深緑の半透明な宝石のひとつ。東洋(中国)、中南米(インカ文明)では古くから人気が高い宝石であり、金以上に珍重された。古くは玉と呼ばれた。 本文へジャンプ

 縄文時代前期(約5000~6000年前)、糸魚川・青海地域に住んでいた人たちがヒスイの加工を始めた。その後、古墳時代まで、勾玉(まがたま)などの装飾品として珍重され、万葉集にもうたわれているように古代日本人の精神生活に大変大きな位置を占めた。

糸魚川の支流小滝川が翡翠原石の発見地です。ヒスイとはどんな石?
 翡翠(ヒスイ、jade)は、ヒスイ輝石の微細で半透明な結晶からなり、宝石として珍重される。東洋(中国)、中南米(インカ文明)では古来から人気が高く、金以上に珍重された。翡翠は古代中国では玉(ぎょく)の材料の美称であった。日本では、緑・青または白色で半透明な輝石の一つ硬玉の、中でも美しい緑色のものを本翡翠と別称した。硬度6.5~7.0、比重3.3~3.5、ガラス光沢がある。
  鉱物学的には「翡翠」と呼ばれる石は化学組成の違いから「硬玉(ヒスイ輝石)」と「軟玉(ネフライト:透閃石-緑閃石系角閃石」に分かれ、両者はまったく別の鉱物である。しかし見た目では区別がつきにくいことからどちらも「翡翠」とよんでいる。その「翡翠」の色は、緑色以外に白・淡紫・青・黒・黄・橙・赤橙などの色がある。日本では橙~赤橙色の「翡翠」は発見されていない。
 ヒスイは漢字で「翡翠」と書き、「翡」はカワセミの雄、「翠」はカワセミの雌を意味する。カワセミは空飛ぶ宝石と呼ばれる鳥で、背中から尾にかけて美しい青緑色に輝く羽毛でおおわれている。「翡翠」は、カワセミの別名で、カワセミの羽の色を表現する。 そのカワセミの羽の色に似た、美しく鮮やかな宝石であることからヒスイと名づけられた。 (写真・姫川支流小滝川)

ヒスイ鉱石を学ぶ
 
広い意味でのヒスイ(jadeジェイド)は硬玉(jadeiteジェイダイト)と軟玉(nephriteネフライト)の2種に分けることができる。宝石店で販売されているヒスイは、硬玉の方で、価格的にも高い。通常、ヒスイといえば、硬玉のことをいう。
 鉱物学的に、硬玉はヒスイ輝石(ヒスイきせき;jadeite)を90%以上、構成鉱物とする岩石で、軟玉はヒスイ輝石と異なった結晶構造の角閃石(かくせんせき)で、ネフライトと呼ばれる。前者は緑色が一般的だが、本来は白色、紫、青、赤、橙、黄、黒などもあり、ミャンマー北部のカチン州、新潟県糸魚川など限られた地域で産出する。宝飾品として利用可能な硬玉は6ヶ所、新潟県糸魚川と青海地域、ミャンマーの北部カチン州、カザフスタン、ロシアのウラル山脈の北方、ロシアのアバカン、中南米のグアテマラのみで産出する。現在流通している硬玉のほとんどがミャンマー産である。緑色から暗緑色、黒色もある。
 軟玉は硬玉に比べて、色彩が劣る。中国西域、台湾、カナダ、ニュージーランド、シベリアなど世界的に分布している。硬玉と軟玉は、鉱物学的には別種でありながら、 同じ様な特色がある緑色を示し、古代から珍重され、遺物として世界で広く出土している。(写真・小滝川ヒスイ峡)

