諏訪地方の縄文時代(中期)縄文文化の爛熟期
(5千年前~約4千前)
 尖石遺跡の人々は北方系が主体でしょう。
 北海道、東北地方から
 鹿を追いながら日本海沿岸を南下して
 あるいは関東から団栗や根菜類を
 食べながら


総論 縄文時代草創期 縄文時代期早期 縄文時代前期 縄文時代中期 縄文の民俗 縄文時代後期 縄文時代晩期 諏訪歴史散歩 車山高原リゾートイン・レアメモリー

総説 | 秘匿された石器加工技術 | 尖石遺跡でみる縄文中期 | 宮坂英弌先生、尖石遺跡発掘 | 宮坂英弌先生と与助尾根遺跡 | 八ヶ岳西南麓の縄文文化 |


総説  
 縄文文化の爛熟期で、中部地方までの東日本全体で、きわめて豊かな文化が発達する。東北地方では、前期に成立した土器様式が微妙な変化を遂げながら安定して存続、関東・中部地方では「羽状縄文系土器形式群(うじょうじょうもん)」が、新潟県では信濃川中流域に、あの“火炎型土器”の文化が花開く。
 縄文中期は日本列島全体でも縄文文化の発展期で、地域的な変差や遺跡数とその質、時間軸などで一様ではないが、中期の遺跡数が卓越する地域が多い。縄文時代における各地方の盛衰は考古学的証拠として、通常、人口の推移に伴う遺跡数の増減が重要な指標となる。従来から縄文時代の発展の核となるとみられてきた長野県茅野市から原村・富士見町に至る八ヶ岳西南麓東京湾岸の千葉県、東北地方の中央部にあたる宮城県の3地域の遺跡群こそが、縄文文化の主要な発信地といえる。その遺跡数がピークとなる時期は、八ヶ岳西南麓では中期、東京湾岸では後期、東北中央部では中期に僅かばかりの高揚期を迎えるが後期には退潮し、晩期に隆盛に向かうなど、それぞれ一時期ずつずれがある。それは各地域の縄文文化を発展させる原動力に大きな違いがあったためである。八ヶ岳西南麓では中期の遺跡数が248にたいして後期には52に激減する。既に縄文中期の終末期には、遺跡の数が直前の時期の半数近くになり、後期初頭の遺跡の殆どが、中期末の集落の後を引き継いでいる。それでも後期初頭に終末を迎える。八ヶ岳西南麓の縄文文化終末期に、東京湾岸では、、爆発的な発展を遂げる。それも後期中葉以降、遺跡数は著しく減衰する。下総台地の縁にあたる市川では後期中葉には20ヵ所あった貝塚が末葉には9ヵ所、晩期にはその内の2ヵ所と激減する。市川の砂州は縄文後期の貝塚文化の最盛期にはかなり広く形成されていたようだ。海水は江戸川付近から国分台の南の水路を通って谷伝いに深く侵入していた。それでも既に谷間に泥炭層が蓄積されほど、沼地や湿地が増え続けていた。後期末には貝塚文化の繁栄を支えていた海水は完全に後退し、市川の豊かな入江は古代人にはなす術がないアシやヨシに覆われる沼沢地へと変貌していた。この時期、市川の貝塚文化は消滅し、縄文晩期後半になると関東地方全般で貝塚文化は全滅状態となった。
 その盛衰は縄文文化を支える生業が基本的に食料採集にあり、自然との共生を大前提にする生活様式であった事に起因する。八ヶ岳西南麓は植物性食料に、関東地方の東京湾岸部は魚介類の沿岸漁労に、東北地方はサケ・マスを主とした河川漁労に、それぞれが依存する生業の成果に左右された。各地の縄文文化が特定の時期に高揚期を迎えるが、その時既に凋落の兆しがあり、その後急速に衰退する。「生業の片寄り」による宿命なのであろうか?
 全国の縄文遺跡数からの推計では、縄文人の人口は早期で約2万人、それから5千年後の中期には約26万人となる。その96%が東日本で、中心が関東と中部であった。西日本は1万人程度にすぎない。それが中期末から後期初頭の環境変動で約16万人に減る。「餓死の時代」だ。海面低下として現れる縄文時代の最寒冷期に直面する。寒冷化により東日本の落葉広葉樹文化圏を支えてきた堅果類の収穫が急減し、森の動物達にも打撃となり、食料難は深刻になるばかりで遂に西日本へ人口移動をもたらした。縄文後期、常緑広葉樹林=照葉樹林帯にある西日本の縄文文化に中部・関東の文化要素が入って来る。少なかった西日本の縄文遺跡が後期になると急増した。
 東日本の縄文前期前半、同後半、中期前半の各一時期ごとの集落を共にする住居は10~20軒とみられている。西日本の近畿・中国・四国の3地方では各々2~3軒程度にとどまっている。しかも遺跡数も少なく、各一時期ごとの3地方の住居祉を合わせても20軒前後と極めて少ない。それが中期後半になると77軒と急拡大する。東日本の中部と関東で人口が急減する後期後半には166軒と倍増する。そればかりか西日本になかった人形土偶が出現し、円形だった住居址も東日本のように多様化する。この中期末から後期初頭にかけて、瀬戸内以東の土器には、器面に縄文を施した後で、意図的に磨り消す文様・磨り消し縄文という施文技術が確立され、晩期へと継承されていく。それが突然、中九州に出現する。九州大学教授の田中良之は「在来集団の占地空間へ外来集団が侵入し、後者が前者を凌駕したという大規模な人の移動がある程度はおこなわれた可能性をしめす」と記している。

 岩木山を間近に望む青森県石神遺跡(いしがみ)に注目する。つがる市森田町森田月見野地籍で、岩木山北麓の狄ケ館(えぞがたて)溜池内の突出した台地上に所在し、縄文時代前期・中期に栄えた円筒(えんとう)土器文化の代表的遺跡で、各土器型式が層序的に出土した。また一部にヤマトシジミを主体とした貝塚も見られ、このことから十三湖が遺跡付近にまで進入し、付近が潟湖あるいは河口であったことが分かった。
 石神遺跡、この地は明治時代から多量の縄文時代晩期の土器が出土することで知られていた。昭和38(1963)年、遺跡地で土取り工事が始まると、晩期の遺物包含層の下から、莫大な量の前期・中期の土器が発見された。壊されていく遺跡から、懸命に遺物を採集、丹念な復元作業を続けたのは、佐藤時雄を中心とした数人の地元の研究者達であった。その土器は、現在、森田村の歴史民俗資料館に展示されている。総数300個体以上、国内でも最大級の一括資料である。
 石神遺跡出土の土器は、そのほとんど全てが前期初頭から中期前半の、型式学的には「円筒土器様式」に限定される。この名称は、非常に縦に長い、筒状の胴部を持つ器形に由来し、前期初頭に出現し、円筒下層式系土器型式群は東北地方北半から北海道西南部に亘り分布した。縄文中期にもその型式を引継ぎ、円筒上層式系土器型式群が、それ以降型式を変化させながら非常に長く続いた。中でも円筒下層の諸型式には、極めて多様な“縄文”が施され、縄文文化1万年の内のでも、最も“縄文土器”らしい土器であるといわれている。東北南部では大木式系土器型式群(だいぎ)が前期前半に出現し、縄文中期にもそのまま連続した。
 縄文前期前半、関東・中部地方で発達した「羽状縄文系土器形式群(うじょうじょうもん)」が、竹管文系土器型式群に変遷するが、前期後半期にまで踏襲され、その基本部分では中期から後期初頭まで継承される。複雑な装飾や口縁部の突起を排し、それに代って様々な撚りの縄文を土器の全面にていねいに施す。縄文芸術そのものとも言えるこうした技術は、縄文時代前期の人々の安定した縄文社会の発展を背景に完成されて行った。その一方で縄文中期には、諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡群の曽利遺跡から出土した水煙渦巻文深鉢のような立体的で豪壮な装飾を施す隆線文系土器型式群を発達させている。この時期、新潟県長岡市の火焔土器や関東東南部を中心に分布する阿玉台式土器形式群など、各地で独創的で過剰とまで思える装飾を施している。
 縄文施文に使われた「縄文原体」は、山内清男の詳細な観察でその撚り方、施文の仕方等で200種類以上のバラエティーがあることがわかっている。縄文前期初頭以降の円筒下層式土器にはそのほとんどが採用されていた。撚りをかけた細い繊維束、おそらく、晒してよく叩いたカラムシなどの植物繊維に、一度撚りを加えた無節縄文、単節縄文を撚り返す際に末端に小環を付けたループ文、2組の縄文原体を結合させた羽状縄文、1本の縄文原体に細い他の繊維束を絡ませた付加条(ふかじょう)縄文、さらに軸棒に撚糸を巻きつけた撚糸文(よりいともん)、その巻きつけ方にひと工夫した木目状撚糸文などがある。

 縄文中期、集落は規模を格段に拡大し、広場、祭祀の場としての立石・列石遺構の集石群、そして集落共同の作業場、集会所としての大形建物が出現する。富山県下新川郡朝日町の不動堂遺跡では、昭和48(1973)年の発掘調査で長径17m、短径8mの長円形住居跡が発見された。総床面積は115㎡で、直径、深さともに1mの柱穴が16個、整然と掘られていた。大型竪穴住居跡が最初に出土した遺跡であった。しかも太い柱で何部屋かの居住空間が仕切られ、それぞれに炉を備えていた。核家族がいくつか集まって過ごす住居かと思われた。その後、日本海側を中心に東北地方から北陸にかけて相次ぎ出土した。 秋田県大仙市協和の上ノ山遺跡では、中央に広場があり、その周りを超大型住居が環状に多数並ぶという典型的な拠点的集落の構造であった。出土当時は特異な構造をもつ集落遺跡と論評された。炉は地床炉である。普通の竪穴住居群から少し離れて、隅丸長方形の大形建物跡が30数棟、切りあいながら密集している。それで、それまで各地で出土した大形建物は、日本海側の豪雪地であったため、雪国の越冬対策の共同の住居であり作業場と考えられた。雪に閉ざされる雪国では、越冬対策として家族ごとに住むより、大きな住居を構え、その大きな天井裏に越冬食料を貯めるて過ごす、雪深い東北地方の生活の知恵に根ざす施設と考えられた。その分布は日本海沿いの新潟、富山、さらに近年では中部と関東地方の北部にまで及ぶことがわかってきた。
 慶応義塾大学の鈴木公雄名誉教授は「これはなかなか面白い考え方だったのですが、考古学の怖いところは、そういう住居が豪雪地帯ではないところからも続々出てきてしまいました。そこで、この説はまずいということになる。日本海側に多いことは事実なのですが、同じような住居は神奈川県や栃木県でもみつかっているので、それだけではないだとということになりました。」と平易に記している。

