思ひきや 野田の案山子の 竹の弓 引きもはなたで 朽果てんとは  松平頼徳(まつだいら よりのり)

 元治元(1863)年8月5日午後、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に砲撃を開始した。その戦力は艦船17隻、備砲288門、兵員5,000人余であった。長州藩兵も応戦するが火力の差は圧倒的で、砲台は次々に粉砕させられた。艦隊は砲撃支援の下、前田浜に陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠し3日間で砲を破壊し尽くした。下関砲撃事件という。

天狗党蜂起     Top

目次 
 1)天狗党筑波山で挙兵
 2)武田耕雲斎起つ!

1)天狗党筑波山で挙兵
 市川三左衛門は、天保14年父の隠居により家督を継いで500石を給され、弘化2年歩行頭となり、嘉永元年小姓頭、2年用人、4年新番頭、5年書院番頭などを歴任した。安政6年、安政の大獄及び勅書返納問題をめぐって水戸藩に内訌が起った際には、大寄合頭として改革派の鎮圧に努め、やがて家老に昇進し、佐幕派諸生党の首領として武田耕雲斎ら激派と対抗した。元冶元(1864)年3月天狗党の田丸稲之衛門藤田小四郎らが筑波山に挙兵すると、諸生党を率いて江戸に入り、耕雲斎を退けて執政となり、幕軍の援助をうけて天狗党を弾圧、ついで水戸城を占拠して藩政の実権を握った。過激派は藩政から一掃された。
 天狗党ら尊王攘夷派は、政争に敗れ行き場を失い、3月、水戸藩尊攘派のなかでも過激派であった藤田小四郎竹内百太郎らは、湊、小川、潮来などの郷校に屯集する下級藩士・郷士・村役人・一般農民などを糾合し、町奉行田丸稲之衛門を首領として筑波山で挙兵、「天狗党」と称した。筑波山で挙兵したことから筑波勢、或いはその略称である波山勢などと称された。この天狗党の蜂起に全国から尊攘運動の志士が集まり、浪士、藩士はもとより、町民、農民や神官なども多く加わり、千人以上を数えたといわれている。 四方の義士を集めて横濱で攘夷を実行すべく挙兵したが、実際には藩内の派閥抗争の様相を呈していた。この頃の水戸藩の状況は、幕府に恭順する保守派(諸生党)と尊王復古を信奉する激派の対立構造から、激派自体が藤田東湖の息子藤田小四郎ら最過激派(天狗党)と会沢正志斎武田耕雲斎ら穏健派とに分裂して、三つ巴の確執となっていた。当初、天狗党の乱を起したのは最過激派の藤田小四郎・斎藤佐治右衛門・田丸稲之右衛門らであった。この頃になると、敵の留守宅を襲撃し、妻子を捕らえて虐殺するなどの事件も続発し、お互いの憎しみはますます募り、内紛は陰惨さを極めていった。
 
 天狗党は、4月3日、下野国日光へ向かい、日光東照宮へ参拝しようとしたが、途中日光奉行に妨げられた為、一部の者が参拝したに止まった。下野国太平山(栃木市)に屯集し50日間滞在、その間波山勢への参加者が次第に多くなる。5月、水戸藩内で保守派の市川三左衛門が、反藤田派を巻き込み藩校弘道館の学生らを組織の中核として諸生党を結成し、藩内の激派排撃を始めたことを知り、筑波山へと引き返した。弘道館は、斉昭が天保12(1841)年8月、水戸城三の丸内に創設した、当時しては国内最大規模の藩校であった。藩士に剣道・馬術など武芸一般はもとより、文武両道の修練の場として、医学・薬学・天文学・自然科学など幅広い教育と研究が行われた。
 天狗党が筑波山へ引き返す途中、田中愿蔵(げんぞう)が別働隊を組織して栃木町、土浦真鍋宿などに兵を遣り、資金調達を図ったが失敗し、その断られた腹いせに町へ放火した為、天狗党は「暴徒」と見なされた。
 愿蔵は、倒幕に踏み切れない小四郎と間もなく対立、天狗党を割って独自の隊をつくり、各地を転戦した。その別働隊も後に八溝山で解隊、ほとんどが捕われ処刑される。愿蔵は21歳という若さで、元治元(1864)年10月16日に、久慈川の河川敷で斬首刑に処せられた。
 
