大河原峠を源流とする鹿曲川  かつての北佐久郡望月町  中山道望月宿
 目次        Top
 一)信濃の荘園
 二)治承・寿永の内乱
 三)義仲旭将軍
 四)平家没官領
 五)海野氏
 六)承久の乱
 七)承久の乱後の処置
 八)霜月騒動と伴野氏一族の没落
 九)鎌倉幕府滅亡と中先代の乱

佐久武士誕生史

一)信濃の荘園
荘園制では
 本家(本所)領家預所(あずかりどころ)→下司(げし)
 の支配体系があった。
 公領では
 知行国主国司目代在庁官人
 の体系があった。
 その領家と国司以上が中央貴族であり、最下層の下司と在庁官人に在地領主が任じられ、武士化する。平安末期の12世紀初頭以後の荘園制では、預所が本家に代わって下司・公文(くもん)等の下級荘官を指揮し、年貢徴集や荘地の管理等にあたった。
 公領では、国司の私的な代官として目代が、任国に派遣され執務した。
 荘園の場合、それぞれが、本家職(しき)、領家職、預所職、下司職としての職務であると同時に、権利即ち得分(収益)を伴う行政単位としての公的地位でもあった。荘園内の土地は特定の者だけが、絶対的所有権を有する事はなく、本家、領家、預所、下司のみならず、その下には名主(みょうしゅ)、作人(さくにん)等、複数の重層的な権利が存在し、それに伴う多元的権利が集約されていた。
 また荘域内は、そこに生活する住人の生活の場でもあるから、「領域型荘園」と定義され、田畠のみならず、刈敷き等の生産財を養う山野と、補食生活を支える河海があり、杣(そま)住民や漁猟師の生業を支える広大な領域を有する荘園一円があったと認識されなければならない。
 鎌倉時代の信濃の公領は約113か所、荘園は98か所数えられた。但し、左馬寮領の牧は荘園として数えられている。
 信濃の国
   伊賀良庄(尊勝寺領)       伴野庄(上西門院御領)
   郡戸庄(殿下)          江儀遠山庄
   大河原鹿塩            諏訪南宮上下社(八條院領)
   同上下社領(白川郷)       小俣郷・熊井郷
   落原庄(殿下)          大吉祖庄(宗像少輔領)
   黒河内藤澤(庄号の字無きの由、今度尋ね捜すの処、新たに諏訪上下社領と為す。
         仍って国衙の進止に随わず)
   棒中村庄             棒北條庄
   洗馬庄(蓮華王院御領)      相原庄(相)
   麻績御厨(大神宮御領)      住吉庄(院御領)
   野原庄(同前)          前見庄(雅楽頭濟盆領)
   大穴庄(元左大弁師能領、近年忠清法師領)
   仁科御厨(太神宮御領)      小谷庄(八幡宮御領)
   石河庄(御室御領)        四宮庄南北(同前)
   布施本庄             布施御厨
   富都御厨             善光寺(三井寺領)
   顕光寺(天台山末寺)       若月庄(證菩提院領)
   太田庄(殿下御領)        小河庄(上西門院御領)
   丸栗庄(御室御領)        弘瀬庄(院御領)
   小曽禰庄(八條院御領)      市村庄(院御領)
   芋河庄(殿下御領)        青瀧寺
   安永勅旨             月林寺(天台末寺)
   今溝庄(松尾社領)        善光寺領(阿居・馬島・村山・吉野)
   天台山領小市           東條庄(八條院御領)
   保科御厨             橡原御庄(九條城興寺領)
   同加納屋代四箇村         浦野庄(日吉社領)
   莢多庄(殿下御領)        倉科庄(九條城興寺領)
   塩田庄(最勝光院領)       小泉庄(一條大納言家領)
   常田庄(八條院御領)       海野庄(殿下御領)
   依田庄(前の齋院御領)      穀倉院領
   佐久伴野庄(院御領)       千国庄(六條院)
   桑原余田(前の堀河源大納言家領) 大井庄(八條院御領)
   平野社領(今八幡宮領。浅間社・岡田郷)
  左馬寮領
   笠原御牧  宮所   平井弖  岡屋   平野   小野牧  大塩牧
   塩原    南内   北内   大野牧  大室牧  常磐牧  萩金井
   高井野牧  吉田牧  笠原牧(南條)   同北條  望月牧  新張牧
   塩河牧   菱野   長倉庄  塩野   桂井庄  緒鹿牧  多々利牧
   金倉井
 『和名類聚抄』にある佐久郡の郷は「美理」「大村」「大井」「刑部」「青沼」「茂理」「小沼」「余戸」の8つで、現在も明らかな「大井郷」以外、「美理郷」「青沼郷」の地名がかすかに残っている。
 佐久郡の荘園は2か所で「伴野荘」「大井荘」、御牧が4か所「望月牧(望月町)」「菱野牧(小諸市)」「塩野牧(小諸市)」「長倉牧(佐久市御代田町から軽井沢町)」であった。平安時代の末、御牧の殆どは次第に左馬寮領の荘園として開墾され郷となったが、佐久の御牧の開発が遅れ、長倉牧だけが鎌倉時代の中ごろに「長倉保(ほう)」に変わった。
 律令制以後、口分田という人頭税を中心にした税制と兵役を強いてきた。それは苛税過ぎて当初から綻びていた。江戸時代の農民の割合が80%はあったとみられるから、大宝律令制度下の農民は90%前後であったとみられる。その納税者が重税とその上の夫役(ぶやく)や兵役など負担に耐えられず逃散浮浪化し、施行当初から民に耐え難い負担となっていた。
 課税対象者が行方不明となり、朝廷は移動不能の土地を課税対象とせざるを得なくなった。それでも公田名田(みようでん)を区分した。国司は公田を経営する裁量も能力なかった。やがて田堵(たと)と呼ばれる地方の有力耕作者に、放棄された公田の耕作を委託せざるをえなくなった。田堵は逃散し浮浪した農民を採用し、耕作地の農業に従事させた。地域に密着した田堵は、本質的に開発者であり、自領周辺の荒蕪地をも開墾した。その上開発領主となれば、軍団制が崩壊している時代であれば自衛のため武士化していった。
 開発領主が私領化した地域を、税制に組み入れしようとした地域単位が「郷」であり、「保」であった。それが平賀郷志賀郷長久保山田の国衙領である。「小諸」「葦田」「長針」も当初から公領であった。「小諸」は現在の小諸市諸を中心とした地で、「葦田」は現在の立科町「芦田」であり、「長針」は現存せず「鎌倉幕府下知状案」に「佐久郡内長針地頭並山田郷地頭等」がみえる。現在佐久市常和(ときわ)に山田神社がある。「長倉保」を除いた平賀郷・志賀郷・平賀郷・小諸の4つの国衙領の地名は、平安時代末期の佐久地方の武士の家名となっている。平賀義信は平治の乱に源義朝軍に属していた。志賀七郎・八郎や小諸の小室太郎・山田太郎は木曾義仲に従っていた。
 志賀郷・平賀郷・平賀郷・小諸の4つの国衙領が武士を育て、荘園勢力を圧倒していたようだ。

二)治承・寿永の内乱
