千曲川の川西地区・小県郡上田原、前方の山地を越えれば塩田平

真田昌幸の生涯  Top
 目次
 1)武藤喜兵衛昌幸、真田氏相続
 2)真田幸隆、吾妻郡岩櫃城を攻略
 3)御館の乱
 4)真田昌幸、北関東を侵攻する
 5)武田氏滅亡当時の真田昌幸
 6)織田信長横死後の信濃
 7)真田昌幸、小県郡を統一
 8)上田城築造
 9)真田昌幸、徳川家康に靡かず
 10)天正の上田合戦(神川合戦)
 11)北条軍の沼田攻め
 12)昌幸、家康に出仕
 13)北条氏秀吉に帰属、昌幸沼田を失う
 14)小田原北条氏滅亡
 15)「天下殿」大老家康
 16)真田氏分裂
 17)慶長の上田合戦
 18)関ヶ原の合戦以後
 19)真田昌幸の晩年
 20)徳川家康、上田城を廃す!

1)武藤喜兵衛昌幸、真田氏相続
 
 妻女山から眺める川中島を眺める

 真田昌幸は、武田信玄の重臣幸隆の3男として、幸隆が信玄に仕えた頃の天文16(1547)年に生まれた。母は河原隆正の妹で、信綱・昌輝・昌幸・信尹(のぶただ)らを産み育てた。河原氏は小県海野氏の代官衆に属する家系であったとされる。隆正には長男河原宮内助(くらのすけ)正良、次男は名前が不明、3男河原右京亮綱家がいた。2人の兄が長篠の合戦で討ち死にしたため綱家が家督を継ぎ、同じ立場の真田昌幸の家老となった。 河原綱家の名は真田信綱の偏諱が与えられたものだという。
  天文22(1553)年、昌幸は甲府へ人質として送られると、信玄の奥近習衆として重用され、信玄の要請により信玄の母方大井氏の支族武藤三郎左衛門常昭の養嗣子となり武藤喜兵衛尉昌幸を名乗った。「信玄の奥近衆6人の1なり識量超人、武藤与二夭札(ようさつ;夭折)して無嗣、武藤は信玄の母方なり、昌幸をして其家を続き、因って武藤喜兵衛尉を称す『甲斐国志』」。
 『甲斐国志』は甲府勤番支配に任じられた松平定能(さだまさ)が、企画編集した甲斐国4郡の地誌で、文化11(1814)年に完成し幕府に献上された。
  昌幸は成人してからも信玄の旗本にあって、使番・検使役として吾妻・三増などの戦いの中に、その名が見られる。信玄没後も、真田安房守昌幸の名で、遠江の奥山大膳亮吉兼に勝頼の側近としてその命を伝えるなどしている。
 天正3(1575)年5月21日、幸隆の長男真田信綱と、次男真田昌輝はこの年の長篠の戦で戦死した。残った3男の真田昌幸が29才で真田氏の家督を継いだ。同年10月、河原隆正に故信綱が宛行った小県郡真田の町屋敷と年貢を安堵し、11月にも同様の四阿山別当職を蓮華童子院院主頼甚に安堵している。昌幸は本領真田の経営を怠りなく成し遂げ、その一方、勝頼の側近として使番などに励んでいたが、父・兄が心血を注いで獲得した吾妻の勢力拡大と上野国攻略の計策も大きな課題として残されていた。特に「御館の乱(おたてのらん)」に際し、勝頼が上杉景勝に寝返り北条との関係を悪化させると、遂に甲相同盟の破綻となり上野国内での攻防が激しさを増すようになった。

2)真田幸隆、吾妻郡岩櫃城を攻略
 天正4(1576)年1月、勝頼は吾妻郡の拠点岩櫃城城代に海野長門守幸光・能登守輝幸兄弟を任命した。この時の『武田勝頼朱印状案』に条件が一つ付記されている。「湯本・鎌原・横谷・西窪・植栗・池田は格別に候間、旗下に為す可から不」と敢えて吾妻の有力諸侍を、その支配下から外している。「その他の郡中諸侍は支配下とすることを許すが大事にするよう」と特に命じている。その除外された6氏族は、いずれも小県滋野氏3族の末裔であった。
 沼田藩5代藩主真田信直の家臣加沢平次左衛門が記述した『加沢記』は、先の永禄9(1566)年、真田幸隆・信綱の代に、その父子の上申により、信玄は吾妻郡代に海野幸光・輝幸兄弟を任じ、その際、敢えて「御預衆」として湯本・鎌原・横谷・西窪・植栗・浦野らの諸侍を委ねている、と記している。前年10月信玄の嫡男義信が自害させられると、11月、その室氏真の妹(嶺松院)が今川家に戻された。甲駿間の姻戚関係が解消され、武田は孤立した。吾妻郡をあずかる幸隆を初め西上野に滞陣する武田方の諸将は、北の上杉、南の北条と南北の強敵と対峙する事態となった。それで幸隆・信綱父子を吾妻郡だけに止めておけなくなり、それを補充するための吾妻郡代の任用であった。
 天正4(1576)年の岩櫃城の城代に海野幸光・輝幸兄弟を任命したのも、昌幸が勝頼側近として甲府にいながら、上野での対上杉・北条の最前線を指揮し易くする措置であった。それは信玄・勝頼父子が、幸隆・昌幸の意向に添うように吾妻の有力諸侍を新参の真田家直轄の家臣団として育てようとした意図があったとみられる。だが、幸隆・昌幸父子の海野幸光・輝幸兄弟の重用は異常な程であった。
 海野幸光・輝幸兄弟は羽根尾(吾妻郡長野原町羽根尾)を本拠とし、その名字の地とした滋野氏の末裔羽尾幸全(ゆきてる)の庶子であった。海野氏の総領海野棟綱が失意のうちに没すると、その名跡を継承したといわれている。始めは上杉氏靡下の岩櫃城城主斎藤憲広に属した。真田幸隆は永禄5(1562)年に斉藤氏のものであった長野原城(吾妻郡長野原町)を奪い、城代に幸隆の弟常田隆永を入れ、岩櫃城の斉藤憲広を牽制させた。翌永禄6年、憲広は農繁期のため諸侍が地元に戻り手薄となった長野原城を襲った。常田隆永は、反撃に打って出て須川西岸のまで出て斉藤方を追撃したが、混戦の最中討死した。長野原城は憲広に奪回された。
 これより前、海野氏一族・鎌原城主鎌原宮内少輔(くないのしょう)幸重は、羽尾氏との領土争いがこじれていた。斎藤氏はこれに介入して羽尾氏を支援し、鎌原氏の勢いを削ごうとした。鎌原氏は対抗措置として、真田幸隆を介して武田信玄に出仕した。信玄は上野侵攻の好機と見て、永禄4(1561)年、幸隆を上州先方衆として派遣、岩櫃城を攻撃させた。永禄6年5月、信玄は鎌原幸重に兵粮を鳥居峠から送らせて、鎌原と長野原城の守りを固めさせた。同年9月、幸隆は2度にわたり力攻めを行ない、兵を2手分け雁ヶ沢と大戸口から攻めた。だが岩櫃城は天嶮要害の地にあり、既に上杉政虎に属していた上沼田城・白井城らの援軍の奮戦で攻撃が頓挫し、和議を申し入れた。だがその間も、岩櫃城内の切り崩し工作を行っていた。斎藤憲広の甥斎藤弥三郎則実、海野一族海野幸光・輝幸兄弟が内応をした。永禄6(1563)年10月14日、5百の手勢で奇襲、内応者が岩櫃城内に火を放ち落城した。斎藤憲広と嫡子憲宗は、残兵を伴い越後上杉を頼り逃れた。
 岩櫃城攻略における諸将の戦功に対し信玄は12月に感状を出した。『加澤記』によれば、吾妻の守護に真田幸隆、岩櫃の城代に三枝土佐守・鎌原宮内少輔幸重・湯本善太夫が任じられた。内応した斉藤弥三郎を初め植栗主計・浦野中務太輔・富沢但馬・神保・唐沢杢之助・佐藤・有川・塩谷・川合・一場・蜂須賀・伊与久・割田・加茂・直・鹿野・荒牧・二ノ宮・桑原など吾妻の地侍は本領を安堵され、真田家御預けとなった。これにより斉藤憲広の手の者が、大挙して幸隆の配下に組み入れられたことになった。これまで幸隆が直接指揮できる配下は、真田を中心とする小県のごく限られた地侍で、その数も少なかった。この信玄の措置によって、飛躍的に軍容が整った。これらの属将の中から、後世の真田家を創り上げた家臣が輩出した。以後、真田家家臣団の中核を担ったのが、岩下郷(群馬県吾妻町)に差し置かれた彼ら地侍であった。
 永禄8年には、斎藤憲広の子虎丸らが岳山城(群馬県中之条町・嶽山城、嵩山城とも書く)に籠ると、真田幸隆の指揮下、海野幸光はこれを攻め、その際戦功を立て幸隆に見出され次第に頭角を現していく。

3)御館の乱
 天正6年(1578)3月、関東管領上杉謙信が春日山城内で病没した。脳卒中といわれている。享年48。法名は不識院殿真光謙信、高野山清浄心院に葬る。終生妻を娶らず実子がいなかった。死の直後から2人の養子、春日山城本丸を確保し、金蔵、兵器蔵を接収した景勝と、三の丸から退去して府内御館(おたて)に拠った景虎の間で越後を二分した抗争が3年に亘り続いた。これを御館の乱という。景勝は謙信の姉と越後上田衆を率いる長尾政景との子であり、景虎は北条氏康の子であった。
 天正7(1579)年2月1日、雪で北条からの援軍がままならないとみて、景勝は属将らに御館に籠る景虎に対する総攻撃を命じた。3月17日には、景虎の劣勢が明らかになり謙信の養父である上杉憲政が御館から脱出し、和議を求めて景虎の長子道満丸を連れて景勝の陣に向かうが、途中景勝方に包囲され、道満丸もろとも殺害された。御館は放火され落城し、景虎は御館を脱出して、鮫ヶ尾城に寄ったところを、景勝方に内通していた城主堀江宗親が二の丸に火を放ってから城を退去した。景虎は進退窮まり7月24日に妻共々自刃した。景虎の妻は景勝の姉か妹であった。
 この乱の終結により、かつての豪族連合的な謙信の支配体制が一変し、争乱に勝利した景勝の下で、その実家上田長尾家の勢力と新参の北信衆を中心とした独裁政権が実現した。だが御館の乱は、深刻な負の遺産をもたらした。血で血を洗う内乱のため、上杉氏の軍事力の衰えは著しく、織田信長軍の国境からの軍事侵攻により存亡の危機に陥った。また戦後の恩賞の配分が、出身母体であり権力基盤である上田衆に偏ったため、景勝方に属した新発田重家ら国人衆はこれに猛反発した。安田顕元は重家と景勝との仲裁に乗り出したが不調となり、顕元は面目を逸し自害して果てた。さらに不満を強める新発田重家が蘆名盛隆伊達輝宗に通じて自立する。その反乱鎮圧に、実に7年もの歳月を要した。

 先の天正6(1580)年、上杉家の家督争い「御館の乱(おたてのらん」で劣勢となった上杉景勝は、急遽、勝頼の援軍を要請し見返りに西上野の割譲を約束した。西上野は、既に上杉家の擾乱に乗じて北条氏が侵入していた。折しも氏政・氏照ら北条軍主力は、鬼怒川河畔において佐竹・宇都宮連合軍と交戦中であり、早急に越後へ救援軍を派兵できる状況では無かった。当面の策として同盟国の武田に景虎への助勢を要請した。勝頼も北条氏政の求めにより景虎を支援するために、小諸に在城していた武田信豊(信繁の嫡子)を信越国境に派兵させていた。5月29日頃には国境付近に到着していた。景虎は奥羽の蘆名盛氏・伊達輝宗らにも援軍を要請していた。これに応えて蘆名勢は越後国蒲原郡(新潟県阿賀野市)の安田城を攻略した。
 進退極まる景勝は勝頼に一万両を贈り、西上野の上杉領の割譲を条件に和睦を要請した。武田信豊・高坂弾正の斡旋もありこれを受諾した。勝頼は景勝と連絡を取り、海津城から長沼城を経て越後に入り、景勝・景虎の和解の調停を企図したが、徒労に終わり9月には帰府している。勝頼の越後出兵は第二次甲相同盟の破綻を意味していた。元亀2(1571)年、病床にあった氏康が、「相越同盟を見限り、再び武田と同盟を結ぶように」という遺言を残し、10月3日、享年53で病没した。氏政が当主となると、武田との和睦を志向する。同年12月27日、甲相同盟は復活したが、ここにきて再び破綻した。
 天正7(1579)年7月、景虎が自刃し景勝の上杉相続となった。これにより、武田家中では景勝との和睦を支持する声が強まり、勝頼は景勝に起請文を送り、甲越同盟を結んだ。景勝に自分の妹の菊姫を娶わせた。氏政はこれを勝頼の背信として甲相同盟を破棄し、天正7年に徳川氏と、翌8年に織田氏と同盟する。
 御館の乱により、上杉氏の国力が著しく損耗した中で、武田氏は孤立し、北関東では北条氏を圧倒したが、駿河沖での海戦では大型安宅船をもつ北条水軍に敗北、さらに度重なる伊豆・東海道方面の出兵では北条・徳川両軍の共同作戦によって勝頼は東西に振られることとなった。武田家中は度重なる遠征で窮迫し、駿河を統治する穴山信君も負担が重なり不満を増大させた。武田家が弱体化する大きな要因の1つとなった。

