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古代黄河中下流域の気候 | 古代黄河文明の土器 | 環濠集落 | 母系社会 | 仰韶文化の墓制| 古代黄河文明の生業
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 中国新石器時代の仰韶(ヤンシャオ;ぎょうしょう)遺跡 
 ① 古代黄河中下流域の気候
 黄河は中国で揚子江についで2番目の川で、その源流は、西部の青海省にあって、そのヨグゾンリエ盆地付近より東に流れていき、九つの省を経て、山東省から渤海に注ぎます。途中黄土高原を通り、その大量の土と砂を運ぶので、黄色く染まり、モンゴルや中央アジアの砂漠地帯からは、黄土が風で運ばれ、黄河に降り、その中流・下流域に黄土層を形作り、黄土地帯に農耕文化を生み、中華文明を発祥させました。
 「文字と都市と青銅器」の3つの要件が揃って初めて、世界の四代文明は、そのアイデンティティーを認められますが、その中で、現代まで脈々と続いているのが、中国黄河文明だけなのです。
 黄河中下流域の仰韶文化遺跡出土の動植物遺体を中心に研究された結果、B.C.6,000~B.C.1,000.の、この地域の年平均気温は、おおむね2℃ほど温暖であったそうです。近年では、花粉分析法などの発達によって、さらに細かく地域・地形別に変動状況が解ってきています。
 今日では沙漠の真っ只中に存在する、寧夏回族自治区の賀蘭山にも、当時、羚羊やノロ鹿、牙ノロ鹿が闊歩する森林や草原がありました。見事な岩画が、古代華北の環境が今日とは全く異なっていたことの鮮やかな証明となります。
 仰韶文化の特徴は、彩陶・磨製石斧・石刀・紡錘車等を伴う新石器文化で、防御用の濠が集落全体を囲み、その内部に住居が密集する環濠集落が形成されています。
 この新石器文化の担い手は、モンゴロイド系の東アジア的特徴を持っています。 環壕集落周囲には大量の落ち葉が堆積しています。当時の黄河中流域が、森林地帯であったことがわかります。動物は鹿、猪等で、粟、黍の栽培が主な食料で、穂摘み用の石包丁がありました。
② 古代黄河文明の土器
 仰韶(ぎょうしょう)遺址は、1921年、スウェーデンのアンダーソン(Johan Gunnar Andersson)が、黄河中流域の河南省錝池県仰韶(ぎょうしょう)村で発見しました。
 B.C.4800~B.C.2500頃の文化で、日本では縄文時代早期末葉から中期中葉にあたります。仰韶文化を代表する遺跡と評価されているのが、陝西省西安市の半坡(はんぱ)遺跡です。それで、仰韶半坡類型文化と称されています。
 B.C.4800年頃は、紋様として彩色した後に、焼成される紅い素焼きの土器・紅陶が主流で、縄文が殆どです。中国では彩陶と称しますが、その彩文土器を特徴とする古代文化が、仰韶半坡類型文化であります。
 中国ではB.C.1万年ぐらいから農耕が始まり、土器を作る様になっていました。そしてB.C.1600年頃、商王朝の時代に青銅器が登場します。その間、ほぼ5000年間続いた新石器時代に、彩陶や黒陶等の土器の文化が花開きます。土器の表面には顔料で絵付けをして焼き上げたもので、特にB.C.5000年からB.C.2500年頃にかけて盛んに作られます。その秀作であるものは、全くといえるほど、日本の縄文土器とは、性格を異にしています。
 当時、既に轆轤の技術によって、均整のとれた器を作り上げ、洗練化された文様を描いて、表面を美しく磨き上げることをしていた河南省の仰韶文化は、彩陶文化の代表的存在です。その簡素で素朴な美は、今から約3千~2千年前、縄文時代の晩期の文化(亀ヶ岡縄文文化)より、1,500年以上もさかのぼります。
