黎明期の古墳時代 本文へジャンプ

車山高原リゾートイン・レアメモリー   ・諏訪の歴史
箸墓古墳時代 1) 古墳時代とは
2) 三輪山の「ヤマト」とは?
3) 中国史に記される「倭」とは
4) ヤマトの「倭」と「大倭」
5) ヤマトの前方後円墳時代
6) ホケノ山古墳時代の円墳
7) 大和古墳群の西殿塚古墳
8) 大和古墳群の東殿塚古墳
9) 柳本古墳群の行燈山古墳・渋谷向山古墳
10)鳥見山古墳群、桜井茶臼山古墳
11)鳥見山古墳群、メスリ山古墳

1)古墳時代とは
 古墳時代は弥生時代に続き、ヤマト朝廷が日本国家の統一を成し遂げる過程の3世紀半ば過ぎから7世紀の時代区分だ。全国的に6世紀の末には前方後円墳が築造されなくなり、それ以降、畿内で方墳八角墳円墳が築造されていた1時期を古墳時代終末期と呼んでいる。そのため飛鳥時代と重なる。
 完成された最初の大型前方後円墳である箸墓古墳は、ヤマト王権最初の王墓とも考えられている。墳丘長276m・後円部の高さ30m、全面に葺石を厚く積んだ構造だ。後円部最上段は、こぶし大の大量の丸石を積み重ねて築かれていたようだ。このように、一人の権力者のために広大な墓域を占有し、しかも極めて高い墳丘を築き、その全面を人頭大ほどの石で堅牢に敷き詰め、その外周には1重から3重の壮大な濠をめぐらす大型前方後円墳が、北は岩手・山形県から南は鹿児島県まで、日本列島のほぼ全域に造られた時代であった。
 古墳時代は、卑弥呼が死ぬ248年頃後の3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約350年間を指す。
 鉄具・鉄製武器・馬具の普及と大規模な灌漑技術を前提とした農耕生産の向上に伴い、首長勢力の絶対的な権力と富の集中により、社会的身分の差が著しく拡大した。また鉄具の活用は精巧な加工を可能とし、木工具を急速に進化させた。全国に普及した前方後円墳を中核にする古墳は、1,970年(昭和45年)代までは20万基あると言われた。古墳は1,500年前後の風化に耐えるだけの、高度な土木工学的な設計施工により完成されていた。
 堺市大仙町の周囲の古墳と共に百舌鳥古墳群を構成している大山古墳(だいせんこふん)は、一般的には仁徳天皇陵と呼ばれている。現状での規模は、墳長がおよそ486m、前方部は幅305m、高さ約33m、後円部は直径245m、高さ約35mある。三重の濠の外周は2,718m、その内側の面積は464,124㎡である。5世紀中葉から後半に築造され、日本最大である。
 大林組の試算では、古代の工法であれば、1日2,000人、延べ680万7千人を動員して15年8か月を要するという。長年月を掛けて、それも奴隷的な支配により、困窮する民を酷使し、非生産的な巨大墳墓を絶えまなく造営し続けた時代であった。現代、その前方後円墳が1,970年代を境にして、定見なき土木開発許可により激減していった。
 卑弥呼死後の中国も三国時代が終盤期となるが、265年8月に、魏晋革命を決定づけた司馬昭が急死し、嫡男の司馬炎が継いで相国となった。同年12月には魏の元帝から禅譲を受けて即位し、年号を泰始と改め晋王朝(西晋)を立てた。司馬炎・武帝である。
 『晋書』起居註に秦始2(266)年に、倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶えた。晋は290年代頃、宗室内の権力闘争から「八王の乱」となり、中原の地を中心に漢民族が徴用され、或いは逃散し、兵力を周辺の多民族の部族長軍団に頼り傭兵とせざるを得なくなった。結果、匈奴の大首長劉淵が、山西省西部の石(りせき)で304年に晋より自立して匈奴大単于を称した。この漢(前趙)の興起から、永嘉の乱(えいかのらん)と呼ばれ、匈奴・鮮卑・羯(けつ)などの異民族が軍閥化し、その族長が中原で覇権を争い、316年には前趙が西晋を滅ぼした。西晋の王族・司馬睿(しばえい)は江南に逃れ、建業(南京の古称)で東晋を建国した。永嘉の乱から439年の北魏による華北統一までを五胡十六国時代とされる。
 漸く『晋書』の東晋の義熙9(ぎぎ;413)年、倭の五王の一人、讃の朝貢が記される。この間、中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、「空白の4世紀」と呼ばれていた。
 この「空白の4世紀」こそが、倭国にヤマト王権が成立し、王権が強化統一されていった時代であった。古墳時代終末期には、日本国が国号として登場してくる。なお、古墳時代と大和時代はほぼ同時期であるが、崇峻天皇5(592)年から和銅3(710)年の118年間にかけて、飛鳥に宮・都が置かれていた飛鳥時代は、古墳時代の終末期と重なる。古墳時代後期末葉以降から終末期の時期は、広義の飛鳥時代に属する。
 現在、全国に所在する前方後円墳は、約5,000基といわれている。その規模・内容・基数とも奈良県と大阪府を中心に近畿地方が圧倒的に多い。古墳時代は、卑弥呼時代の偉業を継承し「ヤマト王権」を確立し、前方後円墳は、政権のシンボルとして創立され、約350年間にわたり築かれたが、その間、新たに開発された築造技術が幾度か貢献した。戦乱の終息が見通せない中国・朝鮮半島の流民からもたらされた土木技術も大きな進化をもたらした。鉄製・金銅製の優れた製作技術により作られた馬具などの豊富な副葬品文化、卑弥呼以来顕著となった中国の道教思想がより深化した時代でもあった。
 前方後円墳の誕生は、ヤマト政権の確立過程と一致する。墓域の円墳と祭祀を行う方墳が一体化する。それがヤマト王権の祭祀であり、その王権の権勢支配のシンボルとなった。その後350年間、東北地方以南の主力首長の墓制となり、各地の首長の権力・威光の根拠となった。しかも中国・朝鮮半島から伝播した金銅製品や馬具・甲冑などの鉄製の先端技術が、道教思想の進化に伴い、時代ごとに発展の節目にあるヤマトの王は、新たな技術と思想を反映させる前方後円墳を創出した。それを諸国の首長層の墓制とし、大陸の先端技術を導入させた。
 弥生・縄文時代の列島における文化の伝播は、広域的な物々交換経済を可能にした物流ルートを介していた。ヤマト王権の誕生期にも、既に重要な要素となっていたが、古墳時代草創期に、情報の発信と受信が、意図的に列島のほぼ全域にめぐらされたネットワーク化により、中央と地方の直接交流が達成されていたことにある。

2)三輪山の「ヤマト」とは?
 三輪山は、奈良盆地の南東部に位置し、標高467.1m、三諸山(みもろやま)ともいい、なだらかな円錐形の山である。二上山(にじょうさん)は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がり、かつては大和言葉による読みで「ふたかみやま」と呼ばれた。
 奈良盆地南部の人々には、西の二上山と東の三輪山は、目立つ山容でもあり、方角の目安となっている。特に三輪山は、秀麗な姿により縄文・弥生時代を通して、神宿る山・神奈備・神岳とも呼ばれ、三輪山自体が神体として崇拝される神祀りの対象であった。三輪鳥居は、神や神霊が宿る御霊代を擁した領域の結界であって、大神神社(おおみわー)に本殿がないのも当然である。山内自体が本殿であれば、その一木一葉に至るまで神宿るものとされ、斧を入れることは許されない、神官僧侶以外は足を踏み入れることのできない、とされてきた。飛鳥時代には山内に大三輪寺が、平安時代には空海によって遍照院が建てられ禁足の神域でなくなった。
 「大和」は奈良県全域、律令制下の大和国をさすが、それでも山辺郡と城下郡(しきのしものこおり)の境界辺りが「ヤマトの中のヤマト」であった。「ヤマト」と表記される「古代ヤマト」は、通常、纒向を中心とした奈良盆地東南部を示し、三輪山の東南麓にあたるシキ(式:磯城)とトオチ(十市)を中核にし、北側のヤマノベ(山辺)と南のタケチ(高市)の一部を含んでいた。
 ヤマトという地名は、奈良県以外にもかなりある。九州の筑紫には山門県山門郡が、肥後には山門郷があった。 「ヤマト」一文字の解釈が、「邪馬台国」の所在地の解明に重要な要素となっている。奈良時代までの古文献に使われる上代特殊仮名づかいが鍵となっている。平安時代以前には、音読みに区別があり、それを仮名づかいで甲類と乙類で分類していた。「上」の「み」では「可美」・「加美」など甲類の「mi」で表記を区別していた。「神(かみ)」にあたる「み」には、「加微」・「加未」・「可未」・「可尾」など、「微」・「未」・「尾」など乙類の「mi」の音で表記した。「ヤマト」の「ト」の仮名づかいも、甲類では「外」・「戸」・「門」が用いられ、山の入り口や、その外を表記した。
 畿内の「ヤマト」の仮名づかいは、古事記では「山跡」・「夜麻登」、日本書紀では「野麻登」「夜麻苔」・「椰麼等」・「椰磨等」、万葉集では「山跡」・「山常」・「也麻等」・「夜麻登」・「夜末等」・「夜万登」・「八間跡」など様々であるが、甲類の「山門」「山外」「山戸」などの用字は見られない。乙類の「跡」「登」「苔」「等」「常」が当てられている。このことは、畿内「ヤマト」は、山の入り口・門・戸など山の外周を表現するのではなく、山間・山の麓・山の懐・山の本などを彷彿させる表現だったようだ。事実、纒向の古代都市は、三輪山方面から流れる巻向川や初瀬川などの河川流域に誕生し、大和盆地の南部にある大和三山の香久山・耳成山・畝傍山方面から流れる寺川・飛鳥川・曽我川流域に発展した。東の三輪山に対峙するように西側には南河内との境となる二上山・葛城山の峰々が連なっている。それらの山々からとれる木材は、ヤマトの人々にとって、建築材・家萱・土器製作や調理用燃料となる薪・水田の灌漑用材・特に弥生時代以降急速に進化した木工具用材など使途は多様である。また豊富な山菜やシカ・イノシシ・クマなど貴重なたんぱく源の供給地であった。渓流に遡上する川魚漁も食生活をより豊かにしてくれたであろう。周辺の麗しい山々を霊山として信仰の対象としたのも、保護し守らなければ、到るところが裸山となり森林資源は枯渇し、いかに高温多湿な日本列島でも、自然の再生には時が必要だからだ。
 考古学の発掘成果により、2世紀前半までは、九州の文化が先進的であった。3世紀の建造物の出土例でも、圧倒的に弥生先進地の北部九州に集中し、佐賀県の吉野ケ里はもとより、大分県宇佐市大字荒木字小部の小部遺跡(こべ)、同県日田市の小迫辻原遺跡(おざこつじばる)など環濠集落が多数あり、しかも太陽の運行を意識した配置であった。