4)真田昌幸、北関東を侵攻する
 御館の乱で上杉氏が内紛状態に陥る間、北条氏政沼田城(沼田市西倉内町)に鉢形城主北条氏邦ら3万を派兵し、上杉氏の属城沼田城を奪回した。城代に猪俣能登守邦憲、城番に上杉氏の降将藤田能登守信吉・金子美濃守泰清らを置いた。利根郡の大部分を制圧した。
 勝頼は真田昌幸に沼田城攻略を命じた。沼田城は上杉にとって越後から三国峠を越え関東に出る要衝であった。吾妻からは中之状の峠を下り利根川に出れば沼田城であった。まさに上野経営の要地で信玄以来食指を伸ばしていた。天正7(1579)年9月、勝頼も自らの出馬を決めていたが、駿河の情勢が急迫し昌幸に一任していた。昌幸靡下の海野幸光が、同年、内出城、津久田城、見立城を攻め落とす一方、昌幸は沼田城番藤田信吉、金子泰清らと勧降交渉を行った。
 天正7(1579)年、甲越同盟の締結で、昌幸は上野国計略に際し、上杉に対する備えを解き、北条のみに対処すればよくなった。同年、岩櫃城を進発すると、沼田攻略のための要衝名胡桃城(群馬県利根郡月夜野町下津城平)の鈴木主水重利や、沼田城の西の備え小川城(利根郡みなかみ町)の小川可遊斎などが招降に応じ開城した。この事態に北条方は、11月21日に沼田城城代邦憲猪俣・同城番藤田信吉を先鋒に5千の軍勢を名胡桃城と小川城の奪回に出兵させたが、大雪のため一旦鉢形城に撤退した。
 翌天正8(1580)年正月11日、昌幸は名胡桃城で軍議を行い、31日に利根川を越える渡河地「後閑」の抑え明徳寺城(利根郡みなかみ町後閑)を陥落させ、同じ利根川東岸にある沼田周辺を放火して名胡桃城に引き上げた。この頃には、利根川西岸域は武田方にほぼ制圧された。昌幸は沼田城攻略を叔父の小県郡矢沢城主矢沢頼綱に任せ甲府に戻った。3月その矢沢頼綱から沼田城攻めで大利を得たと、勝頼の側近として従う昌幸に書状が届けられた。昌幸からその報告を受けた勝頼は、その戦功を賞する書状を綱頼に送り、沼田に援軍を増派し、3日以内に昌幸を戻すから備えを一層固めよと命じている。3月17日、昌幸は海野幸光を吾妻郡代に任じた。その後も昌幸は沼田の城将金子泰清に執拗な招降を行い、4月には金子泰清と渡辺左近充らが投降した。5月18日には藤田信吉も降伏し、矢沢頼綱が沼田に攻め入ると無血開城した。
 5月23日、昌幸は沼田城将に矢沢頼綱をあて、藤田信吉、渡辺左近充、海野幸光・輝幸兄弟らを城番として入れた。12月にも藤田信吉に追加恩賞がなされ、武田料所となった以外の「千貫文并びに利根南雲利根川東、沼田悉く出し置き候『長国寺殿御事蹟考』」と過大な所領が宛行われた。
 翌天正9(1581)年早々、勝頼は甲斐韮崎の地、釜無川を望む断崖上に新府城を築く。そのため領国中より10軒に1人の割合で人夫を出し、その食糧は軍役が負担する旨の命を下した。昌幸も普請奉行の一人として甲府にいた。
 同年2月、沼田の旧領主沼田顕泰の庶子平八郎景義が、北条氏と金山城主(現群馬県太田市金山町)由良国繁らの援兵を得て、沼田氏恩願の地侍を率いて沼田城奪還のため進撃してきた。3月11日、藤田信吉と矢沢頼綱の沼田城守備軍は、景義と田北の原で闘い敗れて沼田城に引き上げていた。当時新府城の普請奉行を勤めて多忙であったが、昌幸は急遽岩櫃城に入り、沼田景義の伯父にあたる金子泰清を呼び「景義を謀殺すれば川西領の千貫を与える」との証文を与えた。金子泰清は偽の起請文をしたため、沼田城奪還策を進言すると欺いて、3月15日、景義を沼田城外町田の観音堂におびき出し刺殺した。昌幸は、当初の約束を履行せず、却って泰清を主殺しとして減俸にし失意のうちに病没させた。この時期の昌幸は多忙であった。上野・武蔵の北条勢力を制圧する一方、新府城の築城に采配をふるい、幾度も甲斐と上野を行き来している。
 沼田城奪回を試みる沼田景義を阻む合戦の後、兄海野幸光は岩櫃城代となり、その弟輝幸と藤田信吉の2人が沼田城代となった。だが沼田城における二頭制は長くは続かなかった。輝幸は元々独立不羈、悪く言えば傲岸不遜であり、信吉は海野一族とは抗えず、間も無く上杉家に仕えることになった。輝幸は沼田城代としてその地位を固めると、72歳になる輝幸の野心は止まらず、今度は、真田家家臣という陪臣の身分から、直接武田家直臣になろうとした。輝幸は、昌幸に書状を送り、吾妻郡を正式な海野領とし、沼田城代も昌幸からではなく、武田家から任じられたものとする、と伝える。武田家を巡る四囲の情勢が緊迫する最中それをわきまえず、ひたすら野望を遂げようとする海野輝幸はただ抹殺するしかなかった。
 天正9年(1581)11月、上野の鎌原・湯本らの腹心から、在府中の昌幸に、海野幸光・輝幸兄弟に北条に寝返る逆心の企てありと書状が届けられた。昌幸は早速叔父の矢沢頼綱にその旨を書き送った。頼綱は海野輝幸の子海野中務大輔幸貞を娘婿にしていた。頼綱の返書には「海野兄弟勇猛の兵也、南方(北条)に組せんは知り申さず、海野中務大輔は我等の聟也、其孫も3人有り不便には存じと雖も、惣領家をたおさん事、弓矢の妙慮如何なれば、不道不義の族は早く誅罰にしくは無し(加沢記)」とあった。
 沼田防衛として、昌幸は弟であり信玄より武田の名族加津野の姓を賜った隠岐守信昌(信尹)を総大将とし、田口・河原・出浦などを検使に付け吾妻の諸侍を率いさせ、沼田の海野輝幸へ瞬息に派兵し討伐させた。具足をつける間もなく、73才の高齢でありながら近侍する僅かな家臣と共に討伐軍へ突撃した。力尽きた輝幸は、真田の勇将木之内八右衛門を倒すとその死体の上にあぐらをかき、胸をついて自害したという。11月11日、岩櫃城の輝幸の兄海野幸光も、信昌の手勢に攻め込まれ自刃した。享年75。
 海野兄弟は勇猛果敢な強兵軍を率い、攻防の激しい西上野で縦横に活躍した。昌幸の強力な戦力であった。だが昌幸と拮抗するようになると、高齢と経歴を誇示し「奢り強き者」「高慢甚だしき者」『古今沼田記』となり、同じく真田幸隆の誘降により、今では昌幸の有力家臣団を構成する吾妻の湯本・鎌原・横谷・西窪・植栗・池田などの諸侍にとっては、未だに同格視すべき存在でありながら、その傲慢不遜振りは看過できなくなっていた。昌幸にしても、自営内に強固な家臣団組織を作り上げなければ一族の存続が不可能となる、緊迫した情勢下の粛清であった。その家臣団にしても、かつては敵対しながらも、属する雄族が危殆に瀕したため、真田方の誘降のまま臣従し、お陰で今日があり、それを知る家臣団で有ればこその結束で、果てる事の無い抗争に耐えられる兵団となり、戦国時代末期、特異な戦略と戦術を駆使するようになる。真田氏の見事さは、昌幸の子真田幸村(信繁)が、父子共に、その戦国時代の最終末期、武士の有り方を実演して見せた事にあった。

5)武田氏滅亡当時の真田昌幸
 天正10(1582)年、木曾義昌の寝返りで始まった織田・徳川の甲州攻めに、武田軍は余りにも脆かった。勝頼に叛く諸勢力が続出し、従兄に当たる武田家一族であり雄族ある穴山信君が家康に服属したとの報は、武田氏譜代の諸将を動揺させた。昌幸は、築城なかばの新府城では織田・徳川の大軍相手に戦えないとして、武田勝頼は要害堅固の岩櫃城(いわびつじょう;吾妻郡吾妻町平沢)において再起を図るよう進言した。 上野国箕輪城には内藤修理亮がおり、小諸には武田信豊がいる、岩櫃城には食糧も十分貯えられ、3千の兵程度であれば、3・4年は持ちこたえられる、ひとまず当城に籠るべきと具申した。勝頼初め諸将も賛同した。昌幸は、直ちに岩櫃城へ準備に向かった。
 岩櫃城に戻るが、この時、甲府の妻子を上州へ引取っている。岩櫃城の曲輪と仮御殿の造営を始めた。だが勝頼は急迫すると長坂長閑(ちょうかん)光堅(みつかた)・跡部大炊介勝資・都留郡の小山田信茂らによる、信茂の居城岩殿城(大月市賑岡町岩殿)へと逃れる提案に乗った。先々代の信虎の妹が輿入れして以来、小山田氏は御親類衆の中でも筆頭であり、岩殿城は当時から天嶮として知られていた。また岩殿城の大月から相模の道志川を抜ければ妻の実家北条領である。信茂の発言力でもあり、勝頼はその進言を受け入れ、岩殿城へと撤退する事に決めた。その途中の大月の入り口笹子峠で信茂らに裏切られ、3月11日、嫡子信勝、夫人北条氏(北条氏政の妹)らと共に天目山で自刃した。介錯した土屋昌恒・秋山親久も殉死した。侍女16人が田川の姫ヶ淵に身を投じた。こうして武田氏は滅亡した。勝頼享年37、信勝16。信茂は信長への服属を請うが、不忠者として成敗された。
 当時の昌幸は『古今沼田記』によれば「涙を流し給う、斯く有る可きとも御最後を知らず見果てぬこそ口惜けれ、吾御身近くありければ、いかでか(小山田)左衛門が謀計に落とし奉り畢(おわんぬ)」とある。だが勝頼が田野に自刃した翌日、天正10(1582)年3月12日付けの書状が、武蔵鉢形城主北条氏邦から昌幸に届けられた。「仍八崎長尾入道江両度之御状被見、紙上の趣簡要至極存候、今度甲府御仕合無是非候、(中略)然処八崎江御状共令被見候間、此度申入候、氏直江御忠信此時相極候」。これに「両度之御状被見」とあり、昌幸も武田滅亡を目前にして、父幸隆以来から敵対していた北条に臣従を願っていた事になる。

 信長は同月13日、飯田で勝頼の首実検をし、飯田川原に梟首した。
 信長自らも驚くほどの短期間で、信濃・甲斐・駿河を制圧した。3月17日に、飯田を発ち、大島・飯島から高遠を経て杖突峠を下り、19日、上諏訪の法華寺に本陣を置いた。すると、甲斐・信濃の国人衆は、引きも切らず参集した。翌20日、先着していた徳川家康と会見した。
 同月27日、「信濃国筑摩郡・安曇両郡之事、一色宛行候訖(おわんぬ)。全て領知に令す可し、次に木曽郷之儀、当知行に任せ聊かも相違有る可からず之状、件の如し。」と、木曽義昌が武田氏征伐の切っ掛けをつくり、更に出兵の先鋒となった功を賞した。2日後の29日に、法華寺で甲斐・信濃・上野・駿河の知行割が行われた際、徳川家康に駿河一国が宛行われ、再び義昌の本知の木曽郷と、かねてからの約束通り府中深志を含む筑摩・安曇両郡の新知が下され対外は、殆どが信長の家臣に与えられた。穴山氏本知分は除く甲斐と信濃国諏訪郡が河尻秀隆の新知宛行とし武田氏本拠の押さえとし、腹心滝川一益に厩橋(前橋)城を主城とさせ、上野と信濃の小県と佐久の2郡を与えた。川中島の海津城に在城を命じ、越後の上杉景勝攻略の先鋒として森長可に、信濃の高井・水内・更科・埴科の北信濃4郡を与え、次の布石としている。毛利秀頼には信濃国伊那郡を知行させた。そして帰属した国人衆の旧領を安堵し、各家臣団の新知行地に再編入した。

 昌幸は、4月3日、信長に黒葦毛の馬を贈り、誼を通じた。滝川一益の与力となり、上田の本領は安堵された。天正10(1582)年6月2日、武田を滅亡させた織田信長が本能寺の変で自刃、長男信忠も二条城で敗死すると、信濃・甲斐は周りの徳川・北条・上杉などの有力諸大名勢力による激しい争奪戦場となった。特に6月~9月に掛けてがすさまじい、信濃の諸侍にたいする安堵・宛行状が、信濃全域はもとより上野から甲斐に掛け重複乱発された。7月、上杉景勝は信濃の拠点内にいる北信地方の諸侍4人に、占有もしていない小県郡塩田の地を宛がっている。一方真田昌幸を臣従させて、小県郡を自領とみる北条氏直は、昌幸の家臣矢沢頼綱・大熊五郎左衛門らに上杉の支配地高井郡井上内に1千貫・7百貫とそれぞれ宛行う大盤振る舞いをしている。

6)織田信長横死後の信濃
 甲斐の甲府城代河尻鎮吉は一揆に殺されている。飯田では、小笠原信嶺が毛利秀頼を追放する。川中島では、坂城の葛尾城主村上義清の子村上国清が、上杉景勝の援助を得て、森長可を追い、海津城に入る。当時、村上国清は上杉謙信の養子となり、上杉家一門の山浦の姓を得て山浦景国を名乗っていた。
 信長の横死は、滝川及び北条の陣営に相前後して伝わった。当初、北条は滝川に対し友好的であって、至急の上洛を勧め、その応援をする姿勢を示した。しかし、信長と信忠の死が確実と知れると、これに乗じ上野侵攻を企てた。武田攻めによる被害が殆ど無い北条軍は、即時動員を行い、直ちに北条氏直・北条氏邦勢5万6千が上野に侵入した。上野を治めてまだ3ヶ月しか経っておらず、軍の統制が十分に整っていない一益は「弔い合戦のため」と称し、2万弱の兵を率い北条と対決する。一益は本能寺の変の事情を、配下の関東諸将に正直に打ち明け、かえって信頼を得て、その2万弱の兵を率い金窪(埼玉県児玉郡上里町周辺)で北条勢を迎えた。6月16日の一次合戦では、勝利を収め、北条勢を武蔵国境まで追い落とし、上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県)の境を流れる神流川(かんながわ)の戦いの6月18日の緒戦では、一益勢が寡兵ながらも氏邦率いる「黒備えの軍団」・鉢形衆300あまりや、氏直の近侍衆を討ち取るなど、北条の先遣部隊を追い落とした。翌19日の戦いでも、緒戦では一益勢が優位となり、北条勢を深追いし軍勢が著しく伸びきった。退くと見せて反転攻勢に出た北条勢に取り囲まれた。関東諸侯の連合軍であったため、敗色が濃厚となると脆く、一益勢は総崩れとなり、4,000人近くも討ち取られる惨敗を喫した。一益は一旦厩橋城に遁走するも支えきれず、やがて碓氷峠から小諸を経て本拠地の伊勢長島城に逃げ帰えった。その際、配下であった関東諸将の人質を、無条件で解放し、高潔な一益の名を一層高めた。
 7月24日、駿河にいた家康は、酒井・大久保の軍に加え、伊那の下条と知久氏の与力軍合わせて3千の軍に決戦を命じ、諏訪郡茶臼山の高島城を攻めるが、諏訪軍は、逆に夜討ちをかけるなどして、よくこれに堪えた。
 これより前、北条氏直は、6月中旬、真田昌幸が名胡桃城で抵抗するため、佐久郡に侵出していた。諏訪氏を救援のため、真田昌幸に本領を安堵する条件で和睦し、北条氏直その兵、4万3千を率い、役行者越(えんのぎょうじゃごえ;雨境峠;北佐久郡立科町八ヶ野;長門牧場の東北部)を経て、梶が原(茅野市柏原)に駆けつけ着陣した。29日徳川勢は、高島城の囲みを解き乙事(富士見町)に引き上げた。以後8月6日まで対陣していたが、北条軍が多勢のため新府城へ退却した。北条軍はこれを追い、上の棒道を通って若御子(北巨摩郡須玉町)にまで進出した。
 この天正10年9月、昌幸は、弟加津野信昌、佐久の依田信蕃らを介して徳川家康に臣従した。その28日、家康が加津野信昌に宛てた書状で「此節房州(真田昌幸)被対当方へ被遂一味可有御忠信旨使札候、万事其方御取成故(ゆえ)如此落着候、真以祝着此事候、弥以来之儀無に御入魂可為本望候、将亦氏直於手切之働之儀依田(信蕃)曽根(昌世)各被相談可然様任入候『徳川家康書状案』」と賞している。
 佐久郡芦田に在した依田信蕃が武田氏滅亡に際し、天正10年2月、武田一門の駿河江尻城主穴山信君が徳川方に寝返り、田中城(藤枝市田中)も完全に孤立、田中城主依田信蕃は徳川氏の勧降に従い同年3月に開城した。信長死後、本領佐久郡芦田に帰還し、信濃・甲斐の武田氏旧臣の調略に大きな功績を挙げた。信蕃は家康の命を受け、2度に亘り昌幸のもとへ勧説の使者を送った。3度目に昌幸自ら芦田に赴き信蕃と折衝し、家康と昌幸が起請文を交わし臣従が決まった。
 いずれにしろ家康側からの昌幸に対する説得工作は多面的且つ執拗に行われたようだ。弟加津野信昌しても武田滅亡後は小田原北条に属し、転じて家康に属した。依田信蕃も着実に信濃の諸侍の誘降に成果を上げていた。徳川・上杉・北条3氏が激しく拮抗する小県の雄族であり、沼田・吾妻両郡をも領有する真田氏を服属させれば、徳川家新参の両者の地位を安泰にさせる大きな勲功となる。依田信蕃は信昌宛の同年10月10日付の書状で「貴殿以前才覚甲州(甲府に在陣中の家康)へ房州(昌幸)御一味に候、御忠節之段不浅候、何篇にも御身上追而御立身候」と称している。
 同年9月28日、家康は早速昌幸に、上野長野一跡(箕輪)・甲斐に於いて2千貫・諏訪郡を新知し、現有する小県郡と上野の沼田・吾妻2郡を安堵する花押状を与えている。大盤振る舞いであるが、当時の箕輪は北条領であり、諏訪郡は先の7月26日、依田信蕃に宛行われている。しかもこの時期、北条方に属し徳川軍に熾烈な戦いを挑んでいた諏訪頼忠が領有していた。
 家康は甲府から新府へ援軍を伴い、氏直と対峙する。両軍は小競り合い繰り返しながら、80日近く経って、10月29日に漸く講和が成立した。それは昌幸が、徳川と結び、北条軍の諏訪進出の隙を突いて、碓氷峠を越えて上州に進攻し、9月には北条方の沼田城を攻略し奪取に成功し、北条軍の糧道を断ったからであった。ついに、北条氏直は形勢の不利を悟り、上州沼田をとり戻し、上野を手中にする一方、甲斐の都留郡、信濃の佐久郡を家康に譲り、真田昌幸には代替地を与えることで和睦した。そして、家康の次女督姫を氏直に嫁がせた。以後、甲斐と信濃の大部分は、家康が領有する。
 そのため家康は真田昌幸に対して、「替地を用意するから、沼田を北条氏に渡せ」と要求した。しかし昌幸は断った。北条氏との約束もあり、「替地を用意する」とまでいっているのに、面子をつぶされた家康の憤りは納まらない。