 治承4(1180)年8月の頼朝の挙兵をきっかけに平氏打倒の勢力が全国各地で蜂起した。これが治承・寿永の内乱である。信濃で蜂起した武士団の代表が、木曾義仲岡田親義平賀義信であった。いずれも信濃に土着した清和源氏の流れである。
 義仲の当初の攻撃目標は、筑摩郡の信濃国府であった。その養父は中原兼遠(かねとお)で、中原氏は木曽の北部一帯の木曽福島町・日義村・木祖村あたりにあった大宮司宗像(福岡県宗像市にある宗像大社の宮司)氏の大吉祖荘(おおぎそのしょう)の荘官であった。平氏の時代には、国衙の権頭(ごんのかみ)という役職にあり、兼遠の子に樋口兼光今井兼平巴御前山吹御前がおり、兼光と兼平はともに義仲左右の重臣、娘の巴御前は義仲の妾となっている。またもう一人の娘山吹御前は義仲の長男義高を生んでいる。
 治承4(1180)年、似仁王の令旨によって平家追討の挙兵をした。当初の目的は、筑摩郡の信濃国府であった。国衙の権頭であった養父中原兼遠一族の後援と筑摩郡岡田を本拠とする岡田親義一族の力添えもあって、容易に制圧できたようだ。その後、木曾党という小武士団であったため苦戦する。善光寺平へ進軍する途上、会田(東筑摩郡四賀村)と麻績(東筑摩郡麻績村)に平家領があった。その平家勢におされ国府を放棄し、一度、東信地方へ後退した。
 東信の海野(東部町)には海野幸親いた。幸親は兼遠の兄が海野家に養子に入ったものだとも言われている。海野氏は、祢津(東部町)・望月(望月町)・桜井(佐久市桜井;伴野荘内)氏などの滋野一族有力武士団の一角を担っていた。望月氏は、望月御牧の牧監(ぼくかん)となった滋野一族が武士化した。また義仲軍に四天王と称される4人の側近武将がいた。根井行親はその一人で、佐久市根々井を名字の地とし、正式名は根井大弥太滋野行親と呼び滋野一族であった。同じ義仲に従う佐久党の武士に館(たて;佐久町館)を名字の地とする楯六郎親忠がいた。彼は根井行親の子であるから、滋野一族となる。
 義仲が丸子の依田城を根拠にし、軍馬・軍兵・食糧・武器を調達しながら、反平氏の佐久軍勢を掌握した。東信に散在する私牧からも北陸進出のための機動力ある馬が得られた。
 義仲の動きに呼応するように高井郡村山(須坂氏村山)を根拠とする村山七郎義直が、治承4年9月7日、善光寺平(長野市栗田)に所領を有する栗田氏と図り反平氏として決起した。村山氏は、清和源氏の一族が高井郡井上を拠点として、信濃源氏の名門となった井上氏の支族であった。
 平家に味方する信濃の笠原牧(中野市笠原)を根拠とする豪族・笠原平五頼直が、源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てた。それを察した源氏一族の村山義直が、笠原氏と築摩郡の栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間で、信濃国市原(長野市若里)付近での戦いが行われた。これが市原合戦(いちはらかっせん)、または「善光寺裏合戦」とも呼ばれた戦いであった。勝敗は容易に決着せず、ついに日没になり、矢が尽きて劣勢となった村山方は、義仲に援軍を要請した。それに呼応して救援に駆けつけた義仲軍を見て、笠原勢は即座に退却した。そして、越後の豪族・城氏の元へ敗走した。この勝利で、東信の武士たちが駆けつけ、義仲軍は急速に膨張した。その中に諏訪上社の千野太郎光弘がいた。光弘は樋口兼光の甥であった。
 治承4年10月、義仲は内山峠を越え父義賢の根拠地であった西上野に入り、義賢の所領であった多胡荘で父とかかわりのある武士たちを集めた。それが瀬下・那和・桃井・木角・佐井・多胡などの諸氏で高山党と呼ばれた。しかし当時、上野は既に頼朝の勢力がおよび、それ以上の拡大はできず、12月には信濃に戻った。
 佐久地方を根拠にする武士で義仲に従った氏族は、根井(佐久市)・楯(佐久町)・小室(小諸市)・志賀(佐久市の東部・志賀流域)・野沢(佐久市役所の南)・本沢(望月町)・矢島(浅科村)・平原(小諸市)・望月(望月町)・石突(佐久市石突川)・落合(佐久市伴野の北隣)などがいた。義仲は木曾党同様、佐久党も根井行親とその6男楯親忠親子が義仲軍四天王に数えられたように、その直属の中核軍として重用した。

三)義仲旭将軍

 長野県東御市の海野宿にある白鳥神社
白鳥神社の千曲川のほとり、 源平盛衰記で語られる「白鳥河原の勢揃い」

 治承5(1181)年2月、平氏政権の棟梁平宗盛より、義仲追討の命を受けた北国における親平家豪族の筆頭・越後の城資永(じょう すけなが)が、雪解けを待ち信濃攻め敢行の準備している間に、病で急死した。急遽、弟の城資職(すけもと)が家督を継いだ。同年6月、漸く兄に変わって信濃に出兵した。この4か月の遅れが義仲に幸いし、軍備を拡大し北上する軍容が整えられた。資職は1万の大軍を率い川中島への千曲川渡河地域となる雨宮の渡しの対岸の横田荘に布陣した。これを聞いた義仲は白鳥河原(東部町)で出陣の準備をした。
 後の関白・太政大臣藤原(九条)兼実の日記『玉葉(ぎょくよう)』によれば、信濃源氏等の軍木曾党・佐久党・甲斐武田党が3手から急襲し、越後からの長旅に疲れ果てていた軍は一矢も射ることなく惨敗したと記す。将軍資職は3か所ほど傷を負い、僅か300の兵を率いて越後に逃げ帰った。たった1日で、3,000ほどの信濃軍の猛攻に1万の大軍が散逸した。これが『横田河原の戦い』であった。これが総て信濃源氏義仲軍による大勝ではなく、甲斐武田党の軍も少なからず活躍していたとみられる。横田河原は現長野市篠ノ井横田を中心とした千曲川の河原である。これが契機となり、北陸道にも反平氏勢力が蜂起し、これが義仲に逸早い京への進軍を可能にした。
 義仲は越後勢を追い、一旦は越後国府まで追撃したが、信濃へ直ぐ戻ったようだ。既に挙兵当初から、信濃国の一部には、頼朝の勢力が入り、頼朝自身その勢力圏と理解していたようだ。そのため義仲には、頼朝との関係が複雑となり、自軍の勢力圏の維持が、焦眉の急となった。
 『源平盛衰記』や『平家物語』では、『横田河原の戦い』での上野高山党の西七郎弘助北信濃の保科党を率いた井上光盛などの奮戦ぶりが詳記されている。佐久武士に関しては、楯六郎親忠、望月太郎・次郎・三郎、矢島四郎行忠、根井大弥太行親、落合五郎兼行、志賀七郎・八郎、石突次郎、平原次郎景能、小室太郎忠兼、野沢太郎、本沢次郎などの名のみが記されている。
 治承4年9月、甲斐源氏の武田信義一条忠頼は、義仲挙兵直後の治承4年9月には信濃に入り、伊那郡の平家方武士菅冠者(すげのかんじゃ)を討っている。その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、源義仲の3者が武家の棟梁として鼎立する時期が続いた。
 諏訪大社上社の大祝篤光は、いち早く源氏に味方して戦勝の祈祷を行った恩賞として源頼朝から平出郷(上伊那郡辰野町)と宮所郷(上伊那郡辰野町)の寄進を受け、同時に下社も岡尼屋郷(岡谷市)と龍市(上伊那郡辰野町)の2郷を寄進されたという。その際、諏訪大明神の霊験が語られているが、実相とは違うようだ。

