天狗党前夜     Top

   天津神に 背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思へは
 川路 聖謨(としあきら)の辞世の句。大和政権の蹂躙に耐えてきた民の血涙多き時代は、余りにも長かった。

 目次
 1)江戸時代末期の武士階層の有様
 2)幕末の水戸藩
 3)藤田東湖ら水戸の三田
 4)成破同盟
 5)幕末水戸藩の混乱
 6)桜田門外の変

1)江戸時代末期の武士階層の有様

 大阪天満の真中(まんなか)で
 馬から逆さに落ちたとさ
 こんな弱い武士みたことァない
 鼻紙三帖ただ拾てた

 天保8(1837)年、大塩平八郎の乱に際し、大阪東町奉行跡部良弼(よしすけ)と西町奉行堀利堅(としかた)は、両人とも味方の喚声や銃声に驚く馬から転げ落ちた。その時の落首である。跡部良弼は、その3年前、老中となった水野忠邦の実弟であった。

 『大阪市史 第2巻』によれば「堀利堅(としかた」は内平野町筋に跡部良弼と会し、良弼の列中にありし玉造組(大坂城玉造口門の警固に任ずる大坂定番)与力米倉倬次郎・石川彦兵衛・脇勝太郎三人、及鉄砲同心二十余名の来援を得て良弼と別れ、玉造組与力を先頭と為し、本町橋を渡りて船場に入り、本町を西に進む。利堅先頭に後るゝこと常に半町許、先頭屡々其急進を促す。而して鉄砲同心も亦逡巡して進まず、甚しきは途に逃亡する者あり。船場に入るに及び、剰す所僅に十三四人のみ。
 勝太郎高声を発し、其腑甲斐無きを叱し、「元来何之為に恩禄を頂戴仕候哉、此期に望、ケ様之体実に以恐入候事、如何之心得に候哉と責むれども、敢て答ふる者無し。此の如くんば徒に暴徒を追尾するに止り、遂に之に会する能はざるを憂ひ、利堅に請ひ、隊を二分して敵を挟撃せんといひしが、利堅兵力乏しきを称して許さず、勝太郎難波橋筋に至りし頃、偶々北方に銃声を聞き、踵を返し、堺筋を北進して良弼の隊と会せり。
 是に於て良弼利堅相合して一隊となり、淡路町を西進せしが、暴徒既に散乱して之(ゆ)く所を知らず、因て兵を班し、両町奉行本町橋東詰に於て袂を分ち、彦兵衛倬次郎は利堅の請により之に従つて西町奉行所に赴き、良弼は城に入りて暴徒逃亡の顛末を報告し、鉉之助等五名同心一統は番場にて良弼に分れ、東町奉行所に入り休息せり。
 是日利堅の一隊は火事装束の下に着込を著したるに過ぎざりしが、良弼以下は甲冑を著したれば、挙動敏捷を欠けるのみならず、良弼の乗馬は異様なる行装に驚きて疾駈し、良弼地に墜ちて急に起つこと能はざりしといふ。利堅の落馬と共に両町奉行一幅の失態といふべし。」

 既に武士の時代は、事実上遠に終わっていた。武士階層は、その武技素養を伴わず、それを支える精神を失っていた。ただその行政官僚組織が、名目的に腐敗したまま残存していた。
 乱後、跡部は特に咎められることもなく、その後も大目付を経て勘定奉行に栄進した。
 天保の改革が失敗に終わり、兄である水野忠邦が失脚した後も政治的命脈を保ち続けた。一説によると兄が重用した鳥居耀蔵とそりが合わず、常々鳥居と敵対していたために兄と連座することなく失脚を免れたとも言われている。
 子の幕臣堀 利煕(としひろ)は、老中阿部正弘に登用され、嘉永6(1853)年、小姓組徒頭から目付となり、ペリー来航の直前に海防掛に任じられた。当時は国交拒絶を主張、大船製造掛に就いたが、翌安政1(1854)年北蝦夷地視察に赴き、蝦夷地防備の緊要と外国との国力差を痛感した。同年箱館奉行に就任し、翌3年には、幕府の諮問に対し通商互市の緊急性を答申した。
 安政5(1858)年、英仏露使節の応接準備と応接掛を命じられた。各通商条約締結の際は日本全権の一人として署名している。また同年には新設された外国奉行に就任し、翌年には神奈川奉行も兼務し、諸外国大使との交渉と横浜開港に尽力した。この間、一橋派として14代将軍継嗣問題にもかかわっている。
 万延元(1860)年、プロシア使節オイレンブルク一行を全権として応接し交渉を主導したが、このときに利煕がプロイセンと裏交渉している、その上、オーストリアとも秘密交渉を行なっていたという風聞が流れ、幕府から追及された。利煕はそれに対して何の弁解も行なわず、プロイセンとの条約締結直前に、切腹する。享年43であった。忠憤時事を嘆じた結果ともいわれているが、それは幕臣として幕末中枢官僚として活躍した能吏の最初の犠牲者でもあった。

