諏訪氏の梶の紋章     Top

1.梶の葉紋

梶の木は古代から、皮は神事の時の幣として用いられ,葉は神前に供える食器の代用として用いられた。平安時代は衣服の文様として好まれ、やがてこの文様は神職の間で用いられるようになった。
 家紋として史籍に初めて見えるのは『吾妻鏡』で、治承四年九月十日の条に「甲斐源氏の武田信義、一条太郎たちが石橋合戦のとき、応援に駆けつける途中、諏訪神社の近くに宿をとると、真夜中に若い女が現れて、梶の葉の直垂を着けて葦毛に乗った武士が通るが、この人こそ源氏に味方する諏訪明神の御使であると言い残して立ち去った」旨書かれており、当時から梶の葉は諏訪明神の神紋であったことがわかる。
 諏訪明神を信仰した信濃の豪族達はこぞって梶の葉を用いた。これらのことは『鎌倉大草紙』『関東幕注文』『羽継原合戦記』などに載っている。また南北朝の頃、信濃の豪族は南朝に属したが、戦い利にあらず、一部が瀬戸内海の島に本拠を占め、西海で活躍した。特に村上氏は村上水軍として活躍し有名である。村上氏は故郷の諏訪明神を海上保護の神として各地の港に勧声したので、梶の葉紋は四国、九州地方に分布して行った。

諏訪大社には、本殿がない

御神体は上社が、守屋山。原始の昔は、大きな岩に神が鎮まると考え、この岩を磐座(いわくら)とし、磐座のある山を神体山(神奈備山;かんなびやま)として信仰した。

下社秋宮が、一位の木

下社春宮が、杉の木

我が国最古の神社の1つ。分社5,000有余。

大国主命の第2子・建御名方富命が祭られている。

詳述すれば、上社本宮が、建御名方神、前宮が、八坂刀売神(やさかとめのかみ)

(ただ、前宮の祭神が明記されるのは明治以降である。したがて、前宮が諏訪大社発祥の地であれば、また諏訪大祝の墳墓の地であれば、本来祭神は、建御名方神のはず、でなければ御神渡りの意味が無くなる。)

下社は、春宮、秋宮ともに建御名方神と八坂刀売神を主神とし、建御名方神の兄神・八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)を祀る。

下社祭神・八坂刀売神

下社祭神の由来は不明、ただ八坂刀売神は海神(わたつみ)系の安曇族ではないか?

諏訪で洩矢の神が勢力を育んでいた時、松本平では、安曇族が穂高の神を中心に繁栄

していた。その勢力が塩尻峠を越えて諏訪に入って来た。

諏訪湖の北の肥沃な地で稲作に励み本拠地とした。春宮の近くを砥川が流れ、諏訪に

注ぐ。その流域は北に山を背負い、気候が暖かく肥沃な水に恵まれた農業に適して所

稲作は大事な生業、実りの豊かさは、神のおかげと考え

農業を主体とした信仰の神社が興り、そこで安曇族の祖神・八坂刀売神を祀った。

神は、春になれば春宮に鎮座して田の仕事をするとして遷座の祭りをし

秋になれば田の神は、仕事を終えて山に帰る場所が、秋宮の小高い丘であった。

更に遡れば、田の神が秋の収穫後、帰られる山は本来、霧ケ峰であった。

砥川を遡上すれば霧ケ峰に至り、そこには旧御射山社(もとみさやましゃ)が下社

の奥宮として存在する。後に秋宮に近い里に御射山社を創設した。

「みさやま」の「み」も「さ」も敬語なので、本来は山を言う。

湖の南、守屋山の麓に建御名方神を祖神とする出雲系の集団が、北の砥川の流域には八坂刀売神を主神とする安曇族が、稲作を生業とし励み、やがて諏訪の人々は八坂刀売神を建御名方神の妃神として、上社下社の祭神が同じように諏訪の人々を守ってくれると信じ尊崇した。

遷座

下社の春宮、秋宮の祭神は同じ、その神が鎮座される期間が、半年毎になる。

/1、秋宮から春宮への動座を遷座祭といい、8/1の春宮から秋宮へ動座を、舟祭りと言う。

農耕・機織の神、狩猟の神であったが、戦勝祈願の神に変貌していく。

征夷大将軍・坂上田村麻呂が、東北に向かう途中、戦勝祈願を、している。「諏訪大明神画詞」(すわだいみょうじんえことば)には征夷大将軍坂上田村麻呂が801年、東征の途中 に諏訪神社に立ち寄って東夷平定を祈願したことが記されている。歴代武門・武将の崇敬を、仰ぐ発端でもあった。

