朝鮮新石器時代    Top
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 朝鮮とは、古代では、中国東北三省、即ち、北から黒龍江省、吉林省、遼寧省に東接する半島及び一帯の地域・文化・国・民族名を称します。地名としての朝鮮の範囲は時代によって変遷があり、古くは遼東の東端部とされましたが、戦国燕による東方経営の進展とともに鴨緑江(アムノッカン)の西側を真蕃、東側を朝鮮と呼ぶようになります。
 厳しい氷河期の数十万年の間、朝鮮半島の旧石器時代人は、洞窟生活が殆どで、狩猟・漁労の採集が生業でした。やがて温暖な沖積世になると、海岸線が上昇して、今日とほぼ変わらない朝鮮半島を形作ります。しかし未だ、打製石器の使用ですから、新石器時代といえるのか疑問です。
 B.C.5千年紀になると土器も作られ、磨製石器にもなります。隆起文(りゅうきもん)土器や押捺文(おうなつもん)土器等が、初期の土器を代表します。
 B.C.4千年紀には、新石器時代を代表する櫛目文(くしめもん)土器が出現しはじめます。ソウルの漢江(ハンガン)左岸の岩寺洞(アムサドン)遺跡出土の櫛目文土器は、器表を櫛の歯で掻いた幾何学的な綾杉文で、ドングリのような深鉢形の滑らかな丸底です。平底もあります。この種の土器の典型といわれています。岩寺洞遺跡の住居址は、炉址のある隅丸方形と円形の竪穴住居でした。 黄海北道(ファンヘプクト)の智塔里(チタムニ)遺跡では、櫛目文土器や竪穴住居址に混じって、石犂(いしすき)・石鎌等の農具が出土し、同時500cm2余りの炭化ヒエが検出されました。当時既に、焼畑雑穀栽培が行われ、生産と調理の用具が整っていたことが分かります。
 この時代の遺跡からは、石製の鞍形磨り臼・斧・鏃・槍・銛・錘や骨製の銛・釣り針等が大量に出土しています。それと共に、ノロ鹿・アザラシ・鯨等や魚介類を含む貝塚群も発掘されています。まだ生業の基盤は、採集活動にありました。
 B.C.千年紀、北方文化の影響で、無文土器が登場します。赤褐色を基調とした多様な器形を有し、器表にはこれといった模様がありません。無文土器は半島北部から、南下し各地に広がります。その伝播に伴って、文化的変化も生じます。まず当時の遺跡からは、石包丁、凸型石鍬等の生産道具が、かなりの必然性を以って出土します。粟・黍・コウリャン等の穀物の栽培が、広く行われていたことが、窺い知れます。
 それがB.C.8世紀になると、中・南方の河川流域や海岸周辺で、水稲栽培が行われ、稲作を組み込んだ農業生産が発達していきます。炭化米の出土は、朝鮮半島中西部の京畿道(キョンギ-ド)・漢江流域の欣岩里(フンアムリ)遺跡、京畿道の南に隣接する忠清南道(チュンチョンナムド)・錦江(クンガン)流域の松菊里(ソングンニ)遺跡等でみられますが、平壌・大同江(テドンガン)流域の南京遺跡は、当時の稲作の北限とみられています。南方系の稲の品種改良の進化に驚かされます。
 この時代、朝鮮半島文化は、飛躍的に発展します。青銅器が製作され使用されます。西北部から、中・南部に広がります。扇形の同斧や小型の銅鐸、中国遼寧を中心にする幅広の琵琶型銅剣、粗い幾何学文の双紐(そうちゅう)の多紐粗文鏡(たちゅうそもんきょう)等の北方的な要素が多く見られます。主に祭祀・呪術儀器です。その後、細形銅剣などの独特の青銅器が発達します。
 支石墓の登場もそのころです。それまでは、ただ埋葬するだけの土坑墓が主流でした。初めて副葬品も整えられた石室墓や箱型石棺墓も造られます。テーブル式の支石墓には、その地表に露出したふた石が、数十トン超え、その威容を誇示するものもあります。死後にも、その支配権の強大を主張する統率者の存在が認識されます。水稲と青銅器と支石墓を備えた王権・檀君王倹の姿が、髣髴されます。檀君王倹は古朝鮮を最初に統治した神話一族の、王統の称号と考えられます。