 小迫辻原遺跡は、日田市大字小迫の通称辻原と呼ばれる台地上にある。そこで発見された2基の環壕居館は、出土した土器から布留式最古期とみられ、3世紀末~4世紀初頭の年代と位置づけられる。しかも、ここに出土した2基の居館には時代差はなく、同時代に併存していた。古墳時代の居館跡は、これまで北関東や近畿地方を中心に発掘されているが、小迫辻原遺跡のように壕に囲まれた居館が2基並んで発見された例はない。
 小迫辻原遺跡の台地は、東西約700m、南北約400mの平面三角形の独立台地で、標高は約124mある。周辺にはほぼ標高を同じくする宮ノ原・草場・山田・朝日・吹上といった台地遺跡が続き、弥生時代から古墳時代の大規模な集落や墳墓が発掘され、その斜面や崖面には数多くの横穴墓が発見されている。
 それでも様々な地誌的な条件を超え、2世紀後半以降になると、考古学的な発掘実績からみると畿内文化の方がより先進的な文化的飛躍を成し遂げている。それにより2世紀後半の「倭国の乱」を契機に、九州の一部勢力が畿内大和に「東遷」したという説が有力となる。
 『魏志倭人伝』に「その国、本亦(もとまた)、男子を以て王と為し、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち女子を共立して王と為す。」と「倭国の乱」が記されている。この『魏書』より後世に編纂された『後漢書』には「安帝の永初元(107)年、倭国王帥升(すいしょう)等、生口百六十人を献じ、請見を願う」「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐し、歴年主無し」とある。桓帝・霊帝合わせて、その在位は146年~189年であるから、「倭国の乱」はほぼ2世紀後半にあたる。
 西晋の歴史家・陳寿が『三国志』の『魏志倭人伝』を記した時代の邪馬台国の国王は、通常、男子であった。その邪馬台国の女王台与(いよ:とよ)以後の研究が、西晋の290年代頃、宗室内の権力闘争から「八王の乱」となり、やがて永嘉の乱(えいかのらん)と呼ばれる匈奴・鮮卑・羯(けつ)などの異民族が軍閥化し、その族長が中原で覇権を争い、316年には前趙が西晋を滅ぼすなど、中国国内でも戦乱が続くためか、疎かになっていた。
 618年5月、隋の煬帝が殺されたことを知ると、李 淵が隋朝の第3代恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となった。その唐初の時代、姚思廉(ようしれん)が編集した、中国の南北朝時代、江南に設立した王朝梁(りょう、502年~ 557年)を記す史書『梁書』諸夷伝の倭の条では「其後復(また)男王を立て、あわせて中国の命を受く」とある。
 唐の李延寿(りえんじゅ)が、その父李大師が編年体の南北朝通史の編纂途中で死去したため、その遺志を継いで、『南史』80巻、『北史』100巻を完成させた。659年に正史とされた。その『北史』東夷伝倭国の条にも「卑弥呼の宗女台与を王と為す」とし「其の後復男王を立て、あわせて中国の爵命を受く」とある。漸く邪馬台国の女王台与以後が記される。
 邪馬台国は台与以降も、大和のヤマト政権へと連綿と継承され、卑弥呼の時代の革新性を内包しながら発展して行った。 古墳時代初期、この三輪山山麓の纏向を中心に、初期ヤマト政権が誕生し、のちに古代国家に成長する。
 纒向遺跡の名は、旧磯城郡纒向村に由来する。『古事記』が「所知初国(はつくにしらす)」の天皇、「『日本書紀』が「御肇国(はつくにしらす)」の天皇と伝える御真木(御間城;みまき)命は「崇神天皇」で、その都に師木の水垣宮(磯城の瑞籬宮)を築いた。JR三輪駅の東南、桜井市金屋の志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)の境内に大正年間に建てられた石碑がある。次の垂仁天皇は師木の「纒向珠城(たまき)宮」、その次の景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」とある。この伝承は6~7世紀に成立した。史実を裏付けるものとして、当地に巨大な前期前方後円墳が存在している。磯城郡は明治29(1896)年、式上郡(しきじょうぐん)・式下郡(しきげぐん)・十市郡が合併し発足した。
 式下郡は、『和名類聚抄』によれば、城下郡(しきのしものこおり)内の六郷として賀美、大和(於保夜末止)、三宅(美也介)、鏡作(加々都久利)、黒田(久里多)、室原(也本也)が記される。現在の梅戸、海知、宮古、八尾、黒田、蔵堂にあたり、天理市や磯城郡川西町、同田原本町にかけての地名が多い。
 8世紀まで「ヤマト」の呼称が残っていた。8世紀から10世紀にかけて「オオヤマト」地域がほぼ形成され、それは中世~近世の大和郷と一致しない。10世紀前葉に成立した『和名類聚抄』巻69大和国郷に記される郷名リストに「於保夜末止」にオオヤマトという和訓が載る。山辺郡6郷には「オオヤマト」に比定される地域はないようである。但し、石生(以之奈利)郷の一部に可能性を唱える説がある。
 古代の大和郷は城下郡に含まれていた。大和神社の西側、天理市の桜井線長柄駅の南西付近にあたる海知町である。8世紀の城下郡大領は大養徳連(やまとむらじ)で、その本拠地は、この大和郷のようだ。
 大和神社(おおやまとじんじゃ)は、天理市の長柄駅の東南にあたる新泉(にいずみ)町に鎮座するが、本来の社地は三輪山の南西、初瀬川右岸にあったとする説が有力であるが、その位置については異論が多く一定しない。10世紀前葉に完成した『延喜式』神名帳(神名上、大和国)には、山辺郡に「大和坐大国魂神社(やまとにいますおおくにたまー)」として載っている。しかも天平2(730)年度「大倭国正税帳」には「大倭神戸」が山辺郡にあると記していた。やがて「オオヤマト」地域は、中世・近世の大和郷とほぼ一致してくる。山辺郡と式下郡にわたり、しかも有力集落は式下郡にあった。即ち、大和神社が鎮座する新泉と三昧田・佐保庄・萱生・兵庫・成願寺・中山・岸田・長柄の各村である。それは大和神社を産土神とする氏子による地縁的なムラの結合体であった。その大和郷の東半分に大和古墳群(おおやまとこふんぐん)がある。
 「ヤマト」の語源自体、「ヤマ(山)・ト(門)」であれば山への入り口の意、「ヤマ(山)・ト(処)」であれば、山の辺の意、転じて山の神が居られるところなどと解される。三輪山も「ミ・ワ山」とみれば、「ミ」と「ワ」を「山」を敬する接頭語と解し「神山」を指し、「ヤマト」とは神が居られる三輪山自体の呼称とも考えられる。
 ヤマトとは、三輪、巻向、初瀬の山々が連峰をなし、その西北部が次第に傾斜しながら大和平野にひろがり、大和川の源流である初瀬川流域と寺川流域に挟まれた扇状地で、初瀬川支流の纒向川が、纒向遺跡の南、三輪山山麓から流れ、その舟運に恵まれ、しかも日常絶えず三輪山を間近に仰ぎみる一帯である。長野県の諏訪地方における守屋山信仰など各地にみられるように、なだらかな姿が優しい三輪山への祭祀の始まりが、纒向の地に大規模な交易市場を伴う政権都市を建設させた。纒向遺跡では、周辺河川近くで各種祭具を埋設した土坑が数多く発掘されている。

3)中国史に記される「倭」とは
 中国・朝鮮半島の古文献や金石文に、倭人・倭地・倭種・倭王・倭国など「倭」の文字が見える。古くから中国王朝と朝貢関係を結んでいたはずの「倭国」で、何故か未だ、文字の検出が意外なほど後期になっている。現在中国に伝わる最古の地理書『山海経(せんがいきょう)』には「蓋国(がいこく)は鋸燕(きょえん)の南、倭の北にあり、倭は燕に属する」とある。『山海経』は古代中国人の伝説的地理を示すが、著者が禹の治水を助けた伯益に仮託されている。実際には後世に多数の人々の加筆があるとみられている。しかもそれに記される「蓋」・「倭」・「鋸燕」自体、その地域も含めて明らかでない。
 「蓋」は「(かい)」であり、朝鮮半島北部にあり、「倭」は、当時の燕国の東北部にあたるとする説がある。蓋国は今日の北朝鮮北部の中央にある広大な高原「蓋馬高原(ケーマーコウオン)」にあった国とすれば、後の高句麗国と重なる。
 戦国期の燕は今日の中国河北省北部以東の北京・天津ラインより東方の大部を占める大国だった。燕が極盛の頃は、現在の河北省・遼寧省のみならず朝鮮半島北部と山東半島の殆どを支配していた。そのため「蓋国は鋸燕の南にある」とした。また倭の北にあるというから、そのまま解すれば倭の領域は蓋国、後の高句麗国の南側、今日の北朝鮮のいずこかにあったとみられる。ただしこの倭を、列島の倭と断定するのは難しい。
 後漢の王充(おうじゅう:27~100?)の著書『論衡(ろんこう)』には、巻8「周の時、天下太平なり。倭人來りて鬯草(ちょうそう)を獻ず」とあり、巻13「周時(紀元前1100年頃)、天下太平にして、越裳(えつしょう)、白雉を献じ、倭人、鬯艸(ちょうそう)を貢す」とある。鬯草は粤地(えつち)が特産とするウコンと総称される香草類で、粤地は春秋時代の越国ではなく、南越国の領地である。南越国は、紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって中国南部からベトナム北部にかけて嶺南地方(リンナイ)に自立した王国であった。漢の武帝により紀元前111年に滅ぼされ漢の支配下に入った。南粤、趙朝ともいう。「倭人」は南越の国人ように記されていた。
  『漢書』は後漢の班固一族の著作である。清朝の考証学者趙翼(ちょうよく)は「4人の手を経て、30~40年を閲て始めて完成した」とある。建初年間(76年~84年)に編纂が叶った。漢の高祖から王莽の時代にいたる前漢一代の正史である。いわゆる「倭国」に関する最古の確実な資料と考えられている。 その10志のうちの一つ『地理志』第八下 燕地条に「然るに東夷は天性柔順、三方の外に異る。故に孔子は道の行なわれざるを悼(お)しみ、浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな。樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、歳時を以って來たり獻見すと云う」と記される。「楽浪」とは楽浪郡のことで、前漢の武帝がB.C.108年に朝鮮においた4郡の一つで、他に真番(しんぱん)、玄菟(げんと)、臨屯(りんとん)の各郡があった。武帝は漢の統治官である都尉が殺害されたことで、衛満の孫・右渠の代で衛氏朝鮮を討滅した。その楽浪郡の「海中に倭人有り」としても、北九州の住民を指すとすれば、真番郡あるいは韓の海中とするはずだ。