平安時代には「信濃国一之宮」として広く知られるよう になった。鎌倉時代には「日本第一大軍神」として多くの武将の崇敬を集めた。その後も足利尊氏、武田信玄、代々の徳川幕府将軍の崇敬を受けた。明治維新後に国幣中社、1916年に官幣大社となった。

大和朝廷の時代、東山道は東夷軍略の道であった。

(江戸時代は、中山道として整備され、険しいが川止めの無い道として、盛ん利用された。)

文永・弘安の役では、蒙古軍を覆滅するのに神威を顕現したとして、国家鎮護の

守護神と崇められてゆく。

鎌倉幕府は、社領を寄進

武田信玄は、社殿を造営

江戸幕府は、社領1,500石を奉献した。

 

上社と朝廷

第一代の大祝は有員(ありかず)、桓武天皇の皇子。大祝は諏訪明神の生神様として

明治維新迄続く。大祝の血筋を神氏(じんし)と言う。

ここで重要な事は御柱際のこと、起源は不明の遠い古代に遡るが、桓武天皇の御代・804年から信濃国の総力を上げて奉仕がなされこととなる。

ただ、「神氏系図」には有員から14代までは名前がない。15代頼信からは書かれて

いる。いろいろ疑問が生じる。

また、大祝の成立についての文献資料は室町時代に書かれた『諏訪明神画詞』と作成

年代不詳の「神氏系図」によると

諏訪明神が桓武天皇の皇子で8歳になる有員親王に、神の衣服を脱いで着せ「自分は

神であるから姿はないが、諏訪明神の姿は大祝たなって現れる」と大祝が現人神と

崇められる経緯を語る。

その事によって、平安時代初期、諏訪神社上社勢力・諏訪族が、大和朝廷の傘下に入ったといえる。それ以前は大和朝廷の力は及ばなかった。

そう推測されるのが、日本武尊が東国を平定して足柄峠から甲斐に入り、信濃に抜ける時、諏訪を通らず今でも急峻な道である釜無川に沿って南アルプス鋸岳(甲斐駒ケ岳の北)の中腹横岳峠を越して長谷村(伊那)に出る道筋、地元の人でも一部の山好きのみ知る道となれば、諏訪族を恐れての迂回路としか考えられない。

大和朝廷が成立して、国、郡の制が布かれたとき、諏訪は信濃の国の一郡とされた。

奈良時代の初め養老5年(721)になると、信濃の国から分立して諏訪国が成立した。

諏訪の荘園(平安時代)

平安時代末期の諏訪郡は、周辺各地と同様に皇室関係や有力貴族、寺社の荘園や公領となっていた。

荘 園

諏訪大社上、下社

八条院領(鳥羽上皇の娘)

岡谷牧・大塩牧・塩原牧

穀倉院領(左馬寮頭)

公 領

桑原郷・田沢郷・青柳郷・矢崎郷・金子郷・真志野郷・小井河郷・小阪郷・有賀郷・福島郷・神戸郷・栗林郷・大熊郷

朝廷は、諏訪を長い間、諏訪大社の神領(じんりょう)として特別扱いをしてきた。諏訪の豪族たちも自分が祀る神を天照大神より下位に置こうとはしなかった。朝廷は、その神威を恐れて諏訪の自治を認めてきた。諏訪の首長である諏訪氏は、一定の献上品を朝廷に送らなければならなかったが、信濃の国司のさまざまな命令に従わなくてもよいとされた。それが、未だに「諏訪国」の呼称が残るいわれでもある。

尚、戦国時代に諏訪は、武田信玄の領地に組み込まれる。そのとき初めて諏訪神領の自治が終焉したといえる。

さらに奈良時代の初め、朝廷は蝦夷がまつろわぬものとして平定の祈願を、関係地方の神威の高い神社で、行った。その平定後、蝦夷征伐の功ありとして神社に神封を与えた。諏訪神社は、7戸(律令制で、行政上、社会組織の単位とされた家。通常2030人の大家族が多い。、その内で、いくつかの小家族に分かれるのが普通)の神封を賜った。さらに平安時代の貞観7年(865)には、水田2段(たん---1反は300坪、約991.7平方メーター)が上社に寄進された。この時代、大化の改新により公地公民の制が布かれて私有地が認められない時代での背景を考えれば、諏訪大社の大和朝廷内の評価が向上したと考えられる。

