芦田城址から見下ろす芦田郷 江戸時代の茂田井は望月宿と芦田宿の中間に設けられた間の宿、浅間山の噴煙を眺める
 目次          Top
 一)信州佐久
 二)信州の牧
 三)変わり行く御牧
 四)武士の誕生
 五)武士滋野氏
 六)形成される信濃武士団
 七)東国を地盤とする源義朝
 八)保元の乱と平治の乱

一)信州佐久
 「信陽は山水の窟にして、古来往々にして佳人を出(いだ)す」     石室善玖(せきしつぜんきゅう)

 善玖(1294-1389)は南北朝時代、筑前の人。文保2年(1318)中国に渡り元代禅林の第一人者・古林清茂(くりんせいむ)に師事した。嘉暦元年(1326)帰朝後、天竜・建長寺ほかを歴住、永和元(1375)年岩槻城主太田道真(道灌の父)が岩槻に創建した武蔵・平林寺の開山に招かれた。

 天智2年、白村江の戦いで、陸戦では唐・新羅の軍に、倭国・百済の軍は破れ、海戦では、白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上するという大敗北に遭う。この戦だけで兵士1万余りが、半島で亡失した。その後律令下、軍団制を布く。しかし実体は変わらず、肝心の兵士達が、天皇権力による重税と過酷な課役で疲弊しきっていた。その上の軍事訓練は出来るはずもなかった。また訓練を施す指導者自体がいたのかも疑問であった。況して孫臏(そんぴん)など広く展開する戦略や戦術を練る参謀も将軍もいなかった。

 信濃国は日本史でいう古代から馬の産地であった。弘文天皇1(672)年6月、天智天皇の弟の大海人皇子が、天智の子・大友皇子、即ち弘文天皇の近江朝廷に対して起こした古代最大の内乱・壬申の乱が起きた。大海人皇子は東海、東山2道に使者を遣わし兵を集めさせた。その東国兵の騎兵の多くが、信濃国の豪族兵であった。既に馬の産地であり、牧が各地に散在し、それが豪族にとって重要な財源となり、騎馬戦術を得意としていた集団が、東北蝦夷以外のこの地に存在していた。

  わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず
  韓衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして
                               防人の歌

 こうした直接的な表現が、千年を遥かに越える現代にまで通じる言の葉は、真直な心の叫びであった。重要なことは、当時歌を詠み記す手段は、漢字が総ての万葉仮名であった。それで記され、現代にも通じ感動を呼ぶとすれば、相当な教養人である。その殆どは、地方豪族出身者であった。共に同行し九州へ渡った下層民は、詠めない書けもしないのが当たりまえであり、結果、史上、最も大多数の庶民の声が聞こえぬまま、歴史が語られた。
 古代信濃国は東国に含まれていた。防人は東国の壮丁が任に就いた。信濃はその東国の西端の国であった。『万葉集』には東国の歌「東歌(あずまうた)」が編集されているが、信濃の歌もそこに含まれている。但し、「関八州」と呼ばれるように、信濃は関東ではない。
 大宝令により信濃国は、佐久、伊那、高井、埴科、小県、水内、筑摩、更級、諏訪、安曇の10郡に分かれていた。現在の長野県のうち、当時美濃国の木曽地方を欠く大部分であった。
 特に佐久は信濃10郷の中で、上野・武蔵・甲斐に通じ東西の要路であった。現北佐久郡軽井沢町にある碓氷峠やその南にある入山峠は古代から関東諸国への要路であり、古代の東山道が通じていた。そのため野辺山原や南佐久郡川上村の信州峠などで接する佐久武士の多くは、中世末期の大動乱に巻き込まれ盛衰を繰り返した。その結果、甲斐小笠原の一族が伴野荘大井荘の地頭として、波乱の中、戦国時代まで勢威を振るい続けた。また現佐久市の内山峠は諏訪神が上野へ通われた道筋という伝説が残っている。