 神話時代の朝鮮の檀君(ダンクン:ダングン)は、古朝鮮建国の始祖とされています。平壌城は北朝鮮の現首都ですが、檀君が出生した聖地でもあります。ただ檀君朝鮮に関する現在最古の記録は、驚くべきことに高麗時代の著述で、13世紀中期の史書『三国遺事』と『帝王韻記(ていおういんき)』です。 『三国遺事』は一然(いちねん;1206~89年)が書いた僧伝です。『帝王韻記』は李承休(りしょうきゅう;1224~1300年)がうたった詠史詩です。その朝鮮歴史の冒頭に「帝釈の孫の檀君を置き」の記述があります。そして檀君は「平壌城を都とし、始めて朝鮮と称した」と、檀君の開国年はB.C.2333年とします。
 この時代に釈迦は、まだ誕生していません。帝釈天はインド最古の聖典である『リグ・ヴェーダ(神々の讃歌)』の中で、最も多くの賛歌を捧げられている軍神・武勇神インドラと呼ばれる重要な神さまです。インド・アーリア人がインドに持ち込んだ古い自然神崇拝を中心としていて、未だ一貫した世界観を持つ神話ではないようです。
 彼らは、古代アフガニスタンのアーリヤーナからB.C.2000年頃、移動を開始し、氏族・部族単位でB.C.1500年頃までにカイバル峠を越えて、インドの北西部、インダス流域のパンジャーブ地方に波状的に侵入・定住したのです。しかも、『リグ・ヴェーダ』はB.C.1500年頃からB.C.900年ごろに作られた最古の文献ですが、檀君の開国年が、B.C.2333年とすると、もっと歴史学的な検証が必要となります。
 この時代以降、中西部の忠清南道、後代の百済の領域を中心に、細形銅剣や多紐粗文鏡と共に、独特の各種青銅器が出土します。三韓時代に至るまでの続く、各地首長層相互の離合集散に伴う地域独自文化が形成されていきます。
 B.C.4世紀、朝鮮北部各地で、鋤・鎌・斧・鉋(かんな)・矛・鏃等の鉄器が使用されます。そしてなによりも注目する出土品として、中国戦国時代7雄の燕の貨幣・明刀銭(めいとうせん)の存在です。司馬遷「史記」の「貨殖列伝(かしょくれつでん)」で、燕の「東は穢狢(わいぱく)・朝鮮・真番の利をつなぐ」と述べています。
 濊は吉林省の東部から北朝鮮北西部、韓国江原道にかけて存在した古代の種族で、後三世紀の夫餘・高句麗・沃沮・穢の四種族の前身です。
 真番の地に関して、漢の武帝は、翌B.C.108年、衛氏朝鮮を滅ぼしますが、衛氏朝鮮の故地に「楽浪(らくろう)郡」「真蕃(しんばん)郡」「臨屯(りんとん)郡」「玄菟(げんと)郡」を置いて、郡県統治をおこないます。しかし楽浪郡は、王険城の地、平壌市大同江の南岸辺りと考えられますが、北朝鮮のどこか、四郡ともに位置が確定されていません。
 ただ、燕の明刀銭が物語るのは、当時既に、燕にとって東方の朝鮮その他の地域は、単なる未開地ではなく、交易の利が得られる重要な相手であったことです。この時代以降も、交易の利を狙うばかりでなく、中国中原の帝王達の領土的野心を呼びます。一方、民間レベルでは、この時代以降、盛んに貿易商人の活動が激しくなります。
 鉱石を溶かして鉄を得るのですが、それを再び溶かして型に入れたのが鋳鉄、熱して叩いたものが鍛鉄、さらに、それらを繰り返すと炭素が2%以下の鋼鉄となります。
 中国ではB.C.7~6世紀に鉄器が現れますが、B.C.403年以降の戦国時代に広く普及し、呉の鉄剣と秦の鉄製兵器の優位性が、その強兵を育てます。その鉄器文化が、朝鮮に流入したとされる説がありますが、遼寧地方には、それ以前、既に鉄器の製造技術が伝承されています。
