諏訪地方の縄文時代(総論)  茅野市与助尾根遺跡
総論 縄文時代草創期 縄文時代期早期 縄文時代期前期 縄文時代中期 縄文時代の民俗 縄文時代草後期 縄文時代晩期  歴史散歩  レアメモリーのページ

目次 ; 総説 | 縄文人の病気 | 縄文時代の風景 | 諏訪湖盆地域の黒曜石 | 縄文時代の狩猟具・漁労具 | 植物採集用と生活加工具


総説  
 縄文時代の始まりは約12,000年前頃とされていたが、平成10(1998)年4月の中旬、青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田(かにた)にある太平山元(おおだいやまもと)遺跡から磨製石斧が出土し、同じ包含層から伴出した無文土器片が、約16,500年前のものだったことが明らかになった。どうして16,500年前とわかったのかは、出土層の分析と土器片に付いていた、ごく微量の煤を、放射性炭素(C14)年代測定法で調べ、較正年代で補正された結果による。
  この発見は今まで縄文時代の始まりとされてきた1万2千年前を4,500年も遡らせた。縄文時代の今までの常識や定説が次々と覆されており、また、縄文時代の起源が、どんどん遡っている。
  最近の研究で、縄文時代早期・前期(6,000〜5,000年前)の縄文人が、手足が細く華奢な体型をしているのに対し、中期(5,000〜4,000年前)以降の縄文人は、がっしりしていたようだ。
 早期(約1万〜6,000年前)・前期の縄文人の人骨は洞窟での発見が多く、一方、後期、晩期の人骨は貝塚近くが多い。縄文時代を通じて、洞窟の縄文人は貝塚の縄文人より華奢で、後者の海浜に近い生活環境は、その生業を豊かにした。また中期以降の気候の温暖化も幸いして、縄文人の食料資源の質と量の改善がなされた。
 時期的に見ると、草創期(約1万数千〜1万年前)・早期は寒冷化が続き、環境が好転する前であった為か、栄養価の低い繊維質の食料が多かったと考えられる。この時代の縄文人には、虫歯は殆どなく、その歯には、激しい摩耗が見られる。これは動物の皮を噛んでなめすなど歯を酷使し、そのため摩耗が激しく表面の凹凸が無くなり、それが虫歯の進行を抑えたようだ。
 地球温暖化による縄文海進は、8,000年前から急速にピッチをはやめ、海面上昇は、6千数百年前には、現在の海面とほぼ同じ高さになったようだ。その後も上昇の勢いは衰えず、6,000年前には、現在より海面が3mも上がった。6,000年前から5,000年前にわたる1,000年間は、あまり大きく海面は変動せずに高海面期が続いた。
 縄文海進が最大となると、この温暖化が食料資源の向上をもたらし、虫歯は一般的なものになった。それと同時に、歯の摩耗が見られなくなる。それは、主食の堅果類を、土器で煮ることによってアク抜きができ、アク抜きの過程で生じたタンニンで皮をなめす技術を発見した為、歯を酷使して皮をなめす必要が無くなったためでもあった。古代人の衣服は、動物の皮を多用した。皮が腐敗したり、硬くなる欠点を取り除くため、古代エジプト時代より、「(ベジタブル)タンニンなめし」が行われていた。
 ドングリ・トチの実・生食も可能なシイの実・ハシバミ(カバノキ科)の実等の堅果類は、その採集時期が秋の1カ月程度に限定されているが、集中的な採集、長期貯蔵が可能な事で主食として縄文人の生活基盤を支えた。その採集には技術が不要で、性別、年齢に関係なく、誰でも行なえた。採集保存が簡単な食料あるにも拘わらず、カロリーは予想以上に高く、”米”は100g当たり148kcalなのに対し、”栗”は156kcal、”シイ”256kcal、”胡桃”に至っては、673kcalと、驚くほどの数値を示す。
 ”胡桃”の食経験は、それほど古くなく、紀元前7,000年前から人類が食用としたとも言われている。脂質が70%をしめ、ビタミンB1、ビタミンEも多い。 縄文人の主食は栗、ドングリなどの堅果類だが、”胡桃”は別格として、カロリーこそ提供するが、タンパク質、脂肪、ビタミン類が殆ど含まれていない。その為、以前ほど、狩猟、漁労による食料の依存度は減少するが、依然として必須の食物であった。なにより、美味なごちそう、得がたい食料でもあったが、動物性食料の全体に占める比率はそれ程大きくはなかった。