 このような状況下、幕府は天狗党に対する取り締まりを周辺の諸藩に命じた。これに応じた水戸藩内の反天狗党、反尊攘勢力である市川三左衛門朝比奈弥太郎らの諸生党の人々は、江戸に上って藩政を掌握、天狗党追討を決定した。幕府は天狗党追討令を出し、田沼玄蕃頭意尊(おきたか)を総督として、幕府軍歩・騎・砲3千8百人の3兵を派遣した。同時に水戸藩に追討の命を発した。執政市川三左衛門は数百の兵を率いて呼応した。ほかに高崎と笠間藩合わせて2千の兵、壬生藩3百の兵が加勢し、総勢6千数百の兵力で、元治元(1864)年7月7日、天狗党を攻撃した。下妻(茨城県)の高道祖(たかさい)で戦われた。諸藩軍は、下妻近くの多宝院で天狗党の夜襲を受け脆くも敗走した。既に武士は怯懦過ぎて、戦闘能力を失っていた。
 
 筑波山周辺での泥沼の戦いは数ヶ月続いたが決着が付かない。筑波山に拠る小四郎ら天狗党、水戸城を押さえ政権を牛耳っている執政市川三左衛門ら保守派(諸生党)、磯浜(茨城県大洗町)に拠る武田耕雲斎らの中間派、さらには天狗党討伐のため派遣された高崎・笠間・壬生など関東諸藩兵を含む幕府軍などが入り乱れる状況であった。
 家老の武田耕雲斎は藤田東湖と共に9代藩主徳川斉昭の藩政改革を支えた人物で、元々激派に属していたが、小四郎らの急進的な尊王攘夷派には批判的であった。御三家水戸徳川家臣の意識が強く、藤田東湖の父幽谷が創唱した尊王敬幕的立場であったようだ。幽谷の孫小四郎も倒幕とまでは考えていなかったようだ。
 
 天狗党は幕軍に快勝した結果、気が驕り常陸・下野の諸所で町村集落から、幾度も金穀を執拗に徴発した。その度重なる収奪に、町村の百姓・郷士・猟師・樵は自衛集団を形成したが、次第に凶暴となり名主・神官・庄屋など富裕層に対して打ち壊しを行う暴徒と化した。

 水戸では、幕府が天狗党追討軍を派兵すると報らされると、それまで諸生党に屈していた国表にいる激派勢力が猛反発した。御三家水戸藩の領内に幕府軍が侵入するとは、この上ない屈辱と、この事態を許した諸生党家老の失政は追放にあたいすると、藩内世論を集約した。文政12(1829)年の藩主継嗣問題で斉昭擁立に尽力した激派は、先君烈公斉昭の江戸藩邸にある遺書の「諸生党を君側に侍らせれば、国政が乱れる」という戒(いまし)めを根拠にした。水戸国表の激派有志は、未だ執政・参政にある重臣を中心に結束し、烈公の遺志を奉じ諸生党の執政達の退陣を迫った。更に、武田耕雲斎、村田理介、榊原新左衛門らの尊攘派は、6月から7月にかけて大挙して上京、藩政の主導権を再び諸生党から奪い返した。結局、7月、江戸藩邸の諸生党派の執政佐藤図書(ずしょ)、朝比奈弥太郎らも罷免され謹慎を命じられた。

 市川三左衛門は、幕府軍の諸隊とともに戦い敗れ、その間の政変で水戸城内に戻れず、3百人の手勢を連れ江戸へ向かう途上、水戸街道で江戸藩邸内の政変から逃れる佐藤図書朝比奈弥太郎ら諸生党百余人と出合った。市川三左衛門は、江戸藩邸も激派に掌握されたと知り、佐藤図書と対策を練った。三左衛門は、江戸藩邸の佐藤図書らを合わせれば、4百数十の兵力、その兵力があれば水戸城内を制圧できると踏んだ。結局短時日に諸生党は、国表を掌握するが、江戸藩邸内の諸勢力まで支配できなかった。その結果水戸藩内に2つの政権が樹立した。市川らは水戸城を占拠し、天狗党に加わっている者の一族の屋敷に放火、家人を投獄し、一説には銃殺したという話も残っている程の報復を行なった。
 挙兵時は尊皇攘夷の旗印の下に集った志士達であったが、身内虐待の情報による動揺は藤田ら幹部も抑えることができなかった。他藩の志士たちは天狗党の目的が、水戸藩の内訌優先に傾いて来た頃から次第に離れ始め、約500名が天狗党と決別した。彼らは、横浜を鎖港(さこう)すべく実力行使のため進撃するものの、鹿島付近において幕府軍に包囲され、交戦し敗散している。

