諏訪の由来 諏訪の語源 諏訪の字源 諏訪の意味
『洲』とは、川・湖・海の底に土砂がたまり、高く盛り上がり水面上に現れた干潟で、河口付近等の比較的浅い場所にできる。 Top


        
 
みづうみの 氷は解けて なほ寒し 三日月の影
           波にうつろふ


 夕焼空 焦げきはまれる 下にして 氷らんとする 
           湖のしづけさ

 信濃路は いつ春ならん 夕づく日 入りてしまらく 
           黄なる空のいろ


  明治 ・ 大正 時代の アララギ派 歌人
  上諏訪村角間(現諏訪市元町) 島木 赤彦


 諏訪の地名の字源と語源

 「諏」は「聚謀」を言い、「諏訪」とは「多くの人に問いはかる」を意味する。『新唐書.卷一五八.張建封傳』には『軍中事多所諏訪(陣中さかんに作戦会議をした)』とあり、「諏」とは大勢に謀ることであり、「訪」とは広く謀ることである。つまり諏も訪もともに謀るという意味がある。正確には「議る」が妥当である。

 諏訪大社発祥の地にある諏訪大社前宮は、宮川の三角州を望む高台にある。諏訪大社の古代勢力の人々は、諏訪湖をかつては「州端の海」と呼び臨んでいたようだ。
 (故爾に其の大国主神に問ひたまひしく、「今汝が子、事代主神、如此白しぬ。亦白すべき子有りや。」ととひたまひき。
 是に亦白ししく、「亦我が子、建御名方神有り。此れを除きては無し。」とまをしき。
 如此白す間に、其の建御名方神、千引の石を手に擎げて来て、「誰ぞ我が国に来て、忍び忍びに如此物言ふ。然らば力競べ為む。故、我先に其の御手を取らむ。」と言ひき。
 故、其の御手を取らしむれば、即ち立氷に取り成し、亦剱刃に取り成しつ。故爾に懼りて退き居りき。爾に其の建御名方神の手を取らむと乞ひ帰して取りたまへば、若葦を取るが如、み批ぎて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去にき。
 故、追ひ往きて、科野国の州羽の海に迫め到りて、殺さむとしたまひし時、建御名方神白ししく、 「恐し。我をな殺したまひそ。此の地を除きては、他處に行かじ。亦我が父、大国主神の命に違はじ。八重事代主神の言に違はじ。此の葦原中国は、天つ神の御子の命の随に獻らむ。」とまをしき。 )

 「州」は「2つの川の流れの中に囲まれた土地」の象形文字から「中州」を意味する「洲」という漢字から成立した。諏訪大社発祥の地に建つ諏訪大社前宮は、高遠から南下する藤沢川の河岸段丘から、諏訪湖の南岸に広大な三角州を形成する2つ川、「宮川」と「上川」が並走する八ヶ岳の西南麓を一望する。
 『端』には、はし・すえ・はた等が通常の使い方であるが、「端正」・「端麗」・「端立」・「端良」など、「ただしい。きちんとしている。」と言う意味でも多用される。「端門」とは「宮城の正門」であり、「端座」・「端詎」に通じるのであれば、諏訪大社上社の御神体守屋山を背景に、その発祥の地である「前宮」が「端立」する光景が浮かぶ。
 当寺の諏訪湖の南方に広がる沖積地は、坂室から木船に至るまで入り江と湿地が入り組んでいた。湖南(こなみ)西部は沖積地から急峻な傾斜で、有賀峠や後山の山地にかけ上がっている。一方、現在の小坂から中州、高部、宮川までは湖岸沿いに、広い扇状台地が展開していた。