ところで『諏訪明神画詞』によれば、平安時代に入り桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ東北地方の攻略に向かわせた(延暦20年・西暦801年)。その途上、美濃から神坂峠を越えて伊那の太田切(駒ヶ根市)に至ると、坂上将軍の前に葦毛(白い毛に黒色・濃褐色の差し毛のあるもの)馬に乗り、諏訪家の紋章・梶の葉の衣服をつけた武将が現れ、従軍を、願い出た。坂上将軍は、ただの武将で無いと感じ先陣を勤めさせると不思議な事に、行く先々で多くの兵士が武将の配下についた。

奥州の攻略に成功した坂上将軍の帰路、佐久と諏訪の境・大門峠に差し掛かった時

先の先陣をつとめた武将が急に、馬から下り、衣冠束帯の姿に変わり「われは諏訪明神なり」と言うと、その姿が掻き消えた。都に戻った坂上将軍は、この事を桓武天皇に奏上したところ、大変喜ばれて、早速土地と神事に必要な費用を諏訪大社の奉納した。以上が『諏訪明神画詞』の内容。このことから平安時代に諏訪の勢力が、大和朝廷の支配化に組み込まれた。この事によって諏訪神社の神威が、全国的に発展する契機となった。

それまでは、諏訪は、古来神氏による祭政一致の統治の下、強固な支配力があって、大和朝廷の支配力が及び難かった。したがって、朝廷から諏訪神社が位を授与されることはなかった。初めて位を賜ったのは、承和(じょうわ)9(842年)、従5位下であった。

それから8年後、嘉祥3年には従5位、翌年正5位、更に翌年仁寿(にんじゅ)元年

に従3位に昇進した。当時、京都以外で、従3位以上の神社は、熱田神社・鹿島神社・香取神社など極めて少なかった。清和天皇即位の貞観(じょうがん)元年895年には正2位、驚嘆に値する地位の向上であった。

そした平安時代の終わり頃、平将門の乱がおきた。この乱は、平家一族の確執によって生じるため、何年に始まったとは一概に言えない。ただ朝廷は、天皇制最大の危機に至った事は確かであった。朝廷は兵乱平定の勅使を諏訪神社にもさしむけ、戦勝を祈願した。

この乱は、天慶(てんぎょう)3年(940)に鎮定した。朝廷は早速諏訪明神の加護に感謝して正1位をおくった。現在上社には後奈良天皇勅筆の「諏方正一位しょういちい南宮法性大明神」の書が、ご神体代わりに秘蔵されている。

 

平安時代940年頃に常陸国で勃発した平将門の乱によって、当時上田にあった信濃国分寺が焼失した。事は平将門が叔父であり常陸国大椽である平国香を 討ったことから始まる。平国香の息子である平貞盛は将門への復讐を決意し、将門の悪事を朝廷に訴えるために京都へ向かった。

常陸国から京都へ向かうには、当時官道として整備されていた東山道を通行した。平貞盛が京都へ向かったことを知った平将門は、後を追いかけて、信濃国上田の神川(かんがわ)付近で追いついた。川を挟んでの戦いの末、国分寺まで戦火が拡大し、広大な伽藍が焼け落ちた。結局京都まで逃延びた平貞盛は、朝廷へ将門の悪事を訴え、やがて編成された朝廷の大軍が、平将門を討ち取りった

平安時代末の信濃の土地は、そのほとんどが中央の荘園にされていました。これは全国的な状況と同じで、そこに住む土地の所有者が、年貢を納める代わりに自分 の領地を中央の権力者に守ってもらうために寄進をしたためである。下記ように、当時の権力者である院関係者や藤原氏、寺社などが所有していることが 分かる。

院・皇室

後白河院・上西門院・八条院・前斎院・尊勝寺・証菩提院・六条院・蓮華王院・最勝光院・九条城興寺

官衛

穀倉院領(信濃各地の牧場を所有)

公家

藤原基通・一条大納言・宗像小輔・元左大弁師能・近年忠清法師・雅楽頭済盆・前堀川大納言

寺家

仁和寺・三井寺・天台山末寺・天台山

社家

伊勢大神宮・岩清水八幡宮・松尾社・日吉社

 

