仁科盛政・伊那郡の藤沢頼親と連合し下諏訪に乱入し放火した。『神使御頭之日記』には「、4月5日に、村上・小笠原・仁科・藤沢同心に当方へ下宮まて打入、たいら討ち(討ち平らげ)放火候て則帰陣候」とある。
 義清は兵を佐久郡に遣わし、4月25日、上原昌辰(後の小山田備中守昌辰)が守備する、佐久の拠点内山の宿城以下過半を放火した。また佐久地方の要地前山城も佐久衆が奪還した。
 6月10日、小笠原長時は再び下諏訪に攻め入り、武田方の諏訪衆と戦い、逆に騎士17、雑兵百余を討ち取られ、長時も2か所の手傷を負い撤退した。

 村上義清や小笠原長時らの佐久・諏訪方面での攻勢は、両郡の諸士を大きく動揺させ、7月には、佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆矢島・花岡などが反武田同盟を結んで、武田氏の信濃支配は危機に陥っていた。7月10日、諏訪西方衆矢島・花岡らは、小笠原氏に内応して武田軍に反旗を翻し、上諏訪を攻めた『高白斎記』。先の6月、小笠原長時を撃退した千野靫負尉((ゆきえのじょう))は、家族を捨て家臣だけを連れて上原城に籠城、諏訪大社の神長官である守矢頼真も占具を収納した"神秘の皮籠"だけを持って上原城に逃げ、甲府からの援軍を待った『守矢頼真書留』。「申刻ニ移候、神秘之皮籠斗(ばかり)持候テ、自余(じよ;そのほか)ハ悉捨候」と、神長周辺も窮迫していた。また武田軍の出兵も遅かったため、諏訪大社上社五官の副祝(そえのはうり)は武田軍を見限った『守矢文書』。

11)塩尻勝弦峠(かっつるとうげ)の戦い
 天文17(1548)年7月、晴信は諏訪郡内が不穏となり、急遽甲府を発ち諏訪へ出兵し、諏訪西方衆を鎮圧した。この時長時は、諏訪西方衆に呼応し塩尻峠へ出陣していた。
 『高白斎記』は「7月18日幸卯(早朝)、大井の森(現北杜市長坂町)より御馬進められる。翌19日卯刻(5時以降)、塩尻峠にたてこもる小笠原長時責め破り、数多討ち捕りなされ候。」と晴信軍の迅速さを伝える。甲斐国内にいた武田軍が、まさか来襲するとは思ってもいなかった塩尻勝弦峠の小笠原本陣へ急襲は、寝込み時であったため武装する暇もなく、長時は大敗を喫した。
 『妙法寺記』は、「此の年の7月15日、信州塩尻嶺に小笠原殿5千計にて御陣被成候を、甲州人数朝懸けに被成候て、悉く小笠原殿の人数を打殺しに被食(なされ)候。」とあり、苦境の最中、晴信は、塩尻勝弦峠の合戦で、小笠原長時軍を敗走させる事で、漸く甲州の雄族を宥める事が出来た。この時、小笠原方の山家・三村氏らは晴信に内通していた。長時の旗本以外は諸豪族の寄せ集めで団結力が弱く、長時の統制力が浸透していない弱点を衝く急襲であった。長時は敗兵を連れ筑摩郡林城に引いた。
 晴信は更に、8月18日、田口長能の居城田口城(臼田町)を、小山田信有を大将として攻めさせた。しかし武田軍は佐久国衆が諸所で叛旗を掲げる状況下で取り囲まれた。9月6日、晴信は諏訪から八ヶ岳の南の谷戸(山梨県大泉)に陣所を置き、7日小海の宮之上、11日辰の刻(午前8時頃)臼田から大雨の中前山城を陥落させ数百人を討ち取った。晴信自ら佐久に出陣して村上方によって奪われた佐久の諸城を奪還している。田口城も落ち、田口氏は田口長能を最後として滅びた。田の口城は相木氏や依田氏が一時城主になっている。この晴信軍の勢に圧倒され、佐久郡内の諸城13か所が自落していった。
 『妙法寺記』は、「此の年8月18日に佐久郡「田ノロ」申し候要害へ、小山田出羽守殿大将として働き候。去る程に信州人数甲衆を籠の内の鳥の様に取籠め候を、色々調義成され候て、来る9月12日に御上意御馬を出させ申し候て、合力成され佐久郡の大将を悉く打殺す。去る程に討ち取り其の数は5千計。男女生け捕り数を知らず。それを手柄に成され候て、甲衆人数は御馬を入れ候。(帰国)」と録す。
 この天文18年、晴信は佐久の経営に追われていた。8月23日、諏訪郡高島より出馬すると、同月26日、細雨の中、桜井山(前山城)に着城する。翌日辰の刻には御井立を放火、9月1日、鷺林(常田)に陣構えすると、4日には平原(小諸の東南)の宿城を焼き払った。7日には平林氏(南佐久郡平林村)が出仕してきた。
 『高白斎記』は「9月11日癸未辰刻、打ち立ち臼田(現臼田町)。大雨。前山(現佐久市)責め落す。敵数百人討ち捕りなされる。城士2ケ所自落。」、前山城の伴野氏を攻め落している。
 9日から14日に掛け坂木の村上氏と折衝を重ねたが不調、14日には内山城に軍を再結集させた。更に望月城を攻めたが落とせなかった。21日、躑躅ヶ崎館に帰府した。
 「9月21日癸巳、前山の城普請始まる。」晴信は前山城の拡張普請を命じた。23日には、伴野貞祥(さだよし)に桜井山周辺を宛行う判物を発給した。

12)武田晴信、小笠原氏の本拠、筑摩郡を制圧
 「9月28日、上原へ御馬納められる。」「10月朔日癸卯。2日甲辰酉刻、巳の方に向かい、村井の城の鍬立、高白致し候。鍬五具。」「10月4日、御普請初まる。」「10月24日、上原まで御帰陣。」晴信は諏訪上原城から、村井城(松本市芳川小屋)の普請を指揮し、小笠原氏の本拠林城(松本市里山辺)攻略の前線基地とした。林城は谷を挟んで林大城(金華山城)と林小城(福山城)とに分かれている。林城を中心に、西の進入路には深志城、犬甘城(いぬかい;松本市蟻ヶ崎)、平瀬城(松本市島内)、東の美ヶ原の山辺谷には桐原城(松本市入山辺桐原)、山家城(松本市大字入山辺中入)、北方の善光寺平に対しては伊深城(松本市大字岡田伊深)、稲倉城(松本市稲倉)、南方からの進入路、諏訪・伊那に備え埴原城(松本市大字中山)、熊井城(塩尻市片立北熊井)といった支城網が堅牢に布陣されていた。

