卑弥呼と纒向遺跡の時代      Top

 暦年代  纒向土器の編年  57年 奴国王、後漢の光武帝から金印を授か 
 180-210  纒向1   150年頃 倭国乱
 210-250  纒向2   239年 卑弥呼、使者を魏に派遣(30余国を支配) 。卑弥呼は247年から248年に死亡した。
 248 卑弥呼の宗女で13歳の台与即位して倭の女王となる。
 250-270  纒向3   249年、司馬懿がクーデターを起こし、曹爽一派を誅滅した。これにより司馬一族は魏の権力を完全に掌握した。2年後の2518月、司馬懿は死去した
 270
15代応神天皇即位
 270-290  纒向4   280年 晋が呉を滅ぼし中国を統一
 290-350  纒向5  西日本各地に、大型の壺形土器、手焙系土器を供献した首長墓が現れる。

【弥生時代前期】紀元前350年~紀元前200年頃

  北部九州に朝鮮半島からの渡来者が流入。

  佐賀県菜畑遺跡などで水田稲作が行われる。

  北部九州に大規模な環濠集落が現われ、以後西日本に広がる。

  北部九州に鉄器の普及、環濠集落同士の戦闘が激化。

【弥生時代中期】紀元前200年頃~紀元前後

  北部九州で前漢鏡を副葬した大首長墓が出現(福岡県須玖岡本・三雲南小路遺跡)

九州で銅剣・銅矛など武器型青銅器が、近畿地方で祭祀用銅鐸が鋳造される。

北部九州に鉄器が普及。

瀬戸内海地方に高地性集落ができる(八堂山遺跡・紫雲出遺跡など)
沖縄や奄美を含む南西諸島から九州、本州、北海道まで伝わる『貝の道』ができる。

『貝の道』により貝製の斧やナイフ、首飾りなどが、穀物や金属器・布などと交易。

八重山諸島に出るシャコガイ製斧は大型で、木材の伐採や丸木舟の製作道具。

倭人が100余国に分かれ、一部が楽浪郡に朝貢。

【弥生時代後期】紀元前後~250年頃

  57年 倭の奴国王、後漢に朝貢し、光武帝より金印を授けられる。

  2世紀末ごろ、倭の諸国が卑弥呼を女王とする。

  3世紀前半、前方後円形・前方後方形の墳丘墓が出現し、列島各地に広まる。

  239年 卑弥呼、魏()の明帝への奉献を願う。
247.8
年頃 卑弥呼没す。


 目次
 1)纒向遺跡とは
 2)纒向遺跡の性格
 3)政権都市纒向
 4)交易・政治都市としての纒向
 5)纒向政権と銅鐸と祀りの関係
 6)卑弥呼の鬼道とは?
 7)東征して来た邪馬台国
 8)弥生時代の国際交易、倭人と鉄
 9)卑弥呼の統治制度
 10)卑弥呼時代の国際情勢
 11)卑弥呼の鬼道と古墳の関係
 12)銅鐸時代の終焉
 13)卑弥呼がいた纒向都市
 14)纒向時代の遺物
 15)卑弥呼の死
 16)卑弥呼死後の邪馬台国と狗奴国
 17)邪馬台国時代の関東情勢
  
 蒲生 君平は、下野宇都宮の灯油商の子として生まれ、江戸時代後期の儒学者で尊王論者でもあった。同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられている。山陵志は、江戸時代後期に蒲生君平が著した書物で、天皇陵に関する研究調査結果を記した。その山陵志の中で、初めて、これら古墳の特徴を「前方後円」と称した。

1)纒向遺跡とは

 3世紀の奈良盆地で使用されている土器の大半は、伝統的な弥生時代後期後半の畿内弥生第5様式系である。盆地東南部の桜井市北部の纒向遺跡と天理市南部の柳本遺跡の集落では、約50%が新様式の庄内型壺や庄内型甕であったが、他の奈良盆地の集落でも、外来系土器程度に広まっていた。庄内式土器は西暦200~250年、大阪府豊中市庄内にある庄内遺跡を標式遺跡とする。
 纒向遺跡は奈良盆地の最東南部にあたる奈良県桜井市の大和の神山・三輪山の北西麓一帯に展開する遺跡で、2世紀末~4世紀中葉の集落である。2011年8月現在までに166回の調査が重ねられ、その範囲は東西約2km・南北約1.5kmと未だ限られた範囲内であるが、その中に現在発見されている6ヵ所の居住地と、3世紀代の箸墓遺跡群が集合する。
 平成24(2,009)年11月、纒向遺跡内で、この時代最大の大型建物跡が発見された。それは掘立柱建物で、約19.2m×約12.4mと大規模に復元できるとされている。既に、それ以前、3棟の建物跡が出土していた。これら4棟の建物は、中心軸を東西に置き、揃えて並んでいる。しかも高床式建物で、桁行と梁行に結ぶすべての筋の交点に柱が立つ総柱構造の可能性が高い。
 東側が正面で、内部の間取りは出雲大社本殿や伊勢神宮と強い親近性がある。出雲大社本殿は、神社の長である国造が殿内祭祀を行う一方、神として、自らに仕える神官から祭祀を受ける建物で、『古事記』垂仁天皇(すいにん)の条に天皇の「御舎(みあらか)」のようであると記されている。『日本書紀』崇神天皇(すじん)6年の条に、それまで天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)2柱の神を天皇の「大殿(みあらか)」で祀っていたと記す。倭大国魂神とは、文字通りヤマトの産土神と解すべきだ。また4棟の居館域は、箸墓古墳の真北にあり、西側には祭祀土坑群とベニバナ染めの工房跡がある。日本列島各地の古墳時代の豪族居館の周辺には、祭祀場や特別な工房が付属している事例が多い。年代・立地・規模・規格などを総合的に分析するとヤマト政権の初期の王宮とみられる。
 これまでにも大規模な建物跡や水路などの遺構が見つかっている。現在の段階でしかも今日、日本の古大史上、藤原京が発掘されるまで、最大規模の遺跡群であった。その纒向遺跡は2世紀の終わりに忽然と登場する。その上、東西を主軸に並ぶ、計画的に配置された建物群が出現する。当初から完成された文化がいきなり立ち上がり、しかも九州的・吉備的・東海的など当時の列島各地の先端文化を凝縮していた。その内容は邪馬台国の出現と断定したくなるほど、強烈な誘惑に駆られるものであった。

