長野県千曲市稲荷山、佐久や小県から善光寺平へ出る要地。幾たびか戦場となった。
大塔合戦
 目次      Top
 1)信濃小笠原氏誕生の時代背景
 2)斯波氏の信濃支配
 3)信濃守護小笠原長秀
 4)国人衆の反感を買う小笠原長秀
 5)大塔合戦

1)信濃小笠原氏誕生の時代背景
 小笠原宗長は、伴野荘小笠原・岩村田小笠原系と異なり、阿波守護職職(しき)小笠原の系統で、その小笠原長経系六波羅探題の奉行人など鎌倉幕府の京行政府の枢要な官人を輩出する吏僚一族となる。その京都小笠原系の宗長・貞宗父子が、六波羅の命により楠木正成が拠る赤坂城の攻撃軍に加わっていた。途中、後醍醐天皇の綸旨を受けて足利尊氏が裏切り、尊氏が宗長を誘う書状により天皇方に寝返った。その元弘の変以来、一貫して足利尊氏に属した。
 小笠原貞宗が初めて信濃守護に任じられ信濃へ下向したが、領地や支持基盤も実績もない状況下であった。小笠原宗長・貞宗父子に鎌倉末期までの時点、信濃に所領があったという史料がない。ほぼ孤立無援で、佐久岩村田の小笠原一族大井氏が信頼するに足る強力な在地勢力であった。その協力を得、政長・長基と守護職を引き継ぎ、北条与党を掃討し信濃全域に勢力を張った。初めは現伊那郡下条郷の伊賀良荘を領有し、更に現南安曇野郡三郷村の住吉荘・近府春近領(きんぷはるちかりょう;島立・小池・塩尻・新村南方)を得て、拠点を松尾館から府中の井川(いがわ)館に移し、府中松本を中心に一族勢力を展開した。 井川の地は、薄(すすき)川と田川の合流点にあたり、頭無(ずなし)川や穴田川が流れる湧水地帯で、現在でも字名として残っている。頭無川が濠状に取り囲んで流れ、主郭と推定される一隅の土壇が、櫓(やぐら)跡という伝承がある。小笠原氏は、その後も足利幕府に協力し所領を拡大し、守護権を名実共に強化し領国支配を布く勢いとなった。応永6(1399)年5月10日、前将軍足利義満から「信濃国春近領下地の事一円宛行うところなり」と御教書を得て、春近領全域を領知した。
 大塔合戦直前の小笠原氏の所領は
 伊那郡には、 伊賀良庄・福地・片切・田島・小井弖(春近領)・二吉(春近領)・赤須(春近領)・名子(春近領)の緒郷
 筑摩郡には、 浅間・二子・塩尻(春近領)・小池(春近領)・島立(春近領)・新村南方(春近領)の緒郷
 安曇郡には、 住吉庄・大和田郷・大妻南方
 更級郡には、 小(お)嶋田郷・船山郷(春近領)
 佐久郡には、 沓沢郷
 水内郡には、 志津間郷
 高井郡には、 志久見郷(春近領)闕所分
 小笠原氏の所領の圧倒的多くが、鎌倉幕府末期の北条一族の所領であり、次いで国衙領が占めている。
 詳細を語れば
 信濃国内の北条闕所地は、嘉歴4(1329)年の史料によれば、伊賀良庄が江間遠江前司(江間流北条氏)後家以下、四宮庄が金沢時顕跡、筑摩郡松本の国府周辺の棒(ささげ)荘が北条英時、安曇郡住吉庄(安曇郡三郷村・梓川村・豊科町)が大妻兼澄の所領であった。兼澄は承久の乱に際し後鳥羽上皇方に属し討死、乱後没収され北条一族の所職の内となったようだ。
 「春近領」とは、鎌倉幕府草創期「春近」という名称で設立した所領で、将軍家を本所とする関東御領のことで、信濃・近江・美濃・上野・越前・肥後などに分布する。信濃国内には、近府春近伊那春近奥春近とあり、近府春近領は、松本市、塩尻市、旧梓川村にある島立・小池・塩尻・新村南方など6郷があったという。伊那春近領は、現在の伊那市から下伊那郡松川町に及ぶ天竜川沿いの広大な領域であった。奥春近領は船山郷・志久見郷など諸所に散在していたようだ。北条時政が執権職につき、子の義時得宗家が幕府の実権を握るにつれ、信濃春近領は北条氏守護管轄領となっていた。加えて守護の所職と一体不可分の「狭義の守護領」もあったはずだが、郷名までは定かでない。
 北条氏守護が国衙に在庁し国司の任も兼ねていた。そこに属する武士も御家人化していた。国衙領は北条氏一族の総所領の50%程度といわれ、その権益は莫大であった。鎌倉幕府倒壊後、伊賀良庄・小泉庄・塩田庄のように早期に建武政権が新知領有の宛行状を発してあれば問題はないが、それ以降は、周辺の新興の諸雄族が侵出し、それを既成事実化しようとした。小笠原氏守護方は正統な所職権益者として、その排除にかかる。
 小笠原氏は南北朝以後、伊那を本拠に、かつての国衙領が多くを占める松本筑摩から北信地方まで所領を拡大していた。大塔合戦は、新任守護の小笠原長秀が、その所領地が無いか、限られる善光寺・上田・佐久盆地の穀倉地帯にまで触手を伸ばしたのが起因とも言われている。国人一揆の有力諸士の支配領域と重なっていた。