世界のヒスイ文化圏
 斜長石の変成によって、石英と分離して、ヒスイができたと考えられている。斜長石は、殆どすべての火成岩(マグマが冷え固まってできた岩石)に含まれている。カリウム成分をほとんど含まない、ナトリウムとカルシウムの固溶体(複数の物質がまじり合って均一な状態になっている固体。合金の多くはこれにあたる。)である。
 ヒスイは、ナトリウムを主成分としていて、アルミニウム、けい素といった自然界では、ごくありふれた成分などからできている。その中にクロムや鉄などの成分が少量含まれることによって、緑、紫、青緑、白などいろいろな色が付く。
 このような変成は200℃前後の温度と高圧(10kb以上)を必要とするので、人工的に作るのは困難である。硬玉の硬度は軟玉の5.6~6.0に対して6.5~7.0と堅く、比重も3.3~3.5と重く、富山県朝日貝塚や境A遺跡など、縄文遺跡から出土するヒスイは、この硬玉ヒスイである。
 硬度が高いため(ダイヤモンドは10度)、切って磨くと美しいガラス光沢を発することから、貴重な宝石として知られてる。
 ネフライトはニュージーランドにも分布するが、ヒスイもネフライトも、その産地は、大部分が北半球であり、各々独自の文化圏を形成している。ヒスイとネフライトを、共に珍重したのは中国で、中国の「玉」はヒスイ、ネフライト、石英、玉髄など多種で、むしろ、古代中国はネフライト文化圏であった。中国では古くからヒスイを玉と呼び、宝飾品に利用していた。西部のタリム盆地やクンルン山脈の新彊地域ホ-タンの町が原石の供給地で、中国国内で産出するヒスイは軟玉のみであり、硬玉が採れた記録は存在しない。中国人にとって加工しやすく産出量も多いので装身具のほか彫刻工芸品として玉器がつくられ珍重されていた。中国の硬玉としてのヒスイの利用は、かなり遅く、18世紀中期、ミャンマーからヒスイが輸入されてからだ。
 軟玉でも白く透明感のある最上質のものは羊脂玉(ヤンシー・ユー)と呼ばれ、中国では硬玉よりも価値が高い。朝鮮半島北部の遺物もネフライトで、朝鮮半島南部と日本で出土する遺物は、ヒスイとネフライトである。いずれのヒスイ製品も北陸地方で製作され、朝鮮半島でも勾玉が出土するが日本から伝来したようだ。『三国史記』が語る百済が倭国に遣使し求めた大珠や夜光珠と「魏志倭人伝」にある邪馬台国からの魏への朝貢品にある青大勾玉は日本のヒスイ製であったとみられる。
 硬玉としてのヒスイは、日本では新潟県糸魚川市の姫川の支流・小滝川流域の明星山西麓のヒスイ産地と、糸魚川市青海(おうみ)町青海川の橋立のヒスイ産地が、日本各地で出土するヒスイ遺物の原産地とみられていた。
 富山県朝日町宮崎のヒスイ海岸にも、ヒスイの原石が打ち上げられる。小滝川のヒスイ狭から海岸に運ばれたか、或いはヒスイ海岸近くの海底に硬玉層があり、海岸に打ち上げられると諸説がある。その後、探査を繰り返したが母床は発見されていない。それ以外に北海道旭川市幌加内町、鳥取県若桜町角谷、岡山県新見市大佐(おおさ)、兵庫県養父市大屋町加保坂、長崎県長崎市三重、群馬県下仁田町、埼玉県寄居町などが知られているが、これらの産地のヒスイがヒスイ文化圏に関わっていた形跡が未だ存在していない。