  ちなみに中国では、土器のことを「陶器」と表記します。色調によって、紅陶、灰陶、黒陶、白陶等に分かれます。紅陶は、酸化炎で焼成された紅褐色土器、灰陶は、還元炎で焼成された灰青色の土器です。黒陶は、表面は黒色だが、胎土は暗灰色、灰白色で、焼成終了直前に燻して黒色に仕上げられたと考えられています。白陶は鉄分の少ない良質の陶土を用いた白色土器です。
  彩文土器とは、彩色顔料で具象文や幾何学文を描いた素焼きの土器で、原始農耕文化の発生とともに発達し、世界各地で製作されています。南アジアの先史時代の土器には、必ずといってよいほど彩文が施されています。直線のような単純な文様のものから、動物と植物といった具象文を、複雑に組み合わせたもの、精緻な幾何学文等、様々です。
 B.C.4000年頃、シリア、南メソポタミアのアル・ウバイド遺跡のウバイド彩文鉢や、B.C.3200年頃、イランのテペ・ヒッサール山羊彩文深鉢等が有名です。とりわけ、パキスタン西部のバローチスターン高原、インダス川流域、そして東のデカン高原に、彩文土器が、目覚しく発達します。
 仰韶半坡類型文化圏の彩文土器は、土器成形し、乾燥させてから、表面を磨き、赤・白・黄などの化粧土(スリップ)をかけ、その上に黒や赤の顔料で文様を描き焼成します。顔料には酸化鉄が用いられ、焼成すると、黒色または褐色に出色します。文様は幾何学文のほか、人面、魚、動物等の具象文が目立ちます。
 仰韶文化時代、日本の縄文時代同様、土器製作が盛んに行われています。オカリナ類似の土笛もありました。仰韶文化早期の地層から出土した土器には、まだ轆轤(ろくろ)は使用されていません。いわゆる巻上げ法といって、泥質の土を輪にして、それを積み上げていく手法で作った土器です。この手法も縄文土器と同じと見てよいでしょう。一般的には広口で、浅底の平らな丸っぽい盆や鉢、そして甕などが多数出土しています。 土器は、彩色後に焼成された紅い土器・紅陶が主流で、泥質陶と夾砂陶の2種類があり、泥質陶の多くは赤色で夾砂陶の多くは褐色です。泥質紅陶が主で、夾砂紅陶が次ぎます。焼成温度が低いため、陶質は脆く、罐や碗の口は多くは鋸歯状になっています。
 丸底鉢で三足鉢の炊具とみられる三足罐(かま)・日本の茶碗のように円形の台が付いた圏足碗・ひょうたん形の葫蘆(ころ)瓶等で、交叉縄紋が多く、細く浮かぶ弦紋・鉢の口縁部に紫紅色で幅の広い帯が描かれる寛帯紋・彩陶花紋・剔刺(てきし)紋、魚紋・直辺三角紋も見られます。
 仰韶文化の出土例として、彩陶魚文瓶は、高さ 19cm× 胴径 15cmですが、墨彩で、鋭い角度をもって膨らんだ胴中央一回りを、鮮やかに大きく描かれた魚が紅陶地に映え、一見単純ですが、よく映え実に美しいのです。この魚文は、盆では多いのですが、瓶は希です。魚、人面魚は初期彩陶に多く描かれています。
  半坡(はんぱ)遺跡からは、単体魚紋盆といって、魚が描かれた厚手の土器が多数出土しています。魚の紋様は、半坡の人々が、渭水支流域の魚を貴重な食料源としていたため、一番身近な素材だったのでしょう。
 粟や黍を作り、比較的容易に取り易い漁労を生業にしていました。 人面魚紋盆の紋様は、人間の顔と魚の体を合体させた絵柄です。生活の糧である魚を、共同体の守り神としていたようです。そのありがたさを、充分認識していたようです。
 半坡社会は、富の蓄積も貧富や身分の差もない、日本の縄文時代的原始社会でした。 仰韶文化晩期の地層から出土した土器は、夾砂加彩灰陶(かさいかいとう)で、白色や朱紅色の彩絵が見られます。灰陶は、高温だが、酸素の供給が不足している、不完全燃焼の還元炎で焼くので、酸素が不足している分、焼成物から酸素を奪い取るため、独特の発色が生じ、肌が重い灰黒色になるかわりに、焼きしまりがよく、硬いという利点があります。焼成後に彩色する灰陶を加彩灰陶と呼びますが、焼きつけをしないため、加彩が剥落しやすい欠点があります。