2)幕末の水戸藩
 幕末、水戸藩は派閥争いの結果、藩を上げて活動する以前に、執拗かつ苛烈な内部抗争で崩壊してしまった。元来水戸藩の内部には、保守派と改革派の対立があった。その根源は寛政期の藤田幽谷立原翠軒(たちはら すいけん)による「大日本史」の編集方針の対立にあったという。
 藤田幽谷は、安永3年(1774)、水戸下谷の古着屋藤田屋の次男として生れた。幼少の頃から神童の誉が高く、10歳の時、立原翠軒に入門、天明8年(1788)にはその推薦で彰考館に入る。翌年には正式に館員となり、水戸藩の修史事業である『大日本史』の編纂に携わる。寛政3(1791)年に「正名論」、同9年に「修史始末」、同13年に「勧農或問(わくもん)」を著している。その後、大日本史の編集方針をめぐって師翠軒と対立、翠軒が徳川光圀公の始められた大日本史編纂所・彰考館を去った後、文化4年(1807)、徳川家斉の時代、高橋広備(こうび;坦室;たんしつ)と共に総裁に就任した。
 藤田幽谷は青藍舎という私塾を開いて門人を教育した。その門人には会沢正志斎(あいざわ せいしさい)・飛田逸民・岡崎正忠・国友善庵・豊田天功・吉成南園・杉山復堂・吉田令世・川瀬教徳などすぐれた人物を輩出した。彼らの家格は低かったが、師の教えを守って困難の打開に当たろうと意気込みに燃えていた。中でも会沢正志斎は、10才のとき幽谷に入門し、彰考館に進んで修史にたずさわるとともに、西洋列強のアジア侵略を憂えてその実情を研究していた。大津浜(茨城県北茨城市)で異国船を取り調べてから、急いで我が国の対策を立てなければならないことを痛感し、翌文政8(1825)年、『新論』を著した。斉昭公の藩主就任後は郡奉行、彰考館総裁、弘道館教授頭取となる。
 立原翠軒は天明6(1786)年6月、彰考館総裁に進み、以後、享和3(1803)年に致仕するまで『大日本史』の編纂に力を注ぎ、寛政11(179)年には『大日本史』の紀伝浄写本80巻を、『大日本史』編纂の遺命を遺した2代藩主・徳川光圀の廟に献じた。この間、猥雑に放置されていた彰考館の蔵書を整理、欠本となっていたものを補写する様に命じ、古器物などの修膳、また光圀以来の留書、書簡などが集積されたまま、整理されていなかったため、これを補修製本した。これが『江水往復書案』、『史館雑事記』として今日に伝わっているものの原本となっている。