 足利尊氏は、関東鎌倉を武家支配根源の地として重視し、次男基氏を置き治めさせた。その関東分国領と称される領域は、関8州の相模・武蔵・上野・下野・上総・下総・安房・常陸の諸国に加え伊豆と甲斐を含む10か国であった。その幕府の関東支配組織が在所名の「鎌倉府」であった。幕府は公方の下に、補佐役の執事、後の管領を置く、室町幕府同様の支配体制を布いた。公方は足利基氏- 足利氏満 - 足利満兼 - 足利持氏 - 足利成氏と代々親子で継承された。執事には尊氏の姻族・上杉憲顕(のりあき)が就き、上杉氏が代々継いだ。上杉氏は藤原北家勧修寺流藤原氏の流れで、京都府綾部市上杉が名字の地と言われている。代々蔵人に任ぜられた。鎌倉幕府6代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時、親王に従って鎌倉に下向したのが上杉氏の祖藤原重房であった。その子頼重の娘清子が足利貞氏に嫁して、尊氏・直義を生んだことで、足利氏と密接な関係を持つようになった。
 観応元(1350)年には、大井朝行の甥大井甲斐守光長(光栄;みつしげ)が、貞宗の子・信濃守護小笠原政長の代に、その守護代に就任した。光長が信濃国太田荘大倉郷(上水内郡豊野町)の地頭職(しき)をも兼ね勢力を拡大させていた。
 ところが、正平20(1365)年頃、京都の幕府の管理下にあった信濃国が、鎌倉公方足利基氏の支配下に置かれるようになった。その守護が、鎌倉公方の推薦によって幕府が任命する例となり、関東管領上杉朝房が信濃守護を兼任した。信濃国は東山道からの関東の入口として、鎌倉府防衛の要所であるため、以後も度々鎌倉府の管轄下に入った。守護小笠原長基にとって、不本意な解任であった。しかし幕府は鎌倉府を牽制する狙いもあって、長基に兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)の給付権を与え、その軍事指揮権を保持させ、信濃守護上杉朝房と拮抗させた。兵粮料所とは、平安末期から南北朝期にかけて、戦乱の際にとくに指定されて兵粮米徴収の対象となった公領・荘園所領のことをいう。やがて南北朝内乱が激化すると、以前のように朝廷からの承認を得ず、各国守護が軍費調達、恩賞給付を口実に兵粮料所を濫設した。

2)斯波氏の信濃支配
 鎌倉公方2代目の足利氏満は、憲顕死後、関東管領を継いだ上杉憲春(のりはる)とともに宇都宮氏綱をはじめとする関東諸勢力と戦い、関東に強力な支配権を確立した。康暦元(1379)年、幕府の管領細川頼之が失脚する康暦の政変が起こる。氏満は好機として、足利義満に代わって将軍となろうと画策し挙兵しようとしたが、関東管領上杉憲春が自刃して諌めたために断念した。
 天授3(1377)年、信濃は再び幕府の管轄下に入り、元中元(1384)年、幕府管領斯波義将(よしまさ/よしゆき)の弟で、先の侍所頭人(さむらいどころとうにん)兼山城守護であった義種が守護となった。その後守護職は斯波氏が応安5年(1398)まで就任している。義種は在京のまま家臣二宮氏泰を守護代としたが、氏泰も下向せず子の種氏を代官として派遣した。種氏は、現長野市平柴にあった守護所に拠り、強権的な支配を行なった。

 鎌倉中期に信濃国志久見郷(現下高井郡北部)の地頭職を得た市河重房は、その地を実質的に支配する中野忠能と縁戚関係を結び、最終的に中野氏を被官にすることで志久見郷を掌握したと伝えられている。その志久見郷と高梨氏の支配地である小菅荘(飯山市大字瑞穂内山)との領境で、双方間の紛争が絶えなかった。高梨氏は本領中野を中心に、信濃国北部の高井郡・水内郡に割拠していた。北信濃では、更埴(こうしょくし)2郡を領有する村上氏に次ぐ勢力を維持していた。
 ちなみに、更級・埴科・高井・水内4郡が「北信」、小県・佐久の2郡が「東信」と呼ばれていた。現在では更埴2郡の特に北半分が長野市に編入されて、更埴市以南の区域は「東信」に含まれることが多くなった。更埴市は昭和34年(1959)、千曲川左岸の更級郡の稲荷山町と八幡村、千曲川右岸の埴科(はにしな)郡の埴生(はにゅう)町と屋代町との合併により市制が施行され誕生した。「更級」と「埴科」の頭文字から「更埴」と名付けられた。平成15年(2003)9月1日に、更埴市は更級郡上山田町、埴科郡戸倉町と合併し、千曲市となった。

 高梨氏は川中島川東の井上・須田らの各氏族と更埴の村上、太田荘(現長野市長沼周辺)の島津ら有力国衆(くにしゅう)が、互いの紛争を防止しながら守護勢力の介入を阻むため同盟し「国人(こくじん)一揆」を組織した。
 市河氏は、鎌倉時代末期に足利高氏軍に参じた市河助房が「神」と署名しているので、諏訪神党(すわしんorみわとう)に属していた事になる。観応の擾乱当時は、越後の守護上杉氏に与して信濃直義派として、尊氏派の信濃守護小笠原氏と対立するなど南朝方として活躍している。下高井郡の尊氏派の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、延文元年/正平11(1356)年、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍に勝利している。その後、憲顕が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏した経緯がある。市河氏の複雑な去就は、北信濃でも孤立気味となっていたが、以後、徹頭徹尾、幕府守護方の勢力として功労を重ねていく。
 市河氏が積み重ねた所領
 高井郡内 中野西条、上条御牧(井上須田知行分を除く)・大甘北条・同中村、毛見郷本栖村・平沢村
 水内郡内 常岩(とこいわ)御牧南条5か村、不動堂分、若槻新庄加佐郷新屋分、同庄静間郷内北蓮(はちす)分
 更級郡内 布施御厨中条郷一分地頭
 市河氏は飯山・中野市近辺から次第に南下している。小笠原氏は伊那を本拠に松本盆地、北東信地方へ所領を拡大し、「大塔合戦」の舞台の地に領有を主張し初め、国人連合軍側の所領と交錯、応永6(1399)年、遂に決戦となる。