 唐古・鍵遺跡は、橿原市の北に隣接する奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵にあり、奈良盆地のほぼ中央部を流れる初瀬川が形成した沖積低地で、纒向に近い。弥生時代を通して長期に営まれていたため、弥生時代を代表的する大規模環濠集落跡とされている。昭和12(1937)年、京都大学と奈良県による唐古池の発掘調査によって、多数の竪穴や貯蔵穴、多量の土器・石器・木製品・卜骨(ぼっこつ)などの祭祀用具・炭化米・種子・獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関連用具が発見された他、鎌・杵などの木製農耕具や木器類が出土した。農具の豊富で様々な出土例が、日本で初めて確認され、弥生時代の性格が明らかとなった。それにより近畿地方の弥生土器編年の基準が作られ、弥生時代は前期・中期・後期と時代区分された。
 
2)纒向遺跡の性格
   纒向遺跡は、弥生後期の最終段階に登場する。始まりは人工的水路、運河の開削と銅鐸の破壊であった。纒向遺跡から出土した墨書土器(ぼくしょどき)には、「大市(おほち)」と明瞭に記されている。纒向は大市と呼ばれていた。
 『日本書紀』には倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)と三輪(みわ)氏の祖神ともいわれる大物主神(おおものぬしのかみ)との神婚の話が、崇神天皇(すじんてんのう)の10年の条に記されている。崇神天皇は『古事記』『日本書紀』がともに、「はつくにしらしし(御肇国、所知初国)」と記していることから事実上初代天皇とみられている。三輪山を中心とする政治勢力を確立し、その軍事勢力を背景に日本列島の諸勢力を従え、更なる発展の基盤とした。
 倭迹迹日百襲姫神は崇神天皇の祖父孝元天皇の妹であるが、大物主神の妻となった。夫は夜に通ってくるだけで、その顔を見ることがなかった。それで倭迹迹日百襲姫神が、「君常に昼は見えたまはねば、分明に其の尊顔を視ること得ず。願はくは暫留りたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀を覲たてまつらむと欲(ほ)ふ」と迫った。そこで大物主神は、「朝になったら櫛箱に入っているから、見ても決して驚くな」と告げた。翌朝、櫛箱を開けた倭迹迹日百襲姫神は「遂に美麗しき小蛇有り。其の長さ大さ衣紐の如し。則ち驚きて叫啼(さけ)ぶ。」、蛇はたちまち若者の姿となり、「汝、忍びずして吾に羞せつ。吾還りて汝に羞せむ。」と激怒して、大空に飛び上がって三輪山へ去っていった。それを後悔した倭迹迹日百襲姫は、箸で女陰を突き刺して自害した。『日本書紀』には大市に葬られ、その墓は箸墓と呼ばれたとされている。
 この神話は、大国主命とも三輪氏の祖神ともいわれる大物主神が、在地勢力であったが、やがて大市から駆逐された事を暗示している。しかも大和朝廷の発祥の地とみられる纒向の地名が大市であれば、その発展の要因に、纒向の市場が全国的物流のハブにまで成長していたことを物語る。
 『魏志倭人伝』に「都市牛利(トシゴリ)」という人物が、魏への外交副使として3回登場している。「都市」とは、都督(ととく)という中国の官職または称号で三国時代以降に使われ、主に地方の軍事・民政を統轄した。また中国の古典では、水を管理する役職を「都水」という。
 邪馬台国では市場の管理者「都市」が、重要な外交副使として活躍していたことになる。魏志倭人伝には、「租賦を収む、邸閣あり、国々市あり。有無を交易(互いに有るものと無いものとを交換)し、大倭をしてこれを監せしむ。」と記す。「大倭」は、邪馬台国が派遣する「都督」であろう。
 纒向遺跡では、ホノケ山古墳で画文帯神獣鏡が出土している。後漢の霊帝劉宏の治世下の中平6(189)年から遼東太守に任じられ公孫氏が、遼東から帯方・楽浪を支配し、邪馬台国以前の倭のクニグニと外交関係があったとみられる。そこから画文帯神獣鏡が渡来したようだ。

