和田峠から岡谷の諏訪湖が見える 和田峠から扉峠へ向う峰道 標高1,531m和田峠までは急峻な山道 和田峠は中山道一番の難所
 
咲く梅の  花ははかなく 散るとても 馨りは君が 袖に移らん   武田耕雲斎

 元治元年6月5日 新撰組が京都三条河原町の旅館「池田屋」に会集する「尊王攘夷派」を襲撃!

 天明6(1786)年、家治が死去すると松平定信が御三家と協同する粛清により、田沼意次は失脚して隠居させられた。老中定信は、和泉国岸和田藩主の岡部長備(ながとも)に相良城の破却を命じ、相良藩は廃藩となる。相良城完成から約8年後の事であった。ただし、田沼氏は意次の孫・意明(おきあき)が陸奥下村藩に1万石を与えられて存続を許されていた。文政6(1823)年7月8日、徳川家斉の尽力もあって意次の次男・田沼意正は旧領相良に1万石で復帰を許された。第3代藩主・田沼意尊の代、文久元(1861)年には、若年寄に就任した。武田耕雲斉に率いられた天狗党の乱が起こり、幕府は老中格の田沼意尊に、天狗党討伐総督を命じた。相良藩は、明治元(1868)年、上総国小久保藩(現千葉県宮津市)へ移され、その後廃藩となった。

天狗党中山道を進軍    Top
 目次
 1)中山道諸藩の内情と対応
 2)高崎藩天狗党と決戦
 3)天狗党和田峠へ

1)中山道諸藩の内情と対応
 戦闘は老中格田沼意尊(おきたか)率いる幕府軍の増援もあって、次第に天狗党に不利な状況になってきた。当時、一橋慶喜禁裏守衛総督の任に就いていた。天狗党は、このまま自滅するよりも、この状況を打開するために京都に上り、慶喜を通して、朝廷に直接尊皇攘夷の赤心を訴えようということに決し、元治元(1864)年10月23日、京都に向かって進軍を開始した。武田耕雲斉を明主として、山国兵部田村稲之右衛門藤田小四郎ら士分200人と医者・修験者・町人・百姓などの一般人800人の一行であった。近郷の郷士や百姓が、大部分で、浪士中には家族を残せば、諸生党に捕えられて殺されるとして同行させた者も多く、また嬰児を背負った婦人もいたという。天狗党の浪士隊は、11月の寒空の下、前途は250里、50日の軍旅であり、その京で慶喜に訴えた後、さらに長州へ向かい毛利藩と結束し攘夷を実行する計画であった。
 幕府は田沼意尊の兵に追撃させたが、田沼の軍は2日の行程の距離を常に保ち、戦おうとしなかった。
 天狗党は武田耕雲斎を総大将とし、軍師に山国兵部、本陣に田丸稲之右衛門、輔翼に藤田小四郎と両副将を置き、竹内百太郎を中心とした天勇隊・虎勇隊・竜勇隊、正武隊・義勇隊、奇兵隊の6編成であったが、そのほかに本陣に一隊が会った。11月1日、大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けた。
 10月10日に太田に現れた天狗党は、12日には利根を渡り埼玉へ出た。これに対し、幕府は前橋、館林、安中、伊勢崎、七日市、小幡、吉井の諸藩に討滅の命を下した。この当時、大河内松平家高崎藩の主力は、幕命により、既に水戸に出征しており、未だ帰城しておらず、城兵は600名程度しかなく、已む無く年寄り子供までも動員して出撃した。高崎藩は先の元治元(1864)年7月、「水戸天狗党の乱」の緒戦において、下妻(茨城県下妻市)の近くの多宝院で、天狗党の夜襲を受け諸藩軍・諸生党と共に敗退した。武門の家柄としての誇りを傷つけられたとして、高崎藩城代宮部兵右衛門は、家門の意地にかけて、中山道を西上しようとする武田耕雲斎ら率いる天狗党を追撃せんとする。宮部は兵を4隊に分け、即ち、城の留守部隊以外は、会田孫之進率いる一番手109人(砲2門)、浅井隼馬を将とする二番手92人(砲2門)、深井八之丞の三番手132人に編成した。
 沿道諸藩は吉井藩(1万石)・小幡藩(2万石)・七日市藩(1万石)といった小藩ばかりであり、天狗党討滅は難題すぎ、差し障りなく通り抜けることを望んでいた。天狗党も無益な一戦を好まず、諸藩を刺激しないように裏道を抜けて、下仁田(しもにた)宿にまで達した。
 当然、沿道諸藩には幕府から、「他領までも追行き殲滅すべし」と天狗党追討の命令が出ていた。しかし、天狗党は数々の戦闘を経験した精鋭であり、一説には15門とも言われる大砲を所持しており、また通過地には小藩が多かったため臆して手が出せず、天狗党と幕軍が通過して行くのを見守るしかなかった。諸藩の中には密かに天狗党と交渉し、城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を献納した藩もあった。いずれもその後に想定される幕府の処断を、如何に回避するかが緊要な課題となっていた。浪士隊もなるべく大名領を避け、天領や旗本領を通るようにし、道々、上京の衷情を訴えて道を借りた。幕軍も遅れて追尾するだけで、道中、浪士隊に協力した者を処罰するのが精々であった。