7)真田昌幸、小県郡を統一
 天正10(1582)年、真田昌幸の配下に対する安堵・宛行いも早かった。3月11日、勝頼が自刃し武田氏が滅んだ。6月12日、恩田伊賀守に小県郡上条内に30貫文と上野国沼田向発地(ほっち)に於いて15貫文地を宛行ったのが皮切りに、同月の14日に、湯本三郎左衛門に旧領安堵している。その日、上野国厩橋城に入った滝川一益のもとへ出仕していた。同月16日、鎌原宮内少輔に領地内千貫文地を安堵宛行した。同月21日、湯本三郎左衛門の吾妻城警護に対し西中条の地を宛行った。
 北条氏直は、その6月中旬、真田昌幸が名胡桃城で抵抗するため、佐久郡に侵出していた。だが、徳川軍から諏訪氏を救援する事態となり、真田昌幸に本領を安堵する条件で和睦した。北条氏直その兵、4万3千を率い、役行者越え(えんのぎょうじゃごえ;雨境峠;北佐久郡立科町八ヶ野;長門牧場の東北部)を経て駆け付け、梶が原(茅野市柏原)に着陣した。その途中とみられる、7月12日、昌幸は小県郡海野へ出陣した北条氏直に出仕した。同月26日、恩田伊賀守に沼田郡発智(ほっち)内に15貫文の宛行目録を下す。
  9月には、依田信蕃と弟加津野信昌の仲介で徳川家康に属した。10月3日 山口掃部介に玉泉寺2貫文地を宛行う。同月4日 浦野儀見斎に羽尾内知行地を、同月13日 鎌原縫殿助ほか12人に年来の知行地を、湯本三郎右衛門に信州の知行地を宛行う。
 同月19日、小県郡祢津昌綱を攻めた。昌幸が小県郡の地侍を相手にした最初の戦いであった。祢津昌綱は織田信長横死後、徳川二十将の一人大須賀康高を介して家康に属しながら、昌幸が家康に属すると同族間の確執か、北条氏の勧誘か、北条氏に奔り、氏政から甲斐之内手塚千貫・清野1跡2千7百貫文を宛行われる大変な厚遇を得た。祢津氏の本拠は小県郡祢津であったから、当然昌幸は攻略しようとしたが戦果無く陣を引いた。北条氏直にしてみれば、祢津昌綱は佐久・小県両郡の要であり、信玄・信長無き後の信州攻略の最重要な橋頭堡であった。氏直は祢津昌綱に堅固に備えるよう命じると共に、佐久の内山城に直臣猪股能登守を配置した。10月25日、さらに昌綱を鼓舞するためか、海野領内4千貫という手当たり次第の宛行を約束した。
 昌幸は10月19日、折田軍兵衛に尻高・横尾内17貫文地を安堵し、 同月27日 下野国津久田城を攻略した。 同月28日 恩田伊賀守に沼田発智内5貫文・下南雲内15貫文地を安堵した。
  同月29日 徳川・北条両氏が漸く和議を成立させた。それは真田昌幸が、徳川と結び、北条軍の諏訪進出の隙を突いて、碓氷峠を越えて上州に進攻し、9月には北条方の沼田城を奪取し、北条軍の糧道を断ったからである。ついに、氏直は形勢が不利となり、上州沼田をとる一方、甲斐の都留郡、信濃の佐久郡を家康に譲り、真田昌幸には代替地を与えることで約定して和睦した。家康にしても単に信長の遺児織田信雄・信孝の勧奨に応えるためだけではなく、羽柴秀吉・上杉景勝と勢力圏に接し、前後に大敵を抱えるわけにはいかなかった。家康の次女督姫(とくひめ)を氏直に嫁がせた。以後、甲斐と信濃の大部分は、家康が領有し、北条は上野一円を手中にした。
 天正10年に行われた真田氏配下への安堵・宛行いは23人に及ぶ。上野国内で21か所、小県郡内が2か所、更埴地方が6か所、甲斐国が1か所であった。その殆どが上野国の吾妻から沼田方面で、その配下の出自は上野の地侍であった。幸隆が、武田氏の膨張に合わせて分担した小県・更埴・上野国の吾妻から沼田へと侵出する過程で、真田氏の勢力も涵養してきた。昌幸も父幸隆が築き上げてきた領分を守り増殖させていった。  武田氏が滅んだ今、昌幸は自立の道を歩もうとする。その課題が、本領の小県郡内の支配権が限定的であることにあり、やがて小県郡内の諸侍に果敢な戦いを挑み障害を取り除いていく。
 徳川と北条の領地交換が名目的であったことが明らかになる。佐久郡内で徳川方の先鋒として活躍する依田信蕃が、天正11(1583)年2月、北条方の岩尾城を攻略しようとした。北条氏に属する佐久郡内の諸侍が城主大井行吉のもとに馳せ参じた。岩尾大井氏は無名に近い、周辺の殆どが信番に属していた。信蕃は徳川軍を後楯とした軍勢で包囲した。20、21日と戦ったが決着がつかず、22日に信蕃自身、塀を乗り越えて城内に攻め入ろうとした。だが信蕃と弟信幸が鉄砲に撃たれて共に戦死した。翌日、激戦の末、城方の敗色が濃厚となり、行吉は徳川の軍艦柴田康忠の勧告に従って開城した。自身は上野国榛名山麓保渡田(ほとだ)に移住し、天正12(1584)年その地で生涯を終えた。
 戦後、家康は依田信蕃兄弟の死をあわれみ、信蕃の子竹福丸に家康の偏諱を与えて康国と名乗らせ、松平姓を許し松平康国として小諸城主とした。当面は、大久保忠世を後見人として佐久郡を治めさせた。
 昌幸も徳川方として信蕃に助力し佐久で戦っていたが、小県郡内にも北条勢力がかなり浸透していた。天正10年11月、諏訪上社神長守矢信直が昌幸に同社神領の寄進を頼んだが、未だ郡境が安定しない、来春には落着させ、その時寄進に応じると守矢真幸氏所蔵文書『真田昌幸書状』に記されている。「如御存知当郡之儀境故悉妨所之儀候之間、当年之事者申付候儀一切難叶候、如何様来春其落着談合可申候」。
 天正11年1月、恐らくは徳川方に靡かない事を口実に、昌幸は弟加津野信昌らと語らい、依田窪地方の丸子で和田・大門・武石・長窪・内村・丸子などの諸勢力と戦っている。昌幸方の勝利に終わったようで、戦功を挙げた飯島市之丞・宮下善七郎・金井久内・宮下孫兵衛などに与えた感状が遺っている。例えば、飯島市之丞に対する天正11年閏正月29日の『真田昌幸感状』(飯島芳郎氏所蔵文書) には「今度向干丸子及行候処、河南之者共出備候処に、遂防戦、頭2ッ被討之候条、戦功無比類候、向後弥可相稼之事肝要候者也、仍如件」とある。

8)上田城築造
 上田城の南面を固める、天然の要害「尼ヶ淵」。南櫓下の石垣が護りの要となった。
 小県郡内の反徳川の勢力が一掃されたわけではなく、天正11年3月、佐久・小県両郡の北条方の諸勢力を平定するため、昌幸に家康自身が出兵をすると伝えて来た。4月には甲府に出陣した。この期、小県郡内の室賀信俊祢津昌綱などは独自に徳川に臣従し割拠している。祢津昌綱は北条から再度徳川に転じ、同年9月には家康から本領を安堵されている。東御市祢津の「定津院」に欣隆を住持に迎えなど領地経営に注力している。家康は更なる先の北信地区、特に筑北から上杉勢を駆逐し、やがては川中島以北の攻略を進める目算があった。加津野信昌は佐久・小県の信州諸侍の徳川氏従属の勧誘に成功し、ついで筑北から川中島周辺における上杉方諸士に働き掛けていく。信昌は天正11(1583)年3月、島津忠直を調略しようとしたが失敗している。だが4月には海津城将の任にあった屋代秀正が家康に内通している。『景勝代記』は「天正11年3月、又しば田(新発田重家の乱)へ御出馬と思し召し候処、信濃海津より屋代逆心仕り、海津を引き払い、汝在所へ引き籠る、麻績・青柳同心にて家康御手に属す、此の静謐に信州へ御出馬也。」とある。これに相前後して、屋代秀正の兄、小県郡室賀の室賀山城守信俊や更級郡佐野山の塩崎氏らが、続々と家康の陣営に走った。家康は秀吉との対決を目前にし、上杉の南下を恐れていた。家康は4月18、秀正に書状を送り「それより芝田七九郎(柴田康忠)殿差し遣わし候、いかようにも相談せられ、(中略)委細は大久保七郎右衛門尉(忠世)が申すべく候」と伝えている。この時期以降、家康の勢力は、北信の景勝勢力圏に深く浸透していった。
 景勝も追い込まれていた。下越後新発田の反乱鎮圧へ進発する予定が、急遽、信濃への出陣に変更した。南北信の境目に在る要地を制圧するため、天正11年4月、岩井昌能を初め清野・赤尾・西条・綱島・大室・保科などの諸将に動員令を発し、屋代・麻績に侵出、青柳城を攻めて落城させた。4月8日夜、景勝軍が到着する以前に、塩崎氏は何処かへ逃げ去り、屋代氏は三河の家康の許に、青柳氏は松本の小笠原貞慶を頼って逃れた。
 先の同年2月、小笠原貞慶は子の幸若丸(秀政)を家康の許に送り、恭順臣従の意を示した。5月には、屋代秀正の離反により海津城を預かる山浦(村上)景国は、秀正と同族であった事もあり、城代を罷免され、その地の領分も改易され、越後の山浦分のみ安堵された。景国は村上義清の子である。
 このような情勢下、真田昌幸は、羽柴秀吉・徳川家康・上杉景勝らの巨大勢力の狭間にあって、それらの恣意に翻弄されることのない自勢力を涵養するよう努めている(ちなみに秀吉は天正14(1586)年9月9日には豊臣の姓を賜った)。その第一歩が居城を戸石から上田尼ヶ淵に移す計画であった。当然、当時の主家家康の了解があっての事であろうが、新たに上杉方が基盤とする北信に侵出する思惑があれば、徳川方もその重要拠点になるとして大いに奨励したであろう。その築城にあたっては、景勝も見すごせず、妨害しようとしている。4月13日には、巡察使に島津泰忠を任じ築城を阻止しようとした。だが、真田や小笠原を初め、その背後にある諸勢力の殆どが徳川の配下となり、既に磐石な態勢が整えられていた。逆に川中島周辺の上杉方諸侍に対する真田や小笠原の誘降が順調にはかどり、島津泰忠の妨害は奏功しなかった。

 昌幸は小泉氏の旧館跡、上田盆地の北壁となる標高1,164mの太郎山を背に、千曲川の支流の矢出沢(やでさわ)川を北の掘割とし、千曲川の分流尼ヶ淵を南面とする比高12mの懸崖上に築城した。周辺の丘陵と水系を巧みに利用した平城で、当初は「尼ヶ淵城」と呼ばれた。大手門のある唯一の攻め口である東側には、掘割と蛭沢川や田地などで備えた。現在、公園化されているのは、本丸・二の丸とその周囲の掘割の範囲である。本丸は、西側の虎口(こぐち;城の出口)の片側の石垣が取りのぞかれているが、ほぼ原形を留めている。本丸の周囲には7棟の隅櫓(すみやぐら)があったが、うち北櫓・南櫓・西櫓の3棟が残っている。ただ、現存する隅櫓や石垣は、寛永3~5年にかけて仙石忠政によって新たに築きなおされたものである。

 城の西には『小泉曲輪』と呼ばれる場所があり、かつては小泉氏の城砦があったとみられる。北側と西側に矢出沢川を引き込み、東側は南北に延びる掘割を築き、城下町一帯を囲む総構えとして籠城戦に備えている。昌幸は軍事のみならず政治・経済・交通運輸など地方の中核都市的機能を持つ城下町を育成しようとした。城下町上田の初登場であった。
 上田城の北の常磐城辺りが東山道亘理駅の所在地と推定されている、とすれば古来、交通の要衝であった。まず城郭周辺に家臣を集住させ、領国の経済拠点として商人と職人も集め町家を形成し、それを土塁と堀で囲む惣構の近世的な城下町を成立させた。城下町と呼ばれているところの多くがこの天正から慶長年間に成立している。上田城の場合、上田市役所・上田高校辺りが武家地となり、その東側に南北に延びる惣構の掘割があり、その三の丸橋を渡ると右手に武家屋敷が並び、その北側に海野町・原町と続く、その東側奥が袋町となる。町家の中心となる海野町・原町の商人と職人は真田氏ゆかりの小県郡原之郷・海野郷の商工の人々であった。そのため元の地の字名は本原(もとはら)・本海野(もとうんの)に変わり、現在に至る。海野町・原町は別々に毎月6回の六斉市(ろくさいいち)を開く権利が与えられ、城下は北国街道(北国脇往還)の宿場としての役割も果たしていた。海野町問屋の柳沢太郎兵衛家は本陣を兼ね、原町問屋は滝沢助右衛門家が勤め、各々世襲していた。次に本海野の鍛冶と紺屋の職人達を、城下東端の鍛冶町と北端の紺屋町に集住させ町域を確定した。その後海野町分に横町が、原町分に柳町・田町ができて次第に町並みが整えられた。城下の町在(村)分離の区割りが明確にされ、在方での店商いは禁止され、町人と百姓の職分が固定化された。
 天正11(1583)年に築城を開始し、徳川軍との最初の戦いがあった同13年には、一応の原形が整ったようだが、上杉景勝との攻争が熾烈化していた当時では、築城、町割り共に実戦本意の簡素なものと推測される。

 一方、この期に至っても、小県郡内の室賀信俊・祢津昌綱らは独自の立場で家康に臣従していた。

9)真田昌幸、徳川家康に靡かず
 本能寺の変後、河尻鎮吉は甲斐一揆の衆に殺されている。飯田では、小笠原信嶺が毛利秀頼を追放する。川中島では、坂城の葛尾城主村上義清の子村上国清が、上杉景勝の援助を得て、森長可を追い、海津城に入った。当時、村上国清は上杉謙信の養子となり、上杉家一門の山浦の姓を得て山浦景国と名乗っていた。
 信長の横死は、滝川及び北条の陣営に相前後して伝わった。上野を治めてまだ3ヶ月しか経っておらず、軍の統制が十分に整っていない一益は「弔い合戦のため」と称し、2万弱の兵を率い北条と対決することとなった。関東諸侯の連合軍であったため、敗色が明らかになると脆かった。一益勢は総崩れとなり、4,000人近くも討ち取られる惨敗を喫した。一益は一旦厩橋城に遁走するも、それも支えきれず、やがて碓氷峠から小諸を経て本拠地の伊勢長島城に逃げ帰えった。
 7月24日、駿河にいた家康は、酒井・大久保の軍に加え、伊那の下条と知久氏の与力軍と合わせて3千の軍に、諏訪茶臼山高島城(現諏訪市高島ではない、諏訪駅の北の丘陵地にあった)を攻めさせるが、諏訪軍は、逆に夜討ち、火攻めなどをかけて善戦しよくこれに堪えた。
 これより前、北条氏直は、6月中旬、真田が名胡桃城で抵抗するため、佐久郡に侵出し昌幸の本拠小県を牽制していた。
 北条氏直は諏訪氏救援のため、真田昌幸と本領を安堵する条件で和睦し、その兵4万3千を率い、役行者越え(えんのぎょうじゃごえ;雨境峠;北佐久郡立科町八ヶ野;長門牧場の東北部)を経て、梶が原(茅野市柏原)に駆けつけ滞陣した。29日徳川勢は、諏訪頼忠が拠る茶臼山の高島城の囲みを解き乙事(富士見町)に引き上げた。以後8月6日まで対陣していたが、北条軍が多勢のため新府城へ退却した。北条軍はこれを追い、上の棒道を通って若御子(北巨摩郡須玉町)にまで進出し対陣した。
 家康は甲府から援軍を率い新府へ向かい、氏直と対峙する。北条方は8月12日、氏忠(氏康の子)・氏勝(氏康の外孫)の軍勢1万を家康の背後を襲うべく甲斐東部の郡内地方へ侵出させた。これに対し、鳥居元忠、三宅康貞、水野勝成ら2千が防戦に出撃し、その北条の別働隊が甲斐国東南部の桂川流域黒駒付近に侵入すると、これを撃退した。当時の徳川軍は、その戦績からみて島津・伊達をも上回る最強の軍団であったようだ。この黒駒合戦以降、北条方は著しく不利になっていく。北条氏はしばしば大軍を動員しているが、いずれも寡兵の徳川の精鋭に大敗していた。織田信長没後、北条氏は北信以外の信濃全域に逸早く布石を打ち、真田氏・木曽氏・諏訪氏など雄族を従えていた。家康は信長の死後、甲斐国に勢力を伸ばしたため、信濃の経略が疎かになり北条の後手を踏んでいた。
 8月22日には木曽義昌が家康側に寝返った。昌幸は北条軍の諏訪進出の間隙を突いて、碓氷峠を越えて上州に進攻し、9月には北条軍下にあった沼田城の奪還に成功した。北条軍の糧道が断たれた。
 一方、上州吾妻城を攻めていた北条軍も、山岳を巧みに利用した真田軍に翻弄され、箕輪まで軍勢を退却させていた。その9月に、北条と上杉が講和した。同月、昌幸は、家康に臣従する依田信蕃と弟加津野信昌の仲介で徳川家康に属し、信蕃に加勢するようになった。家康は信蕃に、昌幸と信玄の奥近習6人衆の一人であった曽根昌世らをつけて戦力を強化した。
 北条氏直は形勢が不利となり、真田昌幸には代替地を与えることで、上州沼田をとり戻し、上野を手中にする一方、甲斐の都留郡、信濃の佐久郡を家康に譲り、天正10(1582)年10月29日、和睦した。家康の次女督姫を氏直は娶った。以後、甲斐と北信を除く信濃の大部分が、家康の支配下に入った。
 同年、西の毛利は既に秀吉と誼を通じていて、秀吉が柴田勝家を滅ぼし、旧信長領を掌握すると、さらに人質を差し出した。徳川・北条の同盟は、秀吉に対抗する一大勢力となってはいたが、信濃では西南部の木曽義昌が秀吉方に寝返り、北信4郡は上杉景勝が依然押さえていた。家康は真田昌幸・諏訪頼忠以下を配下に入れ対抗させていた。一方、徳川・北条同盟により、上杉氏や常陸の佐竹氏は秀吉に接近していった。北条はその後も常陸・下野に侵攻を重ねる一方、昌幸が領有する北上野の沼田城の奪還に奔走している。