秘匿された石器加工技術
 彫刻刀の丸ノミに似た弧状の内側が窪む磨製石斧は、丸ノミ形石斧と呼ばれている。胴部は石塊を丹念に打ち欠く敲打により円筒形に作られている。頑丈で重量感がありながら丁寧に全面が研磨されている。
 丸ノミ形石斧は鹿児島県加世田市栫ノ原遺跡(かこいのはら)で縄文草創期の1万2年前の層から頁岩(けつがん)、長さ約15.7cm、幅約4.2㎝、厚さ3.6cm、重さ381gのものが出土し、以後、縄文早期の地層からも発見されている。丸ノミ形石斧は、これまで沖縄県・鹿児島県・宮崎県・長崎県・高知県などから出土している。そのルーツは東南アジアにあり黒潮ルートに乗り広がったという説もあるが、東南アジアでは未だ栫ノ原遺跡の出土例を遡る事はない。丸ノミ状の刃部をもつ磨製石斧は、ヨーロッパ、シベリア、東南アジア、オセアニア、北アメリカなど世界各地で発見されているが、年代が新しく、東南アジアでは約5千年前のものがせいぜいである。その石斧は、その200gを超える重量と形状から木を削る「ちょうな」のように使われた事は明らかだ。実用的で簡素な形状であれば木工具として普遍的に生まれる素地はある。この種の石斧は11遺跡で総数15点が確認され、その分布は南は沖縄本島から北は長崎県五島列島におよび、中心地域は奄美大島から鹿児島本土南部とみられている。
 その重量が重要で伐採後の大木をくり抜く意図があるとすれば、丸木舟製造のための丸太を丹念にくり抜く作業に適している。この石斧と同系統の円筒型の磨製石斧が、黒潮の流れに沿うように北上し四万十川上流の高知県大正町の木屋ヶ内遺跡、和歌山県紀ノ川中流域和泉山麓の不動寺谷遺跡、東京都八丈島三根地区供養橋の南側支丘の供養橋遺跡で出土している。

 ナウマンゾウで有名な野尻湖の長野県信濃町水穴の日向林B遺跡(ひなたばやし)から、約3万年前より更に遡る旧石器時代の局部磨製石斧が51点も出土した。木・骨の加工具とみられる。縄文時代になると研磨技術が各方面に多用され、骨・角・牙・木などの素材でも行われ、石材では敲打で細部の形を整え最後に砥石で研磨した。大きな木製品は、磨石・軽石をサンドペーパーのように使い仕上げられた。
 自給自足の域をこえた石器生産遺跡が明らかに各地で登場している。縄文中期の神奈川県足柄上郡山北町の尾崎遺跡乳棒状磨製石斧、富山県朝日町の境A遺跡定角式磨製石斧、縄文後期の岐阜県宮川村塩屋の金精神社遺跡(きんせいじんじゃ)の石棒など結構多い。
 打製石斧は土掘り具が多くを占め、大型の磨製石斧は鉞のようにして木を切断したり、手斧として木を削った。小型の磨製石斧は細部の加工やクサビやタガネとして用いられた。
 昭和40(1965)年、秋田県雄勝郡東成瀬村田子内の上掵遺跡(うわはば)で発見された大形磨製石斧4本は、最大のもの長さは60.2㎝、10cm、重さ4.4 kg、決して実用とは思えない大きさである。最上川の支流成瀬川に面した段丘上で出土した。良質な緑色凝灰岩製で、いずれも縄文時代前期に特徴的な技法である擦切技法によってきわめて丁寧に磨き上げられており光沢がある。
 縄文前期に、北海道から中部・北陸地方までの広い範囲に、この技法で作られた磨製石斧が分布するが、長さ40cm以上の大形品は希にしかなく、いずれも実用を超えた宝器的性格が強いと考えられている。上掵遺跡の石斧は、偶然の発見のため必ずしも出土状態がはっきりしないが、4本が一括して土坑に埋納されていたらしく、刃部には使用痕がなかった。
 大形の石斧を特殊な用途に使用する例は、韓国の新石器時代の、墳墓の副葬品にみられる。慶州に近い蔚珍郡の厚浦里遺跡では副葬品として円い穴に人骨に重なって長さ20~50㎝の石斧130点がみつかっている。この遺跡から出土した磨製石斧で最大のものは54cmもあったが、上掵遺跡出土のものはそれよりさらに大きいことになる。石斧は北海道函館市内出土の長さ51.5cmの擦り切り途中の原石、岩手県岩手郡玉山村日戸村の日戸遺跡出土の長さ47.5cmの完成品などがある。新潟県小千谷市の三仏生遺跡(さんぶしょういせき)では縄文後期の双刃石斧、長さ23.2㎝が出土している。これは、柄を付けない祭りの斧ではないか。
 初めは専ら実用的な目的で作られた石器類も、やがて利器の持つ鋭利な“力”そのものが象徴化し、実用以外の用途に使われ、ある時には共同体の祭祀の場で、またある時にはムラの有力者の墓への副葬品として、“第2の道具”としての機能を併せ持つようになった。

 山北町の尾崎遺跡は酒匂川上流の小さな段丘上にあり、縄文中期の集落遺跡で磨製石斧が400点以上みつかっている。仕掛品と途中で破損した欠損品やその製作工具としての石器が多数出土した。良質な凝灰岩を産出する石材原産地に立地する石斧生産地集落であった。有効な石斧石材を産出しない遠隔地との交易品として主に製作していた。石斧はいずれも乳棒状磨製石斧で遺跡下の川辺で容易に採取できる良質な凝灰岩を石材とした。調整剥離や敲打加工で使われるハンマーには、同じ凝灰岩でも硬質化したものを石材に選び、それは拳大の球形や分厚い楕円形の石器工具であった。研磨も破損した石斧や欠損品、調整剥離過程で生じた石礫などを砥石にした。

 近年調査された山形県東置賜郡高畠町安久津の一ノ沢遺跡(いちのさわ)では、全長46mの長大な竪穴式建物が発見され、その内部で、かなり専業的に石器製作をおこなっていたことが判明した。興味深いのは、その竪穴で作られた石器が、他集落との交易品と思われるほど多量で、ふつうあまり出土しない両尖匕首(りょうせんあいくち)を主とすること、石器作りの際に出る莫大な量の剥片・砕片を、決して竪穴の中から出さず、そのまま建物の内部にのこしていることなどである。
 山形県米沢市矢来の河岸段丘上にある一ノ坂遺跡は、山形県南部の米沢盆地にある。平成元年、宅地造成がされることから、工事の前に緊急の発掘調査をした。楕円形を引きのばした形の巨大な建物跡が発見された。その大きさは、長さ43.5m、幅4m程と、当時は日本で最も長い竪穴住居跡で、床面の中から出できた縄文土器によって、約6千年前、縄文前期の集落遺跡であったことがわかった。その住居跡は20cmほど掘り下げられ、床には炉跡が6ヵ所あり、壁にそって内側に向いた柱の穴が規則正しく並んでいた。住居内には土器もあったが、両尖匕首・石槍・石鏃・石匙・石銛の4種を主にする石器類や、仕掛中の石器、その際に出る剥片と炭化したクルミが大量に伴出した。剥片まで数え、最終調査まで含めれば200万点に達する膨大な遺物であった。石器の製作を行った工房・作業場と考えられた。その後平成2年から6年の間、米沢市教育委員会は実態解明のため発掘調査を重ね、ほぼその全容を把握した。東側に8棟の竪穴住居群が連接する連房式竪穴住居とボーリング調査により推定される長さ約50mの大型竪穴住居が配され、全体は馬蹄形集落を構成する。
 一ノ坂遺跡製作の石器は、東北南部・関東・中部各地の遺跡に分布していた。また最初に発見された巨大竪穴住居は石器工房であることは、ほぼ間違いが無いとみられ、その後に発掘された連房式竪穴住居は石器製作に従事する職人用の宿泊設備であったとみられている。工房に散布された炭化クルミは、大量に生じる剥片や石屑を覆い隠す手段として利用されたようだ。

 三内丸山遺跡は約5,500年前~4,000年前の主に縄文中期を中心とする集落跡で、大型掘立柱建物遺構とみられる柱穴が径約2m、深さ約2m、間隔が4.2mという状態で発掘され、中に直径約1mのクリの木柱が遺存していた。この太い木柱を使う技術は、三内丸山だけが突出しているのではなく、各地に遺存し、その建築技術は既に高度化され伝承し、弥生時代と比べても遜色がない水準に達していた。決定的な差は工具に使う鉄や青銅が用いられなかった点と考えられるが、縄文人の石器の切れ味はもとより鑿のように穿つ能力も相当なもので、建材を加工する技術は大型建造物を各地で建造できるほどの水準に達し東日本に伝播していた。
 三内丸山遺跡は南北2列に埋葬遺跡の土坑が並び、その後の調査で土坑配列が東側に約42mに伸びていた。その整然と並ぶ列の間に、道路が整備されている。その道路領域は帯状に浅く堀り窪められ踏み固められたように硬化していた。集落の西側から南へ延びる約420mの道路はなだらかな斜面を削って平面とし、5m~14mの幅で掘削し、軟弱な場所には地山から掘り出した黄褐色のロームのブロックを貼り付け舗装していた。そのブロック面を掘って円筒上層c式期の埋設土器が出土しているので、縄文中期前葉以前から既に道路はあったようだ。道路の整備は墓が増設されるに従い延長され修繕された。最近の調査では、南北に延びる道路も見つかっている。この道路の新設整備とロームブロックの掘り出し、貼り付け作業に際しても何種類かの打製石斧が使われていたであろう。

