杖突峠から見た山浦地方 天竜通船の時又港 秋葉街道遠山郷(和田宿) 高遠城址から見る高遠町

   そのかみの 江戸往来の 道寂びて 木草枯れたる 長藤の谷 (高遠から杖突峠への途中、藤沢川西岸に長藤郷あり)
   登り来て 振り返り見る 坂の上 国美しき 四季の移ろひ      松井 芒人

諏訪と浜松を結ぶ中馬と通船の発展史

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 目次
 1)中馬の往還道
 2)伊那街道
 3)中馬と宿場問屋との権利争い
 4)信州往還原路
 5)通船と中馬
 6)天竜川孫市通船
 7)孫市その後の経営
 8)その後の天竜通船

1)中馬の往還道
 江戸時代の物資輸送は舟運(しゅううん)が一般的であったが、信州は内陸の山間部であり、川は急流のため、馬の背による運輸が発達した。その馬を中馬といい、その職業も中馬といった。
 中馬は、賃馬(ちんば)の転訛であるが、原初的には、信濃の百姓が、自分の生産物を自分の馬に乗せ城下町の市に運んで売った事によるという。しかし各地方でも、必然的に発生していたとみる。八王子周辺の農家が、野菜や穀物を自家の農耕馬(作馬;手馬)に積み、江戸商人や町人相手に販売し、その戻り道に塩、魚等を仕入れる馬稼ぎをした。やがて各地に、その商流の利便性が伝わり、主として山間奥地に広く伝播した。
 農民の副業として、中馬は自然な営みの中で登場した。市場の成熟と共に、他の土地の産物を仕入れ、遠隔地の需要地に運んで、販売圏と量を拡大させた。やがて諸々の荷主から運送委託を請け、駄賃を稼ぐようになり、次第に需要が増大し、信州の陸上運送機関としての専門職業となった。
 山国の信州では、江戸時代隆盛を極めた海、河川の水上運輸に頼れなかった。豊富な河川があっても急流で未整備であれば、中馬運輸に頼らざるをえなかった。信濃の下伊那の一地方では、「岡船」と呼んでいた。 中馬は当初、1、2頭の馬で日帰りか、1、2泊が普通であった。世が泰平となり、各地の道路がより整備され安全となると、中馬技術も発達し、一人で3,4頭の馬を追い、30里、40里の遠路も、積極的に請け負った。
 やがて貨幣経済と商業の発達は、運送請負にとどまらず、仕入れ販売を業とする仲買業と賃馬とを兼ねるようになる。 宿場で馬を乗り継ぐ伝馬と異なり、街道を、問屋を頼らず馬を付け通す方式のため、伝馬に比し、問屋の仲介料がなく運賃が安く、荷の積み替えによる傷みもなく速さも違った。それで中馬と宿場の争いが、江戸時代絶えなくなる。
 江戸幕府は五街道及び脇往還を整備し、馬継ぎの宿駅を置いた。その宿駅には定数の人馬(伝馬)が用意され、宿場の問屋に問屋役人が詰めていて、宿継ぎによる陸上運輸と交通の事務を仕切っていた。商品荷物は必ず問屋を通し、高札場の「人馬賃銭札」に賃銭が記され、その口銭を支払う必要があった。
  伊那街道に問屋が免許されたのは、文禄2(1593)年、飯田城主が京極高知の時代であった。 信州でも、脇往還であるが、物流の盛んな伊那街道で駄賃稼ぎが専業化した中馬が発達した。いわゆる中馬道で、中馬の往来で賑わった。東海地方からは、三河の足助塩を初め駿河の茶が、伊那からは煙草、柿等が輸送され、飯田は、その中継基地として活況を呈した。次いで筑摩、安曇、諏訪と江戸時代初期に発展をみた。 古来信州の中馬は甲州、江戸、相模、伊豆、駿河、三河、尾張等の近国へ出掛け、穀類、酒、砥石、火打石等を中馬の荷として津、湊へ付け通し、帰りの馬に塩、干鰯、鰹節等の諸色品を仕入れて自由に運んでいた。 伊那街道の伊那部宿で交差する杖突街道も中馬道として栄えた重要な街道であった。しかも伊那街道沿いの近世の村々は、その殆どが中馬村であった。

2)伊那街道
 伊那街道(三州街道)、遠州街道(下条街道)、秋葉街道の三街道が下伊那地方の主要街道であった。 伊那街道(国道153)は、中山道の脇往還で、中馬で荷駄を運ぶ通商の道として、江戸時代、盛んに利用された。
 中山道は日光例幣使等の勅使や幕府の役人、大名の往還と公用人馬の往来が激しく、その都度、宿駅の統制や取締まりも厳しいことから、庶民は気楽な伊那街道を寺社参詣の道筋として利用した。北へは善光寺道に通じ、南は伊勢詣での伊勢道や秋葉社の秋葉道に繋がる。やがて物資運搬も盛んになり、中馬は伊那街道で最も早く発展した。後にその中心は、松本に移ってはいくが・・・・