 武田信玄が村上義清に手痛くやられた「戸石崩れ」の後、昌幸の父幸隆は、わずかな兵と調略をもって、戸石城を落城させた。その後、戸石城は真田氏の居城となる。天正年間、さすがに戸石城のような山城では不便だと思い、真田昌幸は、小泉氏の居城のあった地に新たに平城を築いた。古図にもある小泉曲輪というのが、それを指しているのだろう。それが上田城(当時、尼ヶ淵城)である。天正10(1582)年に武田氏が滅亡、この地を領していた真田昌幸は、天正11年からから13年にかけて上田城を築城し本拠地を移す。武田氏が滅亡すると、昌幸は織田信長軍の配下となったが、その後の第一次上田合戦(神川の戦い)や第二次上田合戦(関が原の本戦前の地方戦)において、戸石城は上田城の支城として活躍した。
 天正11年1月、小県郡丸子で周辺諸侍と合戦し、和田・大門・長窪・武石・内村・丸子氏らを破り、丸子城を占拠した。
 丸子城址から上田方面を眺める。丸子城は依田川と内村川に挟まれる北東方向に延びた丘陵地上にあり、標高684m 比高130mに位置する。
 天正12(1584)年に入ると、織田信長の次男信雄が家康と同盟し秀吉と対立する。4月、家康は北条氏との同盟を維持するため、真田昌幸に対して、「代替地を用意するから、沼田を北条氏に渡せ」と要求した。小勢力に過ぎない昌幸だったが、これを断った。『三河物語』によれば、昌幸は、「沼田は家康様からいただいたものではない、我らの手柄でとったもの。今迄御忠節申し上げたのだから、恩賞を与えるべきはずが、その沙汰も無い上に、沼田城を差し出せなど思いもよらない。」と主張したという。昌幸は家康が沼田の代替地の用意があると言いながら、その領地の明示がない。当時の家康の実力では信濃における既存勢力を排除し、それを新知として与えるのは無理で、当然、領国支配者の一方的な専横、空手形と憤慨し断絶した。これが川中島に食指を伸ばし敵対してきた昌幸が、臆面も無く上杉景勝を頼ろうとした背景であった。それには景勝の背後にいる秀吉に接近する機会を窺う昌幸の意図が隠されているのは当然とみられる。当時、秀吉に帰属した木曽義昌・小笠原貞慶の動向を参考にした上での昌幸の判断と思える。上杉方海津城代の須田満親を介し景勝に臣属を誓った。
 北条氏との約束もあり、面子をつぶされた家康の憤りは納まらない。
 先述のとおり沼田は、武田勝頼の命を受け、真田昌幸がその配下矢沢頼綱に命じ、先の天正8(1580)年、上州利根郡の中心拠点である沼田城を攻略した経緯があった。武田氏が滅亡すると、沼田城は織田信長の重臣滝川一益に明け渡されたが、本能寺の変直後に奪還している。その領地を明確な代償も無く、家康が明け渡せの指図に反発した昌幸は、かつて景勝に属しながら家康に寝返り、景勝が支配する川中島まで触手を伸ばし戦闘を繰り返しておきがら景勝に再び頼り、海津城代須田満親に、その取り成しを依頼した。景勝はこれを容認するも、「真田安房守去年当方に属し、日を経ず相隔て候の条、いか様の存分に候やと不審千万に候、然らば北条安芸守(謙信の時代、上野国厩橋城主であった北条高広?)ところより使者が及び候ところ、かの返答、始中終(しちゅうじゅう;一部始終)の心底露われ候、慥に聞き届け拠(よんどころ)無く候」と、極めて困惑している様子を隠さず、沼田城将矢沢綱頼に書状で伝えている。しかし景勝も戦国武将として、昌幸の真意を当然理解して判断している。でなければ、動乱の時代を乗り越えられるはずがない。
 景勝にとって、昌幸の臣属は、時宜に適った願っても無い変節であった。7月15日、景勝は徳川軍が侵攻して来たら、「敵於相動者、手前之儀者不及申、沼田・吾妻表後詰不可有油断事」、次いで「自今以後、如何様之表裏(離反させるような事態)出来候共、幾度も令し糾明、不相替可加芳意(相手を敬う)事」と昌幸に敢えて懇切な起請文までも送っている。しかも信濃の知行は須田満親に申付けたとしながらも、沼田・吾妻・小県の3郡に加え坂木・庄内(旧更級郡村上村一帯)の知行も付加している。更に佐久郡と甲州に於ける1郡と上野国のかつて長野氏旧領の1跡も与えるとした。また徳川に寝返った屋代氏の1跡も加え、小県郡の同族祢津氏の身上、宜しく取り計らえと端的に一任している。まさに言いたい放題の空手形であった。先の天正10年10月19日、昌幸は北条方である祢津昌綱を攻めるが、祢津氏の本拠地である祢津城(東御市祢津)は陥落できないでいた。
 翌年7月、昌幸は室賀山城守信俊を上田城に招き寄せ謀殺した。室賀氏は、上田市の川西地方の室賀に大きな勢力を保持していた。真田氏と室賀氏は、共に武田氏の配下であったが、その滅亡直後の天正10年4月頃より対立するようになっていった。室賀氏も、独自の立場で家康に臣従していた。『加沢記』は、信俊を『文武智謀の勇将』と称えている。その信俊はかねてから家康に昌幸の謀殺を命じられていた。図らずも昌幸から碁に招かれた。好機とばかり家康譜代の老臣鳥居彦右衛門元忠と昌幸抹殺の計略を練り上田城を訪れた。だが信俊の謀計は、既に昌幸が手配していた内応者から漏れていた。信俊は斬殺された。この昌幸の凄みと、上杉景勝から昌幸に下された先の花押状の一節「根津(祢津昌綱)身上、宜相計事」で、祢津昌綱も昌幸に同心せざるを得なくなった。
 祢津昌綱は、この天正13年当時は上杉に属していた。先の天正13年7月15日、昌幸に与えられた景勝の起請文が契機となり、昌幸の配下となり、やがて重用されるようになっていく。有力者の祢津・室賀両氏の制圧がなり、真田氏は漸く小県郡一円を領有できた。
 天正13年8月26日、昌幸は景勝に救援を請う事態となり、2男信繁(幸村)を人質として須田満親に差し出した。
 これにより家康と北条氏直間の領国支配者同士の和解条件である上野国利根郡と沼田城の譲渡が実現できなくなった。家康は氏直との約定履行のため、昌幸を討伐する事に決した。8月、家康は、伊那郡の松尾城主(飯田市松尾)小笠原信嶺・松岡城主(下伊那郡高森町)松岡貞利・松本城の小笠原貞慶などに、小県郡上田表へ出兵を命じた。ところが貞慶は、徳川から豊臣氏に変節していた。
 貞慶は、逆に徳川方の高遠に拠る保科氏を攻めたが、大敗を喫して松本に退いた。この時、松岡貞利も徳川家康に誓詞を入れ臣従しながら、貞慶に味方し高遠の攻撃に向ったが、形成が不利と見て途中で引き返した。それを靡下の座光寺次郎右衛門が、徳川の伊那郡司として知久平城(ちくだいらじょう;飯田市下久竪町;しもひさかた)にいた菅沼定利に密告した。定利は直ちに松岡貞利を捕らえた。松岡貞利は駿府の井伊直政に預けられ、後に家康の面前で座光寺氏と対決させられた。天正16年松岡貞利は、その所領を没収された。
 この時期、昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌を初め信濃の有力諸将の殆どが、天下人『豊臣秀吉』に靡いていた。

10)天正の上田合戦(神川合戦)
 天正12(1584)年3月、織田信長の次男信雄が秀吉に内通したとして家老3人を切腹させた。それに呼応するように家康は、3千の兵を率い清洲に向かい13日には信雄と会している。信雄・家康は、四国の長宗我元親、紀州の雑賀一揆・根来衆、越中の佐々成政らと協同していた。秀吉は、北陸の前田利家・丹羽長秀・上杉景勝らに佐々成政を抑えさせ、宇喜多秀家には毛利に備えるよう命じた。根来寺衆や雑賀衆に対しては、中村一氏を岸和田城へ入れた。4月の小牧長久手の合戦となった。この徳川家存亡の戦いに際し、家康はその背後の脅威を取り除かざるをえず、再び北条氏と談合した。その際、先の約定、沼田の譲渡の履行を再び要求された。
 同4月、家康は秀吉と『小牧長久手の戦い』に勝ち、11月15日、秀吉との講和が整った。家康は次男於義丸(おぎまる;後の秀康、当時11歳)を秀吉の養子を名目に人質に差し出した。秀吉は武田信玄・上杉謙信亡き後、天下人になる過程で、四国長宗我部・九州島津・奥羽伊達など、当時の有力な領国支配者を完膚無く制圧した。ただ、家康一人、終生、秀吉は恐れた。秀吉は小牧長久手の戦いの負け戦で、当時の徳川軍は日本最強の軍団であると、冷静に評価したようだ。
 秀吉は家康に勝てなかった。秀吉は信長の宿老柴田勝家を討滅させたことで、圧倒的大軍を以てすれば勝利すると驕っていた。秀吉はあらためて個々の軍兵の強力度が対戦の結果を左右すると知った。ここで秀吉は、信長が生前成し遂げてきた『天下布武』は、武力一辺倒では達成できない事を再認識した。秀吉は朝廷へ接近した。織田信雄と講和した直後、天正12年11月22日、一挙に従三位権大納言となり公卿に列した。12月末には養子の秀勝に毛利輝元の娘を娶らせた。翌天正13年3月10日には、正2位内大臣に任じられた。21日、自ら数万の兵を率いて大坂城を発し、紀州攻めに向かった。23日には、山内2千余坊と称された根来寺の坊舎の殆どを焼亡させた。その後直ちに一向衆の雑賀一揆が籠る太田城(和歌山市)を紀ノ川から引き込む水責めにより、4月22日、開城し一揆は解体させた。
 高野山も含む紀州一国規模の刀狩がなされ、秀吉は和泉・紀伊を弟羽柴秀長に領知させた。6月、その秀長が四国征伐に、秀吉の名代として阿波・讃岐方面に出陣し、四国全域を平定する勢いにあった長宗我部元親を、わずか50日ほどで服属させた。毛利は秀吉の伊予方面軍に属する小早川隆景・吉川元長に大軍を率いさせ発向させていた。
 7月11日、秀吉はついに従一位関白に就いた。関白とは「天下の万機を関(あず)かり白(もう)す」の意であり、秀吉49歳であった。それは信長が天下布武の中途で本能寺で斃れた歳であった。翌8月秀吉は越中に出兵し、佐々成政と、彼と連携する飛騨国姉小路自綱(よりつな)を降伏させた。成政には新川(にいかわ)郷のみを与え、残りの越中国は前田利家の子利.長に、飛騨国は金森長近に領知させた。

 諸情勢が、『小牧長久手の戦い』の勝利が一時的である事を、家康に十分伝えていた。公武一統政権を樹立させた秀吉と対決するためには、背後の北条氏との和合が不可欠となった。北条氏は同盟の条件である領地交換に拘った。そのため家康は昌幸に沼田を渡すよう命じた。これに対し昌幸は、沼田は家康様から頂いた領地ではなく、我ら一族の手柄により獲得した。この度、家康に忠節を誓ったが、恩賞も与えられぬのに、沼田城をさし出せなどとは以ての外と、昌幸は家康と断交した。
 天正13(1585)年8月2日、ついに家康は鳥居元忠大久保忠世・同忠教・平岩親吉柴田康忠らに譜代衆6千余騎に近い大軍を率いさせ上田城に出兵を命じた。同月20日には、小笠原・諏訪・保科・屋代・依田・下条・知久・飯島・松岡・遠山・芦田などの中信南信の諸侍も加勢を命じられた。地勢的にも完全包囲の軍容、都合7千余騎の大軍で上田表に迫った。『加沢記』によれば真田勢は、『騎兵2百余騎に雑兵千5百余人、都合2千に過ぎざるけり』とある。これが第一次上田合戦(神川合戦)であった。
 昌幸は2男信繁(幸村)を人質として差し出し、海津城代須田満親に援軍の派兵を要請した。景勝もこれに応じて、8月26日、井上源六郎・市河信房・夜交左近助・西条治部少輔など北信濃の武将たちに出動を命じた。これに呼応して川中島からは、上杉軍5千を率いる須田満親が、戸倉に陣を張る。この時、景勝は、直ちに高井郡の井上源六郎・市川信房、水内郡の小田切、松代の西条治部少輔ら川中島4郡の15歳から60歳までの男子を総動員して海津城将の須田満親に委ねるとしている。満親が、真田氏援軍の大将として北信濃諸将の指揮を執った。『須田満親書状』によれば、一部上杉の援軍は地の利を生かし、8月29日までに、地蔵峠を越え曲尾(真田町)に到着している。また上杉配下の市川信房・西条治部少輔などは、かつて武田家臣として吾妻で戦功を競った朋輩同士であった。
 『武家事記』は、当時の上田城は南を千曲川、西・北は千曲川の支流矢出沢川が守り、石垣の無い土塁曲輪の簡素な平城だったと伝えている。昌幸は未だ築城の途中にある上田城を籠城戦を想定して縄張りした。
 昌幸は自ら率いる4~500余を上田城本丸に止め、城の横曲輪など諸所に兵を配置した。城の東南の神川に200の前衛部隊、真田氏の根拠地戸石城には嫡男信之に800余の兵を預けた。上田城下には互い違いの千鳥掛け柵を構え、複雑に並び侍屋敷・町家と、城下に迫る太郎山に約3,000の武装農民を配し、紙幟(かみのぼり)を用意させ伏兵とした。徳川軍は小県郡祢津に集結、上田城東方の国分寺方面に押し寄せた。その先手が城の東南の神川(かんがわ)に差し掛かると200の真田前衛部隊がこれを迎え撃つ。多勢に押され後退する。これが「神川の戦い」の始まりであった。

 真田軍は上田城二の丸門近くまで徳川の大軍に押し返されて行く。時に城下の侍屋敷・町家に火が放たれた。折からの強風に煽られ猛火となって四方から徳川軍を襲った。山野に伏していた武装農民がこの火を合図に、一斉に陣太鼓を鳴らし紙幟を掲げて、火勢から逃れる徳川勢に打ちかかった。すかさず城内の総兵500の兵が大手門より一丸となって打って出た。動揺する徳川軍の背後から真田信之の指揮する800が、既に戸石城より迫り、鬨の声を上げ徳川勢の退路を遮断する様相を呈した。徳川勢は恐慌、大混乱に陥入り指揮系統が寸断された。
 真田軍は国分寺付近まで押し返して千2百余人を討ち取った。これが「国分寺の戦い」で、結局、徳川軍は大敗し千曲川左岸の丸子まで後退した。同月3日、徳川軍が丸子城を攻めるが、丸子三左衛門らが寡兵ながらも城を堅守する。昌幸は徳川軍の背後を追撃し、丸子河原で激戦となった(丸子表;おもて;の戦い)。徳川軍は佐久・諏訪方面に退き、その後も真田攻めの機会を狙っていたが、ついに遠江へ引き揚げていった。昌幸は寡兵であれば、家臣・地侍・農民兵の損耗を避け、勝利に拘らず徹底的に徳川軍を混乱させる策に出た。『加沢記』に「城地2里4方の農民共に籠城しければ、彼等を集めて男女共に3千余人、百姓の妻女わらんへには石つふてを打たせられたり」とあり、まさに領内の総力を挙げての戦であった。上田城と砥石城が連携し相当巧みな作戦を用いたようで、それで漸く勝利した。この合戦で真田の武名は大いに上がったが、再度、徳川が大軍をもって攻撃してくれば、防ぎきれるか危うかった。昌幸はその対陣の最中、初めて羽柴秀吉に服属の書状を送っていた。この第一次上田合戦に際し、屋代秀正は丸子で昌幸軍と奮戦し、家康から8月28日、感状が与えられている。
 家康が信濃を制覇するためには、真田討伐を完遂しなければならない。9月17日には鳥居元忠・平岩親吉などが佐久郡高野(佐久穂町高野町)に陣を布き再出撃の機会を窺っていた。10月17日付で昌幸宛に秀吉からの花押状が届けられた。「道茂(秀吉の側近)の所へ之書状被見候、委細の段聞き召し届られ候、其の方の進退之儀、何の道にも迷惑せざる様に申付ける可く候間、心易かる可く候、小笠原右近大夫(貞慶)といよいよ申し談じ、越度(落度)無き様にその覚悟尤もに候」とある。
 11月中旬、突然徳川全軍が遠江に引き返した。その訳は同月13日、酒井忠次と並ぶ家康の2代宿老の一人石川数正が、家康の許にあった小笠原貞慶の子秀政を連れて岡崎城を出奔し秀吉方に向かった事件による。同月19日付けの豊臣秀吉からの真田安房昌幸宛の花押状には「石川伯耆守去る13日、足弱引連れ尾刕迄罷り退く候事」とあり、同文に「信州小笠原人質召し連れ」と家康に人質として出していた貞慶の子秀政を伴っていた。この当時、秀吉は「信州・甲州両国之儀、小笠原・木曽伊予守相談し、諸事申合わせ、越度無き様才覚尤も候事」と、信州・甲州両国支配を昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌に託し落度の無いように支配を命じている。貞慶は石川数正の裏切りに便乗する形となっているが、木曽義昌に倣い天下の権は秀吉にあると、その絶対的権力者に服従したとみられる。豊臣政権確立期を迎え、各地の武将はこぞって人質を差し出し臣従を誓っていた。小名の貞慶も、秀吉の威信を背景に府中を中心にその勢力の拡大を計った。戦国末期の生き残りを掛け、同年の天正13年に、家康に属する高遠の城主保科正真を攻めている。この戦いに際し。家康が保科正真に与えた感状に「今度小笠原右近大夫逆意を企て」とあり、小笠原氏の敵対が明らかになる。

