4月下旬、山焼き後の車山 7月中旬 ビーナスラインの日光キスゲ 8月の車山高原から白樺湖 6月中旬の車山レンゲツツジ

車山開発史    Top

 我か庵を いつくにせんと 思ひつゝ 見つゝもとほる 天の花原    伊藤左千夫

 昭和35年ころから日本経済の高度成長により、所得水準が向上すると、余暇の利用として観光開発が広くなされていった。同時に自動車や鉄道等の交通機関の発達と相まって、観光需要が増大した。その受け皿となる高原は、既に地元による山林経営が行き詰まっており、外部の開発業者への用地の有償提供は、時宜に適っていた。
 柏原山との分割地・車山の北大塩地分の開発交渉が進められた。昭和40(1965)年7月3日、信州綜合開発観光(株)と第一次として、33万5,209坪、賃借料600万円で契約調印をした。同社は、昭和40年3月に設立された。資本金は1億8,000万円である。関係官庁の許可を得て9月より工事に着手した。まず池の平からの進入路工事、スキーリフト、食堂、宿舎と進められ、12月25日に竣工となった。
 それに先立ち昭和39(1964)年5月10日には、中信高原スカイライン、愛称「ビーナスライン」が、長野県企業局により茅野⇔蓼科⇔白樺湖間が開通し、11月には全面舗装も完成していた。それは長野県企業局が発足して最初の事業として昭和36年に着工されていた。
 車山高原の観光開発にとって、自動車道は必須の要件であるため、信州綜合開発観光(株)は独力で開設に努める一方、山元である北大塩財産区は、長野県企業局に「ビーナスライン」の車山までへの延長を働き掛けていた。昭和41(1966)年6月、長野県の県議会で車山南回りと決定し「霧ヶ峰有料道路」と命名された。同年には、白樺湖側から工事に入り、その道路用地は沿線所有者が無償提供をし、建設費用の一部を負担した。茅野市諏訪市は、それぞれ1億円を拠出した。茅野市は、その負担金を受益者、信州綜合開発観光(株)、京王帝都(株)北大塩財産区柏原財産区に、各2,500万円ずつ振り分けた。
 白樺湖⇔霧ヶ峰強清水間、11.7kmが、昭和43(1968)年7月21日に竣工した。同45年11月6日、和田峠まで9.5kmが開通。この和田峠への延長には、途中、旧御射山(もとみさやま)があり、七島八島の八島湿原があるので反対運動が激しかった。これを避ける迂回道となって完工した経緯があった。同56年4月25日、美ヶ原まで全線75.2kmが完成した。そして平成14(2002)年には無料開放された。

 冬はスキー場、夏は白樺湖から車山山頂までの車山高原遊歩道と車山山頂から車山肩強清水への遊歩道、さらに車山山頂から霧ヶ峰連峰の稜線に沿う遊歩道は、蝶々深山物見岩八島湿原鷲ヶ峰と続き、信州の雄大な山岳風景が堪能できる。それは夏冬利用の車山高原の開発の第一歩であった。

 昭和45年、第二次30万坪分が、賃借料600万円で契約された。
 次いで、昭和47年、第三次候補地を、信州綜合開発観光(株)丸善土地不動産(株)、大和団地(株)3社との賃貸借が、実測によるとして仮契約された。
 しかし、翌昭和48(1973)年、第一次オイルショックによる、不動産バブルが崩壊し、企業倒産が相次ぐ最中、翌々49年、大和団地(株)から契約解除の申し出があって、12月20日、地上権は抹消された。
 昭和50(1975)年の車山開発図を見ると、車山ゲレンデ一帯は、信州綜合開発観光(株)が借地しているが、ビーナスラインから下は、丸善石油と区分して借地している。決して共有関係ではなかった。
 また同昭和50年、丸善土地不動産(株)は、北大塩の裏山の開発にも食指を動かしている。当時の同社の借地権の領域はカシガリ山西麓から南麓に及び200万坪を、北大塩と留保覚書の締結をしている。しかし、この当時から既に、同社は開発する資力を失っていたようだ。
 信州綜合開発観光(株)が借地するビーナスライン沿いの東方、大門峠を含む辺りまでを京王帝都が借地している。北大塩財産区も合わせていたようだが、その殆どが柏原山であった。