 至徳3(1386)年7月、信濃守護代二宮氏泰が、守護の命に従わないとして高梨氏の支配地小菅神社(飯山市大字瑞穂内山)の別当の解任を、隣接する市河頼房に命じた。こうした、斯波氏が在地領主の押領地の究明を、強力に進めようとしたことに反発した国人衆村上頼国小笠原長基高梨朝高長沼(島津)太郎らが、嘉歴元(1387)年4月に兵を挙げ反抗した。5月28日には平柴の守護所の代官二宮種氏を攻めて漆田原(長野市中御所・長野駅付近)で戦い、8月には種氏が篭城した善光寺東方にあたる典型的な平山城の横山城(長野市箱清水)を攻めて激戦の末陥落させた。この時、村上頼国らは、二宮方についた市河頼房を追撃し埴科郡にあった生仁城(なまに;千曲市生萱;いきがや)に追い込み、これを落城させた。

 この時期、南信濃では、嘉歴元(1387)年7月、伊那郡田切で守護方の諏訪頼寛が小笠原長基と戦い勝利した。大将諏訪左馬助が討死にする激戦であった。『守矢文書』は、同年9月26日、府中熊井原合戦で「諏訪討負大死、小笠原討勝候」と記す。この戦に対して10月10日付で斯波義将から「抑今度合戦、面々討死事承候、被致忠節候条目出候(下略)」と、諏訪兵部大輔入道殿宛に「熊井合戦御感案文」が下されている。諏訪頼寛は守護方に属する有力国人であったようだ。しかし諏訪下社は先の正平年中に、小笠原氏から塩尻東条を寄進されているので、小笠原方に属していた。府中熊井原は、現塩尻市の片丘熊井の地で、筑摩山脈西麓の広大な傾斜面にあたる事から、小笠原長基が上伊那郡の諏訪社領を侵犯したことによる自衛戦とみられる。南信濃では、反守護の小笠原氏の実力は強大であった。

 この時代、国衆の先頭に立ったのが、南北朝期、信濃惣大将を称した村上氏であり、信濃守護小笠原貞宗の代に軍役に尽力した良き功労者であった。村上頼国は更埴2郡に亘り領有していたため、斯波氏が守護大名化の野心を抱き、その領国支配のため最初に狙う要地にいた。長基も既に守護から軍事指揮者に降格され、斯波氏が守護となると、兵粮料所の給付権も関東の上杉朝貞に移された。長基も国衆同様信濃に於ける支配領地の保全が最重要となった。
 越前守護も兼ねる幕府管領斯波義将は、北陸道から二宮氏泰を救援軍として派遣した。市河頼房もこれに加勢し、村上頼国ら国人一揆と常岩中条(飯山市)、善光寺横山で激戦を繰り返している。
 斯波種氏は敗北を重ね、遂に任国支配の失敗で解任された。幕府管領義将自ら信濃守護となった。義将は軍事指揮権をも既に掌中にし、国人支配の全権を得ていたはずだが、嘉歴元(1387)年、小笠原長基(長秀の父)と漆田で戦う事態となり、幕府管領ですら信濃統治に失敗した。
 この時代の所領関係の複雑さが知られる史料「玉睿書状案」が『東大寺文書』に遺る。なぜか信濃国衙正税久我具通(ともみち)が所知していた。具通は右大臣を経て応永2年(1395)太政大臣となっている。信濃は具通の知行国ということか?その権益が明徳3(1392)年6月12日、東大寺八幡宮に寄進された。おそらく太政大臣家が知行しても、正税未納が続き有名無実となっていたから譲渡されたと推測される。
 東大寺側は義満に通じる縁故から安堵状を得たようだ。しかし国衙正税は未納のままで、再三幕府に訴えている。幕府は「一段近日御成敗あるべき旨」を決裁し、幕府奉行諏訪左近将監を信濃に使節として下向させた。諏訪左近将監は応安4(1371)年以降、幕府奉行になった康継で、小坂円忠の子で当時50才前後であった。
 「玉睿書状案」端裏書に「信州国衙事、奉行諏訪左近将監方へ遣状案文」とあり、以下訓読み
 「昨日面を以て閑話本望に候、そもそも東大寺八幡宮領信州国衙の事、連々歎き申すにつき、御存知の如く、一段近日御成敗あるべき旨、仰せ出され候。寺門の喜悦このことに候。仍って幸にかの方へ使節として御下向の由承はり及び候。当寺の大慶に候。国の時宜具(つぶさ)に御注進に預り候はば、満寺の群侶悦喜せしむべく候。定めて一途厳密にその沙汰あるべく候。巨細の趣御存知の上は、詳かにする能はず候。恐惶謹言。
  6月1日                            沙門玉睿
 諏訪左近将監                                     」