 義仲が木曾で旗揚げした際の武士団の中核をなしたのが中原兼遠一族であり、その子樋口次郎兼光今井四郎兼平は、義仲と共に育ったと言われる。中原兼遠は木曾を根拠地としている一族であれば、樋口兼光の名字の地は、木曾に近い伊那郡樋口(辰野町朝日)であり、今井兼平のそれは、諏訪郡今井(岡谷市)に比定できる。当時、諏訪氏は木曾勢に押され、かなり劣勢にあったようだ。かつては諏訪郡であった上伊那郡のほとんどを失い、下社の社領域でもあった今井の所領をも失っていた。諏訪や金刺両氏に、この時代、義仲の軍中に武威を誇る武将の伝承すら残らないほど劣勢であったようだ。
 義仲が入京したのは、平氏が西国へ逃れた3日後の7月28日であった。30日には、後白河法皇が、平氏追討と京都守護を命ずる院宣を下した。平氏の没官領140か所が義仲に、90余か所が行家に与えられた。翌8月、平氏に伴われて西海に逃れた安徳天皇にかわり後鳥羽が践祚した。
 義仲はその後、平氏勢追討に失敗し、しかも京中で兵士が乱暴狼藉を働き無法状態となり、後白河法皇初め院近臣のみならず京庶民の憎悪を集めた。
 義仲軍中に源仲綱(源頼政の子息)、高田四郎重家・泉次郎重忠、村上太郎信国、源行家、仁科次郎盛家などの名前が見られた。村上氏の太郎信国・基国三郎判官代は義仲に従ったが、法住寺のクーデターの際、後白河法皇についた基国が戦死している。
 寿永2(1183)年9月20日、義仲は平家追討の院宣を受けて西国へ向かった。閏10月1日、備中水島(現倉敷市玉島地区)において義仲軍と平氏軍との間で行われた水島の海戦で、義仲軍は大敗した。
 見苦しいまでの保身で、後白河法皇は義仲を見捨てた。10月14日、頼朝に頼るため、「寿永2年10月宣旨」を発する。東海・東山両道諸国の国衙領と荘園の年貢は、元のようにそれぞれ国司・本所に進上する事、従わない者は頼朝に処置を任せる旨の院宣を下した。これは、義仲はもとより清盛にも与えられなかった、東国に於ける包括的な行政権の委任であった。この大きな権限委譲により、鎌倉幕府が事実上成立したと言える。
 義仲は後白河から見捨てられ、当面の敵・平氏との水島の海戦で敗北し、背後から頼朝の東国軍とに挟撃される事態となった。11月19日、義仲四天王の樋口兼光は後白河法皇の御所である法住寺を、搦め手の大将として法皇方を攻め、五条東洞院にあった摂政藤原基通や近臣を罷免した。これが法住寺のクーデターであった。それから間も無く、鎌倉から範頼・義経軍が派遣され、一時は義仲の幕下にありながら、反旗を翻した源為義の10男源行家を追い、兼光は河内へ行かざるをえなくなり出陣をすると、行家は逃亡し行方をくらましていた。兼光は京の異変を聞き、戦地からすぐさま戻るが、時すでに遅く、義仲軍は範頼・義経率いる大軍に近江の勢多と京の宇治で敗れ散乱し、その入京を許し三条河原・六条河原でも敗走し、北陸道へ逃れようとしたが、近江の粟津で討死した。
 根井行親とその6男楯親忠親子共々義仲四天王であったが、六条河原で奮戦し討死している。同じく四天王今井兼平も長瀬重綱・高梨忠直・多胡家包などと共に戦死している。最後に残った四天王樋口兼光は縁者がいた児玉党の勧めで投降し、義経・範頼らの助命の願いもあったが、後白河側が譲らず処刑される。児玉党は武蔵七党のうち、最大の武力と血族を有し、現埼玉県北部を拠点として活躍した武士団であった。

四)平家没官領
 範頼・義経軍は、義仲軍を壊滅させ、福原付近まで勢力を回復させていた平氏を敗走させた。寿永3(1184)年、範頼・義経軍は、鮮やかな戦術で一の谷を攻め、平家軍を一気に海へと追い落とした。回復しつつあった平家にとってまさかの大きな痛手となった。しかし、屋島に本営を置き、瀬戸内海の制海権を保ち、天皇を擁している平家はまだ政権復帰への足がかりを失ってはいなかった。それも翌文治元(1185)年3月、平氏を壇の浦で壊滅させ、治承・寿永の乱は収束した。ここに膨大な平家没官領(へいけもっかんりょう)500か所が頼朝に与えられた。その内容は荘園の本家職(ほんけしき)、領家(りょうけ)職、預所(あずかりどころ)職などであった。
 初め朝廷は平家滅亡の功績者義仲や源行家に与えたが、やがて彼らが滅亡すると、頼朝は鎌倉軍勢力が独自に占領した平家領の没官を宣言した。後に朝廷も平家討伐の一環として容認した。その所領は、鎌倉幕府将軍家直轄領である関東御領の中核をなし、幕府のもっとも重要な経済基盤となった。また御家人にも配分された。
 頼朝の怒りを買い鎌倉への帰還を許されなかった義経は、文治元(1185)年10月、後白河法皇に強請し頼朝追討の院宣を出させ、叔父行家と共に挙兵した。しかし兵が集まらず西国へ逃れようとして失敗した。頼朝はこの院宣に怒り、北条時政に千騎の兵を付けて上洛させ、義経・行家の捜索に必要と強硬に主張し、その結果が総追捕使・守護と地頭の配置となった。東国に関しては、既に寿永2年10月の院宣で頼朝の支配下となっていたので、この時、総追捕使による支配が認められたのは「五畿・北陸・山陰・山陽・南海・西海」の諸国であった。
 この総追捕使が鎌倉幕府下の守護制度となった。その権能は、諸国の荘園・公領を問わず、一律に1反当たり5升の兵粮米の徴収権と諸国の在庁官人・荘園下司・追捕使の支配などに及んだ。地頭は諸国の荘園・公領で現地の治安と警察の任務に携わり、さらに年貢の徴収管理と勧農に務める一方、年貢収益の一定部分に得分をえた。
 古代国家に於ける武士の殆どは「国には目代に随い、庄には預所に仕え、公事雑役に駆り立てられる」という立場であった。頼朝が新たに御家人制を布き武士たちを組織した。頼朝の課題は、彼らの軍功にどう報いるか、それが武士たちの政治的地位の向上と経済基盤を確立させる事にあった。頼朝が採用したのが地頭制であった。
 古代末期の内乱状態で、初めて京都の天皇や上皇の権威が機能しなくなったのではなく、大宝律令下から既に徐々に進行していた事態であった。漠然と京都朝廷の制度疲労が極限にあった事は感じられていた。その時代的後押しがあって、頼朝の草創した政治形式・鎌倉幕府が誕生した。

 中原兼遠・樋口兼光・今井兼平ら一族の没官領が、鎌倉時代以降、諏訪上下両社の社領として頼朝より下賜された。その後諏訪氏は、北条義時以来、得宗家重臣であり続け、次第に諏訪郡の地頭職や信濃の現地管理者としての地頭代に任じられていく。その重責を担い大いに重用され、その職責を全うし、北条主家の没落に際しては、それに殉じて壮絶な最期を遂げ、その恩義に報いた。