  『古事記』では建御名方神(たけみなかたのかみ)が「科野国洲羽海」に逃れ来たとある。『日本書紀』では「須波」、続日本紀では「諏方」と書いた。持統天皇の勅祭に関する記述では「須波神」としている。『令集解(りょうのしゅうげ)』では須芳山嶺(すわやまのね)の道を改修したと記している。『延喜式』神名帳では「諏方」とあり、上社『大祝信重解状』の藤島社伝説で「藤諏方ノ森」と書いている。平安時代初期の『倭名類聚抄』で初めて「諏訪」と「方」に「言」の偏がつく。
 和銅6(713)年の『続日本紀』に「畿内7道諸国郡郷の名は好字を用いよ」と令したと記されている。しかし諏訪の字は、その後も一貫しない。
 江戸時代の初め諏訪郡主頼忠は、長男頼水を高島藩初代藩主とし、4男頼広を上社大祝に立てた。以後その嫡流が、それぞれ継承する祭政分離をした。そして「藩主家」は「諏訪」を、「大祝家」は「諏方」を「姓」とした。
 正保4(1647)年に作成された『正保信濃国絵図』には「高島藩諏訪出雲守居城」とある。隣藩松本藩が享保9(1724)年に編纂した『信府統紀』には「諏方大祝部は代々諏方氏なり、近年守護の名字は諏訪と書く、神職には下の字の偏を除きて、諏方と書くとかや」と記録している。江戸期になると「藩主家」と「大祝家」の表記を変えていたことが分かる。
 中世・近世では「諏方」が多く用いられている。天保5(1834)年、高島藩は「2月6日以後は諏訪と書くよう」藩命を出している。しかし江戸時代後期の編纂物の多くは「諏方」を用いている。明治6年の町制施行で上諏訪町となり、昭和16年、諏訪市制施行となり、現代では「諏訪」が主流となる。 諏訪の語源も諸説あって 本居宣長の「古事記伝」で、国ゆずりの神話から、スワ地方は行きずまり、すぼまりの地形から「建御名方神の出雲より逃れ来て、此湖岸に至り、終に道絶え逃るすべなく、須夫麻理太(すぶまりた)へる由の名にやと」説き、それを簡略化して「スワ」となったとしている。平田篤胤は『古事記伝』で、同じく国ゆずりの神話から、建御名方刀美神が「すは此処ぞ我が住むべき国也」と述べたからとしている。いずれも空疎で牽強に過ぎる。

 古代や現代の諏訪湖の風景と地形を想像すれば「洲輪」が浮かぶ、湖岸の光景と湖の波うつ情景からは「須波」「洲波」が発想される。建御名方神の名前の由来は水潟(みなかた)に通じる。諏訪の現在の地形は、氷河期の終わり頃に形成された。諏訪湖東岸大和(おわ)から四賀までの山麓とその山間の谷が台地を構成して、長い干潟を通して諏訪湖に臨んでいた。現在の諏訪市役所や上川・沖田の周辺は、湖面であった。湖の南方に広がる沖積地は、坂室から木船に至るまで入り江と湿地が入り組んでいた。湖南(こなみ)西部は沖積地から急峻な傾斜で、有賀峠や後山の山地にかけ上がっている。一方、現在の小坂から中州、高部、宮川までは湖岸沿いに、広い扇状台地が展開していたようだ。
 承平年間(931年~938年)に、源順(みなもとのしたごう)が編纂した『倭名類聚抄』には「菅郷」は土武(土無;下諏訪町富部)・佐補(佐布;上伊那郡中箕輪村)・美和(上伊那郡高遠町)・桑原(上諏訪上・下桑原)・神戸(中州から四賀)・山鹿(南大塩村を中心に豊平・湖東地区)・弖良(てら;上伊那郡手良村)の7郷とあり現在の上伊那も含まれていた。室町時代初期に作成された「諏方大明神絵詞(すわだいみょうじんえことば)」には、「信州の至り給えし時、伊那郡と諏訪郡との堺に大田切と云う所にて」とあり、当時の諏訪郡は現在の駒ヶ根市の大田切川以北にまで及んでいた。
 「菅郷」の「スゲ」が「諏訪」に転化したとなれば、菅が多く繁茂する郷であるから大いに説得力がある。しかも、至る所に繁茂し、カサスゲ・マスクサ・コウボウムギ・カンスゲなど日本には約200種もある。スゲは、実用的に蓑・笠・敷物に用いられいるが、同じ目的にはワラやカヤ、イグサなどイネ科・イグサ科・ミクリ科に属するものも種々あり、今でも東南アジアの一部での雨具には、葉巾の広いのを笠に、比較的に狭いのを蓑にするなど、目的によって使い分けがされている。スゲの類は軽く光沢があるので笠や装飾品などに用途が広い。
 菅は、万葉集に長歌・短歌合わせて、なんと64首にも引用されている。「古事記中 神武」にも、「芦原の しこけき小屋に 須賀たたみ、いやさや敷きて」と詠まれている。
 (大和物語の中に「苔の衣(こけのころも)」が使われる。こけ-む・す は【苔生す・苔産す】は、「長い年月を経るなどの意」を暗に示すことが多い。「しこけき」の「し」は強意の副助詞、古語の助動詞「き」は過去を表わす。
 いやさやしく【弥清敷く】は、【さや】がさやさやと清らかな音がするさまであれば、いかにも【清らかに敷き重ねる】。)