3)政権都市纒向
 日本各地で農耕が始まった弥生時代以降から古墳時代後期までの集落遺跡から出土する鍬と鋤の比率は、通常、農耕具である鍬が70%~80%と非常に高い。鋤は鍬よりも古くからあり、土壌をすくい上げて地面を掘ったり、土砂などをかき寄せたり、土の中の雑草の根を切るのに使用される道具で、多くは土木工事用のスコップである。通常、遺跡からは30%程度しか出ない。
 過去170回に近い纒向遺跡の調査結果からは、農耕具の鍬が5%であるに対して、土木工事用の鋤が95%と異常にまで偏っている。収穫具としての木包丁にしても祭祀土坑の遺物の中にあっただけで、水田で履く田下駄や田面を均平にする代掻(しろか)きに使う柄振(えぶり)などの農耕具が殆ど発見されていない。そればかりか纒向では畑や水田の跡が見つけられていない。
 纒向遺跡から出土する土器のうち、15%から30%くらいの比率で、大和以外の搬入土器がある。更にその50%ぐらいが東海系土器であった。大和が倭国の中心であるとすれば、『魏志倭人伝』に「その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。」いう。「狗奴國」が東海にあり、卑弥呼に属しないまま、しかも比較的早い段階から密なる交流があったようだ。

 纒向遺跡がある桜井市には、奈良盆地を東西に貫き、西の難波に通じる横大路や伊勢街道と奈良盆地の東側に連なる山々の裾添いに石上を経由して奈良方面に抜ける「山の辺の道」がある。その西側には、古代より奈良盆地の中央より東寄りに南北に縦貫し、明日香へと通じる上ツ道(かみつみち)がある。南には吉野へ向かう多武峯街道(とうのみね)や飛鳥に抜ける磐余(いわれ)の道があり、北には奈良県北東部の宇陀へ抜ける松山街道がある。
 桜井は大和と他地域とが古くから結ぶ街道の要衝で、古代では有数の広域交易を可能とする地であった。
 纒向遺跡は弥生後期の最終段階の2世紀の終わり頃に、突然、出現する。纒向の周辺には、比較的大きな河川があり、その西南には大和川の上流にあたる初瀬川が流れている。纒向に移り住んで来た人々は、過去数百年間、近畿地方を中心に祭具として主要な位置を占めていた銅鐸をたたき壊し、人字形に運河を東から西方向に開削した。

 夕さらず 河蝦鳴くなる 三輪川の 清(さや)き瀬の音(と)を 聞かくし良しも(万葉集)
 泊瀬川 速み早瀬を 掬(むす)び上げて 飽かずや妹と 問ひし君はも(万葉集)

 初瀬川は大和高原を源に、桜井市を経て川西町にて佐保川と合流し、そこからは「 大和川」と名を変え、大阪湾へと流れ入る。 纒向では、この川は飛鳥時代より更に遡り、邪馬台国時代、既に舟運に活用されていた。
 桜井市立纒向小学校の建設時の際、纒向遺跡第6次調査が行われて発掘された。幅約5m、深さ約1.2mの大溝があった。大溝は北溝と南溝の2本の溝が人の字形に合流するもので、確認されている各溝の長さは北溝約60m、南溝約140mで、注目されたのが南溝に護岸用の矢板が打ち込まれている事と、両溝の合流点には水量の調節が可能な井堰が設けられている事であった。物資運送用の水路とみられる。
 特に纒向の南南東にある同じ桜井市の金屋付近も、古代から東西南北に通じる交通の要衝で、それに伴い市場が栄え、冬から春にかけて椿の花がたくさん咲くことからから「海石榴市(つばいち)」と呼ばれた。纒向も、時の政治の中心であるばかりか、陸路と水路に恵まれ、交易の「大市」が常時開かれる時の政治経済の中心として繁栄した。

4)交易・政治都市としての纒向
 纒向ではベニバナの花粉が大量に検出された。3世紀中頃前後とみられ、それ以前の日本列島では自生していないが、廃液として流された場所から見つかった。染物用として多量に消費された。ベニバナ染めは、極めて高度な技術で、通常流布する草木染め程度では、先ず無理で、朝鮮半島を含む大陸から染色技術者が渡来し、協賛してくれていたようだ。アフリカを初原とし中国から纏向に伝わったものと思われる。斑鳩町の藤ノ木古墳でも使われていたが、それは6世紀末頃のことである。
 纏向から3世紀後半段階にあたる鉄鍛造に伴う羽口(鞴の送風口)が出土した。平成9(1997)年の纒向古墳群に属する勝山古墳の1次調査で発見された。当時の北部九州で導入された先端技術、高温による本格的鍛冶の設備として、鞴に付属するかまぼこ形羽口や鉄滓と、その製品である大量の鉄製鋤が出土し、畿内で一番早く、北部九州の先端技術が入ってきていたと見られた。
 これまで勝山古墳を含めて5ヶ所で、鍛冶関連の遺物が出土した。北部九州の羽口は断面が半円のかまぼこ形で、朝鮮半島に由来するようだ。鍛冶工房跡は未だ見つかっていないが 、朝鮮半島系土器も出土しているから、その関連は十分想定できる。北部九州の羽口は、島根県古志本郷遺跡(こしほんごう)や、石川県一針B遺跡(ひとつはり)で、3世紀初頭の頃からのものが出土している。日本列島各地でクニグニが生まれ、邪馬台国連合から大和王権へと日本 が大きく変化してゆく画期であった。実用鉄器がクニづくりに大きくかかわってゆく時代でもあった。
 淡路島黒谷の五斗長垣内遺跡(ごつさかいと)では、弥生時代後期の鉄器製造施設跡が23棟発掘され、内12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。遺物には鉄器、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。また石槌や鉄床石(かなとこいし)や砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土している。1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見され、これまで発見された弥生時代の鉄器製造遺跡としては、最大規模であった。住居は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡である事が知られる。