 刻画符号は、仰韶文化期の地層から出土しました。 B.C.4000年頃になると、轆轤(ろくろ)の使用が見られる仰韶廟底溝類型文化が登場します。廟底溝(びょうていこう)類型土器は、半坡類型に比べ複雑な、円・曲線・直線の幾何学的文様からなっています。
③ 環濠集落
 仰韶文化圏の特徴として環濠集落の存在です。中国古代の都市を邑(ゆう)と言います。邑という字は口と巴からできており、「口」は人々が住んでいた集落を取り囲む城壁を、「巴」は人が座っている姿を表した文字です。環濠集落のように、人が集まって城壁の中で暮らしている光景、これが邑です。こういう邑が、新石器時代、黄河中流域に出現します。邑の住民は祖先を同じくする単一氏族集団か、血縁関係に基づく複数の氏族集団が一つの邑を建造します。 血縁を紐帯とする氏族組織が、強固であった集落でした。 半坡遺跡が発掘当時のまま保存されています。半坡遺跡の総面積は5万㎡、戸数200、集落には、5~600人が暮らしていたと推測されています。住居の大きさは、どれもほぼ20㎡で、部屋の中央のかまどで煮炊きをしています。
 大地湾一期文化(B.C.5200~B.C.4800)と、仰韶文化(B.C.4050~B.C.2950)ですが、その初期の住居址は、方形と長方形で、床・壁は草と泥を撹拌して塗り込めています。仰韶文化中期では、住居の壁が抹紅色に塗られるのが流行ります。 B.C.3,500年以降の後期になると、半坡後期類型・西王村類型・大司空類型・秦王塞類型の四種の文化に大別され、社会の分業・階層化が進むと、周囲との交流も見られ、同時に貧富の差が現れてきます。それでも、本来、完結的・自給的集落ですから、階級的な差はまだ少なかったようです。
 仰韶文化と1つに括られますが、臨潼姜寨(りんとうきょうさい)遺跡では、竪穴住居で草木製の屋根ですが、隣接の半坡遺跡の住居は土壁のキノコ状で、出入り口は鳥の巣箱のように小さい住居形式で、それぞれが独自の様式です。 住居は、竪穴式・平地式・高床式が確認されていて、竪穴式住居は円形と方形があり、中央に炉を備えています。平地式住居は、全体を浅く掘りくぼめ、中央に炉があり、柱を立てている。高床式は確認例が少ないのですが、長江下流域では、「千欄」といて、寧ろ、後世でも、よく見られる様式です。
  環濠集落は、中央に広場を備え、住居の出入口が広場を向いて、住居の周囲に貯蔵穴が配置していることが多いのです。また家畜の囲いと推定される遺構と土器を焼いた窯がみつかっています。環濠の外には、墓地があります。
④ 母系社会
 半坡遺址を中心とした仰韶文化社会は、基本的には女性を中心とした母系制社会でした。男子は漁撈・狩猟採集や土木作業を担い、女子は農業のほか、糸を紡ぎ麻布を織り衣服にし、魚網を編みます。土器作り等も、当初は女性の主な役割だったでしょう。ただ、母系・父系 の議論の本質的な意味合いが、分かりません。歴史研究には、そういった大雑把な議論に、寧ろなじまないと考えます。いつの時代でも、通常、家庭内は母系社会なのです。
 陝西省華県柳子鎮東南、姜寨遺址から40㎞ばかり西で、元君廟仰韶墓地が発見されました。副葬される女性の頭蓋骨の額から耳にかけて、黒っぽい帯状の痕、飾りの付いたヘアバンドの痕が見つかりました。頭の上には、髷に挿したと考えられる骨製の長い笄も発見されました。首の辺からは、動物の骨でつくった首飾りの小玉が、出土するなど、その副葬品の豊かさから、母系制社会だったと思われています。 しかし、その一方で,仰韶社会は、母系制社会でなく,男子の系列を拠り所にしているという説もあります。この説は農業が、初期の原始的形態ではなくて,仰韶文化の時代、既に社会的分業が行われていたとするものです。その根拠として、墓の副葬品や埋葬形態に、ある程度格差が認められると説明されます。 定説的には,なお母系制社会とされていますが,仰韶文化の社会的性格を解明していくには考古学調査をさらに行い、客観的証拠を積み重ねていく必要があります。