 平家が壇ノ浦で滅び、新たに小笠原氏が佐久地方へ進出してきた。伴野荘は佐久平千曲川左岸に展開した荘園であった。その中心の一部が野沢郷で、そこを根拠地としていたのが野沢太郎であった。太郎は義仲に従軍したが、鎌倉幕府御家人として名を残していない。野沢氏以外にも伴野荘の一部を根拠とした諸氏がいたが、没落したようだ。鎌倉幕府から伴野荘の地頭に任命されたのが小笠原長清であった。長清は甲斐武田源氏で、その信濃国司加賀美遠光の次男で、長兄光朝は平氏、木曽義仲に従ったが、長清は父遠光とともに源頼朝に仕え、甲斐の小笠原(山梨県櫛形町)を本拠として、小笠原氏を名乗り小笠原氏の始祖となった。『吾妻鏡』に治承4(1180)年10月、平知盛に属し在京していた加賀美長清兄弟が、頼朝軍に参加するため母の病気を口実に暇を願ったが知盛は許さなかった。たまたま逢う機会があった平家の侍高橋盛綱に長清がそれを嘆くと、早速、主知盛宛に状を書いてくれた。そのお陰で帰国が適った。そして文治元(1185)年に、源頼朝より御門葉の一人として重用され伴野荘の地頭職に任じられた。
 文治元年1月、頼朝は平家追討軍の総大将範頼に手紙を送り、小笠原長清に目を掛けるよう命じている。未だ平家滅亡前の頼朝の創業時、源義仲と共に3者鼎立する関係にあった甲斐武田の嫡流信義を牽制する意味もあり、長清を登用したようだ。加賀美遠光は信義の弟であった。伴野荘の地頭職は、長清の6男時長に伝領され、以後伴野氏を称し佐久の有力御家人となった。
 一方、千曲川右岸には岩村田を中心とした八条院領大井荘が存在した。この荘には、義仲四天王の根井行親の根拠地根々井があった。そこの地頭に補任されたのが伴野時長の弟朝光で、『尊卑分脈』によれば朝光以後、大井氏を名乗りその勢力を拡大させた。

五)海野氏
 海野幸親は養和元(1181)年、木曾義仲軍に呼応して、越後の城氏と横田河原の戦いに参戦している。そのまま義仲に従って上洛した。寿永2(1183)年閏10月1日、四国讃岐の屋島に拠点を置く平氏が再上京を果たすべく海戦を挑んできた。その備中水島(岡山県倉敷市玉島付近)の戦いで、本隊の平知盛・重衡と、搦手の通盛・教経ら率いる平氏軍と激突した。義仲軍の総大将が矢田義清で、搦手の大将が幸親の嫡男幸広で、義清は船戦に慣れた平氏軍を前に大敗を喫し、海野幸広や同母弟の義長らとともに矢の雨を浴びせられて、壮絶な戦死を遂げた事が『源平盛衰記』にみえている。義清は足利氏の祖である足利義康の庶長子であった。
 海野幸親は同年の法住寺合戦に参加した。このクーデターでは、楯親忠の矢が、馬で逃げようとした天台座主明雲の腰を貫き落馬したところを、その郎党が首を取っている。根井行親の矢は、法住寺の統轄・長吏の八条院(円恵法親王)を射、倒れたところ郎党が首を取っている。
 一方、村上其国は義仲を見限り、法皇に味方したが、このクーデターで戦死している。翌寿永3(1184)年1月20日、範頼と義経軍と近江の勢多と京の宇治で戦い、5千にも満たない寡兵の義仲軍は脆く、その入京を許した。翌21日、義仲は三条河原と六条河原でも敗退し、北陸道へ逃れる途上、近江の粟津で討死した。義仲は、その幕僚、海野幸親・今井兼平・根井親忠・高梨忠直らと共に七条河原で獄門にかけられた。
 幸親の子海野幸氏は、少年時代、木曽義仲の子義高が頼朝の人質となった時これに随従、義仲が敗れて没落し、義高が鎌倉を脱出しようとしたとき、その寝床に入り身代わりになろうとした。幕府を樹立した頼朝は幸氏の忠節と武勇を称え、かえって幸氏を重用したと伝わる。幸氏はまた、とくに弓馬の道に長じていたことが知られ、建久4(1193)年3月、頼朝は下野の那須野と信濃の三原で狩倉(狩競;かりくら)を実施した。この時、「弓馬に達し」「隔心なき」者として御家人から22人が選ばれた。この中に望月太郎・小笠原長清・諏訪(金刺)盛澄・藤原清親の名がある。望月氏と藤原氏は小諸氏・志賀氏、金刺氏などと義仲の挙兵に参集した信濃武士であったが、義仲の子義高が頼朝の人質として鎌倉に赴いた際、従っていた。金刺盛澄は義仲の挙兵に従ったため、頼朝に処刑されかけたが、盛澄の弓馬の腕を惜しむ梶原景時の嘆願もあって、流鏑馬でその妙技を頼朝に披露し御家人入りした。
 小笠原長清は加賀美遠光の次男で、甲斐源氏でありながら、父遠光と共に当初から頼朝に従った一族で、義仲滅亡後、伴野荘の地頭として信濃へ入ってきた御家人であった。
 狩倉が行われた信濃の三原とは、上野の三原荘のことで、浅間山北麓に広がる吾妻川流域、現在の群馬県長野原町と鎌原村附近である。仁治2(1241)年当時、三原荘の地頭は海野幸氏であった。この年、幸氏は信濃の長倉保(ほう)の地頭武田光蓮と境界争いをしている。長倉保は古代の長倉牧、中世の長倉郷、戦国時代以前には東山道の長倉駅があり現在の軽井沢町域内である。甲斐源氏の信濃への広がりが知られる。
 鎌倉幕府には、年頭に将軍の前で行う「弓始め」の儀式があった。武家として初めて源頼朝が、文治5(1189)年正月2日に弓始めの式を行ったことが『吾妻鏡』に記載されている。元来、平安時代に天皇が弓場殿に臨幸し、その前で殿上人が弓の技術を競う儀式であった。御家人にとってその射手に選ばれることは、大いに名誉であった。その射手に信濃の御家人が多く選ばれている。海野幸氏・金刺盛澄・藤原清親・望月重隆・中野能成(よしなり)などである。『吾妻鏡』には、小笠原六郎時長の名が承久元(1219)年7月から寛元4(1246)年1月まで28回登場している。その総てが随兵と弓始めなど各種行事に弓芸を披露している。
 中野能成は志久見山(栄村)の地頭で、2代将軍頼家の近習となっている。吾妻鏡では、政変で頼家近臣として所領を没収され、遠流とされたが、比企氏滅亡の2日後の日付で、時政によって所領を安堵されている書状が残っている。時政の密偵であったといわれている。その一門から得宗被官となる者もいた。また寛喜元(1243)年、能成は、木島山の地頭木島兵衛尉が、鷹の子4羽盗んだと鎌倉幕府に訴えでいる。
 この時代の佐久武士として、春日・小田切・志津田・布施の各氏が登場している。建久4年5月、頼朝が富士の裾野で狩を催したとき、同じ信濃武士である藤沢二朗・望月三郎・祢津二郎らと共に弓の名手として参加したことが『吾妻鏡』にみえている。

六)承久の乱
 後鳥羽上皇は天皇家の治世の復活を策し、武力の充実を図った。それが西面(さいめん)の新設であった。従来の北面に加え西面に任じられたのは、在京する御家人らであった。院の直属兵として鎌倉御家人を取り込んだといえる。後鳥羽は北面・西面はもちろん、近仕する上達部(かんだちめ;三位以上の人の総称)や殿上人にまで弓矢や刀の稽古を督励した。建永元(1206)年には、河内国に牧を新設し、野田荘や興福寺領狭山荘までも牧の領域とした。後鳥羽自身も笠懸を行ったという。自ら競馬に参加し落馬して気絶したという逸話もある。