 昭和47(1972)年からの、田中角栄主導の列島改造ブームによる地価急騰で、急速なインフレが発生していた。そこにオイルショックにより便乗値上げが重なり、さらにインフレが加速された。国内の消費者物価指数で昭和49年には、23%と上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。そのため、インフレ抑制策として、公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資等が抑制された。結果、同年は―1.2%と、戦後初めてのマイナス成長で終り、高度経済成長がここに終焉を迎えた。
 この時期を境にして、車山の開発業者3社に大変革が起きる。まず大和団地(株)が撤退をし、やがて企業自体が消滅する。次に丸善土地不動産(株)信州綜合開発観光(株)の株式を、電子部品メーカー・ニチコン(株)を京都市中京区に創業した故平井嘉一郎氏が、譲り受けた。当時、既に7億の負債があったようだが、それも引き受けたといわれている。平井氏は、生前、90歳までニチコンの社長を務めた名物経営者として知られていたが、恐らく昭和50年代初頭と思われるこの時期に、経営権を握り、再建屋として名を馳せていた山根利和氏を社長として迎えた。スキーの大衆化で、経営が次第に回復を迎え、中央自動車道が勝沼IC⇔甲府昭和IC間が開通し、一応全線開通となる昭和57(1982)年11月10日が、Epock makingとなったといえる。
 その間丸善土地不動産(株)信州綜合開発観光(株)へと統合し、別荘のみならず積極的にペンションを誘致し、更に時代のニーズを読み昭和59年、当時、画期的ともいえる全室トイレ・バス・テレビ付きで、プロの料理をコンセプトとしたリゾートインを展開しつつ、リゾート開発業者として生き残って来た。
 現在の信州綜合開発観光(株)の株式はニチコン(株)とその関連会社が90%近くを保有し、10%は山根利和氏の遺族が保有している。ニチコン(株)の平成18年の有価証券報告書には、信州綜合開発観光(株)は関連会社にも持分会社にもなく、関係する会社の欄に、2社が載り、その一社が信州綜合開発観光(株)である。それだけ経営的に行き詰まっていて、軽視されているといえる。
 大和団地(株)は大和ハウス工業(株)資本の子会社で、かつて存在した不動産開発会社であった。親会社の宅地造成部門が分離独立して分社化した。東証、大証、名証、一部上場企業であった。マンションをはじめ、アパート・分譲住宅・ゴルフ場・商用ビル建築・宅地造成・ゴルフ場開発・クアハウス等を展開していた。平成13(2001)年4月に親会社に吸収合併となり、同社は解散、同社の不動産事業部に引き継がれた。

 丸善土地不動産(株)は、丸善石油の子会社であったが、2度の石油危機の結果、石油需要の頭打ちの一方、石油備蓄の確保が図られ、規制緩和の進行と石油代替エネルギーの開発等大きな変換を迫られ、元売会社の企業再編の必要性が叫ばれるようになった。昭和61(1986)年、大協石油と丸善石油が合併してコスモ石油が発足した。その過程で、丸善土地不動産(株)は、消滅した。
 大和団地(株)、丸善土地不動産(株)は企業自体が消滅し、京王帝都・現在の京王電鉄(株)は、元々、大手私鉄の中では多角化に、極めて消極的であった。1980年代後半のバブル期にも、寧ろ経営の引き締めにつとめ、平成不況の過程で同業他社が、多角化により、不動産価格下落・流通不振・旅行低迷等に見舞われるのを尻目に、財務体質を強固なものに変えていった。賢明にも京王帝都は、フィージビリティー・スタディーの結果、リゾートの事業化をしなかったようだ。

 平成6年、第一次貸付地の更新に当たり実測を行った。結果、169万3,677m2となった。平成11年、第二次分も、その更新に当たり実測を行った。結果、99万7,712m2となった。