二)信州の牧
 『続日本紀』に文武天皇4年(700)3月17日、「諸国をして牧地を定めて、牛馬を放たしむ」とある。牧は、兵部省の兵馬司(ひょうまし;つわもののうまのつかさ)が所管した。この時から、令制による牧の運営が始まった。諸国におかれた牧は、各国の国司がこれを監理し、兵馬司が統括した。京では左・右馬寮(めりょう/うまのつかさ)が、諸国の国牧、御牧から貢進された朝廷保有の馬の飼育・調教にあたった。それらの馬は、馬寮直轄の馬寮厩舎や寮牧で飼養され、或いは、畿内及び周辺諸国の6ヵ所に置かれた近都牧(きんとまき)で飼育された。また、後には勅旨牧(てしのまき)の御牧(みまき)も経営監督をした。そして軍事や儀式で必要なときに牽進して必要部署に供給された。

 初期の官牧には、国牧近都牧国飼牧(くにかいまき;諸国の国衙で飼養する牧)、御牧があり、信濃には国牧と御牧があった。
 『類聚三代格』十八太政官符に『神護景雲2(768)年正月廿八の格にいわく、内厩寮(ないきゅうりょう;うちのうまやりょう)の解(げ)にいわく、信濃国牧の主当伊那郡大領外従五位下勲六等金刺舎人八麿の解にいわく、課欠駒(かけつごま)は数を計り決すべし』とある。金刺舎人八麿は伊那郡司の長官・大領(こおりのみやつこ;おおきみやつこ)に任じられ、さらに信濃の国牧の主当、即ち国営牧担当の主任官でもあった。律令制初期の国牧は、制度上国司が監理するが、実務ができず郡司の大領が国牧の主当として実務を担っていた。
 大宝令で牧を定めて馬を放つことを命じられていたが、恐らくこれ以前から信濃には朝廷直属の牧があったようだ。斉明天皇4(658)年4月、越国守であった阿倍比羅夫は180艘の船団を率いて蝦夷征伐に出発した。その時の兵は、越国はもとより信濃国からも徴用された。さらに信濃国は軍用馬の供給基地でもあった。
 国牧は官営事業であれば、朝廷への貢馬の義務を課した。母馬100につき60頭の責課を命じられた。当然、不可能となり、朝廷は延暦22(803)年、貢馬(くめ)の制を止め、馬1頭につき稲400束を代納させた。牧子は国牧馬百頭を2人で管理しながら、24,000束の稲を貢進せよという。困窮して未進が積もり、牧子の逃散が多発し、弘仁3(812)年12月8日、馬1頭につき稲200束に減じた。天長元(824)年100束とした。国牧の経営実情を無視したため国牧制は崩壊した。
 その上奈良時代の中頃には、徴用した民を国司が私的に酷使し兵士の調練もなさず、軍団制自体形骸化し、馬の需要も減り御牧のみが存続したが、他の牧制は平安時代初期には消滅していた。信濃国の国牧も荘園化していった。その後、牧の役目である貢馬が行われなくなった。左馬寮領といわれていれば、本来牧でありながら、表向きの変化は、牧内部を大きく変えた。
 中央政府は動乱の度ごとに、「官兵」、「人兵(にんぺい)」、「人夫」等の動員を命じるが、既に、延暦11(792)年に軍団兵士制を廃止している。その後の「官兵」、「人兵」、「人夫」等はどこにいたのか。百姓庶民をかり出しても、彼らは重税にあえぎ疲弊しきっている。まるで奴僕の如き体と記録されている。国司による軍事訓練はなおざりにされ、もともと律令制度下では軍兵として、一人として実践的戦力になりえなかった。天長3(826)年11月3日の太政官符 (だじょうかんぷ)に「兵士の賎 奴僕と異なるなし。一人点ぜられば、一戸随って亡ぶ」とある。律令制下、重い税、役の負担で貧窮し切った民の姿がそこにあった。
 律令軍団制の実情は、集められた農民兵を、国司や軍毅が私的に使い、弓馬の訓練を疎かにした結果、平安時代初期の藤原保則は「蝦夷兵一人に百人の軍団兵士があったても勝負にならない」と記している。

 御牧は勅旨牧(てしのまき)ともいわれ、左・右馬寮の直轄にあり、制度的には天皇の牧場であった。平安時代中期、『延喜式(律令の施行細則)』四十八に甲斐国3牧、武蔵国4牧、信濃国16牧、上野国9牧、合計32牧をあげている。