 同年7月19日、京では禁門の変の勃発で、長州藩は禁裏に銃弾を撃ち込み、洛中を大混乱に陥れた。このことに激怒する孝明天皇は、長州藩追討の勅命を発した。この第一次長州征伐は、幕府復権の願ってもない機会とみて、幕府は21藩に対して出兵準備を命じた。
 同月30日、水戸藩主徳川慶篤は、藩内の騒擾鎮撫のため、幕府に対し、支族宍戸藩主松平頼徳の水戸派遣を請うた。このような事態に際し、藩主自ら下向するのが通例であったが、京の争乱の最中、御三家の尾張徳川慶勝と紀州徳川茂承(もちつぐ)が京に在って、慶篤は江戸を離れられなかった。幕府は、頼徳に慶篤名代として水戸に赴くよう命じた。8月4日、水戸藩主目代として松平頼徳は、市川派鎮撫のため出陣した。水戸藩激派の家老榊原新左衛門鳥居瀬兵衛ら数百人が随行した。途中、武田耕雲斎ら激派も合流した。8日、水戸街道の小金宿(松戸市北部)付近に屯集する尊攘派の士民ら数千人が同行し「大発勢」と呼ばれる程の勢力となった。10日、松平頼徳は水戸城下に入り、入城をはかるが、諸生党は政権を奪取されることを恐れ、戦備を整え拒絶した。その内地方の百姓が、武装して城外の市川三左衛門方の陣に集まると、松平頼徳一行は天狗党と聞かされ襲撃してきた。当初、江戸の藩主徳川慶篤の命で乱を鎮めるべく、武田耕雲斎らは水戸へ向かったが、市川ら諸生党に水戸入城を拒絶されるばかりか、逆に攻撃される有様となった。ここに至り耕雲斎ら中間派も天狗党に合流することになった。市川三左衛門派は対抗上幕府征討軍の出動を要請した。
 松平頼徳はこの擾乱に応じきれず、国表の実状を報せる急使3名を江戸藩邸に派遣したが、情勢は一変していた。禁門の変で長州勢を一掃した幕府は親幕派の諸生党を支援し、前月7月に失脚した諸生党に属する執政達に、江戸藩邸を掌握させていた。その裁断により、使者の一人だけが国表に戻る事が許され、他の2人は投獄された。
 12日、松平頼徳は、擾乱となる危険を避けるため、那珂港(ひたちなか市東部)に移り策を樹てんとし、水戸城外の台町を発した。三左衛門等の兵は、頼徳を追い諸所で攻撃を繰り返した。頼徳は、これをを破るが、磯浜(東茨城郡大洗町磯浜町)に進み、祝町願入寺(同東茨城郡)に拠る水戸城兵と戦い那珂湊へ追うが、その後、那珂川を挟んで対戦する。
 16日払暁、頼徳の麾下の武田耕雲斎・同正義らが、那珂湊の市川勢を襲った。藤田小四郎・飯田軍蔵利貞らが率いる兵も、小川(常陸国那珂郡)より駆け付け耕雲斎らを援けた。市川勢は、支えきれず水戸に潰走した。20日、頼徳は、城東の神勢館に拠って再度、水戸城入城を折衝するが、拒まれ戦闘となった。神勢館は、斉昭が嘉永6(1853)年、細谷の地(水戸市若宮町)に造らせた製砲所と射的場で、明治維新の戦乱で焼失した。
  一方、若年寄田沼意尊を総督とする幕軍が水戸に迫っていた。22日、その幕軍と戦火を交えてしまった。29日、頼徳勢は、那珂湊(ひたちなか市東部)を占拠して、榊原新左衛門を軍事総督として陣容を整えた。この時藤田小四郎・飯田軍蔵ら筑波勢・潮来勢が再び来援した。頼徳勢には当初、暴徒とされていた天狗党と行動を共にする事に抵抗があったが、この頃には天狗党に対する賛同論が広がり、頼徳勢は天狗党と合流し共に市川勢と戦うことになった。この合流によって、天狗党挙兵に反対であった武田耕雲斎らも、天狗党と行動を共にする事になる。天狗党の加勢を受けた頼徳勢は、市川らの工作もあり、幕府に天狗党と同一視され、討伐の対象にされてしまう。
 頼徳勢は善戦するが、補給と戦陣を立て直すため再び那珂湊へ後退する。9月、幕府追討軍総督田沼意尊は配下の兵力総掛りで攻撃させる手筈を整えた。幕府監軍戸田五助は、歩兵頭城織部・大砲組頭万年?太郎・小筒組頭松平左衛門ら幕兵を率いて、二本松・壬生藩の兵らと共に那珂湊へ進撃した。その那珂川の対岸、南から歩兵頭北条新太郎・銃隊河野伊勢守ら幕兵、宇都宮・棚倉・佐倉藩兵らの軍が磯浜へ向かった。棚倉藩兵らは、小川の郷校文武館を焼き、さらに鉾田を襲う。9月22日、幕府軍は大挙して那珂湊と磯浜を襲い、那珂川以南の地全てを幕府軍が支配した。
 同月25日、意尊は、笠間より水戸に入り弘道館に本営を置くと、追討軍を磯前・部田野から平磯を攻めさせ、当地を焼きこれを陥した。田丸稲之衛門らは那珂湊へ退いた。幕府の軍艦奉行木村謹吾は那珂湊の沖合に軍艦を回航し、海上より逃げ去る者を見張っていた。これより頼徳方は、完全に劣勢となり、翌26日、頼徳は、幕府代官佐々井半十郎の手代田中錬之助の仲介により、鳥居瀬兵衛・大久保甚五左衛門ら30余人を伴い那珂湊を出た。幕府監軍戸田五助と会見、共に江戸に上って「幕府に真意を訴える」事を約した。
 27日、追討軍総括田沼意尊は頼徳を水戸城下へ召致すると約定を反故にし、頼徳・元水戸藩家老鳥居瀬兵衛・同大久保甚五左衛門らを下市町会所に投じた。翌28日水戸藩支族松平万次郎邸に拘禁した。頼徳家臣7人は自刀を命じられた。10月1日幕府は頼徳および父頼位(よりたか)の官位を奪い、ついで同月5日頼徳に切腹を命じた。享年36。頼位自身も連座で拘禁され、宍戸藩は廃藩となった。慶応4(1868)年2月、新政府より宍戸藩の復活が許されて、頼位は藩主として再封され子爵に叙された。