  後鳥羽は、源実朝の死により頼朝の血脈が絶え、幕府の求心力が衰えたとみた。承久3(1221)年4月28日、鳥羽の離宮(伏見区中島鳥羽離宮町)にある城南寺(せいなんじ)で流鏑馬を行うとして、畿内とその周辺諸国の大和・山城・近江・丹波・美濃・尾張・伊賀・伊勢・摂津・河内・和泉・紀伊・丹後・但馬の14か国から1,700騎ほどの武士を集めた。その中に藤原秀康佐々木広綱大内惟信(これのぶ)・小野盛綱後藤基清三浦胤義河野通信大江親広などがいた。藤原秀康は後鳥羽の近臣で、西面・北面・滝口の武士などを勤めた。院の信任を得、備中、備後、美作、越後、若狭、淡路、伊賀、河内、能登など諸国の国守となり、衛府の官を歴任した。承久の乱にあたっては総大将に任ぜられた。大内惟信は美濃・伊賀・伊勢・越前・丹波・摂津の守護であった。佐々木広綱は近江・長門・石見の守護職、小野盛綱は尾張、安達親長は但馬と出雲の守護、後藤基清は播磨、宗孝親は安芸、佐々木経隆は淡路、佐々木高重は阿波などである。後鳥羽は近畿近国の全部を掌握していた。順徳天皇は後鳥羽と共に合戦にあたろうとして仲恭天皇に位を譲った。後鳥羽・土御門・順徳の3上皇と六条宮(後鳥羽の皇子雅成親王)・冷泉宮(後鳥羽の皇子頼仁親王)は高陽院(かやのいん)に集まり、四方の門を諸国の兵に守備させた。翌日、上皇は藤原秀康に京都守護伊賀光季(みつすえ)の館を襲撃させ、諸国に宛て、北条義時追討の宣旨を下した。光季は警戒して招聘を命じる3度の院宣に応じなかった。光季は討たれ、京方は五畿内を固めた。承久の乱の勃発である。同じ京都守護の大江親広は、蜂起の手始めとして後鳥羽と御所へ呼ばれ、法皇自身から参加を命じられ断れなかった。
 『承久討賊詔』には「義時は威光を発動して、天皇の法令を忘れている。これは謀反ということになる。」とある。しかし義時が「謀反」といわれても、挙兵もしていない。またその「法令違反」も明らかではない。『承久記』は後鳥羽を「御腹悪しくて、少しでも御気色にたがう者をば、まのあたりに濫罪に行われる」と述べている。
 建保3(1215)年5月、後鳥羽が三七日(さんしちにち)の逆修(ぎゃくしゅう)を行っている。三七日とは、人の死後、21日目に生前の邪淫の罪が裁かれるとして、その日に営む法要をいう。逆修とは生前に自分の死後の冥福を願って行う法要のことで、平安時代から盛んに行われている。極楽へ行くための生前に善行を積み、寺や五輪塔の建立、仏や僧への供養、写経に励み、病人や貧しい人を救済する。この仏事も後鳥羽にとっては、単なる遊びであった。人々が後鳥羽に進物を捧げる最中、後鳥羽の愛妾、白拍子の亀菊は当時入手困難な「種々の唐薬八枝」を贈っている。亀菊は江口・神崎の津の遊女だったという。その珍奇な品が入手し得たのも、後鳥羽が亀菊に与えた長江・倉橋荘が、瀬戸内海を介しての重要な交易の要路であったためである。その入手のため、訳も分からず、領家としての権力を笠に、種々地下役人を酷使したのであろう。当地の地頭代もあきれ無視せざるをえなかったようだ。
 その周辺状況を鑑みず、前代未聞の北条義時追討の「宣旨」が発せられたのである。これに対して、伊賀光季西園寺公経から上皇挙兵の急報が鎌倉へ発せられた。光季の姉は北条義時の室であり、また父は幕府の重臣であったことから、幕臣として重用された。建暦2(1212)年、常陸国内に地頭職を与えられる。建保7(1219)年2月、大江親広と共に京都守護として赴任する。
 承久の乱では後鳥羽の招聘に応じなかった。光季は「職は警衛にあり、事あれば聞知すべし、未だ詔命を聴かず、今にして召す、臣惑わざるを得ず」と答えた。再び院宣を発し、「面勅すべし、来れ」といった。「命を承けて敵に赴くは臣の分なれども、官闕(かんけつ;宮城の門)に入るは臣の知る処にあらず」といって聞かなかった。このため、同年5月15日、後鳥羽は、伊賀光季邸に藤原秀康・三浦胤義・大江親広・大内惟信(これのぶ)ら8百騎を差し向けた。対して光季方は手勢僅か30名たらずだった。 光季らは奮戦したが、結果は明白であった。光季は鎌倉へ逃げ戻ることも可能であったが、配下の多くを京から落ち延びさせ、僅か30名足らずで、覚悟の上、子の光綱、郎党・贄田三郎(にえださぶろう)らとともに枕を並べて討ち死にした。後に北条泰時は光季の故地を、遺子の季村に与えた。『尊卑分脈』によれば南信濃源氏一族・片桐源太大助が光季と運命を共にしている。
 もう一人の京都守護大江親広は、大江広元の長男であるが、後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与し、同職の光季を討ち、その後近江国で幕府軍と戦ったが、敗れて京都に戻った。乱後は行方をくらましたが、出羽国に隠棲していたと言われている。
 三浦氏は幕府草創以来の有力後家人一族であり、後鳥羽に従った三浦胤義の兄義村は三浦氏の惣領であった。胤義は当時、京都大番役で在京していた。胤義の指揮下に佐久志賀の御家人志賀五郎がいた。五郎は伊賀光季邸へ葦毛の馬に乗って先陣を切ったが、馬の腹に矢を射られ後退した。以後、佐久の志賀氏は、歴史上消滅する。嘉暦4(1329)年の史料によれば志賀郷の地頭は、諏訪氏となっている。
 「光季の使い」は15日午後8時早々に京を出発している。19日正午頃には鎌倉に到着している。幕府と親密な関東申次(かんとうもうしつぎ;幕府取次役)の「西園寺家の使い」は、同日午後2時頃に届いている。公経の使いが何日に出発したかは不明だが、密書中に光季の死が報じてある事から、光季の使者が、出立した後である。
 当時の東海道は整備されたとは言え、京、鎌倉間は徒歩で約16日、場合によっては数10日を要した。多くの大河には満足な橋が架かっていない。各駅には伝馬が用意されているが、早馬でも7日はかかるのが普通で、至急の場合でも5日を要した。だが中3日間で京から鎌倉まで走り着いている。21日には院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきた。
 幕府の対応は迅速を極めた。『吾妻鏡』には、「二品(北条政子)、家人らを廉下に招きいわく、『みな心を一にしてうけたまわるべし。これ最後のことばなり。故右大将軍(頼朝)、朝敵(平家や義経、奥州藤原氏をさす)を征罰し、関東(幕府)を草創してよりこのかた、その恩、既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ;海)よりも深し。報謝の志(感謝に報いる気持ち)浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族(やから;関東御家人)は、早く(藤原)秀康、(三浦)胤義ら(上皇方についた御家人)を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。ただし、院中(後鳥羽上皇の側)に参らんと欲するものは、ただいま申し切るべし』群参の士ことごとく命に応じ、しばらく涙をうかべ、返報を申すことつぶさならず。」
 大江広元は迅速に兵を京に進めるべし、それも一刻を争うと主張した。遅れれば東国御家人衆が去就に惑い分裂を招くと。義時の子、後の3代執権泰時はわずか18騎で進発した。そして東国御家人の各家長宛に、上洛軍に一族郎党を率いて参集する事を命じた。最終的には19万騎に膨れ上がった。これに対して、後鳥羽方は尾張・美濃と北陸道に兵を派遣したが、その兵力1万9,500騎と記されている。その上、後世の後醍醐天皇同様、当人は無能であり、更に戦略的軍師を欠き無策でもあって、幕府軍は鎌倉を出て23日後の6月15日には京に入った。
