諏訪大社上社の御神体・守屋山 諏訪氏の本城・上原城址 桑原城址から諏訪湖 桜の名所・高島城

戦国時代の諏訪の武将達


 こぐ舟の 行衛もそれと みつうみの 波に照りそう 秋の夜のつき
                                     諏訪 忠誠
 目次          Top
 1)大祝信重解状
 2)南北朝時代の諏訪氏
 3)小坂円忠(えんちゅう)
 4)諏訪上下社の室町幕府への帰属
 5)大塔合戦
 6)諏訪社と郷村
 7)戦国大名化する諏訪氏
 8)上社の内訌
 9)下社の没落

1)大祝信重解状
 宝治3(1249)年の鎌倉時代に、既に諏訪大社上社と下社が、いずれが本宮かと争っている。その際、上社大祝諏訪信重から幕府へ提出された訴状が「大祝信重解状」である。「解状(げじょう)」とは、身分の下の者から上の者に奉る文書で、平安時代後期には「訴状」としての意味合いが強くなり、一般庶民から朝廷に差し出されたりし、鎌倉・室町時代には、訴人が管轄機関へ差し出した訴状を指すようになった。諏訪神社上社大祝家に伝えられ、ほぼ写本の全文が残るが、その最後に「神長重書の内、他見に及ぶべからざるものなり」とあり、かつては神長守矢家に永らく秘蔵されていたようだ。現在では「大祝家文書」として、財団法人諏訪徴古会が所蔵している。その文書・書体から宝治3年に作成され、足利末期か徳川初期に筆写されたとみられている。
 この先年の宝治2年は、戊申年であり諏訪大社造営の年度に当たる、その年に上下社間に本宮争いが生じた。下社大祝の金刺盛基が、その解状で訴えた。しかし上社の諏訪氏は、鎌倉幕府の得宗家御内人であり、且つ重臣である。幕府の裁可は当然、「去年御造営に下宮の祝盛基は、新儀の濫訴を致すによって」として裁下し、「上下両社の諸事、上社の例に任せ諸事取り仕切る」とした。
 しかし、下社大祝盛基は、この幕府の下知に納得せず、上宮は本宮ではないと再度申し立てた。大祝信重解状は、それに対する長文の反論で、「進上御奉行所」として幕府に訴えた。
 その内容は7ヵ条で  一、守屋山麓御垂跡の事、一、当社五月会御射山濫觴の事、一、大祝を以て御体と為す事、一、御神宝物の事、一、大奉幣勤行の事、一、春秋二季御祭の事、一、上下宮御宝殿其外造営の事
 鎌倉中期以前の諏訪大社の鎮座伝承、神宝、祭祀、神使御頭(おこうおとう)、大明神天下る際の神宝所持、御造営等、詳細に上社が本宮である由来を記述して、先例通りの恩裁を請願している。
 大祝諏訪信重は暦仁元(1238)年に即位している。「大祝信重解状」「神氏系図」「吾妻鏡」「諏訪大明神絵詞」に、承久3(1221)年の後鳥羽上皇の乱の際、大祝敦信(吾妻鏡では盛重)は長男・小太郎信重を従軍させたと記している。次の大祝頼重は正嘉2(1258)年に即位している。

2)南北朝時代の諏訪氏
 後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐は、その有力御家人・足利高氏が裏切り、元弘3(1333)年5月8日、六波羅探題を壊滅させたことにより、討幕軍が圧倒的に優勢となり、新田義貞稲村ヶ崎から鎌倉への侵攻に成功し、5月22日、北条高氏以下一族が東勝寺で自刃して終局を迎える。その際、諏訪真性・盛経ら多くの諏訪一族が、高時に殉じている。鎌倉幕府創立140年後に倒壊し、建武新政となる。
 北条氏に代わり小笠原貞宗信濃守護として入ってきたのが建武2(1335)年であった。小笠原氏は甲斐の小笠原(山梨県櫛形町)を本拠にする源氏であった。その嫡流は鎌倉に館を構える「鎌倉中」の有力御家人であった。ただ鎌倉末期には、北条得宗家の被官、いわゆる「御内人」でもあった。しかし、北条氏は平氏の末流であり、小笠原氏、新田氏、足利氏は源氏であったため、裏切りに抵抗はなかったようだ。まして小笠原宗長・貞宗は、諏訪氏と違い譜代の御内人ではないので、北条氏を見限るのも早く、足利高氏に従い戦功を挙げた。それで信濃守護に補任された。
 しかし信濃国内には、北条御内人の最有力者・諏訪氏をはじめ、北条守護領下、守護代地頭地頭代として多くの利権を有する氏族がいた。そこに北条氏を裏切った小笠原貞宗が、守護として侵入し、旧北条氏領を独占し、それに依存する勢力を駆逐していった。信濃国人衆旧勢力は、新政権を排除し自己の所領の保全・回復をめぐって熾烈な戦いをせざるえを得なかった。その北条氏残党の中核にいたのが諏訪氏であった。北条得宗家の重鎮でもあったため、信濃国人衆は諏訪氏を盟主として、「神(しん;みわ)」氏を称し、「神家党」として結束していた。それが建武2年7月に起きた中先代の乱であった。その乱以後の争闘が、後醍醐天皇の建武の新政を瓦解させた。
 鎌倉中期北条時頼以後、得宗専制政治が強まり、それに伴い諏訪氏の政権内での権勢も拡大していくと、他氏であっても「神」氏を名乗るようになった。その実利的結束のせいもあって、政情次第で、離合集散する。下水内郡栄村を拠点とする市河氏は、神経助神助房と神氏を名乗る「神家党」であった。元弘3年5月、六波羅探題を足利高氏が攻略すると、6月にはその幕下に馳せ参じている。建武2(1335)年3月、北条氏残党が水内郡常岩(とこいわ;飯田市)北条で挙兵すると、市河氏らは守護方となり討伐に当たっている。
 同年7月諏訪頼重・時継父子は、10歳前後北条時行を擁して挙兵する。中先代の乱の始まりである。同月14、15日、船山郷(更埴市・戸倉町)の青沼とその周辺で、市河氏が守護方として北条方反乱軍と戦っている。船山郷の戸倉町には、当時、守護所があった。しかしこの戦いは、陽動作戦で、主力本隊は府中を攻め、国司博士左近少将入道を自刃させている。この勝利で信濃国人衆の過半を味方にし、鎌倉へ進撃ができる兵力を押さえた。7月25日には足利直義を破り鎌倉を制圧した。しかし京から尊氏(建武元年以降尊氏)が攻め下ると、金刺頼秀が討ち死に、8月19日には、諏訪頼重・時継父子とその一族が鎌倉大御堂(勝長寿院)で、全員が顔を切り自裁している。顔を切りことによって、北条時行も自害していると見せ掛けるためであった。諏訪頼重以下、300余騎がここで果てている。 時行は無事鎌倉を脱出している。
 「勝長寿院」は文治元(1185)年に、頼朝が父の義朝廟所を造ろうとしたので、大御堂(おおみどう)あるいは南御堂(みなみみどう)と惣門だけがあった。頼朝の死後に尼将軍政子や3代将軍実朝により堂宇が建てられ、源氏の菩提寺のようになった。実朝と政子もこの地に埋葬されたと伝えられるが、現在それらの墓は、扇が谷の寿福(じゅふく)寺にある。 鶴岡八幡宮から朝比奈峠に向う金沢街道を十二社(じゅうにそう)の方に歩くと、「大御堂橋前」という交通信号がある。滑川(なめりかわ)に掛かる、その橋を渡って、間もなく「勝長寿院舊蹟」 の石碑と出合う。碑文は
 『院ハ文治元年源頼朝ノ先考(亡父)義朝ヲ祀ランガ為草創スル所 一ニ南御堂 又大御堂ト言フ 此ノ地ヲ大御堂ヶ谷ト言フハ是ガ為ナリ 実朝 及ビ政子モ亦此ノ地ニ葬ラレタリト傳ヘラルレドモ 其ノ墓今ハ 扇ヶ谷寿福寺ニ在リ 』とある。
 近年、上社前宮の神殿南の畑の一画で、五輪塔3基が発掘された。いずれも鎌倉時代の墓標で、その一基に「照雲」の2字が判読された。中先代の乱当時、頼重は「三河照雲入道諏訪頼重」であった。
 北条再興の夢は、たった25日間の鎌倉支配で消え去った。時行は北条氏の本貫があった伊豆に逃れ、その潜伏中、後醍醐天皇が尊氏と決裂すると、再度、後醍醐方として伊豆で挙兵した。
  諏訪頼重が、鎌倉に出陣後、大祝を継いだのは、時継の子・頼継であった。このため朝敵となった頼継は神野に隠れる。尊氏は大祝の継承を、大祝庶流の藤沢政頼に就かせると、頼継の探索を厳しく命じた。
 頼継は、わずか5,6人の従者を連れて、神野の地をさ迷うが、諏訪の人々による陰ながらの援助で逃れる事ができた。その後も信濃の諏訪神家党、その他の国人衆(こくじんしゅう)は、足利政権の守護小笠原氏及びその麾下に与するに国人衆と、果てしない闘争を続けた。
 佐久の望月氏は、鎌倉陥落以前の8月1日、小笠原勢に城を破却されている。9月3日にも北条時行に味方した国人衆の本拠地が攻撃された。しかも小笠原勢に与する者は市河一族と村上信貞で、対して諏訪一族は徹底的に交戦を続け、その過酷な試練を乗り越えて、やがて戦国領主として生き残った。
 以後諏訪直頼が一時、観応2(1351)年6月から8月に掛けて、直義方として尊氏方の小笠原と善光寺平で激戦を繰り返していたが、尊氏が南朝方と和睦し勢力を回復すると形成は逆転し、直義は翌年2月26日、不自然死を遂げている。
 諏訪直頼は観応3(1352)年閏2月、南北朝期最期の大反撃をする。新田義宗上杉憲顕と組み、諏訪・滋野氏を主力とする信濃勢が、宗良親王を擁して、(埼玉県)金井原小手指原尊氏方と戦う。しかし敗退し親王は越後へ逃れたようだ。
 文和4(1355)年春、宗良親王は越後でも南朝方が敗退すると、信濃に逃れる。諏訪氏金刺氏仁科氏も必死の結集に努め、再起をかけて8月府中の制圧にむかう。しかしその途中、桔梗ヶ原(塩尻市)で守護小笠原長基(政長の子)と激戦の末、敗退し、信濃南朝軍は瓦解していく。翌延文元年、信濃国境志久見郷(栄村)で、直義方の残党・上杉憲将も敗れている。
 