 伊那街道は戦国時代、武田信玄が軍旅の道として改修したという伝承がある。「信州伊那郷村記」には、弘治年中(1555~57)に、武田氏が浪合(下伊那郡阿智村浪合)に関所を設けたと記している。浪合宿の基礎となったと言えるだろう。文禄2(1593)年、飯田城主が京極高知の時代、飯田から北飯島(上伊那郡飯島町)までの道筋が、天竜川沿いから西方上段に移動されている。その新道に市田(下伊那郡高森町下市田)、大島(下伊那郡高森町)、片桐(下伊那郡松川町)、飯島の宿駅が設けられたという。伊那街道の原型は、この時代から徐々に形付けられるが、私領や天領が入り組むので、一挙に街道と宿駅は制定されなかった。
 慶安2(1649)年、新伊那街道が出来、その道筋に上穂宿(うわぶ;駒ヶ根市役所の北隣り)と赤須宿(あかず;駒ヶ根市役所所在地)が置かれ、漸くほぼ後の伊那街道が整えられた。 伊那街道は別名三州街道とも呼ばれ中山道塩尻宿から分岐し、善知烏峠(うとうとうげ)を越えて、天竜川西岸の伊那谷を下り、北から信濃16宿を経て、杣路峠(そまじとうげ)から三河足助(あすけ;豊田市足助町)を経由し岡崎に至り、東海道に接続する。
 杣路峠は標高838m、長野県西南端に位置し岐阜県・愛知県に隣接する伊那郡根羽村(ねばむら)にある。飯田は三州街道の中心地で、長姫藩堀氏城下町、中馬中継基地として、また大平峠・清内路峠を越えて中山道木曽路へ、秋葉街道を通じて信州の秘境遠山郷へ、遠州街道を通じて新野峠(にいのとうげ)への分岐点として大いに栄えた。また、木曽路がまだ開発されていなかった天平の官道東山道は、飛騨から神坂峠を越え、駒場でこの道と合流する古代の道でもあった。
  遠州街道は、三州街道(国道154号)飯田宿・八幡宿を起点として新野峠を越えて遠州金指(浜松市北区引佐町金指)へ向う道で、新野峠は、愛知県北設楽郡豊根村と長野県下伊那郡阿南町の境に位置する峠である。標高は1,060m。東三河と伊那盆地を結ぶ峠でもある。豊川で東海道に出る。
 杖突街道は、甲州街道茅野宿から城下町高遠を経由して三州街道伊那部(伊那市)へ抜ける道である。秋葉街道は、三州街道飯田八幡宿を起点として、下久堅から遠山郷を経て、青崩峠を越えて、水窪(浜松市天竜区水窪町)を通り火の神さま浜松市の秋葉神社の参拝に使った信仰の道であり、浜松から塩を運んだ輸送の道でもあった。
 国道152号線は、杖突街道と秋葉街道を縦貫して走る。即ち、甲州街道(国道20号)河原下交差点(茅野市)を起点として、杖突峠・高遠町・長谷村・大鹿村・遠山郷(飯田市南信濃、上村)を経由して遠州水窪(みさくぼ;静岡)・秋葉ダムを通って東海道浜松に至る道である。現在、途中の地蔵峠・青崩峠(崩壊中)は、通行出来ないが、迂回路がある。遠山郷霜月温泉の源泉は、特有の硫黄臭と塩味があり、ナトリウム・カルシウム 高濃度塩化物温泉である。原始、海であり、やがて地殻変動で隆起し、海水の領域が地中に閉じ込められたとみる。
 この南アルプスの山裾の谷間を走る一本道は、戦国時代、武田信玄の三河攻略の軍用棒道であり、南朝宗良親王の戦略の道筋であり、中央構造線沿いの道である。今では旧杖突街道の高遠・伊那間は国道361号を、秋葉街道の飯田・上村間は、矢筈峠トンネルを抜ける国道474号(三遠南信自動車道)を使う。 伊那街道は南北に長く、分かれ道も多い。
 諏訪湖南方の茅野から、伊那谷を少し東によった伊那山地と赤石山脈(南アルプス)の間を、断層が南西に向かって走る。人工衛星ランドサットからの写真では、明瞭な直線谷の地形を見せる。 伊那山地は、南アルプスの西側に平行して南北に延びる標高1,600~1,800mの山域の総称である。伊那山地の最北部・守屋山(1,650m)から、戸倉山(1,681m) 、陣馬形山(1,445m) 、伊那山地の最高峰・鬼面山(きめんざん;1,889m) 、金森山(1,703m)、そして天龍村と水窪村(浜松市)の境にある観音山(1,418m)と続く。
 南アルプスとの間は日本の最も重要な構造線の一つである中央構造線起源の直線状の谷となっており、谷間を国道152号が通過している。上田市を起点とし、静岡県浜松市東区を終点とする。
 国道152号の分杭峠(ぶんぐいとうげ)から大鹿村への下る前後の舗装区間のように、幅員は自動車1台分強しかないところが多い。以後、ますます厳しい峠越えが繰り返される。分杭峠は高遠藩が他領(南方は天領であった)との境界に杭を建て目印としたことに由来するといわれる。江戸時代、この山間の道を中馬で浜松から茅野へ付け通す事は、不可能ではなかったが効率が余りによくない。防火のご利益のある秋葉神社の秋葉街道から飯田に抜け、伊那街道を北上し、上伊那郡平井(辰野町)から有賀峠を越えて諏訪に出たと考える。