三)変わり行く御牧
 貞観4(862)年、備前国の進官米を積む船が、瀬戸内海の海賊に、その米80斛(こく)が略奪され、運京の綱丁(こうちょう)11人が殺害された。貞観11(869)年、新羅海賊が博多津(はかたつ)に、夜、来襲し豊前国の運京物を略奪し即座に撤収した。大宰府が発兵追捕したが、間に合うものではなかった。貞観17(875)年5月、下総俘囚の乱を「飛駅奏言(ひえきそうげん;天皇への緊急報告)」してきた。元慶(がんぎょう)7(883)年の筑後守・都御酉(みやこのみとり)殺害事件も夜であった。部下が駆けつけたときは、群盗は立ち去っていた。この事変に対して政府は、「官兵」を発してとか、「兵」「人兵」「人夫」等を動員して鎮圧せよと、「発兵勅符」や「追捕官符」を下す。
 やがて朝廷は、これらの争乱に対して、「飛駅奏言」は律令に規定される緊急事態に限定し、国解で太政官に言上せよ、と指示している。政府としては、国衙が捕亡令(ほもうりょう)罪人追捕規定に基づく、国解による追捕官符の「人夫差発(にんぷさはつ)」で人兵や人夫を動員せよと命じている。それは「発兵勅符」よりも、受領の軍事裁量権で「人夫差発」を布告し、いくらでも軍兵を、その専権で動員できる自治的権能を与えようとした。中央政府は、地方政治が中央を支える重要性を認識していながら、その目配りを地方官に委譲し続けた結果、在地領主として台頭する武士階級の成長を許し、姑息な手段を駆使してそれを阻みながら、やがては本来的な政治能力を失っていった。

 追捕勅符や追捕官符で、乱の鎮圧の先頭となって戦うのは、受領とその子弟・従者であった。乱が大規模化すれば、国内から広く動員をする。私出挙と私営田を運用する富豪層と郡司の中から、乗馬が巧みで武芸に優れた者、当時「勇敢者」「武芸人」等と称されていた人々がいた。しかし彼らには、武芸に専念できるゆとりもなく、国衙も未だ、武芸に練達できる特典を与えてはいなかった。それでも、やがて彼らの中から、在地領主化し武士化していく階層が誕生する。
 国衙自体の権能も弱まり、受領の館とその機関としての律令軍団制の実情は、集められた農民兵を、国司や軍毅が私的に使い、弓馬の訓練を疎かにした結果、藤原保則(やすのり)に「蝦夷兵一人に百人の軍団兵士があったても勝負にならない」と言わしめた。保則は元慶2(878)年3月15日、秋田の蝦夷が反乱を起こし元慶の乱に際し、出羽権守として赴任すると、反乱軍に対して国司の非を認め、朝廷の不動穀を賑給(しんごう)して懐柔にあたり苛政を行わないと云うことで、戦いを拡大させずに反乱を収めた。
 当時、保則は既に有能な地方官として名をなしていた。元慶2年の出羽のこの緊急事態に、東海・東山道の諸国と共に、信濃国から30人が「勇敢軽鋭の者」として選ばれた。御牧の牧司が主体であった。彼らは牧馬の飼育だけでなく、馬上、山野を駆け巡り狩猟にも勤しみ、騎馬弓術に長けていた。更に移配された俘囚達と接し、その武技を学んでいた。陸奥へ徴用され、実戦の中、蝦夷の民が蕨手大刀を駆使する疾駆斬撃の戦法と弓馬の技術を、文字通り目の当たりにし刀剣も刀術も進化した。彼らこそ信濃武士の発祥といえる。