 永く停滞していた修史事業を再度軌道に乗せたことは、翠軒の大きな功績であり、翠軒の尽力により後世の水戸学が結実していったといわれている。また、翠軒は6代藩主治保(はるもり)の藩政にも参与し、「天下の三大患」について老中の松平定信に上書して、蝦夷地侵略等を警告した。寛政5(1793)年、門人の木村謙次を松前に派遣し、実情を探らせたという。
 これほどの事績を築きながら、大日本史編纂の方針を巡り、弟子の藤田幽谷と対立を深めていた。
 対立点は、1点目として『大日本史』の題名であり、幽谷は『史稿』と主張したが、翠軒が反対していた。2点目として『大日本史』の志表の継続または廃止をめぐる対立で、翠軒は廃止、幽谷は継続を主張した。『志』とは紀伝体の歴史書で、本紀、列伝以外に神祇以下、氏族・職官・国郡・食貨・礼楽・兵・刑・陰陽・仏事の10志の事項別に分類して記述した部分で、『表』は臣連以下、公卿・国郡司・蔵人・検非違使・将軍属僚の5項に分け、その要項を順に追って列記し、物事を明確にする。3点目として論賛の是非であり、各本紀や列伝の最後に「論賛」という編集者の批評を付ける。
 光圀は日本の正統な支配者は誰かという観点から、正義とは何かということの解答を得ようとして「大日本史」を編纂した。翠軒はこれを可とし、幽谷は不可としたという。幽谷との対立は、幽谷が『丁巳封事(ていしふうじ)』を藩に上書し、藩政批判を行ったことで不敬の罪を問われ免職となった折、翠軒により破門されたことで表面化することとなった。これにより両者は絶交となった。
 享和3(1803)年、高橋担室が『大日本史』の論賛を削除すべきである旨を上書し、藤田幽谷もこれに同調したことで、翠軒は致仕を命ぜられた。以後翠軒は、徳川家康の事績研究を命ぜられ、弟子の小宮山楓軒とともに『垂統大記』を編纂したが、文政6(1823)年3月4日、同著の完成を見ずに亡くなった。享年80。その3年後、文政9(1826)年3月、幽谷も53歳で没している。
 この子弟間の争い以後、藤田派が改革派(尊攘派)、立原派が保守派(佐幕派)となる。両派は事あるごとに対立した。水戸学の基礎を築いた理論家の幽谷の子である東湖は、文政12(1829)年の水戸藩主継嗣問題に際しては、徳川斉昭擁立派に加わり、同年の斉昭襲封後は常に斉昭の側近としてその藩政改革を助けた。斉昭は、長兄で第8代藩主・徳川斉脩(なりのぶ)の死後、藩内の実権を掌握していた門閥派が、第11代将軍・徳川家斉の第20子、清水家当主恒之丞・徳川斉彊(なるかつ)を養子に迎えようと画策したが、これを抑えて藩政改革派の下士層の支持を得て家督を継ぎ、第9代藩主となる。改革派に支えられた斉昭が藩主に就任することで、保守派は一掃された。

3)藤田東湖ら水戸の三田
 斉昭は、藩校・弘道館を設立し、門閥派を押さえて、下士層から広く人材を登用することに努めた。水戸の三田と称された藤田東湖戸田忠太夫武田耕雲斎や、会沢正志斎(あいざわ せいしさい)など、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の武士を登用し藩政改革を実施した。

 東湖は、文化3(1806)年3月16日、常陸国東茨城郡水戸(水戸市)城下の藤田家屋敷に生まれる。文政10(1827)年に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。その後、郡奉行、江戸通事といった重職を勤め、斉昭が幕府海防参与となると海岸防禦御用掛となる。そのため斉昭が幕府より処分を受け失脚すると、同様に処分を受け、斉昭が復権すると東湖も側用人として復権している。
 東湖はまた行政家としてだけでなく、他藩士との交流を通して尊皇攘夷思想を広め、東に水戸藩ありと印象づけた人物でもあった。しかし、安政2(1855)年10月2日夜四つ時(午後十時頃)に江戸を襲った『安政の大地震』は、震源地を亀戸から市川に及ぶ直下型で、マグニチュードは6.9相当の激しい地震であった。地震学者・関谷清景の推測では、死者は7,000人と推定している。地震に伴う火災は、38ヵ所からあがり江戸は跡形もない惨状となった。特に吉原では遊女の大多数が焼け死んでいる。遊女800人が、地下室に避難したが、そこにも火が入って蒸し焼きの状態になったという。同時に客人400人も焼死している。
 小石川の水戸藩邸にいた藤湖は激しい揺れに襲われ、別室の母を引きずるようにして助け、庭に転がり出た。ところが母は「火鉢の火を消さなくては」と、再び家に戻ってしった。藤湖が追うと、再び激しい揺れが起きて頭上に鴨居が落ちてきた。藤湖はそれを肩で受け止め、母を逃がした。しかし、そこにまた、激しい地震が起きてそのまま下敷きになり圧死してしまう。改革派の主導者とも言うべき東湖の死は、藩を取り巻く状況を激変させた。
 斉昭が水戸藩主となり、藤田東湖とともに斉昭を支えた戸田忠太夫も、世に水戸の両田といわれが、安政の大地震によって大怪我をして、小石川の水戸藩邸で卒去する。斉昭は、一瞬にして両翼を失った。