 松島宿(上伊那郡箕輪町中箕輪)追分から天竜川東岸の平出宿を経て、川岸を通り岡谷の東堀に出る岡谷街道がある。伊那部宿(伊那市西区伊那部)から東方の高遠を経て藤沢谷を北上し、金沢峠から甲州道中の金沢宿にでる金沢街道がある。ここから江戸、身延に通じる江戸道とも呼ばれた。 伊那街道16宿とは、北から南北小野、宮木、松島、殿村、伊那部、宮田、上穂、飯島、片桐、大島、市田、飯田五町、駒場、浪合、平谷、根羽である。

3)中馬と宿場問屋との権利争い
 同一路線上で、中馬と宿場問屋が競うのであるから、その紛争争議は江戸時代を通して各地で頻発している。嘆願訴訟となり幕府の役人が巡視調査に来て、裁許調停となっている。ことに中馬の歴史が古い伊那街道は、最も繁盛し、その中心、飯田では「日々入馬千疋出馬千疋」と言われたぐらいであるから、その争議が最も多かった。
 脇坂氏が飯田在城時代の寛文13(1673)年に、早くも紛争が起きた。伊那郡小野村等の百姓総代が、百姓の作間稼ぎに、手前荷物を手前馬で伊那街道を往来する際に、問屋が押さえて本駄賃の半分を取ると、伊那街道(三州街道)の問屋相手に道中奉行所へ訴えている。その裁許では問屋方を非法とした。
  元禄6(1693)年正月、伊那街道の問屋が、このままでは宿場が衰微するから、宿場継ぎの支援を願い出ている。その裁許では、立茶、紙荷、楮(こうぞ;クワ科コウゾの靭皮:じんぴ:の繊維を紙の原料とした)荷、めんたい、太物(絹織物を呉服というのに対して、綿織物・麻織物など太い糸の織物の総称)、麻苧(あさお;麻糸)、たばこの7種(色)は継ぎ馬とし、その他の荷物は付け通しとした。
 ところが間もなく、伊那郡73ヵ村の中馬及び松本商人と伊那街道の16宿の問屋との大争論が生じた。問屋側は、松本商人が元禄6年の裁許を守らず、伊那郡の中馬へ荷を預け、付け通していると訴え、同時に伊那街道の中馬の荷物を押さえた。翌7年8月、勘定、寺社、江戸町奉行連名の裁許状が下った。問屋の訴えは非分とされた。 元禄6年の裁許は覆り、先の7色の証文は取り上げられ、問屋は入牢の処分となった。伊那街道の問屋が、中馬の荷物を抑留するのは、それは発展する地方の物流を阻害する、今後は「諸色荷物」の中馬の付け通しが許され、問屋の妨害は許されないとした。
 ところが伊那郡の中馬も既得権益を主張する。後発の筑摩郡の中馬を「新馬」と呼び、宝永3(1706)年、禁止を訴えている。 道中奉行は「道筋並びに荷物の品は定めるに及ばず。村々より付け出し候」とされた。宿場の保護一辺倒から中馬往還の自由が制度化されていく。宝永7年、6代徳川家宣時代、12月、甲州役所に、伊那、諏訪、筑摩3郡の中馬総代の連名で、甲州での酒の販売禁止と宿貸し停止で、信州の村々が困窮している、古来通り認めて欲しいと嘆願した。
 結果、「甲州での穀類と荷物、国々への往来いずれのみ道筋よりも、向後通し馬・継ぎ馬双方勝手たるべし」と裁許されている。
 寛保元(1741)年6月、8代将軍吉宗の時代、諏訪、高遠、筑摩、安曇各郡の中馬総代から、再び道中奉行に訴状が提出された。これには江戸宿の問屋6人が立ち合い、8月和解が成立した。諏訪では横内村庄左衛門と上原村次右衛門ら総代の署名が残る。
  それには「中馬荷物和融相定為取替(あいさだめとりかわし)証文之事」とあり、下り荷物と戻り荷物の品名を定め、その口銭の有無と金額を明らかにし、付け通しと継ぎ立てを区別した。下り荷物とは、信州より甲州へ付け通す荷物で「米、大豆、小豆、大麦、小麦、稗、粟、蕎麦、酒の9品中馬付け通し、但し口銭これなき事」とし「串柿、麻布、油荏(あぶらえ)、油粕の4品は1駄に付き口銭4文宛にて付け通し仕るべく候事、此の分中馬付け通し」と定め、それ以外の下り荷物は「其の外武士荷物類は申すに及ばず諸荷物残らず宿継ぎに仕るべく候事」と、すべて宿継ぎとされた。
 同月「別紙取り替わし証文」が出され、「下り荷物の事、二品増す。一、多葉粉(たばこ)、一、水菓子類、口銭なし付け通し」とされた。「水菓子類」とは、古代、菓子は「果子」と書くこともあり、木や草の実の果物のことをいった。漢語の「菓子(果子)」は「くだもの」と訓読みし、食事以外に食べる軽い食べ物のことで、「水菓子類」とは「果物」の事である。
 次の「戻り荷物之事」とある。江戸、甲州から諏訪郡を通して来る荷で、細かく54品を上げ、口銭なし付け通しとされた。その品目は、塗り物、苦塩(苦汁;にがり;豆腐の凝固剤などに使用)、塩、50集(書道名蹟選集か?)、 明樽(あきだる;問屋に売り、問屋はこれを酒造家や漬物屋、みそ屋等に売った)、金物類、傘、笠類、浅草物(浅草海苔、提灯、指物等?) 、水油 (頭髪用のつばき油・ごま油・なたね油等の液状の油の総称)、蝋、元結、旱(干)物類、扇子団子、砥石、火打石、溜り(たまり漬け?)、瀬戸物、蝋燭、抹香線香、大平墨、素麺、酢醤油、味噌、貝類、鰹節、紙荷、干魚類、干鰯、油荏、油粕、菓子類、多葉粉(たばこ)、明櫃(あけびつ)、明葛籠類、明箱類、薬種、古手(ふるて;古着や古道具)、貝杓子、神仏道具、馬之道具、竹の皮類、膳椀類、鍋釜類、砂糖類、染草類、酒、生肴(魚)、合羽、石類、植木、水菓子柑類、八百屋物、土器類の54筆。