四)武士の誕生
 寛平・延喜の時代、東国では諸国の富豪層からなる「馬の党(しゅうばのとう)」が群盗化し蜂起する事態が頻発した。寛平5(893)年から6年にわたって、対馬や九州北部が新羅の海賊に蹂躙されている。寛平7(895)年、京畿内でも群盗が蜂起し、延喜4(904)年3月、安芸守・伴忠行(とものただゆき)が京中で射殺されている。全国的な騒乱状態であった。この時代初めて押領使が制度化され、それまで鎮圧責任を負った受領は、押領使にそれを任せた。押領使の制度こそが延喜の軍制改革であった。押領使は追捕官符を与えられた受領の命を受け、国内武士を総動員して反乱の鎮圧にあたった。荘官としての王臣家人であっても、武勇に秀でた者は、国衙の動員命令には応じなければならない。押領使は将門の乱後は、常置制度化された。
 この時代、私営田を営み在地領主として武士が、有力な実力階層として既に育っていた。その一方、摂関家に奉仕し多大な出費によって、その地位を得た受領達が、地方に対して過酷な収奪にはしり、財の蓄積に励んだ。その的となったのが、「勇敢者」「武芸人」「富豪層」と呼ばれる武士達の私営田であった。
 この時代、武士勢力の動向に大きな変革を与えたのが、天皇家の後裔といわれる清和源氏と桓武平氏の血脈の土着であった。代を経ると次第に、地位が低下し朝廷に座る位地を失っていった。彼らは、已む無く地方の国衙の役人として赴任し、その生存を全うしなければならなくなった。国司にあるうちに、その権威と天皇の血筋を利用して勢威を振るい所領を拡大させた。任期が切れても京へ帰らず土着した。すると同じ国衙領内が所領のため、次の国司と対決しなければならない。そのため武力を養い武士化し、在地の「富豪層」と姻戚関係を結び、地方にあっては特別な名流として当地の豪族を糾合し有力武士団を形成した。
 武士の発生は、その基盤としての所領が欠かせない。関東では、平安前期の寛平元(889)年頃、桓武天皇の子孫高望王が上総に赴き土着した。貴種として重んじられその子孫一族が坂東八平氏として勢力を広げた。その平氏同士が所領を奪い合いした。
 承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)と呼ばれる930年代から始まる将門や純友の乱に際して、武士たちは、朝廷や国衙の理不尽さに反発する将門や純友に与力した者達と、朝廷側に靡き、その鎮圧による勲功で出世を得ようとする2つの勢力に分かれて戦った。その将門の乱を鎮圧した勢力は、同族で常陸を根拠とする平貞盛や下野国に土着した藤原氏の一流藤原秀郷の兵力であった。もはや大規模な武力紛争に対処できる常備軍が律令国家には存在していなかった。
 武士達は、乱後、有能な武将であった将門や純友までも、無残な末路を遂げた事を知り、その後100年間、武士による大規模な反乱は生じなかった。
 しかし、藤原秀郷のように寛平・延喜の東国の乱に際し、下野国押領使として軍功を挙げ、受領の支配を拒絶し下野国に絶対的な勢力を確立した武士も育っていた。その後、将門の乱でも最大の勲功者となり、俘囚が立ち去った後、超人的な武芸・騎馬戦法を確立した武士でもあった。しかし秀郷は源平一族以上の実績を挙げながらも、下野、武蔵両国守を務めた後、下野国にとどまり在地の経営拡大に専念したため、武家の棟梁にはなれなかった。但し、その子孫は下野から北関東一帯に勢力をはる小山氏ら有力豪族を輩出し、やがて、その一流が東北平泉に藤原3代の栄華を築きあげた。

五)武士滋野氏
 文治2(1186)年、右馬寮領の牧本来の役割であった貢馬(くめ)の実施が殆どなかったばかりでなく、現地管理者が年貢を送らなくなっていた。その現地管理者とは、かつて牧長などであった武士であった。望月牧からは望月氏が、武士として台頭していた。祢津・海野氏なども同族で、東信地方の有力武士団となっていた。その3氏族は、滋野氏が源流といわれている。
 滋野家訳は神護景雲元(767)年に生まれる。平安時代の初期、四・五位級の律令政府の役人であったようで、天武天皇の曾孫氷上川継(ひがみ の かわつぐ)の謀反の際、勅令によりこれを鎮め、延暦17(798)年に滋野宿祢(すくね)を賜る。弘仁14(823)年に朝臣を賜り、以後滋野朝臣を称した。これが国史に見られる最初で、滋野氏の名は家訳以降も文献に見られる。仁寿2(852)年2月の「続日本後紀」には、家訳の子・貞主の死について記されていて、「正四位下・相模守滋野朝臣貞主」とる。また、貞観元(859)年12月の「三代実録」には、同じく家訳の子・貞雄の死について触れられ、「従四位上・摂津守滋野朝臣貞雄」とあり、家訳の世代から滋野氏を名乗り始めたことがうかがえる。
 清和天皇の皇孫である善淵王が始めて滋野姓を賜り、これが信濃滋野氏の祖と言われ、滋野氏は清和天皇の末裔と考えられていたが、本来の滋野氏の祖は清和天皇以前にいた。滋野氏の支族・滋野恒陰(つねかげ)が貞観10(868)年信濃介になり、同12年には、滋野善根が信濃守になっていた。こうして滋野氏の支族が国司に赴任し、さらにその一族が信濃に土着し武士化し、東信地方に勢力を伸ばしたといえる。天暦4(950)年、滋野恒陰の孫が望月の牧監(もくげん)となって下向したという伝承がある。以後、滋野氏が代々左馬寮領の地方官として役職を経る過程で、牧の現地管理者であった望月祢津海野氏ら現地有力者と姻戚関係を築きながら同族化し、佐久地方を代表する武士団を形成し、弓馬の武技を極めていった。
 信濃国内には、御牧以外に国衙牧や私牧も存在し、その現地管理者の土豪も武士化していった。
 滋野一族は、室町中期には長野県東御町一帯を本拠とし、海野平から群馬県嬬恋村にわたる広範な地域を領有する有力豪族となっていた。そして、滋野氏は、後に海野、祢津、望月の3氏に集約され、3家は信濃国小県郡、佐久郡に栄えて、名族として活躍した。ちなみに、海野氏の後裔である真田家の嫡流には、関ヶ原の戦で東軍に付き、勝利した真田信之が、代々大名家として明治期まで続いた。