 現段階では、やはり原始的農業が、女性を中心に行われていたと考えてよいでしょう。 集落の中心的なところには、公共の集会所のようなものが建てられており、集落の維持管理等、共同農作業の段取り、巻狩り、周辺集落との軋轢等が相談されながら、生活が営まれた社会であったと考えられます。とはいえ、仰韶文化における中国文明の研究は、まだまだ未知の部分が多いのです。また集会の議論は、母なる女性達だけで、諸事を決めていたのでしょうか?専門家なら、もっと緻密な議論を期待したい。

⑤ 仰韶文化の墓制
 また元君廟仰韶墓地は、黄河中流域の新石器時代仰韶文化半坡類型に属します。墓地は居住地の北面にあり、多くは二次葬の合葬墓です。一度埋めて肉を腐らせ後、骨を掘り出して、主要な骨をそろえて埋葬し直します。その墓域は一家族単位で、一つの穴に埋める家族合葬墓群からなる、共同の氏族墓区です。また頭を西向き仰向けに真っ直ぐ寝かせ、両腕は身体の両脇に沿って垂らされる睡眠葬でもあります。 これは、埋葬制度に当時の家族・氏族・集落の社会組織の状況が反映されています。3代にわたる合葬墓も見つかりました。同一墓群中に2つの氏族墓区を包括するなど、完全な氏族集落墓群です。
 一夫一妻の合葬墓は未発見で、足元には壺や鉢・甕等の生活用品が供えられていました。しかも副葬品に差がなく、貴賤・貧富の別がありませんでした。副葬される土器の数量は、7~8点で・器種は、小口尖底甕・夾砂壺・鉢等と大体同じで、生前の生活必需品を主体にしています。 この文化は、黄河上・中流域の河南省・甘粛省・陝西省を中心に非常に広く分布し、B.C.4800~2500の長期間に亘って継続し、いくつかの地域で、それぞれの特色をもった文化内容を展開していきます。 
  大地湾遺址(B.C.4050~B.C.2950)は、甘粛省秦安(しんあん)県邵店村東、宝鶏市北首嶺よ西150㎞の秦安大地湾で発見されました。渭水上流で面積は12万㎡です。1978年~1982年、甘粛省博物館が面積 13,700㎡を発掘しました。そして面積、6~7㎡の円形竪穴から黎と油菜を検出、単人仰身直肢の埋葬走者と随葬品がある墓葬墓を発掘しました。
 墓葬は、単人仰身直肢が主で、まれに二次葬、甕棺葬が見られます。土坑墓は、華北・華中の広い地域で確認されており、副葬品は、日常使われる土器が中心で、棺を用いない単人墓が基本です。 甕棺墓は、幼児のものは華北各地で確認されているが、成人のものは、華北平原西部のみに分布して、甕は彩陶である例が多いのです。 また、葬儀図が見つかりました。葬儀図は、6m弱×5m弱の家屋で、草と泥を撹拌した下塗りの上に、石灰で上塗り化粧をした、床の奥壁近くにありました。1.2m×1.1mの大きさに、墨で描かれたもので、少しかすれていますが、上方の人物は二人で、それぞれ足を交差させて立ち、右手に棒のようなものを持ち、左手を頭にあげています。右側の人物は寸胴で、頭から体まで太く、逞しさを現しているように見えます。左側の人物は、頭、首、身体が細く、胸が突出ています。女性でしょうか?下方の長方形の枠には、2体の埋葬者が描かれています。棺に入れた上下、対の人間であることは確かですが、全体的に抽象的な表現で、画像をどう分析すればよいのか、解りません。ただ、下側画像で、上の埋葬者は小さいので、妻で、その下側は、長く太めに大胆に描かれています、夫でしょうか?上側の画像では、女性は細い棒、男性は広幅の棒で、それぞれ左手で、埋葬が終わって、額の汗を拭っている、そんな家族的埋葬の庶民像が彷彿されます。