 万葉集では、草本類で比較すれば、スゲはハギやアシに次いで多く49首も詠まれている。
 あしひきの 名負ふ山菅 押し伏せて君し結ばば 逢はずあらめやも
 (「あしひきの」は「山」を導く枕詞、大和の山々はなだらかな裾野、その稜線を表しか?
 ただ、万葉集では山菅(ヤマスゲ)詠んだ歌が13首ある。湿地や川岸に繁茂するスゲとは別種とされている。

 菅は現代の植物学で言うとカヤツリグサ科のスゲ属に類する腺形の葉の植物である。万葉集や古事記に出てくる菅は、果たしてどの種に該適すべきか不明であるが、蓑・笠・敷物・家萱、そして自給肥料として重要な刈敷など実用的な用途が広い、日常には不可欠な生活用材である。ワラやカヤやイグサなどイネ科・イ科・ミクリ科に属するものも種々ある。現代でも東南アジアの一部での雨具は、葉巾の広いのを笠に、比較的に狭いのを蓑にするが目的によって使分けされる。スゲの類は軽いことと光沢があるので笠や装飾品に用いられる。
 
 諏訪湖の標高は759m、芦ノ湖の725mを超えている。

  諏訪湖周辺の宿、飲食店にみられる屋号「鵞湖(がこ)」の由来は、正安2(1300)年、下諏訪町東町中に慈雲寺を開山した元の渡来僧一山一寧(いつさんいちねい)が名付けた事に始まる。 僧は、台州臨海県(現在の浙江省台州地区臨海市)の出身で、中国の信州、現在の江西省鉛山県の鵞湖を、日本の信州諏訪湖の美称とした。

 二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖(クビライ)の後を継いだ成宗は、平和裏に日本を従属国とするべく愚渓如智に3度目の使者を命ずる。当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があった。そのため、補陀落山観音寺の住職であった愚渓如智が使者に選ばれた。
 しかし、弘安5年(1282年)の最初の渡航は悪天候によって阻まれ、弘安7年(1284年)には対馬まで辿り着くも、日本行きを拒む船員等の騒乱によって正使王積翁が殺害され中止された。度重なる難事と老弱とが重なり、代わりに愚渓の後継で観音寺の住職となった一山一寧を推薦した。 成宗は一山一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本に朝貢を命じる国使に任じた。正安元(1299)年に博多入りするも、伊豆の修禅寺に幽閉された。その学識と有徳が知れ渡ると、執権北条貞時は鎌倉近くの草庵に移した。僧俗問わず連日、その草庵を訪れた。貞時も厚遇し衰退していた鎌倉の建長寺を再建し、その住持として迎えた。
 後に浄智寺を経て、正和2(1313)年、規庵祖円禅師の後継として、後宇多法皇の招請をうけ、京にのぼり南禅寺の住持となり、文保元(1317)年10月24日に南禅寺で逝去した。71才であった。花園天皇より「一山国師」と諡号された。師は南宋朱子学の新注を日本に伝え日本朱子学の祖ともされる。特に書画に巧みで、また門人希望者に「偈頌(げじゅ;経典中で、詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩をたたえた言葉。4字、5字または7字をもって1句とし、4句から成るものが多い。)」の作成を課した。権力の保護を受けた禅林には、多くの禅僧が集まり、弟子として育成した。後に五山文学の祖とも言われている。門下からは雪村友梅ら五山文学を代表する文人墨客を輩出した。自身も能筆家として知られ墨蹟の多くが重要文化財指定を受けている。