11)北条軍の沼田攻め
 秀吉は天正13年7月11日、従一位関白の地位にのぼった。昌幸は抜け目なく、10月、秀吉に服属し、秀吉から「心易かるべく候」との返書を得ている。11月には、秀吉から小笠原貞慶・木曽義昌と共に、徳川家康に敵対し、甲・信2州の諸事申し合わせるよう命じられた。
 翌天正14(1586)年12月、太政大臣を兼ね豊臣という新しい氏(うじ)の名を賜った。昌幸は次男信繁を大坂城に出仕させた。文禄3(1594)年、豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐(さえもんのすけ)に叙任した。秀吉の奉行大谷吉継の娘を娶った。

 徳川軍の撤退と秀吉への服属によって、昌幸の上田城は安泰となったが、手薄となっていた上野国の沼田領が北条に狙われた。当然、真田側も予想していて、神川合戦の直後の閏8月13日、昌幸の嫡男信幸は沼田城番の恩田伊賀守・同越前守・発知三河守らに、国分寺での戦勝を報せるとともに、「然者、南衆其表へ相動く可き之由必然に於かれれば、堅固之備え任せ入り候」と北条軍の動きに備えるよう命じている。だが、上田領内から援軍を派兵できない情勢下では、北条の大軍に沼田城代矢沢頼綱の才覚だけで対応するのは至難で、上田景勝に援軍を要請した。9月18日、景勝は先に上杉に人質として差し出された真田信繁に随行して来た頼綱の子三十郎頼幸を越後新発田から沼田へ返した。間もなく援軍も派兵した。沼田城在番衆と上杉氏援兵の懸命な防戦が功を奏し、同月29日、北条軍は小田原に帰陣した。『加沢記』は「近年北条御出馬にて民悉く困窮、就中境目之民農業仕付ける可き様なく、大半餓死に及びければ、上田より兵粮米運取、矢沢配分し農民に給いける」と度重なる争闘・軍役・田畑の蹂躙で沼田の窮状が極まっていた事を伝えている。
 天正14(1586)年、昌幸は激戦が続く沼田を、地の利を最大限生かし防戦する叔父矢沢綱頼に託し、上田領の整備に当たると同時に、1月から3月かけ、昌幸は配下の諸侍に与える知行宛行を盛んに行っていた。特に沼田城で孤立し北条軍の猛攻を必死に凌ぎ、真田氏創業期の家臣団で常に、その中心であった矢沢頼綱・頼幸父子に「海野領之内為房山始千貫文」を小県郡内最大の知行地を与えた。
 昌幸は徳川軍が去った佐久に侵攻した。家康との対立は決定的となり、その一方北条氏から沼田城を攻められる臨戦状態が続いた。北条軍の沼田侵攻は執拗で、5月またしても沼田の攻城にかかる。当時、矢沢頼綱が北条氏政の弟氏邦に宛てた「氏直公去秋御出張のところ勝利無きによって、今度八州の大名・小名打ち振い貴方案内となり、この山中へ御出張に以て御苦労の至りに候、数年御心掛のところ我等存分今年に至って対陣をとげ大悦これにすぎず候、この表不肖の族に候と雖も早々御出馬待ち居るところに候」と挑発するような書状を届けた。氏邦もその返書で「来意の如く我等近年発向せしめ候と雖も難所にかかり、殊にその城堅固貴殿之仕合尤もに候、書状の趣大途(たいと;国守;氏政)に及び候の所、神妙の至りに思し召され候、山中珍しく覚えるにつき、一両日に鷹狩仰せ付けられ候の条、静かに寄せ鬱憤を遂ぐ可く候、併せて速やかに降参せしむ可くんば、その所領は望みに任せ、一族并びに籠城衆安堵なす可く候、なお一戦の時を期し候」と悠揚たる様を装っている。互いの内実の困窮を秘して戦いが始まるも、連日の大雨とそれに伴う洪水が、野戦となる攻城側に不利に働き、北条軍はまたしても退陣した。沼田城が利根川と蓮根川が交わる三角地の懸崖上にある要害の城砦とはいえ、真田軍の諸将が、敵対する太守側に籠絡されることなく、奮戦し続ける堅牢な結束力の確かさを、再び信濃と関東一円に広く証明してみせた。

12)昌幸、家康に出仕
 家康は天正14年7月、昌幸を討滅するため駿河を発向した。ところが秀吉の斡旋により延引した。それから1か月も経過しない8月3日、秀吉は石田三成・増田長盛らを介して、上杉景勝に真田は「表裏比興者に候之間」であれば成敗しなければならない、ついては家康の兵が働くが、真田を一切支援してはならない、と書状を送っている。家康の臣水野惣兵衛にも「家康自身相働かれ、真田の首刎ねられる儀専一に候事」と討伐を勧めている。
 天下統一をねらう秀吉には九州と奥州の平定が課題として残り、その前に信濃・関東の仕置きがひかえていた。まず秀吉は家康を服属させるため、天正14年春、織田信雄を介して和議を結び、5月には佐治日向守の妻であった妹旭姫を無理矢理離別させ家康の正室として送った。旭姫44歳、家康45歳であった。それでも上洛しない家康へ74歳の母大政所を人質として差し出した。
 家康も遂に上洛し、10月27日、大坂城表座敷で多くの大名が注視する最中、上段の間に座す秀吉に平伏し臣従を誓った。家康と秀長は正三位権中納言に任じられた。
 その間の9月25日、秀吉は景勝に「真田事先書の如被仰遣候表裏者候間、御成敗之儀、家康雖被仰出候、此度之儀先以(まずもって)相止候」と書き送っている。漸く家康の服属が明らかになると、真田を失う気にはなれなくなったようだ。
 家康が上洛し秀吉に臣下の礼をとると、その代償として関東全域の仕置きを任された。さらに同年11月4日、景勝に信濃の真田・小笠原・木曽など各氏の所領を家康に渡させるよう書き送っている。そのなかで秀吉は、真田は不届きで討ち果たす所存であったが、景勝の取成しがあったため成敗を止めたが、真田にはそのことをよく言い聞かせ家康の所へ召し出すよう、命じている。秀吉の惣無事令に伴う措置として、昌幸ら信濃の諸大名を家康の与力衆とした。翌天正15(1587)年正月4日、秀吉は景勝に真田氏の上洛を命じる書状を送ってきた。
 同天正15(1587)年3月18日、秀吉の命により、昌幸は信幸・信繁を連れて駿府の家康の元へ赴き、小笠原貞慶らと共に出仕した。だが同年、大坂で秀吉と謁見し名実ともに豊臣大名となる。

13)北条氏秀吉に帰属、昌幸沼田を失う
 家康の帰属後、関東にあって北条氏政だけが秀吉の再三の上洛命令に従わないでいた。北条氏は秀吉との戦も視野に入れ、北条一族の非常時とし、小田原城や領国内の支城の普請を進めていた。北条氏はかつて上杉謙信、武田信玄に攻め込まれ小田原城で籠城しこれを凌いできた。それ以後城と城下町全体を堀と土塁で取り囲む惣構を築いてきた。また家臣団のみならず百姓・地侍層の動員体制も強化していた。天正16(1588)年にも、秀吉は小田原に使者を遣わし出仕を催促した。氏政も和平を拒み続ける意思もなく、8月、人質など家康と同程度の待遇を条件に、家康の家臣榊原康政・成瀬藤八郎と共らともに弟の氏規を上洛させた。
 氏規は秀吉に拝謁して「上野国沼田の地は、天正10年甲州の戦場にて徳川家康と氏直和融の時是を避け渡さるべき誓に及ぶ。然る所に真田安房守昌幸是を難渋し、今日に至って押領せしめ最も北条家素意を失う。早々安房守に諭し、彼の地を氏直に渡さるべきなり。是を得て後、氏政必ず上洛せしめん」と、依然として沼田領奪取に執着し、氏政が上洛する条件とした。秀吉は北条の服従を許すと、関東諸将にやがて上使を遣わし国分を行うから、皆も上洛するよう命じた。
 昌幸は天正17年2月、長男信幸を徳川氏に出仕させている。同年7月10日、秀吉は昌幸に「関東から出羽・陸奥の分領・境目等の検使として津田隼人正・冨田左近将監知信等を派遣する。上田・沼田間往復の伝馬・人足・路次宿を手配するよう」命じている。それから間もなく、同月21日、秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、「真田昌幸が上野の内所領3分2、並びに沼田城ともに北条へ遣わし、其代地は徳川家より真田に授けおるべし、同所3分1奈久留美城ともに真田祖考の廟所ある故昌幸相違無く領知」とされ、北条氏は利根川以東が割譲され、昌幸は代替地として信濃国伊那郡箕輪領を得る。北条も已む無く受諾し、年末には氏政が上洛すると誓った。
 この秀吉の裁断は昌幸に既に予期されていて、前年の天正16年5月、沼田城代矢沢綱頼に沼田の代地として、小県郡内の上田原・保屋・長窪・武石・吉田など都合361貫600文が宛行われ、既に引き上げの準備をしていた。しかも利根川郡内3分1の名胡桃城(群馬県利根郡月夜野町下津城平)と吾妻郡は保持されていた。
 この時期、昌幸は京都にいたが、名胡桃城に先の城主鈴木主水を置き、矢沢頼綱には吾妻郡の拠点岩櫃城を守備させ、既に家康に出仕している嫡子信之(24才)に上野支配を委ねた。一方、景勝に人質として出されていた次男信繁(幸村)は、既に大谷刑部輔吉隆を介して秀吉のもとに出仕していた。
 同年7月、裁定通り沼田領の引渡しがなされたが、11月、北条氏家臣猪俣邦憲(いのまた くにのり)が、昌幸が楔にうちこんでおいた名胡桃城を奪取し、その際城主鈴木主水を討死させた。これが、秀吉の惣無事令違背とされ小田原攻めの切っ掛けとなる。真田からこの報をうけて秀吉は11月21日付で、昌幸に朱印状を送っている。
 「その方相抱える名胡桃の城へ、今度北条境目の者共遣わせしめ、物主を討ち果たし、かの用害を北条方へ乗っ取るの旨に候。このころ氏政出仕致す可き之由、最前御請け申すに依り、縦(たと)え表裏有りと雖も、其段相構えられず、先ず御上使差し越させ、沼田城の渡遣(わたしやり)、その外知行方以下相究めらるるのところ、右動(はたらき)是非無き次第に候。この上北条出仕申すに於いても、かの名胡桃へ取り掛かり討ち果たし候者共、成敗せしめざるに於いては、北条赦免の儀是有らざるべき候。其意を得て境目の諸城共来春まで人数入れ置き堅固に申付く可く候。自然その面(おもて)人数入り候はば、小笠原・川中嶋へも申し遣わし候。注進候て、かの徒党等を召し寄せ、懸け留め置く可く候。誠に天下に対し、公事を抜き表裏仕り、重々相届かざる動き是有るに於いては、何れの所なりとも、境目の者共一騎懸けに仰せ付けられ、自身御馬を出され、悪逆人等の首刎ねさせる可きの儀、案の中に思し召され候の間、心易く存知す可く候。右の境目又は家中の者共にこの書中相見せ、競いをなす可く候。北条一札の旨相違に於いては、その方儀、本知のことは申すに及ばず、新知仰せつけらる可く候。委細浅野弾正少弼・石田治部少輔申す可く候なり。」
 北条に対しても秀吉は北条氏糾明の使者を遣わし、11月24日付の氏直宛に宣戦布告となる5か条の朱印状を送った。第一条は「北条のこと、近年公儀を蔑(あなど)り」、先に沼田を渡せば氏政が上洛すると言いながら未だ約束を果たしていないと書き始め、第5条では、裁断を破り真田の属城名胡桃城を攻め落したのは、帝都に対して奸謀を企てたゆえ天罰を蒙るのは当然、また「勅命に逆らう」行為として、来春を期して誅伐すると通告した。
  関白秀吉は、天正14年5月に上洛した上杉景勝と同年10月に大坂城表座敷で平伏し臣従を誓った家康に働き掛け、九州島津制圧後も服属しない関東・奥羽の平和的服属を画策した。家康は11月15日「関東惣無事の儀について羽柴方よりかくの如く申し来り候」と、秀吉の停戦命令を既に北条に伝え従うよう勧めていた。
 北条側は、名胡桃城のことは一切知らない事態で、田舎武士の猪俣の一存でしたことなど諸事弁解するが、秀吉にとって北条氏は奥羽鎮定の障害であり、寧ろ誅伐することにより天下統一が早まると、絶好の好機到来と着実に北条氏攻略策を進めていた。天正18(1590)年1月10日、秀吉は昌幸に「自身は2月10日頃出馬する。そなたは援軍が木曽口に到着するのを待って行動を起こすよう。」書状を送っている。

14)小田原北条氏滅亡
 昌幸が秀吉に「援軍が木曽口に到着するのを待って行動を起こすよう」と命じられた軍勢は、前田利家・利長父子の軍を主力にする北国口隊であった。松代で上杉景勝毛利秀頼真田昌幸依田康国らの軍と合流し3万5千の軍勢となった。小田原攻めの先鋒は、徳川家康率いる蒲生氏郷・豊臣秀次・織田信雄・細川忠興・筒井定次・浅野長政・石田三成・宇喜多秀家ら東海道勢17万であった。海上からは、小田原湾を制圧する水軍勢、九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治・長宗我元親ら1万4千であった。
 迎撃側の北条軍は相模・伊豆・武蔵・上総・安房・上野6州・下総・常陸・下野の大部分と駿河の黄瀬川以東、合わせて285万石の大領で、総勢7万を越える兵力であった。かつては上杉謙信・武田信玄という戦国時代最強の軍団に小田原城下まで迫れながらも、籠城戦に徹し再起し得た。小田原城は、背後に峻嶮な箱根山の連山があり、城下の南側平坦地には相模灘が広がっている。人口十万を超える当時の小田原を『小田原記』は「津々浦々の町人、職人、西国、北国よりむらがり来る。鎌倉もいかで是ほどあらんやと覚ゆるばかりに見えにけり。」と記した。 小田原城は周囲5里(約20k)あり、中国の都城を模して、武家地・商工人町を堀と土塁で囲む惣構えの一大城塞都市であった。長期の籠城戦に耐え難攻不落といわれた。所詮、それは地方戦に過ぎず周辺諸勢力に脅かされている地方軍であれば、長期の滞陣には耐えられない上杉・武田両軍らの根本的な制約があった。豊臣軍は天下の軍勢で、農民兵を主力にするかつての領国大名が率いる軍兵と本質を異にしていた。
 天正18年(1590)2月信濃から碓氷峠を越え上野に入った。安中城・国峰城を攻略する。3月20日、北条の将大道寺政繁が守る松井田城を前田・上杉・真田軍が攻撃した。3月18日、昌幸の子信幸と大道寺政繁の子直繁が、跳石で初めての遭遇戦となり大道寺軍を撤退させた。松井田城は籠城に徹し持久戦となり、近隣の北条方支城を攻略する方針に代えた。その間、昌幸・信幸父子は、再三小田原城を包囲する秀吉に戦況を報せる書状を送っている。その返書で秀吉は、陸上・海上ともに何重にも包囲し「誠に鳥の通いもこれなきに付いて」と小田原城の完全包囲を報せ、寧ろそちらの働きが肝要と指示している。その後も、相互の戦況の様子が交換されている。
 関白秀吉は小田原から1里(約4k)程南の風光明媚な江之浦に3畳小間の茶室を建て、茶頭千利休が点てた茶を喫し、箱根の本陣では小鼓の名手樋口石見(いわみ)、連歌師の里村紹巴(じょうは)らと遊山三昧であった。更には上方から側室淀君・右大臣菊亭晴季・権大納言中山親綱・尊朝流書家烏丸光宣らを招いて饗宴に興じていた。秀吉は豊臣陣中に市を誘致し、歌舞音曲の遊宴を勧め、遊女の立ち入りまでも許した。小田原に立て籠る将兵・町民に厭戦気分が広がった。
 当時、前田利家率いる上杉景勝・真田昌幸ら北国口勢は、武蔵鉢形城を1ヵ月近く包囲していたが、持久戦の構えであった。北条氏直の叔父氏邦が城主の鉢形城を3千の守備兵で固めていた。武蔵国における北条最大の拠点で、急流渦巻く荒川が蛇行する断崖上に築城され、その支流、深沢川の渓谷に守られた天然の要害であった。おりからの梅雨時の長雨で川は増水しており、力攻めによる将兵の損耗を避け、兵粮攻めによる自落を待っていた。秀吉はそれを許さず、前田利家に攻めが甘いと指摘した。5月13日、前田利家、上杉景勝らの北国軍が鉢形城の攻撃を開始した。本多忠勝らが車山(埼玉県寄居町)から大筒・石火矢(いしびや)を撃ち込み、城内の被害が甚大となり、6月14日、鉢形城は開城した。氏邦の身柄は前田利家に預けられた。鉢形城は廃城となった。
 厩橋、和田などの支城は次々に開城された。4月20日、松井田城の大道寺政繁も、近隣の北条方の諸城が攻略された事により降伏し開城する。真田父子は休む間もなく、同月24日には、箕輪城を落城させている。その旨を秀吉に報告すると、同月29日には、石田三成を使者として派遣し、箕輪城の仕置などを指図させている。それには東国の習いとされている婦女子の売買を禁じ、秀吉の近世統一国家の志向性が明確となる。
 5月3日、武蔵の河越城に進出した。河越城は、城代の大道寺政繁が松井田城で籠城していた為、子の直英が守将を務めていた。父の政繁が降伏したので開城し前田利家が検分した。その後は大道寺政繁も、武蔵国の鉢形城・松山城・八王子城の道案内役を務め、諸城攻略の先兵となった。6月漸く小田原に参陣した真田昌幸は、その後、石田三成と上野・下野勢が攻めあぐねている、難攻不落として名高い成田氏の武蔵の忍城(おしじょう;埼玉県行田市)へ援軍として向かう。
 小田原城は水陸合わせて21万の豊臣軍に3か月余り持ち堪えたが、前田・上杉・真田連合軍の猛攻により、鉢形城・松山城・八王子城など関八州の支城を失い孤立無援となり、天正18(1,590)年7月5日、当主北条氏直は降伏した。父氏政・叔父氏照・老臣大道寺政繁・松田憲秀は戦争責任を負い切腹を命じられ北条氏は5代百年で滅亡する。氏直は家康の婿であるため助命され、妻督姫と離縁され家臣3百人とともに紀州高野山へ追放された。忍城も小田原城が落城したことにより開城となった。

