八島ケ湿原 1万2000年の記録 八島湿原内の植物等を観察するには、周囲の木道から双眼鏡・望遠鏡などを利用する必要があります。
    
 湿原表面が水位より高くなるため「高層」湿原と呼ばれるます。水没を嫌うミズゴケ類が湿原周辺よりも中央部によく発達して形成されます。
  それでミズゴケ湿原とも呼ばれます。
 低層湿原は、ヨシ・スゲ湿原と呼ばれ、富栄養的であることなどが特徴です。
標高 1600~1900mにあり、年間平均気温は 5.8℃で北海道と同じような気温です。

八島湿原の八島ヶ池  八島ヶ原湿原(1630m)
 標高1,630mの八島ヶ原湿原は、周囲を湿原よりも10~200m高い尾根に囲まれた凹地に発達した湿原です。南北に620m、東西に1,050mの卵形をしていて、西側に一番大きい八島ヶ池、東側に鎌ヶ池があり、その中間に鬼ヶ泉水(おにがせんすい)と呼ばれる池があります。  尾瀬ヶ原の高層湿原より規模は小さいのですが、形成ははるかに古く、日本最南端の高層湿原です。よく見ると西ドーム、東ドームのふたつの盛り上がりがあり、近くで見るとその大きさに気づかされます。東側のドームの泥炭は7.9m、西側は8.1mに達し、およそ1万2000年余りかかって現在の湿原になりました。
 山々に囲まれた寒冷地の池は、長い歳月の間に、周囲からの土砂の流入や水生植物の進出で徐々に浅くなり、やがて浅い沼となります。沼は、寒冷なために枯れた植物が腐敗分解しないまま堆積され、周囲から徐々に埋められて小さくなります。
 水生植物の遺体が堆積されたところに、ヨシなどのイネ料の植物やオオカサスゲ、カサスゲのようなカヤツリグサ科の植物が群落をつくり、ヨシースゲ泥炭を堆積する低層湿原が形成されます。低層湿原は表面が平らで、少なくとも夏期には水面下になります。また、森林化が進む周囲から栄養分を含んだ水や土砂が流入するため、湿原を潤す水は益々栄養分に富み酸性度が増します。
 有機質肥料の過剰投入と同様の状態となり、そこから腐食酸が発生しさらに酸性度が過多となり、土壌養液の濃度が植物、特に根の養分濃度よりも高くなり、逆浸透により根の養液が土壌中へ浸透拡散し、植物の体内の水分と養分が欠乏する状態となり、殆どの植物が生育不能となります。
 特に寒冷地では、この悪条件に耐えられるミズゴケ類を中心にツルコケモモ・ヒメシャクナゲなどが繁茂します。高等植物は体内に水分を確保するために外側に厚い保護層を発達させています。コケ類にはこのような保護層がなく、水分を直接細胞壁を通して吸入します。水分は蒸散によって失われるため、コケ類は水分を常に補給できる多湿な、又は水が豊富な湿地や沼地に生育します。その植物遺体が積み重なって、分解せず、次第に厚い層を形成するようになり泥炭(でいたん)層が一段と積畳され、その盛り上がった湿地を高層湿原と呼びます。
 ミズゴケは、茎と葉の区別のある茎葉体ですが、独特の 構造をもっていて、軸は木質化し、主軸はほぼ上に伸び 放射状に側面方向に枝を出します。葉は軸の回りに密生 して、葉の細胞には、光合成をしない空洞になった細胞が多数交じっています。この透明細胞の表面に穴があって 内部に多量の水を蓄えられるようになっているのです。泥炭の堆積が進むにつれて、泥炭から出る酸のために湿原の酸性度が高くなり、植物は枯れると益々酸を発生させます。周囲からも栄養分に富んだ水が流入します。泥炭層は保肥性が高いため、周囲も長い年月のうちに富栄養化し、湿原全体が酸性土壌となります。  
 それに適応するミズゴケ類が侵入をはじめます。ミズゴケの成長がよい場所は少しずつ盛り上がり、湿原に小さな凹凸ができてきます。凸地の成長が止まると、ミズゴケは凹地に進出して成長し、今度は凹地が凸地に、凸地は凹地に変わります。その繰り返すうちに、ミズゴケの遺体は泥炭層として堆積され、こんもりと盛り上がった凸レンズ状になり浮き島となります。これが高層湿原です。高層湿原は、主に降水によって潤され、ますます富栄養化します。
 説明の中で出てきた泥炭層について繰り返します。ミズコケ・カヤ・スゲ・落ち葉などの遺体が、冷寒のため腐敗バクテリアの作用を受けることなく分解されず残され、次第に炭化した土層を泥炭層といいます。北部ヨーロッパなどでは、昔から燃料として利用しています。泥炭が、そのまま上へ上へと堆積したものが有機物質に富む泥炭層を形成します。泥炭層は多量の水を含んでいます。このようにミズゴケ類の植物が、寒冷なために枯れても完全に腐敗せずに、一年間に1mmという、ゆっくりなスピードで炭化し、泥炭層が形成されていくわけです。  
 八島湿原では池から低層湿原への移り変わり、先ず大型のヨシで始まり、そこにイワノガリヤス(ムギクサ)・オニナルコスゲなどが繁殖し、それらが枯れて、長い年月を経て、大量に積層されていく、それが、寒冷のため腐食せず、次第に泥炭化して堆積して、低層湿原となり、そこに、トマリスゲ・ヌマガヤが生育し、更に泥炭層が蓄積されました。
 そのため土層内では有機物質の保存がよく、植物性遺物・動物・昆虫なども遺存し、遺跡形成当時の自然環境を知るうえで重要な資料になります。
 八島湿原の鎌ヶ池
 八島湿原の鬼ヶ泉水
 八島湿原のヤマドリゼンマイ
 木道やハイキングコースでは、色鮮やかな花々を間近で見ることができます。