 高島藩3代藩主諏訪忠晴は絵画をよくし、文才もあり、鵞湖子を号した。大坂城山里御門番江戸火消役などの政務に励む一方、寛文4(1644)年、諏訪市博物館の所蔵の「御枕屏風おまくらびょうぶ)」六曲一双を画工に命じて作製させた。諏訪市有形文化財となっている。当時の諏訪地域全域が俯瞰的に描かれ、江戸前期の村落配置や高島城、城下町などの成立期に近い様子をうかがい知ることのできる。屏風の左隻(させき)は諏訪湖、高島城、城下町、宿場町、主な河川、街道などが画題で、諏訪湖上で投網をする漁師や、天竜川への流入部・弁天島も見える。右隻には雪の八ケ岳と、その山麓の集落が描写され、頼岳寺や諏訪大社上社、神宮寺などは、特に細密に描かれている。
  5代藩主忠林(ただとき)は生来から病弱だったため、藩政から逃避して学問の世界にのめり込んだ。詩人としては一流で鵞湖詩と号し、漢詩に鵞湖を多く詠み、以来広く詩文に採り上げられ有名になった。詩集に「鵞湖詩稿」などがある。
 享保18年(1733年)には領内を『諏訪藩主手元絵図』に描かせて、後世の貴重な資料となっている。諏訪の領地の全貌を知るために、各村に命じて描かせた村絵図をもとにして絵師により統一的に描きあげられた。高島藩の統治下にあった109か村を下筋 (23か村) 、東筋 (42か村) 、西筋 (35か村) の3つに分けてそれぞれの分冊として絵地図の形式でまとられている。筑摩郡 (東) の3千石領 (9か村) は西筋に加えられている。

 高島藩の所領は当初は2万7000石だったが、第2代藩主・忠恒は大坂の陣に参陣した功績により元和4年(1618年)に5000石を加増され、3万2000石となった。第3代藩主・忠晴は、明暦3年(1657)3月、忠恒の遺言により忠晴の弟の頼蔭と頼久にそれぞれ1000石を分知して3万石となった。
 諏訪頼蔭に、千石余の埴原村が与えられ、この ときから埴原村は、諏訪氏の分家領となった。頼久は、現在の松本市の市街地の南東の寿地区の村々をあわせて 千石を受けた。
 寿台は元々は松本藩領であったが、移封に伴い藩主の石高にずれが生じたため、1618年に松本藩から高島藩に5,000石分の領地として割譲された。)
 それま での高島藩の東5千石領は、 高島藩3千石と、埴原(諏訪頼蔭)と百瀬(諏訪頼久)の 両知行所に分けられた。
 延宝5年(1677)5月、 年貢が不足するのを理由に、 埴原知行所の諏訪頼蔭は願い 出て、和泉村から110石余 (上和泉)、白姫村から75石 を分けて埴原へ加増された。 和泉村(上和泉は埴原へ)と 神田村は、本家領として諏訪高島藩の所領のまま幕末まで継続 した。
 (松本市の南東部に位置する中山は、江戸時代には、埴原村・和泉村・神田村の三村に分かれていた。 最初は松本藩の領地だったが、その一部の村 が松本藩から分かれて諏訪高島藩の分家領となった。)