縄文人の病気
 縄文人は現代人と比べると、大変虫歯は少ないが、食料採集民としては異常な程虫歯が多い。この事からも縄文人が環境に恵まれ、多種多様の食料を得ていた事が分かる。その一方、中期以降抜歯の風習が広まり、実際より虫歯を少なく見せる結果となった。
 歯学を専門とする井上直彦氏によると、縄文人は食料採集民の中で虫歯率(現在ある歯の中で虫歯が占める割合)が約10%と高く、アメリカのカリフォルニア・インディアンの約25%に次ぐ高率という。
 千葉県市川市柏井1丁目にある今島田(いましまだ)貝塚では、下顎の左側の臼歯(きゅうし)2本が虫歯になった約4,500年前の男性の人骨が出土しており、市川考古博物館の常設展示室に展示されている。この人骨の臼歯には、小さい方は直径・深さとも約4mm、大きい方は歯の片側半分に及ぶ穴があいており、歯医者などいなかった時代、こうした歯の痛みに襲われた縄文人は、一体どのように耐えていたのか?世界的風俗であるが、縄文時代には抜歯がごく一般的に行われていた。抜歯は治療の一環でもあった。
 興味深い例として、兵庫県の宝塚市や岡山県の笠岡市では、地下水にフツ素が溶け込んでいることから、そこに住む人々の虫歯率は時代を問わず他地域より低いらしく、縄文時代に属する笠岡市津雲(つくも)貝塚の人骨にも虫歯が少ないと言われている。現代人は、医学の発達によってフツ素の効能を知っており、積極的に虫歯予防に使われている。フツ素の効能を知らなかった津雲貝塚の縄文人たちも、その恩恵に預かっていた。

 茨城県行方市(なめがたし)の若海貝塚(わかうみ)で平成10(1998)年に推定身長170pの縄文時代中期の人骨が出土した。2011年7月7日、富山市呉羽町北の小竹(おだけ)貝塚で、縄文時代としては過去最大級の身長170p超と推測される男性人骨が見つかった事を、富山県文化振興財団と東京の国立科学博物館が7日明らかにした。縄文時代前期(約6,000〜5,500年前)の人骨群の一つで、骨の状態などから20歳代とみられている。縄文人男性の平均身長は150p台後半である。

 縄文人の生業は専ら肉体労働だ。発掘された人骨の多くの腰椎に、椎間板の退行性変化と椎体部の骨棘(こっきょく;骨の一部が骨端付近で棘状に突出する変形性関節症)形成が見られる。この変異は現代人はもとより、江戸時代と較べても、遙かに早い年齢層で発症している。同様、膝にも関節軟骨の摩耗による変形性関節症が極めて多い。それも30才の成人の変化だ。手関節から指関節まで同じような状況であるから、その日常が如何に肉体を酷使するものであったかが想像される。
 縄文人の骨の変化で特記されるべき事は骨折が非常に多いことだ。狩猟の際に全力で走り獣と戦う。前腕骨の骨折の頻度が高い。橈骨(とうこつ:前腕の親指側にある長骨)にも尺骨にも同等に骨折が認められている。荒野を獲物を追い全力疾走すれば転倒がつきものだ。深刻なのは大腿骨の骨折で、その後の歩行もままならず、その後の苦難が想像される。当時副木などによる骨折固定が既に行われていた。骨折の接合部を見ると、縄文人も懸命に、生業への復帰を模索し努力していた。