 蒙古自治区の南部のオルドス地方では、B.C.8世紀頃、青銅器が主流であっても、初期鉄器技術も、西方のタガール文化から伝承していたと思われます。北方を行く草原のステップ・ルートが、交易を通して、その鉄器文化を、中国東北部から朝鮮半島北部へと伝播したはずです。
 しかも、中国の鉄器は、始めから鋳鉄であっって、一時期、漢の時代に、鍛鉄も盛んになりますが、その後、鋳鉄の時代にもどります。従って、鋭利といわれる呉の鉄剣も鋳鉄なのです。ヨーロッパでは、鋳鉄法が始まったのは、中世の14世紀です。鋳鉄法は鋳型に流すために鉄鉱石を高温で熱しなければなりません。それには『ふいご』による送風装置が必要でした。鋳鉄法による鉄は、硬いのですが脆いのです。農具に使えても、呉の鉄剣のように相当な技術がなければ、武器には使えません。
 ところが、朝鮮のそれは鋳鉄、鍛鉄、そして鋼鉄までも同時期に生産されていたことが、優れた特徴なのです。鋳鉄にしても、鋳型によってさまざまな青銅器を、既に生産していた古朝鮮の技術を考えると、独自に鋳鉄を生産していた可能性は十分にあります。
 ヒッタイト人が、初めて鉄の武器を作って勢力をふるいました。ただ、鉄は貴重品でしたから、当初、鉄は戦争で使用する武器として実用化されていたのでありません。鉄は、神への捧げものであり、貴重な交易品だったのです。製法は秘匿され、技術が伝播しませんでしたが、ヒッタイト滅亡後、B.C.1200頃、製法技術が広がりました。技術も進歩し、広く武器としても使用されるようになりました。
 B.C.9世紀頃には、農具としても使用されはじめています。鉄製農具は、それまで開墾不能の地をも、耕すことを可能にしました。その上、生産力が飛躍的に向上します。
 ヒッタイト人は黒海を渡って来た北方系民族といわれてきましたが、近年の説では、インド・ヨーロッパ語族が、トルコのアナトリア半島を拠点に広がって行ったとされています。
 青銅器時代、既に、最初に鉄を使い始めたとされるヒッタイト以前、B.C.18世紀頃、アッシリア商人の植民都市が、そのアナトリア半島一帯に展開した時代に、既に、鉄があったことが明らかにされました。
 内蒙古自治区のオルドス地方でも、B.C.700年- B.C.200年紀のタガール文化と中国青銅器文化と混合した結果、鉄器技術を有した独特の文化を誕生させますが、中国東北部から朝鮮半島の遺跡から出土した無文土器は、年代測定でB.C.559年からB.C.280年とされています。その無文土器人が使用していた青銅器が、オルドス文化様式のものでした。
 その後、B.C.2~3世紀に朝鮮の鉄器技術は新たな段階に入ります。鋳造よりも鍛造が多くなり、農工具が主流であったものが武器類、車馬具等と多様化し、それが広く普及します。『漢』の影響もあったでしょうが、オリエントの製鉄は鍛鉄法ですから、それが中央アジアを越える北方ルートから伝来したのかもしれません。高句麗が誕生するのは、まさにこの頃のことです。高句麗が優れた鉄器文化が背景にして、東方の強大国になっていきます。 鉄を薄く延ばして人馬の鎧に加工できるほどに、高句麗の鉄加工技術は高い水準に達していました。ただ、製鉄は高句麗のみではなく、百済や新羅にも独自の技術があったようです。
 「鉄を制すものは天下を制す」、朝鮮半島および日本の古代史は、この製鉄によって、新たな展開を始めます。 古朝鮮の人々の生活環境も変わり始めます。竪穴住居から、炉による暖房機能を備えたオンドルのある住居も増えます。経済基盤の安定は、財の蓄積をもたらし、人口増を生み、集落の結集を促進します。同時に暴走する集落首長相互の飽くなき野心の相克が生じます。
 この時代に出現する環濠集落が、緊迫した軍事的争闘の激しさを物語ります。