 北条氏滅亡後、家康は秀吉からその遺領を与えられ、その本拠を駿河から江戸に移し、ほぼ関東全域を領知した。家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の松本以南、合わせて130万石であったが、伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の6か国、2百42万石の大封を領地した。当時の豊臣氏の蔵入地は、全国合わせて2百22万石であった。この時、家康配下として信濃の小笠原秀政は下総古河に、諏訪頼忠は武蔵羽生・奈良之梨ほかで1万2千石の所領が与えられた。その後頼忠は上野総社に移封された。木曽義昌は下総阿地土(阿知戸;千葉県旭市網戸)に配置替えとなった。代わって信濃は、木曽が豊臣秀吉の直轄地となり、小諸には仙石権兵衛秀康が、松本には石川出雲守数正が、諏訪には日根野織部高吉が、伊那には毛利河内守秀頼が新知宛行となった。信濃国内殆どが全面的な配置替えとなった。ただ真田安房守昌幸だけが、秀吉の直臣と見なされ小県郡の本領を安堵された。
 秀吉は家康に、その領国内にある昌幸の旧領沼田を安堵するよう慫慂する。7月29日、家康はこれを認めざるをえない。昌幸は3万8千石を領して上田城に入り、2万7千石の吾妻を含む沼田領を信幸に託した。信幸は徳川の養女小松姫、徳川家の四天王・本多忠勝の娘を娶った。真田氏は信濃の土豪から小大名になったのに過ぎないが、当代の両雄秀吉・家康から着目される昌幸の存在は、豊臣大名の間でも知られるようになった。
 天正19(1591)年10月、秀吉は朝鮮出兵の基地として肥前名護屋(佐賀県松浦郡鎮西町)に名護屋城築造を開始し、翌文禄元年3月13日、諸大名に朝鮮(高麗)渡海の陣立てを発した。真田昌幸・信幸父子に命じられた名古屋在陣兵は700人、渡海人数は500人であった。文禄元年1月、信幸は、吾妻の田村雅楽助に朝鮮出兵を命じ、吾妻内に400貫文の新知宛行の朱印状を与えている。しかし真田氏が現実に朝鮮へ出兵をしたという史料はない。
 文禄元年12月、昌幸・信幸父子は、秀吉の側近奉行衆長束正家・増田長盛・石田三成などから京都伏見城の普請役を命じられた。文禄3(1594)年、秀吉は昌幸に諸大夫を、信幸には従5位下.の官職を与えている。

15)「天下殿」大老家康
 慶長3(1598)年8月13日、太閤'秀吉'の死により、時代は天下分け目の戦い関ヶ原へと向かう。秀吉の遺言による5大老5奉行の合議による秀頼擁立の政治は長く続かなかった。慶長4(1599)年閏3月3日、前田利家が秀吉のあとを追うように死去した。すると細川忠興・福島正則・加藤嘉明・藤堂高虎・黒田長政・加藤清正・浅野幸長ら7人が石田三成襲撃を企て大坂で決起した。これを察知した三成は常陸の佐竹義宣に救援をあおいだ。義宣は女乗り物を用意し、同道しながら大坂を脱し、伏見城内の三成の屋敷「治部少丸」という曲輪の中に入った。 伏見城にいた家康が仲立ちし、当地にまで追って来た7将をなだめて、家康の次男結城秀康の手勢に警固させ、10日には三成をその居城佐和山城へ送り出した。三成は騒動の責を負い公務から身を引いた。
 豊臣恩願の諸大名自体が無統制となり、結局家康が5大老筆頭として権力を傘に着る状況となり、13日には伏見向島(むかいじま)の自邸から伏見城に入り豊臣政府執権としての地位を確立した。奈良興福寺の僧侶英俊を始め、3代の筆者によって延々と書き継がれた日記『多聞院日記』には、家康が「天下殿」になったと記している。この間、真田昌幸・信幸・信繁父子は一貫して家康に臣従し伏見に在住した。
 慶長5年9月下旬、北政所が大坂城西の丸を出て京都に転居すると、家康はそのあとを自分の居所として入った。当時信幸は病気となり国元で療養していた。昌幸は信幸に3月13日付の病気見舞いの書状を送っている。その中で「然らば、内府様大坂に御座成られ候に付いて、大名・小名悉く伏見の衆大坂へ引き移られ候、我等も近日相移る可く支度せしめ候」と告げている。真田父子も他の諸大名同様、大坂へ移った。
 上杉景勝は慶長3年正月10日、伏見城で突然、秀吉から越後91万石から会津120万石に転封を命じられた。会津領主蒲生氏郷が文禄4(1595)年、享年40で病没した。その子秀行が幼く家督を継ぐが、御家騒動(蒲生騒動)を切っ掛けに、宇都宮18万石に減封された。代わって上杉景勝が3月に越後から入った。景勝は越後国・佐渡国・出羽国内庄内3郡から、旧蒲生領、会津・仙道・長井(米沢)などを合わせ、庄内、佐渡などはそのまま安堵された。秀吉は家康と伊達政宗に対する抑えと期待した。当時、百万石を越える大封は、徳川家康2百65万石毛利輝元百29万石だけであった。前田利家は加賀、能登、越中にまたがる80万石で4番目の大大名あった。秀吉は景勝に家康と伊達政宗の押さえとして移封させた。景勝は秀吉の許しを得て、3月6日、伏見を発ち下旬には会津に入った。領内の要衝に多くの支城を築き重臣を配置し国境を固めた。蒲生氏の旧臣を召し抱えるなどして家臣を増やしている。
 秀吉は景勝に「その方の家中、侍の事は申すに及ばず、中間・小者に至るまで、奉公人たるもの一人残らず召し連れる可く候」と命じ、それを拒否する者は即刻成敗すべしと徹底させている。秀吉は上杉軍の充実拡大に期すものがあった。川中島以北の上杉方将士、葛山(かつらやま)衆・井上衆・屋代衆といった兵農未分離の土着性の強い下級家臣層も根こそぎ出羽米沢の直江兼続の領内に入った。その領地は北信当時より2~4倍に加増されたという。
 家康が「天下殿」と呼ばれ実権が増大すると合議政治は崩壊し、他の大老達は皆領地に帰国して行った。それを逆手にとり家康が謀反の志ありと糾明すると、景勝以外の毛利輝元以下これに屈し、前田利長などは実母芳春院を人質に出し、家康の孫(秀忠2女珠姫;たまひめ)を弟利常の夫人に迎えることを約した。利常は嗣子が無い利長の養子となっていた。やがて加賀藩2代藩主となる。
 慶長5(1600)年正月、8歳になった秀頼は大坂城本丸で諸大名の新年の参賀を受けた。その諸大名が、その後こぞって西ノ丸の家康のもとへ慶賀を述べに行った。その新年早々、家康は独断で、信濃海津城主田丸直昌を者美濃兼山へ、美濃兼山城主森忠政を海津城へ入る領知替えをした。森忠政はかつて織田信長の将として海津城に入り、川中島で上杉景勝戦った森長可の弟であり、親徳川方の有力大名であった。会津に移封された上杉景勝が旧領回復のため越後奪還に成功した際に備える措置であった。
 家康は大老景勝の違法を書き立て糾弾し、速やかに上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が下された。直江兼続は景勝を排除するための策だと見て、4月14日付の直江状をしたため拒否をした。

 今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。
 一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不審の由、尤も余儀なき儀に候、
   併して京・伏見の間に於てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべく候事。
 一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、
  当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。
 一、景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべき由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入らざる事。
 一、太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あるべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。
 一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。
 一、北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅からざる事(前田利長が家康の威光に屈し母親を江戸に人質として出した件)。
 一、増右(豊臣5奉行の一人増田右衛門少尉長盛)・大刑少(大谷刑部少輔吉継)御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太(榊原式部大輔康政)は景勝表向の取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見に及んでこそ侍の筋目、内府様御為にも罷成るべく候処に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物(堀監物直政、堀秀治の家老)奏者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこれなく候(や)、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入るべく候事。
 一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に候事。
 一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼・炭取・瓢べ(ふくべ)以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際何程の事これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候事。
 一、第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候条此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々残ってこれあるべく候、淵底(詳細は)堀監物存ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎(堀秀治)踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる無分別者と思召さるべく候、縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にて(こそ)景勝相当の出勢罷成るべく候へ、中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、景勝領分道作申付くる体たらく、江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候、御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ(候はば)、合点参るべく候事。
 一、景勝事当年三月謙信追善に相当り候間、左様の隙を明け、夏中御見舞の為上洛仕らるべく内存に候、武具以下国の覚、仕置の為に候間、在国中きっと相調い候様にと用意申され候処、増右・大刑少より御使者申分され(候)は、景勝逆心不穏便に候間、別心なきに於ては上洛尤もの由、内府様御内証の由、迚も内府様御等間なく候はば、讒人申分有らまし仰せ越され、きっと御糾明候てこそ御懇切の験したるべき処に、意趣逆心なしと申唱へ候間、別心なきに於ては上洛候へなどと、乳呑子の会釈、是非に及ばず候、昨日まで逆心企てる者も、其行はずれ候へば、知らぬ顔にて上洛仕り、或は縁辺、或は新知行など取り、不足を顧みざる人と交り仕り候当世風は、景勝身上には不相応に候、心中別心なく候へども、逆心天下にその隠れなく候、妄りに上洛、累代弓箭の覚まで失い候条、讒人引合御糾明これなくんば、上洛罷成るまじく候、右の趣景勝理か否か、尊慮過すべからず候、就中景勝家中藤田能登守と申す者、七月半ばに当国を引切り、江戸へ罷移り、それより上洛候、万事は知れ申すべく候、景勝罷違い候か、内府様御表裏か、世上御沙汰次第に候事。
 一、千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、上洛の儀は罷成らざる様に御仕掛け候条、是非に及ばず候、内府様御分別次第上洛申さるべく候、たとえこのまま在国申され候とも、太閤様御置目に相背き、数通の起請文反故になり、御幼少の秀頼様へ首尾なく仕られ(なば)、此方より手出し候て天下の主になられ候ても、悪人の名逃れず候条、末代の恥辱と為すべく候、此処の遠慮なく此事を仕られ候や、御心易かるべく候、但し讒人の儀を思召し、不義の御扱に於ては是非に及ばず候間、誓言も堅約も入るまじき事。
 一、爰許に於て景勝逆心と申唱え候間、燐国に於て、会津働とて触れ廻り、或は人数、或は兵粮を支度候へども、無分別者の仕事に候条、聞くも入らず候事。
 一、内府様へ使者を以てなりとも申宣ぶべく候へども、燐国より讒人打ち詰め種々申成し、家中よりも藤田能登守引切候条(当家の家臣・藤田信吉が当家を出奔し上洛した件)、表裏第一の御沙汰あるべく候事、右条々御糾明なくんば申上られまじき由に存じ候、全く疎意なく通じ、折ふし御取成し、我らに於て畏入るべきこと。
 一、何事も遠国ながら校量仕り候有様も、嘘のように罷成り候、申すまでもなく候へども、御目にかけられ候上申入れ候、天下に於て黒白御存知の儀に候間、仰越され候へば実儀と存ずべく候、御心安きまま、むさと書き進じ候、慮外少なからず候へども、愚慮申述べ候、尊慮を得べきためその憚りを顧みず候由、侍者奏達、恐惶謹言。」


 6月6日、大坂城西ノ丸で上杉討伐の軍議が開かれた。徳川家康のもとに参集した大名は、藤堂高虎・池田輝政・浅野幸長・黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・山内一豊など親徳川派と、故秀吉子飼いの一族加藤清正・福島正則ら、東国からは伊達正宗・最上義光・岩城貞隆・南部利直・村上義明・堀秀治佐竹義宣らであった。
 家康は天下を擾乱させる企てありとして上杉討伐を宣告した。直ちに東征軍を結成し、徳川家康・秀忠を大将とする藤堂高虎・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・黒田長政・山内一豊・寺沢広高ら西国・東海の80余諸将を率いる主力軍10万余は、奥州街道白河口から会津に侵入、それに呼応して伊達政宗が北の伊達・信夫から、最上義光南部利直は米沢口から、佐竹義宣・岩城貞隆は西の仙道口から、加賀の前田利長、越後の堀秀治・村上義明・溝口秀隆ら北陸勢は越後の津川(新潟県東蒲原郡阿賀町津川)から進撃と決まった。7月2日、家康は江戸で待つ秀忠と合流した。
 昌幸は、徳川の命令による会津上杉景勝攻めに加わり、徳川軍と合流する為に宇都宮に向かっていた7月21日、下野国犬伏(いぬぶし;佐野市)で石田三成方の密書を受け取った。7月17日付で差出人は長束正家・増田長盛・前田玄以ら5奉行らで「徳川家康を討つため挙兵した。太閤様の御恩を忘れないなら秀頼に忠節してほしい。」と昌幸宛に加担を依頼してきた。その書状を受けた。昌幸は息子の『信之』『信繁』(幸村)と父子三人で話し合い、その結果、『昌幸』と『信繁』(幸村)は豊臣方、『信幸』は徳川につくことに決した。これを後世「犬伏の別れ」という。
 昌幸の妻は宇田下野守頼忠の娘で、石田三成も宇田氏の娘を妻にしている。互いに、相聟の義兄弟であった。信繁の妻は大谷吉継(吉隆)の娘であった。いずれの義父も三成と旧知で西軍に属した。ただ宇田頼忠は豊臣秀長の重臣で、秀長病没後は1万3千石で秀吉に仕えている。宇田氏と真田氏の当時の年齢や身分の差を鑑みると、これは誤伝ではないか。一方信幸の妻は本多忠勝の娘(小松殿)であった。享保18(1733)年に完成した真田家初期の家記ともいえる『滋野世記』は「家康・秀康の恩を蒙りたる当家にではなけれども、か様の節に臨み、家をも起こし大望をも遂げんと思う」「か様の時に父子引き分かれ候も、家の為には能き事も有る可し」と記す。
 7月29日付で、長束正家ら奉行衆・大老宇喜多秀家・同毛利輝元らから、それぞれ3通の書状が届いた。いずれも「諸将の人質は取り置いた。太閤様御懇意忘却無くば、この節秀頼様への御忠節肝要」とある。