 縄文時代中期(約5,000年前~4,000年前)から、盛んに装飾品に用いられるようになる。 この時代には大珠が多く作られ、九州から北海道に分布した。特に北陸・中部・北関東に比較的多い。出土数が少なく、呪術や祭祀を司る宗教的職能者か有力者などがシャーマン的に使っていたようだ。後期~晩期末に、大珠が衰退し勾玉・管玉・丸玉が増え、弥生時代には勾玉に限られ、古墳時代に繋がるが、古墳時代前期にはナツメの実の形をした棗玉(なつめだま)が登場する。その前期後半には勾玉の材料が多様化し、後期にはヒスイ製勾玉は激減する。7世紀後半以降、装身具が衰退しヒスイの需要が急減し、8世紀には急速に歴史から消えていった。
 ヒスイの産地としては、海外ではミャンマー北部カチン高原、アメリカのカリフォルニア州ニューイドリア、グアテマラのモタグア、ロシアの西サヤンなどあるが、全ての地域が、固有のヒスイ文化圏を形成するレベルには達していない。
 ヒスイに限ってみると、日本を中心とした縄文ヒスイ文化圏と、オルメカ・マヤ・アステカ文化における2代ヒスイ文化圏が良く知られている。
 オルメカ(Olmeca、オルメカ文化、オルメカ文明)は、メキシコ湾岸のベラクルス州南部からタバスコ州を中心として、北は、メキシコのパヌコ川からシナロア川あたりまで、南はホンジュラスのモタグァ河口あたりからコスタリカのニコヤ湾あたりまで、だが境界線は歴史的に一定していたわけではない。 壮麗な神殿ピラミッドなどを現在も残す「メソアメリカ文明」が繁栄した地域で、先古典期(せんこてんき)の紀元前1,250年頃から紀元前後にわたって栄えた文明である。 このオルメカ文明では、青緑色のヒスイ彫像が多く発掘されている。そのヒスイがどこで採掘されたのかは、長い間謎となっていた。近年、グアテマラで青ヒスイが発見されたことにより、オルメカ文明の時代からグアテマラが、ヒスイの供給地であったことが証明された。
 

ヒスイの歴史
 富山県下新川郡朝日町の明石(あげし)A遺跡では、縄文時代中期から晩期にわたるヒスイの珠や原石・未製品が沢山発掘されている。縄文時代前期初頭(約6,000年前)にも、ヒスイの礫を採集していた痕跡があると報告されている。この遺跡の発掘調査によって、それまで中国から輸入していたと考えられていたヒスイが、国内で産出・加工していたことの、確かな証明となった。
 氷見市朝日丘にある朝日貝塚では、長さが15.9㎝もあるヒスイの大珠が出土している。紐を通す孔が開けられている。加工された製品が北陸地方で確認できるのは、現段階では、前期末期(約5,000年前)からで、朝日町馬場山G遺跡の住居跡に、ヒスイの剥片や大珠仕掛品が遺存していた。
 全国で最も古いヒスイの遺物は、山梨県北杜市大泉町の天神遺跡の土壙から出土した長さ5.5cmの大珠である。諸磯C式土器と伴出しているから、縄文時代の前期末葉(約5,000年前)ということになる。
 天神遺跡からは大珠を加工する工具も発見されていないため、ヒスイは北陸産と見なされた。ほぼこの前期末葉あたりからヒスイの加工が始まったとみられる。
 硬玉ヒスイの装身具は、縄文時代から弥生、奈良時代までの数千年にわたり珍重された。このヒスイに縄文人が目を向けたのは、何時のことなのだろうか。
 縄文時代から古墳時代にかけ、富山県朝日町はヒスイの玉つくりの地であった。そのことを証明するいくつかの遺跡が発見されている。
 明石A遺跡は、宮崎海岸の山手にある縄文時代前期の遺跡である。玉つくり遺跡としては日本で最も古いものの一つといわれている。ここからはヒスイの原石や滑石の耳飾玉が出土している。
 朝日町の境A遺跡は、縄文時代中期から晩期までの2,300年間、ヒスイの玉つくりムラでした。丸玉や大珠等が出土している。いずれも古代の装飾品で、今日のイヤリングやペンダントに当る。
 縄文時代には、国内最大の産地だった新潟県糸魚川市からも、全国へと流通している。糸魚川市長者ヶ原遺跡(縄文時代中期)や新潟県青梅町の寺地遺跡(同)からは、ヒスイ工房跡が発掘された。
 明治30年頃中川直賢により発見された長者ケ原遺跡は、一大産地の小滝川下流に位置し、日本最古のヒスイ加工遺跡である。すぐ目の前が、日本海で交易の拠点としても地の利を得ていた。
 昭和29年、長者ケ原遺跡に本格的な学術調査が入り、その結果、完成品のペンダント2個を含むヒスイの原石250余点が出土した。その多くが加工途中の仕掛品或いは仕損品である事が判明して、長者ケ原はヒスイを中心とする石材の一大加工場のムラであった事が判明した。
 ヒスイは古代人のアクセサリーといえると同時に、呪術・宗教的な意味合いがあり、限られた人しか身に付けていなかった。