 以上は「中馬戻り荷物口銭なく付け通す、其の外武士荷物類は申すに及ばず此の外何にても残らず宿継ぎに仕るべく候事」と定めている。
 「此の外」の物としては、米穀類繰綿綿布太物等がある。多葉粉(たばこ)は下り、戻り双方にあった。下りは筑摩郡生坂村周辺で栽培され、松本町の商人が買い集める葉たばこで、戻りはそれが製品化された荷であった。 中馬は荷主とも争った。荷主である上諏訪町の醸造元等が、酒荷や穀類等の付け送りの際、少しでも多くの量を一駄の荷にしょうとした。荷が重過ぎて難渋し、諏訪郡中の中馬追いが申し合わせて、付け送り荷に貫目限度を定め、それ以上は積まない事にした。しかも神戸村に改め所を設け、貫目改めをした。これに対して高島藩は、寛延3(1750)年12月18日、郡奉行百瀬猶太夫と三沢九左衛門が、それを僭越として「貫目改めを不届至極、古来通り荷主と馬士(まご)が相対次第で付け通るように」と廻状を下した。
 明治の変革で、宿駅問屋制は廃止され「相対人馬逓伝制」となり、各宿駅に伝馬所が置かれた。明治5(1872)年には、半官的な陸運会社、つづいて民間の中馬会社が設立された。直ぐ双方対立し紛争が始まる。しかし明治30年代に道路が改良され、運送馬車が登場し、次いで鉄道が敷かれ大量輸送が可能となる。中馬の影が伊那谷から完全に消えた。

4)信州往還原路
 次に原路(はらじ)通行についても定めている。 山梨県内の七里岩ラインは、かつては甲州街道の原路(はらみち)と呼ばれ、山梨県の峡北地方の台地の下を走る、釜無川沿いの甲州街道の本線である河路(かわみち)が増水や水害等で通行不可能になった際に、迂回路として用いられる道路であった。原路は、別名信州往還とも言った。 原路は韮崎から本道路を茅野方面へと進み、小淵沢町内の松木坂交差点から長野県道11号北杜市富士見線から諏訪郡富士見町に至る県道に名残がある。「八ヶ岳高原ライン」の愛称がある。
 韮崎、諏訪間の主な通路が2筋あり、1つは甲州道中で、武川(むかわ)筋又は川路ともいった。現在では、河路(かわみち)と言われている。もう1つが逸見(へんみ)筋で原路ともいった。韮崎から八ヶ岳の裾野の通り、小淵沢から下蔦木村へ向かい甲州道中に出るか、円見山村に入り茅野市の中道に出て、さらに北上し、北山浦の村々を通った。
  「中馬原路(はらじ)之儀、乙事村(以下村を略す)、立沢、中新田、払沢、大久保、柏木、菖蒲沢、古田、八ッ手、柳沢、穴山、菊沢、子之神、丸山、山田、中道、神之原、福沢、中沢、南大塩、粟沢、北大塩、菅沢、湯川、芹ヶ沢、中村、埴原田、柏原、塩沢、都合 廿九ケ村ばかり原路通路致し申すべく候、尤も宿継荷物并(ならび)に口銭荷物の儀は一向原路通らず、中馬付け通し荷物ばかり原路付け通り申すべし」

5)通船と中馬
 天竜川通船前夜
 本州の中央・信州の河川を源流とする主な川は、日本海へ、千曲川から信濃川の流れ、太平洋へは、諏訪を源流とする釜無川が笛吹川と合流して富士川となる原始以来の流域がある。しかし八ヶ岳の大爆発は、諏訪湖の東方への流れを塞き止め、周囲30以上の河川から流れ下り、諏訪湖に集まる水は、ただ唯一つ天竜川となって流れ下った。そのため諏訪湖と天竜川は、諏訪の水難の歴史を、多く語ってくれる。
 諏訪地方を源流とする天竜川と富士川には、古くから渡船場があり、やがて橋梁も渡され人々の交通と商流物流の拠点となったが、近世以降、荷物を積んで河川を上下する通船が発達し、物流が道から河川へと比重を移していく。
 天竜川の通船は、江戸時代初期慶長12(1607)年6月、将軍徳川家康の命により、京都の豪商・角倉了以によって川筋の調査がおこなわれているが、実際に公認された通船が運航されたのは、文政年間(1818~30)であった。了以の琵琶湖疏水(そすい)とは、琵琶湖の湖水を京都市へ導き作られた水路である。一方、天竜川通船の歴史は、中馬同様に古く、木材等が筏や船で運ばれていた。各藩の御用木榑木(くれき)が筏や裸木のまま川下りさて、賑わっていた。榑木は丸太を四つ割にして心材を取り去った扇形の材で、近世に入ってからは、屋根板材として全国で用いられるようになった。伊那地方で年貢の代わりに生産されるようになると、次第に短くなり、樹種もサワラが多くなった。