 纒向に居住する人々は、かなり広い地域から集まってきていた。その土器の最近の研究では、遠隔地では西からは大分県の国東半島の付け根にある国東町の安国寺遺跡あたりのものがあり、山陰・吉備・阿波・河内などのものある。東では東京湾沿岸をはじめ南関東の土器が目立つ。北陸では石川・富山あたりのものもある。搬入土器には河内・紀伊・近江などの隣接地のものもあるが、相対的に東海・吉備・山陰の方が多い。吉備・山陰のものが、それぞれ10%ぐらいはある。

 各地の拠点的集落遺跡でも2、30%の搬入土器が伴出することは通常ありうるが、纒向の場合はかなり遠隔地で、東海・吉備・出雲との関係が際立っていることが特徴である。纒向の地に新しい勢力が、独自の信仰を掲げ入り込んで、倭国の王宮を営んだ。2世紀末、邪馬台国が突然出現するまでは、纒向の地は過疎地であった。そこに政権の中枢を構えて、新たな物流センターを置いた。
 3世紀の筑紫では、在地系土器が外に出る事が少なく、むしろ外来系土器が上回っている。その特徴は3世紀中葉から顕著になり、3世紀第4四半期になると著しく増大する。
 具体的な事例としては、福岡市早良区西新の西新町遺跡(にしじんまち)がある。国際交易のための港津(こうしん)として整備されていったことが推測されている。3世紀末頃の渡来系のカマド付き竪穴住居跡が多数見つかっている。国内の他地域でカマド付き住宅が広がるのは、通常、5世紀頃という。
 その西新町遺跡の出土土器をみると、在地系が63%あり、外来系は大和系25%・出雲系9%・吉備系1%・伽耶系2%、計37%と纒向遺跡を超える搬入土器があった。同様な土器組成をもつ集落が同じ福岡県糸島市前原の三雲遺跡(みくも)でもある。三雲遺跡のある瑞梅寺川と雷山川流域では13基の前期前方後円墳があり、前方後円墳の集中は邪馬台国と伊都国の関係が極めて濃密であった証拠である。三雲遺跡群は卑弥呼が一大率を置いた伊都国である。「常に伊都国を治め国中において刺史の如くあり。」、唐津湾奥に港津を開き、邪馬台国の国際的物流の拠点とし外交上の窓口とした。邪馬台国から遠離であるが先進地であり、北部九州諸国を統轄する戦略上の要地として検察・民政の機関を置いた。この三雲遺跡からは3世紀後半に属する甕の口縁部に、鏡を意味する「竟」らしき文字が線刻されていた。既に、三重県安芸郡安濃町の大城遺跡(だいしろ)からは、2世紀前半の高坏の脚部破片に「奉」とも「年」とも読める線刻文字が認められた。
 奴国は福岡市付近にあり、日本書紀には儺県(なのあがた)・那津(なのつ)とあり、後の那珂郡(なかぐん)に比定され、現在は博多区の一部となっている。国際交易の港津都市があり博多湾に面する福岡平野は、かつて奴国の本拠であった。その3世紀の博多津で最も多い外来の人々は、出土土器の出所分類から邪馬台国系であったとみられる。西新町遺跡の出土土器の調査から、在地系が63%、大和系が25%で、出雲系が、大和に次ぎ9%、吉備系が僅か1%であった。そのことから邪馬台国の商人・刺史は、北九州へは通常想定される瀬戸内海ルートではなく、山陰ルートを使っていたようだ。
 山陰は、西から石見・出雲・伯耆・因幡であるが、弥生後期2世紀、兵庫県北部の但馬や京都北部の丹後と越から因幡へ集団移住が行われていた。鳥取市西大路の西大路土居遺跡(にしおおろどい)に遺存する多量の搬入土器から、それが推測される。更に3世紀前半にも、下張坪遺跡(しもはりつぼ)から、同じ丹但越地域から伯耆東部へ移住している事が知られる。
 因幡には弥生時代後期中葉の土器を持つ四隅突出墓が登場し、この日本海沿岸地域独特の古墳時代が続く。四隅突出墓は、既に弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の各地方の墓制となり、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出しているのが特異で、そのことから独自の文化圏が形成されたと想定される墳丘墓であった。弥生時代後期中葉の因幡にある1辺が40m以上の四隅突出墓には、丹但越の搬入土器が供献されている。鳥取市紙子谷門上谷(かごだに)の丘陵上にある紙子谷門上谷一号墓には、丹但越に加えて吉備・畿内の土器が混じる。因幡の王が隆盛を極めた時代であり、その王の墓葬礼(はかぞうれい)には、丹但越や吉備・畿内から参列していたようだ。
 2・3世紀の吉備と畿内土器の動向は、2世紀末吉備系外来土器が因幡と出雲で増え、特に出雲西部にある西谷墳墓群にある西谷3号墓には、吉備系の特殊壺や特殊器台など祭儀用の土器が供献されていた。西谷3号墓は斐伊川を眼下に臨む丘陵上にあり、東西40m、南北30mの巨大な四隅突出型墳丘墓である。3号墓の中心となる主体部には、大きな土坑の底に埋棺した後、その上に4本の巨柱を立てる冢上建造物(ちょうじょう)の遺構があった。柱に囲まれた棺の真上にあたる場所には、朱が付着した丸石が御神体のように置かれており、その周囲には砂利が敷かれていた。そこらから約200個体にものぼる大量の土器がまとまって出土した。赤い丸石の前で亡き首長の墓葬礼(はかぞうれい)がなされ、その後、多くの参列者達による直会(なおらい)が盛大に催された痕跡であった。
 3世紀前半になると吉備系土器は出雲から姿を消す。代わりに畿内系土器が幅を利かし3世紀後半へと継続する。島根県松江市鹿島町の南講武草田遺跡(みなみこうぶくさた)では、畿内系甕や壺が大量に遺存し、かなりの人数がこの地を訪れたことが推測された。また朝鮮半島系の硬い瓦質土器と呼ばれる最新の焼き物も出土している。この土器は出雲市の上長浜貝塚などでも発見されている。同じ鹿島町の古浦砂丘遺跡からは、既に弥生前期の無文土器・松菊里系土器( ソングンリ)が出土していた。島根半島には3世紀になると畿内のクニグニが、盛んに対中朝貿易に使用する港津を設け、日本海航路なる交易ルートが形成された。それに伴い四隅突出墓が、次第に出雲では造られなくなった。3世紀後半には、畿内系土器が伯耆西部にも展開し、生活用具としての甕・壺・鉢・高杯・器台なども登場してくる。