ヒスイの発見
 約5,000年前の縄文時代前期、糸魚川で、縄文人がヒスイの加工を始めた。これが世界最古のヒスイ文化であった。その後、弥生時代・古墳時代を通じてヒスイは非常に珍重された。
 8世紀に建立された奈良東大寺法華堂の不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)の宝冠にはヒスイの勾玉や丸玉が飾られている。女性のみで代々世襲される沖縄の祝女(ノロ)の祭具にヒスイの勾玉が使用されている。いずれも古来からの伝世品で新規に製作されてはいない。
 奈良時代以降は装身具として全く利用されなくなっていたようだ。糸魚川でヒスイが採れることも忘れ去られ、 日本にはヒスイの産地はなく、遺跡から出るヒスイは大陸から持ち込まれたものと、昭和14(1939)年に発表された東北大学助手の河野義礼(かわのよしのり)氏や大森啓一氏の研究論文まで考えられていた。

 昭和13年(1938)、糸魚川市大町出身の歌人相馬御風が知人の鎌上竹雄氏に、糸魚川地方を治めていた奴奈川姫神話では、姫がヒスイの勾玉を装身しているので、かつて糸魚川でヒスイが産出されていたかもしれないと語った。
 鎌上氏は糸魚川市小滝に住む親戚の伊藤栄蔵氏にその話を伝え、伊藤氏は自宅近くの小滝川で探し始めると、小滝川に流れ下る土倉沢の滝壷で緑色の原石を発見した。
 この石を鎌上氏が伝手を頼り東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室助手の河野義礼氏へ送った。河野氏は研究室の神津俶祐(こうづ しゅくすけ)教授に、その緑色鉱物を見せた。教授は香港で購入したビルマ(ミャンマー)産のヒスイと比較するよう指示した。小滝川の緑色の岩石はそれに非常に似ていた。教授は助手の河野氏に化学分析、同じく助手の大森啓一氏に光学性質の測定をさせた。河野氏による現地調査の結果、 ヒスイであることが科学的に調査された。昭和14年に「岩石砿物砿床学」という 東北大学が中心となって発行していた学術雑誌に2つの論文が掲載された。
 1つは河野義礼氏による「本邦に於ける翡翠の新産出及その化学性質」、もう1つは大森啓一氏による「本邦産翡翠の光学性質」という論文であった。日本でもヒスイが産出することを初めて明らかにした画期的な論文で、両先生は当時、東北大学を卒業し、助手として勤務していた。後に二人とも東北大学教授になられている。