 西晋の陳寿が太康年間(280~289年)に撰述した『三国誌』の『魏志』東夷伝倭人の条に「男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身し亦以て大魚・水禽を厭(はら)う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東に在るべし。」と記される。
  「夏后少康」とは、夏の中興の英主とされている「少康」のことである。「夏后」とは、この場合、夏王朝の帝の后の意味ではない。「大字典」によれば「后」は、人と一と口の合字で、天下に号令する君のことである。中国最古の歴史書の書経(しょきょう)には、天子を「后王(こうおう)」と称し「樹后王君公承以大夫師長(后王君公を樹て、承{うけたまわる}に大夫師長を以てす。)」と記している。
 小康の子が「会稽の東を統治したが、その遥か東の海上に」倭があるとしている。陳寿が著した『三国志』は、極めて簡略で難解である。そのため中国でも理解し難く、南朝宋の裴松之(はいしょうし;372~451年)が、注で補っているほどである。それだけその漢文の解読が難しい。
 陳寿は建興11(233)年~元康7(297)年の人で、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた文官である。当時の倭は、九州以南の海上にあると認識していた。陳寿の記述にも時代の限界と伝聞に頼らざるを得ない危うさがある。
 しかし多くの示唆に富む記述が多い。『魏志』東夷伝韓の条に「韓は帯方の南にあり、東西は海を以って限りとなし、南は倭と接し、方四千里ばかり。三種あり、一を馬韓といい、二を辰韓といい、三を弁韓と曰う。辰韓は、古の辰国なり」とあり、その馬韓に関して「漢の時楽浪郡に属し、四時朝謁す。魏略に曰、初め右渠いまだ破れざる時、朝鮮相歴谿卿、諫めるも右渠用いざるを以って、東之辰國に往く」とある。となれば衛氏朝鮮当時、朝鮮半島南部では、馬韓が勢威を揮っていたようだ。しかも韓は「南は倭と接し」とあり、朝鮮半島の東海にある日本列島の倭とは考えにくい。当時の倭人は紀元前2世紀頃から紀元前後ごろにかけて、定期的に漢の植民地楽浪郡を介して前漢王朝へ朝貢しており、「100余」のクニがあったと記されている。
 公孫氏は後漢末期の動乱期、董卓(とうたく)により遼東太守に任命された。その後自立し、子の康(こう)、孫の淵(えん)と3代にわたって遼東地方を支配する。帯方郡は公孫康が後漢末の建安年間(196~220)に、楽浪郡を2分して、その南の荒廃した地域に設置した。従って、後漢の正式な郡県ではない。韓は帯方の南に在り、東西は海で限られ、南は倭と接しているとされている。となると朝鮮半島南部となる。
 帯方郡は、帯方太守・張撫夷(チョウイブ)墓や郡治のあった智塔里土城(チタムニトソン)のある黄海道(ファンヘド)信川(シンチョン)郡が、それに該当する。楽浪郡址と同時代の瓦・・銭等が出土している他、漢・魏時代の遺物・遺構も多い。智塔里土城は600×7,500mの面積があり、県城とみられる遺構である。
 弁辰の条に「弁辰は辰韓と雜居し、また城郭あり。衣服・居處辰韓と同じ。言語・法俗相似る、鬼神を祠祭するに異あり、竃を施けるに皆戸西にあり。その廬國(とくろこく;朝鮮半島南部の国)倭と界を接す。十二國また王あり、その人形皆大。衣服は潔清にして、髮長し。また広幅細布を作る。法俗特に嚴峻」とあり、しかも「國出鐵韓倭皆從取之(国、鉄を出す、鐵・韓・倭皆従つて之を取る)」とあれば、対馬海峡を越えた倭国とは余りにもかけ離れている。
 『漢書』地理誌の楽浪郡含資県につけられた原注に「帯水、西に発して帯方に至り海に入る」とある。すると西流する帯水という河川があって、その上流に含資県があり、下流に帯方県があったとすれば、含資県は先述した辰韓の右の渠帥(きょすい;副首長)で廉斯(れんし=地名)の人、(さく)が楽浪に降る途上の地名として現れる。それは辰韓と楽浪を結ぶ最短ルートのはず、となると帯水は漢江となり、それも東南から流れる南漢江となる。この文献で比定すると、ソウルになる。しかし、漢代の遺物に乏しく、県城等の遺構もない。
 日本国内でも、特定の地域の勢力の移動に、よくその地名の移動が伴う。弦菟郡の高句麗などでも県・郡の移動に伴って位置が変わっている。この時代の為政者も、当然、便宜的に地名の移動をした。確かに、当初、帯方県はソウル方面であった。帯方郡設置の時代に、黄海道に移っていた。その後、帯方郡は建興元年(313)、遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は雪崩をうって瓦解した。その民や財貨、技術、文化は、近接する馬韓・弁韓・辰韓に広く吸収され、次の時代の百済・伽耶・新羅という国々を建国するきっかけとなった。
  『後漢書』は、中国、後漢時代を記した正史の一つで、南朝宋の范曄(はんよう;398~445年)の撰である。従って「魏志倭人伝」を収録する『三国誌』より後世の史書となる。しかも『三国誌』を参考にしている箇所もある。ただ范曄は、既に書かれてあった数種の『後漢書』を参考にして著している。その志30巻は、西晋の司馬彪(しばひょう;240?~306年?)が撰した『続漢書(しょくかんじょ)』からとっている。『続漢書』は後漢の光武帝から献帝にいたる約200年の歴史を紀伝体で記述してあったが、散逸して詳細な内容は不明となっている。
 『後漢書』の東夷伝の倭の条には「建武中元二(57)年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」と、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、「委奴国王印」の金印を賜与されている。また光武帝本紀には「東夷倭奴国王遣使奉献」とある。いずれも建武中元二年の事である。
 光武帝により下賜された金印を、唐代の張楚金が著述する『翰苑(かんえん)』で「紫綬の栄」と記し、その『翰苑』が太宰府天満宮に収納され国宝とされている。
 天正4(1784)年、博多湾の志賀島で、甚兵衛が水田の耕作中に偶然発見したとされている金印の印台は、昭和41(1966)年)に通商産業省工業技術院計量研究所で精密測定された。2.35四方で109gある純金製であった。紐は身体を捩りながら前進する蛇が頭を持ち上げて振り返る形に作られた蛇紐であった。紐が亀紐でなく蛇紐で、印文が「王」で終わり、「璽」や「印」の文字が使われていない。委奴国の王は、漢文化の文字で上表文として献ずる外交までにいたらず、「委奴国王印」は異民族の王や侯に外臣として下賜された程度の官印とみられる。
 『後漢書』には「安帝、永初元(107)年、倭国王帥升(すいしょう)等、生口160人を献じ、請見を願う」とあり、その安帝本紀にも、永初元年に「倭国、使を遣はして奉献す」とある。漸く日本列島に関わる倭が登場してくる。「倭国王帥升等」の解釈も、現在の通説では「帥升」を王名とし、「帥升」など伊都国・末盧国・奴国などの王らが連合して貢献したとされている。
  『魏志倭人伝』では、卑弥呼が共立される前に「倭国乱、相攻伐歴年」として国が乱れ、何年も戦いが続いたとする。『後漢書』倭伝では、「桓霊間倭国大乱、相攻伐歴年主無」とその時期を「桓霊の間」と明示し「倭国大乱、歴年主無」と国が乱れ何年も主となる王が無かったと記す。後漢の第11代皇帝の桓帝(かんてい)と12代の霊帝合わせて、その在位は146年~189年であるから、「倭国の乱」はほぼ2世紀後半にあたる。
 『後漢書』に記される倭・倭人が総て日本列島内の種族ではない。『後漢書』の鮮卑の条に人国(かいじんこく)の一つに「倭人国」がある。 好太王碑は高句麗の長寿王が甲寅年(414)に、先王にあたる第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた石碑である。そのため広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われる。その碑文中にある倭・倭寇でも日本列島に所在する倭とは速断できない。
  「倭」には諸説あるが、後漢の許慎(きょしん;30~124年)が著述する最古の部首別漢字字典『設文解字(せつもんかいじ)』で、倭とは「順皃、人に従ひ、委の声」とあり、「委」は「ゆだねる」「まかせる」の意で「委従」に通じ、従順の意味合いが強い。それで『前漢書』『後漢書』でも東夷に関して「天性従順也」と評した。

4)ヤマトの「倭」と「大倭」
 「倭」を『古事記』では倭建命のように「ヤマト」と読んだ。その一方で『日本書紀』では日本武尊と表記している。『古事記』・『日本書紀』いずれも、畿内のヤマトを大和で表記していない。先述するように多くの万葉仮名が使用されているが、殆どが倭・大倭である。『古事記』では神武天皇の和風諡号は神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのみこと)と表記されている。景行天皇の条の倭建命や倭屯家(やまとのみやけ)など類例は多い。『古事記』では、大倭の領域は明確ではないが、畿内ヤマトより広域で、古訓は「オオヤマト」である。イザナギ・イザナミの国生みの条で、本州を大倭豊秋津嶋(おおやまととよあきつしま)と記している。
 『日本書紀』でも大和の表記はないが、畿内ヤマトにも倭・大倭の字をあて、垂仁天皇の巻に、天皇が、誰に大倭大神(おおやまとおおかみ)を祀らせたら良いか、中臣連の祖・探湯主(くかぬし;くにうず)に占わせたところ、崇神天皇の皇女・渟名城稚姫命(ぬなきわかひめ のみこと)と占示された。しかし姫命は、痩せて弱っていたので、大倭直の祖・長尾市宿禰(ながおちのすくね)に祀らせたとある。
  『日本書紀』で注目されるのは、畿内ヤマトより広域に王権が拡大するにつれ、日本・大日本と表記され、本州を『古事記』が大倭豊秋津嶋としるすが、大日本豊秋津洲とし、その注記に「日本、此をば耶麻騰(やまと)といふ」とある。ヤマトの領域が日本列島への拡大を意識させた。『日本書紀』では日本武尊・神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)などの表記が多くなる。