 「承久の乱」に際し、5月22日、鎌倉を出発した。『吾妻鏡』は東海道軍を主力とし、嫡男北条泰時、その弟時房、嫡孫時氏、足利義氏、三浦義村、千葉胤綱を将軍として、10万騎で京へ進軍した。東山道軍は5万騎で武田信光、小笠原長清、小山朝長、結城朝光が将軍であった。甲斐源氏の棟梁は、鎌倉時代になって信義の5男で、頼朝に信任が厚く、石和を拠点にして石和五郎と称した武田信光に引き継がれていた。海野幸氏をはじめ信濃の御家人の多くは、伴野荘地頭の小笠原長清将軍の指揮下に入った。『承久記』には、軍の検見役に諏訪信重遠山景朝伊具右馬允入道(いぐうまのじょうにゅうどう)が任じられたとしている。信重はその後嘉禎4(1238)年に上社大祝となり、間もなく信濃権守となっている。
 遠山景朝は美濃の御家人で遠山氏の祖、この乱後、後鳥羽上皇方についた参議一条信能を、鎌倉へ押送(おうそう)途上、美濃遠山荘で斬首にした。伊具右馬允は、『守矢文書』などによれば、14世紀のはじめ伴野庄の一部地頭として伊具氏の名がみえる。北陸道軍は4万余騎で、北条朝時. 結城七郎朝広. 佐々木太郎信実が将軍となった。幕府方の動員兵力の主体は、遠江以東の東国諸国である。大江広元が強硬に主張した一刻でも速い進軍により、御家人が去就に惑う間を与えなかった結果でもあった。『吾妻鏡』によれば、執権義時の一族を率いて遠征軍に参加せよという指令は、こうした状況下信濃遠江以東の陸奥・出羽に迄に及び東国諸国に発せられた。結果、進軍途上、東国武士19万騎という、空前の兵力となった。対する京方兵力は西国、それも畿内近国、山陰道、瀬戸内海沿岸と北九州であった。 「承久の乱」で幕府軍となった信濃武士は、史料では40名前後となる。小笠原長清の子とみられる小笠原四郎は、6月14日の宇治川の戦いで一人を討ち取っている。春日貞幸は、佐久郡望月の春日を地盤としていたが、北信濃の御家人市河氏と同様、東山道軍に属するよう指示を受けながら、東海道軍北条泰時の兵となっている。貞幸は、宇治川の戦いで芝田橘六、佐々木信綱らと先陣を争い、子の太郎と小三郎と川を渡ろうとした際、京方軍の矢が貞幸の乗馬を射り水中に投げ出されたが、辛くも救出されたが、2人の息子は、川に流され溺死した。貞幸勢はその郎従合わせて17名が戦死した。この時の渡河戦で布施左衛門三郎は負傷し、布施右衛門次郎は戦死している。春日氏と布施氏の所領は隣接している。 現南佐久郡川上村の河上左近は武田信光の軍に属していたが、現美濃加茂市の木曽川大井戸の渡しで諏訪一族の武将千野六郎と川を渡ろうとして、信濃出身の京方の武士・大妻兼澄の矢で射られ戦死している。京方についた信濃武士には、仁科盛遠、三浦胤義配下の志賀五郎、大妻兼澄(かねずみ)、福地俊政(としまさ)、井上光清らがいた。 仁科盛遠は、安曇郡仁科荘を所領として仁科氏を称するようになった。後に後鳥羽上皇に仕えて北面の武士となった。しかし後鳥羽院への臣従が鎌倉幕府に無断でなされたために所領を没収された。承久の乱が起こると朝廷方に付き、北陸道に派遣されて越中国礪波山で北条朝時の幕府軍と戦い敗れて戦死したという。大妻太郎兼澄は諏訪の神氏の出で、住吉庄(三郷村、梓川村、豊科町)の荘官として現松本市梓川倭(やまと)の大妻の地に居館を構えていた武士で、承久の乱の際、大妻の地を本所としていた後鳥羽上皇方になり敗れ去った。兼澄亡き後、大妻一族の後裔は木曽に追われた一族と、土佐に追われた一族があったという。大妻氏が失脚した後、この地は小笠原氏のものとなり、戦国時代・武田信玄の侵攻まで統治を続けることになる。
 濃尾3川(木曾川・長良川・揖斐川)地域の戦いで敗れ8日、京方の藤原秀康・筑後有長らが手傷を負って京へ戻り、6日の敗北を報せた。高陽院は騒然となり、仲恭天皇・3上皇・2親王は叡山を頼り坂本まで逃げたが、叡山では守りきれないと追い返され、10日には高陽院に戻った。 12日、京方最後の防衛線、宇治を中心に三穂崎・勢多・真木嶋・芋洗・淀などに兵を配置した。翌13日、雨中、予ねて手はず通り時房の軍は、橋板を外して楯として並べて待機する山田重忠軍と叡山の僧兵と対峙、毛利季光・三浦義村軍らは芋洗・淀で対陣、泰時は栗子山に本陣を置いた。宇治川渡河を引き受けた足利義氏と三浦義村の軍が、泰時の命を待たず宇治橋の辺りで合戦を始めた。京方が必死に放つ矢は豪雨のようで死傷者が続出した。夜半になって、泰時にそれが報じられ豪雨の最中、宇治へ馬上疾駆し攻撃を中止させた。翌14日、昨日からの豪雨で宇治川は増水、しかも長途の疲労、糧秣補給の不安、大軍とはいえ幕府軍を構成する御家人の結束は弱く、勢いが止まれば脱落者が増大する脆弱性を、泰時は単なる杞憂ではないと感じていた。
 泰時は幕府の将が、馬上続々と河中に軍を進める無謀を黙視せざるを得なかった。急流にもまれ水死する者800騎を超えたという。遂に泰時も「大将軍死すべきの時なり」と決意を固め河中に身を投じようとした時、予め泰時に河瀬の深浅の調査を命じられていた芝田兼義が、探り当てる事に成功し、その先導で、佐々木信綱・中山重継以下の武将が渡河、やがて民家を壊して筏とし続々と宇治川を越えた。こうして乱の最大の決戦は幕府軍勝利で終わった。 敗れた京方の将士は、困憊(こんぱい)の極み、漸く高陽院の門前で敗軍の状況を告げようとするが、後鳥羽以下誰も現れず、その門前で敗軍の兵士が御所に立て籠もると鎌倉の兵に包囲されるから、早々いずこかへ立ち去れと、正に門前払いであった。三浦胤義は京朝廷を信用した自らの不明を悟り、結果の惨めさを自嘲し、木島で自害した。山田重忠も嵯峨の般若寺で自害、藤原秀康は逃亡したが同年10月河内国讃良(さんら;大阪府寝屋川市)で捕らえられ、六波羅に送られて斬殺された。 後鳥羽の王朝復興の意図は、空しく敗れた。その結果、幕府内紛の根源となる反北条氏の武士が一掃され、北条氏を統治主体とする幕府中枢の権力が名実とも不動のものとなった。

七)承久の乱後の処置
 6月15日、泰時・時房らが、遅れて17日北陸道を進んだ朝時が六波羅に入った。後鳥羽は泰時が六波羅に入るに先立ち、勅使大夫史国宗(たいふのしくにふみ)を使わし
 「今度の合戦は謀臣が行ったことであり、後鳥羽の考えではなかった。今となっては申請どおり宣下しよう」までも言う。しかし乱に勝利した幕府の処置は峻厳を極めた。義時と時房は六波羅で、京方の残党の追捕と処刑を行いながら、鎌倉へ度々急使を送り後鳥羽以下上皇と天皇の処罰と、幕府軍の恩賞の分配などの指示を仰いでいる。後藤基清・佐々木広綱ら後鳥羽方に加わった御家人と藤原光親など乱を首謀した後鳥羽の近臣を斬罪に処した。それ以外の後鳥羽の近臣も殆どが捕らわれ、一条信能などのように鎌倉護送の途上で切り殺され、自殺を強要された。後鳥羽の寵臣藤原光親は、義時追討の院宣を発した直接の謀臣として断罪されたが、死後、後鳥羽の無謀を諫める数十通の書状が御所に残されていた。それを知り泰時は無念の思いであったという。