 鳥居氏時代の天和年間(1681年~)、上伊那郡宮田村大久保に、高遠藩の材木改番所が設けられた。川の中州に番所が置かれ、 舟荷と流木を区分し焼き印を押した。材木は遠江まで流され、遠州灘を経て江戸の木場に運ばれたが、同番所では、下伊那の天竜村までの間で、横流しがないよう、 送り状に基づき厳重な検査を行った。
  幕府は国内各地の大河川に通船を開発してきた。角倉了以は幕府の命により慶長13年、諏訪湖から遠州まで調査をした。急流や氾濫原(はんらんげん)等の難所が多く、富士川のように開削ができなかった。以後は平地を流れる一帯の航路が断続して拓かれていった。時又(飯田市) や佐久間(浜松市佐久間町)等の舟運は、正徳、享保年間(1711~36)、11艘前後で運行され、船1艘に米21俵を積み船頭は4人であった。運賃と積荷差益は船頭と船主と4分6分で分け、利益は大きく建造費は一年運行すれば賄えたという。 しかし天竜川は急流であったし、中馬の発達が速く通船は圧倒されていた。
  安永9(1780)年、武州豊島郡内藤新宿の商人2人が、天竜川沿いの産物を船積みで江戸へ運ぶ通船計画を申請した。諏訪、伊那、松本の中馬業者が反対し、その後示談が成立し、通船の運航は、下伊那の新井河岸(飯田市松尾)から遠州掛塚湊までとなった。
 通船は一艘の船で多量の物資の運搬ができ、物流コストを抑え、品物の値段を下げる事が可能となり、中馬より利点が大きいが、積載量を増やすため船が大型になると、建造費がかさみ、川底の浚渫と障害物の除去等に莫大な費用負担があり、船持が船頭を雇う掛かりも収入の4割と多額であったため、経営を圧迫する事になる。

6)天竜川孫市通船
 江戸時代も後期となる徳川家慶の代、文政6(1823)年10月、上伊那郡神子柴村(南箕輪村)年寄の孫市が、宮田村年寄五郎右衛門と計画し、松本藩御預所の郡奉行所へ天竜川通船御許可願書を提出した。12月には松本御役所へ許可を願い出ている。二人は秋葉詣に同行し、舟運の現況を視察した中であったが、提出時には不仲となり、孫市単独の提出となった。  「然るところ往古より右川筋水上通船の助成これなく」「尾州、三州への運送荷物は往古より中馬と申し壱人にて3、4疋の馬進退仕り、荷物岡附け運送交易致し来り候処、いずれも行程四拾里余りにて往返12日宛の日数相潰れ候故、途中止宿等の諸雑費の失墜のみ相懸り候故、自国産物売捌(さば)き候ても僅かの余剰に付き立ち行難く、国中人民寝食を忘れ相稼ぎ候えども、一体の処寒国故冬は10上旬より雪積り、春は3月上旬に相成り申さず候えば、耕転の農事も相成らざる処、近年別けて米穀格外の値段、諸国と相違仕り下落に付き金銭の融通相成ず、国中一統困窮に相逼(せま)り申し候」
 通船があれば、領主の年貢米の搬送が速まり、費用の節約になり、農民の困窮の元が除かれ、商品流通が便利となり売捌きも容易になる。御領所の年貢は代金納であるが、国内米穀の流通が悪く米価の変動が著しい、通船により物流効率があがれば、相場が平準化し、御公儀も百姓も利益となる。信州は寒国で冬季の農作業ができない。通船により各地産物の流通が好転すれば、農間余業を刺激し冬季の稼業となる。また河岸での仕事が増え、年貢金の足しになる。
 信州の塩は、運賃が高上がりのため格外の高値となるが、戻り船で運び、途中の川筋村の産品も舟運にすれば、塩はもとより諸品の価格が安定する。 当時、既に時又(飯田市)より下流域、遠州掛塚湊までは、舵が無く、櫂や帆で進み、構造が簡単な分、建造費が安かった小鵜飼舟(こうかいぶね)や、元々は海苔の採集に用いた薄板の小船で、一人乗りの艫(とも)部に縛り付けた櫂で漕ぐ部賀舟(べかぶね)等が通運しており、孫市の申請が通れば、天竜川筋一円の舟運となり、交易が一段と活発になり民が潤い、領主の払い米の利益が増す。
  川通りの難場は自普請で直し、甚大な営業侵害となる中馬側への配慮として、「尚また積荷物の儀は是迄中馬稼ぎ仕り候者共の、岡附け仕り候荷物差し障りに相成らざる様仕り、尚その時々により候ては中馬岡附けにて引合わず候荷品是有り候節、これまた船下げ仕り度く候」と書き記している。 「国益を以て第一の儀に御座候」と郡奉行所の理解協力を求め、孫市の在・上伊那郡神子柴村が松本藩主・松平丹波守光庸(みつつね)の御預所であったため、12月には、松本藩御役所へ「何卒格別の御慈悲を以て、右川付き村々御糺(ただ)し下し置かれ、私共へ通船の儀御許容成し下し置かれ候様願い上げ奉り候」と願い出ている。