4)成破同盟
 天保11(1840)年3月、長州の村田清風は、水戸の藤田東湖を訪ね会見をした。その際、水戸藩兵の大練兵を視察した。彼は帰藩後水戸学を藩学に採用し、兵制も水戸にならい改革した。翌年1万4千人の将兵を動員し追鳥狩と称する操練を実施した。追鳥狩とは武士が軍装を整え、山野で鳥獣を狩りながら練武をすることで、附近の村民が勢子として役用された。
 村田清風は、これまで長州の特産物である蝋を藩の専売としていたが、これを廃止し商人による自由な取引を許した。次第に藩内の商いを自由化し活性化させ、その一方、商人には運上銀を課し藩の財政資金とした。次に下関に越荷方(こしにかた)を設置した。越荷とは他藩の廻船が運び込む物産のことで、長州藩が倉庫業と金融業を営む役所を下関に置き、藩内の物産の他藩への交易と他藩廻船貨物の倉庫業、それに伴う貨物相場に必要な資金などの貸付け業務を行なった。
 長州藩領内の下関海峡は、西国の諸藩にとっては商業と交通の要衝であった。清風はこれに着目し倉庫業と、その倉荷を質として高利で貸付ける、それらの諸施策で藩の収益を大幅に増収させ、幕末雄藩として活躍する資金源を生み出した。
 しかし村田清風の兵制改革は失敗であった。文久3(1863)年6月1日、南北戦争下のアメリカ北軍政府海軍の蒸気軍艦ワイオミング号が、下関港内に停泊する長州藩の軍艦庚申丸(こうしんまる)・壬戌丸(じんじゅつまる)・癸亥丸(きがいまる)を相次いで撃破し甚大な被害を与えた。その4日後の5日、フランス軍艦2隻が砲撃を開始し、前田、壇ノ浦の砲台を沈黙させ、上陸戦隊を降ろして砲台を占拠・破壊した。近隣の村落も焼き払われた。そのまま無人状態になった下関一帯を、我が物に物色し闊歩して引き揚げていった。長州藩が誇る藩兵は成す術もなく、居すくまっていた。今迄さかんに唱えていた尊王攘夷の実状がこれであった。武士達の無惨な形骸化が露呈された。
 薩摩と水戸藩有志の間にも、かつては攘夷同盟が結ばれていた時期があった。井伊大老の暗殺後、攘夷の義挙をおこなう盟約があった。
 薩摩藩の定宿寺田屋騒動で有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵らが討ち取られた。ここに至るまでの数次の政変によって、薩摩藩急進派は潰滅し、水戸との関係は絶えた。

 22歳の吉田松陰は嘉永4(1851)年に、肥後の宮部鼎蔵らと共に1か月の間、水戸に滞在し水戸学を考究した。さらに松陰の門弟高杉晋作も水戸学を学ぶため水戸藩笠間に滞在した。万延元(1860)年に至っては、長州藩の桂小五郎・松島剛蔵が水戸藩西丸帯刀・岩間金平と「成破同盟(せいはどうめい)」を結んでいる。それは水戸側有志が義挙をおこし、長州がその結末を収拾するという盟約であった。
 長州藩は池田屋事件、その後の禁門の変によって京都での勢力を失い、さらに英米仏蘭連合艦隊の攻撃をうけ潰滅的な打撃を受けた。それに乗じるように幕府が長州征伐の派兵をなした。水戸藩も藩内の抗争が熾烈となり、対外的に勢力を拡張できる状況ではなくなっていた。