 また後鳥羽の兄に当たる守貞親王、後の高倉法皇に院政を行わせた。守貞親王は安徳天皇の弟で、安徳天皇と共に平家に伴われたため、平家滅亡後、当然後継者の対象から外された。無事に帰京したが忘れられ、誰一人顧みられず忘れたままであった。その京都朝廷で軽視され続けられていた守貞親王の子・10歳の茂仁親王が7月9日、鎌倉幕府の意向で堀河天皇として即位した。順徳天皇の第一皇子・仲恭天皇を廃位した結果の鎌倉幕府の決断であった。さらに後鳥羽・順徳・土御門上皇を、それぞれ隠岐・佐渡・土佐に流した。乱の一因といわれた後鳥羽の寵妾亀菊は、配流先まで同行し延暦元(1239)年の後鳥羽の死まで看取ったという。幕府軍を率いて上洛した北条泰時・時房は都にとどまり、六波羅探題として、朝廷との交渉、西国御家人の統率、京都と近辺の治安維持、西国の裁判などにあたることになった。
 後鳥羽方の所領3,000余か所は没収され、その地には新たに御家人が地頭に任命された。それまでの本補地頭と区別して新補地頭と呼んだ。没収地は西国に多く、恩賞地を与えられた多数の東国武士が西国に移住したため、幕府の権力は、これまで浸透が難しかった西国でも強化されることになった。そのため新補地頭の得分に前例がないため、その土地の上級所有者との紛争が絶えなかった。幕府は新補地頭に田地11町につき1町の地頭給田と、土地1反当たり5升の加徴米の徴収を認めた。これを新補率法と呼んだ。
 乱の結果、幕府は従来院政が行っていた機能を吸収するに至った。上皇方の敗北が貴族に与えた衝撃は大きく、帝王にも徳が必要であり、無道の君を討つのもやむをえないという思想も生じた。少なくとも現人神の神話は崩壊した。
 後鳥羽はこの乱に敗れ、承久3年6月15日「今度の合戦は叡慮に起こらず、謀臣らの申し行うところなり。今においては申し請うに任せて宣下せられるべし」と院宣を発した。後白河以来の無定見な院宣の乱発を自ら認めた事により、天皇と京都朝廷は政治責任を担える主体ではないと世人は再確認をした。この乱で史上初めて、幕府は臣でありながら、自らの処置として天皇や院政を行う治天の君を廃立し流罪とした。信濃の多くの御家人は、乱後の恩賞として西国に所領が与えられている。
 北条氏の出自は定かではないが、伊豆介の地位にあった伊豆国では有力な在庁官人の一族の傍流が、北条時政の系譜と推測されている。頼朝の身辺には手勢も無く、頼れる武士団がいなかった。北条氏は妻の縁戚であるが、大武士団ではない。北条氏の重用は、源氏一門の偏重よりも、頼朝の周辺の武士団相互のバランスを崩し葛藤を生じさせるリスクが少ないと読んだようだ。やがて北条一門が他の武士団と一線を画す扱いとなり、政権内で時政・義時ばかりでなく、泰時などまでも幼少時から嘱望されるようになる。
 承久の乱後、北条義時以後の嫡流を得宗家と呼び、鎌倉幕府将軍の御家人でありながら幕府を支配する。承久の乱によって京都朝廷方の無力無能が明らかとなった。その上で、この乱で反北条方的な武士団が一掃された。北条氏を中心とする幕府中枢の結束が固められ、政策運営が容易になり、鎌倉幕府が全国政権へと踏み出す重要な画期となった。しかし幕府は未だ本所や領家の訴訟に不介入の姿勢は変えなかった。
 「得宗」とは、2代目である北条義時の法名に因み3代目泰時が名づけたとされる。そして、その家臣御内人による政権運営となり、北条氏以外の創業の有力御家人は、次第に幕府政治から遠ざけられた。

八)霜月騒動と伴野氏一族の没落
 弘安8(1285)年、15歳の若年執権北条貞時の命令を擁して、その御内人の筆頭内管領平頼綱が、御家人の重鎮・安達泰盛・宗景父子を初め安達一門とその与党の御家人を討伐する霜月騒動(しもつきそうどう)が起こる。北条得宗家による、幕府政権を担う御家人階層の粛清であった。現代でいうクーデターであった。
 これにより佐久郡内伴野荘の地頭で小笠原家惣領・伴野氏が没落した。泰盛の母の実家にあたる小笠原惣領伴野長泰一族は、この騒動で、弟の泰直、嫡子盛時、二男長直ら父子3人が殺された。幼い泰行だけが死を免れた。長泰の父時長の娘が安達泰盛の母であったため、まさに一族悉く誅滅され、佐久郡伴野荘の伴野氏の所領は没収され、北条氏一族の所領となった。ただ伴野弥三郎長房・三塚新三郎・跡部又三郎光時など僅かが、荘内に多少の所領を持ち続けたようだ。地頭地が隣接する大井氏はこれを契機に佐久郡内に勢力を拡大したとされる。伴野弥三郎長房は泰行の子で在地に潜んで、父祖伝来の伴野荘の奪回の機会を窺っていた。
 佐久郡伴野荘の主要な郷村は、北条氏一族が地頭として支配する。大井荘の中心部の志賀郷や長土呂には、御内人の諏訪氏や薩摩氏が地頭職を受け継いだ。
 薩摩氏は信濃国地頭として知られている。嘉暦4(1329)年の「鎌倉幕府下知状案」に「坂木南条薩摩十郎左衛門尉跡」、「大井庄内長土呂郷薩摩五郎左衛門尉」とある。鎌倉末期には(小県郡上田市浦野)浦野荘馬越郷一帯も薩摩十郎の所領であった。大井庄内長土呂郷薩摩五郎左衛門尉親宗の本姓は工藤氏であるから、父方一族は北条得宗家に近く、彼の母は伴野氏で、その母系は伴野荘内の諏訪上社神田の一部を継承している。さらに伴野氏の初代時長の妻は、諏訪上社大祝信重の娘で、信重より伴野荘内にある諏訪上社神田の一部を与えられ、以後その子孫の女系が継承し、祭祀にあたっていた。佐久郡内の豪族における、諏訪氏の影響力は決して過小評価されるものではなく、また鎌倉時代早期から始まっていた。
 薩摩氏の由来は、曾我兄弟に殺された工藤祐経(すけつね)の3男祐長が文治5(1189)年、頼朝の奥州征伐に従軍して奥州安積(あさか)郡を与えられ、以後本拠として安積氏を名乗った。祐長はさらに薩摩守にも任官し、その子孫は薩摩を称した。
 霜月騒動から43年後の嘉暦4(1329)年、鎌倉幕府は、諏訪大社上社の神事行事の頭役を定めている。伴野荘の北条氏一門も、その任に当たっている。鎌倉幕府の実権を握る得宗家は、その経済的基盤を強化させ得宗領を地方各地に拡大し、得宗家被官の御内人に管理させた。それは得宗家の軍事的支配の全国的拡大をも意味した。御内人が現地管理者として各地に派遣され、得宗家の経済を支え、やがて平頼綱や長崎高綱(円喜)など御内人筆頭が得宗家を凌ぐ勢力となるまで成長した。

九)鎌倉幕府滅亡と中先代の乱
 後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐は、その有力御家人・足利高氏が裏切り、元弘3(1333)年5月8日、六波羅探題を壊滅させたことにより、討幕軍が圧倒的に優勢となり、新田義貞が稲村ヶ崎から鎌倉への侵攻に成功し、5月22日、北条高氏以下一族が東勝寺で自刃して終局を迎える。その際、諏訪真性盛経ら多くの諏訪一族が、高時に殉じて自刃している。諏訪真性は、幕府奉行人の諏訪左衛門入道時光の兄であったが、時光は志賀郷を所領していた。時光の養子円忠は実務官僚としての手腕が認められ、建武政府の役人となり足利尊氏に仕えた。尊氏は円忠を重用し右筆方衆としたが、のちに評定衆・引付衆等の幕府の要職に就かせる。ついには暦応元(1338)年守護奉行として重用し、全国の守護を監督、遷転する任務に当たらせた。