 「倭」は紀元前から中国の各王朝史に登場するが、日本列島およびその住人を指すとまでは断定できない。『古事記』『日本書紀』では、古い時代には「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」、あるいは「葦原中国(あしはらのなかつくに)」などと呼んでいた。やがてヤマト政権の統治領域が拡大するにつれ、ヤマトが日本全土を表すものとなった。中国では古代から、日本のことを「倭」と呼んでいた。日本でも、中国に対するときは、自国を「倭」と呼んだ。やがて日本では、「倭」を「やまと」と訓ずるようになった。
 日本という国号は、7世紀後半から使用された。日本とは「日出処」から由来したらしく東方の意味で、貴族官人の対外的意識の高まりにより、大倭にこの日本の名称が採用された。当初は、「日本」は「やまと」と読まれたが、漢字音で「にほん」あるいは「にっぽん」と読まれるようになった。
 養老4(720)年に成立したわが国最初の正史『日本書紀』は、成立当初の書名は「日本紀(にほんぎ)」とあった。平安初期の頃から「日本書紀」と呼ぶようになった。『日本紀』の研究は、成立直後から官人の書として講筵が盛んに行われ、多くの「私記」が作られた。
 中国の南朝『宋』は南北朝時代の南朝最初の王朝で、420年、東晋の武将劉裕が建康(南京)を都として建国した。その史書『宋書』夷蛮伝倭国伝に、宋の高祖の永初二(421)年、詔に曰く「倭の讃、万里を越えて貢献を修める、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授(官を授ける)を賜うべきなり」と。「倭の五王」、讃・珍・済・興・武と記される5人の王の初見となる。 『隋書』ではとも記した。奈良時代中期の天平勝宝年間(749年~757年)の孝謙天皇の時代から同音好字の「和」が併用され、次第に「和」が主流となっていった。
 それが何故か「やまと」と訓読みされながら「大倭」や「大和」と記されるようになる。平安時代初期に編纂された勅撰史書『続日本記』の和銅6(713)年5月条に、『風土記』撰進に際し「畿内七道の諸国郡郷の名は好字を著けよ」と命じている。既に国名に好字をあてるよう命じ、2字に変えさせたのは、藤原京から平城京へ遷都した元明天皇(げんめい)の和銅初(708)年前後のようだ。和銅6年には郡郷にまで行き渡っている。
 「紀伊」も「キ」を最初は「木」と簡単に書き、好字に変えるために「紀」となり、更に2字にするため「紀伊」となった。「三河」は素朴な「三川」であったが、字画の多い「参河」を用いた。「古事記」には、科野国と記名されていたが、その8世紀には、既に信濃国と書かれるようになった。古代琵琶湖は、淡水の大きな湖であるので「淡海(おうみ)」と書き、同じ淡水の浜名湖と区別するため、よりも都に近いという意味で「近淡海(ちかつおうみ)」と呼ばれ、2字表記するため「近江」と書いた。一方、浜名湖は「遠淡海(とおつおうみ)」と呼ばれ、後に「遠江(とおとうみ)」となった。東は大井川を境に駿河、西は境川が三河との国境で現代でも静岡県と愛知県との県境である。北は信濃の遠山郷に通じる。
 「倭国」が「大倭国」となる最古例が、慶雲4(707)年11月と四天王寺所蔵の「骨蔵器」に刻まれる威奈真人大村(いなのまひとおおむら)の墓誌名「大倭国葛木下郡」である。『続日本紀』では、この表記が天平9(737)年12月27日には、儒教にいう養徳を用いて大養徳国となり、天平19(747)年3月16日には、再度、大倭国に戻った。
 『続日本紀』の「大宝2年3月17日の条」には「大倭国に命じて、二槻離宮(多武峯の離宮)を修理させた」とあり、畿内ヤマトの国は大倭国であった。「養老7(723)年10月の条」には、左京人の紀家が白亀を献じた。これを瑞祥とし、出した国の大倭国造に、(あしぎぬ;絹織物の一種)10疋・綿100疋・布20端を賜与された、とある。奈良時代の天皇の宣命では、畿内ヤマトを「倭」で表記している。
 倭・大倭が大和と表記される確実な用例として、養老2(718)年に、『大宝令』を改修した『養老令』の条文にある。皇室の供御田の規定には「畿内に官田を置かむことは、大和摂津に各三十町、河内山背に各二十町」とある。『養老令』は完成しても、その施行は、かなり年月を経ており、天平宝字元(757)年5月とかなり遅れている。それで『続日本紀』でも、大和の用字が使われるのが天平宝字元年以降となった。それ以後、大和国・大和神山などの用例や、皇子名としての「倭王」が「和王」に変わり、「倭舞」が「和儛」に、「倭歌」が「和歌」に、「倭琴」が「和琴」と用例が増えていく。
 『万葉集』でも畿内ヤマトを倭と詠み、大和の表記は殆どなかったが、わずかに和が使われるようになる。 『万葉集、巻第一、64』「葦辺行く 鴨の羽がひに 霜降りて 寒き夕べは 和し思ほゆ」
 天平宝字元(757)年~2年に間に、「大和国」となった。「大倭国」「大和国」「大養徳」も「倭」・「和」を2字にする意図による表記で、「大倭」「大和」「大養徳」いずれもヤマトと読まれた。延暦13(794)年に、桓武天皇が京都の平安京に都を移してからの平安時代、その前期の930年代に成立した分類辞書『和名類聚抄』では、大和国大和郷を「於保夜末止・於保也万止」と、即ち「オオヤマト」と訓読みしている。それは平安時代以降になってからの訓読みで、それから「大和神社」を「オオヤマトジンジャ」、大和古墳群を「オオヤマトコフングン」と読むようになった。
 『隋書』卷81 列傳第46 の俀國で記述される。607年に「王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩彌という。國王多利思北孤は、大坂市立大学名誉教授の直木孝次郎による多利思北孤は多利思比孤の誤りとする説が有力となっている。聖徳太子とみる。その多利思比孤から派遣された遣隋使の使者が持参した隋への国書では、國王(倭国王)の表記を用いず、「日出處天子」(日出ずるところの天子)と記している。これは当時の仏典『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論(だいちどろん)』などに「日出處是東方 日没處是西方」とあるように東方にあることを修辞しただけとする説もある。その後も、7世紀後半に至るまで国号の表記は倭国・倭のままであった。7世紀最末期には新国家体制を規定する大宝律令の編纂がほぼ完了したが、同律令施行前の701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされている。養老4(720)年に成立したわが国最初の正史『日本書紀』が端的な例である。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭をヤマトと自称することになる。その一方、『日本書紀』の神代巻第4段本文に記される「大日本」の語の訓注に「日本、此を耶麻騰と云ふ」とある。『日本書紀』の日本武尊も「ヤマト」と読む。「日本」は依然として「ヤマト」と読んでいたのかもしれない。重要なことは、大宝律令施行後、「ヤマト」という語は、奈良朝廷の王化に服した日本列島の大部分、ほぼその支配領域を表記するようになる。因みに『古事記』は神話や伝説と数多くの歌謡含んでいるため、『日本書紀』と違い勅撰の正史ではない。

5)ヤマトの前方後円墳時代
 3世紀、瀬戸内中部の讃岐と播磨では、円墳が主流となり、河内では方墳が発展し、摂津では円・方が混在する。大和では3世紀初頭から前方後円墳が造られる。卑弥呼は247年か248年に没したが、箸墓古墳以前に、少なくとも6基の前方後円墳が築かれている。今までの段階では、最古とみられるのが桜井市の纒向石塚遺跡であり、墳丘長は96mもあり、後円部は不整形円形であるが径64m、後円部の主丘部は東西59m、前方部は後円部の1/2ほど小さく撥形に開き、葺石および埴輪は見当たらない。それまでの弥生墓の平均をすれば約10倍もあり、幅25m余りの周濠は、それまでの弥生墓から遥かに飛躍的な大規模な造作であった。しかし、後円部の墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲や対空機銃などの砲台が設置されるなど、前方部墳丘の本来の長さがはっきりせず、埋葬施設や遺物の出土もなかった。
 卑弥呼時代の3世紀中葉とみられる纒向石塚古墳・ホケノ山古墳・纒向勝山古墳・中山大塚古墳・纒向矢塚古墳・東田大塚古墳(ひがいだおおつか)が点在する。
 天理市布留の石上神宮から桜井市三輪の大神神社までの南北約10kmの山の辺の道の途中に、標高586mの竜王山および標高567mの纒向山から延び出る尾根が張り出している。
 それらの尾根が盆地の平坦部にとどくあたりに多くの古墳が築かれ、北から順に大和古墳群柳本古墳群纒向古墳群と呼ばれている。 古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られた。最初の本格的大型前方後円墳が箸墓古墳で、三輪山を意識して築造されている。箸墓よりも早く築造された前方後円墳は、ホケノ山古墳・纒向勝山古墳・纒向石塚古墳・纒向矢塚古墳など多数ある。纒向勝山古墳は、墳丘長115m、前方部は比較的長く端で開いている事が分かった。これらは箸墓の北側に在り、箸墓古墳の墳丘長276m、後円部径157mには、はるかに及ばないが、この時代、他の地域では最大規模の古墳である。纒向で王権を揮ってきた、かつての王の墓で、前方後円墳とヤマトの連続した発展が想起される。
 纒向の箸墓遺跡やホケノ遺跡からは、「布留0式(ぜろしき)」の特徴が濃厚な土器が出土している。卑弥呼死後の250~300年代とみられる。最近では、国立歴史民俗博物館でも、纒向出土の遺物の分析を報告している。箸墓遺跡の周濠から出土した土器に付着した"お焦げ"を炭素14年代の測定法で分析した結果、それは260頃、卑弥呼の死の直後の年代であった。このことから、この一帯を中心にした、ヤマト政権の初期段階にあたる纒向政権の存在が、発掘が進むにつれ確かなものになってきた。
 箸墓古墳では、後円部の頭頂に弥生時代後期の吉備地方特有の祭祀用特殊器台特殊壺、それから発展した精巧な外装が施されている特殊器台埴輪特殊壺埴輪が立てられていた。墳丘に敷かれた葺石には、四国東部の積石塚の外観を模している。墳丘裾に散乱する板石から竪穴式石室とみられ、その構造は吉備地方の特徴が濃厚で、その石材は吉備から河内の芝山から大和川を遡上し運ばれたようだ。