六)形成される信濃武士団
 古代律令制度は中央集権国家体制であったため、国司として中央の役人が地方へ派遣された。その役人は、守・介・掾・目(さかん)の四等官に任じられた数名と、その家族や従者であった。任期は6年、後に4年となった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った。しかし、実際の実務は在地の有力者、いわゆる現地の土豪から任命された。やがて、守も、その多くが任地に赴かなくなると、その現地の役人たちは、平安時代の半ばころから「在庁官人」と呼ばれ、11世紀後半になると国衙の中で一代勢力となり、国衙の権力を専らにし、国内の自らの所領を拡大させた。もともとは中央から派遣された国司の一族が土着した者も多く、国衙に属さない在地有力者も成長してきており、それを支配するために国衙の軍事力を利用した。
 清和源氏は、源義家前9年・後3年の役以後、東国の武士の棟梁となった。「編纂本朝(へんさんほんちよう)尊卑分明図」、または「諸家大系図」ともいう『尊卑分脈』は、南北朝時代に洞院公定(とういんきんさだ)が企画し、猶子の満季(みつすえ)、その子の実煕(さねひろ)ら洞院家代々の人々が継続編纂した諸家の系図の集大成で、氏によっては室町期の人物まで収められている。
 その『尊卑分脈』によれば、義家は下野・相模・武蔵・陸奥守・信濃守を歴任している。義家は国司の守として信濃を含む東国に地盤を確立した。その地盤を継いだのが、義家の孫為義であった。その父の義親は兄の義宗が早世したため、次男でありながら嫡流となり、為義、義朝と続き頼朝に繋がるが、対馬守となって九州に下向した折に、乱暴を働き、追討の官使を殺害した。朝廷は隠岐へ配流とするが、配所に行かずに出雲国に渡って目代を殺害し、官物を奪取した。これによって平正盛の追討を受けて、梟首された人物である。それは名目で、京都朝廷は、義家以降の源氏勢力の台頭を阻むための弾劾策であった。平正盛が義親を討って桓武平氏が一挙に浮上し、源氏と平氏が武家の2代勢力として並び立つ契機となった。以後、為義は義家に育てられた。その活動の中心は京であった。その上で、嫡男義朝を祖父義家の勢力地の東国に地盤を再構築させ、為朝には実父義親が育てた西国を地盤とさせた。そのため信濃国人衆も、義朝との主従関係を結んだ。
 望月氏も御牧の牧監の権力を行使して成長した武士であったが、同じく佐久地方を根拠とし、国衙の権限を背景に武士化した一族に平賀氏がいる。平賀氏は、源義家の弟新羅三郎義光の4男である盛義が、信濃国佐久平の平賀郷に本拠を置き平賀氏を名乗った。
  盛義の父の義光は甲斐守の任じたことがあり、同地域から野辺山高原を越えたところが信濃国佐久平平賀であり、戦国時代に信濃を併呑した義光の後裔武田氏が通った道でもあった。
 やがて盛義の弟の親義は岡田、子息の安義は佐々毛(捧;ささげ)・犬甘(いぬかい)・新田と土着の地名を名字とした。盛義の弟は、現在の松本市岡田に由来する岡田親義を名乗った。佐々毛は当時筑摩郡に捧荘があった。犬甘も安曇郡であったが、筑摩郡に接し梓川と奈良井川の合流点にあった地名である。平賀氏の一族が信濃国府、現在の松本市付近に進出し、国衙を背景にした在地有力者として勢力を拡大させた。