 昭和60(1985)年代に入り低迷していた景気も回復し始め、昭和62年、自動車、電器を初めとする輸出産業が好調で、円高ドル安となり、特に米国との貿易バランスが不均衡となり、政府と日銀の対策は余りにも単純で、内需拡大策として、ゴルフ場やスキー場と別荘分譲を主体としたリゾート開発を再燃させた。広大な八ヶ岳西麓は、国有林以外、大手の開発企業に開発し尽くされ、唯一残る広大な開発用地が、北大塩の裏山であった。三菱地所(株)や東急不動産(株)等も開発意欲を示した。北大塩の案内で現地調査もしている。
 しかし、両社とも慎重姿勢のまま終始したようだ。一方、丸善土地不動産(株)は、再建のための実効的な対策もなく、昭和50年の留保覚書を解約していた。
 その後、平成元(1989)年、リゾート開発ブームが再燃する。北大塩の裏山の開発(西蓼科リゾート開発)の気運が盛り上がり、また北大塩にしても山林経営は立ち行かなくなっていた。その広大な200万坪に及ぶ開発への区民の期待も大きく、ゴルフ場その他の乱開発は不許可等の条件の下、開発希望数社が手を挙げる中、スキー場開設を念頭に置く(株)鴻ノ池組に収斂していった。
 平成3年、区総会の承認を得て、財産区管理者である茅野市長原田文也近鉄不動産(株)(株)鴻ノ池組の2社と、裏山開発の土地賃貸借の仮契約が行われた。その後、ツキノワグマやオオタカの生息地との問題提起があり、開発隣接地の保全、開発地の植生保護、災害防止対策等の審議が重なり、結論が得られないまま、平成8(1996)年10月には、環境アセスメントの調査が終った。
 高度経済成長期に匹敵する経済成長であった昭和61(1986)年から平成3(1991)年までのバブル期は、日本銀行による急速な金融引き締め(総量規制)を端緒とした信用収縮と在庫調整が重なり、一気に崩壊した。その後の急速な景気後退に、財政当局の失政、円高、世界的な景況悪化等の複合的な要因が次々に加わり不況が長期化した。そこに銀行・証券会社等の大手金融機関の破綻が重なり、日本の経済に大打撃を与えた。これにより多数の企業倒産や、従業員の解雇、金融機関を中心とした企業の統廃合等が相次いだ。
 この平成3(1991)年頃から始まった「失われた10年」(平成不況期)は、平成11(1999)年から新世紀にかけてのITバブルを経て、平成14(2002)年1月を底とした。その後、外需主導の景気回復により終結した。しかしこの不景気の期間は日本経済史上最長となった。
 バブル期は、土地を担保として融資を行うに際しては、通常は評価額の70%を目安に融資を行うが、将来の土地の値上がりを過大に評価し貸し付けることが多かった。平成9(1997)年11月に経営破綻した北海道拓殖銀行では120%を融資した事例もある。単一の物件に複数の担保をも設定した。経済規模の拡大は、金融機関の貸出競争を激化させ、潤沢な資金をとにかく運用する、貸付に回す、という金融機関の暴走を呼んだ。この融資の多くは、後の地価下落により担保価値が劣化し不良債権となった。こうした不透明な経済情勢に直面して、近鉄不動産(株)と(株)鴻ノ池組の開発意欲も減退し、西蓼科リゾート開発は、平成16(2004)年、撤退となった。
 近鉄不動産(株)は、近鉄グループの経営再建の一環で、近鉄本社に吸収合併され消滅した。現在の近鉄不動産は近鉄不動産販売を社名変更したものである。
 
 近年、信州綜合開発観光(株)は、厳しいリゾート経営環境の中、未使用の用地を北大塩財産区へ返還し、地代の減額請求も行っている。今や、その用地は、スカイパークホテルへ向う橋を基準にする東西のラインの北側が柏原山で、他は総て北大塩山となっている。平成17年度の地代は、北大塩山が平米、18.20円、柏原山が35円であった。その後、減額請求が効を奏し、同20年度には、北大塩山が平米14.65円となった。柏原山の敷地内は、現状、スカイパークホテルが利用するだけであるが、そのままで減額されていない。
 現在、信州綜合開発観光(株)は、営業用地の場合、平米104.76円で転貸借している。

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