「管錐」の技術
 山梨県北巨摩郡大泉村の天神遺跡の大珠は、良質の緑が入った形のよい転石に少し手を加えたもので、紐を通す孔が開けられている。孔は径が一定していて、直線的にスポッと開いている。富山県朝日貝塚の大珠の直径は4センチ強であるが、これにも同じ様式の孔が開けられていた。
 このあけ方は、縄文中期のヒスイ製品には一般的なもので、硬度が7に近いヒスイに、金属器を持たぬ人たちがいかにしてこのような孔を開けえたのか?
 「管錐」技法がある。細い竹を用いるので、失敗して放棄された物の穿孔(せんこう)途中の穴に、竹の突起を残すものがあって、管錐によるものと知られた。
 水と砂粒を竹管の先端部につけて、回転を加えていき、平均した力でこの回転を長時間繰り返すことによって貫通させる、根気の要る作業であった。
 玉は日本では旧石器時代から既にあり、縄文時代の前期から玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)なども作られていた。ただ管錐を用いる穿孔技術がなかった。
 玦状耳飾りの玦とは、腰に吊るす装飾で中国の半環形の玉器「玦」のことで、この耳飾りの形が似ていることから命名された。「玦」は弓を引く際に親指にはめる、突起のついた指輪状の道具でもあり、中国では戦国時代から漢代に装飾品としても用いた。
 玦状耳飾りは、中心から外周にかけて欠けている。縄文時代前・中期に多い装身具で、石製が主であった。
 管錐技法は、ヒスイの加工と共に出現したか、管錐技法が使われたからこそヒスイは玉として登場したのか?未だ、明らかではない。
 では、新しい技術はどこから得たものか。あるいは、自ら獲得したものか。
ヒスイは蛇紋岩の助けによって、地表に現れる。ヒスイの産地はまた、蛇紋岩の産地でもある。蛇紋岩は、旧石器時代以来、木材の伐採加工具・土掘り具である磨製石斧に最適な石材であった。
 それでヒスイは、遺跡ではしばしば磨製石斧と共伴する。宮崎の浜から糸魚川にかけてのヒスイ産地の人々は、蛇紋岩を採取し加工するなかで、堅く、美しく、神秘的な緑色に輝くヒスイを知った。
 管錐技法は、擦り切り技法を用いて磨製石斧の製作を行っていた彼等が、試行錯誤を繰り返したうえで、自ら確立した技術と考えられる。
 それを証明するのが、富山県朝日町の境A遺跡であった。日本の各地の遺跡から、境A遺跡付近が生産地と思われる磨製石斧が数多く出土しており、中には、刃先を半分位まで研ぎ直し、使い込んだ例も見られる。
このことは、境A遺跡付近産の石斧が、優れた実用品として、交易の上でも重宝されていたことを示している。「玉作りのムラ」は石斧生産のムラとしても重要な位置を占めていたようだ。
 境A遺跡から出土する石斧は、完成品だけではなく、制作途中の仕掛品が折り重なって大量に見つかるのも特徴で、仕掛品の中には、B級品もあった。 実用品として充分使用可能なのに、単に形が不具合のもの、少し欠けただけのものも多く見られ、仕損品とされ交易上提供されなかったようだ。制作道具としての石器類も、同じ場所から数多く出土しており、擦切り痕の残る石斧の仕掛品が、いくつも出土している。石器の製作工程を明らかにするための格好の資料となっている。
 薄い板状に割った砂岩の断面を細い三角形をした歯のない鋸のようにして、砂と水などを研磨剤とし、原石に筋目を入れて割る技法で、打ち割りの失敗による石材のロスを防ぎ、大きな原石からいくつもの素材を切り出した。

ヒスイは日本全国で重用された
 ヒスイの加工法を会得した人々は、姫川で、青海町の海岸で、そして宮崎の浜でヒスイを拾い、加工に精を出した。加工されて珠となったヒスイは、北陸はもとより、関東、中部、東日本を中心に広がり、さらに、北海道、東海や近畿、九州にも流布した。
 その希少性の高いヒスイを、どのようにして流通させ、多大な根気が要る技術で加工する代償は、なんであったのか。
 富山湾が引き寄せたヒスイは、富山湾岸の人々に更に何をもたらしたのか。
 奴奈川姫の越の国との関係は?