 高層湿原には特有な構造として、湿原の地表面には池塘(ちとう)と呼ばれる池沼(ちしょう)、小凸地(ブルト)や小凹地(シュレンケ)などが見られます。これを地塘と呼んでいます。湿原上の小さな凹地に水がたまり、やがて、ミツガシワなどの水生植物が生えるようになると、みずたまりの周囲に植物が著しい成長をはじめ、その植物遺体が堆積されていきます。堆積により岸が高くなると、水たまりは深さを増して小池となります。さらに成長し、池の深さが増すと、ミツガシワに代わってヒツジグサやオゼコウホネが生えるようになります。それが成長すると池は水生植物も生えない深い池となります。したがって、地塘は、そこに生えている植物の種類によっても、その深さを知ることができるのです。 八島ヶ原湿原の場合は、冬はマイナス25にもなる霧ヶ峰の寒冷な気候のせいで、水の中に微生物がないため、枯れた植物が腐らず、酸性の水を好むミズゴケ類を中心に、1年で約1mmの速度で形成されました。約1万2000年もの間に積もた泥炭層の厚さが、8mにもなりました。寒さだけでなく植物に水分をあたえる霧の存在も重要と考えられます。初期はヤマドリゼンマイなどの湿原植物の生育に適した2つの湿原が、それぞれ泥炭を堆積し、発達しながら接合しました。接合部は鬼ヶ泉水から南にのびる谷です。鎌ヶ池から湿原中央にかけては小山のようにもりあがり、ここには低層湿原植物群落から高層湿原植物群落までの各種の群落がみられます。 八島湿原の典型的なドーム、その上に発達する見事なチャミズゴケの小隆起は、現在では世界的にも有名だそうです。 八島 湿原には、高層化を促すイボミズゴケ、ムラサキミズゴケ、チャミズゴケが多く、ヌマガヤ、トマリスゲ、ツルコケモモ、ヒメシャクナゲ等を伴って斑点状に小隆起地形を形成しています。
 小隆起と小隆起の間には小凹地があり、クロイヌノヒゲモドキ、イトミズゴケが主で、その地形の変化に応じて、ミカヅキグサ、ヤチスギラン等が混じった群落が見られます。
泥炭が厚く発達した八島ヶ池は、ヌマガヤ、チャミズゴケの群落の中に、ヒメシャクナゲ、ツルコケモモ、ヌマガヤが生育しています。鬼ヶ泉水、鎌ヶ池周辺は、ヌマガヤ、イボミズゴケ群落で、ワタスゲ、ホロムイスゲも多いです。また、小低木群落もあり、そこにイヌウメモドキ、サワラ、ノリウツギ、ハイイヌツゲ等が混生しています。目立つのがヤマドリゼンマイ単独の群生です。遊歩道を歩くと、幾度も見られ、その数と規模に驚かされます。