 康暦元(1379)年、将軍義満管領細川頼之を失脚させた。明徳3(1392)年、南北合一を幕府優位に達成した。次に、今川了俊貞世の九州における勢力拡大や独自の外交を展開した事を危惧し召還した。応永元(1394)年、将軍職を子の義持に譲り太政大臣となった。しかし「政道は自ら行う」と表明し、実権は従前どおり握ったまま、むしろ足利幕府の全盛期を迎え薨ずるまで公武に君臨した。事実上の将軍専制へ踏み出した義満に、応永6(1399)年6月になって間もなく、信濃に派遣した諏訪左近将監から帰京報告がなされた。
 国衆の国衙正税の押領は執拗で幕府の沙汰が及び難く、信濃国人に対する守護の統治は困難を極めている、であった。義満は将軍専制を徹底するため、守護義将を更迭し、側近として仕える信濃の強豪小笠原長秀を守護に起用し、その長秀に職務の重大さを説き、その成果を挙げるよう厳命した。
 中世における一揆とは、特定の目的の下、同盟し組織や集団をつくり、その同志的な集団自体、または、その集団をつくる事、またはその集団の行動をさす。農民、都市民、僧侶、神官だけでなく在地領主間、その領主の被官(この時代の家臣の呼称)相互でも一揆が結ばれた。その目的は、守護・管領・将軍など支配者に対抗する連合だけではなく、自らが支配するための一揆、支配者同士相互が対抗するための一揆もあった。各地の多くの武家領主は、領有権保全のため相互対等の一揆を結んだ。やがて武家領主たちの大きな一揆のまとまりが戦国大名家をつくりあげていく。またその下克上の気風が高まると、三河の徳川家康の祖父松平清康のように被官相互の一揆、いわゆる派閥間の争闘の結果、その勝利者から戦国大名を誕生させた。戦国大名とは、在地領主たちやその被官が、自己の所領を保全するため、当主を推戴する一揆の成果ともいえる。
 特に、幕府・守護・領主などに反抗して、地侍・農民などの民衆・信徒らが団結して起こした暴動、国一揆土一揆一向一揆などや、江戸時代の百姓一揆などは、その一揆の特異性の一部を強調した表現に過ぎない。本来一揆は、より複合的意味合いがあったが、被抑圧者側の表現であるためか、平安時代の荘園制度の残滓が、完全に取り除かれる戦国時代、「一揆」の主体者が時代の主役となると、その呼称は支配者側から使われなくなる。

3)信濃守護小笠原長秀
 北信の善光寺付近は、信濃の政治経済の中心となっていた。鎌倉時代以来、松本国府の支庁として「後庁(ごちょう)」が置かれ信濃北半の政治の中心となり、善光寺信仰の浸透により、門前町は経済の中心としても発展した。南北朝時代には、信濃守護所が現戸倉町の船山から、川中島の北方の平芝(長野市安茂里平芝)に移され政治の中心となった。ここが舞台となり、信濃守護が幕府権力の後援を得て国人領主に対して、その所職(しょしき)を押し通そうとした。これに対抗する国人一揆と激突したのが大塔合戦であった。
 国人とは、在地する領主で国衆(くにしゅう)とも呼ばれた。国人の多くは地頭としての所職を有する一方、寺社・皇家(こうか)・公家本所領の諸荘園の公文(くもん)や下司(げし)として代官を務めながらも、本所支配をみくびり年貢を未進にしていた。事実上の在地領主と変わらなかった。その現状を無視し、守護の所職を主張すれば、国衆は、存立基盤を失うことになる。
 小笠原長基の時、子の長秀が深志小笠原氏を継ぎ、弟政康が伊那郡の松尾小笠原氏となった。長基は弘和3(1383)年、惣領職を子の長秀に譲った。長秀は幼児より将軍義満に近侍し信任されていた。長秀は祖父政長まで信濃守護職であったため、守護職への復帰を義満に嘆願し続けた。
 応永5(1398)年、幕府管領が斯波義将から畠山基国に代わった。基国の娘が、長秀の母であった。応永6(1399)年、義将が信濃守護を解任され長秀が任命され、小笠原氏に念願の守護職が戻ってきた。守護入部(にゅうぶ)にあたり太田荘の島津国忠が強訴した。暦応2(1339)年7月に遡るが、近衛家本所領太田荘の領家職を、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての関白近衛基嗣が近衛の墓所・東福寺塔頭海蔵院に寄進した。しかし既に島津伊久がこれを押領し、同院の沙汰を妨げていた。義満の幕府政権下、中央の統制強化策の一環として、諸国の諸豪族の不当な所領の押領を糾明し、掣肘を加えながら将軍家の威令に従わせようとした。
 応永6(1399)年夏近く長秀は信濃に入部した。早くも北信の島津国忠・高梨などの国人一揆が不穏な動きを始めた。長秀は10月21日、一門の赤沢秀国・櫛木清忠らを島津討伐に出兵させた。
 その最中同年11月、大内義弘は鎌倉公方足利満兼山名時清らと謀って和泉で応永の乱を起こした。長秀は義満から大内義弘討伐軍に加わるよう命じられ、伊那郡伊賀良荘を発して、11月6日、上洛し和泉堺に急行した。
 この年東大寺は信濃国衙正税の納入を強硬に幕府に主張していたが、成果なく知行権を手放している。以後その所職の所在者が不明となった。信濃諸雄族が蚕食したまま放置されたとみられる。長秀は、管領畠山基国の軍に入り和泉国境で戦った。反乱は、地方の挙兵が鎮圧され、和泉堺に籠城した義弘が幕府軍の攻囲を受け、12月21日、基国の長子満家に討ち取られ終結した。畠山氏は大名家でありながら足利将軍家の直轄軍的存在で、この乱の前年、斯波義将が解任され畠山基国が後任となったのは、斯波・細川管領家両氏に対して、義満がその権力に楔を打ったという意味合いがあった。
 京都へ戻っていた長秀は、応永7(1400)年3月、一門の櫛木石見入道・小笠原古米入道を先発させ、島津が押領する太田庄の領家職を寺家に還すよう命じた。7月3日、幕府権力を頼み国衆が押領する庄園所領や国衙領から排除の沙汰を遵行すべく、京都を出発して信濃に向かい、21日には一旦、佐久の小笠原一族大井光矩岩村田館に立ち寄った。当代光矩の父大井光長は、信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平5(1350)年には、信濃国太田荘大倉郷の地頭職に就いていた。太田荘は、現上水内郡東南部から長野市北部にかけての一帯で、近衛家本所領であった。光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。その後守護代を勤めた。応永6(1399)年、信濃守護に補任した小笠原長秀は、大井光矩を頼り佐久に立ち寄り、義満の御教書を披露し光矩と信濃支配について相談した。
 その結果、伴野・平賀・海野・望月・諏訪両社・井上・高梨・須田などの国衆に漏れなく使者を派遣し、入国の挨拶と治政に当たっての趣旨説明と協力の要請を行うことに決した。村上満信には、特に使節を送って挨拶した。満信は、村上信貞以来、足利尊氏方の信濃惣大将として長きに亘って貢献し、その勢力と権益を拡大し実績をあげている。だが守護職に補任しない室町幕府に対して不信感を持ち、新任された守護を排斥する動きに出た。加えて室町幕府は村上氏の持つ「信濃惣大将」の地位を軽視し続けたために、村上氏は反守護的な国衆の代表格となっていた。
 幕府はかつて管領斯波義将を信濃守護に補任して、国人衆らの動きを抑え込もうとした。満信の父村上師国は至徳4(1387)年、斯波氏の守護代二宮氏泰の軍と信濃国北部の各所で戦った。斯波氏も村上氏の抵抗を抑え込むことはできず、横山城に二宮氏泰が籠城して戦ったが落城している。
 小笠原一門や源氏系統の国衆らは、一応協力する姿勢を示したが、大文字一揆の国人達にすれば、南北朝争乱時代から小笠原氏との確執があり、寧ろ絶対に承服できないとして、幕府に別の守護人を任命してもらうよう申請する評議が決定した。鎌倉時代、信濃国は北条家が守護であり続け、その地頭に任じられた在地武士の多くも北条家庇護の下、権益を共有してきた。また北条一門の地頭も多く、その地頭代も兼ねていた。元弘の変により小笠原氏が守護職として派遣され、国人衆らの既得権益が侵食され時代の恨みは根強く、今またその当時の苦難が繰り返される事態となった。