 箸墓古墳より東に250mにあり、それ以前に築かれたホケノ山古墳では、東海地方系の朱塗り壺が墳丘上に並べられ、墳丘くびれ部の箱型木棺には伊予東部か讃岐西部の西瀬戸内系の大壷が供献されていた。円形部中央部の埋設施設は、朝鮮半島南部を系譜とする石囲い木槨墓で、2.7×6.7の高野槙製の刳抜式木棺であった。棺内から画紋帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)1面、鉄剣5本の他、槨の内外に散乱する内行花文鏡と画文神獣鏡の破片と鋼鏃約60点以上・鉄鏃約60点余り・素環頭大刀1口、その他鉄製刀剣類・・刀子など10点前後・「への字形」鉄製尖突武器若干・加飾壷20点余り、鉄製農工具などが出土した。
 幅20mの円形部周濠の外側に3世紀後半の纒向四類の土器片が多数投棄されていた。ホケノ山古墳の築造時期は、埋葬時に打毀された大壺と方形部主軸に埋納された纒向二類の土器により、3世紀前半から中葉の可能性が高い。邪馬台国卑弥呼の時代に相当する。伴出した画紋帯神獣鏡は、中国の後漢様式で、外区のまわりの帯に飛ぶ鳥や獣・神仙などの文様を巡らす優品である。
 卑弥呼が擁立された時代、魏の明帝が、景初2(238)年に遠征軍を派遣して、遼東半島で勢威をふるっていた公孫氏を滅ぼし、楽浪・帯方2郡を接収して朝鮮半島に進出した。同年6月、既に倭の女王に擁立されていた卑弥呼は、すばやい対応で帯方郡に使者を送り、詔書・『親魏倭王』の金印・鏡100枚などが与えられた。魏より『親魏倭王』の称号を得て、敵対する東国の狗奴国などに対して優位に立とうとした。
 画紋帯神獣鏡は、公孫氏や魏との国際的交渉の過程によってもたらされたようだ。天理市柳本の大和古墳群にある黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が出土している。大和古墳群は古墳時代前期のうちでもとりわけ前期前半ごろの古墳を多く含む。黒塚古墳の画文帯神獣鏡は、丸太を縦に二つ割り中を刳り抜き、棺身と棺蓋を造り合わせて長大な円筒形の木棺とした刳抜形木棺の北小口から2.5mのところで、鏡背を南に向けて副葬されていた。
 徳島県鳴門市大麻町萩原の大麻山南麓にある萩原2号墓は、これまでの調査で、墳丘を砂岩で構築しており、径20mの円丘の南側に突出部が付くことが確認されている墳丘長25mの前方後円形で、弥生時代終末期とされる3世紀前半の築造と推定されている。その南約50mの萩原1号墓は、墳丘の径は約18m、北側の突出部を含めての墳丘長は約27mの前方後円形で、その埋葬施設の構造はホケノ山古墳と同形で、ホケノ山古墳の原型との説まである。しかも画文帯神獣鏡が副葬されていた。
 兵庫県たつの市の瀬戸内海を眺望する海岸沿い小高い綾部山の尾根上(標高27m)に立地し、その綾部山で39番目に発見された39号墓も前方後円形で、その埋葬施設もホケノ山古墳が『石囲い・木槨・木棺』であるに対して、『石囲い・竪穴式石槨・木棺』の構造でほぼ同形であった。破損が激しい画文帯神獣鏡と思われる2片が出土している。3世紀半ばに築かれたようだ。
 京都府中部にある南丹市園部町にある黒田遺跡も、邪馬台国卑弥呼の時代、3世紀前半~中頃に築造されたとされる。有史以来、丹波国の入口にあたるため、口丹波(くちたんば)と呼ばれていた。出雲・北陸にも通じる陸路・水路の内陸物流の利便性が高く、四衢交通の要衝として、市場を中心にして発展したものと思われる。奈良県桜井市のホケノ山古墳を中心とするヤマト地方の古墳と北陸・山陰地方の古墳との関係は、大陸交易と国内物流の枢要な中継地として、政治的にも強靭な政治的紐帯が完成されていた事を窺わせる。
 黒田遺跡では、階段状に2段に掘り窪めた墓抗に石を敷き詰め、そこに木棺を埋葬した。その副葬品は画文帯神獣鏡ではなく、位至三公鏡(いしさんこうきょう)と2013年4月28日に訂正報告された。弥生時代終末期~古墳時代初期とみている。
 画文帯神獣鏡は後漢の中頃に登場し、三国・西晋時代に流行し南北朝まで続いた。当時民間に流布した神仙思想を背景にしている。位至三公鏡は、後漢末より六朝前半に、中国北部で普及した。位至三公鏡は、鈕の上下に「位至」・「三公」、ときには「君宜」・「高官」の銘文をいれ内区を二分し、その左右に、双頭の竜鳳の文様を配するもので、西晋時代(265~316)に特に流行した。洛陽の西晋時代の墓から出土した沢山の銅鏡のうち、三分の一がこの鏡であった。日本列島では、29面出土している。福岡県・佐賀県・大分県を中心とする北九州からの出土例が圧倒的に多い。
 南丹市園部町上木崎町の中畷古墳(なかなわて)は、意外にも、埋葬部であり主墳部分である円墳部分が方墳で、前方後方墳と呼ばれるものであった。墳丘全長は64m・後方部は高さが6.8 mあり、一辺長は38mある。円筒埴輪などが採取されており墳丘には埴輪の配列がなされていた。葺石は遺構の調査過程で確認さていないため、恐らく建造当初から施工されていなかったようだ。出土した鉄刀・筒形銅器・須恵器などの遺物から、この地域は出雲文化圏と特に密接な関係があったとみられている。
 墳丘が前方後円形で、木槨内に木棺を納めた二重構造の埋葬施設があり、画文帯神獣鏡など中国鏡の副葬という三つの遺構・遺物が共伴する遺跡は、他にも兵庫県加古川市の西条52号墓・岡谷県総社市の宮山古墳などでみられる。中国や未だ混沌としている朝鮮半島南端であったが、その最中にあっても、伽耶の鉄鉱石など先進文明を導入し、大陸風の祭祀観や価値観をヤマト流に改変創始し、それを共有する強い結びつきが、西日本を中心に各地に波及した。それが政治的統合を促進させ、各地首長層の権勢を誇らかに支える先端的文化であり続け、祭祀・武器・道具・灌漑手法など経済・文化両面に亘る海外文明を物流ルートで伝播させた。それがヤマトの邪馬台国と、その後の大和政権への拡大に繋がる。実は卑弥呼の時代が、日本史上の画期となっていた。各地の首長層が、豪族化し地方的な覇権を競う最中、ヤマト政権との繋がりが、その権力を維持するための絶対的な前提条件となっていた。

6)ホケノ山古墳時代の古墳
 箸墓古墳群の一つホケノ山古墳の円形部で石囲い木槨が発掘された。長方形の石囲いの内側に木槨があり、その中央の細長く窪んだ所に木棺の輪郭があった。木槨の外周は石積みされ、その天井部にも石が積まれ土師器壺(はじきつぼ)が並べてあった。その木槨と木棺の配置により、当時における多くの時代背景が知られた。木槨の長辺部に各4本の柱を建て、その間に厚さ10㎝余りの板材を横に重ねて積み槨壁とした。天井にも同様の木材を渡していた。槨底には3本の枕木を横たえ木棺を安置した。その両短の頭部と足部の延長上中央部に棟持柱として太めの柱を立って上屋を支えた。
 ホケノ山古墳では「木槨」の外周に、河原石による丸石積石で囲む二重構造をもっていた。古墳時代初期の竪穴式石室に先行するものであった。木槨の大きさは、内法で長さ約7m、幅約2.7m、現状の高さ1.1mあった。本来の高さは1.5m程度と考えられている。その中に安置された木棺は、長さ5mの高野槙製の刳抜式木棺で、加工を容易にし、しかも腐朽を防ぐため、棺の内面は焼かれ黒く炭化していた。
 2世紀末、岡山県倉敷市にある楯紫古墳(たてつきー)の中心に在る埋葬施設・木槨の内部で杭の痕跡が2つ検出された。楯紫古墳は弥生時代の墳丘墓で、その墳丘長80mの双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)で、円丘の両側に方形の突出部があるのが注目された。木棺が置かれた木槨は、円丘部中央の墓抗の上部は5.5×6.25、底部は3×6m、深さは2.1mと極めて広い。
 発掘調査の過程で「槨北東隅と北西付近で、杭のような痕跡を発見して追求したが、下方へいくにつれ痕跡が薄れ、やがて消えてしまった」と記録されている。
 その後、木槨墓は、島根県西谷三号墓・広島県佐田谷墓・岡山県総社市新本立坂墓・岡山市運山鳥打一号墓でも検出された。その内、杭穴を伴うものは、3世紀に入る運山鳥打一号墓だけである。木槨の四隅と長短辺の随所に杭を打ち込み木槨を補強している。木槨の中に小屋を建てて、その中央に遺体を埋葬したのであろう。
 奈良県桜井市大福ヨノモト地区の大福木棺墓は、寺川の左岸に位置し、標高は約65mある。昭和56・57年、耳成高校建設に伴って橿原考古学研究所が調査したのが発端で、これ以後、橿原市教委が行っている。庄内式期の方形周溝墓で環濠と思われる大溝・土坑・井戸・墓地群などの遺構が出土した。7次調査では棺内に人骨が残った木棺墓が2基検出された。木棺墓の抗内には杭や木棺自体が遺存していた。杭は皮つきのヤマナラシ材で、径は10~14㎝あり、木棺は長さ210cmで幅は35~46㎝で、外側は丸く荒削りされていた。蓋も丸太を刳り抜いてあったが腐食して大分薄い。
 古墳前期と見られる萩原墳墓群は、徳島県鳴門市の大麻山南麓にあり、弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されている。その萩原一号墓の墳丘の径は、約18m、北側の突出部を含める墳丘長は約27mの積石墓で、主体部の埋葬施設は石囲木槨であった。
京都府南丹市園部の黒田古墳は、3世紀前半~中頃に築造されたとされた墳丘長52mの前方後円形で、木棺の下には枕木があてられた石囲い木槨であった。
 墓抗の内外に、それと同方向の長方形柱穴群が伴う、特に墓抗外柱穴は、少なくとも弥生後期、2世紀の遺構がある。3・4世紀(古墳早期・前期)には顕著となる。墓抗内柱穴は、3世紀からみられ4世紀に引き継がれる。ただ古代朝鮮の伽耶にあたる金海(キメ)の良洞里遺跡(ヤンドンニ)では2世紀に遡るようだ。伽耶は倭にとって、重要な鉄産地であった。3世紀後半と推定される金海の大成洞古墳群における最初の王墓とみられる大成洞29号では、丸太材の木槨墓が出土し、4隅に丸太材が立てられていた。
 木槨墓は、先述するように島根県西谷三号墓・広島県佐田谷墓・岡山県総社市新本立坂墓・岡山市運山鳥打一号墓・岡山県倉敷市にある楯紫古墳でも出土している。弥生時代末の木棺・板材による木槨の二重構造が、その先行例として知られている。