2)高崎藩天狗党と決戦
 群馬県甘楽郡下仁田町下小坂に「高崎藩士戦死之碑」が立つ。上野国高崎藩は譜代で当時の藩主大河内松平家第11代大河内輝声(てるな)で、高崎藩最後の藩主、8万2千石であった。城代家老宮部兵右衛門は11月12日に出兵を決意、江戸にいる藩主にその出兵を伝え、幕命を忠実に果たそうとした。一番手は11月13日夜出発、二番手は翌14日朝、城を出た。天狗勢が本庄宿から吉井方面に移動した情報を受け、高崎藩一番手・二番手は11月14日に倉賀野(高崎市)で合流し、天狗勢が吉井で分宿したことを知り夜討ちを掛けようとしたが、両隊の隊長の意見が合わず中止した。しかし、14日深夜城代宮部から急使あり、天狗勢を追撃するよう命じられた。それにより、翌15日早朝、一番手・二番手の計201名が倉賀野を出発し、夕刻一ノ宮(富岡市)に入る。そこに、小幡藩と七日市藩兵が来て、増援と期待して会田と浅井は喜び、先に兵を共に進めるようと提案するが、両藩の指揮者は兵が少なく、武器も乏しいことを理由に同意しなかった。結果、高崎藩兵が先鋒となり、小幡、七日市両藩兵が下仁田に宿営する天狗勢を背後から突くことになった。
 高崎藩一番手109人は、梅沢峠を越え下仁田の北方1里足らずの下小坂村に通じる道を下り、本陣を下小坂村名主里見治兵衛方の門前の桑畑に陣を構えた。二番手は少し遅れて一番手に続いた。戦闘は16日七つ(午前4時)から始まった。天狗勢の本陣は桜井五兵衛宅に置いていた。
 正面信州に通じる中山道には、天狗勢は龍勇隊(隊長畑弥平)と虎勇隊(隊長三橋金六)が西に向け対峙、北側伊勢山には義勇隊(隊長朝倉源太郎)、南側西牧川対岸に庄司与十郎の隊が布陣した。しばらく一進一退の攻防戦が続くにつれ、高崎藩に死傷者が続出した。しばらくして伊勢山に突然一隊が現れ、それを眼にした高崎藩兵の間に喜びの声が上った。前日夜一ノ宮で後から進んでいくと約束した小幡藩兵が、銃砲声を聞きつけて支援に駆けつけた、と思ったのだ。しかし、それは朝倉源太郎指揮の天狗勢義勇隊で、猛烈な銃撃を浴びせて突き進んできた。狙いは極めて的確で、高崎藩の本陣は狙い撃ちされ、使番堤金武之丞が頭部を撃たれ戦死したのを初め、たちまち14人が倒れた。
 高崎藩兵は混乱し、一番手隊長会田孫之進はひとまず後退することを決意した。しかし、激しい銃砲声で藩兵には伝わらず、伊勢山の傾斜を懸命によじ登って義勇隊に突撃した。それを熊野山の上から狙い撃ちされ、たちまち高崎藩先陣内藤儀八、大島順次郎、国友辰三郎らが戦死した。内藤は小野派一刀流使い手で、これ以前の天狗党野村丑之助との対戦では丑之助の右手を切落している。下仁田戦争で亡くなった天狗党4名のうちのひとりだが、丑之助の墓が、下仁田町下仁田に現存している。野村丑之助は、田丸稲之衛門の小姓として従軍していたが、乱戦の最中、内藤儀八と斬り合いとなり、右手を切り落とされる重傷を負った。彼は足手まといになることを厭い、左手のみで切腹した。享年13歳。懐中には、辞世の句『なきがらは 程なく土に かわるとも 魂はのこりて 皇国(みくに)を守る』がしたためてあった。

