高島藩主菩提寺、湯の脇にある温泉寺 諏訪湖畔の高島城 諏訪大社秋宮神楽殿 下諏訪宿諏訪大社秋宮拝殿

 「信濃には  浪士に打ち勝つ  武士は無し  田作りばかり  だしにつこうて」    詠人不詳の狂歌
 田作り;カタクチイワシの素干しと農民との掛詞

高島藩と天狗党     Top
 目次
 1)高島藩和田峠出撃前夜
 2)高島藩出撃
 3)和田嶺合戦
 4)合戦後の始末
 5)浪人塚

1)高島藩和田峠出撃前夜
 諏訪高島藩には、ようやく11月17日、江戸家老から、早飛脚で天狗党追討の書状が届いた。「和田峠峯其外御領分江其表御人数早速出張可致候」とあり、藩主忠誠が同年6月29日、若年寄から老中格に、7月23日、老中に昇格しているにしては、随分遅い対応であった。国元も周辺の情勢に迂闊であった。城内は騒然となった。家中の2,3男まで17歳から50歳まで総登城の急触れが出た。小役人、徒士、弓持、筒持、足軽、中間、兵糧方、厩別当、作事方、諸棟梁などの小頭に達しがあり、多くは町宅、在宅であったため領内は混乱を極めた。参集が遅れ総人数が一応整った時は、18日の昼を過ぎていたという。
 城内の軍議も紛糾した。諏訪郡は鎌倉時代から慈雲寺(下諏訪町)開山一寧一山(いちねいいっさん)禅師の統を引く尊王的学統が連綿と承継されていた。三木連などは町人でありながら党を作って京都の上り、尊王の志操を述べる者までいた。当然家中の士の中にも、尊王の国学徒もいて、勤皇の志士・水戸浪士とは戦えない立場でもあった。藩士の勤王家立木与平定保は、和田峠出陣の際、勤王の志士を討つに忍びず、鎧の腹帯に次の和歌を認め、討死を覚悟して出陣したという。「思いきや 夷を伐たで けふとなり 夷伐つべき人 伐たんとは」。
 また高島藩は3万石の小藩である。歴戦の志士と戦火を交えて勝てる自信など、あるはずもなかった。しかし諏訪は中山道の枢要な地、まして藩主は老中である。看過しては藩の存続を全うできない、去就に迷い藩論は決しかねた。塩原彦七を中心とする主戦論、立木定保らは非戦論、志賀七右衛門らは中立論、それぞれの主張があって議論は紛糾した。
 11月17日、夜八ツ半(午前3時)頃、倉ヶ野宿(高崎市)から物見が戻り、賊徒おおよそ千人が、内山峠越えで中山道へ登ってくるとの報告を得て、和田峠へ先行の兵を向わせた。江戸家老の後馳(おくればせ)の早飛脚に応じて、国元は、物見を高崎周辺にまで派遣していた。ところが翌18日未明に出した甲州逸見筋への早馬の物見は、水戸浪士軍が宿割りをしていると連絡してきた。高島藩の物見は相当混乱しているようだ。これには藩の重臣たちも大いに動揺した。しかし下諏訪宿から浪士千人余りが和田宿に泊まるとの報が入った。念のため早馬の名流千野新左衛門を派遣し、今晩は長窪泊、明夜は和田宿で、下諏訪宿は20日と判明した。