七)東国を地盤とする源義朝
 義朝が幼少期に河内源氏の本拠地河内国のある畿内を離れ東国に下ったのは、父の為義から廃嫡同然に勘当されたためではないかとされる説もある。いずれにしろ為義とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし相馬御厨大庭御厨などの支配権に介入して在地豪族の有力者であった三浦義明大庭景義らを傘下に治めた。
 相馬御厨(そうまみくりや)は、現在の茨城県取手市・守谷市、千葉県柏市・流山市・我孫子市のあたりにあった伊勢神宮の寄進型荘園で、義朝の圧力を恐れ千葉氏がその所領を維持するため伊勢神宮に寄進したものであった。大庭御厨は相模国高座郡の南部、現寒川町・茅ヶ崎市・藤沢市にあった相馬御厨と同様、寄進型荘園の一つで鎌倉景政によって開発され伊勢神宮に寄進されたが、源義朝の乱入を防ぐことは出来なかった。河内源氏の主要基盤が東国となったのはこの義朝の代であり、特に高祖父の源頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷(かめがやつ)に館を構え、相模国一帯に強い基盤を築いた。
 しかし義朝の勢力伸張は下野国の足利に本拠を置く義朝の大叔父・源義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり緊張を生んだ。義国は新田・足利両氏の祖となる人物である。その後上洛していた義国の子の源義康(足利義康;足利氏の祖)と義朝は親しくなり、義国・義康父子と義朝は連携を強めることとなる。義朝は鳥羽院や藤原忠通に接近、仁平3(1153)年下野守に任じられると、在地領主である義国の結縁はさらに強固になった。
 そのため、為義は嫡男義朝の東国支配が強固になるのを牽制するために遣わしたのが義朝の異母弟源義賢であるといわれる。義朝は久寿2(1155)年8月16日、東国に下向し勢力を伸ばしていた義賢を15歳の長男・義平に討たせた。義賢は武蔵国比企郡大蔵に館を構えていた。義平率いる軍勢は突如武蔵国の大蔵館を襲撃し、義賢とその義父秩父重隆共に討ち取った。これが大蔵合戦で、義賢の子で2歳の駒王丸は畠山重能の計らいで木曾へ逃れ、のちの木曾義仲となる。為義の4男頼賢(よりかた)は、兄の義賢と父子の盟約を交わしたと言われる。頼賢は再起を図り信濃国へ逃れた。そして鳥羽法皇領の荘園を押領した。法皇は、義朝に対して、頼賢追討の院宣を下す。義朝は信濃に下向し頼賢を降伏させた。この翌年の保元の乱に際して、義朝に従った武士は近江・美濃・尾張以東の16か国に及んだが、最も人数が多かったのは武蔵国で、次が信濃国であった。