3)小坂円忠(えんちゅう)
 中世以前の諏訪神社と諏訪地方の記録は少ない。「大祝信重解状」と「諏訪大明神画詞」は、その数少ない記録である。「画詞」の編纂者が諏訪(小坂)円忠で、延文元年(1356)に製作された。
 諏訪円忠は、上社大祝敦信(吾妻鏡では盛重)の弟・小坂助忠が諏訪郡小坂を本貫としたため、助忠の曾孫・円忠も小坂を称した。一説では諏訪郡の大塩牧も領有し、禰津貞直の鷹道を相伝しているといわれている。いずれにしろ、武人の系統であるが、鎌倉に生まれ住み、若くして北条氏の幕府・政所の所員となり文官として育った。小坂家は鎌倉に住すると諏訪姓を名乗った。鎌倉幕府健在の時は諏訪一族こぞって幕府に仕えた。信濃国が北条家の守護地で、諏訪氏はその各地で地頭となった。北条氏が滅亡し、諏訪盛重の一族も殉じている。円忠は本質的に文官であり、その実務能力を買われ、建武中興の折りには、朝廷に仕え雑訴決断所の寄人(よりうど)になった。
 建武中興により朝廷は、北条氏一族の所領を奪い、功労のあった将士に分け与えたが、恩賞の請求や本領安堵の訴訟が頻発して、恩賞方も雑訴決断所もその裁決に困難を極めった。特に地方政治に暗く実務能力を欠く公卿たちが担当したため、公平を欠き新政府の信頼と威信を著しく損なった。
 建武2(1335)年8月、全国を8番に分け、その各々に北条幕府当時の有能な人物を再登用することにした。円忠はこのとき第3番の東山道を担当させられた。その寄人の首席は洞院公賢(とういんきんかた)藤原宗成で、その下に高師直長井高広佐々木如覚斉藤基夏等の名が見られるのは興味深い。円忠は公事実務の中心として、彼等にとって欠かせない人材であった。
 建武中興の親政は中先代の乱を契機に短日月で破れ、円忠も諏訪一族であれば京での立場は困難を極めたであろう。一端は諏訪に戻るが、尊氏の信頼は変わらず、 乱後荒廃する諏訪郡の再建に尽力している。その人脈を生かし諏訪守護小笠原と甲斐守護武田の後援を得て、諏訪大社信仰の再興のため、文官育ちでありながら豪腕を振るい、庶流の大祝、藤沢氏出自の政頼は現人神になりえずとして廃し、高遠に逼塞する頼継の弟信嗣を大祝とし、その復権を果たした。
 円忠は鎌倉幕府が諏訪大社に与えた特権を復活させ、その御造営は信濃国の奉仕、さらに諸祭事の御頭制度も室町幕府に再確認させた。 北条氏滅亡後、新興勢力に簒奪された社領の回復にも務めている。
 嘉歴4(1329)年の『鎌倉幕府下知状案』以降、諏訪大社上下社の神宮寺で釈迦の誕生を祝う花祭(潅仏会)と釈尊の入滅を偲ぶ常楽会(涅槃会)が行われるようになった。この行事には左頭と右頭の2頭役勤仕とした。下社の「常楽会」と合わせて諏訪大社の花会を創設し「両社相対して如来設化(遷化)の始終をつかさどる」とした。
 円忠は諏訪大進、法橋、法眼の地位にあり、諏訪上社の執行として、その花会頭と潅仏会頭の仏式神事を再興させ、室町幕府の支援を得て信濃地頭を御頭役とする信濃武士団を総動員する制度とした。それは安定しない信濃国内を統制する口実でもあった。
 足利尊氏の幕府ができると、夢窓国師による尊氏への推挙で再び京へ上った。尊氏は円忠を右筆方衆としたが、のちに評定衆引付衆等の幕府の要職に就かせる。ついには暦応元(1338)年守護奉行として重用し、全国の守護を監督、遷転する任務に当たらせた。
 1338年足利尊氏は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を開いたが、後醍醐天皇の菩提を弔うために京都嵯峨に天竜寺を建立することにした。そして暦応2(1339)年この天竜寺の造営奉行に任命されたのが諏訪円忠であった。興国元(1340)年に始まるが、尊氏・直義兄弟が自ら土を運んだと言われ、7年後に完成した。この間京では当時新興宗教である禅宗に対する風当たりは強かった。比叡山などの僧徒の強訴もあって円忠の苦労も大変であった。 尊氏は円忠の功に報いて近江国赤野井郷に領地を与えた。すると円忠は、後に夢窓国師の死後、赤野井郷の権益を山城国臨川寺に 、信州の領地・四宮荘(しのみやしょう)を天竜寺に寄進した。 円忠は尊氏の歿後、2代将軍・義詮(よしあきら)にも幕府の奉行人として仕えている。
  この天竜寺造営に際し、さらに全国66ヶ国と2島に1寺(安国寺)と1塔(利生塔)を建てることになる。足利尊氏、足利直義兄弟は、夢窓疎石に深く 帰依しおり、疎石はかねがね兄弟に元弘以来の内乱で戦没した死者を弔い、平和を祈願する証として、各国ごとに「一寺一塔の建造」を勧めていた。聖武天皇の国分寺に倣ったと考えられるが、これにより足利氏の支配が全国に及んだ事を誇示する意味もあった。
 歴応2(1339)年造営される安国寺は新しく伽藍を建立するのではなく、その国々の中心にある都合のよい寺をそれに充てた。信州では善光寺か、少なくとも小笠原氏の守護所がある筑摩(松本)が有力候補地であったが、信濃国の安国寺設置を担当していたのが諏訪円忠で、当時幕府の公事奉行であったためか、自領・小坂に近く、諏訪の上社前宮により近い地・諏訪武居荘小飼に建立した(茅野市宮川)。その後当地は、安国寺村といわれた。諏訪は長く信濃の反尊氏派として戦ってきたが、それもついに屈したと言える象徴的な証となった。
  諏訪円忠はこの他、祭7巻、縁起5巻からなる「諏訪大明神縁起画詞」という絵巻物を編纂し、各方面に諏訪信仰を普及させた。諏訪大社には、かつて「諏訪社祭絵」という縁起書があったが、当時、既に失われていた。そこで「諏訪大明神縁起画詞」という当時流行していた絵巻物形式で、後世に伝えようとした。中世以前の諏訪神社の成立と神験の縁起物語年中祭事諏訪地方の祭祀風俗等が絵画と解説文でよく記録されていた。 諏訪神社の縁起や伝承・仏説を国史から調べ、地元の諏訪神社から祭事の記録を得ている。貞和2(1347)年神道家の神祇大副(たいふ)吉田兼豊に古伝の調査を依頼し、延文元(1356)年、当代一流の学者藤原宗成に諏訪神社の古記録について尋ねている。正平元(1346)年頃から円忠が稿を練り青蓮院尊円親王をはじめ7人の名手の筆により、絵は中務小輔隆盛他4人で、当時最高の名筆の集大成といえった。装丁も見事であった伝えられている。
 縁起(歴史)5巻、祭7巻の絵詞を見て尊氏は感動して後光厳上皇に、各巻の外題(書名)の親筆を願い、その巻々の末に自ら 漢文で「右は敬神により宸翰(天皇の親筆)外題をくださるの間、後の証として謹んで奥筆を加えるのみ」 延文元(1356)年丙申十一月二十八日 征夷大将軍正二位 源朝臣尊氏 と署名した。
 「画詞」は京都諏訪氏の円忠家に伝えられ、嘉吉2(1442)年、伏見宮の要請で諏訪将監康嗣が、これを公開している。彼は円忠の子であり、その系統は代々奉行人として幕府に仕えている。公開当時、非常な評判を呼んだが現存はしていない。ただ詞書の写本だけが残っている。
 宗詢(そうじゅん)という僧が高野山で修行中に、この「画詞」を発見して写したといわれている。また慶長6(1601)年、京都豊国神社の社僧・梵舜による写本といわれる『諏方縁起絵巻』が、現在、東京国立博物館に所蔵されている。
 諏訪円忠は、政事以外に神道、禅宗、密教、和歌にも通じ、「新千載和歌集」「新後拾遺集」「菟玖玻集」にもその歌が掲載されている。