 天文18(1549)年2月24日、斎藤道三の娘濃姫が織田信長に嫁いだ。

 その3月、真田幸隆を遣わし、佐久郡の望月源三郎に所領700貫文を与え服属させた。4月3日、東の鹿曲川、西の姉小路川が合流する佐久市春日本郷の背後に立地する春日城(望月氏系春日氏)を陥落させた。5月29日、望月源三郎が武田氏に臣従した後も、布引山に拠って武田勢に抗していた望月新六も降伏し、布引山を出る。新六は駒井高白斎に同道されて翌日甲府に着き、 晴信に出仕する。こうして布引城の望月新六と伴野信豊が服属して、佐久郡西部の経略は順調に達成した。6月5日 晴信は、望月左衛門佐信雅を望月氏宗家の名跡を継がせた。そして晴信の弟信繁の子武田義勝(望月信頼)を養子に送り、その名族滋野氏の一族望月氏を承継した。
 同年7月初め、晴信は跡部越中守田屋御陣所から出馬し、5日、諏訪の高島に着城した。15日未刻(午後1時以降)、南に向かい伊那郡箕輪の城を鍬立し、伊那谷の防備を固めた。8月16日、箕輪より各々帰陣した。
 天文18年の『妙法寺記』に、「此年霜月武田殿小山田殿談合被成候而、地下に悉過料銭を御懸候。殊更寺寺彌宜如何様成者にも押並て御懸候。去程に地下衆歎事無限。」とあり、前年は「此年世中十分に越えたり。惣而地へ落とす程の物は一切吉。世間出富貴成る事不及言説。」とある程の著しい好況であったが、天文18年には「此年は世中半分にて御座候。」とある。翌19年は「6月より大雨降候肺(沛)而(激しく)水出候。」「7月8月大雨大風吹候而、世間致死の事無限。」とあり、甲斐国も度重なる天災と出征で困窮していた。

 天文19(1550)年7月10日、晴信は真田幸隆に、当時村上氏領内の小県郡諏訪形などの地を宛行うとして対義清攻略の軍功を促す一方、前触れもなく筑摩郡の村井城に入り、15日には埴原城を陥落させた。その報により小笠原氏の本拠林城の属城群は浮足立つと、深志城、岡田城(松本市大字岡田下岡田)、桐原城、山家城の主城が相次いで自落した。長時は孤立する林城を放棄せざるを得ず、一時、平瀬八郎左衛門が守る平瀬城に逃れたが、村上義清を頼って塩田城に身を隠した。時に犬甘城は犬甘大炊助が守っていたが、馬場信房に奪われている。晴信は府中小笠原長時の諸城を、兵力の損失少なく自落させ信濃府中を掌中収めた。19日には武田軍は深志城に入り、晴信臨席のもとで駒井高白斎らによって鍬立ての式が行われ、23日には惣普請を実施し、深志城を中信における武田氏の拠点とし、馬場民部少輔信房、日向大和守是吉を城将に任じた。林城を手にした晴信であったが、要路から遠く、これを廃城にした。晴信は林城の支城の一つ深志城が、信濃の中心その四衢の地にあるとして、筑摩地方最大規模の城に改修した。

13)戸石崩れ
 晴信は上田原合戦で苦杯を喫したが、村上義清の戸石城(上田市上野;真田氏発祥地近く)攻略戦の準備を整えていく。
 当時、義清は北信の古豪高梨政頼と戦闘中にあり、本拠地である葛尾城(坂城町坂城)を空けていて、戸石城への赴援はまず不可能な状況であった。8月2日春日(望月町)の春日意足と春日備前守が晴信に出仕すると起請している。5日、先陣の長坂虎房が出陣、10日には足軽衆も出兵すると、その勢威に和田城(小県郡和田村)は自落した。晴信も19日長窪に着陣した。24日には戸石城に今井藤左衛門、安田式部少輔らを派遣して検分、25日にも大井信常、横田高松、原虎胤らを再度戸石城に派遣して検分させ、作戦を慎重に練っている。晴信軍は27日に長窪城を進発し、海野平の向の原に着いた。『高白斎記』には「鹿一陣の中をとおる。」とある。翌日には戸石の城際の屋降と号する地に陣構えをした。29日には晴信自らが戸石城際まで馬を寄せて検分、敵方に開戦を通告する矢入れを行った。「8月29日午刻(正午)、屋形様敵城の際へ御見物なされ、御出て矢入れ始まる。酉刻、西の方に赤黄の雲、五尺ばかり立ちて紅の如くにして消ゆる。」とある。戦闘開始であった。
 その間も晴信は村上方諸将への調略も怠りなく、海津に館を構える清野氏が出仕してきた。晴信は真田幸隆に北埴地方の寺尾・清野などの有力諸士を誘降させていた。松代から地蔵峠を越えて戸石城に至る道筋を扼し、孤立させるようと画策した。清野氏が逸早く晴信に忠誠を誓った。9月3日、敵味方の所陣に霧降りかかる中、晴信軍が戸石城を攻撃する。9日酉刻(午後6時頃)総攻撃に入った。しかし、10日経っても戸石城は落城の気配がなく、13日には村上義清と高梨政頼が予想外の手際で和睦すると、両者は連合して武田方の寺尾城(長野市松代町東寺尾)を攻撃している。それが海津の清野氏から注進されると、真田幸隆が救援に派遣された。一方、晴信は清野氏らを通じ、雨宮渡(あめのみやのわたし)にほど近い唐崎城(長野県千曲市雨宮)の城主雨宮氏や坂木在城衆の調略を進めた。両者はこれを拒み、9月晦日には幸隆も帰陣した。晴信は評定の上、攻略は困難、撤退と決断、10月1日卯刻(午前6時頃)から陣払となったが、義清は好機として、激しく追撃した。殿軍の横田備中守高松ら将兵1千余が戦死した(戸石崩れ)。
 郡中最大の堅城といわれる戸石城は要害堅固で、武田軍の攻撃にも容易に落城しなかった。『妙法寺記』は「此年10月1日に信州戸石の要害を退け候とて、横田備中守を始めとし、随分衆千人計打死被成候。されども御大将は能く引き被食(なされ)候。此のあたりでは小沢式部殿、渡辺雲州致打死候。」と記す。晴信はこの日終夜雨の中、望月城の古地を陣所とした。翌日大門峠を越え酉刻(17時以降)諏訪湯川へ着陣、3日漸く上原城に戻った。
 砥石城の最高部は、標高791mあり、比高は160mほどと見られ、城郭群の総延長は4km近くもある。 北に太郎山を背負い、東側は神川の断崖に臨み、東太郎山の支脈が南方に突き出、その先端に築かれた要害堅固な中世特有の山城である。当時の山城の殆どが、国見ヶ丘として抜群の立地にあるように、眺望はすばらしく、上田平と真田盆地の両方に睨みが利く。 戸石城は義清の小県郡領地の最重要拠点であった。
 戸石城は「枡形城」「本城」「戸石城」と、ちょっと離れて独立した山上にある「米山城」との複合城郭で、本城を中心に北に桝形城、南に戸石城、南西に米山城を配した構成となっています。
 本城は全域で最も広大な郭で、南北に連なる数段の郭から構成されていた。本城の背後を固める枡形城は、最高所に位置し、狼煙台や後方指揮所として機能していたと思われ、北東の真田郷が一望できる。城といっても、小さな物見の広場といった程度のもので、北側下には小規模な堀切、南側には2段の切崖が施され防御を固めている。戸石城は本城の南の押さえとしてあり、ここからは南の上田盆地が見渡せる。その西方、少し離れた別峰に置かれた米山城は砥石城本城の前面を護る出城的な城砦であるが、攻守の要とみられる。また、東側の山麓斜面の谷津部には、内小屋地区が展開しており、段々の地形があり、石垣の残欠が多数みられ、さらには堀の残跡もあり、城の遺構の一部で平素、居館が置かれたと思われる。
 砥石城の築城時期や築城者は定かでないが、東信濃の豪族・海野氏の属城であった。天文10(1541)年、葛尾城(埴科郡坂城町)に拠る村上義清は、甲斐の武田晴信、諏訪の諏訪頼重とともに小県郡に侵攻、海野棟綱ら滋野一族を上州に追い、戸石城を改修整備して出城とした。