5)纒向政権と銅鐸と祀りの関係
 昭和54(1979)年、佐賀県鳥栖市(とす)柚比町安永田の安永田遺跡(やすながた)で銅鐸製作用の鋳型が九州で初めて出土した。脊振山地東端にあり、銅鐸鋳型5点、銅矛鋳型5点、鞴(ふいご)の羽口などが共伴し、この遺跡で青銅器の鋳造を行っていたことが確実となった。その後、同じ鳥栖市から本行遺跡や福岡市の赤穂ノ浦遺跡でも鋳型が出た。かつて銅鐸は近畿地方を中心に分布する弥生時代の近畿を代表する遺物であった。しかも祭祀用のみならず、政治的意味合いも含む重要な出土品であった。ところが鳥栖市出土の鋳型は、壊れるとムラに埋められていた。それと伴出した土器が紀元前1世紀頃から紀元前後の土器であった。
 九州で出土する銅鐸は、広島市の福田木の宗山遺跡を標式遺跡とする福田型だけで、紀元前1世紀頃の一時期だけ作られていた。
 京都府日向市鶏冠井町の鶏冠井遺跡(かいで)は、古代の長岡宮の大極殿・八省院・内裏の所在地にあった。そこから銅鐸の鋳型の破片が出土した。鋳型として消耗された後、砥石に利用され最後には土器と一緒に川に捨てられた。その土器は弥生前期終末期から中期の初めであった。弥生中期の中頃以後の土器は全く遺存していなかった。この考古資料により、現段階では、大型銅鐸は近畿地方かその周辺を起源とみられている。
 青銅製銅鐸は銅と錫の合金であるが、それに5%程の鉛を加えて鋳造性をよくした。その含有する鉛の分析により、採取された鉱山が特定できた。古い銅鐸の原料は朝鮮南部で産出され、その以後の銅鐸は中国から手当をしていた。福田型銅鐸は中国産を原料としていた。

 前漢の第7代武帝は、16歳で即位してB.C.141~87年、55年在位した。中国史上傑出した名君のひとりで、衛皇后の外戚から車騎将軍(しゃきしょうぐん)衛青(えいせい)と驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)霍去病(かくきょへい)という希代の将軍を登用し、対匈奴作戦で中国史上稀な大成果を挙げた。漢の高祖劉邦が冒頓単于に完膚なきまでに敗北を帰し、B.C.198、漢の皇室の公主を単于の妻として差し出し、毎年大量の絹織物、酒、米などを匈奴に献呈することを条件に和議を結んだ。それ以来続く屈辱的外交を破棄しょうと、武帝は衛青や霍去病を遠征させ、匈奴の大勢力を再起不能にし、外モンゴルに追いやった。
 武帝はまた、朝鮮方面で3代約80余年にわたって朝鮮半島西部を支配してきた衛氏朝鮮(えいしちょうせん)をB.C.108年に滅ぼし、楽浪郡(らくろう)・真番郡(しんばん)・臨屯郡(りんとん)・玄菟郡(げんと)の朝鮮4郡を設置、漢の直轄領とした。それ以後、中国の産品が朝鮮半島全域に流通し、弥生中期の中頃には日本列島にも交易ルートが出来上がっていた。大量に流入する中国産品の中に、中国鏡や青銅の地金が持ち込まれ銅鐸が量産された。青銅の地金自体が、銅と錫と5%前後の鉛との合金で、それ自体、高度な生産技術の結晶であった。
 大型銅鐸は近畿地方のどこかで、朝鮮南部で産出された原料を使いB.C.200年前後以降から作られたようだ。
 岐阜県飛騨市神岡町に鉛を産出する神岡鉱山(かみおかこうざん)がある。神岡鉱山はアジア最大の鉛鉱山であった。主力をなしていた鉱床は、高原川(たかはら)の右岸に沿う約10キロメートルの間の山地に散在する。平成13(2001)年、亜鉛・鉛の鉱石採掘を中止、現在は主に石灰石などを採掘している。近年の化学分析の結果、島根県の銅鐸の鉛は神岡のものだといわれている。神岡鉱山の横を流れる高原川は宮川(みやがわ)となり、富山湾へは神通川(じんづうがわ)と名を変え流れ出る。飛騨は神通川を通して日本海沿岸の越・因幡・出雲圏などの大勢力と鉛を交易財として富み栄えていたようだ。
 纒向政権が西日本から東日本へと拡大する過程で、飛騨地方もその影響下に入り、円墳から始まり前方後円墳へと巨大化する古墳時代に向かっていく。
 土佐市高岡町の居徳遺跡(いとく)から縄文時代晩期の2,800~2,500年前の9人分15点の人骨が出土した。その中の3体分には金属器によるとみられる鋭い傷や鏃の貫通痕があると鑑定された。朝鮮半島南部の釜山周辺の伽耶は鉄が豊富な地域であった。
 『魏志韓伝』の弁辰の条に「弁辰 その国、鉄を出す。韓、 、倭、皆これを取る。」とある。また居徳遺跡からは、縄文晩期の層から国内に類例のない微細な文様で装飾された木胎漆器が出た。クスノキ材の一辺が44cmほどの角を丸くした木蓋の全面に黒漆を塗り、その上に赤い漆で花柄のような文様を精緻に描いてあった。東北地方でも漆器が盛んに作られていたが、日本列島の漆器とは、文様の形だけでなく漆の塗り方なども異なっていると云う。
 長江と黄河の流域の各地で、春秋戦国時代の漆器が出土している。特に長江流域の楚の国の漆器づくりはきわめて盛んで、B.C.800年~200年頃、精緻で多彩な文様を描く漆器が大量に作られていた。楚をルーツとするような居徳漆器は、黒潮ルートに乗りもたらされたのであろうか。