尖石遺跡でみる縄文中期
八ヶ岳西麓、眼下は茅野市北山湯川 「信州教育」と全国から称賛さた伝統が明治時代に育まれてた。当時の学校教育者には「研究者としての楽しみが分からないものが、子供たちを勉強好きにできるはずがない」という真摯な意気があり、実際、信州の教師たちは、哲学・文学ほか各種の学術書を全国で一番よく購入していた。
 戦前の信州教育の特徴は、自主的な実践教育を積極的に行っていたことにある。小・中学校の歴史教育の場で「郷土に関する史談」など郷土史を重視し、「古代の土器および石器」を教材としていた。当時は殆どが「古事記」や「日本書紀」の記述を、そのまま鵜呑みにし、神国日本を教育の基本方針として強圧的に教え込んでいた。
 茅野市の市域は総面積265.88k㎡を有し、長野県内でも全国的にも最大級に属する。そのうち約4分の3は森林である。八ヶ岳火山列は富士山に次ぐ広大な裾野をもち、茅野市はその西麓の北半分を占める。諏訪湖盆地の平坦部の南部標高770mから1,200mにわたるゆるやかな裾野には多くの集落、耕地が展開している。 東は八ヶ岳連峰の主峰赤岳から蓼科山と高峻な山稜が境をなし、南佐久郡、佐久市に接し、北は車山が霧ヶ峰連峰の主峰となち大河原峠、蓼科山、大門峠などと北佐久郡、小県郡に接し、西は車山の溶岩流域の霧ヶ峰高原がなだらかな山塊となり、西から南にかけては赤石山脈の北端にある守屋山塊が、諏訪大社上社の御神体として諏訪湖盆地を見守っている。南は富士見町・原から山梨に通じ、、西南部は杖突峠や有賀峠によって伊那市に至る。
 八ヶ岳西南麓に展開する広大な裾野は、横岳・硫黄岳・天狗岳を水源にする柳川の渓谷により南北に分断されている。その北側は北八ヶ岳の火山活動により形成された山麓斜面の中腹部から末端部にあたり、古くから北山浦と呼ばれ、北山・湖東・豊平などの集落があり、平安時代中期、『延喜式(律令の施行細則)』四十八によれば、甲斐国3牧、武蔵国4牧、信濃国16牧、上野国9牧、合計32の御牧の制度を設けた御牧は勅旨牧(てしのまき)ともいわれ、左・右馬寮の直轄にあり、形式的には天皇の御牧があった。この北山浦の一画に信濃16牧の一つ大塩牧(山鹿牧)が置かれてた。
 尖石遺跡辺りは、標高が1,070mで、角名川と鳴岩川に挟まれた八ヶ岳西麓で広見原(ひろみはら)と呼ばれた。ここから幾筋もの渓流と湧水の侵食により台地が複雑に分岐し、八ヶ岳を起点とする放射線状の必縦谷(ひつじゅうこく)を抉り、その間に縦に長いカマボコ状の台地を多数を形成している。尖石の台地もその一部で平坦で遺跡付近では南北の幅や約200m、東西の長さ300mあり、その遺跡面積は42,303㎡ある。遺跡の南側に湧水地が多く、その侵食作用より湾曲している。その南側との比高は14mあり、棚田が西方向へと続きいて3.8kmと延び、点々と神立林(かんたちばやし)・中原(なかつぱら)・立石・権現林・経塚などの小規模遺跡な遺跡が点在し、やがて上川沖積地に達する。
 地元湖東上菅沢の旧家の出身で東京高等師範の学生だった小平小平治が明治24(1891)年、学会誌に、茅野市内の複数の古墳から出土した遺物を図入りで発表したのが、尖石遺跡が公表された始まりで、その後の日清戦争を目前に控えた明治25年の開墾で大量に遺物が出土した。明治27(1894)年、小平小平治が『東京人類学会雑誌』に「長野県北佐久郡古墳及諏訪郡石器時代遺物」を発表、その存在が世に知られた。小平は東京高等師範学校を卒業し、長野師範学校の教師となり考古資料の収集家と知られていたが、若年にして没した。
 岡谷市出身の八幡一郎は諏訪中学校の生徒のときの大正8(1919)年、僅か17歳で諏訪教育委員会による『諏訪史第一巻』の調査や執筆にあたっていた。そして国学院大学、上智大学の教授、中国の燕京(えんきょう)大学客座教授も歴任し、大正時代の日本の考古学界の泰斗・鳥居龍蔵に協力をして、大正11(1922)年、八幡一郎や編纂委員達と尖石を実地調査した。八幡は未開墾地であった地番125を初めて発掘したが遺物は出土しなかった。八幡は当時、東京帝国大学人類学教室の助手であった。
 同じ大正11(1922)年に、地元南大塩の研究者宮坂春三が、未開墾の自分の管理地の原野を発掘した。ほぼ完形に近い土偶と炉址(ろし)を出土させた。土偶は小石を径約50㎝の円形で囲った中に遺存していた。それで俄然、注目されるようになった。この土偶について八幡は『諏訪史』第一卷で「此の土偶は図に示す如く女性なる可く乳房と陰部とを突起させてある。左右正しき均斉体で内容は充実している。」「さらに頭部背面の複雑な立体的紋様は結髪を示すものであり、顔面には下瞼から外側に向かって二条の並列刻線が頬の上にほどこされていることは黥(いれずみ)をあらわしたものであろう。手は短く写実を離れたもので、刻線三条により指をあらわし、乳房は比較的小さく、足はなく、張った腰の部分が台の役目となっている。背丈は15cm、底面は楕円形を呈している。」「上半身はきわめて扁平なつくりであるが、下底の腰部に近づくにしたがって、いちじるしく殿部を張らせる傾向がある。土偶の裏面脛部に孔がつらぬかれ、紐を通して上方につるせば平均のとれた状態に静止するようにできている。」と解説している。
 この『諏訪史』第一卷で、尖石遺跡が諏訪郡内主要遺跡12ヵ所の中に入れられると、地元の研究者により表面採集や小発掘が盛んになった。
 八幡は大正13(1924)年『下伊那の先史及原史時代』、大正15(1926)年『先史及原史時代の上伊那』を完成させた。やがて東京大学人類学教室に籍を置きながら、自らの手で、昭和3(1928)年『南佐久那の考古学的調査』、昭和9(1934)年『北佐久郡の考古学的調査』を発表した。一地方の考古学的資料を総合的に研究し地域史編纂のなかで地域の特性に基づき復元した。

  古事記や日本書紀を中心におく不条理な教育現場で、信州の教育者は自然や実物を教材として粛々と良心的に実証的な教育を実践していた。その頃、第二次世界大戦に闇雲に狂奔する世相で、学問や研究が国家統制される中、思想や学問の自由が奪われた日本考古学は個別的実証主義的研究に逃れた。まさに土器を中心にした骨董趣味的な研究であった。それ以上真実の探求をする事を恐れていた。しかし日本考古学を支配する政治的な思惑に拘らず、ひたすら地道に宮坂英弌先生(ふさかず)は、尖石遺跡の発掘を重ね考古学的史料に基づく考古学の正道を歩んでいった。
 宮坂先生は明治20(1887)年に現在の茅野市豊平南大塩に生まれ、旧制諏訪中学(現在の諏訪清陵高校)を卒業、上京して苦学と転職の間、大正9(1920)年に、33才で結婚。夫人は茨城県水戸に近い農家に生まれ、水戸の女子師範学校を卒業した。翌10年に帰郷し、夫人は隣村の湖東小学校へ教員として勤務、宮坂氏も、翌11(1922)年に郷里の泉野小学校の代用教員となった。
 宮坂先生は鳥居博士の『諏訪史第一巻』の編纂の際、地元の教師として尖石遺跡の調査を手伝い考古学にのめり、昭和4年に伏見宮博英が考古学の調査に来られた際に、宮坂先生は案内役と発掘の手伝いを依頼された。42歳の時であった。伏見宮は諏訪郡内の遺跡を巡回調査し、尖石遺跡で発掘調査がなされた。発掘は豊平村長宮坂亀弥・諏訪史談会・南大塩区民が参加し、完形に近い土器が数点出土した。宮坂氏はこの調査で、地中から出土した縄文時代の土器や石器に驚異の目をみはり、土の中に文化が眠っていると感動し、考古学に興味を持った。村人の小平幸衛氏も出土した土器に魅せられ、以後最後まで宮坂先生と尖石遺跡の発掘を共にした。
 
 昭和5(1930)年以降、ほとんど独力で教職の合間に10余年の歳月を掛け53ヵ所の炉址を含む86軒の竪穴住居群を発掘し、我が国で初めて縄文集落の全容を解明した。
 宮坂先生の著書、昭和32(1957)年茅野町教育委員会の『尖石』に東京芸術大学教授などを歴任した藤田亮策が序文を寄せている。『宮坂英弌氏とこれを助けた村と学校との献身的な倦まざる調査と研究とが、遂に日本におけるこの種の遺跡の最初の特別史跡に選ばれたことは、さらに驚嘆すべき事実といってよい。恵まれた環境にある大学や研究室の学者が、それ相当の仕事をするのは当然と思うが、独力単身の奮闘と山村人の心からなる援助だけで、大学教授をも凌ぐ業績を成就したことこそ特筆しなければならなぬ』と地域に根差した研究者が粘り強い調査と研究により独創的で画期的な成果を遂げ、学界全体をも凌ぐ業績を挙げたことを賛辞した。
 尖石遺跡は現代では、その規模と内容ともに、縄文時代を代表する遺跡ではないが、宮坂英弌・相沢忠洋各氏は緻密で根気強い実証的調査を基本に、伝統的権威と通説を果敢に打破してみせ、当時としては衝撃的であった。それには中央の権威者の中からも少なからず支援する真摯な研究者がいた事も知って欲しい。
 尖石遺跡は、茅野市豊平南大塩区民の私有陸田内で、八ヶ岳西麓のほぼ中央の、標高1,070mの台地にあって、約5,000年前の縄文中期の代表的な遺跡であった。この山麓は、広さ8km四方で、標高1,200mから900mにかけて、八ヶ岳の広く緩やかな裾野を展開していて、古代より北山浦地方と呼ばれていた。この地方は、石器時代遺跡が極めて濃厚に分布して、全領域が一大遺跡といっても、過言で無いほど土器の破片や石器が散らばっている。特に黒曜石製石鏃は、どこを掘っても出土するとまで言われている。
 南大塩台地の南斜面に「尖石(とがりいし)さま」と呼ばれる三角錐状の安山岩の巨石があって、遺跡の名前はこれに由来する。その巨石が露頭する部分は高さ1.2m 、底径1mで、先端が鋭くとがっている。それで尖石という地名がついたそうだ。先端の東肩に縄文時代に石斧を研いだ研磨痕があり、船底状の凹がある。かつて尖石遺跡周辺は南大塩区有の採草地で原野であった。明治27(1894)年ころ、明治政府は養蚕業を盛んに奨励し、同時に桑園の開墾も勧めた。「尖石」も当時開墾されたが、土器のかけらが地中に散乱して、作業が捗らず、畑の畦にいくつも積み上げたり、堀に畚(もっこ)で運んで捨てたりで、大変難渋したらしい。それが学会の知ることになった。


