燕の遼東情勢      Top

 

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 燕の遼東情勢
 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五に『(わい)。北は高句驪・沃沮と、南は辰韓と接し、東は大海に窮まり、西は樂浪に至る。および沃沮・句驪は、もと皆な朝鮮の地なり。昔、武王()は箕子を朝鮮に封ず。箕子は禮義を以って田蠶(でんそう;畑作と養蚕)を教え、また八條の教を制し、その人は終(つい)に相い盜まず、門戸の閉ざす無く、婦人は貞信にして飲食は(へんとう;祭りや宴会に用いる器で、「」は竹製で果実などを盛る。「豆」は木製で塩辛などを盛る。)を以ってす。 その後四十餘世、朝鮮侯の準(じゅん)に至り、自ら王を稱す。
   漢の初め大いに亂れ、燕・齊・趙の人の往きて地を避ける者は數萬口。而して燕人の衞滿は準を撃破し、而して自ら朝鮮に王たり(衞氏朝鮮)。傳國して孫の右渠(うきょ)に至る。
 元朔元年。君の南閭(なんりょ)等、右渠に畔(そむ)き、二十八萬口を率い遼東に詣(いた)り内屬す。 武帝(前漢の武帝)はその地を以って蒼海郡と爲し、數年にしてすなわち罷()む。
 元封三年に至り、朝鮮を滅ぼし、分かちて樂浪(らくろう)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)・真番(しんぱん)の四郡を置く。昭帝の始元五年に至り、臨屯・真番を罷()め、以って樂浪・玄菟に并(あわ)す。  玄菟はまた徙(わた)りて句驪に居す。單單大領(ぜんぜんたいりょう=現在の「長白山脈」)より已東(以東)、沃沮・濊貊は悉く樂浪に屬す。後に境土(きょうど)の廣遠(こうえん)なるを以って、また領東の七縣を分かち、樂浪東部都尉(らくろう とうぶ とい)を置く。内屬より已後(以後)、風俗は稍(ようや)く薄く、法禁また浸(ようや)く多く六十餘條有るに至る。
 建武六年、都尉の官を省(はぶ)き、遂に領東の地を棄て、悉くその渠帥(きょすい;中国風の職名を表現したのではなく、当時の朝鮮の国々における首長か?)を封じて縣侯と爲す。皆な歳時に朝賀す。
 大君長は無く、その官に侯・邑君・三老有り。耆舊(ききゅう=耆老に同じ。老人のこと)自ら謂う「句驪と同種なり」と。言語・法俗は大抵(おおむね)相い類す。その人の性は愚愨(ぐかく)にして嗜欲(しよく)少なく請(せい)こうせず。 男女は皆な曲領(きょくれい;古代、武官の礼服《らいふく》の付属具。首を通して肩に当て、その上に裲襠《うちかけ》を着た)を衣()る。 その俗は山川を重んじ、山川は各(おのおの)部界有り、妄りに相い干渉することを得ず。同姓は昏せず、忌諱(きき)する所多し。 疾病・死亡するに、すなわち舊宅を捐棄し、更に新居を造る。
 麻を種()え、蠶(さん=かいこ)を養()うを知り、緜布を作る。星宿(しゅくせい)を候(うかが)うに曉(あか)るく、 年歳の豐約を豫知す。常に十月を用て天を祭り、晝夜飲酒し歌舞す。これを名づけて「舞天」と爲す。また虎を祠(まつ)り以って神と爲す。邑落に相い侵犯する者有れば、すなわち相い罰し、生口・牛馬を責む。これを名づけて「責禍」と爲す。
 人を殺すは死に償(あが)ない、寇盜(こうとう)少なし。歩戰を能くし、矛の長さ三丈なるを作り、或いは數人共にこれを持つ。樂浪の檀弓(だんきゅう;マユミの弓)はその地に出ず。また文豹(もんひょう;模様のあるヒョウ)多く果下馬(かかば;背のたかいウマ)有り。海は班魚を出だす。使の來たるに皆なこれを獻ず。』
 
 B.C.207項羽が秦王朝を滅ぼす時、燕の将軍であった臧荼(ぞうと)は楚に従って趙を援けたので、初代・燕王に封じられ、薊(けい;現代の北京市)に都します。