 滋賀県守山市赤野井町に江戸時代の建築様式を伝える、市指定文化財「大庄屋諏訪家屋敷」がある。約4,000平方メートルの広大な敷地には、客殿を伴う母屋や書院、茶室、土蔵、庭園等があり、江戸時代の庄屋屋敷の名残がある。母屋は茅葺きで、書院造り風の武家造りである。庭園は江戸中期に造られた枯山水、池泉回遊式で、民家に残るものとしては貴重である。また多数の石を組み、各種多様な石灯籠や手水鉢を各所に配している。昭和52年、守山市の指定文化財になっている。  「大庄屋諏訪家屋敷」の歴史は、暦応3(1340)年に、諏訪円忠足利尊氏に、この地の地頭職に任じられた事に始まる。以後、その子孫は土着し、江戸時代には代官職を経て、赤野井一帯の小津郷の大庄屋として活躍した。

4)諏訪上下社の室町幕府への帰属
 南朝方の宗良親王が信濃に入部し、諏訪氏らが親王を援けて幕府に叛旗を翻した。文和4(1355)年、宗良親王のもとに集まった信濃南朝勢力の諏訪氏仁科氏らの一族は、小笠原長基の軍勢と桔梗ケ原で激突した。合戦は小笠原氏の大勝利で、以後、信濃のおける南朝方勢力は衰退し、幕府政治が浸透していった。
 ところが、京都の幕府の管理下にあった信濃国が、鎌倉公方足利氏の支配下に置かれるようになり、関東管領上杉朝房信濃守護に任命された。小笠原氏にとって、不本意な体制の変換であった。以後、信濃国は幕府管理下に戻ったが、守護職は斯波氏が応安5(1398)年まで就任した。しかし、軍事指揮権は事実上、小笠原氏が掌握していたようだ。
  諏訪上下社同士が干戈を交えたという記録は、鎌倉時代までない。室町時代の始めの頃は、“反尊氏”で、宗良親王を助け、足利幕府と戦い続けてきた。しかしながら、南朝方は再興の可能性がなく、遂に下社方は脱落したようである。桔梗ケ原の敗戦は決定的で、信濃の南朝方にしてみれば、最早抵抗の限界であった。
 正平18(1363)年8月、矢島正忠が宗良親王を奉じ守護・小笠原長亮と桔梗が原で戦った記録・「沙弥道念覚書」の末尾に「この合戦に下之金刺・山田馳せ加わらず、如何に如何に」と衝撃的な寝返りを述べている。この時既に、守護・府中(松本付近)の小笠原氏との連携が図られていたと考えられる。 尊氏が死に、翌延文4(1359)年12月19日、2代将軍・義詮は南朝討伐の際、下社に天下静謐の御教書を発給している。同年12月23日、義詮は後村上天皇を攻撃する。その中に諏訪信濃守直頼禰津小次郎の名がある。しかし「守矢満実書留」によると貞治5(1366)年にも、諏訪氏は南朝方である。貞治4(1365)年12月14日、諏訪直頼塩尻金井で、守護小笠原長基と戦い敗れている。翌年正月20日には、当時の宮方、村上・香坂・春日・長沼等と連合して長基と戦い勝利している。すぐさま長基も反撃し、下社に「天下安穏、当国静謐、ことには今度の合戦の勝利のため」として、塩尻郷東條を寄進している。
  3代将軍・義満の時代なると、南北朝合一がなり、幕府体制は絶対的専制となり上社も対抗するすべを失った。応永5(1372)年、諏訪兵部大輔頼貞が将軍義満から小井川と山田の2郷を与えられている。永和3年8月幕府は、当時の信濃守護上杉朝房に信濃国所役である上社造営料の督促を命じている。この時代、信濃国は鎌倉公方の管轄下であった。 至徳3(1386)年7月、翌年の御射山祭差定(さじよう)には、「聖朝安穏、天地長久、殊には征将軍の宝祚(ほうそ)延長を奉為(たてまつらんがため)に、別しては国事泰平、人民豊永の故なり」と記されている。「宝祚」とは「皇位」の意であるから、上社は将軍義満を事実上の日本国王と見なしていた。
  明徳3年/元中9(1392)年、後亀山天皇は京都へ赴いて、大覚寺にて後小松天皇と会見して神器を譲渡し、南朝が解散される形で南北朝合一は成立した。
 室町幕府一統支配となると、諏訪氏の軍事活動も諏訪郡周辺に限定されてくる。動乱による負の遺産は甚大で、かつての勢威は過去のものとなった。
 室町時代初期、信濃国内在地領主の諏訪上社頭役は、五月会御射山祭に、新たに花会頭役が加わったが、室町時代半ば頃から頭役制度が衰退していく。『諏訪大明神絵詞』に「惣て一年中、役人十余輩、皆丹誠そ抽て、一生の財を投ぐ」と述べていたが・・・
 諏訪上社は次年度の頭役に当たる郷村に、前年度のうちに差定(さじよう)を渡している。文明3(1471)年の御射山右頭は、伊賀良荘(飯田市)の小笠原政貞が勤仕する。政貞の御符礼(御符入部への礼銭)5貫6百文、御教書(終了証明書)同前(御符礼と同額)、神鷹神馬御教書礼(御教書の礼銭)5貫6百文、神使路銭(上社の神使の旅費)1貫文、頭役百二十貫文とあり莫大な負担である。その上添書には、「十八郷一反三百文、三升宛頭取米、勤被申候」とある。中世の平均相場は、1貫文が約米1石に相当する。小規模の郷村であっても、それ相当の負担を強いている。しかも上社は、その費えの捻出のためとして、頭役に当たる郷村に、その年の屋造りや婚礼等を禁じ、節倹の規制をしている。
 『御符礼』とは、上社が翌年の頭役へ御符即ち差定書を届け、この差定の文言に従い、頭役が担当する祭事の際、『御符』を捧げて諏訪郡内に入部した。『御符礼』はその礼銭のことである。御符の大祝の礼銭は1貫文であったという。それ以外に5官祝以下への礼銭も入っていたのだろう。
 諏訪氏が鎌倉期、北条得宗家の重臣として権勢を振るった時代、諏訪大社も信濃国人衆から尊崇され、莫大な負担であっても頭役に勤仕する家格を誇りとしてきた。 享徳3(1455)年、室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった関東地方における享徳の乱は、鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠を謀殺した事に端を発し、それが戦国時代の遠因となる動乱の時代入る。