5)幕末水戸藩の混乱
 安島帯刀は、幕末、西欧列強の日本侵略の危機に備えるため、幕府の海防参与に徳川斉昭が任じられると、実兄の戸田忠太夫、藤田東湖らと共に参与となる。嘉永6(1853)年、ペリー艦隊が浦賀に来航、その衝撃をうけた幕府は、水戸藩に命じて、三本マストの建造を開始させた。水戸藩主徳川斉昭は、安島帯刀に主導させ、この洋式帆船の造営に全力を投入した。木材の収集、鋼鉄、鍛冶、網具その他の製作が一度に生じ、ねじ釘などは製造する機械すらなく、一本一本やすりでこすって作ったと言われている。こうしてつくられた帆船旭日丸は長さ38m、幅10m弱の大きさであったが、舵が重くてあやつりにくく、世間では厄介丸と呼ばれた。

 安島帯刀は、安政5(1858)年7月、斉昭の命により水戸藩家老に任ぜられる。水戸藩では執政と記されることも多い。帯刀は、13代将軍徳川家定の継嗣問題では一橋派として暗躍し、井伊直弼らに警戒されていた。そこに、黒船来航以降、外国からの脅威に危機感を抱いた頑迷な孝明天皇が、尊皇攘夷の実行を幕府に促すよう説得すべしという「密勅」を水戸藩に下すという前代未聞の事件が発生した。
 日米修好通商条約許さずの天意を無視する形で条約調印に踏み切った幕府に激怒した孝明天皇は、幕政における復権を画策していた水戸藩の朝廷工作に乗り、安政5年(1858)8月8日、同藩に対して直接勅書を下賜させるという異例の行動に出た。
 大老井伊直弼ら幕府主流派は、その密勅が倒幕を画策するものであると見て、水戸藩に対して勅書の幕府への引渡しを命じる一方で、将軍家定の後継者問題を巡る対立で水戸藩が中心となっていた、いわゆる一橋派に加担していた人物への弾圧を強めていった。
 「密勅」とは正式な手続、関白九条尚忠の裁可を経ず下賜されたことによる。朝廷が、幕府を介さず一大名家へ直々に命令が下すという幕府をないがしろにする事件であった。一連の事件を戊午の密勅(ぼごのみっちょく)という。帯刀はこの勅諚の降下に関与した。密勅は万里小路正房より水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門に下り、吉左衛門の子 鵜飼幸吉の手によって水戸藩家老安島帯刀を介して水戸藩主徳川慶篤に伝えられた。鵜飼吉左衛門からの安島帯刀宛の手紙には、井伊暗殺の秘事が記されていたとされ、幕吏にその書状がわたったことで、安政の大獄は厳しい処分となった。安島帯刀が、幕府の大老井伊直弼暗殺計画に関与したとして、幕府評定所より出頭命令が下され、幕府に捕らわれた。幕府は尊皇派への弾圧を断行し、捕縛した諸士を切腹させた。これが安政の大獄の内情であった。