 B.C.206臧荼は燕に行って、遼東王韓広(かんこう)に封地へ行くように促したが、韓広は聴かなかったので、臧荼は韓広を無終で殺し、遼東の地を合わせてその地の王となります。 B.C.201漢の高祖は楚を滅ぼすと、郡国制を布き諸侯を各地に封じます。臧荼はそのまま燕王に封じられます。7月、臧荼は漢に背き、代(山西省)の地を下します。これは高祖の策略といわれています。高祖は親征して臧荼を捕らえ、大尉盧綰を立てて燕王としました。
 漢の方針は、功臣の粛清であったため、燕王・臧荼が真っ先に廃されたのです。王位にあったのは、たった8ヶ月でした。しかし、臧荼の息子、臧衍(ぞうえん)は匈奴の地に逃亡しました。
 盧綰(ろわん;B.C.194)は豊邑の出身で、高祖とは同日生れの幼馴染です。常に劉邦と行動を共にし、漢中入りで将軍とされ、関中攻略後は太尉・長安侯とされました。盧綰にたいする劉邦の信愛は絶大で、蕭何張良も遠く及ばず、寝室への出入りすら自由だったといわれています。
 燕王臧荼が平定されると、B.C.202年、盧綰は燕王に封じられますが、そこが遠方で守るのが難しいので、遼東の故塞、戦国時代の燕によって築造された遼東長城を修復し、清川江までを国境とします。
 それからの数年は、漢に粛清の嵐が吹き荒れます。盧綰が燕王になった翌年・B.C.201年には、早くも漢建国の大功臣・楚王韓信が王位から引きずり降ろされます。B.C.199年には、趙王張敖が王位を追われます。 代王の韓王信も、匈奴との内応を疑われ、匈奴軍に囲まれも、漢軍の援軍もなく、止むを得なく降伏します。その後、韓王信は匈奴軍の前線部隊として戦いますが、B.C.196年、漢の柴武将軍に敗れ斬死します。
 B.C.196年、北の代の地(山西省)で鉅鹿太守陳豨(ちんき)が反乱を起こします。これは兵権を奪われ淮陰侯に格下げされた韓信と共謀しての行動でした。陳?は鉅鹿太守に封じられたまま、韓王信に代わって代王となった劉邦の子・劉如意の宰相をも兼務していました。
 劉如意は、戚姫と劉邦の間の子で劉邦に溺愛されていました。また、代というのは、当時強大化した冒頓単于率いる匈奴と国境を接し、漢にとっては、非常に重要な地域でした。ここで、陳を代相国として兼務させる人事により、劉邦が陳をいかに信頼していたかが判ります。 それ程の信頼を受けても、わずかに生き残る、かつての功臣達には、劉邦という人物は、最早、信用しきれなくなっていたのです。
 劉邦は陳討伐に親征し、盧綰もこれに参加します。韓信は、その当時、長安の屋敷にいました。 劉邦が討伐に向かった隙をついて、囚人を解放し、諸官庁の労務者と合わせて配下にして、長安で反乱を起こす計画でした。呂后と相国蕭何は、それを韓信の下僕の密告で知り、 蕭何は狡猾にも『陳?軍は壊滅した。宮中で宴席を設ける』と招待し、参内したところを捕らえられて斬首に処します。
 同年、樊?は兵を率いて代を攻め、陳?を討ちます。先陣して清河・常山などおよそ27県を平定しています。討伐軍に、次々と陳軍は破れ、陳は匈奴と共同作戦をとっていたので、 匈奴に救援を要請します。盧綰はこれを知り、部下の張勝を匈奴に派遣し、「陳は再起不能である。」と伝え、救援を思い留まらせようとしました。
 張勝が匈奴の地につくと、先の燕王臧荼の子・臧衍が亡命していました。彼は、張勝に助言して、「盧綰殿の燕が6年間も続いているのは、諸侯が度々反乱を起こし、それを討伐するのに燕王盧綰殿の力が必要だからなのです。陳らが全て滅ぼされれば、次は燕王が滅ぼされます。盧綰殿は匈奴と和親を結ぶべきです。 もし、漢軍が大敗するようなことがあっても、これならば燕国は安全です。」と説得します。