 高崎藩の死者は、戦闘中捕虜となって斬首或いは割腹した者や、戦闘前に下仁田宿への放火を策し、捕らえられて処刑された密偵も含めて36人、天狗党は、4人の戦死者が確認できた。多勢に無勢、兵力にも差がありすぎた。 この安導寺の戦いをもって、高崎藩兵は完全に敗走した。朝か ら6時間の戦いで、天狗党も朝食のみで一日を戦い通した事になる。下仁田戦争と後世呼ばれたこの戦に、最期まで七日市藩と小幡藩は現れなかった。下仁田の本誓寺に、この戦闘で、天狗党側戦死者4名のうち、激戦地のひとつ、安導寺合戦で亡くなった斎藤仲次、久保田藤吉の墓がある。近年、大曽根繁蔵の戦死も確認され、墓は梅沢峠の要の崖上に置かれた。
 この熊野山から高崎藩本陣への天狗党の銃撃が決め手となり、高崎藩兵は総崩れとなり、龍勇、虎勇、義勇の3隊が追撃し、高崎藩兵は退きながら応戦した。殿の約20名の藩士が中小坂村安導寺で踏みとどまり、附近の民家を焼き払って戦った。これが最後の戦いとなり、高崎藩兵は下仁田の東北4里半の安中方面に退いた。幕府軍はこの争闘に参戦せず傍観し続けた。
 西牧川と南牧川は下仁田で合流し、鏑川(かぶらがわ)となる。下仁田戦争で捕虜となった高崎藩士は、鏑川北岸の河原において処刑された。高崎藩士7名は切腹、人足3名は斬首となった。
 浪士隊でも、白兵戦で深手を負った荘司幸三郎も内山峠の難所を越える時に傷が悪化した。平賀村泊まりの総人数は848人とあり、下仁田戦争時より80人も少なくなっている。下仁田戦争で相当数の負傷者が出ているはずだ。この山中、行き倒れとなり、置き去りにされた人達も相当数有ったと思われる。

3)天狗党和田峠へ
 幕末期、藩主松平忠礼(ただなり)の上田藩のから洋式兵学者・赤松小三郎という傑物が登場した。藩校の明倫堂に学び、江戸に出て内田弥太郎の門下に入り、安政2(1855)年、勝麟太郎(海舟)に随い長崎に赴き海軍伝習所にて蘭語航海兵術を専攻した。その後、数学・天文学・蘭学・兵学・航海術などを学んだ。その赤松らの熱心な洋式調練によって、上田藩の洋式兵団は、諸藩でも評判となり、薩摩藩は、赤松を教官として招聘し藩士を育成させた。慶応3(1867)年9月3日、教え子の一人、中村半次郎に幕府のスパイと疑われ京都四条通り辺りで暗殺される。享年37歳。
 一方、先見を誇った準備も莫大で投資が先行し、藩の財政は困窮した。そのため、水戸藩の天狗党が挙兵し、上田藩がその鎮圧にあたる幕命が下る時も、千人前後の藩兵を出しながら、恐れ萎縮し戦わず見送っている。この弱腰の姿勢を世情から失笑され、その弁明として幕府が危難に遭えば藩主自ら藩一丸となって幕府に殉ずると内外に宣言していた。いざ官軍が進撃してくると、新政府側へと寝返り、官軍へ支援をしている。