 縄文人の歯の噛み合わせは、圧倒的に多くが上下の歯が毛抜きの刃のように重なり合う。現代日本人のほとんどは、上の前歯が下の前歯に覆いかぶさる噛み合わせになっている。人類の歯はもともと、上下 噛み合わせだったといわれ、縄文人は歯並びが良く、「親知らず」が生えそろっている例がほとんどだったようだ。食生活などの変化でよく噛むことをしなくなった現代日本人では下顎(したあご)が退化して歯並びが悪くなったり、歯の数が減ったりする。

  縄文人は、意外にも病気に悩まされていて、リュウマチ・小児麻痺・小頭症・口蓋裂・栄養失調・運動による骨折や関節が摩耗して起こる変形性関節症等による痛みにとか、さらに蓄膿症による副鼻孔炎などと、かなり持病が多かったようだ。しかしながら長期の治療を要する怪我をしても、家族や集落の仲間により、手厚く保護されていた。ただ、深刻な伝染病などは、晩期に大陸から人々が渡って来るまではなかったようで、三内丸山古墳等の大集落の終焉を、伝染病のせいに、簡単に帰することが出来ない。

  縄文人は保健衛生にも留意して、縄文時代のトイレは、川岸に張り出した所にあり、川に直接排便をした。最近まで日本ではあたりまえだった汲み取り式よりも、格段に衛生的で天然の水洗便所だ。遺跡では杭の先だけが川底に残っている場合があり、その付近の川底から糞石(ウンチの化石)が見つかる事がある。
 弥生時代も縄文時代と同じように、川に直接排泄をした。やがて川にロープが張られ、それにつかまって用をたすようになる。さらに川の中に小屋を置き、そこで排便をする。これが厠(川屋)の原型で語源でもある。 川のないところでは、高下駄を履いて路傍に糞尿を垂れていた。高下駄は排泄物が着物につくのを防ぐために履いた。

 それに縄文時代には、肺結核は無かったようだ。結核は家畜の病気であったものが約1万年ほど前、人に感染したものといわれている。昭和29年迄死亡原因の第一位は結核でしあった。結核は弥生時代から古墳時代にかけて、大陸から渡来人によって日本にもたらされた。それ以降多くの若者の命を奪って来た。
 日本では、大正10年から14年の人□について作成された生命表が、最初で正確とされている。さて、これより古い時代の生命表は、ロンドン市民について17世紀中頃に作成されたのものが最古で、この時の平均寿命は、わずか18.2歳でした。

 日本でも、縄文時代の遺跡(主に貝塚)から出土した人骨を調べて寿命の推定がおこなわれた。この推定では縄文時代早期から晩期までの遺跡から出土した人骨のうち、死亡時年齢が15歳以上と推定された男女合計235例のデータに基づき生命表が作成された。寿命が推定されたが、ここでは15歳以上を対象としたので子供の骨の出土数が成人と比較して少なかったようだ。作成された生命表で、15歳の縄文人の平均余命は、男女ともに16年となりました。
 では、縄文時代の平均寿命は、15+16で31歳でしょうか?しかし、この中には15歳までに死亡した子供が含まれていません。このために、15歳までの死亡数については、18世紀前半のヨーロッパの生命表を適用することが試され、縄文人の平均寿命が15歳と推定された。もちろん、縄文時代では18世紀のヨーロッパよりも子供の死亡数が多かった。実際の平均寿命でいえば当然15歳よりも若かった。
 一方、人類学者の小林和正氏は、全国から出土した縄文時代後半の人骨235体分を調査し、15歳以上の平均死亡年齢が男性で31.1歳、女性で31.3歳である事と、単純な平均死亡年齢にすると男女とも14.6歳と結論している。実際問題として、医療技術が未発達であった縄文時代は幼児の死亡率が極めて高く、病気・けが・栄養失調・出産・過労など、命を縮める要因が極めて数多くあった。 小林氏は、人口の6割程度が15歳に達するまでに死んでしまう社会が縄文時代にあったとするれば、平均8人程度の子どもを産まないと人口が保てないとも指摘しており、縄文時代が多産であったことが分かる。
 どうして、このような現象がおこるのかというと、狩猟・漁撈・採集の生活は、自然条件に左右されて、とても不安定であった。多くの人が成人になる前に死亡している。海岸の魚介資源に恵まれた神奈川県の平板貝塚で、壮年男子の骨が出土しているが、その骨には、数度にわたる飢餓の痕跡・骨の成長が停止する餓死線を遺している。ロマンの縄文時代を実現したのはどこの地域にあったのであろうか。 