 頭役の負担は、絶え間ない戦乱と不作に困窮する郷村民には、「十八郷一反三百文、三升宛頭取米、勤被申候」、その反銭「反当り三百文と米三升」に応える事自体が無理となった。 在地領主も家格表示する頭役は拒否せず、差定通りには納めず、役銭を減らしている。長享3(1489)年、小笠原政貞は、頭役の本銭100貫文でありながら35貫としている。既に享徳3(1454)年、高梨厳秀(みちひで)が、その領地の高梨本郷(小布施町)の差定80貫を、寛正4(1463)年以降は、57貫3百文に減らしている。 室町後期から戦国期、諏訪上社は衰退期を迎える。郡外に散在していた社領も、現地領主に横領され年貢はなくなり、信濃国武士の頭役も衰退し、諏訪上社の財政も困窮した。

5)大塔合戦
 ところが、京都の幕府の管理下にあった信濃国が鎌倉公方足利氏の支配下に置かれるようになり、関東管領上杉朝房が信濃守護を兼任した。小笠原氏にとって、不本意な体制の変換であった。その後守護職は斯波氏が応安5年(1398)まで就任している。
 応永6年(1399)、小笠原長基の子長秀が信濃守護に任命され、小笠原氏に守護職が戻ってきた。長秀は応永7(1400)年7月3日京都を出発して信濃に向かい、 一旦、佐久の守護代大井氏に立ち寄った。大井光長は小笠原一族であり、当代光矩の父で、信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平5(1350)年、信濃国太田荘大倉郷の地頭職に就いていた。当時京で流行したバサラ大名の一人であった長秀はこのとき35歳で、大井光矩の館で旅装を整え、都風の派手な装いで行列を組んで善光寺に入った。そして、善光寺に国人衆を呼び付け対面しながら、容儀も整えず、ましてや一献(いっこん)の接待もしなかったという。
 このような長秀が、鎌倉幕府滅亡以来の対立で、未だに小笠原氏に心服していない国人領主達に、新たに所役を命じ、過去の対立時の所業を罰しようとした。そして、収穫の時期にあたっていた川中島で、ここは守護が支配する所だと称して年貢を徴収した。川中島は一時小笠原氏が領有していたが、当時は北信の有力国人領主村上氏が押領していた地であり、多かれ少なかれ、鎌倉幕府の将軍家を本所とする関東御領春近領国衙領等の押領地を支配する他の国人領主にとっても、守護の一存で既得権化した所領を否定されれば死活問題となる。村上氏は、元弘の変当初から足利氏に与力し、義光・義隆父子が、鎌倉幕府との戦いの最中に没している。その後も義光の弟村上信貞は、北信の市河氏と共に北朝方守護小笠原氏の強力な味方として、諏訪氏を主力とする信濃国の南朝勢力と激戦を繰広げて来た。その村上氏の決起が発端となり、守護小笠原氏に対する国人領主達の反感が決定的なものとなった。
 そして、村上満信を盟主として北・東・中信地方の有力国人領主の連合軍が結集して守護長秀に反旗を翻した。大文字一揆とよばれる信濃における最大の国人衆一揆であった。村上氏のほかに中信の仁科氏・東信の海野氏根津氏を始めとする滋野氏一族・北信の高梨氏井上氏一族等大半の国人衆が決起した。
 このとき、守護長秀に従ったのは、小笠原氏が地盤とした伊那春近領(上伊那)・伊賀良荘(下伊那)・府中地方(筑摩・南安曇)の一部の武士達であった。小笠原一族内でも、長秀の高圧的な態度に反発して参陣しなかった者が続出している。後に仲介役となる大井光矩は、現に同族で守護代でありながら、加勢しなかった。
 上田市立博物館所蔵の「大塔物語」によれば、長秀の下に集まった小笠原勢は800騎余りで、対する国人衆(大文字一揆)は、篠ノ井の岡に500余騎(村上氏)、篠ノ井塩崎上島に700余騎(佐久地方の国人衆)、篠ノ井山王堂に300余騎(海野氏)、篠ノ井二ッ柳に500余騎(高梨氏、井上一族など須坂・中野地方の国人衆)、布施地域を後ろに方田ヶ先石川に800余騎(仁科氏、根津氏など大文字一揆衆)が布陣したとの記されている。この”騎”というのは何人もの家来を伴うので、実数は3千超の小笠原勢に対して、国人衆は1万3千以上の兵力だったと推定されている。
  この鎮圧のため守護方は、善光寺から横田城(長野市)に押出した。国人衆は、川中島平の篠ノ井(長野市)付近に陣を張り、善光寺の長秀に圧倒的多数の軍勢で対峙した。長秀は善光寺では支えきれないと思い、横田城を捨てて、善光寺平の最南端、千曲川西岸にあって、狭隘部を抑え守るに堅い、一族の赤沢氏の居城・塩崎城に合流しょうとした。夜陰秘かに移動するが、途中で発見分断されて長秀ら150騎余は辛うじて塩崎城に逃げ延びている。しかし逃げ遅れた小笠原一族坂西(ばんざい)長国をはじめ古米入道飯田入道常葉入道等300騎余は、進路を遮られ途中の大塔の古砦(こさい)に逃げ込んだ。だが兵糧も武器の備えも不十分なまま20日を超える籠城は、乗馬をも殺して血を啜り、生肉を食う凄惨なものであったと伝えられる。しかも救援もなく、大塔の籠城軍は撃って出て全滅した。「大塔の古砦」の場所については、篠ノ井にある大当地区と推定される。大当地区の東方約500mにある御幣川地区にある宝昌寺は、この合戦の多くの戦死者を葬った所との伝承がある。しかし古砦の場所は特定されていない。
  諏訪氏は宿敵小笠原であっても、今となっては諏訪大社が幕府守護の管掌下にあって、上社造営料等の役料の督促等も、その権力に依存していた。諏訪氏は自ら出陣する事がはばかられて、大文字一揆に参軍するに際し、主将として有賀美濃入道性在を任じ、胡桃沢豊後守泰時(諏訪氏湖南)、上原矢崎古田等軍兵300余騎を出兵させた。大塔の古砦の大手口を攻めたと記されている。
 長秀が逃げ込んだ塩崎城も国人衆の攻撃に負傷者が続出し、命運も尽きんとした。大井光矩がようやく仲介の手を差し伸べたことで辛くも窮地を脱し、長秀は京都に逃げ帰った。当然、信濃守護職は罷免された。 これが、「大塔合戦」ととばれる戦いであり、発端はともかくとして南北朝以来の小笠原氏と国人衆との対立が背景にあったことは疑いない。