水路には、低層湿原植物のホソバオゼヌマスゲ、アブラガヤ、ヨシを伴う群落が帯状にみられます。

 他には、キリガミネアキノキリンソウやキリガミネアサヒラン、キリガミネヒオウギアヤメなどの八島湿原特有の植物も多いのです。

 昭和14年に国の天然記念物の指定をうけ、さらに昭和35年に、国定公園内の特別保護地区にもなっています。

車山高原レア・メモリー     歴史散歩

  車山創生記 | 八島湿原生成 | 八島遺跡群 |八島遺跡と分水界| 縄文のヒスイ | 縄文時代総説 | 縄文時代の地域的環境 | 縄文草創期 | 縄文早期 | 縄文前期 | 縄文中期 | 縄文時代の民俗学的研究 | 縄文後期 | 縄文晩期 | 弥生時代総説 | 倭国大乱 | 箕子朝鮮 | 扶余史 | 中国からの避難民 | 遼東情勢 | 衛氏朝鮮 | 長江文明 | 黄河文明 | 臨潼姜寨遺跡 | 半坡遺址 | 大汶口文化 | 山東龍山文化 | 中原龍山文化 | 朝鮮新石器時代 | 旧御射山物語 | 諏訪の字源と語源 | 諏訪の古墳群 | 中山道と諏訪の江戸時代 | 阿倍比羅夫と旧東山道 | 大化以降の諏訪の郷村 | 長野県の積石塚古墳 | 諏訪郡の御牧 | 古代塩原之牧と山鹿牧 | 蕨手太刀と諏訪武士 | 信濃武士誕生史  | 佐久武士誕生史 | 諏訪武士誕生史 | 諏訪家と武家の棟梁源氏との関係 | 中先代の乱と諏訪一族 | 室町・戦国の諏訪氏 | 佐久・伴野氏 | 佐久・大井氏盛衰記 |北信の雄・村上氏 | 鎌倉幕府滅亡から南北朝時代の信濃武士 | 村上信貞の時代 | 大塔合戦(信濃国一揆) | 小笠原政康、信濃国を制覇す! | 信濃戦国時代前期 | 信濃戦国時代後期 | 真田幸隆と武田信玄 | 真田昌幸の生涯 |戦国大名小笠原氏の没落!| | 諏訪氏と武田氏 | 諏訪家再興 | 諏訪湖・高島城 | 高島藩お家騒動 | 江戸期の諏訪民俗史 | 江戸期の北山村 | 坂本 養川汐 | 諏訪と浜松を結ぶ中馬と通船 | 富士川通船と中馬 | 大門街道湯川村 | 諏訪の民話 | 車山の天狗伝説 | 天狗党事件前夜 | 天狗党挙兵 | 天狗党中山道へ進軍 | 天狗党と高島藩 | 天狗党高遠藩領を行く | 天狗党と伊那街道諸宿 | 天狗党事変の結末 | 車山霧ヶ峰入会論 | 霧ヶ峰峠道 | 明治の霧ヶ峰 | 大正期の諏訪の農業 | 大戦前の諏訪の国民運動 | 製糸女工の賃金 | 山一林組争議 | 諏訪の製糸不況 | 片倉工業史 | 近世近代の霧ヶ峰 | 霧ヶ峰のグライダー史 | 車山開発史