 「御預所」とは、本来直轄地のため、幕府勘定奉行配下の代官が支配するところを、何らかの理由により大名に行政を委託した幕府領のことを指す。例外を除き、年貢は、幕府に「御預所」を返すまで、全額大名のものになっていた。
  以上が、孫市が提出した長文の許可願書の要旨である。松本藩「預所」では、積極的に調停しょうとしなかった。孫市と村々の掛け合いに任せた。孫市が漸く交渉に漕ぎ付けても、話し合いは決着を見ず、「同御預所内は御支配御役所へ願い上げご威光を以って掛け合い仕り候処、川岸村々の外にも、差し障り申し出難渋仕り候、所詮右の振り合いにては、百弐拾ヵ村も御座候えば、年月を重ね申さず候ては、懸け合い相遂げ間敷きかに存じ奉り候」と進展しない状況に悲鳴を上げている。
 遂に「御慈悲を以て、川岸の村々此の上召し出され、御吟味下し置かれ候様仕りたく願い上げ奉り候」と積極的協力を要請している。 この計画に賛同したのは、上伊那郡では天竜川沿いの35ヵ村、諏訪郡内では同じく天竜川流域の岡谷三沢花岡橋原鮎沢新倉駒沢7ヵ村であった。 天竜川沿いでも福島、北殿、田畑、神子柴、南下平、北下平の6ヵ村は、通船が米を運べば中馬稼ぎが圧迫され、貢租も現物納になり、米の移出が容易となり、米価が高くなると主張する。
 特に孫市が年寄役の神子柴村が反対していた。文政7年5月、川筋でない箕輪18ヵ村までが反対運動を起こし、上穂、赤須、下平の諸村も出府して反対の陳情をしている。 幕府は通船開発の必要性を充分認識していた。文政7(1824)年9月、反対の村々の代表を江戸に呼び出し、通船事業は国益の大儀、双方が妥協するよう申し渡している。難点が折衝され、妥協が成立したのが、その年末であった。
その要点は
 一、諏訪湖から掛塚までに、川除け普請の用所が数ヵ所あるが、差し障りがないようにする事。
 一、天竜川の通用橋に支障が無い様にする事。
 一、運上を納めて、魚漁稼ぎをする者に不都合がないように
 一、引船の際、田畑、秣場を踏み荒らさない。
 一、中馬村々の儀は往古からの仕来り、尾州、参州並びに飯田、松本、諏訪、高遠等城下町への諸産物、米穀、中馬荷物は往き返り共に船積みしない事。等々であった。
 伊那の村々との妥協が成立したが、今度は孫市の計画に反対する声が、諏訪と木曾で上がった。 木曾谷の中馬業者のみならず、尾張藩領11ヵ宿の総代も不許可を奉行所に嘆願した。それは「木曾之義は米穀払底之土地柄故」、松本や伊那から木曾への入米の減少と、伊那米が東海道筋や関東方面へ移出され、米価が上がる事を恐れたからであった。さらに諏訪湖周辺の24ヵ村も通船により、諏訪湖の排水が悪くなり、浸水の危険が増すとして反対を申し立てた。
 幕府も御三家筆頭尾張藩の木曾宿の申し出であれば、形勢見となり、孫市の願い書を下げ戻した。
 孫市は初志貫徹を期し、文政10(1827)年5月、同じ伊那郡の木下村年寄弥四郎と連名で、再度奉行所へ「天竜川通船御許容願書」を提出した。
その要点は
 一、通船積荷は、牛馬が駄送しない材木類と外国産品を積み下し、登り船には塩、鉄、綿布、魚類を積むことを第一の稼ぎとする。
 一、諸家様方の御廻米やその外の売米は、積み入れないと約定する。
 一、是まで掛塚湊へ輸送していない品々に限定する。
 一、信州路が不作で米穀高値の年は、遠州辺りで米穀を買い入れ、信州路へ積み上る。それにより伊那郡、諏訪郡及び木曽路の宿々村々が潤い助かる。
 一、信州に豊作が続き米穀値段が下落した節には、積み出しする。
 一、冥加永として30貫文、樅板3千枚、毎年上納する。
  一、御領主様方並びに御用の荷物は何品に限らず運送仕る。
孫市は反対の村々の申し立てを斟酌し申請をし直している。先述の木曾11ヵ村を初めとする村々の反対が解消して、漸く先の申請から6年後の文政12(1829)年12月、伊那谷通船の最初の公認が叶った。この年、元老中松平定信が72歳で逝去している。
 孫市は、早速奉行所へ請証文を提出している。
その要点は
 一、諏訪湖水落ち口、上伊那郡の平出村(辰野町平出)から遠州掛塚湊(かけつか;静岡県磐田市)まで50里余り、掛塚湊から上流の狭石まで凡そ13里には、古来より通船があった。その後同所より上流時又(飯田市)まで14里程を鵜飼船で舟運するようになった。時又から上流平出村までの凡そ16里に、通路がない。慶長年間、角倉了以に通船を命じたが、未だ上流に舟運がない。下流域の鵜飼船では、掛塚湊までは無理で、「水行難場は浅瀬を浚い、大石を取り片付け破船瀬懸かり之無き様、今より入用を以て普請致し通路仕り候」後に、小舟の鵜飼船を大形に替えて、長さ7間半(13.7m)、底幅4尺2寸約(1.59cm)の船を、凡そ百艘建造して通船とする。