八)保元の乱と平治の乱
 保元の乱の際、義朝に従った信濃武士の中で、現佐久市根々井(岩村田の南)を根拠地する根井大弥太行親が、源為朝軍との戦いで先陣を切り、敵方の首藤(すどう)九郎の矢で胸板を射られて落馬した。続いて海野・望月・諏訪・近藤・安藤・志津間・熊坂などの信濃武士をはじめ27騎が駆け入り大乱戦となっている。根井氏は望月氏の国親が、根々井を領して居住地を名字の地とした事による。信濃武士団として諏訪一族に並ぶ最大勢力であった。
 『保元物語』では、信濃守行通(ゆきみち)が崇徳上皇・藤原頼長方についている。それ以外に信濃に関係する武士に下野判官代正弘、その子の左衛門太夫家弘、村上判官代基国左衛門尉頼賢の名が表れている。
 判官代とは、平安時代以降、国衙領・荘園の現地にあって、土地の管理や年貢の徴収などを司った職とされる。国司は大国・上国は四等官制で守・介・掾・目が置かれた。国衙領では三等官の掾を判官と呼ぶこともあったから、その代理を務めたと考える。下野判官代正弘の本姓は「平」で、崇徳上皇の北面の武士であった。信濃の国府に近い東筑摩郡の伊勢神宮(内宮)領・麻績(おみ)御厨を所領していた。
 村上判官代基国は、信濃の更級郡に土着した清和源氏であるという。村上判官代源為国の5男で、更級郡村上郷を本領として、京都で院司として仕えていた。鳥羽天皇の皇后高陽院(藤原泰子)の院司判官代に任じられ村上判官代と称した。戦国武将・村上義清は清和源氏頼信流といわれている。『尊卑分脈』によれば、頼信の子に頼義・頼清・頼季・頼任らの兄弟があり、そのうち頼清の子が顕清で、信濃国に配されてはじめて村上を名乗ったという。しかし信濃村上氏の菩提寺である村上山満泉寺に伝わる系図によれば、最初に村上姓を称したのは頼清となる。顕清の子が為国で、以後、代を重ねて戦国武将の義清へと続いた。いずれも確かな史料的な裏付はない。
 左衛門尉頼賢は、先の源頼賢で保元の乱では為義に従い、崇徳上皇方として活躍した。義朝軍を相手に奮闘する姿が『保元物語』に活写されている。崇徳上皇方の敗北に伴い、乱の後捕らえられ、義朝の手によって船岡山(京都市北区)において斬首された。
 保元の乱は実質的に7月11日の1日で決着した。戦いは寅の刻(午前4時)に始まり、辰の刻(午前8時)に亘っている。後白河天皇方が白河殿に火を放ち、崇徳上皇・左大臣頼長が逃げたことで、天皇方の勝利が決定した。
 後白河天皇は諸国荘園整理令の発布、大内裏の造営、朝廷の儀式の復興など天皇中心の政治を復興させようとしたが、保元3年、子の二条天皇に譲位をし、自らは後白河上皇となり院政を復活させた。一方、保元の乱後、平清盛一族は政府の要職に就き厚遇されたが、源義朝は最大の武士団を編成し乱を勝利に導いた最大の功労者であったが、父為義は7月30日に義朝によって斬首された。享年61であった。為義の子為朝が、伊豆大島に流された以外は、近親一族総てが斬首にされた。しかも論功行賞にも清盛と差を付けられていた。上皇の近臣信西にいたっては、源義朝が申し入れた姻戚関係を断り、平氏の娘と自分の息子の婚姻を結んだ。
 平治元(1159)年12月4日、清盛が熊野(和歌山)参りのため、京を離れた隙を狙って、義朝は、藤原信西と対立していた藤原信頼と手を結び、謀反を起こした。信西は後白河上皇の乳母であった紀伊二位の夫であり、上皇が雅仁親王であったころから接近していた。彼の父実兼は中国の歴史や詩文に通じて省試に合格した蔵人で、祖父季綱は大学寮の長官・大学頭で知識人の家系であった。後白河天皇時代からの側近で上皇から信頼されていた。
 信頼は後白河天皇に近侍するや、周囲から「あさましき程の寵愛あり」といわれるまでの寵臣として仕えた。いつしか信西と信頼は反目するようになり、また後白河院の院政を好まず二条天皇の親政を望む勢力もあって、朝廷内は政治的派閥の対立が目立つようになる。
 平治元年12月9日、都において他を圧倒する軍事力を有する平清盛が、一族を引き連れて熊野詣に出かけた留守に、信頼は源義朝、源光保、源頼政を誘引して京で挙兵した。まず後白河上皇の御所・三条殿に押し寄せ内裏の「一本御書所」に、二条天皇と共に閉じ込めた。騒乱の気配を察知した信西が宇治田原まで逃げるのを追わせ、捕まえ首を切らせ都大路に晒した。これが平治の乱の始まりであった。