 信州の各藩に幕府から天狗党討伐令が出されたのは、天狗党が高崎藩兵を下仁田で敗走させた3日前の11月13日であった。岩村田藩内藤氏は1万5千石の譜代であるが、小藩である。11月14日に自領内の小田井宿(御代田町)で天狗党の動向を探ると同時に、家老が100人程の藩兵をひきつれて、追分宿(軽井沢町)に出陣し、小諸藩兵と合流した。小諸藩牧野氏も、1万5千石の譜代であるが、越後長岡藩牧野氏の支藩であり小藩である。
 この動きを察知した天狗党は、これを避けるべく藤岡方面から下仁田の4里程西にあたる富岡街道内山峠(群馬県と長野県の境)を越えて、佐久へ抜ける中山道の脇往還「信州姫街道」を進軍した。峠を越えると信州の諸藩は、岩村田藩、小諸藩、御影陣屋(天領管轄;小諸市御影新田字屋敷)であった。

 その後、内山峠へつながる初鳥屋峠に出兵したが、下仁田の高崎藩敗北の状況を聞き、その日の夜のうちに追分宿に退き、さらに小諸藩領まで退いた。岩村田藩は、小諸藩と同じく香坂峠(佐久市三井村)へ出兵したが、小諸藩の退却を知り、同様に退却した。
 幕府天領を治める御影陣屋では、代官の甘利八郎右衛門が中野陣屋(中野市)に在所していたため、手代の里村修助が指揮をすることとなった。里村は、領内の内山村、平賀村等(佐久市)の周辺8か村から農民や猟師を動員して、内山峠の守備を行うことにした。内山峠付近の渓流の橋を落とし、大木を切り倒して土で覆うなど進路の妨害を行った。そして、11月17日峠付近で天狗党を撃破しようとしたが、現実に天狗党先発隊が、その動静を察知し、大砲や鉄砲の音を響きたたせると全軍直ちに退却した。 
 内山峠から逃げ帰った天領の名主や組頭たちは、内山村に集まり、幕府諸藩兵の無気力目の当たりにして、天狗党を穏便に通過させることが村民を守る唯一の手段とさとり天狗党を出迎えた。内山村に入った天狗党は、戦塵を洗い昼飯を食べ、さらに進んで夕刻平賀宿に入って宿泊をした。平賀村の定右衛門宅を本陣とした。天狗党の行程は、1日、4,5里が精々であった。行く先々が敵地であるため、戦闘を想定しながらの行軍であった。また婦女子を伴ってもいた。
 11月18日朝飯を終えると天狗党は平賀宿を出発し、10時頃に千曲川を越えて野沢村(佐久市)に入り昼飯をした。ここで下仁田での負傷者の手当をし、馬や人足を集めて、しばらく休憩の後出発し、岸野から八幡宿(浅科村)へ向かい、ここで中山道に出た。八幡宿の豪農依田仙右衛門宅に乗り込んで200両を献金させ小休止し、その日の内に望月宿(佐久市望月町)まで進んで宿泊をした。
 望月宿には、先の6月3日、代官から再度の御触が出されていた。「浮浪の徒、野州大平山、常州筑波山などに集屯、既に大納言殿の遺志をつぎ候などと唱え、軍用金押し借り致し候趣につき、たとえ水戸殿名目唱え候とも、召捕り候様お達しなり」と、水戸浪士を「浮浪」と呼び捨て召し捕り命令が出されていた。
 「7月8日、望月宿本陣にて御代官様よりお達し之あるに付き、栄次右衛門出頭仕り候所、郡中村々申合わせ最寄り組合相立て、非常備え厳重に仕えるべき旨仰せ渡され候。」と自衛のための「非常備(ひじょうそなえ)組合設置」を命じられた。
 「8月2日、夜組親会(よるくみおやかい)、村人人別15歳より60歳まで、非常備組合相定め、5組にいたし1組宛て役人支配致し候。」と「非常備組合」の概要が整った。
 「10月23日、浮浪取締り備え、竹槍、提灯など5人頭人(かしらにん)その外一同へ渡す」。大砲、鉄砲を備える浪士隊に、竹槍を持って防戦をせよという「お粗末さ」である。