縄文時代の風景
 縄文時代が始まる1万数千年前は、一時代前の地質時代、第4紀更新世(こうしんせい)であった。それからヴュルム氷期の終わる今から1万年ほど前、現世の完新世が始まる頃まで、日本では雪線の高さが今よりおよそ1,000m低く、北海道の日高山脈や東北地方の高山、北アルプスには氷河があったと推定されている。氷河期になると海や湖沼や川が氷りついて水蒸気が減少し、雨が降らない乾いた凍土となる。高地では樹木や草が生えにくくなり、海面が下がる海退現象が生じた。
 日本列島は島でなく、中国大陸の外縁部となり、日本海は荒涼とした内海であった。中国大陸の黄土地帯は凍原化し、その過酷な乾き切った寒気に耐えられなくなって、比較的温暖で湿潤な日本の太平洋沿岸部へ逃れてきたのが、ナウマンゾウ・オオツノシカや蒙古馬や野牛等でした。
 当時、霧ケ峰はツンドラで、樹木はハイマツとナナカマド・笹ぐらいであったが、今から約1万3千年前に最後の氷河期が終わり、その後約1万年前には、温暖な間氷期への過渡期といえる比較的温暖な晩氷期が始まった。これが縄文時代草創期の風景で、八ヶ岳の活発だった火山活動は、3万年前から4万年前の間に、一応休止しいた。
 草創期、諏訪地方周辺の木曽御岳・乗鞍岳の火山活動は、依然として活発で、噴火を繰り返してはその火山灰を、降り積もらせ、現在の諏訪地方の赤土層を形成した。この時代、諏訪湖を通して見る富士山は、常に噴煙を高く噴き上げていて、大噴火を連続的に繰り返して火山弾を放出していた。太平洋の海底火山から誕生して、噴煙が3,000m位の高さになる、1万年前の前後からの大爆裂を繰り返し、大量の液体状溶岩を高速で広く流出するようになり、今の美しい富士山の形を造っていた。
 
 上川・宮川・横河川の氾濫は、今より格段に激しく広範囲であった。それでも、諏訪湖盆周辺の大地は、森と林に覆われ、豊富な水辺には多くの動物集まり、時にはヘラジカなどの大型獣の姿も見られた。
 