2)武田耕雲斎起つ!
 10月22日、征長総督徳川慶勝は、大坂城に副将以下大目付・軍目付・使番及び出征諸藩の重臣等を召集した。長州藩征討の朝旨と将軍徳川家茂の委任状を示し、軍令状・下知状を下し軍議を行った。翌月11日、長州藩の敵境に迫り、18日を期して攻撃を開始すると決した。24日、京都守護職松平容保は、家茂の進発を促した。

 天狗党勢は幕府追討軍に那珂湊付近の戦闘で敗れ大混乱に陥った。那珂湊は当然東が海となり、西は川に囲繞された台地で、天然の要害であったが、9月25日、武田耕雲斎(正生)・田丸稲之衛門・藤田小四郎・井田平三郎らは、那珂湊を撤退し、諸所で追討軍と農兵と戦ひ且つ走り、この日、何とか脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村(茨城県久慈郡大子町;だいごまち)に集結した。ここでの会議で、このままでは自滅する、武田耕雲斎が一行の総大将となり、幕軍の追っ手から逃れると共に、京都に上り一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴え、その一方、長州藩とも通じ攘夷の実行をすることに決した。
 かつて町に放火するなどして民衆の反感を買ったことを反省し、天狗党は、略奪・殺戮を堅く禁じるなどの軍規を定めた。道中この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れる町も少なくなかった。
 天狗党が諸費用をきちんと宿場に支払うなど規律厳守に努めたことは、島崎藤村の代表作『夜明け前』にも記述されている。

 10月23日、武田耕雲斎らは、禁裏守衛総督徳川慶喜に嘆願するため西上を開始した。筑波山勢を天勇・虎勇・龍勇の3隊とし稲之衛門が率い、潮来勢を正武・義勇の2隊とし井田平三郎が率いた。同日、磯浜口の幕府追討軍歩兵、佐倉・高崎2藩の兵が、一斉に追撃して来た。榊原新左衛門・谷鉄蔵・富田三保之介・村田理介・新井源八郎以下千余人が追討軍に投降した。耕雲斎・山国兵部の隊、田丸稲之衛門・藤田小四郎の筑波山勢ら諸隊は、館山の諸営所を発った。三木左太夫・鮎沢伊太夫・浅田富之允らの諸兵、井田平三郎・朝倉源太郎らの潮来勢も、共に西北に走った。
 追討軍は、館山・筑波山勢、潮来勢らの諸営所を焼き、投降して来た榊原新左衛門らを水戸藩領久慈郡太田村にあった鋳銭座に移し、佐倉藩兵に警固させた。26日、塩崎村(東茨城郡)の長福寺に移した。 後日、佐倉藩や古河藩などに預けられた。
   
 市川三左衛門は、明治元年10月弘道館の戦いに敗れ、一隊数百名と共に会津に走ったが、まもなく水戸に戻って再び弘道館に拠り、水戸城を守る家老山野辺主水らの軍と対戦し、結局は敗れて下総八日市場まで敗走し、一隊はここで潰滅した。首領の市川は逃れたが、翌2年4月東京で逮捕され、水戸で生きながら晒された上、水戸城外長野原で逆磔の極刑に処せられた。享年54。
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