 大和王権の成立過程と共に進化した前方後円墳は日本独自の墓制であり、古代王権を象徴する墓制となった。その前方後円墳の主要施設の「木槨墓」は、1~5世紀にかけて韓国東南部、弁辰と伽耶で盛行した独特の墓制であった。
 三韓時代には辰韓に属していた韓国の蔚山市の中山里墳墓群では、2~5世紀の「石囲い木槨墓」が発見されている。特に2~3世紀では、墓抗内に柱穴が多い。木槨例としては、長さ約6.5m、幅2.5m、木槨四隅の4本柱と東西に一ヶ所ずつ槨内に支柱がある計6か所の柱跡があり、槨底に枕木を敷いた例もあった。4本柱は厚さ約10cm側板を挟み込んで支える「添え柱」で、東西の2柱は積み石などの上からの重さに耐えられるように、天井板を支えるために立てられた。柱穴は直径20~30cm、深さ40~60cmで、柱だけでなく柱穴にも朱が遺存していた。時期的にも構造的にもホケノ山の木槨との関連が推測される。
 これらの木槨墓の多くの源流は、狗邪韓国や伽耶にあり、近年発掘された1~3世紀の金海・良洞里や福泉洞の約50基の墓群のうち、実に20数例が木槨墓であった。日本の木槨墓は、弁辰や伽耶の影響を受けて成立したとみられる。
 卑弥呼が東海の狗奴国と対峙し苦戦し、魏に朝貢し「 軍司令官、張政の倭国長期滞在」となった経緯もある。ホケノ山古墳は漸く王権が確立した証となる。当初に築かれた前方後円墳は、主要な要素を他地域から広く結集し、ヤマトの王権が近畿以西と東海の諸勢力を統合し、その成果を象徴するような記念碑的に築造されていた。
 最初の大王墓の箸墓古墳は、確立された技術を駆使した完成度の高い前方後円墳である。政治的に成熟した強固な政権の登場が窺われる。これを契機に列島内に広く割拠していた諸勢力に前方後円墳築造の一大ブームをもたらした。北は宮城・山形県から南は鹿児島県にまで及んでいる。以降、古墳時代の全期間を通して、その築造範囲は殆ど変わることがなかった。箸墓古墳の築造は、古墳時代最大といえる画期で、しかも出現段階から一気に古墳時代の枠組みが成立していた。
 かつては『古事記』や『日本書紀』の記述により、当然のように日本武尊や、時代は下るが雄略天皇などによるヤマト統一の長征による英雄時代が想起され、幾多の地方勢力の抵抗に阻まれ、畿内で確立した前方後円墳の普及は、畿内から遠いほど歳月の隔たりがある、と理解されていた。しかも関東以北にまで、前方後円墳の墓制が普及するのは4世紀後半以降と推測されていた。
 近年の発掘調査により、出土土器の時代分析が精緻となり、ヤマトからの距離上の遠近が前方古円墳の伝播に影響することなく、ほぼ同時進行的に築造されていた事が知られた。

7)大和古墳群の西殿塚古墳
  箸墓古墳群に続いて、奈良盆地の東南の山麓に沿って、初瀬川右岸を北上して築かれた柳本古墳群と大和古墳群(おおやまとこふんぐん)がある。200~300m級の大型後円墳が並ぶ。
一番北寄りの大和古墳群は、天理市南部の萱生町(かようちょう)から中山町に所在する古墳群である。この古墳群を大和古墳群と呼ぶのは、古墳群の西辺に大和神社(おおやまとじんじゃ)が鎮座することによる。群中には、前方後円墳12基、前方後方墳5基、円墳7基が確認されている。大和古墳群では古墳間の規模にあまり差がなく、主墳と陪墳という関係にはない。その南にある柳本古墳群は主墳と陪墳の傾向が強く、纏向古墳群は主墳と陪墳の関係で構成されている。
最大の古墳は中山町に所在する古墳時代前期の西殿塚古墳(にしとのづかこふん)である。墳丘長は234mある。宮内庁は考古学的根拠もなく西殿塚を、第26代継体天皇の皇后・手白香皇女(たしらかこうじょ)を陵主とする衾田陵(ふすまだりょう)としているが、出土資料とかけ離れている。箸墓古墳のように吉備様式の特殊器台が後円部に並び、埴輪や墳丘の形態等からも箸墓古墳に続く時代の大王墓という見方が有力だ。築造時期は3世紀後半から4世紀初頭に絞られる。柳本古墳群の行燈山古墳(現崇神天皇陵、242m)や渋谷向山古墳(現景行天皇陵、300m)に先行して築造された可能性が高い。
明治政府が手白香皇女陵としたのは、明治9(1876)年のことであり、「大王墓クラス」とみて、現在、宮内庁の管理下ため、学識研究者すらも自由に立ち入ることはできない。もとより採掘の許可は下りない。なお、手白香皇女は継体天皇皇后であるから、6世紀前半から中頃にかけての女性である。
同じ町であるが、その西南には中山大塚古墳がある。後円部を少し東側に置く南北方向の前方後円墳で、全長約132m・後円部の径約73m・高さ約11.3mの3段築成であるが、戦国時代に古墳を城郭として利用したため、現存する後円部の段築や整形は、築造当初のものでない。
墳丘裾部では、葺石・基底石が石垣のように急角度で積まれていた。また西側くびれ部では、後円部側の葺石基底石の上にさらに、前方部側の葺石を被せるように葺いている状況が明らかになった。これは後円部に、後から前方部が接合したことが想定されている。
後円部北側の墳丘裾に扇型に開く張り出し部分が付属する。後円部の張り出しは、すぐ南にある柳本古墳群にある櫛山古墳の墳形に繋がるのではないかとみられている。西側くびれ部にも三角形の張り出し部ある。いずれも古墳への通路的な施設とみられる。
後円部は南側に延びた尾根を切り取り、後円部後方の前方部にあたる部分の尾根を低く削り、両サイドからも土を削り取り、それを前部の後円部に積みあげて形を整えている。後円部の高さ11.3mの墳頂部の4m以上は盛り土であった。しかも盛り土は、粘土と砂利を互層に堅く積み上げている。周濠は確認されない。
前方部西側の一角から祭祀遺構が見つかり、そこから多量の埴輪片が出土した。埋葬施設は、後円部の中央に墳丘主軸に沿って築かれた竪穴式石室である。規模は、長さ7.5m、天井までの高さは、2mである。石室の南北両小口は隅に丸みを持つように石材が積まれている。石室の石材は大阪府羽曳野市と太子町の間に位置する春日山で採取された輝石安山岩を使用していた。
 出土遺物は石室内から銅鏡片2点・鉄器36点などであるが、盗掘が石室内全体に及んでいて細片化している。鏡は二仙四禽鏡である。鉄器は槍、鉄鏃などが出土した。後円部の墳丘頂部からは、特殊壷形埴輪・二重口縁壷系の埴輪・特殊円筒埴輪・特殊器台形土器・特殊壷形土器などが出土している。これらは埋葬主体部を囲うように並べられていたとみられている。
以上のことから本古墳は、箸墓古墳に極近い、前方後円墳が築かれ始めたころの古墳であると判断されている。

8)大和古墳群の東殿塚古墳
 東殿塚古墳(ひがしとのづかこふん)は、西殿塚古墳に並列し墳丘長139mある。標高約140mの高所にあり、墳丘に上ると奈良盆地全域を見渡すことができる。行燈山古墳(伝崇神陵)と同時期、4世紀初頭の造営のようだ。墳丘長139mで、墳形が壊れているので確かではないが、後円部径は65mと推定される。西殿塚古墳と同じで主軸は南北にあり、東西の側面に高低差が出来ている。東殿塚古墳は地山の自然地形を削り方墳部として平らにし、それを後円部上段に盛土して後円部として成形した。その北側に伸びている自然地形の下段の分も含めて全長175mとしている資料も多い。
 前方部の西側下段裾で葺石基底石が出土した。その前方部上部のかつては通路とみられる台形張り出し部で祭祀遺構が発掘された。そこから多量の埴輪片が出土した。円筒埴輪や特殊器台型埴輪と特殊壷が一体化した朝顔型埴輪鰭付円筒埴輪や初期埴輪と思われる土器が出土している。中でも高さ約64cm、最大口径約50cmの鰭付楕円筒埴輪が復元された。その埴輪の下部に船の線刻絵画が描かれていたものが3点あった。1~3号船画と名付けられた。もっとも詳細に描かれているのは1号船画で、船はゴンドラの形でありながら7本の櫂を描いていることから14人で漕ぐ大型船である。帆に風を受けて海上を疾走する船を描いたものと解釈されている。
 明治以降、鉄道が広く敷かれるまでは、内陸輸送に欠かせないのが舟運で物流の主力であった。ヤマトの内陸輸送は、豊富な河川と人工水路で形成されていた。初瀬川は大和高原を源に、桜井市を経て川西町にて佐保川と合流し、そこからは「 大和川」と名を変え、大阪湾へと流れ入る。 纒向では、初瀬川は、飛鳥時代より更に遡り、邪馬台国時代、既に舟運に活用されていた。 土器には、砕かれた土器や形を保っている供献土器がたくさんあり、山陰系・近江系・東海系などの他地域の土器が含まれており、最古の型式と推定されている。

9)柳本古墳群の行燈山古墳・渋谷向山古墳
 遠く三輪山を望む大和古墳群古墳群の南に柳本古墳群がある。北から行燈山古墳(現崇神天皇陵、墳丘長242m)、渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん;現景行天皇、墳丘長300m)がある。行燈山古墳の北側に天神山古墳があり、発掘調査されている。竪穴式石室内から23面の銅鏡と41Kgの水銀朱などが出土した。
 行燈山古墳は、4世紀前半の築造と推定されている。現崇神天皇陵に比定されている。柳本古墳群の中にあって渋谷向山古墳と並び称される巨大な前方後円墳で、竜王山が西北にのびる斜面の先端部を利用して築かれた前方後円墳である。平野の方に前方部を北西に向けている。墳丘長は242m、後円部の径は158mで高さは23m、前方部の幅は102mで高さは15mとされている。大きさの点では、墳丘長302mの渋谷向山古墳には及ばないが、「山の辺の道」に隣接する二大前方後円墳の一つであることにかわりはない。周囲に水をたたえた周濠をめぐらしている。
 遙拝所に続く参道の両側に2基の陪塚(ばいちょう)があり、やはり前方後円墳である。北側が北アンド山古墳で墳丘長120m、南側が南アンド山古墳で墳丘長60mある。これらの陪塚には埋葬施設が無く、副葬品のみが納められていると考えられている。
 国道169号を渡った行燈山古墳前方部の西方に、北向きの大和天神山古墳(やまとてんじんやまこふん)がある。墳丘長113m、後円部のほぼ中央に長さ6.1mの竪穴式石室があるが、埋葬者はいない。石室の内部には、破損した丸太船に似た刳抜形木棺が置かれ、中央部分に総重量約41kgの水銀朱が納められていた。木棺の内側には周囲を囲むように20面の銅鏡が並べられていた。木棺の小口板の外側からも3面の鏡や鉄刀・鉄剣・刀子・鉄鏃・板状鉄斧・鉄鉋・土師器の破片などが見つかった。鏡の内訳は方格規矩鏡(ほうかくきく)6面・内行花文鏡(ないこうかもん)4面・画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅう)4面などの舶載鏡、獣形鏡(じゅうけい)4面・画像鏡(がぞう)2面・斜縁変形神獣鏡(しゃえんへんけいしんじゅう)2面・人物鳥獣文鏡1面などの倣製鏡であった。天神山古墳も行燈山古墳の陪塚とされている。