 
 慈雲寺の禅寺としての格調の高さに癒されます!!
   慈雲寺の気品漂う紅葉 2023年11月6日  
 「慈雲寺」は、八島ヶ原湿原を源とする砥川の下流域の畔に万治3年(西暦1660年;第4代将軍家綱の治政)建立された。「万治の石仏」や、諏訪大社下社春宮は程近い下流域にあり、当寺は、 中山道を挟んだ高台にあり、千本桜で有名な水月公園の入り口にあたる。その門前から禅寺特有の気品が漂う。
  戦国時代に武田信玄により中興開基され、天桂玄長禅師が第7代住職となり、武田信玄の援助により境内が整備され、現在でも寺紋は武田菱である。
 天桂は門派の寺院を増やしていた。『全国寺院大鑑 上巻』の諏訪郡の部分を参照すると、慈雲寺については「臨済宗妙心寺派」とあった。「臨済宗妙心寺派」の大本山は京都の妙心寺で、臨済宗最大の宗派として知られる。
 ただ、南信地域や美濃と接する木曽などを参照すると、臨済宗の寺で「天桂派」としている寺院は確認できなかった。

 杉並木の苔の参道に、木漏れ陽が差すと、鮮やかな緑の陰影が幽玄な光景となって映し出される。
 天桂禅師お手植えとされる樹齢400年以上のアカマツ「天桂松」の太い主幹は、地上3mの高さ、6つに枝分かれし、東西に17m、南北に13mと生い茂り、その枝々が豊かに地上を覆う樹形は実に豪快で見事である。下諏訪町指定天然記念物になる。
 本堂正面に、広大な回遊式枯山水の石庭があるため「帰錫庭(きしゃくてい)」と名付けられた。神戸・祥福寺僧堂師家の臨済宗妙心寺派の元管長河野太通(こうの たいつう、1930年 - )による作庭で、その施工は明治3年に創業された京都の老舗造園会社「植音(うえおと)」による。
 (「帰」には「帰る」「赴く」「戻る」「往く」の意、「錫」は「錫杖」の略)
 10個の巨石が配置されており、「釈迦十大弟子の庭」とも呼ばれ、修行のための地方伝道から戻るお釈迦様の弟子たちの孤高を、 四国の四万十川源流域の巨石を用いて陰影として現したものと伝えられている。
 本堂裏の庭園は武田信玄の命によるとも伝わり、大きな亀島の浮かぶ池泉鑑賞式庭園で、現在の姿に整えられたのは江戸時代後期の天保8年(1837年)と伝わる。
 裏山には諏訪湖の湖水と数条の河川に囲まれた浮城、高島城を創建した豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉の墓が現存している。 日根野氏は、嫡男の吉明が継ぎ、関ヶ原で東軍に加勢したにもかかわらず、慶長6年(1601年)に石高を半分以下に減らされた上で下野・壬生藩1万2千石として転封された。これは関ヶ原の合戦に戦功がなかったための左遷と思われる。後に豊後府内藩2万石に加増移封されたが、吉明の世嗣吉雄が早世したため継嗣が無く、しかも家臣間で養嗣子相続の筋目騒動が重なり、明暦2年(1656年)、嗣子なく養子もなく所領没収となった(無嗣改易・断絶)。
 大名日根野氏は断絶するが、家名は高吉の2男高継が、慶長7年(1602年)より徳川家康に仕え采地7000石の旗本になり、また高吉の父、日根野弘就(ひろなり)の次男吉時と3男弘正がそれぞれ旗本として朱印を受けている。
 (日根野弘就は賤ヶ岳の戦いでは、羽柴勢に加わっていた。その後、美濃に領地を与えられた。 天正12年(1584年)、豊臣秀吉の命により伊勢に出陣し、尾張に移動すると小牧・長久手の戦いで、弟・日根野盛就らと二重堀砦の守備に就いた。 豊臣勢の撤退時には、細川忠興・木村重茲・長谷川秀一・神子田正治らと殿(しんがり)を努め、日根野弘就は織田信雄を撃退している。 天正13年(1585年)、四国攻めの羽柴秀次に加わり、阿波・脇城を攻撃した。
 日根野弘就は、その後、豊臣秀吉の勘気を被り一時追放されたが、天正18年(1590年)、子の日根野高吉が山中城の戦いなどで功績があったためか許されて、文禄・慶長の役の際には秀吉の使として朝鮮に渡海した。文禄4年(1595年)、秀次事件後の所領の整理が行われ、弘就の所領は伊勢・尾張・三河内に合わせて16,000石となる 。朝鮮攻めでは、豊臣秀吉の使者として朝鮮に渡っている。
 一方、子の日根野高吉は、信濃・高島城に3万8000石を与えられて、7年かけて高島城を完成させた。
 弘就は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍西軍どちらに与するか表立っては明らかにせず、戦後に減封された。慶長7年5月28日(1602年7月17日)に死去した。弘就の遺領は召し上げられ、また信濃国諏訪藩主であった孫の日根野吉明も関ヶ原で東軍に参加したにもかかわらず、慶長6年(1601年)に石高を半分以下に減らされた上で下野国壬生藩へと転封されている。) 