 かつて纒向が邪馬台国とされるには、卑弥呼以来、朝鮮半島と中国との交流が積年継続されたにしては、海外からの文物の出土例が少ないことで疑問視されていた。既に私有地で埋め尽くされた纒向の地であるため、発掘上の制約が多いためで、近年の発掘調査で朝鮮半島南部の三韓式土器や、出土時に器面が黒光りする酸化アルミニユムの成分を含む釉薬を使用する楽浪系土器と、その破片など、かなりの舶載品が出土し始めている。
 纒向遺跡では、ホノケ山古墳で画文帯神獣鏡が出土した。三角縁神獣鏡などと同様、神獣鏡は中国の道教思想に基づく神仙界の理想郷を絵模様にした鏡である。太陽や月の運行が描かれ、竜や虎・亀・馬車などが神仙を乗せて走っている画像などを特徴とする。箸墓古墳の濠から鐙(あぶみ)が出た。鐙の開発は、乗馬を日常とする中央アジア系の騎馬民族によるのではなく、通常、乗馬する事がない農耕民族が馬に乗るときの便宜として、足踏みとして利用したものが発達した。馬上姿の選良一族が、既に登場していたのであろうか。

 纒向都市の登場で画期となった出来事が、それまで数百年間、近畿地方を中心に祭祀具として欠かせなかった銅鐸を悉く破壊し尽くしたことにあった。東国へ抜ける初瀬街道が通じる三輪山南麓の脇本遺跡の多角形建物址から2個の銅鐸片と1個の銅鏃が出土した。純銅に近い後期銅鐸と類似した成分比であった。同じ桜井市内、纒向から2㎞離れた大福遺跡からも大型の近畿式銅鐸の破片と、それを再加工するための鞴の羽口や土製鋳型の一部など鋳造関連遺物が共伴した。銅鐸を破砕して、銅鏃など別の青銅器に再鋳造したようだ。