4)国人衆の反感を買う小笠原長秀
 当時京で流行したバサラ大名の一人であった長秀はこのとき30歳前後で、大井光矩の館で旅装を整え、都風の派手な装いで行列を組んで善光寺に入った。幕府の権威を傘に、都育ちの名門を誇示する華やかな奇抜さで、田舎人の度肝を抜こうとする腹積もりであったようだ。諸芸に巧みな連歌師まで随えていた。善光寺南大門には、老若男女・商人・僧侶・神主が集い見物した。
 長秀は善光寺に入ると、各奉行人を決め、守護の権限である大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)を基本原則とする各種制札を立てた。大犯三箇条とは鎌倉・室町時代の各国守護の主要な職権で、御家人の大番役催促謀反人と殺害人の追捕と検断の3ヵ条をいう。源頼朝の時代に定められ、貞永1(1232)年の『御成敗式目』で成文化され、その際夜盗・強盗・山賊・海賊の検断を追加した。
 室町幕府政権下、守護の権限は拡大強化された。①刈田狼藉に対する検断権、②土地紛争に関する幕府の裁定を、守護が現地で執達する使節遵行(しせつじゅんぎょう)、③守護の軍事指揮権の範囲が、管国内の御家人から国内の武士全体に拡大した軍事指揮権、④幕府敵方没収地を所領給付する闕所地の預置権、⑤半済制度を介して兵粮料所の荘園年貢の半分を国内武士に与える宛給権が主であった。領国支配のためとした守護の所職に、軍勢督促守護請守護夫守護反銭の賦課津料山手川手の新関開設による通行銭の徴収などが重層的に慣習化され、守護入部による強権的な収奪が当り前とされた。
 『大塔物語』は合戦の主因は長秀が国衆に示した横柄な接遇にあったという。就任挨拶に赴いた国衆は「思い上がった態度の長秀に対して、一応慇懃の礼を尽くした。長秀は河(川)中島の所々を村上氏が当時知行していたに拘わらず、恣(ほしいまま)に非拠の強儀を行い、事を守護の緒役に寄せて、守護の使いを入り込ませ稲を刈り取った。村上満信は佐久の3家や大文字一揆の人々に助けをかり、守護使を追いたて合戦となった」と記した。
 長秀は、善光寺に国人衆を呼び付け対面しながら、容儀も整えず、扇も用いず、ましてや一献(いっこん)の接待もしなかったという。大文字一揆の国人達は、現長野市安茂里の川中島近くの窪寺で評議し、激興する強硬意見を抑え、御教書を携えての下向であれば、京の将軍に違背すると見られる恐れがあるため、対面し一献の用意をし、馬や太刀を贈っていた。長秀は愚かにも、信濃国はこれで治まると増長し、国人衆に不遜・非礼の振舞いに出た。