 樹齢300年の慈雲寺のシガンシダレザクラの見頃は、4月上旬から4月中旬 、満開の花が満ち溢れて垂れる傍らで見通すと、境内地の日溜まりに配置される10個の巨石の存在感が見事に映えわたり、その周りの丈が高めの苔の小群生の深緑色の差し色がとても気高く美しく見える!
 その枯山水の景色の移ろいが、四季折々の興趣を添えてくれる。

 慈雲寺は、諏訪大社下社春宮を北東の台地から見下ろす。つまり、春宮の鎮護を目的に建てられた諏訪郡下諏訪町の臨済宗の鬼門寺であり、臨済宗の信州筆頭である。それがゆとりとなり、落ち着いた気品を醸し出している。
 鎌倉時代の諏訪下社大祝(おおほうり;1270~1330)は、早くから弟盛久にその職を譲り鎌倉に出仕した。時の執権、北条貞時に厚く信任された。一方、二度の日本遠征(元寇の役)に失敗したモンゴル帝国の第5代皇帝であり、元朝の初代皇帝クビライは、交渉によって平和裏に日本を従属させるべく、補陀落山観音寺の住職であった一山一寧(いっさんいちねい)を使者として派遣した。
 正安元年(1299年)秋、一山一寧は門人一同のほかに西礀子曇(せいかん すどん)を伴って日本に渡った。後世、日本に禅を伝えた二十四流と称する禅傑の一人となる西礀子曇は、文永8年(1271年)から8年間の滞日経験があり、鎌倉の禅門に知己が多かった。大宰府に入った一山一寧は、元の第2代皇帝成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した鎌倉幕府は一山一寧らを伊豆修禅寺に幽閉した。一山一寧は修善寺で禅三昧の日々を過ごした。間もなく、禅道・漢籍を究めた有徳な僧であるという評判が立ち、一山一寧の赦免を願い出る者が続出し、貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くに草庵を整えた。草庵にあっても、一山一寧の声望は高まり、多くの僧俗が連日のように尋ねた。これを見て貞時もようやく疑念を解く。永仁元年(1293年)の地震による倒壊炎上によって衰退していた建長寺の再建を託し、建長寺10世の住職に迎え自ら帰依した。
 一山一寧は、正和2年(1313年)に後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となった。後宇多上皇は、京都の南禅寺に住まわせ、禅道の根本を問うた。上皇は、この頃から、既に真言密教に関心を深め、この年に、かねてからの希望であった高野山参詣を行っている。参詣の途中、山中にて激しい雷雨に遭い、気を失うほど疲労し、供が後宇多上皇に輿に乗られるように勧めたが、高野山に到着するまで輿に乗らなかったという。
 一山は元国へ帰ることもなく、文保元年(1317年)10月25日、南禅寺で入滅(71歳)した。正中2年(1325年)には、宇多天皇9世孫と伝えられ夢窓疎石が当寺の住職となる。
 一山一寧は、中国「宋」より帰化した僧であったが、執権北条貞時の帰依は篤かった。下社の大祝金刺満貞も帰依し、一山一寧を諏訪に招請して、正安2(1,300)年に諏訪下社の地に慈雲寺を開基した。