14)勇将村上義清の没落
 天文19(1550)年、村上義清は『戸石崩れ』で武田晴信の軍を敗り、機を逸せず果敢に佐久郡に兵を進め、10月9日には岩村田の武田方守城を攻め、11日には火を放っている。他方、自分の下に身を寄せていた小笠原長時を援け、筑摩郡塔の原(安曇野市明科中川手)に討って出、長時は安曇郡氷室(松本市桂川地区氷室)に陣を構えた。この地方の諸士は晴信の勢いに押され靡いたが、再び長時を恐れ帰順した、長時勢の士気は奮い起った。10月21日、安曇郡平瀬城(松本市島内下平瀬下田)に入った。義清・長時の出兵は、筑摩郡内の小笠原氏の旧臣らを結集させ深志城奪還を計るまでになった。深志城将の馬場民部少輔信房、日向大和守是吉は籠城の態勢を整えて甲府に事態の深刻さを報せた。晴信は、23日甲府を発ち、この日中、下条に着到した。
 義清は、晴信の出陣を報らされると、長時に連絡もせず、夜中、兵を坂木に帰した。長時は孤立し中塔城(なかとうじょう;松本市梓川梓)に立て籠もり、その後越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って中塔城を脱出したという。義清は晴信軍が帰兵したと知ると、11月8日、小諸を攻略し、13日には野沢と桜井山の宿城に放火した。だが、佐久地方は、内山城を武田氏の守城として強固に結束し、義清は、それ以上の打撃は与えられなかった。晴信は甲斐の若神子まで出馬し、信濃先方衆を海の口に先発させた。義清は、最早佐久地方に、頼る勢力がなく、晴信に対抗できないと知り返した。晴信も一旦は甲府に戻った。
 小笠原長時の府中深志の奪還計画は、晴信の牽制で義清の一方的な撤退を誘い、脆く崩れた。その後の晴信の防戦も必死で、天文20(1551)年3月10日、大井貞清に内山城へ移るよう命じた。貞清は天文11年、晴信に長窪城を攻略され捕らえられ貞隆の子で、その後父子共に臣従していた。貞清は26日、甲府を出兵し27日には内山城に入り佐久における義清軍の動きを牽制した。
 ところが、同年5月26日、武田の信濃先方衆に過ぎない真田幸隆が突然戸石城を乗っ取った。幸隆の地道な調略が功を奏した事を知り、晴信は戸石城を幸隆に預けた。これにより、晴信は佐久の反武田勢力を掃討し、小県から北信濃へ向けて侵攻が可能になった。
 この戸石城攻めの天文19年7月2日、晴信は、真田幸隆に宛がい状を与えている。
  「其の方年来の忠信、祝着に候 然らば本意の上に於いて 諏訪方参百貫并びに横田遺跡上条 都合千貫の所これを進し候 恐々謹言
       天文十九庚戌
       七月二日 晴信
               真田弾正忠殿」
 内意は「私の本懐が叶えば、諏訪形(上田市駅から南周辺)の300貫と横田遺跡上条(上田原?)の合計1,000貫を宛がう。おそれながらつつしんで申し上げる」

  幸隆は、元来戸石城がある真田郷を本拠としていた。幸隆は小県郡(東御市)の豪族・海野棟綱の次男との説があり、真田荘(真田町)に在住して真田姓を名乗った。当然、真田氏は松尾城主・海野棟綱に属していた。天文10(1541)年、甲斐を統一していた武田晴信は義弟の諏訪頼重や村上義清らと小県郡へ侵攻して来た。関東管領上杉の援軍が遅れ、5月14日、望月・禰津が晴信に降服し、真田氏は上州吾妻の羽根尾城主羽尾幸全(ゆきてる)を頼り逃れ、幸隆らは長野業政に預けられ、箕輪城内の一角に居住した。当初、幸隆ら海野氏の諸族は、関東管領上杉氏に被官することにより旧領の回復を図ったが、関東管領上杉氏が頼りにならないと知り、仇敵である武田に臣従した。先の戸石城攻撃に際しては、事前に晴信より旧領の小県の所領を約束された。幸隆は独力で、しかも武田7千で攻めても落せなかった砥石城を、地縁を利用した巧みな調略で砥石の城兵を内応させ、たった1日で、大兵力に頼ることなく城を占拠した。ここから義清の武運が傾き、晴信の軍配が際立っていく。
 晴信は佐久から小県周辺を得ることになり、幸隆は旧領を回復し、戸石城を預けられ、その軍功により、本領1,600貫になる。更に、諏訪形(上田市駅から南周辺)や、砥石崩れでしんがりを勤め戦死した横田高松の遺領・上条郷など1,000貫が加増された。外様の信濃衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えた。
 『甲陽軍艦』は、この天文20(1551)年、甲斐軍は「3月4月5月にかけて、信州伊那・木曾・松本へ進攻して、植田を荒らし、また8月9月10月までは、稲穂を刈り取る戦果を挙げた。」という。また信虎58歳・信玄31歳・勝頼6歳「武田信濃守大膳太夫晴信発心なされ、法性院機山信玄と申」。
 6月28日には、保科正俊に下伊那平定後恩賞の地を宛行うことを約し誘降している。
 7月20日、佐久郡内でただ一人武田に属していなかった岩尾城(佐久市鳴瀬)の岩尾弾正(大井行頼)が、甲斐の若神子(山梨県北杜市須玉町若神子)に出仕してきた。7月晦日、晴信は佐久郡に出馬し、岩尾城と岩村田城を修築し、9月には大井貞清を甲斐に戻し、上原昌辰(小山田備中守)を内山の城代とした。佐久郡内を固めると北信侵攻の準備を着実に進めた。10月14日、村上義清は安曇郡丹生子城((にゅうのみ城;大町市社丹生子)を攻略した。翌15日晴信は急遽出馬し、20日には深志に入っている。10月24日、小笠原氏の抵抗拠点となっていた平瀬城を攻撃、城将平瀬八郎左衛門以下204名を討ち取り落城させ、武田の属城とした。晴信はここを前進拠点とするため、10月28日に城割を行い改めて鍬立てをした。この前日の27日、安曇郡に出兵し小岩嶽城下(安曇野市穂高有明)を焼いている。11月10日には原美濃守虎胤を平瀬城の城将に任じ、小笠原残党掃討の基地であるばかりか、筑摩・安曇両郡平定の拠点とした。翌天文21年8月11日には、北信の抑えとして水内郡西山部に勢力を張る小川郷古山城主大日方(おおひがた;おおひなた;上水内郡小川村)民部讃岐入道直政を、安曇郡青貝などの領地を与え一族を服属させた。翌日12日には安曇郡の小岩嶽城を強襲、遂に落城させた。城主の仁科一族の古厩盛兼(ふるまやもりかね)は自刃し、武田軍は首級を5百以上討ち取った。生存者の数は知られないが、捕虜として生け捕られた。古厩氏はその後武田に降伏し出仕した。古厩盛隆は永禄4(1561)年の第4次川中島合戦にも参陣している。
 そして晴信は平瀬城に入った。
 『妙法寺記』に「天文廿一(1552)年11月、此年、霜月廿七日、駿河義元御息女様を甲州晴信様御嫡武田大吉殿(義信)様の御前になほし被食(めされ)候。去程に甲州一家国人のきほひ不及言説候。武田殿の人数には更に熨斗付八百五十僕義光(元)殿人数は五十僕御座候。輿十二挺、長持廿から女房衆の乗鞍馬百疋御座候。両国喜大慶は後代有間敷候。其内にも小山田彌三郎一国に而御勝れ候。」とある。