その特徴としては、

1.      伊勢大神宮の荘園は、御厨(みくり)と呼ばれ、仁科神明宮(大町市)はその中の仁科御厨税によって伊勢神宮の勧進で建設された。

2.      善光寺は三井寺(滋賀県)の領地で、代々三井寺から善光寺の領地経営をするために代官が派遣されていた。

3.      後白河法皇が建立した蓮華王院(現在、三十三間堂しか現存してない)の領地が、洗馬荘(塩尻市)にありった。

4.      後白河天皇は、自分の荘園である佐久伴野荘からの税の納入が滞っていると源頼朝に訴え、頼朝はその地の地頭小笠原氏に命じて、整理に当たらせている。さら に、室町時代に入ってこの伴野荘は、京都大徳寺の領地となり、大徳寺の祖である宗峰妙超が、地頭権を主張して暴れる伴野氏の処罰を室町幕府に訴えてたりし ている。

5.      信濃で収穫される米は、遠く京都に運ぶには不便だったことから、持ち運びやすい麻布や銭に交換されて京都へ運ばれていた。これは鎌倉時代になっても続いていた。よって、各荘園の周辺には定期的に商品交換をする市場ができてた。

平安から室町時代の諏訪

  御神渡りは、古代より神聖視されてきた。御神体の大蛇が湖上の上を渡った跡は、御脾腹(おひはら・・・蛇の腹)の痕跡とみて、特に寒気の強い日は、その痕跡が荒っぽく、御神体そのもののとして崇められた。それが上社の男神が下社の女神に通い給うと言う信仰に発展した。諏訪では御神渡りを単なる風物詩ではなく、重要な神事として、神官が湖上に出向き、農業の占い、冬の漁業や交通路の目安として生活に密着させると共に、諏訪明神のなせる業として長年尊んできた。

  平安時代から室町時代にかけて、信濃は日本の牧馬の中心地となり、諏訪はそのまた中心地となる。官牧の数は信濃十六牧中、山鹿(やまがー茅野市豊平・湖東地区で南大塩の山寺が中心)、荻倉(下諏訪・木落し坂の北・中山道荻倉一里塚の石碑がある)、岡谷、平井弓(ひらいてー辰野町平井)、宮所の五牧が諏訪にあった。この諏訪の地での牧馬や産馬の経済的基盤の確立、そして騎馬の風習が、建御名方命の原像の一側面、馬と騎馬の武神が強調され、軍神として崇められていく。殊に御神宝も7種のうち2種は馬具で、唐鞍(からくら)と轡(くつわ)であり、御神渡りの神は、騎乗だと考える信仰に変わる。

  この騎馬の風習と馬上の建御名方命の軍神としての姿が、桓武天皇の頃の坂上田村麻呂、戦国時代になって武田信玄が、諏訪明神・軍神として崇める契機となった。

下社大祝・金刺氏

国造本記に、「みづがき朝の御世に神・八井耳命(やいみみのみこと)の孫、建五百武(たけいほたけ)の命に、国造として定め賜る」とある。

崇神天皇は、科野国の国造を下諏訪に置き、それに建五百武命を任じた。

八井耳命とは、いわゆる欠史八代の一人で、神武天皇の第三皇子、後の2代・綏靖(すいぜい)天皇の兄である。綏靖天皇の誕生・神武29年(紀元前632年)、立太子・神武42年(前619)1月3日、即位・綏靖元年(前581)1月8日、崩御・綏靖33年(前549)5月10日(84歳)。綏靖天皇は、神武天皇の没後、長兄の手研耳命が異母弟の自分たちを殺害しようとしていることを知り、逆にこれを討って即位。(八井耳命は長兄の手研耳命てぎしみみのみことを射殺す勇気がなく、これを実行した弟に即位を譲った。)葛城高丘に皇居を定め、母の妹である五十鈴依媛命を娶って皇后とした。子は3代・安寧天皇である。

倭朝は「お諏訪さま」信仰する自立心の強い「諏訪国」を支配しようと、その一族を国造として送り、その土着をはかった。以後、諏訪国は国造家に与えられるが、強い土着文化に根ざした諏訪大祝信仰と強い絆に対抗し得なかったようだ。国造家は倭朝主権を維持しながら諏訪神社の「大祝制」を取り入れた。ここから「下社大祝」が出現する。さらに諏訪氏との婚交を重ねて和合していく。