 渋谷向山古墳
 渋谷向山古墳は、行燈山古墳の南、天理市渋谷町に所在し、標高586mの龍王山から延びる尾根が盆地の平坦部に届くあたりから、西斜面に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。県内では、橿原市五条野町にある墳丘長320m、欽明天皇が有力視されている見瀬丸山古墳についで2番目の大きさ、全国でも6番目の大きさとなる。古墳時代前期に築造されたものとしては国内最大の古墳である。現在は日本武尊の父の「景行天皇陵」として宮内庁により管理され、上の山古墳を含む古墳3基が陪塚に指定されている。
 『日本書紀』には、崇神天皇陵も景行天皇陵も、「山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」と全く同じ名称であった。既に8世紀初めには、被葬者が分からなくなっていたようだ。
 墳丘は東西に主軸をとり、墳丘長約300m、後円部径約168m、高さ約23m、前方部幅約170m、前方部を西に向けている。後円部頂部で径42mの平坦面があり複数の埋葬施設の存在が推定されている。
 墳丘の形状については諸説あるが、後円部4段築成、前方部3段築成とする見方が有力である。前方部前面が幕末の修復時に拡張され、形状が大きく変化している。また周濠は墳丘両側の谷を堰き止めて造った階段状で盾形をしている。後円部6か所、前方部4か所の渡り堤によって区切られている。その現在の状況は江戸時代末におこなわれた修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるといわれている。
 これまでの宮内庁書陵部の調査等により、普通円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪が出土した。このほか、関西大学博物館所蔵の伝渋谷出土石枕が本古墳の遺物とされている。鋸歯文が入った碧玉製の石枕だ。また、渋谷村出土との伝承がある三角縁神獣鏡の存在も知られている。
 渋谷向山古墳の築造時期については、埴輪の特徴から古墳時代前期後半、4世紀中葉と想定されている。柳本古墳群の盟主墳として、先に築造された行燈山古墳(崇神天皇陵)とともに重要な古墳である。
 上の山古墳は、渋谷向山古墳の前方部北側に近接して築かれた墳丘長144m余り、後円部径84m・高さ17m、前方部の幅56mの前方後円墳である。平成6年、前方部西側に広がる水田部を発掘調査し、墳丘のまわりを巡る幅25m前後の周濠が確認されました。周濠の立入りには葺石が施されていた。葺石は基底に大型の石材を用い、上部は小型のものを使用している。
 後円部にある埋葬施設は、竪穴式石室で、鏡・石製模造品などが出土している。周濠内からは、多量の埴輪が出土した。普通円筒・鰭付埴輪・壷形埴輪・朝顔形埴輪などがあり、盾形の形象埴輪がある。また長さ170cm・幅60c・厚さ5cmの板材が出土しており、埴輪と共に墳丘に立て並べられたと考えられる。本墳の築造時期は、出土遺物から古墳時代前期に位置付けられている。

10)鳥見山古墳、桜井茶臼山古墳群
 纏向からさらに南、三輪山の南側の寺川と並行して北流する初瀬川左岸の丘陵縁辺に桜井茶臼山古墳があり、その南の鳥見山の南西麓にメスリ山古墳がある。これらは鳥見山古墳群に属する。両古墳の学術的価値が特に高まったのは、そうした巨大な前期古墳の内容が、発掘調査によって相当部分判明したことによる。一方、大和古墳群中の4基は、すべて宮内庁の所管であるため、調査が封じられている。
 桜井茶臼山古墳の築造時期は古墳時代前期初頭4世紀初め頃とみられている。この古墳は、雑木林に覆われていたため、単なる丘陵みられ、発見は戦後しばらくたってからであった。昭和24年の秋と翌25年の夏に発掘調査が行われた。結果、尾根の末端を切断して築造された古墳と判明した。後円部を北に、前方部を南に向けた南北形式に築造されており、前方部は前方後円墳の初期段階の特徴である前方部の幅が、撥状に末端で広がることなく、長くて細い柄鏡(えかがみ)の形状である。
 墳丘は、後円部3段、前方部2段に築造されていて、前方部の頂部は後円部2段目の平坦面に続きその上に後円部の3段目が乗る。墳丘各段の斜面には葺石が葺かれている。後円部側の葺石の基底部が検出された際最下段では、最大で長さ50㎝の石が使われ、3段積み重ねた後、約45°~55°の傾斜で葺石が葺かれている。埴輪の使用はなく、後円部頂には方形段を取り巻く土師器壷列がある。土器列は、一重で、北辺で東西10.6m、西辺で南北13mになり、壷は北辺で24~25個、西辺で29~30個並べられていた。また、墳丘周囲を取り巻く平坦面は、周濠の遺構とみられる。
  後円部の中央部から3mも掘り下げられたあたりに竪穴式石室があり、その中はすべて、天井石まで、多量の朱で塗られていた。長さ6.75m、幅は北小口で約1.28m、南小口で約1m、高さ平均1.60mと計測された。石室を構成する大小の石材全て、その前面的に多量の朱彩が塗布され、壁面として露出しない部分にまで及んでいた。床面には、板石を2.3重に敷き詰め、棺床土をおき、その上に木棺を安置していた。埋葬した後に、全面に水銀朱を塗布した12個の天井石を懸架して石室は閉じられる。全面板石で、その敷石上に直に置かれた木棺は現存する状態で、長5.19m、床板の厚さは22cmあり、「巨大な石室に相応しい巨大な木棺」であった。当初の長さ8m、外形の横断面が径1.1㍍の正円になる、高野槙の丸太を半切にした刳抜木棺と推定されている。
 石室は無数の平石を周囲に積み上げて作られている。通常の竪穴式石室は壁面を持ち送りによって内傾させているが、桜井茶臼山古墳では4壁を垂直に積み上げる独特の構造であった。その1枚1枚の石の前面に朱が塗られていた。天井には、大きな平石が並べられている。石が細長く切られ、石と石との間に隙間が生じないようきれいに切断されている。石材は16km離れた奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がる二上山(にじょうざん)の安山岩など4か所くらいから集められている。天井石の上は、朱ではなくベンガラを混ぜて赤くした粘土で厚く固められている。
 円墳の周りに埴輪は使用されていないが、石室の墓抗上部の露出する辺りに、墓抗と同方向に向く方形の壇状の土の高まりが作られてあった。その方形壇上を板石と円礫で化粧し、縁近くに体部を半ば埋めた二重口縁壺が並んでいたと推定されている。いずれの壺も有孔か穿孔であった。やがて古墳前期・中期に多い朝顔形埴輪になると、埋められる下部は筒形に簡略され、露出する上部は丁寧にかたどられていく。
 土器列は、一重で、北辺で東西10.6m、西辺で南北13mになり、壷は北辺で24~25個、西辺だけで29~30個並べられていた。その外側に直径30㎝、高さ3mもの丸太が、150本ぐるりと立ち並ぶ垣根が作られていた。円墳の中央、埋葬施設の墳丘上に円形部を一段として高くし、そのまわりに丸太垣をめぐらす墓上施設で荘厳な祭祀が行われていた。やがて時代が下れば前方部を拝所とするようになる。
 円形部の墓抗外に露出する祭祀遺構の外柱穴は、弥生時代後期の2世紀に墓上施設として発掘例があり、3世紀~4世紀の古墳時代早期・前期になると増加する。埋葬施設上の建物は、中国商代後期の盗掘をまぬがれた完全な状態で発見された安陽小屯5号墓がある。
 島根県西谷三号墓は、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。水銀朱や弥生式土器が出土し、墓上施設跡も確認されている。埼玉県小沼耕地三号方形周溝墓は、弥生時代以来の伝統的な墓であるが、方形に盛られた台状部に4か所の柱穴が発見された。死者を葬送する儀式が行われた「冢上屋(ちょうじょうおく)」の存在がうかがわれた。
 墓上施設としては、台・柵程度と異なり、柱穴が規則的に並ぶ大型の柱穴群であれば、建物施設・「冢上屋」が想定される。中国東北地区からロシア沿海州の古代住民、粛慎(しゅくしん)・挹婁(ゆうろく)・勿吉(ぶっきつ)・靺鞨(まつかつ)などの墓制に伴う「冢上屋」は、北アジア諸民族の台上葬として共有され、戦国時代、現在の河北省中南部を中心とする一帯を領有した中山国の王陵の「逃域図」に描かれている。中山国は北方系の遊牧民といわれる狄の勢力が起こした国であるといわれている。中山国の遺臣楽毅は、後に燕の昭王に仕え、斉を滅亡寸前にまで追い詰めた。
 「冢上屋」と埋葬施設「冢内屋」の両方を備える墳墓は確認されていないが、「冢内屋」は明らかに死者のための施設である。「冢上屋」は、後漢の礼制理解に不可欠な書といわれる『独断』に「当時の人々は死者の霊魂が墓室の中に留まると信じていた」。しかも「それに飲食・起居を奉供する場として『寝』を、墓室の頂上か、その近くに建設する必要があった」と記す。やがて「後漢の明帝は、陵におもむいての朝拝祭祀の儀式を始めて挙行し」やがて「陵寝における祭礼の地位が、宗廟におけるものを凌ぐ結果をもたらした」とする。後漢の明帝が、父・光武帝の崩御にともない即位したのが57年である。この年、倭の奴国王が朝貢し金印を下賜されている。
 桜井茶臼山古墳の出土品は多いが、石室内はすでに盗掘にあって、副葬品はいずれも断片になり、しかも移動されていた。鉄鏃は両小口に散乱し、玉杖は主に北小口に、そして鏡片は北小口の土砂に多数含まれていた。
 桜井茶臼山古墳は2,009年に再調査された。鏡はすべて破片であった。その後の分類研究で81面を超えることがわかった。倣製鏡であったとみられる三角縁神獣鏡が26面に対して、内行花文鏡・画文帯神獣鏡や内区に獣帯が具象される獣帯鏡などの中国鏡が41面あった。特に墳丘長が200m級の大規模な前方後円墳では、一群の中国鏡が大量に副葬されていた。