  大地湾遺址で発掘された神殿の主室は、全面が約17m、奥行が約8m、奥壁が1.5mばかり狭くなっていて不規則な方形です。両側と奥に小室が設けられ、正面に玄関が張り出し、主室中央に炉があります。家屋の前面に、一定の間隔で青い石が置かれ、それに対応する掘立柱の穴があります。葦簀(よしず)をかけた休息所のようなものがあったと推定され、何10人かを収容し、主室から土器も発見されました。村落・村落連合の集合して行事を行った場所ともいえます。 
 仰韶文化の北首嶺遺址の墓地では、首狩にあった遺体に、丁寧に筵を掛けていましたが、大地湾遺址では、日除けの葦簀です。筵も葦簀も日本では、今のところ弥生時代以降にしか見られません。 床は今でいうコンクリートが塗られ、指の頭ほどの粘土塊を焼いた人工骨材を使用しています。世界最古のものです。 中国大地湾遺跡や古代ローマから発掘されたコンクリートの多くは,炭酸化した状態で発見されています。コンクリートが炭酸化することで、セメントの表面の硬化体が緻密化し、外部から湿気が浸透することを阻み、耐久性を飛躍的に向上させます。 現在のコンクリート建造物の意外な脆さは、コンクリート表面の”きめ”の粗さから、水分が浸透して、中の鉄骨が酸化し、さびて膨らんで、周囲のコンクリートを中から亀裂させることによります。大地湾遺跡のコンクリートが、現代まで存続し得た訳は、中に鉄骨が無いことと、表面を炭酸化させるコーテイング樹脂の使用でした。それが、現代建設業界の研究のポイントになっているのです。

⑥ 古代黄河文明の生業
 アンダーソンが、仰韶(ヤンシャオ;ぎょうしょう)遺跡を発掘したとき、土器の断片に籾殻の痕跡を発見しました。これを、ストックホルムで、2人の植物学者エドマンとセーデルベルグが、確認しました。しかし仰韶遺跡発見当時から、その付近は、稲作に適さない土地になっていました。
 その後、黄河中下流域の仰韶文化遺跡出土の動植物遺体を中心に研究された結果、B.C.6,000~B.C.1,000.の、この地域の年平均気温は、おおむね2℃ほど温暖であったことと、近年の花粉分析法等の発達によって、当時の黄河中流域が、森林地帯であったことがわかりました。仰韶文化時代、仰韶村は、稲作を営んでいたのです。
 野生動物の家畜化は、狩猟民によってなされたとする説と、農耕民によってなされたとする説がありますが、遊牧の開始は農耕の始まりよりも遅いものと考えられるようになってきています。
 従来、農耕はメソポタミアで始まり、そこから世界へ広がっていったという一元説が唱えられてきましたが、現在は、いくつかの地域で独自に農耕が始まったという説が主流で、この方が妥当と思えます。
 縄文時代中期頃の日本でも、狩猟や採集と並んで粟、稗、豆類、根菜類を焼畑方式で栽培していたと考えられています。 従来、農耕は大河のほとりで始まったとされてきましたが、メソポタミアの研究では、まず北イラクの山麓地帯・ザクロス山脈やレバノン山脈の西側で雨水を利用して始まり、ジャルモ、ハッスーナ、ハラーフ、サッマラ、エリドゥと伝わり、しだいに南下して、やがてティグリス、ユウフラテス川下流の大規模な灌漑農耕へ発展していったと考えられます。 大河の水を利用した大規模な灌漑農耕は、大規模な集団的な権力機構を必要とします。それによって、豊かな収穫を可能にし、大量の余剰生産物を生みだしました。それが、文明の発生へとつながります。従って、農耕=文明ではなく、大規模灌漑農耕が文明を生む基盤となります。