皇極天皇の時代、大化の改新があって、国・郡の制が布かれ、国造は廃されるが、その地方の祭祀に根ざす者は残された。諏訪下社・金刺氏は、これにより残った。

 信濃国の一宮である諏訪神社には、下社と上社がある。もと両社の神主家は系統を異にしたが、平安時代の後期以来、一族が武士化するにともない、著しく系図が混乱し、さらに源氏とも紛れて、どれが正系か判別が難しくなってしまった。
 下社の神家は金刺舎人を祖とし、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造家の系譜と伝えられる。金刺舎人を姓として伊那郡、諏訪郡の郡司及び諏訪下社大祝を世襲する。郡司(ぐんじ)は、令制の地方行政官。国司の下にあって郡を治める

地方の有力者から任命。郡造(こうりのみやっこ)ともいわれた。
 後裔の手塚光盛は、木曽義仲に従い勇名を馳せて、兄盛澄は鎌倉御家人となる。
 金刺氏族の後裔は信濃、駿河、遠江に広がり、上社諏訪神家の系統とも系図が交錯する。のち武力を蓄え、名字を諏訪と称し、また手塚ともいい、手塚太郎光盛は木曽義仲に従って勇名を馳せた。光盛の兄盛澄は鎌倉の御家人となった。以後代々下社大祝職を継いできたが、戦国時代に断絶し、支族の今井氏が入って武居祝と称し、大祝を名乗ることはなかった。

神社大祝・諏訪氏
 上社の神主家は本姓が明かではなく、一般に神家といっている。出自については、建御名方命の後裔という説によれば、出雲神族の分かれと考えられ、大和の大神(おおみわ)神社の社家大三輪家と同系だろうか。

諏訪氏は代々諏訪社の大祝となった信濃の名族であるが、その出自については諸説がある。一つは、神武天皇の皇子神八井命の子孫、信濃の国造金刺氏の後裔というものであり、また建御名方神の後裔で御衣祝・有員より起こったというもの。さらに、経基の子満快の後裔という清和源氏説もある。いずれにせよ、源平争乱に盛重が頼朝に仕えて、諏訪太郎を称したのが諏訪氏の名乗りのはじめとされる。

平安時代中期以降、神家の嫡男が大祝を継ぐ例となった。この頃から一族が繁栄して信濃国内に多くの庶家を分出し、大祝家を宗家とする武士団を形成、東国屈指の勢力を誇り、世に神家党といわれた。宗家は早くから諏訪氏を名乗ったであろうが、関屋・深沢・皆野・保科・笠原・千野・有賀・四宮・知久・宮所・平出などの諸氏が分出した。

室町時代を通じて、上社と下社の抗争が続き、抗争は必然的に武力を伴っていた。武力によって下社を圧倒していた上社の諏訪氏が、内部争を起こして衰えた。つまり、諏訪氏は祭政が分かれ、惣領家は満有の子信満が継いで、兵馬の権を握り、在地領主化の通を歩み、満有の弟頼満は大祝家として、祭事を司ることとなった。その領地は宮川を挟んで、南と北に分かれていた。その惣領家・諏訪氏と大祝家・諏訪氏の間には武力抗争が絶えなかったという。とどのつまり頼満の子継満が、惣領家の政満を計略によって殺してしまった。しかし、そのやり方が卑劣で、大祝の立場にありながら神殿を血で汚す暴挙であったため、一族の大部分は大祝家に従わず惣領家のもりたてを図ったため、継満のクーデターは失敗に終わった。

政満の子頼満のころから戦国大名化していった。頼満は下社の金刺氏を滅ぼし、諏訪地方に領国制を展開、対には甲斐の武田信虎と争うまでに成長した。諏訪と武田は講和を結び、信虎の娘が頼満の孫頼重に嫁したのである。しかし、頼満の死後、信虎の子信玄と頼重は対立、1542年大祝頼重が武田信玄に謀殺されて、大祝家は断絶した。諏訪氏はその後、頼重の叔父満隣の子頼忠によって再興された。頼忠は家康に仕え、関ヶ原の合戦後、その子頼水が諏訪氏の本貫地高島二万七千石を領した。

近世大名として明治維新を迎えた。諏訪大祝職は頼水の弟頼広が継いで、子孫明治に至った。(詳細は高島藩を参照)。

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