古代人を魅了した緑色の軟玉
 昭和40年、北海道十勝郡浦幌町平和遺跡で出土した短冊形の垂飾(たれかざり)は、縄文時代早期(約7千年前)の日高産の滑石で、淡い緑色の神秘的な軟玉の装身具であった。上部に小さな穴が開いておりペンダントのようにして首に下げ、古代の人の胸を飾っていた。浦幌町共栄の共栄B遺跡からは、もう一つ、国内最古の装身具が出土している。縄文時代早期中ごろ(約7千年前)の土層に遺存していた玦状耳飾りである。C形状のイヤリングで、埋葬されていた縄文人の人骨頭部の耳の辺りから出土した。輪状に丹念に磨いた扁平な石に、耳朶に装着できるように、切れ目が入れられている。この遺跡は、浦幌高校生により発見された。
 日高山地から飴色や緑色系の蛇紋岩・滑石など、柔らかで加工し易く、見た目にも美しい原石を運び、加工職人が見事に細工している。中には、希少な琥珀製の玦状耳飾りもあり、琥珀製装身具としては日本最古のものではないかと考えられている。
 滑石(かっせき、Talc)は、水酸化マグネシウムとケイ酸塩からなる鉱物で、粘土鉱物の一種である。微細な薄片状の結晶が集合し、一般に白く真珠ような光沢を持っているが、不純物により灰色や緑色を帯び硬度が高まる。滑石の硬度は、1の基準となる標準物質で、鉱物の中で最も軟らかいもののひとつで、その軟らかさゆえに、細かな細工ができて、装飾用石材として多用された。
 玦状耳飾りの石材は薄いドーナツ形に削り出され、一方に切れ目を入れる。これが耳飾りであることは、大阪府河内国府遺跡(こういせき;藤井寺市惣社2丁目)で発掘された人骨の頭部両脇から一対、2点が見つかったことから分かった。河内国府遺跡では100体以上の埋葬人骨が出土したが、状耳飾りは特定の女性と共に、それも推定される年代差で共伴した。
 神奈川県の縄文時代早期中葉の上田浜遺跡では3基の土壙から、状耳飾りがそれぞれ一対ずつ6個出土した。特別な祭祀者の地位を、女性のみで3世代に亘り継承され埋葬された形跡がある。その使用方法は耳たぶに孔をあけ、挿入した。現代女性の耳を飾るピアスの源流は遠く縄文時代に遡る。
 玦状耳飾りは、縄文時代の早期を始原にし、縄文前期には全国的に流行したが余りにも貴重であるため、その発見数はそれほど多くなく、栃木県根古屋遺跡で179体の人骨が出土したが、玦状耳飾りの共伴例はたったの2体である。玦状耳飾りの発見例の多い国府遺跡でも、弥生時代と縄文時代前期・晩期の人骨が含まれているが、これまでの100体ほどの人骨のうち、5体前後で共伴されたに過ぎない。
 玦状耳飾は半折した部分に穿孔(せんこう)したものも多く、補修して使用するほどの貴重品であった。この耳飾は個人的な趣味でつけたのではなく、縄文社会のムラの一定の仕来りに従って装着された。管錐加工は根気のいる作業で完成まで容易ではない。しかも仕損品が多い。新たな管錐作業を誰が行っていたのか。
 縄文ムラの人々のうち、玦状耳飾りを装身した人はごく僅かで、その耳飾りは縄文ムラ社会の特別な身分を誇示する象徴であった。縄文社会の性格を考えるうえで、大変重要な情報を秘めている遺物だ。

 耳飾りは縄文人が好んで身に着けていたアクセサリーの一つで、C形状のイヤリングで、耳に穴を開けてリングを通し、切れている部分を下にして耳に下げていたと考えられている。この玦状耳飾りは、北海道から九州地方まで全国各地の縄文時代の遺跡から出土している。縄文時代早期(10,000-6,000年前)末に出始め、前期には東日本を中心に広がり、中期末には殆ど見られなくなる。現代と同様、縄文時代にも“流行”があり、耳飾りだけでも、玦状耳飾りの後には、中央部がややくぼみ鼓状になっている「耳栓(じせん)」、「滑車形」、「透かし彫り形」などと流行が変化する。
 材料も石から、耳栓や滑車形になると土製品となり、玦状耳飾は個人的な趣味でつけたのではなく、縄文社会のルールに従って装身された。デザインも単純だったものが透かし彫りとなり、現代でも通用する精緻な彫刻文様が多彩になった。
 玦状耳飾りの素材は、加工が容易で美しく輝きのある鉱石が使われていた。中部・北陸地方の遺跡では、原石や製作途中のものが出土する製作遺跡が多数点在している。玦状耳飾りやヒスイ製装身具が、原石の産地付近で加工され全国へと流通するように、生産地から遠くまで運ばれ消費されたという。現代のような物流網が縄文時代、既に広く展開していた。
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