 このような長秀が、鎌倉幕府滅亡以来の対立で、未だに小笠原氏に心服していない国人領主達に、新たに所役を命じ、過去の対立時の所業を罰しようとした。8月下旬、秋の収穫時、長秀は村々に守護使を遣わし、ここは不法な押領地であるとか、守護職の課役であると申し、農民から年貢や課役の徴収を行った。川中島でも、ここは守護が支配する所だと言い立てて年貢を徴収した。川中島は一時小笠原氏が領有していたが、当時は北信の有力国人領主村上氏が押領していた地であり、多かれ少なかれ、鎌倉幕府の将軍家を本所とする関東御領の春近領や国衙領等の押領地を支配する他の国人領主にとっても、守護の一存で既得権化した所領を否認されれば一族の死活問題となる。国人たちは在地支配の現状を無視した守護の一方的挑戦とみた。村上氏は、元弘の変当初から足利氏に与力し、義光・義隆父子が、鎌倉幕府との戦いの最中に没している。その後も義光の弟村上信貞は、北信の市河氏と共に北朝方守護小笠原氏の強力な味方として、諏訪氏を主力とする信濃国の南朝勢力と激戦を繰広げて来た。その村上氏の決起が発端となり、守護小笠原氏に対する国人領主達の反感が決定的なものとなった。
 『大塔物語』は「爰に大文字一揆の人々には、故敵当敵たる上は、思案を廻らし、一切之(守護の沙汰遵行)を用いず」と書く。「故敵」とは、文字通り「古くからの敵」の意であるが、この時代「所領をめぐる紛争に際しての自力救済・報復の戦い」を意味した。その宿意は深く、積年に亘る小笠原氏への敵対感情が一気に噴出した。祢津・仁科・香坂氏などには、積年に及ぶ敵愾心があった。

5)大塔合戦
 千曲川が上田原・坂城から姨捨・八幡へ北西に下り、それが北に流れを変える右岸に、屋代・雨宮、左岸に稲荷山・四之宮・塩崎があり、それから東に蛇行する流の北側が篠ノ井・大当・川中島と北上し犀川に出る。篠ノ井から少し下流の千曲川左岸の横田辺りで、養和元(1181)年、木曽義仲が越後平氏の城氏と「横田河原の戦い」を繰り広げた。
 南北両朝が合体した明徳3(1392)年閏10月5日から8年後、この辺り一帯で大塔合戦が始まった。その様子を伝える史料が『市河文書』に遺る。この戦いで市河頼房(興仙)は小笠原長秀方に属した。その戦功を賞し、義満は「足利義満感状」と「市河興仙軍忠状」の2通を与えた。一級の信用度の高い史料であるが、戦の詳細が記されていない。それを詳記する軍記物『大塔物語』『信州大塔軍記』の伝写本がある。ただ2書とも原本が書かれた年代が不明であったが、大略、物語の筋は一致している。
 村上満信を盟主として、佐久3家、大文字一揆、そして北・中信地方の有力国人領主の国人一揆との大連合軍が結集して守護長秀に反旗を翻した。信濃における最大の国衆一揆となった。香坂・落合・小田切など犀川流域の国衆の連合は「大」の字を旗印にしたため「大文字一揆」と言われた。