16)真田氏分裂
 昌幸・信繁が信幸と決別し上田に帰国した事は、家康に直ちに報らされ、家康は信之の忠信を賞し、7月24日付で「今度安房守罷り帰られ候のところ、日比(ひごろ)の儀を相違えず、立たれ候こと、奇特千万に候」と褒状が下され、7月27日には「今度安房守別心のところ、その方忠節を致さるの儀、誠に神妙に候。然らば、小県の事は親の跡に候の間、違儀なく遣わし候。その上身上何分にも取り立つべきの条、その旨を以って、いよいよ如在に存ぜらるまじく候。仍って件の如し」と昌幸の所領まで加えるという家康の安堵状が与えられた。
 昌幸・信繁が三成の挙兵に呼応して上田に戻ると、7月24日、家康は松本の石川康長と松城(松代)の森忠政を封地に帰し昌幸に備えさせた。8月5日、家康は秀忠を下野国宇都宮に留め江戸に帰府した。
 昌幸・信繁は急ぎ上田へと戻るが、途中沼田城で一泊する予定でいた。しかし父子が東西に分かれたことは既に沼田城に報らされていた。沼田城を守る信之の妻小松殿は頑として入城を拒否した。このとき、昌幸は「せめて孫の顔だけは見せてくれ」と小松殿に頼み、城壁越しに孫の顔を見て上田へ戻っていった。その間、7月21日付の石田三成宛の返書を使者に託している。そこにはこの重大な事変を事前に知らせなかったを難じていた。
 7月30日付の昌幸宛の『石田三成書状』は「去る21日両度の御使札、同27日江佐(近江佐和山)に致来候、拝見候」で始まる長文であった。「先ず以て今度の意趣、兼て御知らせっも申さざる儀、御立腹余儀なく候、然れども内府(家康)大坂にある中、諸侍の心いかにも計り難きに付いて、言発之儀遠慮仕り畢。」と謝っている。真田父子の妻に関しては「上方の趣、大方御使者見聞候。先ず以ておのおのの御内儀かた大刑少(大谷刑部少輔吉継)馳走申され候の条、御心安かる可く候。」「漸く昨日伏見まで罷り上る躰に候。重ねて大坂の御宿所へも人を進め候て御馳走申す可く候事。」と気遣いしている。
 同日付の大谷吉継からの書状が昌幸・信繁父子宛に届けられた。「昌幸父子の事が気がかりだ。真田昌幸・信繁の妻子は吉継が預かった。秀頼様を御見捨てならないよう。返事を待つ。」とある。
 三成が佐和山城に逼塞する事態をもたらした細川忠興(長岡越中守)に対して「長岡越中儀、太閤様御逝去巳後、かの仁を徒党の大将に致し国乱雑意せしむる本人に候の間、即ち丹後国へ人数差し遣わし、かの居城乗っ取り、親父細川幽斉在城へ押し寄せ、二の丸まで討ち破り候ところ、命計り赦免の儀禁中へ付いて御詫言申し候の間、一命の儀差し宥され、かの国平均に相済まし御仕置半ばに候事。」と報復をしている。三成は真田氏に「この方より3人の使者遣わし候。右の内一人は貴老返事次第案内者をそえられ、この方へ返し下さる可く候。残り2人は会津への書状とも遣わし候の条、その方より慥なるもの御添え候て、沼田城・会津へ遣わされ候て給う可く候。御在所まで返事持ち来たり帰り候わば、またその方より案内者一人添え候て上着待ち申し候事。」ときめ細かく、上杉との繋ぎを依頼している。
 8月5日、三成は真田父子3人宛に「大坂・京都伏見の軍状を告げ、飛脚を沼田越えに会津に届けさせるよう頼む。小諸・深志・川中島・諏訪等の仕置は任せる。」と書き送って来た。この時点では、信幸も昌幸らと行動を共にしていると見ていた。翌6日の書状は昌幸宛となり、信幸が家康に属していた事が知られ「信幸の去就が気掛かり、どうなっているのか?去る3日の書状が佐和山に届いた。小諸・深志・川中島・諏訪・甲州までの仕置を矢弓にても才覚にても任せる。家康が上洛すれば尾張と三河の間で討ち果たす。既に伏見城は陥落した。宇田河内父子は無事。」と記している。昌幸の5女は宇田河内守頼次に嫁していた。宇田頼次死後は徳川家臣滝川一積(かずあつ;一益の孫)の妻となる。

17)慶長の上田合戦
 天正18(1590)年、家康の関東移封により、信濃の各地に秀吉配下の武将が大名として配置された。天正11(1583)年8月から築城される大坂城に倣い大規模な城郭築造工事が行われ、石垣が築かれ瓦葺きの櫓が四方に構えられ、松本城や高島城のように天守閣も建設された。築城ブームの最中、真田昌幸も上田城の大改修に乗り出したようだ。上田城の本丸や二の丸の堀などから金箔を貼った鯱(しゃち)瓦や鬼瓦の破片、桐の文様の鬼瓦、菊花文様の軒丸(のきまる)瓦など、桃山時代特有な瓦が出土している。昌幸も新興大名バブルに乗り、かなり立派な城郭建築を本丸・二の丸・掘割・櫓に施行したようだ。上田城本丸東虎口の櫓門の石垣が見事で、特に右手の石垣にある高さ約2.5m・横約3mの大石は、真田昌幸が築城の折り柱石として据えたものと伝えられ「真田石」と呼ばれている。真田信之が松代への転封に当たって父の形見に持ち運ぼうとしたが、大勢の力でもびくとも動かなかったという。ただ、昌幸の上田城は堀と土塁が防御の中心で、石垣はなかったとみられている。
 真田氏移封のあと上田藩主となった仙石忠政は、幕府の許可を得て寛永3(1626)年から上田城復興工事にとりかかった。その再建にかかる上田城の本丸・二の丸の入口部分に石垣が築かれた。その石垣の大部分は「打ち込みはぎ」という、前以って、ある程度加工して積みやすくした石を使う方法がとられている。その石材は、城の北の守り太郎山などから採れる緑色凝灰岩が主に使われたという。

 先の天正11(1583)年4月13日付の景勝の書状によると、当時、家康に属していた昌幸の築城に神経質になっており「海津よりの注進の如くんば、真田、海(尼)ヶ淵取り立つるの由の候の条、追払ふべきの由、何れへも申し遣わし候、然らば、吾分検使に申し付けるの由、皆々へ書中に露わし候の間、虚空蔵山(太郎山の西)へ罷り越し、諸侍中、稼ぎの程、慥に見留め(下略)」と上田築城を妨害しようとした。
 昌幸は天正13(1585)年7月、景勝と和解し、今度は同年8月、家康軍と神川で交戦する。昌幸は徳川軍を上田から退けていたが、9月に入っても、未だ鳥居元忠・平岩親吉などが佐久郡高野(佐久穂町高野町)に陣を布き再出撃の機会を窺っていた。そうした情勢下、景勝の将直江山城守兼続に宛られた9月22日付の島津忠直の書状に「御書謹で拝領、殊に御樽肴下され候、忝く次第に存じ奉り候、然而(しかるに)伊勢崎(上田城)御普請、寸隙(すんげき)油断在らず致之候、近日成就す可く仕り候、此等之趣、宜(うべ)預かり御披露候」とあり、その翌日の須田満親の書状にも「御状謹んで頂戴、殊に御樽肴過分忝く存じ候、越後衆并びに安房守(昌幸)当州(信州)面々、御書御樽拝領仕られ、御普請何連も相稼ぎ如在(じょさい;手落ち)無く候」とあり、この度の上田城の普請には上杉方の信州と越後の諸侍も協力し、直江兼続も酒肴を届けるなどして気を使っていた。

 次に上田城が脚光を浴びるのは、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の際である。この時、畿内に向かう家康は、自らが徳川の1万の軍勢を率いて、浅野長政・福島正則・黒田長政・加藤嘉明など豊臣恩願の大名らとともに東海道を西上する。その前に秀忠に徳川の本隊3万数千を率いさせ、中山道から畿内に向かわせた。秀忠は上杉景勝の対抗策を講じると、8月24日の朝、兄結城秀康に見送られ宇都宮を出陣した。秀康は会津上杉の抑えとして留まった。家康は北関東から奥羽の諸大名をもって上杉の包囲網を布いた。24日同地を発ち中山道で西上した。その軍兵は3万8千で、榊原康政・大久保忠隣(ただちか)・本多正信・牧野康成ら徳川譜代の重臣が揃い、そこに小諸の仙石秀久・上野国総社の諏訪頼水など信州に関わりのある大小名が加わった。この24日には、家康の先発隊、その殆どが豊臣恩願の大名達であったが、勇戦し織田秀信の岐阜城を陥落させ、さらに合渡川(ごうとがわ)や犬山でも西軍に勝利し、三成が籠る大垣城に迫る勢いとなった。秀忠軍が上野松枝に差し掛かったとき、家康が9月1日、江戸を出陣するとの報せを受けた。
 真田信幸は沼田城に戻っていた。会津上杉に対する後詰の役割と父昌幸が領する小県への備えであった。宇都宮にいる秀忠の8月23日付の書状が信幸に届いた。明日24日、下野を発つから「其分御心得候而、彼表へ可有御出張候」またそちらで合流すると伝えている。秀忠は大久保忠隣・本多正信ら重臣を信幸のもとへ使者と遣わし、事前に打ち合わせを行っている。昌幸に対する勧降策であった。
 信幸は最早徳川に臣従する関東の小名であれば、父昌幸の情勢判断とは異なり、既に家康が「天下殿」と称されている今、覇者は決したと見ていた。戦国時代では小領主達が日和見主義に徹して一族の存続と発展を計って来た。昌幸も信玄亡き後、そうした的確な智謀を重ね成功してきた。「天下殿」が政権を確立する画期であれば、日和見は逆に小賢し過ぎて疑心を招き、やがて粛清されると、信幸は弁えていた。信幸は上田表に走り懸命に説得している。
 それが奏功したのか、秀忠が軽井沢から小諸に着陣した翌日の9月3日、秀忠軍が上田表に迫ったところに、上田城主昌幸から信幸を介して詫び言を添えて降伏して来た。秀忠にとって幸先の良い好事であった。早速使者を遣わし昌幸の赦免を許した。だが翌4日には、それが偽罔と知れた。怒った秀忠は翌5日、上田城攻略にかかる。まさにこの時昌幸の策にはまった。昌幸は嫡子信幸の立場を、どう斟酌していたのか?
 秀忠の怒り心頭の様は、この慶長5年3月、美濃金山から川中島に加増転封された森忠政宛の書状に端的に表現されている。「よって真田安房守こと、頭を剃り罷り出、降参す可き旨、真田伊豆守以て種々詫び言申し候、命の儀相助く可きと存じ、昨日使者を以て申し入れ候のところ、今日に至って存分に申し候の間、赦免能はず候、然る間、急度相働く可きの条」と昌幸の術中にもてあそばれていた。森忠政は真田への北の押さえとして川中島領国への帰還を命じられていた。同様に石川康長も深志領に戻っていた。
 信幸は、以後真田一門として徳川方の恨みを買い、異常なまでの方策で真田家を存続させていく。

 昌幸は8月6日付の石田三成からの書状で「小諸・深志・川中島・諏訪・甲州までの仕置を矢弓にても才覚にても任せる。」と一任され、信濃・甲斐の2国からも兵を募ったようだ。松代藩主真田氏代々の菩提寺長国寺の『長国寺殿御事蹟稿之10 翁物語』に「先ず馬上の者の儀は申すに及ばず、歩行の者又者侍足軽中間小者百姓町人にいたるまで、此の度の働きに付いては、敵の首1つに知行百石宛行う可し、偽り有る可から不と申し渡すに付き、侍分は申すに及ばず、足軽中間小者町人在々所々の者までも勇(いさむ)こと限りなし」と、兵の出自は問わず徴募し、手柄を立てれば直臣として採ると士気を鼓舞していた。
 秀忠勢は、先の天正の上田合戦の敗退による怨恨もあって、小県村落からの穀類・薪水の徴発と夫役は苛酷なものとなった。対抗上、農村は郷士・猟師らを主体に自衛組織を形成し、昌幸の徴募に応じていった。
 上田の真田軍は2千5百余り、かつて痛い目に遭わされており、徳川方はこの機会につぶしておきたい、今回は前回を上回る3万8千の大軍でもあり、容易に討伐が可能と思った。そこに油断が生じ、それにつけ込む昌幸の策にはまった。秀忠は昌幸との幾度かの書状のやりとりで日時を浪費した。秀忠も気づき、諸将を集めて軍議を開き、直ぐに上田城を攻め落として美濃へ向かうことに一決した。

 秀忠勢は9月6日、小諸から染屋台地に本陣を移し上田城と対峙した。秀忠勢は近辺の民家に分散して宿営していたが、榊原康政は「真田は軍謀老練、早速今夜にも夜討ちを仕掛けるかもしれず、油断なきように」と進言、諸将は野陣を張り篝火を焚き警戒を強めた。実際、真田幸村が夜討ちを仕掛けようとしていたが、警戒が厳重なので引き返した。
 秀忠の軍兵が城外の稲を刈るなど挑発する。昌幸父子が4、50騎ばかりで物見に出ていたのを見て秀忠は依田信守に命じて鉄炮を撃たせた。昌幸は何喰わぬ顔で引き返す。その後、城外の神川(かんがわ)辺に小さな要害があり、伏兵を置いているのではないかと牧野勢が調べたところ、案の定伏兵が急に現れて襲いかかってきた。
 牧野隊が戦うのを見た大久保忠隣・本多忠政隊も横合いから攻め掛かり、ここに戦闘が開始された。兵数に勝る秀忠勢は、勢いに乗じて真田勢を城際まで追い詰めた、と見た瞬間、門を開いて真田信繁が突撃してきた。同時に、城の北側太郎山(上田市)方面から鬨の声が上がり、悪鬼の形相で槍先を揃えて突進する集団が迫って来た。かつて幾たびかの戦場で、分捕った腹巻き・臑(すね)当てを付け、垢だらけの襦袢に褌をあらわにし、乱杭歯をむき出し、喚きながら槍先を揃えて果敢に秀忠勢の脇腹を攻撃する。長い戦乱で田畑や町屋を蹂躙され、身をすり減らす過酷な労働の生産物を搾取され、その上、厳しく軍役にかり出されてきた百姓町人の兵団であった。卑しまれ、虐げられてきた彼等は、「敵の首1つに知行百石宛」という、身を立てる絶好の機会であれば、命を賭して突撃した。恐怖する寄せ手が混乱したところへ、昌幸が80騎を率いて出撃、秀忠勢を散々に蹴散らし、速やかに帰城した。秀忠勢は、ものの見事に「軍謀老練」の真田の術中にはまり惨敗した。
 秀忠勢は上田城を遠巻きにして善後策を協議する。三河譜代の戸田一西(かずあき)は力攻めを献策し、一旦はそれに決まりかける。だが美濃方面の状況が急を告げてきた。9月8日付の森忠政宛の書状で秀忠は「内府様より急ぎ上洛するよう申し越された。小諸に兵を引こうと思う。」とあり、いささか長閑過ぎている。配下の部将からも「上田如き小塁に時日を移しては益無きに似たり、上方の敵こそ最務なれ、詮ずる所、三成だに滅亡に及ばば、昌幸が如きは飛札にても埒明く可し」と諫言された『但馬出石仙石家譜』。結局城の押さえに兵を置いて美濃へと急ぐことに決した。上田を後にし小諸を発したのが9月11日のことであった。結局8日間上田に釘付けにされた事になる。大門峠を越えて13日に下諏訪へ到着、16日に漸く、関ケ原の戦いの前哨戦木曾攻略に参戦していた山村良勝館に宿した。既に関ヶ原での一大決戦が15日に終わり、参陣は、既に不可能となっていた。
 秀忠は結局、徳川家子飼いの主力軍を率いていながら、天下分け目の8時間に及んだ関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
 地方の小さな勢力でありながら、2度にわたって徳川の大軍を手玉に取る、真田昌幸の名が天下に轟いた。
 関ヶ原の戦いでは、西軍の裏切り者が続出して大敗北し天下人が決した。東軍は三成の佐和山城を陥し、24日には大坂城西の丸を明け渡させた。27日、家康は本丸で秀頼に戦勝報告を済ますと西の丸に入った。先の21日、三成は伊吹山中で捕らえられ、10月1日、小西行長・安国寺恵瓊らと六条河原で斬首された。この日奥羽でも、西軍敗北を報らされ、上杉は最上らの戦いから兵を引いた。
 真田昌幸は信繁(幸村)とともに高野山に追放されることとなる。昌幸父子は、関が原決戦後、敗軍の将として死罪が下命されていた。信之と信之の舅本多忠勝らが徳川家康に必死に嘆願し、2人は紀伊国九度山に配流を命じられた。