6)卑弥呼の鬼道とは?
 卑弥呼は、『魏志倭人伝』で「鬼道を事(こと)して」記されている。
 2世紀末、魏・呉・蜀という三国鼎立の戦乱時代、五斗米道(ごとべいどう)、または天師道を創始した張陵(ちょうりょう)が天師と呼ばれた。その孫の張魯が、五斗米道を陝西省から四川省にかけて、一大宗教集団として組織した。それが道教の始まりといわれている。
 『蜀書』には前漢の皇族の末裔である劉焉の伝記が記されている。そこに書かれる鬼道とは道教である。卑弥呼が「鬼道を事して」、それ以前の宗教・政治・文化の全てを覆す画期となった。
 道教では悟りを開いて到達する神仙のシンボルは鏡と剣である。玉は含まれていない。古代中国では、ヒスイのような硬玉文化はなく、専ら加工し易い軟玉を珍重していた。
 古事記では天照大御神が天孫降臨の際に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に「八尺の勾(やさかのまがたま)、鏡、また草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を神代として授けたと記されている。日本書紀には三種の神宝を授けた記載は無く、第一の一書に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊(やさかに)の曲玉及び八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜ふ」と記している。
 天武天皇は、諸家に遺る「帝紀」や「旧辞」が史実と遠く離れ、しかも諸家の伝承に虚飾が加わるとして、帝紀・旧辞を検討し直し、虚飾を削り正当な史実を明らかにし、中国のように後世に流伝させようとした。稗田阿礼(ひえだのあれ)に命じてこれを誦み習わせた。やがて天皇は身罷り、持統・文武天皇と続くが、律令制の完成・施行に忙殺され、天武の遺志はなかなか達成できなかった。
 天武天皇の皇后であった持統天皇の即位の時でも、『日本書紀』持統天皇4(690)年正月の条に、「物部麿朝臣大盾を樹て、神祇伯(じんぎのかみ)中臣大嶋朝臣天神の寿詞(よごと)を読み、畢(おわ)りて忌部宿禰色夫知 神璽の剣鏡を皇后に奉上り、皇后天皇の位に即く」とある。『日本書紀』でも神器は「神璽の剣鏡」と明記されている。大同2(807)年に成立斎部(いんべ)氏の由緒書ともいえる歴史書『古語拾遺』でも同様であった。
 『八尺の勾』が三種の神宝に組み込まれたのが、いつの時代・誰により・何が目的でなされたのであろうか。「八尺瓊の曲玉」の材料となる糸魚川の翡翠は、縄文時代前期の頃には既に珍重され、その後、弥生・古墳時代を通じ、希少品として権力者が誇示する装身具として愛用された。ところが、奈良時代の頃になると翡翠は忽然として姿を消している。その時代の終末期に「八尺瓊の曲玉」が、三種の神器として出現する謎がある。それにしても卑弥呼の時代の神仙思想が、後世にまで根付いていたようだ。
 大阪府和泉市池上町と泉大津市曽根町にまたがる池上曽根遺跡の中央から北部で、池を中心に宮殿や神殿と想定される巨大な掘立て柱建物跡や金属器などの生産工房群などの遺構が集中して出土した。南北300m、東西400mの大規模な環濠集落遺構は、弥生中期後半のB.C.1世紀頃に属する。池上曽根遺跡の神殿の真ん中に井戸があった。遺跡は池と井戸を中心にし建物跡が遺存する。後期になると大型建物や環濠はなくなる。祭祀用遺物である鳥形木製品・竜を線刻したとおもわれる後期の長頸壺(ながくびつぼ)などが、A.D.1世紀の終末期に投棄されたらしい銅鐸の断片と共伴した。
 古墳時代のクニグニの大王が、聖なる泉水から水を汲みとり、それを飲む祭儀が毎年行われ、聖水として産生神(うぶすながみ)に捧げられた。纒向地域には、豊富な小河川があり、それに合わせる運河開削が奏功し、祭祀用として遺跡に付属する井戸を掘る必要がなく、3、4世紀では纒向の西南に流れる大和川の上流・初瀬川の川端による水汲みが行われた。また周濠へと水を引き込む導水溝(どうすいみぞ)も確認されている。
 纒向の祭祀は、自然河川に挟まれた中州に穴を掘って聖水を汲み取り、その近くに1間四方程度の仮小屋を建て祭事を行い、祭事後、祭祀容器と用具を全部穴に埋めている。それがA.D.180以降から200年代に繰り返され、現在の限られた発掘範囲でも穴の数は30基ある。纒向遺跡第7次調査の辻土坑は、祭祀を司るオサが出向いてきて祭事を行った場所かもしれない。
 古墳時代以前から、聖なる場所から汲んだ水をクニの大王に捧げる祭儀が毎年行われていた。汲めども尽きない井泉の水は、大集落の維持に不可欠で、その聖水の維持こそ大王の権威と神格化に欠かせない重大要素になっていた。藤原宮の御井、三輪の磐井、弥生中期に池上曽根遺跡の大型建物の正面に掘られた経190㎝の刳抜き井戸など、聖なる井泉の永続を祈願するみそぎや産土神に聖水を捧げる祭儀が纒向でも重要な祭事となっていた。

