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 箕子朝鮮
 古朝鮮は、確実なところで、既にB.C.4世紀には、実在しています。いわゆる「箕子朝鮮」です。 箕子朝鮮(きしちょうせん;? - B.C.194年)とは、商の箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家です。古朝鮮の一つで、韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼び、首都は王倹城で現在の平壌にありました。
 『史記』によれば、始祖の箕子(胥余)は商王朝28代文丁の子で、太師(タイシ;中国、周代では三公の一。天子の師となり補佐する官)となるに及び、甥の紂王の無軌道ぶりを諌めましたがいれられず、殺されることを恐れ、狂人を装いますが、商滅亡まで幽閉される事となります。 商の滅亡後、周の武王は箕子を解放し、朝鮮に封じました。
 『三国遺事』では、「周の武王は即位した己卯(きぼう)の年に、箕子を朝鮮に封じた。檀君は・・・・その後また阿斯達(あしたつ)に隠れ山神になった。寿命は1,908歳であった」と述べています。
 朝鮮侯・箕子は礼儀や田作・養蚕・機織りの技術を広め、また人民が守る法令「犯禁八条」を実施して礼儀を教え、民を教化し、朝鮮教化の開祖として、後世までも尊崇されています。 八条の全部は伝承されていませんが、「殺人には殺人、傷害には穀物での弁償、窃盗をすれば奴婢とする」といわれています。
 人々はその徳を慕って集まったが、彼は集まった人々を、奴隷扱いするような事はなかったようです。箕子の属する商時代は、中国史上希な、異常なまでの奴隷制社会でしたが・・・・
 箕子は誇り高き人物でした。『史記宋微子世家』によれば、「(周)武王乃ち箕子を朝鮮に封じて、臣とせず。」とあります。  箕子は周王国に臣従することを拒否したのです。おそらく首を刎ねられることも覚悟していたのでしょう。武王は箕子を尊敬していましたから、臣従を強制せず、箕国侯に封じます。以降、「箕子」と称します。当時としては極めて異例な処遇でした。
 箕子は誇り高き人物でしたから、他人の誇りを尊重しました。箕国の人々は、狩猟や採取で生活していた部族で、箕子から見れば、未開の部族民であったのでしょう。  しかし部族を解消して我が家来となれとは、強制しなかったようです。それぞれの伝統やしきたりを尊重して、独立した部族、独立したクニとして、すなわち箕子朝鮮の附庸(宗主国に従属してその保護と支配を受けているクニ)として扱ったといわれています。だからなお一層慕われ、人々は集まったのです。
 ただ建国後の動向はほとんど伝わっていません。3世紀前半に著された『魏略(ぎりゃく)』によると、箕子の子孫は朝鮮侯を世襲し、40余世を数えるとしています。
 
 歴史の中の箕子朝鮮
 初期鉄器時代の最初の頃、戦国期の燕国と交易を重ねていた当時の朝鮮の王は、箕否(きひ)であり、その子の最後の王・箕准(じゅん)です。
 箕子朝鮮はB.C.4〜3世紀には、確かに実在はしていました。ただ朝鮮侯箕子の後裔かは、定かではありません。しかしながら歴史的事実として、B.C.10世紀、周の時代当初から、斉が山東地方を領有しますが、そこを根拠にする「箕」一族の集団がいたのです。
 戦国時代、その「箕」一族は、燕に服属しながらも、朝鮮西部の遼寧地方で王位を確立していたのです。燕は将軍秦開を派遣し、朝鮮の要地に官吏を置いて影響下におきます。
 B.C.222年に燕が滅亡し、B.C.221年にが中国を統一しますが、「魏略」では、秦代に将軍蒙恬が朝鮮に派遣され、時の朝鮮王・箕否は怖れて秦に服属を申し入れたと述べています。
 視点を変えれば寧ろ、の人々は、「箕」一族の流れで、遼寧地方を中心にした民族が東来したと推測すらできるのです。
 箕子朝鮮はだいたい900年ほど続きますが、B.C.194年に、中国からの亡命者、衛満(ウイマン)に簒奪されます。『魏略』は箕准一族のその後を語ります。箕准の「子と親族でそのまま(朝鮮)に留まった者は、みだりに韓姓を称している」と。箕子朝鮮没後も、箕子の子孫を主張し、 箕准一族と名乗り、韓姓を称する者が多く、楽浪郡設置前後から数百年、王姓の次に、韓姓が多くなり、当時の半島では第二位の姓でした。
 前漢時代の東夷諸国の状況をみると、松花江流域には夫余、鴨緑江流域には高句麗、遼東半島には、半島北部の日本海に沿った地方、現在の咸鏡道(ハムギョンド)付近には沃沮が、大同江流域にはが居住し、朝鮮半島中東部・現在の江原道(カンウォンド)一帯には穢のながれの東穢がいました。 現在の韓国の京畿道と江原道(南)を除く南の地、忠清北道.忠清南道.慶尚北道.慶尚南道.全羅北道.全羅南道にかけては、三韓時代の韓族が登場しています。
 このような箕子伝説は、儒教が隆盛した高麗以降の貴族や知識人によって支持され、箕子こそ朝鮮族の始祖と称えられました。民族意識が高まった近代以降においては、これを否定し、檀君が始祖として祀られるようになります。