 張勝はこれを聞いて、もっともだ、と納得してしまいます。張勝は帰国して説明すると、盧綰も納得し、また張勝を密かに匈奴に派遣し連絡を取らせます。さらに范斉(はんせい)という家臣を陳?のもとに遣わし、  逃げ回っても、こちらからは追撃をしないこと。戦争を続け、決着をつけないことが、最善の保身と言わせます。
 盧綰の思惑通りにはいきません。10月、樊噲は陳率いる匈奴の騎兵を、代の横谷(おうこく)で破って、敵将趙既を斬り、侯敞を曲逆で斬り、張春を聊城で破り、王黄・太僕・解福等将軍10人を捕虜とし、当城で陳を斬り、諸将とともに代の郷邑73を平定します。
 陳?が 平定された後、B.C.195年、内通が露見して樊噲の討伐を受けたが、なおも長城辺外に留まって釈明のために劉邦の平癒を待ちます。しかし劉邦が病死したために、盧綰は絶望し、長城を越え冒頓単于率いる匈奴に亡命します。
 匈奴は、冒頓単于という強力な指導者を持ち、中国からの亡命者を優遇していました。盧綰も、兵一万を率いて投降したこともあり、東胡の盧王に任命されます。  しかし侮りを受けることが多く、心労のために一年余りで匈奴の地で没します。孫の盧他之も匈奴の東胡王とされたが、B.C.144年に文帝に降って亜谷侯とされます。その後、亜谷侯の爵位を伝えますが、曾孫の代に、罪があって爵位と領地は取り上げられ、盧氏の亜谷侯は断絶します。

 朝鮮半島北西部には戦国時代以後の混乱期から、漢人が大挙して流入します。日本への移民も当然頻発したでしょう。当時の日本は、既に水稲技術と鉄器文化を 導入済みですが、より高度な技術の到来が期待されていました。 寧ろ亡命者・難民は先端技術の伝承者ですから、優遇されたものと考えられます。その時代はまた、人口も減少していましたし、積極的に先端技術を受け入れなければ、日本でもようやく始まった集落・『クニ』相互の闘争、それに勝ち残るには、 大陸の金属武器と農具その他諸道具がなければ、拡大する首長的政権の存続も図れなかったのです。
 縄文時代の各時期にも矢尻が刺さった人骨が見つかっています。しかし、縄文人骨の全体からみると希少過ぎて、これを戦闘とするか、事故と考えるか、その判断が難しいのです。ところが、弥生時代に入ると、戦いの痕跡が格段に増加します。 特に弥生時代初期の北部九州では、戦闘死した多くの人骨が、一箇所にまとまって埋葬されたりしています。
 B.C.3世紀の弥生時代前期からA.D.1世紀の中期末まで、北部九州では、古代国家形成に向かう過程で戦争が多発化したようです。戦争の犠牲者とみられる人骨が多数出土しています。その最古の人骨は、福岡県の志摩町新町遺跡長野宮ノ前遺跡で4体発掘されました。しかもB.C.4世紀の縄文時代晩期末の遺跡です
 志摩町新町遺跡では、支石墓が多く見られ、文様で飾られた美しい赤色や黒色の小壷が出土しています。24号墓の木棺墓から、40代の男性の左大腿骨の付け根に、朝鮮半島系の柳葉形磨製石鏃の先が折れて刺さっていました。長野宮ノ前遺跡でも数基の支石墓が発見されています。12号墓の木棺墓から、形態の違う2本の柳葉形磨製石鏃が出土しています。 その出土状況から遺体に突き刺さっていたものと考えられています。この墓の埋葬者が戦死者であることを示しています。いずれも渡来系の遺跡とみられています。
 その殺戮に使われた朝鮮半島系の柳葉形磨製石鏃は、戦闘用で重く大きい、縄文系の打製石鏃は、狩猟用で2g未満と小さい。したがって、その敵も渡来系であったのです。
 B.C.3世紀前半・弥生時代前期の前半期になっても、戦死者は玄界灘と響灘の周辺地域に集中します。朝鮮半島系の渡来人が、大きな変動を北九州に及ぼしたのです。
 B.C.3世紀後半からB.C.2世紀・弥生時代前期後半から中期前葉になると、戦死者の遺体は、さらに佐賀平野、筑後平野、中津平野、そして熊本平野、やがて壱岐、平戸島でも出土します。