 黒塚古墳は天理市柳本町にある3世紀末頃の前方後円墳で、33面の三角縁神獣鏡が出土したことで有名であるが、棺内の頭部に接して画文帯神獣鏡が1面、棺外の北小口部に1面の三角縁盤龍鏡が副葬されていた。33面の三角縁神獣鏡は東西の壁沿いに並べられていた。当然、当時の人々は鏡の種類ごとの貴重性を理解していた。画文帯神獣鏡が上位で、三角縁盤龍鏡に次いで三角縁神獣鏡となる。
 当時の中国では、司馬炎が280年に呉を滅ぼして、内戦が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一し三国時代を終焉させ、西晋の初代皇帝(武帝)となる。しかし統一後は朝政への興味を失い、女色にふけった。また皇族を各地の王に封じ軍権も与えたことにより、皇族間の争いを誘発する。
 290年代頃、宗室内の権力闘争から「八王の乱」となり、後漢末期の混乱期から繰り返された、中原の地を中心に漢民族の壮年層が徴用され尽くされ、生産要員が不在となり、取り残された非力な民は重税に耐えられず逃散し、やがて諸王の兵が枯渇し、ローマ帝国のように周辺の多民族の部族長軍団を傭兵として、軍の中核を任せざるをえなくなった。既に後漢末以来、匈奴・鮮卑といった異民族が中原の地に移住するようになり、漢民族との軋轢が絶えなかった。
 当然、広大な中国大陸から、技術者やその集団と家族が流民となり日本列島に流入した。そのなかには鏡作り工人も多く含まれていたようだ。大量の鏡を副葬する需要に応えられたのも、ヤマトの王権が直轄する圏内に工房を設け、その統治意思を直接反映させる組織が確立していたからだろう。
 三角縁神獣鏡の出土例が多いのも、列島各地で副葬品として埋葬時に欠かせないものであったからで、他にも埋蔵施設の構造や墳丘に埴輪の種類と配置方法、鉄製武器や各種碧玉の遺存状況などからも、統治的関係だけでなく古墳祭式など共通する理念が伝播していたようだ。
 大量な鉄製武器を保有し武力による王権を確立する一方、卑弥呼時代から継承される中国の道教的神仙思想を共有する死生観を前方後円墳という葬制で具象化し、その思想的な紐帯により政治連合をより強固なものとした。
 三角縁神獣鏡の鏡背の文様と銘分は中国の不老不死の信仰を表現し、前方後円墳に埋葬する際に必ず副葬されたため、列島各地で共通する出土例となる。埋葬施設の構造や墳丘に並べられる埴輪の種類と配置方法、副葬品の鉄製武器や碧玉の存在、中国式ともみられる厚葬形式など、諸々の手厚い埋葬方法が共有されていた。
 後漢末期の政治家蔡邕(さいよう)の著『独断』には「当時の人々は死者の霊魂が墓室の中に留まると信じられていた」と記す。3・4世紀の日韓の墓抗内柱穴は木槨を補強するためではない。また冢上屋を設けるために墓抗内に柱穴を穿ち通し柱とするにも、桜井茶臼山古墳の後円部の中央部から3mも掘り下げられたあたりに竪穴式石室があり、そこから敢て立ち上げる必要があったとも思えない。
 ホケノ山古墳でも4隅に主柱が丸太材で建てられていた。それなのに両サイドの4本柱穴と、頭部及び足部下にある2本の棟持柱は「冢内屋」を設けるためであった。それは木槨内に、部屋や切妻か寄棟の建物を建てていた痕跡とみられる。5世紀大室古墳群は長野市南東の山岳地帯、松代町大室を中心に散在する総数500基の古墳群である。そのうち330基が積石塚古墳で、その内40基ほどが合掌型石室で、いずれも墳丘内の切妻屋根であった。
 中国吉林省集安の好太王陵とみられる高句麗王陵中最大の墓・太王陵の石室は、1,990年の墓室調査により、第5段に築かれており、内部の天井は平らな石を合わせた合掌型石室であった、と知れた。
 桜井茶臼山古墳では、昭和24年の発掘調査で、浅緑色に黄色い縞の入った碧玉製の玉杖が出土した。長さ53㎝あり、上部の握り部分と杖の先端が碧玉製であるため儀杖や指揮用とみられる。4本分あった。杖の軸部は鉄製であるが、碧玉の管を通している。宝器的な碧玉製腕輪類も共伴した。玉葉は大きいもの2枚、小さなもの1枚が出土した。玉葉も碧玉製で大きい方は長径8㎝あった。埋葬者を安らかにするための眼の覆いとみられている。
 鉄製品には、鉄杖と刀剣・鉄鏃・工具がある。鉄杖の太さは2cm現存長14.7㎝や、中空の太さ1.5cm最大長60㎝にもなるものもあった。鉄刀剣は現存長14.1cm、刃幅3.4cmで、柄と鞘の木部が良く残り、朱がきれいに付着していた。短刀もあった。先端が尖った針状工具もあった。他に断面が薄い長方形のの柄がある。鏃は多く、銅鏃は2点、鉄鏃は破片も含めて117点にもおよぶ。鉄鏃の矢柄には赤色顔料の付着が20点確認できた。口巻部分を漆で黒に、矢柄部分を朱で赤に塗り分けていた。鉄鏃の形式は柳葉式に限られているが極めて肉厚である。柳葉式銅鏃のみを副葬するメスリ古墳と対極的である。これらの事から桜井茶臼山古墳の鏃群は、鉄鏃が銅鏃を凌駕する画期とみられる。

11)鳥見山古墳群、メスリ山古墳
 桜井茶臼山古墳と桜井市大字高田字メスリに築かれたメスリ山古墳は、箸墓の南方、初瀬川以南にあたる鳥見山古墳群に属する。箸墓古墳よりも年代は遅れる。桜井茶臼山古墳(207m)は大和古墳群の南部の行燈山古墳(崇神陵242m)と、メスリ山古墳(224m)は行燈山より南の渋谷向山古墳(景行天皇300m)と併行期にあったとみられている。いずれも被葬者を大王墓と比定することは可能であるが、特定するには決定的な証明力に欠けている。
 重要なことは、箸墓の前方後円墳(280m)が築造される以前に、大和の東南・桜井市纒向に「纒向型前方後円墳」と呼ばれて当然の、東田大塚(約96m)・矢塚(約96m)・勝山(約110m)・石塚(約90m)・ホケノ山(約80m)など、幾つかの特徴を共有する墳丘墓が相次いで築造されていた事にある。特にホケノ山古墳では、主体部の木槨が検出された。木槨には底板が無く、朝鮮半島南端の金海や釜山地方の系譜を引き継いでいた。木槨内には画文帯神獣鏡の鏡片・銅鏃・鉄鏃・刀剣類・鉄製工具などが副葬され、墳長部には方形の壺が配列されていた。これら「纒向型前方後円墳」は関東から九州にまで築造されていった。
 ただ箸墓古墳とホケノ山古墳とは相似形であり、墳長では3.5倍程度の差に過ぎないが、容積と必要土量で換算すれば数十倍になる。
 この時代の3世紀の頃、纒向遺跡では東海・北陸・山陽・山陰などのほか、他地域の土器が相当量出土している。その多くは、ヤマトの王を埋葬する前方後円墳を築造するために、各地の首長が命じられ、その伴われて来た人々が、生活必需品として携えて来たとみられる。
 箸墓に相似する古墳は岡山の浦間茶臼山古墳をはじめ京都や北陸地方でも発掘されている。畿内の箸墓以降の古墳は、各時代ごとに変化する築造規格となり、そのつど列島各地に伝播していった。
 箸墓古墳の登場は、弥生時代から古墳時代へ歴史的遷移を告げる画期となった。 メスリ山古墳も陵墓指定がないため、昭和34(1,959)年に発掘調査され、3世紀末から4世紀初頭の古墳として、王権の誕生・古墳の祭祀についての多くの知見がえられた。
 桜井茶臼山古墳と同様、前方部が細長い柄鏡形の前方後円墳である。桜井茶臼山古墳から南西に約1.6km離れ、墳丘長224m、後円部径128m・高さ19m、斜面には人頭大の葺石がなされていた。前方部を西に向けて立地、幅80m・高さ8mで、埴輪は、方形壇の外側に間隔を置いて点在する。陪墳群は見られない。
 この古墳の1世代前の桜井茶臼山古墳の「丸太垣・二重口縁壺」に代るように、円墳の最頂部に、垣を巡らすように埴輪の囲いがしてある箇所がある。長辺約11.3m、短辺約4.8m、想定された高さ1mを下らない長方形の壇がある。巨大埴輪列が二重に、その方形壇の上に並べられていた。口径1mもの円筒埴輪は方形埴輪列の最内側の角や辺を等分する位置に立っていた。
 最も多く並べられた円筒埴輪は、口径56cm・高さ119cmで、最大の特殊円筒埴輪は、高さ2.42m、口径1.31m、胴部径90cmのものがある。円筒埴輪の上に高杯形埴輪を載せている朝顔形埴輪も出土している。
 埋葬施設の石室は、長さ8.06m、幅は北端で1.35m、中央で1.18m、高さは南端にあって1.76mで、天井石は8石で覆い、四壁は板石を小口積みにしてほぼ垂直に積み上げていた。主室内は、盗掘が激しく遺物の散乱が著しい。床面に木棺を据えるための粘土床があり、幅約80cm、長さ7.5m以上の長大な木棺が置かれていた。主石室に遺存していたのは、玉石製品では翡翠の勾玉・碧玉の管玉・巻貝ゴホウラを縦に切断した貝輪を真似た石釧(いしくろ)・ミニチュア化した椅子形石製品・鍬形石・車輪石・櫛形石製品、石製合子(ごうす;蓋のある石製容器)などが著しい破壊を受け散乱、盗掘の激しさを物語っている。鏡破片は三角縁神獣鏡と二種の舶載内行花文鏡とみられる。刀剣などもあった。
 メスリ山古墳の石室は、築造した墳丘を掘り込んで造ったものでなく、石室を先に造り、周囲を盛土して行ったものと考えられている。古墳時代前期の埋葬施設の特徴は、長大な竪穴式石室であった。その主石室の横4.75m東に未盗掘の副室が発見された。長さ6m、幅72cmあった。自然石を徐々に内側に積み、屋根は合掌式の竪穴式石室で、武器ばかりが埋納されている遺品庫であった。多数の遺物を遺したまま盗掘されていなかった。その副葬品は原位置を保ったままであった。
 床面に漆塗り盾を置き、その上に石室の両端に切っ先を向けるように有茎式鉄矛107本の鋒が南に向けられ、105本は逆に北に向けて交互に積み上げられていた。鉄剣形の槍先を鉄矛とし、長柄を装着したものは、朝鮮半島南部や北九州でも出土し広く流布していた。当時の集団戦には不可欠の武器であった。西日本で鍛造されてもいたようだ。その鉄矛を積み上げる際、石室北端に長さ50cmほどの空間を備え、そこに鉄剣・鉄刀それぞれ1本と14本の斧・51個の・19本の手鎌・手鍋・鑿・刀子・錐・鋸などの農工具類や碧玉製品もあった。236本の銅鏃・50本の石鏃も共伴している。
 矢は有機質の矢筒に盛られて整然と置かれ、既に腐朽消滅してしまった有機質の弓も含め、10組以上の弓矢が納められていたと推定される。これらにより石室内はほぼ満杯となり、遺体を埋葬する余地はなかったと考えられている。
 そのなかで全長182cmある鉄製弓1本と、長さ80cmある矢柄・矢羽根まですべて鉄製の矢5木が具体的な形状と大きさが分かる状態で出土した。鉄製弓の下半部に手に持つ銅製弓柄(ゆづか;ゆみつか)が装着されていた。橿原考古学研究所附属博物館で保存されている。鉄弓や鉄矢は、武器本来の実用性がなく、威信的な効果を考慮していたようだ。当然、実用には木製の弓が用いられていた。