 縄文時代早期は、約1万年前に始まるが、その頃に氷河期は終わり、次第に温暖化して現代に至る後氷期時代に入った。日本各地の噴火活動も次第に減少し、温暖化の進行は、同時に針葉樹林帯を広げ、低地から中高地へ、やがて高地までも覆われるようになった。この樹林帯の中で、動植物・魚・鳥類は繁殖しした。それを獲物とする人類も徐々に増加した。
 6,500年前は、現代より3度位高い温度となり、温暖化がピークに達した。縄文時代前期(6,000〜5,000年前)になると、諏訪湖周辺では、春の山菜・栗・あけび・団栗・秋の茸等が格段に増え、その上、複雑な入り江で広がる諏訪湖の湖魚と、縦横に流れる30以上の河川の川魚等と、その生活資源は極めて豊かであった。
 八ヶ岳西南麓は、食料資源豊富な落葉樹林帯の高原に変移する。八ケ岳山麓の上川流域の北西側・車山霧ケ峰東南麓の山裾の「山浦」地域は、多数の小河川による小扇状地と丘陵地を展開し、猪・鹿・狸・狐・兎等動物資源と岩魚・蛙その他の魚介類の供給地となった。狩猟の獲物と川魚と木の実(栗・胡桃・どんぐり・山葡萄・あけび)等に恵まれ、その集落は、いくつも分立して発展していった。
 上川流域の東側には、大小入り組んだ川筋が流れ、西に緩やかに傾斜する広い山麓を構成して、諏訪湖盆にまで達し、上川の沖積地へと伸びていく。その台地は平坦で、日照時間も長く、湧き水はいたる所で流れ、ミズナラなどの落葉樹林帯に覆われ、それが縄文中期前後に、人口が縄文時代を通じて、最も多くなった要因となった。災害の少ない事、動物・植物の食料資源の豊富な事、その当時最高の石器素材・黒曜石の産地が近かった事、そうした恵まれた環境の中で、その集落は「ムラ」へと発展し、芸術性の高い土偶・土器を創作するための生活基盤・集落を営むようになった。


        
諏訪湖盆地域の黒曜石
八ヶ岳の麦草峠産の黒曜石 八島ヶ原湿原周辺は、箱根畑宿、神津島と並ぶ全国でも屈指の黒曜石の産地で、星ケ塔、星ケ台、和田峠一帯、星糞峠、そして最近発見された東俣等、多数の原石採取地がある。いずれも諏訪湖から直線で10kmと離れていない1日で充分往復可能な距離であった。
 当時は、沢・川・獣道が道筋となり、和田峠から砥川一筋のルート、八島遺跡群から合倉沢と観音沢の二筋が合流して東俣川となって砥川に流れ込むルート、 霧ケ峰から沢筋を下って角間川一筋、池のくるみから桧沢川を経て米沢へ抜けるルーとト、いずれも谷は深浅があるが、川筋はそれほど急峻でなかった。熊に脅えながら下ってみると、諏訪湖にいかに近いかが分かる。第二次大戦前後まで、茅野・諏訪から車山・池のくるみ・八島ヶ原へと直線に近い山道が霧ケ峰高原に向かっていた。
 静岡県浜松市前平(まえひら)V遺跡で、直径1m位の浅い土坑から、120点、そのほとんどから信州産の黒曜石原石が出土した。諏訪湖周辺の遺跡、あるいは洞窟からは黒曜石の集積貯蔵の遺構が多数発見されているが、前平V遺跡は諏訪湖を水源とする天竜川を、約180km下った所にある。
 発見された黒曜石の原石は小粒で5cm超のものは少なく、この集落用の石鏃製作の原料とみられている。天竜川を遡り、諏訪湖周辺の集積所兼交易所で入手したようだ。  
 一方、諏訪地方の各地の遺跡では、その時代ごとに地場の特徴を備えた各種土器形式とは異質な土器が、少数混じって出土する事例が多い。茅野市の「縄文のビーナス」が出土した棚田遺跡からは、関西系の船元(ふなもと)式が、諏訪市の千鹿頭社(ちかとうしゃ)遺跡からは、関東地方の関山(せきやま)式が、原村の大石遺跡では、関西系の鷹島(たかしま)式と北陸の上山田(かみやまだ)式等、例を挙げれば限りがない。  
 そこで推測しえることは、石鏃材として最高の原料・黒曜石を入手するために、各地のムラの代表者か元気者が、地元の土器に地場の海産物や獣肉を塩漬けにして、諏訪の黒曜石集積所兼交易所におもむき、その交換レートの交渉をしたのであろうか。  
 縄文人は土器の煮沸機能だけではなく、長期は無理にしても、経験的に食材の腐敗を遅らせる保存能力に気付いており、燻製や干物にしなくても、土器で保存すれば腐食を遅らせ、なお紐で吊るせば携帯も可能で、適宜、調理もできる。それは未知なる遠隔地へと、その行動範囲を広げることを可能にしたようだ。
  縄文文化は、ふつう以下に示す6期に区分される。それに合わせて諏訪地方の縄文時代を年代分けする。  
    ●草創期(そうそうき) 縄文文化の黎明期(1万数千年〜約1万前)  
    ●早期(そうき) 縄文文化の成立期(約1万〜6,000年前)  
    ●前期(ぜんき) 縄文文化の発展期(約6,000〜5,000年前)  
    ●中期(ちゅうき) 縄文文化の爛熟期(約5,000〜4,000年前)  
    ●後期(こうき) 縄文文化の転機(約4,000〜3,000年前)  
    ●晩期(ばんき) 縄文文化の終着点(約3,000〜2,300年前)