15)村上義清の葛尾落城

 
 中央に流れる千曲川を挟んで左が半過去岩鼻、右が坂城方面

 戸石城は義清にとって小県から地蔵峠を越え松代に通じる要地であるばかりか、それが武田氏の手中に入り、義清の本拠坂木の葛尾城は防衛上の大打撃となった。寧ろ孤城状態といえる。晴信は天文22年正月28日、内山城代の小山田昌辰に書状で、来月の閏正月6日には、長男義信を伴い出陣する、それは戸石城の再建のためだと触れまわれ、「努々(ゆめゆめ)動等の事不可有流布候」と、間違っても軍勢の動員を察知されるなと命じている。晴信は3月深志城で軍議を重ね、3月23日には義清討伐に出陣、同月29日、深志を発って苅屋原城(東筑摩郡四賀村)を攻め、その周辺に放火した。攻防の果て4月2日に、苅屋原城を陥落させ、小笠原長時方の城主太田長門守資忠を生け捕っている。更に同じ四賀村の会田小次郎幸継の虚空蔵山城を降伏させ、この間、更埴地方の諸士の来属を説誘した。4月5日には義清の重臣、屋代城主(千曲市屋代一重山)の屋代越中守政国、塩崎城主(長野市篠ノ井塩崎)の塩崎氏らが共に晴信に服属を誓った。このため来属する諸士が増え、更級郡の大須賀久兵衛も晴信に従う旨を報せ、手土産代わりと葛尾城の支城・詰めの城ともいわれる狐落城(こらく;坂城町網掛)の村上方の守兵を攻め、小島兵庫助3兄弟らを討ち果たしている。本拠の葛尾城より3kほどにある支城があっけなく陥落し、村上義清は遂に追い詰められたといえる。
  武田軍は、筑摩郡西会田から西条に出、坂北方面に入り、西側から葛尾城(かつらおじょう;長野県埴科郡坂城町坂城)を攻撃した。そのため上田方面の半過岩鼻(上田市 半過)・塩尻岩鼻の砦が防備の用をなさず、4月6日、村上義清の本拠葛尾城を晴信の先陣が攻囲すると、配下の国人衆が次々と武田方に降って来た。孤立した義清には援軍を期待できず、支える術を失い、4月9日に戦うことなく葛尾城に火を放ち脱出し、辰の刻(午前8時頃)自落した。義清は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って逃れた。
 『高白斎記』は「四月九日辰刻、葛尾自落の由申の刻注進。屋代、塩崎出仕。」「4月10日、石川方へ使いに朝見越前守来る。」とあり、浅見越前守が更級郡の石川氏に降伏を勧めている。「4月12日、典厩御伴致し葛尾に使いに参る。上意の旨長馬(馬場)にて越秋善(秋山善四郎)に申し渡す。」晴信の弟典厩(信繁)が、葛尾城に遣わされ、晴信の上意として秋山善四郎に措置を命じた。  「4月15日辛卯巳刻、苅屋原御立、青柳へ御着陣、泊る。石川出仕。大津賀久兵衛御目にかけ候。」晴信はこの時まで筑摩郡の苅屋原城に居て戦線を指揮していた。15日同城を出立し青柳城(東筑摩郡坂北村青柳)に着陣すると、石川氏や大津賀久兵衛が目通りを願ってきた。またこのことで青柳近江守清長・頼長父子も武田に降った事が知られる。「4月16日高坂出仕。」更級郡の牧城主香坂氏も出仕し、更埴地方の諸士が続々と臣従して来た。「4月17日節。典厩青柳の城の御鍬立。」青柳城を普請し、村上義清の反撃に備えた。「4月18日甲午、没日室賀(山城守信俊)出仕す。」村上氏の配下であった小県郡室賀城主(上田市上室賀) 室賀信俊も出仕して来た。

16)村上義清、塩田城落城
 景虎の動きは速く、同月22日には5千の軍勢を率い八幡(千曲市)で武田軍と戦い、翌日には、葛尾城に在城していた武田の守将於曽(おぞ)源八郎を戦死させ、義清の旧領、更級・埴科・塩田平らを回復し塩田城までも奪還している。村上義清は、弘法山の沢筋に、堅牢に構える塩田城(上田市前山の前山寺)で再起を計った。
 晴信は決戦を避け苅屋原城に退き、5月1日、深志城(現松本市松本)で陣備えをした。晴信も6月21日、再度義清追討軍を先行させる。7月25日躑躅ヶ崎館を発ち、26日海ノ口、28日内山城で陣営した。晦日には望月の古城を陣所とした。8月1日、長窪に陣備えすると、和田城の和田信定を攻め、城主以下皆殺しにいる。4日には、高鳥屋城(たかとやじょう;小県郡武石村鳥屋)の籠城衆を討ち取り、5日、ついに塩田城に迫り、義清は塩田城を脱出し自落した。7日、飯富(おぶ)虎昌を守城主とした。これにより、信玄は小県から北信濃へ向けて侵攻が可能になった。8月10~16日に亘り、晴信は戦勝の功を称し、真田幸隆を筆頭として、室賀・小泉・浦賀・祢津など在地領主に小県の地を宛行っている。葛尾城を追われた義清や、高梨政頼らが越後に逃れ、救援を仰いだことから、景虎は再び信濃へ入り、8月下旬、戦場は北信へ移り、川中島布施郷で戦い、9月1日、晴信は、景虎の軍勢と八幡で戦い敗れた。これが川中島の戦いの始まりとなった。
 この初回での晴信の敗戦で、佐久でも動揺し、反乱する一族が続出する情勢となり、天文23(1554)年8月6日、晴信は一夜のうちに、佐久の9つの城砦を攻略し、ついで小諸城を自落させるため、内山城の兵を合わせ攻め、300人ばかりを討ち取り、佐久の反乱軍を制圧した。晴信は同時に南信地方を平定している。