 雪村友梅(せっそんゆうばい;正応3年【1290年】 - 貞和2年【1347】)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての臨済宗の禅僧である。父は越後の土豪・一宮氏、母は信濃須田氏、正応3年(1290年)越後白鳥にて生まれる。かつて、新潟県長岡市の近郊は「越後国白鳥荘」または「白鳥郷」と呼ばれていた。幼少期に、鎌倉に出て建長寺の一山一寧に侍童として仕える。帰化僧である一寧の下で、唐語やさまざまな経書・史書などを学びを教えられた。後に比叡山戒壇院で受戒、つづいて京都建仁寺に入門した。
 徳治2年(1307年)18歳の時、渡海して元へ赴く。2年ほど大都(北京)周辺を見て回り、元叟行端・虚谷希陵・東嶼徳海・晦機元煕・叔平□隆 などに参ずる。しかし日元関係の悪化に伴い、日本留学僧は間諜と見なされたため、霅州の獄に繋がれる。叔平も雪村を匿った罪で逮捕され、獄死した。雪村も危うく処刑されかけたが、とっさに無学祖元の臨剣頌を唱えたため、気圧された処刑官が、死罪を延期し、処刑を免れた。
 以後、江南地域ではこの臨剣頌が、祖元ではなく雪村の作であると伝わったということが、数十年後同地を訪れた中巌円月によって記録されている。 死一等を免ぜられて長安に流され、3年後には四川の成都に改めて流謫され、その地で10年を過ごす。この間、さまざまな経書・史書などを学び、 大赦により許された後、長安に戻りそこで3年を過ごす。この頃より帰国の念が募ったが、請われて長安南山翠微寺の住職となり、元の朝廷から「宝覚真空禅師(ほうかく しんくう ぜんじ)」の号を特賜された。  
 元の天暦2年(元徳元年1329年)5月、商船に便乗して博多へ帰朝した。新たに日本へ来朝した明極楚俊・竺仙梵僊らや、同じく帰朝した天岸慧広・物外可什らと同船していた。その後鎌倉へ戻り、翌年には師一山の塔である建長寺玉雲庵の塔主となる。
 その後元徳2年(1331年)、信濃諏訪下社大祝(おおほうり)金刺満貞に招かれ、信濃へ赴く。また同地の神為頼に請われて徳雲寺開山となる。また建武元年(1334年)には豊後大友氏に招かれ、府内の万寿寺に転じ、3年住した。ふたたび京都へ上り栂尾に隠棲したが、播磨守護赤松則村(円心)が小串範秀の推薦により、円心が建立した法雲寺(赤松氏の菩提寺;兵庫県赤穂郡上郡町)の開山として招かれた。紅葉に映える千種川の清流をかつて幽囚されていた蜀(成都)の錦江になぞらえ、山号を金華山とした。
  暦応3年(1340年)足利尊氏・直義兄弟は、京都の万寿寺の住職として雪村を招請したが、雪村は中風により再三固辞する。この頃より中風の症状が重くなり、摂津有馬温泉で療養している。 しかし、貞和元年(1345年)2月、今度は朝廷によって建仁寺の住持を命じられ就任した。盛大な入山式が執り行われ、雪村の名声により宗儀は大いに振るった。翌年11月法兄の石梁仁恭の十三回忌法会の導師を務めるが、楞厳呪第五段の焼香三拝に至って右半身不随となる(脳卒中による麻痺か)。
 朝廷や武家が派遣した医師や薬をすべて断り、12月2日遺偈を左手で書こうとしたが、うまく字にならず、怒って筆を投げつけ、周囲が墨だらけになる中、示寂した。享年57。