縄文時代の狩猟具・漁労具
 石器時代を通して狩猟具の石槍の製作は生業を支える最重要な仕事であった。槍穂としての槍先形尖頭器は依然として使われ続くが、この時代に特記されるのが石鏃の登場であった。上諏訪大和(おわ)区千本川沖、現湖岸より約300m、現在の湖面(759.3m)より下の約2mにある諏訪湖底曽根遺跡では、万を数える大量の石器と石屑が採集された。おびただしい黒曜石製石鏃や石器類の保有は、石器製作が集中的に営まれていた証でもある。両面調整の槍先形尖頭器と共に縄文草創期から登場する長脚鏃三角鏃などが製作されていた。伴出した鍬形鏃は縄文早期に広く使用され、時代を特定できる史料である。
 石鏃の中で片脚が欠損したもの、左右非対称のものもあるが、細石器で主に漁労用のモリ・ヤスなどの替刃とみられる。 旧石器時代、既にナウマンゾウ・オオツノシカなど大形獣が絶滅し、縄文時代には弓矢猟が主となり石鏃が最大に作られ性能も工夫された。旧石器時代の投げ槍を主体とする槍形尖頭器が工夫され石鏃となったともいわれている。熊・猪・鹿・兎・狼・狐・狸など敏捷な中小形が獲物のため技術が向上し、飛ぶ鳥を射殺するまでになった。
 石鏃は縄文時代の狩猟具を代表する存在であるが弥生時代に至るまで製作されていた。ただ諏訪地方では縄文草創期の曽根遺跡や前期の遺跡では数多く作られるが、中期では少なくなる傾向がある。温暖化による生業の変化と動物資源の減少が予想される。
 諏訪湖とその流入河川では漁労を発展させた。投網や仕掛網の錘用の石錘は後期旧石器時代でも既に少量みられ、縄文時代に最も多くなり、約5,000年前の前期後半から登場する土器片錘(へんすい)の起源となった。土器の破片を正方形や長方形に仕立て、長軸の両端に切り込みを入れて糸掛けにした。やがて手づくねで長方形の漁網錘・成形土錘も作られた。片羽町B遺跡から出土した縄文中期の土器片錘は厚手で形も大きい。網目の大きい漁網で、大形のコイや川マスを獲っていたようだ。
 縄文後期になると「磨り切り石錘(すりきりせきすい)」が登場する。粘板岩・泥岩など柔らかい長楕円状の石材を磨き、硬い石でこすり両端に2筋・十文字・一文字に溝を掘り糸掛けした。諏訪市内の穴場遺跡・大安寺遺跡からは、石錘原石に砂岩製の刃器で磨り切り加工を施す全工程の史料が発掘されている。磨り切り石錘は約4,000年前の縄文後期初頭の称名寺式土器の時代に出現する。当時土器が薄手化し素焼であれば脆く実用に耐えず、加工し易い粘板岩・泥岩で代替したようだ。
 石錘でも礫石錘は河川の上流部の縄文中期の遺跡で出土している。川床の礫石を活用したためである。岡谷市横河川上流の上向遺跡・上ノ原遺跡・梨久保遺跡と茅野市上川流域で出土している。湖岸と下流域では、川床が砂泥質のため漁網錘は、土器片錘が広く分布する。下諏訪町高木殿村遺跡・稲荷平遺跡、岡谷市天竜町海戸遺跡・船霊社(ふなだましや)遺跡、諏訪市有賀十二ノ后遺跡(じゅうにのきいせき)と湖岸から4km離れる諏訪市大熊の荒神山遺跡から出土している。荒神山遺跡からは縄文中期土器の土錘が多量に発掘されたが、石錘はみられなかった。この縄文中期の漁労は、荒神山遺跡を下った諏訪市の宮川から湖南の新川間が漁場で、産卵期の5月から6月にかけて遡上するフナ・アカウオ・ハヤ・カワマス・ウグイ・ナマズなどが対象であったようだ。