2)高島藩出撃
 18日、高島藩でも他藩の動静も知られ、藩主が老中という立場もあり防戦も已む無しと藩論は決した。早速藩兵の編成にかかった。そこへ江戸屋敷から家老千野兵庫が昼夜兼行で帰城した。そこで藩主の命が下され、江戸幕府の情勢を伝えられると藩論は決し、和田口を高島藩全軍で防備する事となった。夜更けから激しい雨となり、止みそうもなかった。
 19日も雨であった。しかも新暦で言えば12月の中から下旬の冷気厳しい早朝、出陣太鼓と共に城門が開き、高島藩の総大将は家老千野孫九郎軍師は塩原彦七として藩兵580人程を繰り出し、その行列は半里ばかり続いた。和田峠より5km手前の砥川沿いの樋橋(とよはし)村に着陣したのが4ツ(10時)であった。樋橋村には16軒の家があり、立場としての茶屋本陣は大黒屋でそれ以外に小松屋、鮎沢家などの宿屋があった。重臣幹部はこれらを利用したが、他の将士は民家に分宿し、それぞれ陣幕をはったようだ。その外にも小荷駄奉行が率いる兵糧隊200余人もいた。
 諏訪大社下社春宮がある下ノ原村中村勝五郎の日記には
 「御家老千野孫九郎様、牛山様、御物頭其他方々様樋橋へ御詰、昼食より飯焚きの件湯田町友之町へ仰せ付けられ両村より下筋村々へ人足宛込み、鉈、斧、鋸、背負縄持参致す様仰せ付け、昼頃村役達人足六十余人程縄三筋持参而して登る。」とある。
 山田政之亟日記には
 「御詰先徒士御目付様御廻状参る、東山田、西山田、東堀、小井川右村々人足四、五十人宛色々道具を持参致し可参様申し参る、尤も矢島伝右衛門様御差図之趣に候、其の外当村は不及申、村々より人足何程と云不知数(云々)」とある。
 幕府は松本藩、高島藩共に協力するよう命じていた。松本藩から使者が来て、高島藩と一緒に和田宿へ夜討ちを掛けようと申し出があった。しかし高島藩は、和田宿辺りは平地で双方の軍勢を集めても300に足り無い、敵は筑波山挙兵以来18度の戦歴がある剛の者達で、雑兵といえども勝ち目が無い、またもし甲府城へ浪士隊が流れたら一大事である。松本藩のいう水戸勢を見下ろして戦うのも一策であるが、寧ろ峠を越えさせて砥沢口まで引き付けて戦う方が上策、松本勢も峠を越えて合流して欲しい、ついては先陣は高島勢が受けると主張する。
 数回軍使の往復があったが、高島藩の主戦論者で軍師御用人の塩原彦七が、高島藩の陣地は最早移動はできない、松本藩の輜重は高島藩も運搬を手伝うと言う事で松本藩組頭稲村久兵衛も折れた。高島藩の手配した人足50人も助力し、松本藩は、陣払いし夜中を徹して移動した。
 20日、雨は止んだ。辰の刻(午前8時)頃に高島藩の陣取る樋橋の「山の神」に合流し、高島陣地の西隣に着陣した。高島城からは、早朝、2番手の軍勢が法螺貝を吹きたてながら繰り出され、同じ刻限には3里の道程、樋橋に着到し全軍は勢揃いとなった。
 総大将千野孫九郎、軍師御用人塩原彦七、大目付陣場奉行石井隆左衛門、御先筒持頭牛山内記、同浜八郎兵衛、御長槍奉行鵜飼伝右衛門、小銃隊柳田淡一郎、番士兼小旗奉行波多野左膳、番士兼斥候御使者大熊五兵衛、小荷駄奉行勅使河原重五郎、同中島求吉、砲隊士筧当平、同小沢主膳以下徒士、番士らがいて、外科医師大山玄純も従軍している。高島藩の総力戦といった陣構えであった。
 高島藩は、樋橋、萩倉、友之町、今井、山田、東堀、大和、高木などから鉄砲猟師を召集し、中山道を見下ろす香炉岩上の藪に潜ませた。道挟んだ高地「山の神」に本陣を置き、緒戦を猟師銃で狙撃し、その混乱に乗じて攻撃する手筈であった。
 11月19日和田宿へ入った天狗党は、同宿の役人から高島藩と松本藩の動向を確認していた。翌20日朝、和田宿を出立して和田峠を越えた天狗党の軍勢は、騎馬200騎、大砲15門、兵糧荷駄200疋、金子を積む馬10疋、歩兵数百、合わせて千余人に過ぎなかった。