17)晴信と上杉謙信の初回対決
 越後軍は坂城南条まで進み、坂城町を中心に小規模な作戦が展開された。景虎の京への上洛と武田軍の撤退で、1回目はこれまでとなる。当時、義清は川中島周辺を中心に信濃に踏みとどまっていたとされ、2回目の天文24(1555)年、武田軍が善光寺平まで攻め込み、義清が景虎に出兵を懇願して始まった。この戦いで義清は所領を完全に失い景虎のもとに身を寄せる。
 川中島合戦での長尾景虎の勝利に依り佐久地方は再び動揺した。
  天文22(1553)年、真田幸隆は武田氏への人質として3男昌幸 (7歳)を甲斐へ送ると、更に350貫加増、合計約3,000貫となる。晴信は人質に出されていた昌幸の才気を愛し、晴信の奥近習衆に加え、以後武田勝頼と2代に亘り仕えることになる。幸隆は晩年には、真田の跡継ぎである長男・真田信綱と、次男・真田昌輝に真田勢をほぼ任せていたようだ。
 天文24年7月19日、信玄は長尾景虎と川中島で対陣すること200日にもなった。閏10月15日、講和し信玄は躑躅ヶ崎館に戻った。
 ついで弘治3(1557)年、永禄4(1561)年、永禄7(1557)年と川中島を戦場とする戦いは続き、信玄は次第に北信の領域を広げ、景虎は千曲川以北を保つだけとなった。
 三増峠の戦いなどでは、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸の3人の名が見られる。元亀4(1573)年4月、武田信玄が病死すると真田幸隆は後を追うように翌年年5月19日、戸石城で病没、享年62であった。
 天正10(1582)年3月、武田氏が滅亡すると、塩田城は真田昌幸の支配下に入るが、翌11年の上田城築城により廃城となった。

18)真田幸隆と海野棟綱

海野は御牧台地の北側、北国街道ぞいにある。東は滋野・小諸・佐久へ

 戦国時代の大永7(1527)年、高野山蓮華定院を海野地方の宿坊とする旨の契状(けいじょう)の差出人が海野棟綱であった。当時、海野棟綱は小県郡海野庄太平寺(現・東御市本海野字太平寺)を本拠とし、小県郡の有力国人領主として一定の勢力をもっていた。
 天文10(1541)年5月、甲斐の武田信虎、埴科郡坂城の村上義清、諏訪の諏訪頼重が連合して海野氏を攻撃した。海野氏は、当時、関東管領で上野国守護職山内上杉氏の被官的立場をとって領地の保全につとめてきた。武田・村上・諏訪氏の連合軍に対しても海野氏は上杉氏を後楯として対抗しようとしていた。武田軍は佐久郡から、村上軍は戸石城から、諏訪軍は大門峠を越えて小県郡に攻め込んできた。海野氏は滋野一族である禰津・望月氏らとともに頑強に抵抗したが海野平を占領されるに及んで、禰津・望月氏らは降服し、海野棟綱は鳥居峠を越えて上野に逃れ去った。このとき、棟綱の弟幸義は連合軍との合戦において奮戦したが討死した。滋野三家が連合軍に敗れたのは上杉氏からの救援が遅れたためでもあった。
 その後、関東管領上杉家を頼り真田幸綱(幸隆)ら少数の一族を率いて上野国へ逃れた。この直後に信虎は晴信のクーデターにより駿河に追放され、以後晴信は信濃侵攻を加速させ、義清は武田晴信と全面対決を余儀なくされる。
 信虎父子に敗れ上州に浪々中の海野棟綱と幸綱は、上杉憲政に信濃国出陣を願い、小県の失地を回復しようとした。その幸綱が後の真田幸隆であった。寛政年間、11代徳川家斉の時代、江戸幕府が大名・旗本の家譜を集めて、若年寄堀田正敦(まさあつ)他60余名の学者、幕臣が編纂した詳細な大系図集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』によれば、幸隆は真田氏の祖とされている。しかし、真田氏は鎌倉時代中頃に海野氏から分かれたとされる室町時代中期の記録もある。海野棟綱の近親幸隆が同族真田氏の名跡を継いだか、あるいは真田氏に生まれて棟綱のあとを継いだか、残された系図などによれば、幸隆は棟綱の長男、あるいは2男、あるいは娘婿などと諸説があり、いずれにも確証が無い。ただ年齢や経歴からいって、棟綱とは父子といった世代的な隔たりが感じられる。幸隆は上州に割拠していた羽尾幸全入道(はねおゆきてる)の娘を室としていた。その関係で、幸全入道は上州に逃れてきた海野一族を庇護した。羽尾氏は戦国期、上野国吾妻郡羽尾(羽根尾)を領した地侍で、その海野氏一族が羽尾氏を称した。羽尾幸世、羽尾幸全父子は海野棟綱らを受け入れると、 長野業政や上杉憲政らと折衝して、信濃への出兵を実現させている。憲政も晴信の勢力が佐久に根を張れば、上野国への脅威となると、天文10(1541)年7月の初め兵3千騎を率い碓氷峠を越えて佐久郡に攻め入った。諏訪頼重は、大門峠を越えて長窪(ながくぼ;小県郡長門町)に布陣した。関東軍はこの時突然、頼重と和睦し軍を引いた。おそらく7月17日に、積年戦い続けてきた北条氏綱が55歳で、小田原城で病没したことと関係しているものと考えられる。
 上杉氏は中世の関東に君臨してきたが、戦国時代になると次第に衰退し、代わって小田原北条氏、甲斐武田氏らの勢力が台頭してきた。この情勢下、海野氏内部では上杉氏を頼って、旧領を回復しようとする者と、上杉氏を見限って新興勢力に属して家名を上げようとする者とに分かれたようだ。すなわち、惣領である海野棟綱は関東管領上杉氏を恃み、棟綱の子ともいわれる幸隆は甲斐武田氏の力を背景として旧領を回復しようとした。先に海野氏を追い払った信虎が嫡子晴信のクーデターによって駿河に追放され、周囲の諸豪は、猛虎が去って武田氏与しやすいとみていた。幸隆は晴信の大器を見抜いて、いちはやく武田氏に臣従しようとした。
 しかし、棟綱は武田氏を仇敵視しており、管領上杉氏を後楯に小県郡に復帰しようと画策していた。棟綱と幸隆は相容れない関係となった。二人がどのように折り合ったのかは史料的には一切不明である。その後間もなく幸隆は上州を去って甲斐に赴き武田氏に仕え、一方の棟綱の消息は以後、史料にも口碑にもまったく登場しなくなる。
 後の永禄6(1563)年武田氏によって上州岩櫃城攻略戦が行われたとき、幸隆は武田氏の将として攻城軍に加わった。この時、羽尾幸全が岩櫃城の城将の一人として武田軍を迎え撃ったが、幸隆は城攻めを敢行し、幸全は戦死し羽尾一族は没落した。
 海野氏の家系は一族であった真田氏一門が継ぎ、海野氏一族の多くは上田藩、松代藩の藩主真田家に属し、江戸時代を通じて残り今日に家名を伝えている。
 『加澤記』に「吾妻三原の地頭、滋野の末羽尾治部少輔景幸と云う人あり。嫡子は、羽尾治部幸世道雲入道、二男 海野長門守幸光、三男 同 能登守輝幸と申しけり。道雲入道は、生害ありて、舎弟二人は越後の斎藤越前守に属しける。斎藤没落の節、甲府へ忠節ありて、三原郷御取り立てあって、天正三年夏の頃、岩櫃の城を預けられ、吾妻の守護代となり、輝幸の嫡子泰貞は、矢澤薩摩守頼綱の婿となって真田の姪婿なり云々」とみえ、また上野国志に「岩櫃城、海野長門守、沼田の真田安房守昌幸の時、城代なり」とみえるのは、上野に逃れた海野氏の一族とみる。
 海野氏、望月氏、祢津氏が「滋野氏三家」と称され、三家の幡の紋は、海野氏が「六連銭」、望月氏が「月輪七曜」、祢津氏が「月輪九曜」であったと伝えられている。
 滋野氏の家紋は「月輪七九曜」であったといい、海野氏も「月輪七九曜」を家紋にしていたという。しかし、幸綱(幸隆)は武田氏の麾下に属してから家紋と旗印を「六連銭」に改めたという。室町時代の中期に書かれた『羽継原合戦記』、別名『長倉追罰記』のなかに、海野一族は六連銭を家紋としていたことが記されている。おそらく、六連銭の紋は室町時代の初めには海野一族の共通の紋として用いられていたようだ。 
 『羽継原合戦記』によばれ、応永24(1417)年1月、犬懸上杉禅秀の乱が収束した後、今度は関東公方足利持氏と幕府・関東管領山内上杉氏の関係が悪化すると、佐竹義憲は一貫して持氏を支持したのに対して、幕府は足利持氏に対する抑えとして山入祐義や長倉義成ら「京都御扶持衆」を支援した。
 永享7(1435)年、その長倉遠江守義成が常陸国佐竹郡の長倉城に拠って足利持氏に反抗した。持氏は8月、岩松持国らに命じて関東諸将の兵6千で長倉城を包囲させた。宇都宮氏・結城氏らの調略により12月に降伏開城した。それを書きとめる『羽継原合戦記』前段に、長倉城を囲んだ岩松持国を大将とする寄せ手諸将134の家名とその陣幕名117を列挙している。それが当時の紋を知るうえで重要な史料となった。それに記されている諸士の紋は中世のもので、少なくとも江戸時代以前の家紋であり、歴史的にみてもかなり古い参考史料となる。但し、室町時代、永亨の頃のものではなく、江戸時代初期のものではないかという説さえもある。それにしても、史料的価値は高い。