 望月宿では、それまでの度重なる「御触れ」には、代官や村役人共々、触れないようにした。周辺の村々から天狗党へ献納に訪れ、野沢村の豪農並木七左衛門は500両を、平賀村岩崎喜平は200両を天狗党に献納した。
 11月18日早朝、小諸藩代官太田健之丞が望月宿に乗り込み、周辺の村々へ天狗党討伐のために、竹槍や鎌を持参するようにお触れを出し、竹槍を作って準備をしたが、その日の内に天狗党が望月宿に入るとの情報を得て、竹槍等を土蔵に隠して抵抗するのを止めた。
 「同18日、原村弁当、同夜宿泊、武田伊賀ノ正、田丸稲之右衛門その外巨魁の人数は本陣止宿なり、およそ同勢千人ほどこれあり、右に付き村内非常組夜中見回り方厳重仕り候。」と「御触れ」は変わる。
 天狗党は11月19日望月宿を出立し、午前9時頃には、江戸時代、望月宿と芦田宿の中間に設けられた間(あい)の宿・茂田井宿(望月町)を通り、芦田宿(立科町)で弁当を取って、笠取峠を越えて、長久保宿(長門町)に出て休息となったが、大変な歓待を受けたと言う。5ツ(午後8時)全員が和田宿(和田村)に入った。和田宿役人は出迎えに出ている。その夜、武田耕雲斎は平然と碁を打っていた。
 11月19日夜、天狗党の後を追うように、茂田井宿国家老牧野八郎左衛門を大将とする小諸藩兵500人が乗り込み宿営した。小諸藩兵は11月20日朝には出立して芦田宿に入り陣取り、昼過ぎには笠取峠まで出陣して岩村田藩兵と御影陣屋兵と合流し、はるか西方にある天狗党へ向け、鬨の声をあげ、鉄砲を撃つなどした。後々、幕府から究明された際、口実にするための茶番であった。
 望月町に残る記録に、下記内容を残す。
 「同22日、和田峠へ押し行きしに、松本、諏訪両藩、字樋橋(和田峠西麓;下諏訪町)の曲り所へ陣取り、夕7つ頃(4時)両陣砲発(ほうはつ)始まり候所、浪士方奇兵隊にわかに山を越え、松本諏訪両陣うしろより切り入り候間、たちまち敗軍と相成り引きのき、手負いの死人これあり、浪士方にても今弁慶と唱え候者も死に、右にて軍(いくさ)終り浪士は下諏訪宿泊まりにて押し行き候。」
 「同21日、鶏鳴時(夜明け前) 御影元締大塚藤作様より達し書、自分義賊徒追討として郡中同勢380人余り召連れて、芦田宿へ出陣候条、兼ねて備え置き人数へ狩猟鉄砲持参駆け付け申し達すべきにつき、すぐさま人数30人権右衛門、牧右衛門へつけ添え、芦田へ参り候所、最早浪人も和田峠越し候に付き、一同引取り候様大塚様より達しこれあり候間、外村々一同帰村仕り候、前夜中之条より長久保古町まで御出陣の様子に付き、豊吉出張仕り候。
 同22日より引き続き御名代田沼玄蕃守様、越後柴田様追討として御通行これあり候所、にわかに引き返しに相成り、ことのほかの変事にこれ有り候。」
 この時、天狗党は水戸浪士亀山勇右衛門の「御用手扣(ひかえ)日記」によれば、「廿一日、天気、平出(辰野町)に休足、松島(箕輪町)に泊す」「廿二日、天気、上穂(駒ヶ根市)に泊す」とある。既に、諏訪郡岡谷村から中山道を離れて、天竜川沿い伊那街道を進軍していた。
 小諸藩は幕府から追討令が出ているのに関わらず交戦せずに領内を通過させてしまった。その責任を負い家老の牧野八郎左衛門は失脚、用人太田宇忠太は謹慎を申し渡された。

 11月16日幕府より追討令が届いた松本藩では、早速兵の編成を整えた。当時の藩主は戸田松平家14代の光則(みつひさ)で6万石であった。翌17日、組頭稲村久兵衛350人を出立させた。稲村は休憩をせず扉峠を越え、翌18日には和田峠を越えて和田宿に入った。そしてさらに状況を把握するために進軍して長久保宿に陣取った。ここで天狗党が望月宿に入り、その軍備の情報を得て、ここでの戦闘は不利とみて、和田峠での決戦に変更をし、18日の内に退いて和田峠を北に少し下った辺りに陣をすえた。道筋の橋を壊し立木を伐り倒して街道を塞いだ。その時、東餅屋と西餅屋は焼かれている最中にあった。高島藩が、浪士隊の基地になることを恐れて焼いたものであった。東餅屋は5軒のうち3軒が、西餅屋では4軒全部が焼かれた。

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