宮坂英弌先生、尖石遺跡発掘
 昭和4(1929)年7月24日、炎暑の中、伏見宮博英王(ひろひでおう)が諏訪郡内の遺跡の巡回調査を希望され、最後に尖石遺跡で発掘調査をされることになった。博英王は伏見宮博恭王(ひろやすおう)の4男として生まれ、それまでは伏見宮博英王を名乗っていたが、昭和11(1936)年4月1日、自ら希望して臣籍降下して伏見博英伯爵(ふしみひろひで)となった。伏見伯は多趣味の人で、特にハンターとして狩猟を好んだ。
 宮坂英弌先生は、隣村の泉野小学校の教師であったが、発掘手伝いの依頼を受け、前日から尖石遺跡で調査をし、当日は堂自久保堰(どうじくぼせき)の近くに案内をした。殿下は移植鏝(ごて)や竹箆を手に、土中深く掘り、土器・石斧・石鏃などを出土された。その時殿下は、黒土の中から炭屑を見つけ、古代人の住居址と申された。予定の時間が来て、この時、完掘は出来なかったが、これが尖石遺跡の住居址発掘の嚆矢となった。
 伏見博英伯爵は、昭和18(1943)年7月 第3連合通信隊司令部付で海軍大尉としてインドネシア、ジャワ島北東岸の港湾都市スラバヤに赴任、 同年年8月21日、作戦要務で飛行、アンボン島からセレベス島ケンダリー経由でスラバヤへの帰途、セレベス島南部ボネ湾上空で、乗機がアメリカ軍爆撃機2機と遭遇、攻撃され墜落し重傷を負った。同月26日、戦傷死された。この大戦初の皇族出身の戦死者となった。戦死後、少佐に特進。
 宮坂先生は殿下の発掘の手伝いにより、考古学に非常に心惹かれ、以来、昭和4(1929)年から昭和17(1942)年まで、学校勤務の余暇のすべてをかけて、遊び盛りの4人兄弟の子供達に手伝わせながら、ほとんど独力で発掘を続けた。昭和5年6月、宮坂先生が2960番のかつての桑畑で株を掘り起こしている作業中に、やたらに土器片が出土し、更に深く掘り下げ地表から1mあたりで赤土が焼けている場所を発見した。そこで周辺を発掘調査し 、同様な炉跡9ヵ所と把手など土器片数点と石器類が多数出土した。さらに掘り下げていれば竪穴住居祉の発見となっていたであろう。当時における考古学研究では、竪穴住居の存在すら一般的ではなかった。同年の夏、宮坂先生と小平幸衛氏が林道とその北側に沿う堂自久保堰(どうじぼくぼせぎ)の両側を調査した。この堰はは尖石遺跡の東縁を南北に沿うように流れる横堰から分水する引堰で、長年月の流水で掘り下げられ両側は赤土層の壁になっていた。その赤土の壁に、黒土が深く入り込んでいる所が縄文時代の住居祉である。堰の両側170mにわたって22ヵ所の床を浅く掘り込んだだけの地床炉と、その周りを石で囲う石囲炉が発掘された。また尖石台地の南斜面の巨石「尖石」から西約10mあたりで顔面把手が出土した。
 昭和8年8月、林道の改修工事に先立ち、その北側の芝生地を発掘調査した。完形の蛇体把手付深鉢環状把手付筒形土器の2点が出土した。前者は縄文中期前半、器高は26㎝、最大幅20.5cmで、厚手にして底辺部から口縁へ、優美な曲線を描いて広がるシンプルな造形である。これらが現在、尖石考古館所蔵の土器のなかでも一番古いとされている。石囲炉址にその土器が直立して置かれていた。また炭化したクリやドングリの実が共伴した。9月にも、台地の南斜面の畑2903番地から8ヵ所の石囲炉址と崖際に露出する石囲炉址も発見された。
 昭和10年、与助尾根遺跡がある場所が開墾され、大形の石囲炉と多量の遺物が出土した。翌年7月、2903番地の畑に接する農道で、大小2個の石囲炉が6m離れて出土し、10月に東伏見氏がその東側を発掘し、初めて住居址1軒を出土させた。これまでは石囲炉と共伴する遺物の発掘が主で、試掘的調査程度にとどまっていたが、それでも次第に遺物や遺構の分布状態が明らかになると、遺跡の全貌が推測されるようになった。
 昭和14年、宮坂先生は豊平小学校の西方にある豊平塩之目小字日向の日向上遺跡(ひなたうえ)において、八ヶ岳山麓では初めての縄文中期の竪穴住居祉の完堀に成功した。この遺跡は『諏訪史』第一巻にも記録され古くから知られていた。昭和13年、常態化する繭価低落対策として桑畑の株が掘り抜かれ野菜畑に変えられていった。この時、多量の土器と石器が出土し、宮坂先生も興味をもたれ、この年の10月から12月までの休日を使って7ヵ所を発掘調査した。土器の殆どは縄文中期末葉の曽利式で、ただ1片だけが中期初頭に属していた。石器は打製石斧・磨製石斧・石皿・凹石・石鏃・石匙などが出土した。翌昭和14年3月、凍土が溶けると、台地の中央を通る道路の南側の畑地を発掘調査した。地表下約1mの赤土層で土器と石囲炉を発見した。宮坂先生は尖石遺跡で石囲炉は少なからず発掘してきたが、住居址の全容までは解明していなかった。この機会に住居址の完堀を決断し、単独では無理なので地元の郷土史の萩原長衛と萩原好人に相談をした。早速、村人が日向上遺跡保存研究会を組織し協力することになった。一方、東京帝国大学人類学教室の八幡一郎にも報告をすると、同僚の酒詰仲男と共に参加指導にあたった。
 
 4月29日、30日の両日、桜が満開の好天下、先に発見した石囲炉を中心に幅2mのトレンチを十文字に設定した。住居址の硬い床面は直ぐに確認された。ただ赤土層への掘込みが浅く周壁をうまくたどれなかった。柱穴によって径約4mの隅丸方形を呈すると知られた。柱穴は4主柱址で、その中間に支柱址がみられる。柱穴の外側60㎝に周溝が全周していた。側壁は東側で20㎝の高さで囲まれているが、西側は他の住居址と重複し判然としない。炉祉は石囲炉で、長軸100㎝、短軸70㎝で扁平な河原石7個で囲んでいた。床面には黒曜石の大塊が25個が1ヵ所に積み上げられていた。長野県では初めての4,000年以前に遡る縄文中期の住居址の完掘であった。日向上遺跡から出土した土器は縄文中期中葉の井戸尻式から末葉の曽利式にまで至る。
   その成果から尖石遺跡の集落研究を目的とする発掘計画が立てられ、翌15年から3ヵ年にわたる発掘調査がなされた。宮坂先生は矢島正人氏所有の2901・2905番の2枚の畑を借り受けた。この2枚の畑の中間にある畑で、昭和8年、石囲炉が8ヵ所発見されている。巨石「尖石」から東北10mの東西に通じる農道の南に沿う畑で、水田の谷を臨む台地の南斜面である。発掘作業は、4月16日から11月18日までの日曜・祝祭日・農繁期休暇や夏休みを利用して、延べ38日間に亘る住居址の発掘であった。

 6月16日、尖石遺跡で東京考古学会第十七回例会が開催された。後藤守一・杉原荘介・和島誠一など東京の大学教授や研究者、地元の藤森栄一・細川隼人・矢島数由・小平雪人(こだいら せつじん)などの郷土史家や研究者も参加した。明治大学教授後藤守一は「この遺跡で日本石器時代集落につき最初の研究を徹底させたい」と述べている。過去の発掘実績から比較し、当時では画期的な成果をあげ、その後の調査も学界から期待されていた。この日の行事に宮坂先生が勤務する泉野小学校の職員・児童も参加しており、その日の発掘に協力をしている。7月24日から始まる夏休み期間の発掘には、掘り出した住居址の土を運搬するため、南大塩区から工事用のトラックとレールを借りて敷設した。11月、大山史前学研究所が発掘に参加した。所長は公爵大山 柏(おおやま かしわ)で明治の元老・陸軍大将大山巌の次男である。明治41年(1908)4月、長男の高(たかし)が海軍少尉候補生として遠洋航海中の台湾で、乗艦していた巡洋艦松島の爆発事故により死亡、柏が家督を相続することとなった。ベルリン大学に留学し史前学を学び考古学の知見を深めた。帰国後、自邸内に私財を投じ「史前研究会(後に大山史前学研究所)」を設立、日本の遺跡発掘に最新のドイツの系統だった手法を導入、日本の新石器時代を中心とした学術雑誌「史前学雑誌」を刊行するとともに100ヵ所以上の縄文時代の遺跡を調査し、その成果を次々に学界に発表した。大山史前学研究所が推奨したためか、これ以降、住居址の実測は矢島数由が担当する。