 河川上流に遡上する魚は、産卵期のアカウオ・ヤマメ・ハヤ・アカズなどの季節漁労で、漁獲期に可能な限り捕獲し燻製にし長期保存を心掛けた。やがて産卵期に効率的に集中する漁労は次世代の収穫を不能にした。諏訪地方では後期末葉には漁網錘がみられなくなる。諏訪湖と流入河川の魚介類資源が枯渇したようだ。
 現代でも諏訪湖で行われているタケタカ漁は、水中にカスミ網をはり、そこにかかった魚をとる漁法で、タケタカはコイ・フナを獲る網をいい、コイやフナは湖水を一周する習性があるので、湖水の一番深い所に網を張る。その水深を変えるため網の上に木製の浮子(うき、うけ)、下には石製・土製の沈子(ちんし)を付ける。その数を加減して仕掛ける。
 茅野市の音無川右岸の栃窪岩陰遺跡や同じく重文「仮面の女神」が出土した中原遺跡の三号住居祉から、骨・堅果類の食料残滓が検出されている。骨片はエチゴノウサギ・ニホンジカ・イノシシ・アナグマ・コイなどが鑑定されている。
植物採集用と生活加工具
 縄文時代は旧石器時代以上に木の実を重要な食料源としてきた。貯蔵穴とよばれる遺構には、ミズナラ・コナラ・カシワ・クヌギなどのドングリ類、ブナ・トチノキ・クルミ・ハシバミ・クリなどのたくさんの木の実が貯えられていた。木の実の多くは殻をとり、磨石石皿で実を粉にし、アク抜きしクッキー状に加工したようだ。
 磨石・石皿は旧石器時代にもあったが縄文時代に増加し、縄文早期の押型文土器の頃、穀磨石(こくずりいし)が盛んに作られるが、日常生活の必需品となるのは気候の温暖化により大量に採集が可能となった縄文前期に入ってからだ。
 打製石斧は木の伐採・加工用というより、鍬用の役割が多く特に撥形(ばちがた)などは「土掘り具」であった。竪穴住居の柱建ての穴、ヤマユリ、コオニユリ、オニユリの球根の畑栽培の農具、ヤマイモ・ジネンジョの根茎類の掘り起こしなどに使われた。
 打製石斧は縄文中期、中部高地で爆発的に作られて行く。 旧石器時代以来石器は、黒曜石・チャート・安山岩などの礫を打ち欠いて剥片とし、それを加工して作る「剥片石器」と、礫の形状に余り手を加えず鋭い縁辺を調整加工し刃にするだけの「礫核石器」がある。前者には石鏃石匙石錐などがあり、後者は礫の重さを利用して砕いたり、断ち切ったりする斧などに代表される。
 遺跡からは定形石器よりも圧倒的に多くの剥片が出土する。それも鋭い縁辺に細かい傷や刃こぼれがあったりする。石器製作途中で生じる残滓・ズリも無駄にされず、獣肉・骨類の切断加工、獣皮の剥離、植物の実の摘み取り用、あるいは矢柄の調整などと用途は多岐であった。このように明確な加工を伴わない石器を「不定形石器」・「使用痕のある剥片」とよぶ。