  一、牛や中馬で付け送りしていた俵物や米、大豆、酒の3品は積み入れしない。貫目重き物、間長の物、駄賃高値の品々、これまで他国から引合いがなかった国産の品々を積荷とする。
 一、荷物積場は伊那郡沢村(上伊那郡箕輪町中箕輪沢;平出村の下流隣)、同郡時又、半場村(浜松市天竜区佐久間町半場)の3ヵ所を、試しに船積所としたい。
 一、冥加永として百貫文、樅板3千枚、毎年上納する。
 孫市が許可を得た船数は100艘で、営業は翌13年春から、天保6(1835)年までは、主に孫市の自己資本で運営された。月に2度の年間2,400艘の舟運で、一艘15駄の荷物を積んだ。運賃は1駄につき沢村から江戸まで銀20匁2分5厘、時又から江戸まで銀17匁2分5厘の見積もりであった。狭石(浜松市天竜区佐久間町)と掛塚の2ヵ所で積み替えて、江戸へ運んだようだ。
 沢村⇔狭石狭石⇔掛塚掛塚⇔江戸の3区間で運賃の設定があった。孫市の通船は、主に沢村から狭石間を担当したとみられる。その区間は下り2日、上り6日、上下8日間で運航し、船頭は4人乗りであった。
 「天竜川通船積り書」に「壱ヵ月壱度下り、俵数3拾表」の積荷で「壱俵に付き銀3匁」、30表全部で「銀9拾匁」としている。その内訳を船頭給金「銀75匁」、運上「銀2匁」、問屋口銭と船持の取り分「銀8匁」、川丈出水の節の普請手当金「銀5匁」としている。船持の取り分が、少なすぎる。それが、後年、孫市の経営を破綻させる。
 通船区間は上伊那郡の平出村から沢村、時又、狭石経由で、やがて掛塚湊までに達した。伊那郡の入船(伊那市入船)には、通船問屋ができ通船の要衝となった。
 天保5(1834)年、孫市は四国阿波の「阿州塩」を、阿州名東郡下助往村山往屋中西屋に一手引請けとして、「取替わし申す議定一札の事」による議定証文を交わした。当時遠州塩駿州塩が中馬で運ばれていたが、既に江戸では、他を圧倒する人気の瀬戸内の塩が、万俵単位の量で舟運されていた。
 天竜通船の積荷には、多くの制約があったはずが、高遠藩での実情は、弘化4(1847)年、時又通船会所より沢渡(伊那市)の綿屋伝兵衛あてに、高遠石灰が、天竜通船に委託され、安政5(1858)年10月には、藩役所が江戸屋敷後扶持方御廻米350俵を天竜通船で輸送している記録が残っている。
 高遠藩では天保11(1840)年、岡村菊叟殖産興業政策を実施した。高遠市街の東方、三峰川(みぶがわ)の支流山室川の上流域に、芝平地区がある。芝平で良質の石灰が産出したので、菊叟は産物会所の事業として、藤沢郷芝平山で石灰を焼き始めたのが弘化元(1858)年であった。
 「石灰」の唐音から漆喰の字を当て、その字が定着した。生石灰に加水し生成されると消石灰になる。漆喰は日本独自の塗り壁材料で、消石灰に布海苔(ふのり;海藻)や苦汁(にがり;海水から塩を作る際にできるミネラル分が豊富な塩化マグネシウムを主成分とする)などを混ぜ、これに糸くずや粘土などを入れて練ったものをいう。風雨に弱い土壁と異なり緻密で防水性があり、不燃素材であるため防火材として重宝され、また調湿機能に優れているため、古くから城郭・寺社・商家・民家・大店や質屋の蔵・漆喰塀など、木や土で造られた内外壁の上塗り材として欠かせない材料であった。
 このころから薪、木炭、石灰等を通船による積み出しが行われていた。「高遠石灰」として一時は知られ、飯田城下まで舟運をした。孫市も積極的に「三峰川舟道造り舟方にて修繕致し、荷揚げ」を、「早々差し遂げ出来の事」とした。幕末から明治37年ころまでが最盛期だった。明治38年の中央線の開通とともに塩尻や小野の石灰にその地位を奪われた。

7)孫市その後の経営
 孫市は天竜川通船の許可を得るため、孤軍奮闘して多大な費用を使い、その念願が達成されと、舟の建造費、川底の浚渫と難所の除去等の川筋普請費、その後の運営費等の出費がかさみ、莫大な借財となり経営を圧迫した。已無く江戸本町の河村屋弥兵衛から、資金の融通をえていたが、やがて4千両の借財となった。孫市は担保として、川筋問屋株通船株を、河村屋弥兵衛に10年季で預けていた。以後、孫市の経営は一段と厳しくなり、遂に松本役所に、通船経営を継続しがたいと、願い出た。 松本役所は天竜川通船の重要性から、大阪の信濃屋三四郎に、孫市から経営を引き継ぐよう沙汰をした。
 天保6(1835)年7月21日、信濃屋三四郎は代人定兵衛をたて、河村屋弥兵衛に借財を弁済し、川筋問屋株と通船株を譲り受けた。 孫市はその譲渡の条件として「来る申年(天保7年)より壱ヵ年金五拾両宛来る巳年迄拾ヵ年の間指し入れられ候筈」とし、10年経過後は、年百両を「永々指し入れられ候筈」とし、その上「下り船壱艘につき銀壱匁宛御答礼として下され候事」と取り決めた。その「取替わし議定の事」の書面末尾に、「松平丹波守御預所 郡奉行 柴田七郎兵衛」の印がある。