 昭和16年3月8日には、東大文学部長・今井登志喜教授の尽力により、中央公論社国民学術協会から研究助成金として金千円の交付を受け、旧友・友橋己喜之助からも調査費を補助された。
 昭和16年1月6日、宮坂先生と小平幸衛氏は、飽くなき執念で第2次発掘を開始した。宮坂栄次郎氏所有の桑畑2963と2964番の2枚の畑を借りて調査をした。最初は桑株を掘起し試掘溝を東西に何ヵ所も掘り進んだ。17号から20号まで4軒の住居址が発掘されたが、これら以外にも黒土が深い場所が多数発見されたが、本格的調査は翌年にまわした。なお18号住居址は遺跡の西端から6月に出土したが、埋甕炉(うめがめろ)と共に、中部地方の縄文時代が隆盛を迎えた中期の狢沢(むじなさわ)・新道式(あらみちしき)土器が共伴した。18号は縄文中期中葉の初期と他の住居址よりも古く遡る。
 大甕形土器が赤土深く逆さまに埋められていた。その後多数出土する、この「埋甕」遺構にかんしては、幼児が死亡したときの埋葬形式であり、または子の誕生の際、後産の胞衣(えな)を収納して埋め、その健やかな成長を祈念する儀式があったと考えられている。埋甕は住居址の入口部の床面に埋められる。その土器棺は底部を欠くか、穿孔したものが多い。19号では底部を欠いたものが逆さに、20号では直立に埋められていた。他には蓋石をした合蓋棺(あわせぶたかん)もあったが多くは土器棺一個の単棺であった。中には人骨のみがあり、東北地方北部で後期に成人の土器棺が盛んになるが、本州の習俗としては胎児や一歳くらいまでの新生児や乳児の埋葬形式である。
 6月1日、住居址内から垂飾石・磨製石斧・石鏃が出土、7日、炉址の床に火壷の土器を発見、23日、1辺80cmの方形、深さ60cmの大炉址を初めて発掘した。炉縁に花崗岩塊5個があり、花崗岩塊は土器の混和材として焼成に必要なため、よく住居址から発見されるため、その関連が推測されている。7月6日、平面径6mを超える方形の大住居址を完掘り、尖石最大規模である。また大型黒曜石製石槍、長さ18cmの端麗な磨製の大石斧と凹石(くぼみいし)も発見された。この日最後に、底を欠く口径27㎝、高さ35cmの雄大な渦巻文の埋甕が出土した。7月15日、同行した小平幸衛氏が、遂に、完形土製滑車状耳飾り1個を歓声と共に掘り出す。横形石匙と勝坂式の特徴をしめす豪華な立体的把手の分厚い大破片もその日の成果であった。
 土製耳飾りは中部地方東半と関東地方で、縄文後期末から晩期に爆発的に製作される。その多くが滑車状耳飾りだ。中心孔が大きい環状タイプで、その孔内に装飾的なブリッジが施されている。東京都調布市下布田遺跡(しもふだ)出土の土製滑車状耳飾りは、肉彫状の花弁様文で全面を装飾し、中央のブリッジは周囲の花弁を繋ぐ透かし彫りで、その全体の意匠と製作技術はまさに優品と称えられる。尖石遺跡や井戸尻遺跡の土製滑車状耳飾りは、到底そのレベルに達しない素朴な意匠であるが、両遺跡からの多数の出土品により縄文中期、既に八ヶ岳西南麓では、日常的装身具として、意匠に拘り創作し愛用するゆとりがあったようだ。
 10月17日、神嘗祭の休日、住居址の埋没個所を発見。それがその年の最後の作業となった。翌年3月まで、八ヶ岳山麓の長く厳しい冬が続く。発掘日の殆どが日曜日で、そうでなければ休日である。この年の暮れ、昭和16年12月8日、日本は真珠湾を急襲した。
 昭和17年の第3次発掘は、数ヵ所の住居址の発掘で始まった。住居止は21号から32号の12軒で尖石台地の南斜面から出土した。それで住居址は台地の南・北・西側と3地区で群在し、縄文中期の全期間に亘って、ある時期に少なくとも3回に亘って住居地区が移動していること、住居区域外の空地で発掘された竪穴群・列石群・独立埋甕土器が集中して出土した地域が、尖石遺跡東部の台地平坦部にあり、それが集落の広場であり、祭祀・儀礼のための社会的な場としての遺構群と認識された。28号住居址では中央部で、底部を欠いた土器が床面と平らに埋められていた。その南に僅か離れて小土器が同様に埋められ、それぞれ土器の両側に石が敷かれてあった。集落の中央広場における独立土器の出土を最後に、昭和4年以来から執拗に続く多年に亘る宮坂先生の発掘作業はひとまず終了した。
 尖石遺跡では32軒の竪穴住居と53ヵ所の炉祉、それと伴出した小竪穴群・列石群・独立埋甕土器など、宮坂先生と小平幸衛氏が職業的研究者ではなく、文字通り個人的な思いで、日本で最初にして緻密で本格的な縄文集落遺構のほぼ全容に近い発掘調査を成し遂げた。縄文集落論が当然のように語られる原点となった尖石遺跡であるが、戦前では大規模集落の発掘実績が皆無であるのに比し、しかも個人レベルで長期間教職の合間に大規模な発掘調査を完遂した。調査後は直ちに埋没し元の畑地に戻された。この間の豊平村民の理解があればこその宮坂先生の偉業であった。
 宮坂先生の戦前の発掘は、考古学という学問が日本の社会では、まだ十分に認識されない頃に行われた。始めは、土中から発掘される土器に感動し、やがて周りを石で囲む石囲炉を発見し、さらにローム層を深く掘りむ太い柱穴を発掘した。それが竪穴住居址と気付いた。掘り当てた炉址の数は53ヵ所、竪穴式住居址は32ヵ所。同時に住居址の奥に設けられた石壇の多くは北壁寄りと認識された。既に住居ごとに祭壇を備えていたのであろか?昭和17年6月に発掘された第28号住居址では、宮坂先生のメモによれば敷き石が2ヵ所遺存し、特に中央部にある長さ約1m、幅約20cmの鉄平石を囲んで「あたかも祭壇の状態に作る」と記されている。
 諏訪郡原村の払沢の東側に位置する大横道上遺跡では住居址が7ヵ所出土したが、縄文中期末の1ヵ所以外は縄文後期初頭に建てられていた。その内の一つはよく整った6角形の敷石住居であり、更に奥側壁付近に石壇を備えた住居址もあった。他の住居址も石器・土器などの日常的遺物が極めて僅かでありながら、立石が遺存する住居址や石棒を炉址に据えるものなど死後の肉親に寄せる思いが形となって現れていた。
 尖石では竪穴群、列石群などの調査が進むにつれ、それらを伴う集落群・ムラのあり方が、日本で初めて確認された。その成果は、尖石遺跡としての評価を高めると同時に、宮坂英弌先生の研究を喧伝することになった。
 集落の中央広場にある竪穴群は集団墓地とも、粘土の採掘坑、ドングリなど堅果類の貯蔵穴、ヤマイモやムカゴなどの“室”とも考えられている。尖石ムラでは、長く厳しい冬に備えなければならない。現在でも、諏訪の農村部では、“室”を重宝して活用している。竪穴群は平面は円形で、径1m、深さ1m前後で、赤土層に垂直に掘り込んであり、底は平らである。これらは不規則に5、6個近接し遺存、一部は重なっていた。穴の内部は黒土で炭化物が混じっていたが、土器片などの遺物は殆ど発見されていない。独立竪穴の周囲には柱穴らしい径30㎝、深さ30㎝の円形の穴が巡り、上屋が高架されていたようだ。雨水の流入を防ぐための措置とおもわれる。
 死者を埋葬するために集落内に墓域を設けるようになったのが、中部では縄文前期前半、東北北部では中期中葉、東北南半では中期末、南関東内陸部では中期末から後期初頭、北海道では後期中頃、房総や東海では後期後半から末葉と認められる。竪穴群の北側、同じ広場内に列石群が、地表下30㎝の深さで、それも大きさを揃えた自然石の大塊23個が、ほぼ等間隔で10mに亘り飛び石状態で並んでいた。その石の下には深い竪穴が穿かれていた。その列石遺構から北に8m先でX字状把手付深鉢が発掘された。器高55㎝あり、底部は赤土を掘り埋め込んでいる。合蓋代わりに口縁部に板状の安山岩を載せ、更に墓柱とおもわれる角柱状の大きな石が置かれてあった。
 尖石遺跡は日本で最初に発掘された本格的な縄文集落遺跡で、宮坂先生も早い段階から「集落」の存在を想定し教職のかたわら文字通り手探りで発掘調査を長年月重ねてきた。やがて「縄文集落論」の原点として学界でも注目されたが、戦前では大規模遺跡の調査発掘の実績も乏しく、資金も人力の動員もできなかった。宮坂先生はこの困難な作業をほぼ独力で、しかも学界を先導するかのような意欲で長期間発掘調査を続けてきた。このようなレベルにあった日本の考古学界で、宮坂先生は莫大な資料を出土させたが、当然、完全には整理しきれなかった。諸々の出土品の年代も特定はできない。当時のレベルでは日本の考古学界でも、その暦年分類調査を念頭に仕分けする事はできなかったであろう。まして宮坂先生の単独の調査であれば、膨大な出土品の完全な整理は不可能で、また住居址や出土土器・石器などの分類もできず、ただひたすら克明に記録したメモや土器の略側図、丁寧で要領を得た住居址のスケッチとその図面に記された詳細な注記に頼らざるをえない。
 宮坂先生はムラの存在を確認すると、その情熱は燃え盛り、僅かな私財と父の発掘を手伝う4人の息子と妻の全生活をも、「尖石の鬼」英弌と尖石の発掘に捧げ尽くさせた。宮坂氏の発掘研究により、それまでは、縄文土器を中心にした編年学的研究に終始していた考古学が、ムラ・生業・祭祀・儀礼・風習・気候風土など社会科学的研究にまで観点を広げる契機となった。
 昭和17年9月23日、史跡名勝天然記念物調査会総会で、尖石遺跡の国史跡指定が答申された。この話は、昭和15年頃からあったが、東大文学部長・今井登志喜教授は、宮坂氏とは旧制諏訪中学の同級生で、指定は宮坂氏の発掘の必要がなくなるまで待つべく、調査会の斉藤忠と調整をしていた。こうした周囲の理解の中、第二次大戦の開戦で、急遽指定せざるを得なくなった。そのため宮坂氏は、その日の新聞の報で、それを知った。
 昭和27年3月29日、文化財保護委員会は尖石遺跡を特別史跡に指定した。その特別史跡指定面積は42,303.6㎡である。そのうち発掘調査がなされた畑と石囲炉が集中して出土した畑とを合わせて4,316.4㎡、そして炉址が多数発見された道路敷約4,000㎡と、発掘調査がなされた範囲は全体の2割に過ぎない。未だ尖石遺跡の多くが眠ったままである。