19)晴信伊那攻略

 天竜川の東岸、諏訪から有賀峠を越え下った上伊奈郡箕輪の藤沢城郭址

 『高白斎記』に「9月25日壬申、未刻に出て宮川橋御合戦、蓮芳(高遠頼宗、蓮峯軒)討ち取らる。長坂筑後守・粟原左衛門高名。酉刻御勝利」「9月26日辰刻、仰せ付けられ侯間、高白、藤沢口に火を放つ。案内者神長(守矢頼真)一騎、諏訪薩摩守(諏訪満隆)方竹慶は遅れて着陣。」「9月28日乙亥、簑輸次郎(藤沢頼親)出仕。」とある。
 『神使御頭(おこうおとう)之日記』に天文11(1542)年「9月10日に高遠信濃守殿諏方を手に入られ候」とあり、高遠信濃守殿が上原城を襲い、諏訪上下社を占拠した。高遠信濃守とは高遠頼継をさし、南北朝時代、高遠に土着した諏訪氏の分流で、継宗の子頼継の代に高遠氏を名乗った。9月24日、晴信は諏訪大社へ「今度之勤、就(任務に就く)于(戦へ赴く)利運(状況至った)者、具足壱両(領)・馬壱疋、於于伊奈郡に百貫文、神領可付之者也、即願書如是」(守矢早苗氏所蔵)、願文を捧げた。晴信は諏訪頼重の遺児寅王を擁し、諏訪から高遠へ向かう途上の安国寺前の宮川で対峙する間もなく、9月25日、宮川橋付近で福与城主藤沢頼親と高遠城主高遠頼継の連合軍を粉砕した(宮川の戦い)。この戦いで頼継の弟蓮峯軒(高遠頼宗)が討たれ、高遠軍の大敗北となった。翌26日、駒井高白斉は伊那口に侵入、藤沢口を放火し攻めた。福与城主藤沢頼親は武田氏に降伏し、28日出仕した。武田の猛攻に屈した藤沢頼親の緊急避難的な臣従であった。
 晴信は板垣信方を上原城に置き諏訪郡代とし、翌天文12年4月、信方に上原の城普請を命じ、天文13年4月佐久の大井氏を臣従させ、10月、晴信は本格的に伊那郡攻略に着手した。
 『高白斎記』に「3月、三州牛窪の浪人山本勘助召抱えらる」「3月13日壬子、辰刻、御主殿の柱立つ」「10月16日壬午、屋形様御出陣。礼拝場に於いて御馬鼻血出る。苦しからず候や其後何事なし」とある。
 晴信は10月に甲斐府中を出陣した。同月28日諏訪湖の南、有賀に着陣した。一方、武田軍の侵攻に対して、藤沢頼親は本拠の箕輪福与城(上伊那郡箕輪町福与字南城)の北方にある標高764mの小高い丘荒神山(現辰野市荒神山)に砦を構え、伊那谷防衛の前線基地として、伊那衆と共にこれを守り武田勢を迎え撃った。武田勢は武田信繁を大将として有賀峠を越えて伊那郡に入ると、10月29日、先方衆は荒神山で対峙し陣取った。その先鋒は羽島から松島まで侵攻した。「11月朔日丙申。御使者の為、荒神山へ打寄せ働の場近辺に火を放つ。松島原(現箕輪町)に於いて敵の首26栗原在衛門軍功」。しかし藤沢氏に決定的な打撃を与えられず、11月9日、躑躅ヶ崎館に帰府した。高遠頼継は、再び諏訪に乱入して、諏訪上社の守矢頼真の屋敷に火を放っている。
 翌天文14(1545)年「4月11日癸卯、高遠に向け御出馬。雨」、晴信は再び兵を率いて甲府を出陣し、14日には上原城に入った。「4月15日丁未、杖突峠御陣所。昼夜雨」まず高遠頼継を攻め、17日高遠城は自落した。晴信は高遠城に陣所を構え、ついで20日、藤沢頼親が拠る箕輪の福与城へ軍を進める。天竜川畔の福与城には、藤沢氏に同心し、武田の伊那侵攻を阻止せんとする伊那の国人衆も籠城していた。
 福与城の戦いの史書『小平物語』には「(福与の)城に篭る武士には、松島・大和・長岡・小河内・福島・木下、是は大身の士なり、此の外野口・手良・八手・平出・高木・辰野・宮木・神戸・赤羽・樋口・有賀・漆戸、此等の者都合百余騎、雑兵千5百篭城なり、中にも藤沢織部・大泉上総とて強弓の射手あり」とあり、上伊那と周辺域の軍勢が加わっていた。この守備は固く、武田方の攻撃も思い通りに捗らず、部将の鎌田長門守が討死するほどであった。
 福与城の創設は鎌倉時代、幕府御家人藤沢氏が箕輪郷を中心に、ここを拠点にして威勢をふるっていたと伝えられる。この城跡は天竜川東岸段丘の緩斜面を利用した中世の平山城であったが、要害堅固であった。城跡は幅が東西約330m、南北約440mで、本城,北城,南城に区分される連郭で、本城は第1・第2郭に分かれていた。本城は空堀を隔てて北城に対しやや高く、物見櫓といわれる場所もあって、天竜川流域では大規模で、好適地にあった。
 藤沢頼親は上伊那衆を結集し、深志小笠原長時、長時の弟鈴岡小笠原信定、下伊那衆の知久氏らの援軍を得て抵抗した。信州守護小笠原長時は、頼親の妻の兄でもあり、木曽義康勢も含む総軍勢15百を率いて駆けつけ宮所の龍ケ崎城(上伊那郡辰野町伊那富)に拠った。その先鋒は羽場・北大出方面までに及び福与城を支援した。
 龍ケ崎城は穴倉山から南に湾曲しながら延びる丘陵の先端部にあり、標高825m、比高差約100mで堀切と山の斜面に沿って上下に掘る堅堀を備えていた。高遠城を陣所にする晴信は、重厚な戦略で、下伊那の援軍小笠原信定との連絡を絶っている。
 鈴岡小笠原家を再興した信定も下伊那・上伊那の諸豪族を率いて、藤沢氏を支援するため伊那部(伊那市大字伊那部)に着陣していた。福与城の戦いの史書である『小平物語』には「小笠原舎弟小笠原信定、下伊那、中伊那衆を将(ひきい)て鋳鍋(いなべ)に本陣を取り、右後詰として、長時公の一左右(いっそう;一報)相待たれ候也、此旗本には下条・赤須・宮田・片桐・飯島・知久・座光寺・保科弾正・溝口・市瀬・大島、此外小身衆合て2千の人数なり」とあり、鋳鍋は伊那部であるから、春日城に伊那谷全域の国人衆が入った。福与城の支城で、藤沢頼親の養子木下重時が在城した箕輪城(上伊那郡箕輪町中箕輪字木下)の守備も固く膠着状態が続いた。
 しかし6月に決した。「6月大壬辰、板垣駿河守竜ヶ崎落城。敵の首46討ち捕る。栗原左衛門手に於いて首17討捕り、晴信公より感状を賜わる。」「6月10日幸丑、藤沢次郎和義(藤沢頼親)落着。」「6月11日、藤沢次郎身血(降服)。其上藤沢権次郎(頼親の弟)人質の為、穴山陣所(穴山伊豆守信友)へ参る。敵城に火を放つ。」
 6月1日、小笠原長時が本陣をおいた竜ヶ崎城(上伊那郡辰野町伊那富)が、1か月を越える駒井高白斎や板垣信方の執拗な猛攻で陥落した。長時は筑摩に引き揚げたようだ。鈴岡小笠原信定ら下伊那の援軍とも連絡を絶たれた。藤原頼親は孤立し已む無く和睦の誓約をし、弟権次郎を人質として差し出した。ところが、藤沢氏らが開城すると福与城へ火を放ってこれを焼き払ってしまう。そのまま廃城になった。藤沢氏が武田氏を裏切った代償であった。頼親は福与城落城後、『小平物語』には「按に、頼親此の時城を開き羽広邨(むら)に住す、今其の地を殿の小屋と云う(後略)」とあり、伊那市西箕輪羽広の大泉に暫くは潜伏していたようだ。