 鎌倉幕府創立140年後に倒壊し、建武新政となる。その際、北条高時の弟泰家が亀寿丸を諏訪左馬介入道の子三郎盛高に託したのは、北条得宗家に、長きに亘り献身的に仕える側近的御内人であったからだ。その上、信濃の大荘園の多くを北条氏一族が地頭を務め、信濃在住の諸族がその地頭代として、或いは荘園の地頭として恩恵を受けていたからでもあった。諏訪上社を中心とした諏訪氏には、大きな打撃となったが、それでもその影響下にあった滋野系諸氏や薩摩氏同様、隠然たる影響力を維持していた。盛高は亀寿丸を伴い信濃へ逃れ諏訪上社大祝時継を頼った。
 鎌倉時代、諏訪氏の中には「神(しん、みわ)」氏を名乗るような者も現れた。諏訪神社の信仰が高まるにつれ、神氏として諏訪氏を特別視するようになってくると、諏訪氏の傍系や縁故のある武士団氏族も神氏を名乗るようになり、諏訪氏を中心に信州における北条氏与党「神党」として結束し一大勢力となった。それは諏訪氏が北条得宗家の枢要な御内人として、鎌倉幕府の重職を担うようになった事にもよる。「神党」は北条得宗家系に属する一族が、所領を持つ地域に広く分布している。特に歴史的経過もあって諏訪郡と上伊那郡に多く、佐久、小県地方の「神党」の中核が滋野一族の祢津・海野・望月の諸氏であった。
 北条氏に代わり小笠原貞宗が信濃守護として入ってきたのが建武2(1335)年であった。小笠原氏は甲斐の小笠原(山梨県櫛形町)を本拠にする源氏であった。その嫡流は鎌倉に館を構える「鎌倉中」の有力御家人であった。ただ鎌倉末期には、北条得宗家の被官、いわゆる「御内人」でもあった。しかし、北条氏は平氏の末流であり、小笠原氏は、新田氏、足利氏同様、源氏であったため、裏切りに抵抗はなかったようだ。まして小笠原宗長・貞宗は、諏訪氏と違い譜代の御内人ではないので、北条氏を見限るのも早く、足利高氏に従い戦功を挙げた。それで信濃守護に補任された。
 しかし信濃国内には、北条御内人の最有力者・諏訪氏をはじめ、北条守護領下、守護代、地頭、地頭代として多くの利権を有する氏族がいた。そこに北条氏を裏切った小笠原貞宗が、守護として侵入し、旧北条氏領を独占し、それに依存する勢力を駆逐していった。信濃国人衆旧勢力は、新政権を排除し自己の所領の保全・回復をめぐって熾烈な戦いをせざるを得なかった。その北条氏残党の中核にいたのが諏訪氏であった。北条得宗家の重鎮でもあったため、信濃国人衆は諏訪氏を盟主として、「神(しん;みわ)」氏を称し、「神家党」として結束していた。それが建武2年7月に起きた中先代の乱であった。北条時行は諏訪上社大祝時継とその父頼重(諏訪三郎入道照雲)の後援を得て、建武2年7月、小県や佐久の滋野氏一族と更埴の神氏一統や保科、四宮らの神党を中核軍として蜂起した。その乱以後の争闘が、後醍醐天皇の建武の新政を瓦解させた。
 当時の信濃国司は、建武2年6月に赴任した書博士清原真人で、建武新政府から守護に対して軍事権まで与えられていたが、学究の家系であれば、実効的に活動する能力も無く、動乱期でもあれば脆く北条軍武士団に殺害された。これに呼応して北信の北条氏残党と保科、四宮らの神党は、更埴郡の船山(現千曲市小船山)の守護所を攻めた。船山郷は第13代執権であった信濃守護北条基時が領有し、佐久郡志賀郷地頭諏訪時光が一部地頭職にあった。信濃守護小笠原貞宗は事変を京都へ通報すると、直ちに市河助房村上信貞らを率いて戦った。
 7月の市河助房の着到状には「諏訪祝滋野一族謀反を企てるに依り」とあるから、滋野一族は北条時行挙兵に際し、諏訪大祝神党の最有力武士団であった事が知られる。
 時行軍は信濃で北条軍の再結成をすることなく7月18日には関東へ目指した。この性急な進軍が功を奏し、上野・武蔵・相模・伊豆・甲斐などの北条氏所縁の武士団が一斉に蜂起し鎌倉包囲の体制を築き、関東を鎮護する足利直義を孤立させることに成功し、7月25日には、北条時行は終に鎌倉を制圧した。この間滋野一族は、東征軍に参加せず、信濃国内の北条与党と連携し佐久を中心に時行軍の背後を守り、信濃守護小笠原貞宗軍を牽制した。
 信濃では、小笠原貞宗が市河・村上らの信濃国人衆を率い7月14日八幡河原、篠井四宮河原、15日再度八幡河原と福井河原(戸倉市)、そして村上河原で北条軍に勝利した。四宮・保科・東条らは神党、塩田は塩田北条で信濃北条の中心であった。坂木・浦野は信濃薩摩氏の本拠であった。北信地帯は北条の強固な勢力圏であり、その勢力保科・四宮は小笠原信濃守護貞宗軍を突破して小県と佐久の滋野一族と合流しようとしたが、千曲川で小笠原軍に阻まれた。しかし、この一連の戦いで北条時行は一度も、背後の勢力に脅かされずに、鎌倉に進軍ができたのは明らかであった。
 市河倫房とその子息助保の着到状には「8月1日、望月城に押し寄せ合戦致し、城郭を破却せしむるの条、小笠原次郎太郎同大将として破る所見知らせる也」とある。小笠原信濃守護貞宗の叔父経氏は、市河倫房率い千曲川を遡り、佐久郡の望月城を攻め8月1日には落城させ、城砦を破却した。以後、望月は南朝宗良親王軍に従ったという史料も残らない。望月城落城の戦いは、望月氏の死命を制したようだ。
 『吾妻鏡』には薩摩七郎左衛門尉祐能・同十郎左衛門尉祐広・同八郎祐氏の名が、幕府弓始めの射手・随兵・鎌倉番衆や供奉人の列に見られる。建武2年10月の市河倫房とその子助保の着到状によれば、8月1日望月城破却後の9月3日、小笠原信濃守護貞宗の支配下となり、安曇・筑摩・諏訪・有坂(小県郡長久保の北)を攻めている。この時大井荘長土呂を攻めている記録はない。だが有坂氏の本貫地は小県郡長和町町役場北2kmの有坂にあり、堅固な山城があった。城主有坂左衛門五郎は、伴野荘内の諏訪大社神田の一部を領有している。しかも大井荘長土呂郷地頭薩摩五郎左衛門尉親宗と同一人物である。親宗の父は坂木北条城主薩摩刑部左衛門入道であり、建武元年3月、その親と交代で奥州鎮守府の侍所へ出仕している。中先代北条時行挙兵に際し、信濃の北条与党として起ったかどうかは史料上確認できない。この頃、鎌倉に時行がいた。その背後を狙い、陸奥守北畠顕家率いる奥州府の軍勢が進軍の準備をしていた。奥州鎮守府の侍所の要職にあった薩摩親宗が、奥州府の軍中にあったかは不明であるが、その後の薩摩氏の推移を知れば、北条時行に殉じたと見られる。
 市河倫房らは有坂城を落城させ破却している。9月22日には、薩摩刑部左衛門入道が立て籠もる坂木北条城を陥落させている。同月30日、新たに着任する信濃国司堀川光継を、信濃守護小笠原貞宗と共に浅間温泉で出迎えた。しかし以後、信濃の有坂氏と薩摩氏は四散している。薩摩親宗は、母方の縁を頼り伴野氏に仕え、有坂五郎と称し穴原(八千穂村)蟻城狼煙(のろし)台にいた。正平7(1352)年、伴野十郎の家臣として宗良親王軍にあり、武蔵野合戦に参加し笛吹峠(埼玉県嵐山町)で敗退し、小海郷軽井沢に隠棲したという。
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