 平戸市根獅子(ねしこ)遺跡の、頭に銅鏃の刺さった女性の人骨、吉野ヶ里遺跡の甕棺からは、首を切断されたまま埋葬された人骨も見つかっています。これは青年の男性で、戦争の犠牲者で、手首と肩に、骨まで達する傷も確認されています。
 この時代になると銅製の武器も出土します。福岡市吉武高木(よしたけたかぎ)遺跡の甕棺に副葬された銅剣、吉武大石遺跡の同じく甕棺に副葬された銅矛等です。
 筑後平野や佐賀平野は、後世の伊都国のあった糸島平野と奴国の福岡平野の周辺地域です。強大な統一王権が確立されるまでの熾烈な集落間の闘争が、日本国内で初めて発生したのです。王権への道は、渡来系の人々によって開始されたといえます。縄文時代であっても、集落間の争闘はあったでしょう。しかし、少なくとも縄文時代に は、人を殺戮することを目的とした武器は存在しません。
 B.C.1世紀中頃・弥生時代中期中頃以降には、九州以外でも多数出土しています。横浜市大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡の環濠外の共同墓地で、矢尻の刺さった人骨が発掘されています。山口県土井ケ浜遺跡のハリネズミのように矢が刺さった男性人骨は、有名です。 岡山市清水谷遺跡では、一身に20本の矢を受けた遺体、京都市東土川遺跡では、石剣5本と石鏃10本の矢を受けています。東大阪市山賀遺跡では、両肩に各一本、脇腹に1本、左大腿骨に一本の矢を受けた壮絶な戦士の遺体でした。
 このB.C.1世紀中頃から、環濠集落も、より大規模化して、東方へ広がります。唐古・鍵遺跡は、奈良盆地のほぼ中央、奈良県磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に位置します。初瀬川と寺川に挟まれた沖積地に営まれた弥生時代の大規模環壕集落の跡です。遺跡面積の約42万mは近畿地方最大です。
 全国的にも佐賀の吉野ヶ里に次ぐ広さです。径400mから500mの範囲が居住区で、その周りには5重もの環濠が囲み、環濠幅は100mから200mにもなります。
 遺跡は弥生時代前期・B.C.300年頃に成立し、古墳時代前期・A.D.300年頃までの約600年間続きました。
 集落の形成過程は、弥生時代前期に始まり、やや小高い所を選んで、居住地として、遺跡の北部、西部、南部の3ヶ所にムラが形成されたようです。弥生時代中期初頭、3ヶ所に形成された居住区が、それぞれ周りに溝を巡らせて「環濠集落」の形をとります。弥生時代中期中頃、3ヶ所の居住区が統合され、 全体を囲む「大環濠」が掘削されます。大環濠で囲まれたムラの大きさは、径400mから500mと推定されています。また、環濠の間には土塁が設けられ、その防御能力は、一段と高まっています。
 縦穴住居跡、多数の絵画土器青銅器の鋳造炉跡の発見等、重要な成果が相次ぎました。銅鐸の鋳型が発見されていて、銅鐸を製造する大規模な青銅器生産設備の存在を窺わせます。
 この遺跡からは約90点の絵画土器を出土しており、全国の絵画土器出土総数の約3分の1を占め、北へ600m程の清水風(しみずかぜ)遺跡30点の絵画土器と合わせると、全国の約半分の絵画土器がこの地域に集中しているのです。
 環濠集落は、更に東進します。濃尾平野の朝日遺跡横浜市大塚遺跡歳勝土遺跡と、東日本でも、王権確立に向かって、弥生時代中期初頭から後期へと激動の歴史を辿るのです。

   『漢の初め大いに亂れ、燕・齊・趙の人の往きて地を避ける者は數萬口』
 秦・漢の交代期の戦乱は、華北・華中を荒廃させ、大規模な流民を発生させます。なにしろ、漢の高祖・劉邦は、8年に及ぶ騒乱状態が続いために建国当初、漢の国力はあまり奮わず、匈奴の侵略に悩まされ、一時は遠征中の劉邦自身が、白頭山で匈奴の大軍に包囲攻撃される危機に遭い、屈辱的な講和を結んだぐらいです。箕子朝鮮も積極的に亡命者を受け入れ、西方地域に適宜住まわせます。