6)諏訪社と郷村
 上社の大祝家は本姓が明かではなく、一般に神家といっている。出自については、建御名方命の後裔という説によれば、出雲神族の分かれと考えられ、大和の大神(おおみわ)神社の社家大三輪家と同系であろうか。 諏訪氏は代々諏訪社の大祝となった信濃の名族であるが、その出自については諸説がある。一つは、神武天皇の皇子日子八井命(ひこやいのみこと)の子孫、信濃の国造金刺氏の子孫というものであり、また建御名方神の血流で御衣祝有員より起こったというもの、さらに、平安中期の武将・源経基の5男満快(みつよし;みつすけ)の後胤、清和源氏説もある。満快は『類聚符宣抄(るいじゅうふせんしょう)』第8載録太政官符には、下野守在任中に卒去していることを伝える記録が残る。系図上確認される3人の息子達も中級官人として東国の受領などを務め、その子孫は武家として主に信濃国に土着した。
 いずれにせよ、源平争乱に盛重が頼朝に仕えて、諏訪太郎を称したのが諏訪氏の名乗りのはじめとされる。 平安時代中期以降、神家の嫡男が大祝を継ぐ例となった。この頃から一族が繁栄して信濃国内に多くの庶家を分出し、大祝家を宗家とする武士団を形成し、東国屈指の勢力を誇り、世に神家党といわれた。
 宗家は早くから諏訪氏を名乗ったのであろうが、上原・矢崎・藤沢・関屋・深沢・皆野・保科・笠原・千野・有賀・四宮・知久・宮所・平出等の諸氏が分出した。 上記、諏訪郡内郷村の在地領主層は、諏訪上社の神主も兼ね「村代神主(むらしろこうぬし)」と呼ばれていた。茅野市教育委員会発行の「年内神事次第旧記」によると、千野郷の神主は2人で2町歩の神田と2軒の神戸を神領として知行している。矢崎郷の神主も2人で1町歩の神田を知行している。諏訪上社の頭役を記録した『諏訪御符札之古書』によれば、郡内には千野神主上原神主古田神主矢崎神主栗林神主、真弓神主峯湛神主(みねたたえ) 、前宮神主干草湛神主(ほしぐさたたえ) 、榛湛神主(はしばみたたえ) 、下桑原神主真志野神主宮戸神主野焼神主14人の村代神主がいて、神田と神戸(かんべ)を知行して神役に務めていた。神主は多大な所役費用を負担した。神使(おこう)や神長等を宿泊させ、貢納を行ない、14人の神主は、大祝即位の時には、五官の祝と共に勤仕した。
  応永4(1397)年の守矢文書には、有継が大祝就任の際、その諸費用は府中の白河郷や5官祝、村代神主が寄り合って負担している事を記す。 花会五月会御射山祭大社造営料等の役料を負担してきたのが村代神主層であり、上社の上層部の大祝、神長官以下の五官の祝は、頭役銭や造営料から、莫大な得分を得ていた。 村代神主は在地領主層でもあり、諏訪氏の軍兵の構成団をも組織していた。村代神主が小領主であれば、その在地郷村に深く根ざし、村落共同体の村長(むらおさ)で、同時に軍事的には諏訪氏若しくは大領主の家臣でもあった。そしてその下には、郷村の有力百姓を在家としておさえたが、その多くは神人(じにん)であり、諏訪氏の軍事力は、その諏訪大社の下部の信仰組織を拠り所にしていた。