3)和田嶺合戦
 浪士隊は人数を3段に分かれて、道々の倒木などの障碍を取除きながら、紅白の旗8旒を掲げ下ると、高島、松本両藩の陣立てを見つけた。椹木場にひとまず本隊を止めた。先鋒が目配りしながら下っていくと、待ち伏せしていた鉄砲猟師銃が発砲された。直ちに猟師達は山道、獣道に慣れている、予め決めていた砥石山へ逃げ隠れた。
 20日午後3時頃、樋橋村に陣取る高島藩・松本藩と交戦に入った。高島藩では決戦の合図の太鼓を乱調子に打ち続けると、10門の大砲、50挺の小銃が一斉に撃ち放された。松本藩も「敵は小勢、狙い撃ちせよ」と鼓舞し、10匁銃30挺を2段に構え交互に連続して撃ち続けた。浪士隊の砲銃も激しく、巨木を打ち砕く音響と陣中を覆おう硝煙で旗も馬印も見えないほどであったという。
 この戦闘の最中、百目筒を発射しながら、干草(ひいくさ)山の斜面を、下知しながら下ってくる者がおり、陣羽織が派手で白鉢巻の馬上の大男であった。両藩の射手は大将と思い、盛んに狙い撃ちして、ようやく討ち取ったが、大将ではなく修験者の不動院全海であった。今弁慶ともいわれ、47歳であった。その間浪士方では、横田藤三郎、小野瀬清吉、岡本久太郎らが戦死した。松本藩では、吉江伴之丞が討死、砲士長吉江右衛門太郎が頭に砲弾を受けて即死している。高島藩では、三輪左兵衛、矢崎与市らが戦死している。
 天狗党は容易には突破できず、遂に迂回策に出た。長板から東の後ろの山へ上がり、それから樋橋の南、深沢橋まで下りて背後を襲撃し退路を断った。もう一方は北の干草山から敵陣本営を攻撃した。この挟撃に両藩は浮き足立ち、遂には大混乱の中、潰走した。既に7ツ半(午後5時)を過ぎ、冬の日の山間部は暮れるのが早く、逃げ道山道沢道の足下は覚束なかった。松本藩士は砥沢(とざわ)から北へ、沢から尾根にあがって、二つ山(ふたつやま)を経て松本の牛伏寺(ゴフクジ)へ逃れた。完全な敗戦となった。高島藩士も中山道を逃げ下り、或いは砥川へ追い落とされ川筋を下った。
 軍師御用人塩原彦七は肩や背に槍傷を受けている。高島方は、林久太兵衛、三輪左兵衛ら7名が討たれた。松本藩は先の2名の外、近藤艮太郎、堀江源蔵、堀江曽野太夫ら5名、浪士方は不動院全海、横田藤三郎、小野瀬清吉、岡本久太郎、鈴木恒之助ら14~17名が討死した。戦死者に差があるのは当然で、孤立無援の行軍中であれば、秘したことでもあるが、負傷兵として行軍中に死亡もしている。水戸浪士亀山勇右衛門の日記には、「敵将其外之首級数多取る、味方も打死手疵而して十人、討死之分取り納め墓を築く」ある。高島、松本両藩の記録は、そのまま信用はできない。本陣を占拠され、浪士方に大砲5門、小砲弾薬、槍、弓矢、陣幕、高張提灯、小荷駄、そして甲冑の上士一人含む3人が生け捕りとなっている。その上の陣太鼓までも奪われている。この大失態で高島藩に1万石減封の沙汰が、幕府から下されるという虞に、家中は怯えた。
 明らかな浪士隊の勝利でありながら、両藩の戦死者が少なすぎる。塩原彦七は、軍師御用人の立場で、当初から主戦論者でありながら肩や背に槍傷を受けている。戦の常道として、敗走時に多くの戦死者がでる。高崎藩の戦死者の36名に匹敵する懸命の戦いであったが、その戦死者を秘匿したとみる。況して浪士隊は、少なくとも高崎藩との闘争を超える戦いを展開し、道中最大の戦死者と負傷兵を出している。深手13人、薄手28人とある。ただ、浪士隊にしても、敵国内であり、先々の行軍を考えれば深追いはできなかったであろう。
 11月26日、「村次」という厳しい緘口令の廻状が、波 左膳黒 犀八郎の名で藩から出されている。要約すると「この度の浪士との戦の模様、その他の風説など村や町の者達が種々噂をしているが、不届き至極である。この上の風聞は一切相成らず。城下は勿論、在方迄、見回りの者を差し向ける。心得違いの者がいれば、女童であっても召し捕る。このことを村町中の者に漏れなく厳しく申し渡せ。」と、陣太鼓の紛失と敗戦死傷者数の実態の漏洩に神経質になっている。
 天狗党は樋橋村に入ると、夕食を取り、味方の戦死者を探し、友人の多くがその首を切り取り、同士を是が非でも京へ伴おうとした。荼毘は2か所で行い、仮埋葬をした。暗闇の午後10時頃に占拠した樋橋村で兵を整え、落合は難所で伏兵の恐れがあるため、鉄砲の備えしながら中山道を下って、4ツ半(午後10時)諏訪下社秋宮がある下諏訪宿(下諏訪町)に入った。下諏訪宿の人々の混乱は一通りではなく、家財道具を穴に埋め、夜は秋宮の奥の武居入りに逃げこんで寒さに震えて一晩を過ごした。天狗党が入った下諏訪宿は、もぬけ殻であった。浪士隊は、それぞれ飯を炊き休息をした。ただ町内の町の辻々には、浪士隊が篝火をたいて警備した。
 武田耕雲斎らは下諏訪宿本陣岩波太左衛門宅を二番手大将は来迎寺に入り、その他の者達は旅籠や民家に入り休憩をした。ここで慌ただしく炊き出しを終えた。三番手の友軍が負傷兵を手当てしながら下ってきた頃には、武田耕雲斎らは仮眠を済まして、太鼓を鳴らして夜八ツ半(午前3時)頃には出発していた。後陣も束の間の休息後、出立している。高島藩の反撃を恐れたからであった。
 既に下諏訪宿やその近隣の村々へは、退避命令が下されていた。この争乱時、近在の村人は、畑に穴を掘り米を隠し、名主は重要書類だけ背負って逃げた。土蔵の財産を墓地に運び終日見守り、一般庶民は敗戦の報を聞き及び、山中に逃れ、家族抱き合い震えながらも酷寒に耐えた。
 休息も侭ならず下諏訪宿を出立し、暗闇の中を岡谷村(岡谷市)付近から中山道を離れて、川岸から伊那街道へ入る頃には日が昇り始め、天狗党は平坦な天竜川に沿って南下し、その日の内に平出宿(辰野町)へ向かった。天狗党は難なく平出宿に入ることができた。天狗党は、ここで昼食をとった。