 『大塔物語』は「思い上がった態度をとった長秀に対し、一応慇懃の礼をつくしたところが、長秀は河中島の所々を村上氏が当時知行していたにもかかわらず、恣に非拠の強儀を行い、事を守護の緒役に寄せて、守護の使いを入り込ませ稲を刈り取った。そこで村上満信は佐久の三家や大文字一揆の人々の助けをかり、守護の使いを追い立て合戦になった」と記している。
 村上氏のほかに中信の仁科氏・東信の海野氏や根津氏を始めとする滋野氏一族北信の高梨氏や井上氏一族等大半の国衆が決起した。各地に侵入して来た守護使は追い立てられ、或いは討たれて梟首(きょうしゅ)された。ついに守護小笠原氏と信濃国人一揆の一大決戦となった。
 このとき、守護長秀に従ったのは、小笠原氏が地盤とした伊那春近領(上伊那)・伊賀良荘(下伊那)・府中地方(筑摩・南安曇)の一部の武士達であった。小笠原一族内でも、長秀の高圧的な態度に反発して参陣しなかった者が続出している。後に仲介役となる岩村田の大井光矩は、現に同族で守護代でありながら、加勢しなかった。大井氏も有力国衆同様、諸所の庄園領を押領して、現在の勢力に伸し上がってきた。守護長秀自身も領地拡大の好機と、並々ならぬ決意で入信してきた。光矩は、冷静に時代を読んでいた。信濃国内は既に戦国時代を迎えていた。
 9月3日、村上満信は強訴のため兵を挙げた。示し合わせた国衆は、村上勢が篠ノ井岡に、佐久勢が上島に、海野勢が山王堂に、高梨勢が二柳に、井上勢が千曲川鰭(千曲川に鰭のように張り出している台地)に、大文字一揆は布施城後方の芳田崎(ほうだがさき)石川に総兵力4千騎が陣を布いた。この鎮圧のため長秀守護方は、9月10日、善光寺から川中島の横田城(長野市篠ノ井)に押出した。
 上田市立博物館所蔵の『大塔物語』によれば、長秀の下に集まった小笠原勢は800騎余りで、対する国人一揆の衆は、篠ノ井の岡に500余騎が村上満信、篠ノ井塩崎上島(更埴市雨宮対岸の渡場)に700余騎が、佐久地方の伴野・平賀・望月・桜井・高沼・洲吉・小野沢ら国人衆、篠ノ井山王堂に300余騎が、海野幸義・弟中村弥平四郎ら小県勢、篠ノ井二ッ柳に500余騎が高梨氏、井上一族など須坂・中野地方の国衆、そして須田・島津ら500余騎が千曲川岸辺に布陣し、仁科氏、根津氏など大文字一揆衆800余騎は布施城を発して芳田ヶ崎の石川(篠ノ井)に2手に分かれて布陣したと記している。この"騎"というのは何人もの家来を伴うので、実数は3千超の小笠原勢に対して、国衆は1万3千以上の兵力だったと推定されている。国衆は、川中島平の篠ノ井(長野市)付近に陣を張り、善光寺の長秀軍を圧倒的多数の軍勢で包囲した。
 大井光矩は、小笠原一門であり守護代であったが、他の国衆同様、在地領主として庄園を押領支配しているため、守護勢の劣勢が予想される最中、500余騎を途中の丸子に滞陣させた。
 9月23日、小笠原勢は包囲の中、善光寺では支えられない、横田城を捨てて合戦をすると軍議で決し、横田郷に800騎が布陣した。翌24日、寅刻(午前4時)、劣勢を覆す策が無く、敵陣の隙を衝いて疾駆し、一族の赤沢氏の居城・塩崎城で合流しょうとした。塩崎城は善光寺平の最南端、千曲川西岸にある狭隘部で、入口を谷間で抑える守るに堅い地勢であった。同日、深夜、秘かに決死の覚悟で一丸となって包囲陣を突破しようとした。夜の白む頃村上軍の中、長秀と松皮菱の旗を中央に守り、800騎が一丸となり強行突入した。一揆方第一陣が千田讃岐守信頼、以後、村上・伴野・佐久・高梨の諸勢力の布陣が、半時ばかり決死の戦いを挑み阻止しようとした。
 小笠原軍は漸く突破したが、更に千曲川河畔に海部勢が待機していた。発見分断され撃破され、数百人が討死し辛うじて塩崎城に逃げ延びた。長秀も負傷し残余の兵殆ども浅からぬ傷であった。
  しかも逃げ遅れた小笠原一族坂西(ばんざい)長国をはじめ古米入道・飯田入道・常葉(とこは)入道・櫛木等300余騎は進路を遮られ、途中の大塔の古砦(こさい;篠ノ井にある大当地区)に逃げ込んだ。当初こそ鹿垣(ししがき)・塀・築地(ついじ)・堀などを造作し防備を固めたが、祢津・仁科・諏訪の緒勢に包囲され、兵糧も武器の備えも不十分なまま、塩崎城との連絡もとれず、20日を超える籠城となり、遂に兵粮が尽き、乗馬を殺して血を啜り、生肉を食う凄惨な有様となった。救援も期待できず、10月17日の夜、飢えと寒さに自滅するよりも全員一丸となって討死を覚悟、大手より出撃し、敵勢の渦中に殲滅した。長国21歳であった。
 雑人まで含めれば、相当数の屍が篠ノ井の野に晒された。その惨劇が報らされ善光寺妻戸時宗僧や善光寺別院不捨山光明院十念寺の勧進上人が駆け付け、屍を集めては火葬し骨塚を築き弥陀引摂(いんじょう)の供養を行った。
 一揆軍で主動的役割を果たした牧城の城主香坂宗継は、戦場から直ちに窪寺観音堂(長野市安茂里)に籠り、道心堅固の請願の行を済ますと、跡職(あとしき)を子の刑部少補(牧城主10代目の香坂徳本)に譲り、高野山の萱堂で読経三昧の日々を送った。後年、念仏行者となり諸国を巡行したという。
 
 「大塔の古砦」の場所については、篠ノ井にある大当地区と推定される。大当地区の東方約500mにある御幣川(おんべがわ)地区の宝昌寺は、この合戦の多くの戦死者を葬った所との伝承がある。しかし古砦の場所は特定されていない。
  諏訪氏にとって、多年に亘る宿敵小笠原であっても、当時となっては諏訪大社が幕府守護の管掌下にあって、上社造営料等の役料の督促も、その権威に依存していた。諏訪氏本家は自ら出陣する事がはばかられて、国人一揆に加勢するに際し、主将として有賀美濃入道性在を任じ、胡桃沢豊後守泰時(諏訪氏湖南)、上原・矢崎・古田等軍兵300余騎を出兵させた。諏訪勢は大塔の古砦の大手口を攻めたと記されている。
 長秀が逃げ込んだ塩崎城も国人衆の攻撃に負傷者が続出、しかも瀕死の重傷者が多く援軍の手立ても無く、糧道も絶たれ命運も尽きんとした。長秀は、丸子に留まる大井光矩に使者を送り援軍を要請するが返答はなかった。長秀の最期が迫り、漸く1か月以上も丸子に駐屯していた光矩は、捨て置くわけにもいかず村上満信と談合し、仲介の手を差し伸べた。これで辛くも窮地を脱し、長秀は京都に逃げ帰った。その直後10月29日、長秀は市河興仙(頼房)の忠節に報い、志久見の本領地に、新たに常岩中条(飯山常盤;ときわ;牧)の中曽根郷内の買得地を加え安堵した。下水内郡栄村志久見郷は広く、江戸時代から明治の初年までの志久見村ではなく、町村合併前の堺・市川両村全部と壷、細越・石橋等豊郷村の一部も含まれていた。下水内郡常岩は鎌倉北条の庶流常磐氏が支配した。常盤氏はいつしか常岩氏と称したが、初代常盤氏を3人の子が相続し3分した。北条を宗家とし、北条、中条、南条と名乗り、それぞれの地を領有した。
 守護自ら、国人衆の一揆と真っ向から戦い、完敗して逃げ帰る前代未聞の失態で、当然、信濃守護職は罷免された。足利幕府の根本支柱である全国守護体制の危機として衝撃を受けた幕府は、応永8(1401)年2月、前管領斯波義将を信濃守護に復帰させ、斯波家家老職の島田常栄(つねはる)を守護代として下向させた。