宮坂英弌先生と与助尾根遺跡
 第二次大戦の終結は、学問研究の自由が回復し、歴史も科学的調査と研究を基礎に置くようになり日本の歴史観を変えた。学校教科には新しく社会科が設けられ、先生たちも考古学に関心をもつように要求された。 歴史の科学的研究は、郷土史料の発見・調査を土台にする。こうした時代背景の中、昭和21年、諏訪史談会でも、先住民族遺跡の研究を重要課題として、特に尖石遺跡を中心にすることに決定した。宮坂先生はその指導を依頼された。 ところが尖石遺跡は、先述のいきさつで国史跡指定され、発掘は禁じられている。それで尖石遺跡から、北隣りの小さな谷川を越えた与助尾根遺跡(よすけおねいせき)を発掘するようにした。史談会の委員細野正夫と矢崎孟伯(ヤザキモウハク)と共に調査を開始した。
 与助尾根遺跡は昭和10年、南大塩の牛山米作が、地主の依頼で与助尾根台地の原野を開墾していたら土器片が出土した。牛山は当時、宮坂先生の尖石遺跡の発掘を手伝ったこともあり、それを伝えた。宮坂先生は開墾を手伝いながら調査をした。原野のほぼ中央の地表下80㎝を掘ったところ、扁平な自然石12個で楕円形に囲む石囲炉祉が出土した。炉底は赤く焼け、炉石は加熱で割れていた。土器片が炉近くに積まれていた。当時は竪穴住居の存在が知られていないため、それ以上の調査はなされなかった。
 与助尾根台地は尖石遺跡と同様、西北に長く緩やかに傾斜する、東八ヶ岳の爆裂による溶岩台地で、当初は尖石台地と一体で、現在、尖石考古館の裏に流れる沢の侵食によって、分離し東西300m、南北の幅70mの先端が舌状を呈する尾根であった。谷との比高は3mある。宮坂氏はここで、尖石ではできなかった1遺跡全域の発掘調査をし、縄文時代のムラの全容を解明しょうとした。昭和27年の第4次まで発掘は続いた。その間宮坂氏が在職した豊平中学校の生徒をはじめ、諏訪の各高校の考古部員が主力となって発掘作業が進められた。結果、縄文時代中期の竪穴式住居址28ケ所が発掘された。住居址群は与助尾根の南側の縁に帯状に沿う一連の集落の構成が明らかになった。それで、尖石遺跡が拠点的集落で、与助尾根遺跡はその分村であることが判明した。
 八ヶ岳西麓は、川や谷を境にして、縦に長い台地が並列している。その台地の単位ごとに、その広さに合わせて規模や性格の異なる集落を形成した。その自然の地形で画され生活領域内で、それぞれがムラとして住み分けられ、そんな縄文中期社会を作り上げていた。
 与助尾根遺跡の発掘は、諏訪史談会や地元・豊平をはじめ諏訪地区の多くの人々の支援の下、発掘の中心を担ったのが諏訪地区の中学生・高校生であった。この発掘に参加した中学生・高校生の中から今日の考古学・郷土史に関する指導者が輩出したことは、宮坂氏の功績と共に語り継がれている。
 昭和21年の調査は、原野が開墾され蕎麦畑になっていた場所から土器片が散乱し、黒土が深く炭屑が混じる辺を中心にトレンチを掘ると、地表下80㎝に竪穴住居の床面が現れ円筒形の土器が横倒しで出土した。翌10月23日、豊平国民学校高等科2年生が参加し方形の住居止を完掘した。縄文中期後半曽利Ⅲ期に属する与助尾根第1号住居址である。曽利式土器が出土した標式遺跡は、八ヶ岳西南麓にある長野県諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡群の中核となる曽根遺跡である。藤森栄一が命名した水煙渦巻文深鉢は、曽利4号住居址から出土した土器7点のうちの1点で長野県宝に指定された。井戸尻遺跡考古館に展示されている。曽利式土器は、Ⅰ式~Ⅴ式に編年され縄文中期後半を時代区分する。与助尾根第1号住居址を史料に、原田淑人博士を講師として諏訪史談会の研究会が開催され会員200余名が参加した。この年11月、再び豊平国民学校生徒の協力で埋甕炉2ヵ所が遺存する2号住居址を完掘した。
 この敗戦直後の与助尾根遺跡の発掘の成果は大反響を呼び、特に諏訪地方の高校生達に考古学ブームを誘発した。昭和23年の夏、岡谷東高校・諏訪清陵高校・岡谷南高校・諏訪双葉高校・塩尻高校の各研究部員約40余名が、宮坂英弌先生の指導の下に参加し、10月、曽利Ⅱ期の第6号住居址を発掘した。高校生達はみめいには茅野駅を降りてんでにシャベルなどの道具を担ぎ、尖石遺跡までの遠い道のりを歩いて通った。日当や弁当はもとより交通費も支給されず、食料事情が最悪の時期で持参の弁当はコッペパン1つという生徒が殆どで、きつい作業を終えて夕暮れ茅野駅まで歩いて帰る繰り返しであった。空腹感は校歌を歌い紛らわせた。その日その日の食料にも事欠くご時世に、生徒や宮坂先生らの献身だけが頼りでは限界を超える苦難の極みとなっていた。

 敗戦直後、自らも小学校の教員をしながら発掘と研究を支えてきた夫人が、昭和22年1月に突然、胃潰瘍で吐血、2月27日、52歳で逝去された。7人の子女を擁して貧苦と闘い、戦時中の食糧難による疲労の結果のことであった。その2年後には、後継者として期待されていた長男・吉久雄を、病で喪うという不幸に遭遇する。戸沢充則は『考古地域史の構想』で「わが国ではじめて、縄文集落の全容を明らかにするという、考古学史にのこる仕事をなしとげたのです。その間の宮坂先生とその家族の労苦はたいへんなもので、わずかな家産の多くを発掘費に投入し、終戦直後に亡くなられた夫人と長男の死因は、栄養失調がもとになった病気のためと伝えられています。」と記す。
 吉久雄は、長野県師範学校卒業後、4年間教職にあった後、東京大学理学部に、考古学研究のため1年の内地留学を命ぜられ、その帰省後、豊平小学校に奉職、そこで教鞭をふるいながら、与助尾根遺跡の発掘指導をし、父を助けていた。父・宮坂先生は、その著書「尖石」で、ただ「たまたま病床に臥し医薬の効もなく、ついに昭和24年2月29日享年28歳で長逝した。」と「妻と子をうしなう」の章で、述べている。
 この年、宮坂氏は既に62歳、先に妻に先立たれ、老いの身の将来を託す長男を喪い、悲嘆のどん底の最中、同年4月、藤森栄一を中心とする諏訪地方の文化人・新聞記者と高校生達も協力し南信日日新聞社主催による「尖石を守る会」を結成した。県内全域にわたる発掘資金カンパの一大キャンペーンが行われた。県下の学校の教職員や生徒、一般市民の同情者などにより研究費、5万6千円が寄贈された。国や県も調査費を補助するようになった。この温情に宮坂先生は、再度、発掘へと奮い立ち、4月、与助尾根遺跡の全面発掘を目指した。6月に入ると、諏訪清陵高校・岡谷工業高校・岡谷南高校・諏訪双葉高校などの生徒の応援が再び得られる。それ以降も応援のため登山が続いた。この年の発掘は高校生が主力であったが、発掘は初めから大きな成果を挙げている。完形土器を伴う、石柱を立てた石壇を備える祭壇をもつ第7号住居址を皮切りに、秋まで土曜と日曜毎に断続的に行われた発掘であったが、第16号住居址まで計10ヵ所が完掘された。第16号は北西の壁が集石土坑によって壊されていた。

   宮坂先生の昭和24の日記には  「6月3日(金)清陵高校生8名、発掘のため夕方登り、発掘地北の木立に野営する」
 「6月4日(土)晴、午前8時、宮坂昭久と小平幸衛氏と3人で現場着。昨夜野営した清陵高校生が待機している。まず原野の南端に沿って、幅1mの試掘溝を3m間隔で東西に4条作り、第7址の南近くまで延長したが、どこも黒土層が25㎝ほどあって、竪穴住居祉の埋没する形跡は見られない。一時原野の中央でこの作業を中止し、前日昭久がこの原野西端の桑畑第339番の境目を試掘して完形土器を得ているのでその地点を掘る事にする。このころ、岡谷工業高校・岡谷南高校の学生30余名が来たので、一組は発掘作業、一組は排土をモロッコで運ぶ役を受持ってもらう。
 一隊は発掘作業にかかる。土器の発見箇所から住居址は西に延びるものと予想したが、黒土層はここを境目にして東に深い、よってこれを東に追う。5mでようやく東の壁に逢着した。この壁を更に南と北に追う。多数なので喧騒限りないが、作業はどんどん捗る。出土品がないので張合いが無い。忽ち堆土が除去されて、竪穴住居祉の全貌が現れた。
 午後黒雲が西から迫ると見る間に夕立となったので午後3時引き上げる。岡谷組は帰宅したが、清陵組は続いて野営する。本日は茅野観光協会員15名及び夕刊信州矢島記者が来観した。」
 「6月5日(日)快晴、午前8時、昭久、小平幸衛氏と3人で現場へ。今日は清陵高校生7名、岡谷工高生6名、これに二葉高校の女生徒6名を加えて計20名近くの若人で現場は人ひとで押合う。また藤森栄一氏が南信日々新聞伊藤記者と共に来観。続いて矢島数由氏が実測に、中沢広氏が撮影に来たので、なかなかの賑わいである。南の湿地帯の榛の大林の下草の中に沢尾車草が茎高く黄色い花をつけて、暗い木立を明るくし、労働に疲れて湧水に喉をうるおす若人に微笑を送っている(後略)。」
 やがて路線バスも通るようになった。
 昭和25年の発掘に参加した高校生の手記は  「秋晴の下に岡谷東高等学校地歴部員は、岡谷南高等学校及び清陵高等学校の郷土部員とともに与助尾根遺跡を発掘する。
 一行11名、10月13日(金)午後3時の列車で茅野駅下車。それから、直立すると頭上15㎝位の隙間のある小型バスにゆられて30分、山寺駅下車。それから大きなリックサックを背負って田圃の道を一列になって歩く。周囲の山々は紅葉にはまだ早いが、それでも漆木だけは、緑の松林の中を紅、黄に彩っていた。
 宿泊所である地元南大塩に着く。村の人達が、夜具その他を用意して快く迎えて下さったのは大変嬉しかった。今まで余り関心のなかったこのような史跡に対し、地元民の協力には感謝の念で一杯であった。
 翌14日、朝霧が音を立てて流れる中を、尖石の主と称せられる宮坂先生を先頭に、一同鋤や鍬をかついで与助尾根に向かう。遺跡は村から3km。発掘地は一昨年本部員が発掘した場所で、霧が晴れて陽がさし始めた頃、この畑地に2mの間隔で東西にトレンチ6条を入れて調査する。
 畑の東の端と西の端に相呼応して、黒土層の深い地点を発見した。昨年発掘した第6号住居址はその中間にある。私達は、東側の地点を発掘する。これに、南北に亘るトレンチを設ける。40㎝程掘り下げると土器の包含層にあたる。あまり土器の破片が多く浅い地層であるから平地の住居址では、竪穴住居祉とちがって側壁がなく、炉祉でも発見しない限りその区画が判然としない。よって、更に20㎝程の深さに掘り下げると、土器や黒曜石が頻りに出る。しかし今もって側壁が判然としない。
 掘り上げた黒土を再び他に移す。ようやく北の側壁と西側半分の側壁が発見された。夕日は西山2mの上mめで落ちかかった。出土土器に目標の木の枝をさして未練らしくも引き上げる。
 一方、清陵高校生中心の西側の組は、完掘といってよいほど見事に住居址を発掘してしまった。中央に大きな炉址があり、住居穴が5ヵ所と土器が5,6点発見さている。日の暮れ方、リンドウの紫濃い草花を摘みながら宿舎に戻った。
 15日、朝霧が濃い。ことによるとこの住居址は東隣りの畑までかかるのかも知れない。地主の諒解を得て植え付けてある小豆を曳き抜く。完掘を前にして部員の意気は高い。それに、今日は理数部から測量班が10時頃までに応援に来てくれる筈だから、それまでにと一同馬力をかける。昨夜から今朝にかけ冷え込みがひどく、そのため畑一面にもやがかかり、妙にしめっぽい空気が足にまつわる。
 10時、ようやく側壁がめぐる赤土の床に、黒土の深いところが判る。その黒土を掘り上げるが、狭くてしかも深いから移植ゴテが自由にならない。苦心の後にやっと掘り上げて片脚を入れる。穴は膝の上12、3㎝の深さ(深さ60㎝乃至80㎝)にある。これが柱穴である。
 ようやく完掘し得たこの住居址は、平面形が隅丸形で、柱穴が6ヵ所にある。完形土器2点及び復元できるものが数点出土した。どれも中期末の型式である。その他黒曜石も頻りに出たが、石器類は僅かに打製石斧2点と磨製石斧4点だけであった。東の住居址は第21祉、西の住居址は第22祉とし、長い間の希望を果たして3時山を下った。」
 これが当時の諏訪地方の高校生の水準であるならば、とても現代の大学生どころか老人でも敵わない、知性の高さと深さが窺われる。