 幕府からの勅書返納命令に対し、水戸藩内は旧保守派を中心として返納を唱える鎮派と、旧改革派を中心とした返納に反対する激派に分かれて対立する。翌年に朝廷から出された返納の勅により、ようやく朝廷へ直接返納することで藩論が統一される。
 藩論が返納となったことで激派への弾圧はいっそう厳しいものとなった。また、激派の中には返納派が密かに幕府へ勅書を渡してしまうのではないかと疑い、脱藩して実力行使にて幕府返納を阻止しようと考える者もいた。
 高橋多一郎ら脱藩した水戸浪士達は長岡(現・茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、同志・農民など数百人がこれに賛同して合流した。高橋多一郎は、桜田門外の変の首謀者の一人で、藤田東湖に学び尊王攘夷論に傾倒するようになった。改革派屈指の秀才と言われ、天保12(1841)年)、藩主の側近として奥右筆に任命される。
 天保15(1844)年5月に斉昭が幕府から隠退・謹慎処分を受けると、高橋は江戸へ上り幕府に対し斉昭の免罪を運動したが、門閥派によって嘉永元(1848)年7月、蟄居に処せられる。翌嘉永2年3月に斉昭が許されると高橋も復職する。安政2(1855)年、北郡奉行となり、農兵の組織や郷校の建設に携わり、12月に奥右筆頭取に進み、改革派の中心人物となる。
 安政5年、将軍継嗣問題・日米修好通商条約問題で大老・井伊直弼と対立した斉昭が蟄居を命じられると、水戸藩の改革派は朝廷工作を行い、8月に戊午の密勅(ぼごのみっちょく)が下され、高橋は密勅の写しを江戸から水戸に届ける。高橋は金子孫二郎らと共に密勅に基づく国政改革を志し、安政の大獄で水戸藩への弾圧を強める井伊大老を倒すため諸藩との連携を画策し、住谷寅之介関鉄之介らを土佐藩や長州藩などへ派遣する。
 その後安政6年にかけて日本国内には安政の大獄が吹き荒れ、井伊直弼に反対する勢力は次々に逮捕され断罪されていった。この中には先に逮捕された安島帯刀(あじまたてわき)ら水戸藩の改革派の者も多くいた。
 安政6(1859)年、斉昭が幕府から永蟄居処分を受け、水戸藩に対し密勅の返還が命じられると、高橋は強硬に不返論を主張して会沢正志斎らと対立し蟄居させられる。この頃から密かに金子孫二郎や薩摩藩士有村雄助(有村次左衛門の兄)らと共に井伊大老暗殺を計画し、水戸藩改革派の関鉄之介らと共に実行組織を作った。同時に高橋は密勅が江戸へ運ばれるのを防ぐため急進派藩士らを指揮して水戸街道の長岡宿(現・茨城県東茨城郡茨城町)に屯集させた。彼等は「大日本至大至忠楠公招魂表」と書かれた札を立てて長岡宿での検問を実施、江戸への勅書搬出を阻止しようとしたのである。
 後に「長岡屯集」と呼ばれるこの行動は、鎮派を牽制する程度の効果はあったものの、水戸に残る激派の立場を更に危うくすることになった。これを危険視した幕府は、水戸藩に屯集者の解散を命じ、謹慎中の前藩主斉昭も「返納の阻止は天意に反する」と説得した為、捕縛される事を察した高橋ら主だったメンバーは、江戸に脱出せざるを得なくなり解散した。

6)桜田門外の変
 翌万延元(1860)年3月3日、争闘はわずか15分余り、桜田門外で井伊大老は暗殺された。暗殺者18人のうち17人が関鉄之介ら水戸脱藩浪人であった。他藩の1名は、薩摩藩士有村次左衛門(じざえもん)であった。白昼、それも主要な桜田門外で大老が暗殺される過程で、それを江戸城の番士達が何の反応もしなかった。幕府自前の体制は、この暴挙に居すくみ一切機能しなかった。事変後、いかに脱藩浪人とはいえ、暗殺者の殆どが水戸であったことから、幕府による水戸藩過激派の取り締まりは益々強くなった。