7) 戦国大名化する諏訪氏
 諏訪氏は古代より祭政一致の統治体制をとり、大祝は現人神として祭祀を司り、同時に政治権力と武力を掌握してきた。ただその肉体には、神霊が宿る聖なる身として、神郡としての神域・諏訪郡から出る事は神誓として禁忌されていた。しかし中世後期、社家領主として諏訪郡に留まるだけでは、諏訪氏が武家領主として生き残れなくなっていった。絶え間ない戦乱期、惣領として郡外に出て、戦陣の指揮を執る必然があった。 それで古来より神氏は、その神誓を守り、諏訪惣領家の幼男、もしくは一門の子弟を大祝として奉じ、長ずれば新たに幼男をたて、自らは惣領として武士として諏訪郡を統治してきた。当初は、惣領は大祝と一緒に前宮の神殿にいた。 そして中先代の乱以降、大祝頼継は朝敵となり、その地位を失ったが、その後も南朝方として、足利幕府に反抗してきた。その間、大祝は信嗣信貞信有有継と惣領家が継承し、寧ろ諏訪家の同族的結束が強化された。
 有継の在位は、3代将軍足利義満の時代、応永4(1397)年から4年間であったが、次代の氏泰以後、諏訪氏没落の頼高まで15人が大祝に就いたが、いずれも惣領家からではなく庶子系の出自であった。その間社領を基盤として大祝も幼年より成人になるにつれ、「大祝は、古代より祭政一致の体現者であったはず、単なる聖なる存在ではなかった、と・・・・」、それに従う神事実務祠官としての神長官(じんちょうかん)、禰宜大夫(ねぎだゆう)、権祝(ごんのはうり)、擬祝(ぎはうり)、福祝(そえのはうり)の5官祝も、その意識を強めていった。
  ここで注視すべき事は、南北朝の争乱が収束するころ、諏訪惣領家でも所領の分割相続から惣領単独相続へと権力集中が志向されていくと、惣領就任が相続資格者間で様々な葛藤を呼んだ。更に中先代の乱の主将・諏訪頼重の孫・頼継は高遠へ逃れざるをえず、その子信員は惣領家を継げず、神領の地・高遠を拠点とし、やがて高遠氏の始祖と祀られた。
 上伊那竜東地域(辰野町)では、高遠に本拠をおく諏訪高遠氏を主軸にした国人・地侍による地縁的結合を背景にして、高遠氏が台頭しその子孫は伊那地方で勢威を振るった。一方、諏訪惣領家は、頼継の弟信嗣の系統が引き継いでいった。 そして南北朝の争乱の末期、諏訪社下社は、南朝方上社から離脱し、室町幕府に帰順し自立の道を歩んだ。
 府中の小笠原氏は、伊賀良の小笠原政貞を支援する諏訪上社を牽制するため下社と連携した。 応永期(1394)以降、狭い諏訪郡内で、諏訪惣領家高遠諏訪家上社大祝家下社金刺家の4つの勢力の相克が始まる。 康正2(1456)年、8代足利義政の時代であった。大祝伊予守頼満とその兄安芸守信満とが争う。『諏訪御符札之古書』は「此年7月5日夜、芸州・予州大乱」と記す。それ以上の記録は、他にも見られず、ただ大祝頼満と頼長父子で、18年間その地位に就き、惣領家信満を脅かすほどの実力を有したといえる。この大乱を契機に惣領信満は、その館を上原の地に移した。以後上原が諏訪郡の中心地として栄えていく。 信満以後、宮川以東の上原、神戸、桑原、栗林、金子等を所領とし、武士惣領家として上原の館に住み郡治にあたり、弟・頼満の系統が大祝家として前宮の地に住み、干沢城(安国寺城・茅野市安国寺)を拠り城として宮川以西の安国寺、小町屋、高部、神宮寺、田辺、大熊等を領地とした。
 4代将足利義持の時代でありながら、先代義満が実権を握っていた時代の応永7(1400)年の大塔合戦で、守護小笠原が大敗し守護職を解かれ、その権力は衰微した。以後、小笠原氏は府中と伊那とに分裂し、さらに伊那が松尾と鈴岡に割れ三つ巴の内紛となり、信濃国は中小の有力国人衆達が割拠する早くも戦国時代となっていた。 文明11(1479)年伊那の伊賀良で兵乱が生じる。府中の小笠原長朝が伊賀良の小笠原政貞を攻めた。この時、深志の小笠原一族の重鎮・坂西光雅は伊賀良の小笠原政貞に属していた。坂西光雅は諏訪上社を信仰し、第8代将軍義政の時代の応仁2(1468)年には、頭役をやり遂げている。諏訪方はその関係もあり、小笠原政貞の援軍として、その本拠地伊賀良へ、大祝継満と高遠継宗が出兵している。
 継満の妻は高遠継宗の妹で義兄弟になる。この時、大祝継満は29歳であった。郡外にでるため大祝を一旦、辞している。帰還後、復位している。この時期、大祝も郡外に出兵できる独自の兵力を養っていた事になる。それが文明の内訌へと繋がる。 文明12(1480)年8月12日、諏訪上社の兵が、再度鈴岡の小笠原政貞支援のため、伊賀良に出兵した。政貞の叔父・松尾の小笠原光康が、甥の政貞を攻撃するため府中の小笠原長朝の援軍を要請したためであった。
 『守矢満実書留』文明12年9月20日の条には、「この日、小笠原民部大輔(長朝)の敵として、仁科西牧山家(やまべ)同心なすの間、民部大輔山家に寄せ懸け城櫓を責めらる。山家孫三郎討死なす。口惜しき次第なり。」と記され、小笠原氏が松本市入山辺のあった山家城(やまべじょう)を攻めたことが知られる。『諏訪御符礼之古書』の長禄元(1457)年の条には「府中、山家為家、御符之礼一貫八百文」とあり、文明7(1475)年には、小笠原氏に本拠地を追われた山家光政(みつまさ)が、諏訪信満に太刀を送り、山家郷に帰ることができるように支援を願い、7月16日に帰郷した。諏訪上社との関係が深かったといえる。諏訪惣領家政満は安曇野大町の仁科盛直と現在の松本市に当たる梓川村の西牧氏と山辺の山家孫三郎らと同心し、府中の小笠原長朝に敵対していた。 文明13年4月19日、諏訪惣領政満は、山家孫三郎の遺族光家を支援するため出陣し、23日、小笠原長朝の府中に攻め入った。このとき、政満が手兵として率いたのは高遠氏ら伊那郡の諸氏族であった。諏訪勢は仁科、香坂の両軍勢とともに松本市にあった和田城攻め立てると、長朝は戦局の不利を覚り山家氏と和睦した。
  同年5月6日小笠原政貞は、諏訪上社に社参して、大祝継満惣領政満神長官満実と会し、年来の神恩を謝し、今後も諏訪上社を崇敬すると自筆の誓紙をだしている。
 翌14年6月、高遠継宗は高遠氏に藤沢荘の代官として仕えていた保科貞親(諏訪一族)と、その荘園経営をめぐって対立し、大祝継満と千野入道某らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず不調に終わった。継宗は笠原三枝両氏らの援軍を得て、千野氏・藤沢氏らが与力する保科氏と戦ったが高遠氏の劣勢に終わった。 以後も保科氏との対立は続き、さらに事態は混沌として複雑になる。同年8月7日、保科氏が高遠氏に突然寝返り、連携していた藤沢氏を4日市場(伊那市高遠町)近くの栗木城を攻めた。この時、惣領政満は藤沢氏を助け、その援軍も共に籠城している。
 15日には、なんと!府中小笠原長朝の兵が藤沢氏を支援するため出陣をして来た。17日、府中小笠原氏と藤沢氏は退勢を挽回して、その連合軍は高遠継宗方の山田有盛の居城・山田城(伊那市高遠町)を攻撃したが、決定的な勝敗はつかなかった。『諏訪御符礼之古書』によれば、「府中のしかるべき勢十一騎討死せられ候、藤沢殿三男死し惣じて六騎討死す」とある。  この戦国時代初期、諏訪氏は多くの苦難を乗り越える事で、戦国大名として成長しつつあった。諏訪氏は、下社金刺氏を圧倒し郡内を掌握する勢いであり、杖突峠を越えて藤沢氏を支援し、一族高遠継宗の領域を脅かしつつあった。大祝継満も大祝に就任して20年近い、年齢も32歳に達している。諏訪家宗主としての誇りと、度々の郡外への出兵で、軍事力を養ってきた。そして、諏訪大社御神体・守屋山の後方高遠に義兄弟の継宗がいる。彼らは、自ずと連携し、そこに衰勢著しい金刺氏を誘い、「諏訪上社を崇敬すると自筆の誓紙」を差し出した伊賀良の小笠原政貞とも同盟した。
 孤立する惣領政満は、大祝継満の背後の杖突峠越えの藤沢郷を領有する藤沢氏と盟約を結び、その後方高遠継宗の連携策を阻もうとした。その一方、多年に亘り仇敵としてきた府中小笠原長朝の支援を仰がざるを得ず、盟約を結んだのが実相であろう。 ここまでは、大祝継満の策動に神長官を初めとする5官祝も、賛同し協力したであろう。しかし継満は策の成功に奢り、策を誤った。それが自らの滅亡を招いた。