 南北朝合一後、1,400年前後、神祇官吉田家には兼煕(かねひろ)、兼敦という親子がいた。足利義満が全盛時代であった。この時期の吉田家の史料として有名な『吉田家日次記』という兼煕、兼敦2代の日記がある。それには「信濃国守護職、去々年より小笠原拝領し了(おわ)んぬ。而るに国人等承諾せず、度々合戦を致し了んぬ、昨日右衛門督入道(前管領;斯波良将)に宛行わる」とある。
 幕閣たちの基本的な認識として、近国と遠国では、統治形式を異にし、幕府が直接支配するのが畿内近国で、それ以外の遠国は、関東の鎌倉府が極端な例として、その地域の自浄作用に期待し、幕府自体、緩やかな支配「無為(ぶい)の儀(穏便な措置)」を理念としていた。そのため守護の弱体で分国支配が不能となると、それを補任した将軍の能力が問われることになり、更に重要な事は、強力な守護が存在しなければ、遠国の秩序が崩壊し、鎌倉幕府同様、地方から政変が始まり中央に及ぶ危惧があった。長秀の失敗により、守護所職は国人たちから多くの支持を集め、その被官の献身的支えがあって初めて実現すると、改めて認識された。戦国の論理が、既に一般化していたようだ。
 足利義満は将軍専制強化のため、国衆の押領・庄園の年貢未済・国衙正税の不納の取り締まりを急いだ。長秀は幼児より将軍義満に近侍し信任されていた。長秀は弱冠30才前後で、念願の守護職に補任され有頂天になり、国人勢力を侮った。
 膨大な国衙領と庄園領は、信濃国では全てが蚕食され尽くされたようだ。皇室・摂関家であっても、山城国以外では大和国の南都寺院領の片隅に辛うじて所職を維持する程度であった。天皇・関白・公卿も義満の足下に降るしかない経済状態に陥っていた。

  小笠原長秀は、応永12年11月、一族の惣領職と所領の一切を弟の政康に譲った。これが、「大塔合戦」と呼ばれる戦いの顛末で、発端はともかくとして南北朝以来の小笠原氏と国衆との対立が背景にあったことは疑いない。小笠原氏の地位は再び下落し、安曇郡内の住吉庄や春近領の一円知行権も取り上げられたようだ。応永32(1425)年、ようやく政康が守護に補任された。復帰するのに25年間を要した。
 戦後、更埴の村上満信、太田荘(長野市長沼周辺)の島津太郎らの国人一揆や香坂・落合・小田切ら犀川流域の大文字一揆らの国人一同は連署し、幕府に目安状を捧げ合戦の次第を注進した。
 「守護小笠原長秀が将軍の下文(くだしふみ)を持って下国しながら、守護の諸役に事よせて、代々相伝の私領を掠奪し、国人たちをないがしろにする行動をとり、愁訴したところ、はからずも合戦になりまた。決して将軍家をおろそかにするものではありません。清廉の御代官を御下し下されば、いよいよ忠節をいたします」という。
 幕府は応永9(1402)年5月、義将の信濃守護を解任し、信濃国を守護不設置とし幕府料国と定め代官2人を下向させた。これには対立を強めてくる鎌倉府に備え、信濃を幕府直轄領とし東国支配の拠点とする意図もあった。

 足利幕府6代将軍義教は、有力守護家の家督相続や継承に干渉し、将軍の近習大内持世赤松貞村など腹心を当主に推し支配力を強める政策を行った。嘉吉元(1441)年、播磨・美作・備前の守護大名である赤松満祐は、結城合戦の祝勝会に義教を自邸に招き斬殺した。嘉吉の乱である。満祐は、播磨国が没収され、義教が寵愛する赤松持貞に与えられようとしたことに激怒した。

 応仁・文明の乱は、応仁元(1467)年、上御霊社(かみごりょうしゃ)の戦闘で始まり、文明5(1473)年、細川勝元と山名宗全が相次ぎ死に、文明9(1477)年、西軍の京都退去で漸く終息した。この間、幕府自体が東西に分裂し、有力守護家でも、細川氏と並ぶ管領家である畠山氏の政長と義就相互と、斯波氏の義敏と義簾(よしかど)相互で家督を争い、将軍家を初め他の有力守護家も巻き込み、次々と両派に分裂し争い続けた。乱後、畠山氏や斯波氏、その他の有力守護家は衰退した。

 明応2(1493)年4月、細川京兆家政元は10代足利将軍義材(よしき)を廃位する明応の政変を惹き起こす。その政元も永正4(1507)年6月、養子の澄之(すみゆき)を擁立する京兆家被官の香西元長・薬師寺長忠らに暗殺される。以後衰退する。その後日本列島は、北条早雲・尼子経久・毛利元就・武田信虎・竜造寺隆信ら戦国大名が活躍する戦国時代を迎える事になる。
 
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