 その功により義朝と信頼は同派一統を主要な官職に就け、朝廷の最大の実力者に成り上がった。この時、信西の12人の息子は流罪に処された。『尊卑分脈』によれば5男惟憲(これのり)は信濃守であったが、佐渡へ流された。これら流罪の決定は、平氏が政権を握った後も、そのまま実施された。
 しかし、二条天皇親政を支持する勢力と、信頼その他軍事貴族の連合であるこの政権はすぐに瓦解した。
 10日には、京都の清盛の六波羅の屋敷から早馬が熊野へ向かった。それまで中立的立場を保っていた清盛は急いで京に戻ったが、膠着状態が続いた。25日、月入り後の闇夜に、天皇を六波羅へ上皇を仁和寺に救い出し、すぐさま義朝と信頼追討の宣旨を得ると、もともと二条天皇側近であった源光保らの軍事貴族は、賊軍となった信頼方から離脱し、信頼への依存度が高い源義朝のみがその陣営に残ることになる。清盛は一気に御所にこもる義朝軍を打ち破った。信頼は同月27日六条河原で処刑された。27歳であった。義朝は鎌倉を目指して落ち延びようとしたが、尾張で謀殺され、その子・頼朝は伊豆蛭が小島へ流され、義経は京の鞍馬寺へ預けられた。頼朝13才、義経は1才であった。義朝の長男義平は、京を逃れ飛騨国で兵を募り、かなり集めたが、義朝横死の噂が伝わると皆逃げ散ってしまった。せめて清盛か重盛を討とうと京へ向かった。石山寺に潜んでいたところを発見され、難波経房の郎党に生け捕られた。六条河原へ引き立てられ斬首された。享年20歳であった。
 『平治物語』では、内裏に立てこもる義朝軍の中に、信濃武士として片桐小八郎大夫景重木曾忠太弥忠太常盤井榑(くれ)弘戸次郎の名が見える。
 源氏の主な人達も次々と殺され、平治の乱以降は武士の世界は平氏の世の中になっていった。また武士が政治の流れを決める時代にもなっていった。永暦元(1160)年、清盛は正三位参議に任じられ、武士として初めて公卿に列した。そして太政大臣にまで上り詰めた。信濃武士も平氏を棟梁と仰ぐ道しかなかった。
 車山高原リゾートイン・レア・メモリー   諏訪の歴史散歩

車山創生記 | 八島湿原生成 | 八島遺跡群 |八島遺跡と分水界| 縄文のヒスイ | 縄文時代総説 | 縄文時代の地域的環境 | 縄文草創期 | 縄文早期 | 縄文前期 | 縄文中期 | 縄文時代の民俗学的研究 | 縄文後期 | 縄文晩期 | 弥生時代総説 | 倭国大乱 | 箕子朝鮮 | 扶余史 | 中国からの避難民 | 遼東情勢 | 衛氏朝鮮 | 長江文明 | 黄河文明 | 臨潼姜寨遺跡 | 半坡遺址 | 大汶口文化 | 山東龍山文化 | 中原龍山文化 | 朝鮮新石器時代 | 旧御射山物語 | 諏訪の字源と語源 | 諏訪の古墳群 | 中山道と諏訪の江戸時代 | 阿倍比羅夫と旧東山道 | 大化以降の諏訪の郷村 | 長野県の積石塚古墳 | 諏訪郡の御牧 | 古代塩原之牧と山鹿牧 | 蕨手太刀と諏訪武士 | 信濃武士誕生史  | 佐久武士誕生史 | 諏訪武士誕生史 | 諏訪家と武家の棟梁源氏との関係 | 中先代の乱と諏訪一族 | 室町・戦国の諏訪氏 | 佐久・伴野氏 | 佐久・大井氏盛衰記 |北信の雄・村上氏 | 鎌倉幕府滅亡から南北朝時代の信濃武士 | 村上信貞の時代 | 大塔合戦(信濃国一揆) | 小笠原政康、信濃国を制覇す! | 信濃戦国時代前期 | 信濃戦国時代後期 | 真田幸隆と武田信玄 | 真田昌幸の生涯 |戦国大名小笠原氏の没落!| | 諏訪氏と武田氏 | 諏訪家再興 | 諏訪湖・高島城 | 高島藩お家騒動 | 江戸期の諏訪民俗史 | 江戸期の北山村 | 坂本 養川汐 | 諏訪と浜松を結ぶ中馬と通船 | 富士川通船と中馬 | 大門街道湯川村 | 諏訪の民話 | 車山の天狗伝説 | 天狗党事件前夜 | 天狗党挙兵 | 天狗党中山道へ進軍 | 天狗党と高島藩 | 天狗党高遠藩領を行く | 天狗党と伊那街道諸宿 | 天狗党事変の結末 | 車山霧ヶ峰入会論 | 霧ヶ峰峠道 | 明治の霧ヶ峰 | 大正期の諏訪の農業 | 大戦前の諏訪の国民運動 | 製糸女工の賃金 | 山一林組争議 | 諏訪の製糸不況 | 片倉工業史 | 近世近代の霧ヶ峰 | 霧ヶ峰のグライダー史 | 車山開発史