 伊那の高遠から箕輪を制した晴信は、筑摩郡深志の小笠原長時に鉾先を向けた。晴信は塩尻峠を越え14日、林城下の長時の居館「林の館」を放火し、桔梗が原に出て小笠原軍を大破し、その勢いのまま熊井城(塩尻市片丘)を陥落させ、さらに上伊那・筑摩を席巻した。『小平物語』 は記す。この伊那攻略に多くの諏訪衆が先鋒を務めた、と。
 『高白斎記』は天文14年10月、晴信は駿河に出兵したが、今川義元と和睦し甲府に戻った、これに藤沢頼親が同行していたとしている。
 晴信は今川義元と和談を成立させると信濃攻略に邁進する。晴信は、天文15(1546)年3月諏訪郡安国寺に伊那の福地郷を寺領として、同年9月諏訪上社に、伊那笠原の広垣内、百貫文の土地を社領として、寄進状を納めている。伊那侵攻の際における、諏訪先方衆への戦功の褒賞と解される。翌天文16年3月、高遠城の鍬立。翌天文17年7月19日、小笠原長時を塩尻峠で破っている。この合戦に、下伊那の小笠原信定も大軍勢を率い出陣していた。『小平物語』には「此合戦の日、伊那の民部信貞公、伊那士の大将にて下条・平谷・波合・駒場・赤須・阪田・溝口刑部・駄科惣蔵・片桐・飯島・宮田・小田切・上穂(うわぶ)・殿島・向山・市瀬・浦野・大島・知久・御園・座光寺・藤沢・松島・大出・長岡・小河内・漆戸・有賀・樋口・柴・赤羽・辰野・平出・宮木・神戸・宮所、大身小身都合5千人余の人数なり、先陣は下諏訪内相沢・駒澤なり、後陣は上伊那の内上・平出に支える也」とあり、大動員に応じての出兵でありながら大敗であった。以後伊那の国人衆の多くは、武田氏に帰順していったという。

 『神使御頭(おこうおとう)之日記』は天文17年4月5日、この頼親が小笠原長時や村上義清と組み、諏訪大社下宮を放火した、と記す。『高白斎記』には翌天文19年9月、「九月晦日丙申、穴山殿同心在り藤沢次郎参府。」とあり、藤沢次郎は藤原頼親であるが、またも甲府に参り晴信に帰服した。その後、京都に上り浪々し、一時、三好長慶のもとに身を寄せていたが、織田信長が本能寺で明智光秀の謀叛で歿すると、急遽旧地に戻り田中城を築いてこれに拠った。牢人していた藤沢頼親が天正期に突如伊那谷に舞い戻り、かつての居城福与城址の目の前に田中城を築き領主に返り咲いた。それは伊那谷では珍しい平城であった