 与助尾根遺跡で発掘された住居址28ケ所で、いずれも縄文中期後半のもので、その最後の住居数は11戸と推定されている。「尖石」では15戸とみられている。そして両遺跡とも縄文中期の単一の時期に集中する単純遺跡である。与助尾根遺跡は規模では尖石などの大集落には及ばないが、日本における最初の縄文集落全堀例として、発掘状況はその都度、新聞に報道され、調査中に見学を訪れる人は後を絶つことが無かった。昭和24年6月、上諏訪中学校PTA会員500余名、7月には南信日日新聞社主催の見学会に数百人が参加している。
 市民の活動は、戦後間もないころに近隣の高校生が発掘を手伝い、青年会が復元住居を維持管理をした。
胴部に雄大な渦巻文のある大甕形土器・円筒型土器・釣手土器・壷形土器・土偶・石鏃・磨製石斧・滑石製飾玉・石匙・凹石・石棒等出土品は、多数にのぼる。 昭和27年6月21、22日の両日、晴天の日、長野県教育委員と豊平村の共催による尖石遺跡の特別史跡指定の記念を兼て、与助尾根遺跡の発掘見学会が行われた。同時に古代文化大学講座が豊平中学校講堂で開催された。千余名がバスを連ねて聴講生として参加した。その時の講師は藤田亮策(東京芸術大学・日本考古学協会委員長)・斉藤忠(東京大学・文化財保護委員会)・黒坂昌夫(東京教育大学)・小林行雄(京都大学)・八幡一郎(東京大学)など当時の日本の考古学界の重鎮が揃い、そこに宮坂先生も登壇した。この日が、昭和15年より始まった尖石、与助尾根遺跡の発掘調査の有終の美を飾った。
 尖石遺跡は多くの豪華な遺跡とともに 100近い住居址が発掘された。狩用の落し穴など、まだ多数の遺構が残っていると考えられ、集落研究の上でも価値が高く、昭和27年3月29日、「特別史跡」に指定された。ところが昭和29年7月26日に、三笠宮殿下が尖石遺跡を踏査するとの連絡を宮坂氏は受けた。この機会に尖石を再発掘をすることにし、当日の前日、干天続きの猛暑の最中、岡谷高校生7名、諏訪清陵生5名、それから地元の人4名が参加した。翌日も同じ人員で発掘を開始する。やがて石囲炉址を伴う径5mの大きな住居址に出合う。これが第33号住居址なのである。午前11時殿下は、尖石考古館を見学、尖石遺跡東の松林に敷かれた茣蓙(ござ)で昼食、午後1時、炎天下、移植鏝(ごて)や竹箆で丹念に遺物の1片1片を掘り出す作業を開始、やがてネクタイを取り、パナマ帽を脱ぎ、発掘に専心した。ついに横倒しで遺存する完形の蛇体把手付深鉢土器を土上げする。 
 現在となると遥かに大規模な遺跡が、各地で出現しているが、この尖石・与助尾根の研究は、登呂遺跡などと並ぶ戦後の考古学の出発点であり、縄文集落論の原点として意義深い。宮坂氏は42歳で発掘の世界に入った人ながら、常に成果を学会に発表し学者の評価を受けてきた真摯な姿勢が認められ、後年、長野県考古学会の初代会長となった。昭和50(1975)年に89歳の生涯を閉じる。
 一人の人間が縄文時代の集落の研究にかけたロマンと情熱は、時代を超えて語り継がれ、現在でも大きな感動を呼ぶ。 最後に宮坂氏の箴言を記す。
  「石器時代文化は伝承ともなり文学ともなる、これらの発掘によって得た遺物遺構を誤り無く読解し得て、始めて其の文化を復原し得るのである。そして又これ等は個々の姿に於いてより味読されることが肝要である。であるから遺物の出土状態はこの学問に関する限り第一義的の位置を占める」 この文章の行間に潜む内容は、極めて深く広い。
  「発掘は資料の発見と同時に実にその喪失である。」 「従って発掘はこの学問探求上重要な地位をもつから極めて科学的な態度で行い、且つこの過程を1つ1つ忠実に記録しなければならない」
 「土器を掘りあてて、うれしがっているだけなら好事家にすぎない。発掘が終わったら記録発表してこそ研究者であり、遠い祖先への責任を果たせる」 「発掘は1つの創作であり、芸術であると思っています。決して、土方仕事ではない」

八ヶ岳西南麓の縄文文化
 八ヶ岳は数え尽せないほどの噴火口を秘めている火山連峰である。全体としては富士山と同じ「成層火山」とも呼ばれる、円錐型の姿形を特徴とするコニーデ式火山で、ゆるやかな傾斜を描きながら富士山に次ぐ広い裾野を広げる。八ヶ岳西麓と言われる地域は、茅野市の山浦地域とそれに隣接する原村域が占める。比較的緩い傾斜となり標高1,500mから末端部の800mへと流れ、直線距離にして12.5kmに達する。平均斜度は約3度で、しかも標高1,000m付近からは一層ゆるやかになり、視覚的には平坦に近い。この広大な原野に八ヶ岳連峰と車山連峰の山合いから流れる川や湧水が放射線状に必縦谷を抉り縦長の大小の長峰台地を築く。特に標高1,000m前後となると湧水の急流で大小の谷を抉り、そのため離間された台地の地形も複雑になる。一般に広く展開する裾野で火山麓に近い台地を広原(ひろっぱら)と呼ぶ。湖東の笹原や須栗平(すぐりだいら)、豊平の広見(ひろみ)、隣村原村の俎原(まないたっばら)、八ヶ岳南麓の富士見町では広原という地名自体がある。
 この広大な八ヶ岳と車山連峰が長年月で形成してきた標高1,000m以下の台地は植物性食料と深い山々に棲息する中小動物、渓谷に棲む魚介類などの食料資源に恵まれ、縄文中期には最適な生活環境となった。その高燥な環境が、八ヶ岳西南麓、茅野市の北山浦や富士見高原から山梨県北西部の北巨摩にまで達する、中部高地に立地する尖石遺跡や井戸尻遺跡群などの文化圏を構築し、その縄文中期、最盛期に導いた。
 長野県諏訪郡原村菖蒲沢の大石遺跡は、特に縄文中期前半期の大集落址で八ヶ岳西麓を代表する規模に達していた。縄文前期から中期中葉まで営まれた住居址が53軒あり、それが径約80mの環状集落を形成していた。1313ヵ所と多数の土坑が、遺跡一面に広く分布していた。出土した土器も豊富で、各時期ごとの各型式を典型的に表現する華麗で精緻な優品が多い。石器や土器以外の遺物も多数で、縄文中期の住居址から栽培植物エノコログサ属の炭化種子塊も検出された。エノコログサはアワの原種とみなされている。この時代のアワ栽培の可能性を示す。大石遺跡は、縄文中期中葉に八ヶ岳山麓の縄文文化がクライマックスにあったことを如実に物語る遺跡であった。縄文中期の終末期、八ヶ岳西南麓では曽利Ⅳ・Ⅴ期になると、遺跡数は半数近くに減少する。しかも縄文後期初頭の遺跡の殆どは、衰退期にあった中期末の集落を踏襲している。その集落も初頭に限られ、しかも僅かな住居址か、小規模な祭祀場址を遺存させるだけである。