4)合戦後の始末
 逃げ惑った高島藩士達も、順次に城に戻って来た。一旦城中に集まり善後策を講じたが、取り敢えずは湖水の舟を全部隠す事であった。城攻めに利用される事を想定したからあった。下諏訪宿へ夜討ちをかけるか、大砲3挺を、宿の東南、湖畔よりの富部村(下諏訪町)まで押し出して、下諏訪宿を焼き払おうという諸々の意見があったが、反撃されて城を攻撃されたら籠城に耐えられるかと軍議はまとまらなかった。幸い、浪士隊は未明には伊那路へ去っていった。
 浪士隊の志操は高潔で、50日の行軍中逃亡者は、僅か数人と言われ、軍規も厳格で婦人をかどわかして死罪にもなっている。土蔵が破られた風聞も散見されたが、浪士には関わり無く寧ろ不在を狙った空き巣達であったであろう。下ノ原の名主の日誌には、一旦我が家に帰ったところ、休息していた一人の浪士が居た。その無断闖入を詰ると、直ぐさま謝罪をしてその志を語り、長州まで攘夷決行のためで行軍すると、その理解を求めたと言う。

 戦後の後始末に、近在の村役人が刈り出された。翌21日には、御徒士目付や中間達を案内して、戦場に放棄したものを取りに登っている。所要人足は120余人となった。戦死者を見分し味方の者は縁者にわたし、浪士の者は首か右腕を切り取り、後々の証拠とした。翌日も家中の者と出掛け、26日にも大雪の中捜索している。その後も数回に亘り廻状が下され、戦場で拾った物は、一切届けるようにと沙汰されている。下ノ原村の名主山田政之亟の日記によると、拾得物は僅かで破れ陣笠1、鉢巻、脛当3と記されている。
 12月2日、下ノ原村では、この戦で焼亡もなく無事であったとして、村中で諏訪大社上社、下社へ参拝に出向いた。
 先に焼失させられた東西餅屋へは、高島、松本両藩から見舞いが出された。12月3日、政之亟は、藩より東西餅屋へ米味噌金子を届けるよう命じられた。4日、東餅屋へ赴き焼失した3軒に合わせて、15両と白米6俵味噌3樽を届けた。8日には西餅屋4軒各戸へ5両と白米4俵味噌1樽ずつを渡した。
 19日には、鉄砲猟師16人に1日当たり1斗ずつ3日分の報奨が渡された。
 翌元治2年正月19日、高島、松本両藩から東餅屋へ150両、西餅屋へ100両の補償金が支給された。家萱も下げ渡された。
 雪融けになると新たに死骸が見つかると、その度に村役人は始末に奔走した。この戦で下ノ原と樋橋両村は、26石8斗5升の出費となった。これは藩への年貢から控除された。

5)浪人塚
 11月26日柳田淡一郎の指図で、浪士11人の胴を埋めて塚を築いた。浪人塚である。明治2年9月、下諏訪町樋橋に水戸浪士戦死者の浪人塚を再度築き直した。土まんじゅうに墓標程度ではあったが、明治政府になってから、尊皇攘夷、倒幕の先駆けであった天狗党への評価が変わったことが大きかったようだ。翌年には水戸に和田嶺合戦における水戸浪士の犠牲者を照介している。不動院全海、横田巳之助、岡本粂郎、鈴木當之助、鈴木金蔵、大久保茂兵衛6名の名のみしか知らされて来なかった。横山巳之助は18歳、父親に随行してきて戦死した。6人の名を刻んで碑を建てて供養した。書は鵜飼雪谷による。「元治甲子水戸浪士殉難こと水戸東海棉列奉書」と刻まれた水戸浪士殉難石碑が立てられた。その後地元の人々を中心に年々の祀りをたやさず、25年祭、50年祭、70年祭、90年祭、百年祭など催され、今でも水戸との交流がなされている。また地元樋橋区の人々は、毎年の墓参と掃除を絶やさないできている。
 水戸の激派と諸生党両派の争いは明治になっても収まらず、明治2年に成立したばかりの新政府に、内部抗争をやめるように命令されるほどの始末であった。   
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