8) 上社の内訌 
  頼満の子大祝継満の時、妻の実家・高遠継宗と下社方の加担もあって、惣領家の乗っ取りを企てた。文明15(1483)年正月8日、継満は祭事にことよせ、惣領家政満一家を前宮神殿(ごうどの)に招き、酒宴をもって酔いつぶし、夜更け、隠れていた武装の一団を指揮し、嫡子宮若丸も含めて惣領政満と弟埴原田小太郎など一族を初め来客一同、10余人を皆殺しにした。この殺戮集団の中には政満の親類も多数いたといわれている。神聖な神殿を血で汚し、大祝継満自ら手を下し、返り血を浴びる光景を見て、神長官でさえも「まことに大祝とは申し難し」と憤る有様であった。
 惣領家方の憤怒も極まり、直ぐ敵討ちに立ち上がると、郡内武士の勢力の多くと神長官を初め社家方の枢要な人々も同心した。前宮と周辺の社寺堂塔が焼かれ、継満は形勢不利をさとり、15日干沢(樋沢)城に立てこもるが、矢崎・千野・福島・小坂・有賀・神長官たちに攻め立てられ、2月19日、遂に落城、一族残らず大雪の中、急峻な杖突峠を越えて高遠に逃げた。しかし継満の父、先の大祝・頼満は老齢で病身ため逃げ遅れ、城中で討ち取られた。64歳であった。
  大祝継満にしても完璧な謀略を成し遂げた自信があった。しかし諏訪一族は、惣領家、大祝家等関係なく、あってはならない事態として猛反発した。
 干沢城は諏訪上社 諏訪大祝の居館があった上社前宮の東隣に位置する山城である。寧ろ現代人の感覚で言えば砦といえる。当時は宮川が山裾を流れており、そこから崖がそそり立った所に城が位置するという要害の地であった。私も周囲をこまなく散策した。後世、武田信玄による攻勢に高遠頼継が干沢城に拠って敗れたが、上原城桑原城とは違い、それほどの要害でもないし城でもない、ただの国見丘程度の丘の上にあった。しかし諏訪郡内の小規模な争闘程度であれば、武居城と合わせて、上社前宮にとって重要な左右の砦となった。 干沢城落城の日、大雪で寒気が厳しかった。箱根芦ノ湖の水面は723mに対して諏訪湖は759mもあり、特に内陸部の諏訪の寒気は厳しい。大祝継満は当初から、干沢城籠城を想定していない。そのため兵糧の備えもない中、前宮神原(ごうはら)に集住する大祝一族と家臣団の住居も、堂塔と共に焼き尽くされている。一族の非戦員の老幼女子も籠城せざるをえず。城内というが砦程度の山中の狭い敷地内であり、居住屋内の設備は堀立小屋程度で高が知れている。寒気と疲労で、諏訪大祝の兵士と非戦闘員の老幼女子の多くが、高遠逃亡の途上で凍死していた。
 文明14(1482)年5月大雨が降り宮川の大氾濫となり、安国寺、十日市場、上社前宮の門前町であった大町等の町場や村落が押し流された。御柱曳きは延期された。閏7月台風の直撃があり、現在の宮川メリーパークの東側一帯の茅野から安国寺、十日市場、大町等が水没しただけでなく、被害は上川右岸にも及び八日市場、五日市場、十日町等の平地の殆どが海原のようになったという。
 下社は文明15(1483)年正月8日の上社内訌を好機として、一気に諏訪惣領家を略取し、起死回生を謀った。3月19日、金刺氏は継満と組み高嶋城(茶臼山城)を陥落させた。後年、豊臣秀吉の家臣、日根野高吉(ひねのたかよし)諏訪に入部し、日根野氏の諏訪在住は父子2代で、慶長6(1601)年までの12年間であったが、この短期間に現在の諏訪湖畔に高島城の築城を終えている。したがって、それまでの高嶋城又は高島城と呼ばれる城は、諏訪市内背後にそびえる茶臼山にあり、手長山の後ろの丘陵で、今は桜ケ丘とよばれている。手長神社の裏山で、諏訪盆地の湖南から湖北の平坦部を一望する景勝地である。上下社領の境は、大和(おわ)の千本木川諏訪湖天竜川で、それぞれを湖南山浦地方湖北と呼ばれた。高嶋城の築城は諏訪惣領家で、下社勢の大和と高木の両城の抑えと、湖北一帯の状況観察が意図されていた。 下社大祝金刺興春は百騎余りの兵を率い高嶋城を陥し、更に武津から上桑原一帯に放火し桑原城下の館を占拠した。更に桑原城の攻略に向かうも、惣領家に味方する矢崎肥前守政継を初めとする千野有賀氏等の軍勢に駆り立てられて興春兄弟3騎を初めとする32騎と歩卒83人が敗死した。興春は諏訪市湖南大熊の権現沢川右岸、 湯の上辺りで首をとられ大熊城に2昼夜晒された。大熊城は湖南大熊の地籍で西山山地にあり、大熊は「大神」が転訛したもので、諏訪大明神の鎮座地集落のため、上社領で大祝家が支配していた。文明の内訌で大祝継満が、高遠へ追放されると、惣領家支配となり茅野郷に本拠がある千野氏が城主として入城した。 上社惣領家勢は21日には下社に討入り、社殿の悉く焼き払わった。守矢神長官は「為何御内證(本心)にて両社成広野」と嘆いている。金刺氏は没落するが、まだ余命は保っていた。諏訪惣領家と同盟する府中小笠原長朝も出兵していて、下社領の小野・塩尻郷を領有した。
 文明15年は、前年度の大水害による凶作で、甲州同様、諏訪地方でも諸物価が高騰し、困窮者が続出した。更に水害は疫病を蔓延させた。それに度重なる正月からの文明の内訌、上下社間の郡内一帯をまき込む争乱に伴う軍役が負荷された。貧民化した民衆の生活は、どのようにして維持されたのであろうか?
 15世紀の諏訪地方は多難な世紀といえる。特にその後半は、諏訪郡内外での果てしない戦闘と大規模な自然災害により、領民の田畑は人災天災の両害に曝され、その被害は甚大で困窮を極めた。『守矢満実書留』は「斯憂事、自神代無此方(中略)万民心苦事無隙(かくの如き憂事、神代より此の方類をみない。万民の心苦の元が絶え間なく続く)」と記す。
 高遠に逃げた継満は、義兄の高遠継宗と伊賀良小笠原政貞、知久、笠原氏の援軍をえて翌年の文明16(1484)年5月3日、兵300余人率い、杖突峠を下り磯並前山(いそなみ・まえやま;茅野市高部)に陣取り、6日には諏訪大社上社の裏山西方の丘陵上にあった片山の古城に拠った。その古城址北側下の諏訪湖盆を見晴らす平坦な段丘には、古墳時代初期の周溝墓、フネ古墳片山古墳がある。極めて要害で、西側沢沿いには、水量豊富な権現沢川が流れ地の利もよい。 惣領家方は干沢城に布陣したが、伊那の敵勢には軍勢の来援が続き増加していく。
 ところが小笠原長朝が筑摩、安曇両郷の大軍を率いて、片山の古城を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。その向城こそが、東側の権現沢川左岸の荒城(大熊新城)であった。伊那勢は両翼を扼され撤退をせざるを得なかった。 継満も、自らの残酷な妄動が結局、諏訪惣領家方の結束を強め、下社金刺氏をも無害にし、ここに始めて諏訪湖盆地を領有する一族を誕生させたことを知った。 以後の継満には、諸説があり、信憑性に欠くが、いずれにしても、継満一族は歴史上の本舞台からは消えた。 惣領家方は生き残った政満の次男・頼満に相続させると同時に、大祝に即位させた。5歳であった。
 頼満こそ諏訪家中興の祖となる。この後、古来どおり惣領家の思いのまま、大祝の即位・退位を決することとした。 長享元年(1487)7月にも、高遠継宗は大祝を援けて諏訪郡に侵攻した。惣領家方の有賀氏と戦った。高遠勢は鞍懸に陣を構えて有賀勢と対峙して、一方天竜川流域に出で、その右岸、竜ヶ崎(上伊那郡辰野町宮所)に城を築き付近一帯の支配拠点とした。また、高遠氏は有賀の戦いの際、上伊那郡北部にも進出して支城を築き支配領域の拡大を図るなど、有力国人として成長を遂げていった。
 このように信濃では、小笠原氏諏訪氏らが一族を巻き込んだ内紛に揺れつづけた。継宗は大祝家と惣領家の争いを横目に伊那鈴岡小笠原氏と結んで、前大祝継満を援けて自らを諏訪の惣領に位置付けて、諏訪を手中に収めようと野望を逞しくしていた。『赤羽記』には、継宗に関して「生付賢く武術に達し、伊那の郡を、不残切取、十万石程也云々」とあり、南は上伊那中沢(駒ヶ根市)から北は辰野北部までを領有し、その勢力は、本家諏訪惣領家を越えるものであった。継宗は戦国武将としての野心とその力量もある一廉の人物であった。 諏訪氏も政満の子頼満のころから戦国大名化していった。頼満は下社の金刺氏を滅ぼし、諏訪地方に領国制を展開、遂には甲斐の武田信虎と争うまでに成長していった。