18)関ヶ原の合戦以後
 西軍の大名は改易か減封となった。美濃岐阜13万石織田秀信、備前57万石宇喜多秀家、土佐22万石長宗我部盛親、大和郡山20万石増田長盛ら88家余りが改易となり、総没収高は416万余石あった。会津120万石上杉景勝は出羽米沢30万石に、安芸120万石毛利輝元は周防・長門37万石に、常陸54万石佐竹義宣は出羽秋田20万石に減封されるなど、その削封高は216万余石となる。両者合わせての没収総高は六百万石を超え、当時の全国の総石高千8百5十万石の3分の1に及ぶ。秀吉が没した当時、豊臣家は40カ国に亘って222万石であった。その豊臣の蔵入地は摂津・河内・和泉の65万石余りに減らされていた。家康は関東と伊豆の領国支配から、陸奥南端の磐城平から越前・近江・北伊勢に一門と譜代大名を配置した。家康の直轄地も4百万石に達し、佐渡金山・石見銀山・足尾銀山などの金銀鉱山と京都・奈良・伊勢山田・堺・尼崎・伏見・長崎などの主要都市も押さえた。家康の所領と実収入は、秀吉を遥かに超えていた。
 信幸は、真田昌幸が武田勝頼などに仕えていた際、人質として武田氏に出されていたが、真田氏が一度徳川と和睦した天正17(1589)年2月、昌幸に同行し家康に出仕した。以降は、父真田昌幸や信繁とは、別の道を歩み、一貫して徳川の家臣で在り続け、やがて父・弟と敵対関係になった。
 徳川に忠誠を励み、その父譲りの才気で混沌とする戦国末期を乗り切り、家中の騒動を収め、その卓越した政治力で真田の名跡と血統を全うした。信幸はこの慶長5年、真田氏の「通字」を外し信之と改めた。関が原の役後、昌幸の旧領は、信之に与えられ、戸石城も支城として存続していたが、信之の松代城転封に際して廃城となった。
 上田領は、関が原の役前の7月17日付で信幸に家康の宛行状が渡されていたため、それが実行され真田氏の領地として引き継がれた。信之は沼田2万7千石と上田3万8千石に3万石が加増され9万5千石の大名となった。

 家康の死後の元和8(1622)年、松代藩へ国替えとなる。信之は上田から江戸に呼び出され、将軍秀忠から松代へ転封を命ぜられた。その帰国の途上、武蔵国鴻ノ巣宿より、重臣出浦対馬守昌相に宛てた10月13日の書状が遺っている『矢野磐氏蔵』。
 「尚々、我等事もはや老後に及び、万事入らざる儀と分別せしめ候へども、上意と申し、子孫の為に候条、御諚に任せ松城へ相移る事に候。様子に於ては心易かるべく候。去る11日の書状鴻巣に参着、披見候。仍って今度召しに付いて、不図参府仕る所に、河中嶋に於て過分の御知行拝領せしめ候。殊に松城の儀は名城と申し、北国かな目の容害(要害)に候間、我等に罷り越し御仕置き申し付くべきの由、仰せ出だされ候。彼の表の儀は拙者に任せ置かるるの旨、御直に条々、御諚候。誠に家の面目外実共に残る所なき仕合せにて、今十三日鴻巣に至って帰路せしめ候。先づ上田迄罷り越すべく候間、其の節申すべき事これ在る儀、一角所迄遣わされ候。祝着に候。猶、後音を期す。」
 川中島で4万石を加増する、松城は名城で北国第一の要害である、特に仕置(しおき)をするようにと、転封を命じられる。沼田と合わせて13万石を領した。一見加増と見えるが、松代の実入りは名目以下の石高であり、逆に上田領内は開発により名目以上の石高となっており、実質的には減封に等しかった。昌幸が上田城を築き信之の松城転封まで約40年間、遂に真田氏による上田支配に終止符が打たれた。なお、松城を松代と変えたのは、3代幸道が藩主の頃、5代将軍綱吉の時代の宝永年間といわれている。

19)真田昌幸の晩年
 
高野山蓮華定院は中世末期から佐久・小県地方諸士の旦那寺となっていた。昌幸は天正8(1580)年2月、同院を真田郷民の宿坊と定めていた。その縁で配流先の九度山に蟄居する昌幸・信繁(幸村)父子の書状が蓮華定院経由で上田に届けられた。書状の多くが『長国寺殿御事蹟稿』に『蓮華定院書面』として遺る。昌幸・信繁父子が九度山に蟄居できたのも蓮華定院の尽力による。「右屋敷高野行人方領知の所に候故、年貢等蓮華院より相計り所持し退転(中断)無き候」と伝え、「高野山より一つ麓、細川と云う所に少之間御居住、次に蓮華定院、且つ又惣分(本山の共同施設か?)中又は文殊院へ所望して、九度山に両殿別宅に屋敷を構え、是に御住居成らせ候」「房州様御宅跡道場海東と申す候、左衛門様御屋敷を堂海東と申す候、右之外、御家中窪田角右衛門殿・三井豊前殿・鳥羽木工殿何れも別宅屋敷御構え成されて候」と九度山に落ち着くまでの状況が詳細に記されている。

 昌幸の配流先まで従った近臣は原出羽守・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・飯島市之丞・石井舎人・青木半左衛門他16名といわれている。信繁は妻子同伴であったが、随行した近臣の数は不明である。昌幸父子は蟄居中であれば、収入源はない。毎年、信之から一定の合力が「年貢等蓮華院より相計り所持し退転(中断)無き候」と届けられていたが、貫目と内容などは不明である。信之の藩財政も徳川幕府の度重なる御普請要請で貧窮していた。昌幸は合力の催促に池田長門守・川野清右衛門を国元や江戸に遣わしたりし、時には「駒1疋所望致す」と書き送ったりしている。信之の妻小松殿を初め旧臣達からは、暮・正月・節句の祝儀として、鮭・白布・扇子・金子・書状などが届けられている。
 紀州藩主浅野幸長(よしなが)からも合力や便宜を受けている。『蓮華定院書面』には「浅野但馬様より、毎年御合力50石参らせ候、且つ九度山の浦の川淵上下5丁の間は、房州様・左衛門様御遊山所に遣わされ候」と記されている。藩侯の好意で、蟄居の無聊の慰めとして山狩・川狩も黙認されていた。
 昌幸への合力は国元に大きな負担を掛けていた。昌幸が臨時の合力として40両を無心し、その半額の20両を昌幸の3男昌親から届けられていた。それを知らせる書状に「こちらは借金が多く難儀している。残る20両も1日も早く届けてほしい。今年の合力中の10枚ほどは、春の内に届けてほしい。できなければ5枚でも6枚でもいい」と書き送っている。

 「なほなほ、銀子二匁目出珍重に候。以上。度々尊札に預り候。恐悦の至に候。仰の如く、それ以来は申し承はらず候。この方替る儀なく候 御心易かるべく候。よって内府様当夏中関東御下向の由風聞候の間、拙子こと本佐州(本多正信)定めて披露に及ばるべく候か。下山に於いては面拝を以って申し承はるべく候。恐惶謹言」と慶長8(1603)年3月15日、高野山蟄居中、信綱寺に返信した信綱寺宛昌幸書状からも、昌幸は家康の側近本多佐渡守正信へ手を回し、赦免について家康への取り成しを頼んでいた。流罪になって2年余、既に倦(う)み下山を期待していたことが知られる。昌幸が帰郷を願う書状が幾たびか信之に発せられている。一時代の梟雄、老いて無惨、徳川に対する自らの所業を忘却し妄執にとらわれいた。
 幕府の赦免の望みが絶たれていくと、晩年、病身の信之に「先書に申し上げる如く候、爰許永々の御山居萬(よろず)御不自由御推量成されるべく候、我等手前などの儀にては、猶以て大草臥れ者に罷り成と申す可く候(後略)」、次いで「其許の様子久々承ら不候間、半左衛門(青木)相下す候、御息災候哉承り度候、此の方別儀無く候、御安心す可き候、且つ此の1両年に年積り候哉、気根草臥れ候、万事此の方之儀御察し有る可く候」と愚痴をこぼしている。やがて「我等如き去年煩い再発候て、散々之躰に候」と嘆いている。

 昌幸はこの九度山で郷里帰巣を願いながら慶長16(1611)年6月4日、生涯を閉じた。享年65であった。昌幸は九度山の「真田庵」に葬られるが、故郷を強く偲ぶ昌幸のために遺髪等は国元に運ばれ、長谷寺(上田市真田町真田)にある両親の墓の隣に埋葬された。
 昌幸は九度山での蟄居中に、信之に長谷寺の諸堂修理を命じるなど両親、故郷を慕う思いが益々強まったようだ。

20)徳川家康、上田城を廃す!
 昌幸が築いた上田城は慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後に完全に破壊された。館・櫓は破却され、濠も埋められ廃城同然となった。真田昌幸・信繁(幸村)父子が、上田城に立てこもって、秀忠軍の西上をくいとめたことに対する報復の始まりであった。関ヶ原の戦い後、上田城番に家康の命で、諏訪頼水・依田信守・同信政が任に就いていた。その後、上田城を与えられた真田信之は、反逆の疑いをかけられるのを恐れ上田城に入城しなかった。当地に配属された家臣も僅かで、城址も城下町も相当廃れたようだ。
 慶長16(1611)年5月、父昌幸が病没、元和元(1615)年5月、大坂夏の陣で弟信繁(幸村)が討死、翌元和2年4月17日、家康が薨去する。享年75。家康の死の前後、信之は漸く約15年ぶりに、上田城に本拠を移した。沼田城3万石は嫡子信吉が継いだ。信吉の母は長篠の戦いで討ち死にした幸隆の嫡男信綱の娘であった。徳川幕府治世下では軽過ぎた。信之は信吉の室を、2代将軍秀忠の腹心土井利勝と並ぶ酒井忠世の娘を娶らせた。

 元和2年7月、金井善兵衛に原町の伝馬や掃除を厳重に命じている。9月には小県郡の奈良原又兵衛に、領内の欠落百姓を召還させるよう指示した。和田・長窪・秋和など郡内に一連の「百姓召還し状」を公布し、荒廃した領内の復興を計り、更に新田の開発を促進させた。翌年、金井善兵衛に原町の割り直しを命じ、諸役を免除している。信之は上田城が壊された後、三の丸、今の上田高校の所に藩庁も兼ねた藩主居館を建てただけであった。信之が城普請を行った記録がない。将軍秀忠に後尾をつかまされないためでもあった。一方、城下町の町家の整備には腐心した。同4年10月、海野町7軒、原町3軒を藩主用の宿に指定した。
 元和6(1620)年信之55歳、正室小松殿が、草津温泉へ赴く途中、鴻巣宿で病没した。供養のため大英寺を創建した。翌7年、3月7日、小県郡有坂新町の開発のため、未納年貢の帳消しを条件に逃散百姓を入植させた。かつての百姓は、いつ治まるとも知れぬ戦乱による酷税と耕地の蹂躙、一方民に負わされる軍役負担に耐えられず、耕作地を放棄する逃散家族が続出した。その後他の農耕者が勝手に侵入し生計を営む。秀吉平定後、平時となると、既存の農地利権者が戻り権利関係が紛糾する。秀吉は現占有者の権益を優先保護した。

 元和8(1622)年信之57歳、上田の屋敷の改築のため材木などを武石より取り寄せた。その頃、将軍秀忠より江戸へ呼び出された。その月20日、江戸城に登城すると、川中島に3万石を加増のうえ松城へ移封を命じられた。沼田と併せ13万石を領した。

 真田氏のあと上田藩主となった仙石忠政は、上田城赴任にあたり、謁見した秀忠から上田城修復料として、銀2百貫目を与えられた。忠政は、普請計画絵図を幕府に提出し、許可を得て寛永3(1626)年4月から上田城復興工事に着手した。この時の縄張り、城郭・堀・廓などの配置については、城普請を指示した忠政の覚書きや真田氏時代の瓦の出土状況などを鑑みて、既存の埋め堀を再び掘り上げるなどして、元の姿に戻すことを基本としたようだ。
 ただ、昌幸の上田城は堀と土塁が防備の中心で、石垣はなかったとみられるが、仙石氏再建の上田城では本丸・二の丸の入口部分に石垣が築かれた。上田城は復興工事が始められた2年後の寛永5年に仙石忠政が病没し、工事は中断された。そのため、本丸については隅櫓が七棟と櫓門が二棟できるなど、一応の体裁が整ったが、本丸・二の丸の中に御殿は造られず、二の丸・三の丸については、城郭らしい建物は全く建てられなかった。寛永の上田城修築に際して、瓦を焼いた地が、後の瓦焼町となった。明治に「川原柳」の字名に転じた。上田城は近世の城として未完成のまま、明治維新に至った。
 小県の山間部から氏素性が定かでない真田氏がしぶとく家名を立て、三途の川の渡し賃とされる六文銭を堂々と旗印とし、死兵の覚悟で敵陣を突く力攻めし、その一方知略を尽くしで敵方主城を調略し、信濃中信と上野国を舞台に、敵わぬまでも徳川・上杉・北条など天下の領国大名と互角に争い、家名を幸隆・昌幸・信幸・信繁(幸村)が日本史上に語り継がれる画然たる伝説的な偉業を成し遂げた稀有な一族であった。郷土の人々は、経った40年の真田氏支配であったが、その後の藩主仙石家の家紋永楽銭、次の城主松平家の五三家紋を顧みず、現代に至るも上田市中には六文銭が跋扈している。

 慶長19(1614)年、京都方広寺の鐘銘問題を切っ掛けにして、徳川と豊臣が戦端を開いた。慶長19年、20年の両年に亘った大坂冬の陣・夏の陣に、豊臣秀頼からの援軍要請に応える大名は一家もなく、加勢は全て牢人衆であった。大坂冬の陣の後に、真田幸村が恐ろしくなった徳川家康は、真田幸村に信濃一国40万石を恩賞に味方にしようとしたが、それは現実的な話でなく、単なる誘いと見抜いたのか、真田幸村は最後まで豊臣氏に殉じた。
 元和元(1615)年4月6日、家康は大坂城再征の陣触れを発した。同月末から大坂夏の陣が開始され、家康・秀忠の本隊は河内路を進軍した。5月、大坂冬の陣に続いて信之の子信吉・信政が参陣した。
  5月6日、幸村は竜田越えで大和から大坂城へ迫る水野勝成・松平忠輝・本多忠政・松平忠明ら別働隊に属する伊達政宗軍と河内国の入口で死闘を繰り広げた。既に大坂方先鋒の後藤又兵衛が小松山から徳川別働隊先鋒水野勝成勢、2陣の本多忠政勢と激戦となり、遂には4陣の政宗軍先鋒片倉重綱までが参戦し、無勢の最中奮戦中流れ弾に当たって壮絶な戦死を遂げた。そこへ遅れて到着したのが毛利勝永真田幸村の後続部隊であった。信玄公以来の赤備えの幸村隊は、寡兵でありながら果敢に伊達政宗軍に正面から挑んでいった。政宗は旗本騎馬鉄砲隊8百騎を中央に置き、両翼に鉄砲足軽隊と槍足軽隊を配置し突撃させた。幸村は岩陰・樹木・窪地に兵を潜ませ、騎馬鉄砲隊が駿馬を疾駆させ浴びせる馬上筒の一斉射撃を凌がせた。続く鉄砲足軽隊と槍足軽隊の喚声が上がると、岩陰に身を潜めていた幸村が静かに采配を振るうと真田鉄砲隊が大轟音を発しつるべ撃ちをする。それが合図で 赤備えの兵が物陰から突然わき上がり、真田家特有の必死を覚悟した兵となり伊達本陣にただひたすら突入した。幸村の采配は際立っていた。寡兵でありながら伏兵として備えていた騎馬隊が、漸く間に合い伊達軍を側面から襲った。伊達軍の先鋒は甚大な被害となり戦闘能力を失っていた。これが『道明寺の戦い』でやがて日没となり、幸村は疲労困憊し、追撃もできず大坂城へ戻った。
  翌7日、大坂城から最期の決戦と、名立たる武将が、死に花を飾らんとして果敢に挑み討ち死にした。幸村は大坂勢の掉尾として家康の本陣に突入し奮戦した。孤軍奮闘した真田の各将兵は一人も残らず討死し、幸村は終日の戦い疲れ果てて、大坂城南方、茶臼山の北の安居天神(やすいてんじん)の境内で休息している時に討ち取られたという。
 幸村は複数の影武者を置くが、戦況変化に的確に応じ、しかも指揮権までも与えられるほど戦術眼に優れた部将達を選び任じた。幸村はかつて若年でありながら、父昌幸譲りの老獪ながらも統制された将兵を率い信濃の筑摩地方で幾たびか進出し、越後の雄上杉景勝やその寵臣直江兼続を困惑させている。そのゲリラ的に少数ながら敵陣に、多方面から鋭く迫る戦法に、徳川軍は混乱を極めた。幸村の享年49。
 豊臣秀頼母子は城内の山里曲輪の糒蔵(ほしいぐら)で自害した。大野治長らが火薬に火を放ち、亡骸を飛散させ豊臣家は滅亡した。秀頼の8歳の男子国松は伏見で捕らえられ、京都所司代板倉勝重のもとに連行され、京の六条河原で斬首された。7歳の女子奈阿姫(なあひめ)は千姫の養女となり助命され、鎌倉東慶寺の尼となった。天秀尼と号し、後に20代目住持となっている。
 京都所司代坂倉周防守「板倉籠屋証文」の「籠屋」とは「牢屋」の事である。その記録によれば、幸村の一子大助は、京で僧侶「東庵」と称していたが、発覚し捕らえられ牢死している。それでも京の「三条河原」で首を刎ねられている。そこは古くからの刑場で、豊臣秀吉の時代、石川五右衛門が一子と共にここで釜茹でされている。
 大野治房(はるふさ)の子宗室は、近江国佐和山で捕縛された。別の一子は長井勘兵衛の名を変えていたが、子の長太郎と共に長崎の本大工町で捕らえられ京で処刑されている。それは大坂夏の陣から34年後のことであった。

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