 漢詩文 五山文学の最盛期にあって中枢となった僧であり、詩文集としては、在元時代の詩偈を編んだ『岷峨集』や帰朝後の詩文・語録集として『宝覚真空禅師語録』がある。
 (正安2年(1300年)に臨済宗建長寺派の寺院として、慈雲寺は諏訪大社下社大祝の金刺満貞を開基として、一山一寧の開山により創建された。一山の後継に雪村友梅が連なり、信州の触頭となり名刹となった。)
<徳治2年(1307年)18歳の時、渡海して元へ赴く。2年ほど大都(北京)周辺を見て回り、元叟行端・虚谷希陵・東嶼徳海・晦機元煕・叔平□隆[注釈 1]などに参ずる。しかし日元関係の悪化に伴い、日本留学僧は間諜(スパイ)と見なされたため、霅州の獄に繋がれる[3]。叔平も雪村を匿った罪で逮捕され、獄死した。雪村も危うく処刑されかけたが、とっさに無学祖元の臨剣頌を唱えたため、気圧された処刑官が、死罪を延期し、処刑を免れた。以後、江南地域ではこの臨剣頌が、祖元ではなく雪村の作であると伝わったということが、数十年後同地を訪れた中巌円月によって記録されている。 死一等を免ぜられて長安に流され、3年後には四川の成都に改めて流謫され、その地で10年を過ごす。この間、さまざまな経書・史書などを学び、一度暗記したページはちぎって河へ捨てたという。 大赦により許された後、長安に戻りそこで3年を過ごす。この頃より帰国の念が募ったが、請われて長安南山翠微寺の住職となり、元の朝廷から「宝覚真空禅師」の号を特賜された。br>
 中門から山門に向かう杉並木の参道に生える苔の連なりが、歳月の重みが深める森厳さと静やかな風格を醸し出し、境内地に傑出した存在感を漂わす慈雲寺へと導いてくれる。
 山門に導く苔庭の参道は、巨木が連なる杉並木となり、その山門の両側には、金剛力士像が剛胆に仁王立ちし、境内には樹齢400年となる天桂の松が、その風雪を物語る巨大な枝ぶりを鶴翼に広げて、圧倒的な質量で迎い入れてくれる。
 天桂の赤松の前には、山門前と墓地脇の三十三観音が静かに安置されている。その姿と表情は極めて個性的で、時には笑みがこぼれる。
 本堂裏側の庫裏は、積年の巨木により夕光(ゆうかげ)がほどよく和らぎ、その庫裏から眺める池泉庭園は穏やか‥‥。
 慈雲寺には、天桂の松・大梵鐘・竜の口など見所が多く、裏山には高島城を築いた豊臣秀吉の家臣、日根野高吉の墓も時を重ねる。
 日根野高吉は和泉の出身で、信長・秀吉と仕え、天正19(1,590)年の小田原の役で、戦功ありとして諏訪を宛行われた。
 今の高島城は、諏訪湖を防御の要として、独創的技術を駆使し水城として築かれた。日根野高吉は慶長5(1,600)年の関ヶ原の戦いには東軍に与していたが、本戦直前の上杉征伐の途上に病み、6月26日に高島で病没し、この慈雲寺に葬られた。慶安2(1,649)年に、嫡子の当時大分藩主2万石の吉明が、その50回忌の追善供養として五輪塔を建立した。諏訪地方では、最大の五輪塔となる。
 
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