 長野県の縄文中期(5,000~4,000年前)の遺跡数は他県と比較してみると異常に突出している。特に諏訪と天竜川水系で諏訪盆地とつながる伊那谷が圧倒的に多い。縄文草創期(12,000~10,000年前)から前期(6,000~5,000年前)までは、遺跡数は徐々に増加するが、中期(5,000~4,000年前)になるとその約3倍に急増する。
 尖石遺跡のある八ヶ岳西麓の縄文文化も、中期になると遺跡数は、爆発的に増加する。なかでも、尖石遺跡や茅野和田遺跡は、中央の広場を囲むように、環状や馬蹄形に住居群を配置し継続する大規模な拠点的集落といえる。そこから、それまで生活の場とされなかった、川や谷を越えた隣接地の小さな尾根や沖積段丘にまで、分村によって集落を増やしていった。
 台地単位で、それぞれの遺跡群で示される集落では、大きな石囲炉や太くて深い柱穴をもった立派な竪穴住居で、家族単位で定住するその住居には、石壇や埋甕などの祭祀施設を備え、そこで、祭祀遺物の土偶・石棒が、祭祀・儀礼行為上重要な役割を果たしていた。
 縄文中期後半になると、唐草文系土器などに見られる渦巻文が主体になり、終末期になると櫛歯状工具や箆状工具による条線文や列点文へと変わり、器形も直線的な円筒の深鉢が増えてくる。土器は大形化し、機能的に分化し、特殊な用途に合わせた祭祀・儀礼用のものも増えていく。
 石器は、植物性食料の加工具の凹皿・石皿と、食料採集用の打製石斧・磨製石斧が組成の中心になることがこの時代顕著となる。 縄文人は八ヶ岳西麓に、住居址その他の遺構や遺物を、その高い文化遺産として広く重層的に遺存する。それを支え得たのは、和田峠周辺を中心にした黒曜石産地に近く、石器材が容易に手に入る地の利もあったであろうが、なによりも食料資源が、豊富で且つ手近にあるという恵まれた環境が幸いした。
 八ヶ岳西南麓で縄文中期に遺跡数が爆発的に卓越し、後・晩期に急減する様相は、長野県全域でも示されている。地域ごとに縄文中期の遺跡数が占める比率をみると、八ヶ岳西南麓を含む諏訪湖盆地方が60%、天竜川流域上伊那で63%、下伊那で58%、塩尻峠越えの松本盆地が57%、八ヶ岳東北麓と浅間山麓が占める佐久盆地が50%と、いずれも高い比率である。千曲川中流域に広がる上田・長野盆地と県西南部木曽川上流域でも40%前後の比率を占める。前者の遺跡から出土した石器類から、ドングリ・クリ・トチなどの堅果類、ヤマイモ・ユリなどの根菜類、ワラビ・ゼンマイなどの植物性食料を中心に、弓矢による狩猟の対象となったシカ・イノシシ・ノウサギ・キジなど、更に川・湖沼での漁労によるコイ・フナ・サケ・マスなど、極めて豊かな生業の有様が垣間見える。ただ扇状地で多数入り混じる河川の氾濫が頻発し、後者は狭い木曽谷が連なり縄文中期の大集落を十分に発達させえなかったようだ。
 八ヶ岳西南麓と接する山梨県北西部の北巨摩地方でも、縄文中期の遺跡が60%、後期は14%と急減している。東京都でも関東西部の区域では、中期45%、後期17%、埼玉県では荒川を境にする西の地域、武蔵野台地の入間・比企・大里・児玉・秩父などでは、中期60%~70%の比率となる。神奈川県では相模原台地でも縄文中期に最盛期を画するが、後期にもかなりの遺跡を遺存させている。
 富士川を境にして、伊豆半島も含む静岡県東部は、長野県の八ヶ岳西南麓と山梨県北西部の北巨摩地方と関連が深いようで遺物の共通性が非常に高い。ここでは縄文早期、既にやや突出した遺跡群があるが、傾向としては縄文中期極盛、後・晩期凋落を呈している。

 諏訪全域は周辺を火山帯に囲まれているため、酸性度の強い赤土層で覆われている。東京湾沿岸地方の貝塚のように有機物の保存には適しない。それでも炉址や土器に付着する炭化物の分析が進み、その生業実態が大分解明されてきた。
埋甕遺構のその後の研究成果、埋甕遺構の新たな発見例で、住居跡の外側で出土したものは、口径が24cm、深さ26cmの土器と、口径36cm、深さ42cmの土器があるが、土器の中に砂が埋まっていただけで、何も見つからなかった。ところが、土器の埋まり方が変わっていて、小さな方の土器は口縁部が下になっていた。また住居跡の炉の近くの床下に埋められていた土器は、口径35cm、深さ40cmの物で、これも口縁部を下にして埋め込まれていた。さて、この埋甕遺構がいったい何に使われていたのか、大変興味深い問題で、もし木の実などを貯蔵するために使われていたとしたら、口が下になっているはずがない。縄文時代の他地域の遺跡の中でも、住居祉内や住居祉の入口近くで、乳幼児を埋葬したと考えられる甕棺が多数発見されている。この甕棺も幼児甕棺ではないかと考えられている。
 日常生活が営まれている住居内に、乳幼児を埋葬することは奇異に感じられるが、このような例は外国でも多く見られる。埋葬された乳幼児は死産児か、まだ名前も付けられなかった赤子だったのであろうか。縄文の人たちは、人の出入りの激しい所に乳幼児を埋葬することによって、子供の魂が再び母親の胎内に宿り、その再生を願ったと思われる。なによりも子を思う親の気持ちが、その遺体を遠ざけることを拒んだのでしょう。
 三内丸山遺跡では、竪穴住居に近い北の谷の周辺に、880基を超える埋甕が出土している。大人の墓の6倍近くの数になる。死産児は江戸時代ですら、出産の15%にのぼり、無事出産に成功しても、5歳になるまでに、およそ4分の1が死亡しているといわれている。縄文時代であれば、大人の3倍は多く死亡していたことであろう。ただその遺体は、大人の墓地に埋葬されないようで、また保存されにくいので、その死の実態は依然、解明されていない。
 日本の各地の民俗例では、子供が誕生すると、後産の胞衣(えな)を土間の上がり框(かまち)や戸口の敷居の下に埋め、人に踏んでもらうと幼児が健康に育ち、産後の肥立ちもよいとされている。縄文時代の住居内の埋甕遺構は、その起源と推測されている。

 縄文時代の生業は、基本的には狩猟・漁労・植物採集の3種で営まれていた。狭隘な八ヶ岳西南麓でも、タンパク源として川魚が獲れるか否かで相違はあるが、メジャー・フーズを獲得する生業に関して、その伝統技術が集落内で継承されながら、しだい道具が改良され使用技術も進化していった。
 諏訪郡富士見町の「井戸尻遺跡群」は、JR信濃境駅から約1.2㎞ほど南に下ったところに井戸尻遺跡があり、沢を挟んで西隣りに曽利遺跡の尾根が並行し、更に西方約2.5㎞の範囲に藤内(とうない)・九兵衛尾根(きゅうべえおね)・居平(いだいら)・唐渡宮(とうどのみや)などの遺跡が連なり、それらを総称した。八ヶ岳南麓、編笠山の南端にあり、その幾つかの尾根が釜無川で抉られ終結する。豊富な湧水に恵まれ、遺跡近くの釜無川流域は絶好の漁猟場で、縄文早期の7千年前から住居址を遺存させ、縄文中期には最盛期を迎えている。
 阿久遺跡は「井戸尻遺跡群の文化」形成前の縄文前期前半に極盛となる。大石遺跡は井戸尻文化が根をおろす縄文中期前半に環状の大集落を営む。互いに近接するが独立した尾根に立地している。阿久遺跡の石器組成は、石鏃が2,015個、約40%近くあり、狩猟が生業の中核にあった事がわかる。大石遺跡では打製石斧が60%に迫る組成率となる。打製石器が石器組成の過半以上を占める「井戸尻文化型」は、中部高地や関東地方西部でも普遍的で、東京都の多摩川近辺のいくつかの遺跡でも、河川礫を原石とする打製石器が、1住居址あたり100~200本と大量に出土する例も少なくない。その「井戸尻文化型」の八ヶ岳西南麓の遺跡群の発掘が活発となると、遺跡を特徴づける打製石器の用途が、主に土掘り用の農耕具とみられるようになった。それが藤森栄一の「縄文農耕論」に繋がった。
 昭和2(1927)年、「大山史前学研究所」創設者大山柏が『神奈川県下新磯村字勝坂遺物包含地調査報告』で、原始的な農耕の存在を推測した。大正15(1926)年に発掘調査された相模原市南区磯部の勝坂遺跡(かっさか)では、立体的な装飾の文様や顔面把手などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期の標式土器とされた。同時に共伴した多くの打製石斧が、物を切り割るなどの機能を欠いていて、土掘り具・石鍬と考え原始農耕論を唱えた。我が国の考古学史上、極めて重要な研究であった。
 近年では打製石斧を農耕具として、深耕用から浅耕用の鍬と用途別に、草刈や収穫具としての石包丁などが、農耕作業に応じて機能別に製作されている事が知られている。「井戸尻文化圏」でも乳棒状の石斧は伐採用で、小形で角ばったものは手斧(ちょうな)や鑿として使われていた。深く掘るための打ち鍬・畦作り用の偏刃の引き鍬・ヤマイモやタロイモ類の掘出し用の棒状の小鋤・雑草を刈る草掻・移植や除草も兼ねるイモ掘り用手鍬・縄文後期になると胴がくびれた両刃の石鍬が登場している。この両刃の石鍬はメキシコからコスタリカのトウモロコシを主作とする地域でよくみられる。
   「井戸尻文化」の発展を支えたのが食用植物の採集と活用であったが、更に生活基盤を安定させたのが原初的な植物栽培であった。縄文中期以前の遺跡からはエゴマ・ヒョウタン・リョクトウ・オオムギなど、後・晩期になるとソバ・オオアサ・ウリ・ゴマなどの遺存体が検出される。西日本各地ではイネが登場する。特に九州では縄文晩期の水田址が発見され、「早期弥生」と称されている。植物栽培の起源は遥か縄文時代に遡っている。特に縄文中期の農耕の証明は、八ヶ岳西南麓の考古資料によって精力的に研究されている。
 青森県の三内丸山遺跡は縄文前期後半から中期に亘る、5,500年前~4,000年前の集落である。そこから多量に出土したクリのDNA配列が一様によく揃っていた。野生種のクリの配列は多様であるから、「栽培の存在をつよく示唆」するという。また地層中の花粉分析の結果、三内丸山の集落が形成され始めると、ブナに代わりクリが一挙に増える事が確かめられた。集落周辺のブナを切り倒し、野生のクリを残す。そして実が大きく、実付きがよい木から実生で増える苗のみを育てると、集落周辺のクリのDNA配列が一定してくる。
 クリの栄養価は100gあたり156Calで、米は148Cal、サツマイモは123Cal、シイの実になると256Cal、クルミ673Cal、松の実634Calと跳ね上がる。森の幸は縄文人に十分なエネルギーを提供した。
 青森県下北半島の上北郡六ヶ所村の富ノ沢遺跡から縄文中期に属するヒエ属の種子が2,961粒見つかった。その内の2,810粒は一つの住居址の床面から出土した。いずれも野生のイヌビエを栽培化したもので、計測すると野生種より粒の幅が広く、現在の栽培ヒエに近いものが50%以上占めていたという。人々により多年に亘り優良選抜された栽培種とみられている。諏訪郡原村菖蒲沢の大石遺跡の住居址から検出されたエノコログサ属の炭化種子は、現在、焼畑で栽培されるアワの実によく似ているという。常に寒冷化の危機にある東日本では、ドングリ類の不作・木の芽の凍死、それに伴う小形動物の減少などに対する対策として野生植物の栽培化が不可欠であったようだ。

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