 『御判物古書之写』に、天文15年2月、満茂が善六に所領を宛行い、高遠頼継によく奉公するよう要請している判物がある。『諸事記』では、天文17年5月、頼継が保科因幡に藤沢郷御堂垣外(みどうがいと)村善兵衛所蔵の原在家弐百文の地を安堵している。更に『御判物古書之写』天文20年12月、頼継は上伊那郡宮所郷内(辰野町伊那富宮所)の一瀬の地を一瀬市村に宛行っている。晴信は、頼継を服属させ、諏訪から伊那へ侵略する要地、高遠から箕輪にかけて代官支配をさせていたようだ。
 翌天文20年6月28日、晴信は保科甚四郎政俊へ「今度就下伊奈本意者、相当之地一所可可出置者也、?如件」と下伊那攻略軍に参加を要請している。既に小笠原氏が衰え、有力諸士としては知久氏のみが残るだけとなった。
 『赤羽記』に「頼次(頼継)は勢強武将也、甲斐信玄の旗本也、(中略) 頼次の家臣は上林上野入道と保科筑前守殿両人也、(中略) 上林信玄に申而曰く、頼次謀叛の気あり、是故甲府へ呼び、道にて害す、上林若是讒言は主人を斃(たお)し己則地主たらん事を欲しての事なり」とある。
 頼継は配下の上林上野入道の讒言により、天文21(1552)年正月25日、甲府に出仕しを命じられ、同月27日、自刃を余儀なくされた。諏訪氏系の高遠氏は断絶した。『赤羽記』には「筑前守殿(保科)は宮田と云う所7百石、諏訪界さそこ(沢底) 5百石、合千2百石也、」と、かつて高遠頼継の代官支配地であった上伊那郷辰野一帯が保科氏に宛行われていた。晴信は下伊那攻略に先立って、上伊那平定の地を、帰順した将士に旧領を安堵し、功績に応じて所領を宛行い軍役に貢献させた。

20)武田軍、下伊那攻略

 中川村の陣馬形山から眺望!武田軍は天竜川沿いの伊那谷を通って知久・座光寺氏ら下伊那衆を攻略した。

 天文22(1553)年、晴信によって領地を逐われた北信の諸将の願いを入れた越後の長尾景虎が信州川中島に兵を進めた。遂に、武田軍と長尾軍との間で、第一回目の川中島の戦いが行われた。このとき秋山信友も晴信に従って景虎軍と戦い、翌年の4月に高遠城へ帰陣した。

 天文10(1541)年に元服した秋山信友は、翌天文11 年、当時22歳の晴信の諏訪攻めの軍に加わり近習衆として初陣を飾る。この初陣の活躍で、信友 は50騎の侍大将に抜擢される。その信友が、天文16年には上伊那の郡代として高遠城の城将となっていた。
 晴信は、天文19(1550)年、『高白斎記』に「7月10日、屋形様村井へ御着城」、小笠原長時の林城を攻め、7月15日「子の刻、(林)大城 、深志、岡田、桐原、山家5ケ所の城自落。島立、浅間降参す」と遂に落城させた。林城は破却され廃城となった。大名としての小笠原氏はここで一時滅亡した。その後は村上義清、次いで越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。『高白斎記』天文22(1553)年、「九月小朔日乙巳麻積小四郎方へ来国光の刀遣わされ侯。栗原左兵衛方へ信国の刀下され候。越後衆八幡に動き、破れ新睡(荒砥城)自落。」
 この年、晴信によって領地を逐われた北信の諸将の請いを入れた越後の長尾景虎が更級 郡八幡平(千曲市)に兵を進めたのである。武田軍と長尾軍との戦いで晴信の劣勢が伝わると、伊那の国人衆も動揺した。
 秋山信友から伊那谷の国人衆が武田氏に叛旗翻し、知久・座光寺氏らは神之峰城(飯田市上久堅;かみひさかた)周辺に兵を集めている、と甲府に報せがあった。
 信友は知久氏らに対して兵を収めるようにと、使者を派遣したが、使者が斬られ、伊那衆の叛乱が決定的となった。天文23(1554)年知久頼元、頼康父子は、それまで武田氏に従属していたが、前年の第一回川中島の戦いに呼応するかのように、反旗を翻した。信友からの急報に接した晴信はただちに3千騎の兵を率いて伊那に出兵した。先鋒は秋山信友が務めた。武田軍の進攻に対して知久頼元は、小渋川より伊久間川まで人数を配して武田軍を迎え撃った。知久勢は3千騎の武田軍の猛攻に、よく耐え凌いだが、頼元の嫡子頼康をはじめ知久勢の多くの将士が討たれ、次第に劣勢となった。知久勢は強勢の武田軍によって神之峰城に追いつめられ、ついに、知久頼元父子、座光寺貞信ら主だった武将は生け捕りとなった。
 『妙法寺記』によれば、晴信は頼元らを甲斐に護送し、御坂峠を越えて河口湖に浮かぶ鵜之島に幽閉した。そして、翌弘治元(1555)年5月、河口湖東岸の船津浜において全員を処刑した。ここに鎌倉以来、神之峰城を本拠としていた名族知久氏も、一時没落した。
 『伊那武鑑(鏡)根元記』に「弘治2辰(1556)年、武田信玄公伊那郡へ打入有之、侍大将馬場民部・内藤修理之助・原隼人・飯富三郎兵衛・秋山備前守・仁科備後守右7頭壱万弐千余騎、伊那部へ御入高遠城之城に御休息被成、近所へ降参に成るべき廻文を出し候得共、更に降参になるもの無御座候上、信玄公大きに御立腹有之、殿島大和守を始めとして水口民部・松島豊後守・伊都新左衛門・宮田左近正・黒河内隼人・小田切入道父子(上穂伊豆守)、右8人召捕、狐島にて張付にあげ御成敗被成候、依之伊那衆早速御味方申なり」とあり、武田軍が甲山の城に入り、「降参に成るべき廻文」に応えが無かったため、最期まで靡下を拒む8人の国人衆を召捕り見せしめとして狐島に磔にした。その後、里人が密かに8人の首を抱え、伊那郡入り谷の郷黒河内村(上伊那郡長谷村黒河内)に埋葬したという。
  『甲陽軍艦』に「信玄公、弘治2年6月中旬に、又伊奈へ御出馬あり、7月8月9月都合4月の間に、伊奈を伐随給ひ、即伊奈侍御成敗の衆、溝口殿・松島殿・黒河内・上穂・小田切・伊那部・殿島・宮田、此外ありといえども書に及ばず」、信玄軍は大田切川を越え宮田に入った。武田軍の分隊が松島も制圧した。続いて「又たやし被成うちに弟・伯父・従弟なんどに、所領半分或いは3分1なんど被下、名字をつがせなさるることあり」と、敵対叛逆しても、所領を完全に奪うことなく、高遠頼継や保科・神林両氏ように、所領を新たに宛行い、高遠の代官として勤仕させもした。「弘治2年10月下旬に、秋山伯耆守相備とありて、旗本に付けらるる、伊奈の侍大将衆は、坂西(ばんざい)・市瀬・知久・春近衆、合せて2百騎、秋山伯耆与力也。伯耆守手前の騎馬50騎共に、引合せて250騎の人数をもつて、伊奈の郡代に仰せ付けられ、伯耆居城は、高遠の城にさしをかるる、以上。」
 伊那谷全域が伊奈郡代秋山信友の支配下に入った。郡代所は高遠城に置かれた。
 信玄は永禄3(1560)年、諏訪上社の造営所役を信濃国中に課した。同年、小野郷の小野7騎に「重科の人并びに国法を犯すの輩、3日を経るまで隠し置くに至っては、注文の人同罪たるべし。惣じて甲州のために悪しき子細を承り届け、高島へ進注せしむれば、褒美を加うべきものなり。」と達している。翌年、信濃「両二之宮」の小野・矢彦両神社の御柱祭に際し、小野郷を支配する高遠地方の新参衆13名に知行を宛行い、戦功を督励している。永禄8年、諏訪大社上下社の衰退した祭祀の再興を大号令した。

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