9)下社の没落
 
文安6(1449)年4月、上下社間で抗争が始まる。「大祝信重解状」で知られる、鎌倉時代からの両社の本宮争いが、遂に武闘化したのか?「上社権祝家記録断簡」には「4月29日乱世ニ成ル、同5月10日下社皆焼ケ失スル也、一宇モ不残滅亡ス」とあり、上社方の放火により、下社の堂塔と門前町の町屋が焼尽する。 同年8月24日、上社は塩尻で下社と府中小笠原持長の連合軍を敗走させている。当時上社は伊那小笠原宗康と盟約している。既に上下社は敵対関係にあった。これ以後下社は衰微していく。
 文安6年の争乱の前年度は凶作で、諏訪は文安3年にも大飢饉であったから、諏訪武士団の下部を構成する郷民は、相当に困窮したとみられる。そして3年後の享徳元年(1452)と康正元(1455)年も凶作であった。
 寛正5(1464)年4月、諏訪惣領信満の子小太郎(正満の弟)と満有の3男越前守が、甲斐守護武田信昌を支援するため出兵している。甲斐は守護武田氏と守護代跡部氏との権力闘争が続いていた。出兵する諏訪兵は、各郷村の村代神主層の主導で召集され、郡内の「老若上下皆従軍」したため、上社の御柱曳きができなくなった。多年に亘る大飢饉で、兵士に弓矢の装備がない者が殆どであった。
 
文明12(1480)年2月6日夜、下社方は安国寺の門前町・東大町(茅野市)を焼き払う挙に出た。下社方の一群の暴徒が大町大橋の橋桁に参集して、南風の強風に乗じて周囲の民家に火を放った。その上住民に暴行を加え一大略奪を行ない、手負い人も多くその惨禍は甚大であった。上社の経済基盤であった東大町の焼失は、領内の流通網の破断を伴うものであった。
 更に3月5日の酉の日に、前宮十軒廊で行われる、75頭の猪や鹿の肉の饗宴と神使の頭郷巡視の出発等を祝う「小坂御頭祭(おんとうさい)」の日、上社前宮の町場・西大町に参集した群集に攻めかかり多数を殺戮した。
 「御頭祭」は農作物の豊穣を祈って、神使が信濃国中を巡回に出立する際に行われたお祭りで、大御立座(おおみたてまし)神事ともいわれている。この重大な諏訪大社の祭事に、下社の神人達が、暴徒さながらに、またも甲府方面から吹き上げる南風に乗じて、町屋に放火し西大町を焼き尽くし全滅状態にした。その暴徒は、下社大祝金刺興春や当時下社領であった塩尻の者12人といわれている。当然、高遠継満が唆していた。
 高遠氏は実力がありながら、権謀に走り過ぎて、後世に重大な役割を果たしながら、王道を歩めず武田信玄の時代に、策謀が勝ち過ぎて疑われ没落した。 それはともかく、下社大祝金刺興春が主導した暴徒は、西大町の悉く焼け尽くし、無抵抗な良民を手当たり次第殺戮し、祭事に参加した社家、神職の衣装、太刀、馬具、甲冑を略奪した。
 下社の大祝・金刺興春は、高遠継満と盟約していた。諏訪家の文明15(1483)年正月8日の内訌を好機として3月19日、高島城(茶臼山城)を落城させ、さらに武津・桑原まで焼き払った。高鳥屋城(たかとやじょう;桑原城)に攻め込もうとした。神長官・守矢満実らは先の3月10日、敵の攻撃に備えて高鳥屋城に総領家一族と共に立て篭もっていた。
 桑原城を守る矢崎肥前守政継が逆襲に転じ、守矢満実の子の守矢継実政美は、矢崎千野有賀小坂福島等の一族と共に、神宮寺湯の上で攻めかかり、金刺氏一族他100余人を討ち取ると、その勝ちに乗じて下社に達し、3月21日、その社殿を焼き払い、興春を討取った。その首は諏訪市湖南にあった大熊城に2昼夜さらさた。
 文明16年(1484)12月6日、謀殺された政満の第2子・宮法師丸、後の頼満高鳥屋外城神殿(普門寺の御社宮司平;みしやぐじだいら)で精進潔斎を始め、28日には上社大祝となる。わずか5歳で、総領家と大祝家に2分されていた諏訪氏勢力が惣領に集中し一体化された。
 興春亡き後、諏訪下社大祝は、その子の盛昌、孫の昌春と代を重ね、上下社間の争闘は続くが、このころから下社方の勢力はさらに衰微する。
 諏訪頼満40歳の時である。下社を完全制圧し諏訪一円の支配に乗り出す。 永正15年(1518)、上社総領家・諏訪頼満は下社に侵攻する。金刺氏の本城は下社秋宮の後方の山城・桜城(下諏訪町湯田)と考えられているが、金刺昌春はその北方約1.5㎞の所にある詰城といわれる下社春宮の奥の山吹城(下諏訪町下ノ原)で防戦するが、忽ち破られ、最後は諏訪大社春宮の後方、萩倉の砦(下諏訪町東山田;下諏訪社中学校の裏手)に篭った。終に金刺氏はここに滅亡する。 こうして戦国時代に下社大祝金刺氏が滅び、社殿も相次いで焼亡して、一時全く荒廃した。 金刺氏の後継として支族の今井氏が入って武居祝(たけいはふり)と称することになり、以後、下社では大祝を名乗ることはない。近世に入って武居祝の童男(お・ぐな)をもって大祝としたが、これは名目的なものにすぎず、 上社が優位であるのは変わりはない。
 萩倉の砦を落とされた下社の大祝昌春は、甲斐の武田信虎を頼って落ち延びた。これが信虎に諏訪郡侵攻の口実を与えるところとなり、享禄元年(1528)信虎は下社金刺氏を押し立てて諏訪に侵攻する。このときは、諏訪氏がよく戦い武田軍を神戸で撃退し、逆に享禄四年には韮崎にまで進出している。武田氏の力を借りて下社再興を目論んだ昌春は、享禄四年(1531)に飯富兵部らが信虎に反乱を起した時に、戦死したと伝えられている。
 かくして、代々下社大祝職を継いできた金刺氏であったが、戦国時代末期に至って断絶となり、諏訪頼満は上原城の居館を拠点として、諏訪一円を支配し戦国体制を築く。一方困窮する農民も、この苦難を打開するため、村落共同体を強化し、惣郷惣村を形成した。惣村は小百姓をも含んだ郷村の自治的共同体である。惣郷は複数の惣村が郷単位で纏まる上位の共同体である。惣郷・惣村は村人の自立と自治による結合を強化し、諏訪地方の市(いち)や市町(いちまち)を育て、貨幣流通経済を発展させた。後世頼満は、諏訪家中興の英主と称えられ、甲斐を統一した武田信虎(武田信玄の父)と互角に戦う。
 こうして下社の御射山祭は一度衰微し、江戸時代、下社がある下諏訪の地が、中山道の宿場町として繁栄を極めると、元禄年間(1688~1704)に、標高1,600mの霧ケ峰西南部、八島の高地から、約4k南の下社に近く、神事に都合のよい、商人の町・下諏訪宿場町に御射山は移され、今日に至たる。

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