  孫市と通船の関係は、以後も「船元」として、通船関係の文書に孫市の名が、重要な位置を占めている。孫市は嘉永7(1854)年7月、78歳で病没するが、孫市の名は後継者が襲名していく。
 信濃屋三四郎の通船業は、途切れていた。嘉永6(1853)年2月、中沢大久保村伝之丞と伊那村市作が、天竜川通船が休船となっているので、「私共へ舟相立て候よう御頼みにつき」「御公儀様御免の御印迄御渡し下され」と、船元孫市に願いの一札を差し出している。
  安政5(1858)年9月には、通船元方の孫市の舟運が、既に再開している史料が残る。高遠藩通船世話方の伊那村一造と孫市との廻米をめぐる「取替わす規定一札の事」である。 高遠藩の江戸屋敷廻米に「莫大な物入り之ある段」と割高であるとして、「双方申し分なく示談内熟相整い候」と和議となった。それで「川普請諸入用の趣意として、遠近に関わらず右一艘につき其の度々銀5匁出銀致すべく」を前提として、船1艘20駄積みで、1駄2分5厘となり、孫市の引請人忠左衛門が舟運を請負った。

8)その後の天竜通船
 遠州街道は天竜川に橋が一つも架かっておらず、渡舟にたよらなければ川を渡ることが出来ないため、古くから今田(飯田市時又;ときまた)・知久平(飯田市下久堅;しもひさかたちくだいら)・弁天(飯田市松尾)の渡舟が栄えていた。この様なことから時又港(飯田市)は、飯田や伊那街道、遠州街道から集まってくる荷を東の大鹿村等の山間部へ移す拠点として、また、「天竜通船」の物資収集の中心地として栄えていた。                         
 「天竜通船」は、主に農林産物を下伊那郡天龍村の平岡 やがて満島(天龍村平岡)、その下流域・飯田市駄科(だしな)辺りまであったが、天竜川下流域の遠州浜松掛塚湊まで江戸屋敷後扶持方御廻米や勝手向御入用の品等を運んでいる。
 それ以外に油、薪炭、酒、焼酎、粟、大豆、小豆、味噌、醤油、杏、梅干、干瓢等があって、興味深いのが氷餅氷豆腐、鶏卵、漬け大根、漬け蕨、漬け松茸、更に草鞋(わらじ)、砥石、硯石(すずりいし)等である。
 掛塚湊から信州への登り荷は、塩、干鰯、魚油、茶、生魚、塩鳥、遠州綿、遠州藍、紙筆、蝋燭、鍋釜類、鉄銅物、小間物類、瀬戸物類等であった。
 特に、時又の北隣り、かつての養蚕王国竜丘(たつおか;飯田市)地区へ 遠州・遠山・平岡から女衆が蚕飼いにやってくる足にも なっていた。一舟に積む荷は30駄(九〇〇〆)で、荷の上げおろしにも大勢の人の手間が必要で、舟が着くと人足が手伝いにきて賃銭をもらう仕事となって賑わっていた。  
  「天竜通船」は近代でも繁盛したようで、明治4(1871)年伊那県での調査記録に、上下伊那郡に50艘とある。その後、天竜川運輸株式会社が誕生し、明治年間を通して、伊那坂下(伊那市)と下伊那郡時又(飯田市)間に、定期通船による旅客と貨物の運搬が行われた。  
 諏訪地方では、江戸時代の「天竜通船」利用の記録は未発見であるが、明治5(1872)年5月、岡谷村の尾沢辰野助、尾沢喜三治と橋原村の花岡善内等が、筑摩県の許可を得て、岡谷川岸舟仲間を創り、下流域の通船業者と組み、自費で河床の開削を行い、翌6年5月、岡谷から静岡県掛塚湊まで通船を通した。その距離51里30町(約200km)で、その運賃は1駄につき、上り1円58銭3厘、下り90銭4厘で、日数は上り9日~11日下り3,4日間を要した。
 貨物は主として上りが石炭で、下りが木炭、穀類等であった。   
 明治27年、川岸村の、天竜川流域の製糸工場の石炭消費量は368万kgに及ぶ。その入手における通船の利用度は高かった。 しかし、大正の初期、資本主義経済の発展に伴う電力需要の急速な増加により、非常に好条件であった天竜川の急流が利用され、福澤桃介(ももすけ)によって手掛けられた天竜川の水力電源開発事業は、昭和10(1935)年の下伊那郡泰阜村の泰阜ダムの完成によって本格的なダム式発電所建設へと発展していった。泰阜ダム発電所が完成すると、時又~平岡間の通船が不可能になった。昭和13(1938)年、泰阜ダム下流、下伊那郡天龍村平岡にも平岡ダム建設が着手された。
  また昭和2年には飯田線が辰野から天竜峡まで開通、昭和7年に三信鉄道が天竜峡から門島(かどしま;下伊那郡 泰阜村 門島)まで開通。このような時代の流れに逆らえず、既に時又港から舟が消えていた。

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