 江戸城桜田門外で井伊大老暗殺に成功したが、井伊大老暗殺計画では、江戸での井伊暗殺と同時に薩摩藩兵が上京し、大阪から京都に上り朝廷を守護する事になっていた。高橋多一郎はこの薩摩藩士と合流するため息子・荘左衛門らと共に大坂へ向っていた。薩摩藩は動かず京坂での挙兵計画は頓挫する。大坂に潜伏した高橋は井伊暗殺成功を知り、薩摩藩兵の上京を待っていたが、潜伏地を幕吏に探知され、四天王寺境内の寺役人小川欣司兵衛宅にて息子・荘左衛門と共に自刃した。享年47であった。
 さらに同年8月15日、斉昭が蟄居処分のまま水戸で病没、重石を失って藩内の混乱に拍車がかかった。過激派は、半月後の8月27日、後に“天狗党三総裁”の一人となる竹内百太郎ら激派水戸浪士37人が、「天下浪士」と称して江戸の芝薩摩藩邸に駆け込み攘夷の先鋒ならんとする意見書を提出した。薩摩藩邸は彼らを拘留し、翌年7月、水戸藩邸に引渡した。
 翌万延元(1860)年11月、「長岡屯集」の残党のうち、横浜における外国人襲撃を計画する大津彦五郎ら激派が玉造・小川・潮来に屯集した。彼らを玉造勢と呼んだ。水戸藩では激派の信望厚い尊攘改革派武田耕雲斎ら3家老を藩政に復し、説諭に当たらせた。翌年2月、大津らが自訴して玉造勢は解散した。

 文久元(1861)年5月、江戸・東禅寺の英国仮公使館を襲撃し、館員・警備兵を殺傷した。
 水戸藩浪士有賀半弥岡見留次郎前木新八郎ら14人は、公使らの東海道旅行を神州の地を汚すものと憤慨し、公使以下を誅殺しようと品川の妓楼虎屋に集合して謀議し、28日夜半東禅寺を襲撃した。当時警備の幕兵及び郡山・西尾の両藩兵約200名は東禅寺境外に屯在していたため即応できず、オリファント、モリゾンが負傷したが、警備兵の奮闘により浪士のうち3人を倒し、1人を捕らえ、3人に重傷を与え、警備兵側にも死者3人、負傷者10数人をだした。
 オールコックは警備兵の奮闘と幕府の犯人逮捕にある程度満足し、本国政府の訓令に基づき翌文久2年(1862)3月16日、負傷者両人に賠償金1万ドルを交付すること、日本政府の経費で適当な地所に各国公使館を建設することを折衝、幕府がこれを受諾して事件は解決した。この結果、品川の御殿山に各国公使館が建設されることになった。

 文久元年6月、尊攘改革派・激派寄りの家老の武田らは謹慎処分を受けた。代って藩政は興津蔵人ら門閥・鎮派が藩政を掌握した。
 翌文久2(1862)年1月15日、江戸城坂下門外で、老中安藤信正が水戸浪士ら6人に襲われた。水長盟約に基づくものであった。安藤は2年前の直弼の轍は踏まなかった。駕籠のまわりには警護の武士が50名ほどで囲み奇襲攻撃に備えていた。安藤は背中に軽い傷を負っただけで、襲撃者たちは全員その場で斬り殺された。しかし、安藤は背中に傷を負ったという事で、4月11日、老中を辞職する。8月16日には家督を譲り、11月20日には2万石の減封、永蟄居を命じられた。この後、尊王攘夷運動がさかんになった。
 幕府は、直臣の旗本御家人衆が、自家の江戸城門前の狼藉に再度対処せず、老中暗殺に対して無気力に看過したばかりでなく、自力奮戦した安藤家を減封にした。

 文久2(1862)年夏、島津久光の政略によって一橋慶喜松平春嶽の2人が幕政に復帰すると、春嶽によって「将軍家茂は上洛して帝にこれまでの失政を陳謝すべき」との進言が通り、また2度に渡る勅使下向によって、幕府の勅命実行が確約させられた。即ち条約破棄と攘夷は、もはや避けられないものとなっていた。
 万延元(1860)年8月、水戸藩主斉昭が薨じた。佐幕派の市川三左エ門らの策が功を奏し勤皇派は退かれた。文久4(1864)年は2月20日に元治元年と年号が変わった。幕末動乱が本格化した年である。7月19日、禁門の変が起こり、同月24日には第一次長州戦争が始まった年でもあった。
 既に信州の望月本陣(佐久市旧望月町)には、2月7日付けで「近頃水戸浪士様浪人などと唱え、村々身元人へ攘夷論を名として金銀無心申し入れの類いこれある趣、容赦無く召し捕るべき旨達書これ有り候。」と、お触れが出ている。

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