7)東征して来た邪馬台国
 2世紀半ばに纒向遺跡が突如登場する。時の天皇は、崇神天皇が「ミマキイリヒコイニエノミコト」、垂仁天皇は「ミマキイリヒコ」がその名として遺る。その両天皇が、その王子・王女の名に「イリヒコ」「イリヒメ」を伴う名を付けた御子が19名もいた。「イリ」とは、新天地に外来の侵入者が土着したことを含意とする。それが神武天皇の東征とみられる。『日本書紀』に崇神天皇の娘・豊鍬入姫(とよすきいりひめ)が、ヤマトの産土神・倭大国魂神を祀ったが髪が抜け祭事ができなかった。纒向の勢力を懐柔するため、地元の三輪山の祭祀を改めて加えたことにより祭事が完遂できた。
 九州勢力からの東征を前提とすると、環濠集落全盛の当時の状況からみて、政権中枢の一族のみならず軍事勢力を伴う部族連合を率いた戦略的大移動であったはじだ。それにしては、近畿地方で九州の日常使用する土器などが発掘される事例が極めて少ない。纒向・勝山遺跡でも20~30個程度しかない。これが九州からの東征説の考古学的欠点となっている。
 近年、吉野ヶ里遺跡を邪馬台国とする説があるが、邪馬台国が成立した時代には、なぜか大規模集落は消滅していた。吉野ヶ里遺跡は、現在のところ九州では、規模においては最大の集落遺跡だが、鳥取県の妻木晩田遺跡群(むきばんだ)は、大山町から米子市淀江町に及ぶ国内最大級の弥生集落遺跡である。県内西部の大山山系から続く「晩田山」上にあって、美保湾を一望する。吉野ヶ里は40ヘクタールとか50ヘクタールとかいわれるが、妻木晩田遺跡の面積は156ヘクタールにもなる。最も栄えたのが弥生後期の200年前後であれば、島根県東部の古代出雲とのかかわりが注目される。
 吉野ヶ里遺跡の環濠の北側から更に北へ500m程の地点から銅鐸が出土した。吊り手の部分・鈕(ちゅう)の先端が欠けているが、本来は27㎝位の高さがあったとみられている。九州で作られた銅鐸はいずれも、広島市の福田木の宗山遺跡を標式遺跡とする福田型だけで、紀元前1世紀頃の一時期だけ作られた。その吉野ヶ里遺跡は3世紀頃まで存続したといわれるが、後期の吉野ヶ里は、北内郭に大型建物といったものはあるものの、集落規模は縮小の一途をたどり、その間、首長墓に比せられるような墓もなく、内・外の環濠は庄内式と同時期の土器類を含む土で埋まり、既に弥生中期以来営まれ続けてきた大環濠集落の呈をなしていなかった。しかも、九州地方では、30位の遺跡から庄内式甕など何百という近畿系の土器片が出土している。吉野ヶ里遺跡は、調査直後に言われていたように、事実上2世紀後半には廃絶していたようだ。
 2世紀における「倭国の乱」以前、邪馬台国は既に畿内にあったが、乱後、奈良盆地の東南部にある三輪山麓に入って来た。それが纒向に遺跡を留め、後世、その政権を「イリ王朝」と称した。
 一方、西日本では中国鏡を基にして倣製鏡(ぼうせいきょう)を盛んに作った。その鏡作りの神が「天糠戸神(アメノアラトノカミ)」であった。「粗い砥石」で磨いて鏡を作る工人達であった。それが鏡作連の先祖神となった。
 古代の因幡・鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡(あおやかみじち)では、弥生人の脳が出土して有名となったが、銅鐸のかけらが出で、その裾部に内行花文鏡(ないこうかもんきょう)と見られるマークが遺っていた。その青谷町から東へ15kmほどもない湖山池の東南にある、鳥取市桂見字下地谷の桂見2号墳から内行花文鏡と同じ文様の鏡が出土した。銅鐸の工人が鏡作りとなったようだ。
 青谷上寺地遺跡は平成12年6月、河跡に、丁寧に埋葬されたとは思えない人骨が累々と総数約5,000点、少なくとも92体分の人骨が出土した。女の額に鏃が刺さり、男性の腰骨に銅鏃が突き刺さるなど10数体に殺傷痕が認められた。その中に脳が残っている頭骨が3つ含まれていた。青谷上寺地遺跡は、およそ2,200年前から1,700年前まで、弥生中期から古墳時代初頭までに営まれた集落跡である。なによりも保存状態が奇跡的に良好で、多種多様な遺物が残っており、総発掘点数は数万点に及ぶ。鳥取平野と倉吉平野の間に流れる日置川などの小河川沿いの低地に埋もれていたのが幸いし、豊富な遺物・遺構を残した。
 その川べりは板や杭で護岸され、装飾豊かな容器類や琴・鳥・人・剣・舟形の祭具、釣り針・ヤス・モリ・アワビ起こしなどの鹿角製の漁具、占い用のト骨(ぼっこつ)、前漢を滅ぼした王莽が発行した貸泉、銅鐸・銅鏡・銅鏃などがあり、妻木晩田遺跡でも鉄器が多数出土していたが、青谷上寺地遺跡飛びぬけて多く、鍛造痕を留めるものもあった。

8)弥生時代の国際交易、倭人と鉄
 長野県下高井郡木島平村の根塚遺跡(ねつか)は、馬曲川(まぐ せがわ)の扇状地にぽつんと独立してある根塚丘陵で発見された墳墓群である。JR飯山線飯山駅から車で東へ10分位の位置である。
弥生時代終末期の鉄剣が3振り出土した。1号剣は長さ56cm、幅3cm、厚さ0.8㎝、2号剣は長さ74cm、幅3.5cm、厚さ1cm、3号剣は長さ47cm、厚さ0.7cm、幅3.3cmである。1号剣と3号剣は実用剣で、2号剣は儀礼剣と考えられる。2号剣をX線写真でみると握りの柄頭に1か所、柄尻に2か所、蕨のような渦巻文装飾がみられた。この渦巻文装飾は日本列島の弥生時代の他の遺跡からは出土例がない。それは朝鮮半島南部の釜山周辺の伽耶地方独特のものである。
伽耶は鉄が豊富な地域であった。『魏志韓伝』の弁辰の条に「弁辰 その国、鉄を出す。韓、 、倭、皆これを取る。」とある。長野県の北部では、弥生後期の北陸の土器が多量に出る。それだけ北陸との交流が頻繁であった。長野県北部、それも内陸深い木島平村にも、伽耶と北陸を経由する日本海ルートを通じた物流が寄与していた。
 弥生後期の2・3世紀になると西日本では石器が使われなくなる。大量の鉄を使い鉄鏃などの武器や鉄斧などの道具が作られた。その鉄は伽耶で産し、その流通ルートが新潟以西の日本海上に確立された航路から列島に広く搬入された。
 北海道では沖縄同様、弥生時代はないとされているが、水田稲作を伴わない独自の続縄文時代を連綿と営んでいた。その漁労・狩猟の資源が豊富で、各々の集落の生業が大規模化を必要としていなかった。それでもB.C.2,000代の縄文中期末にまで遡る環壕集落が、苫小牧市の東部の静川にある静川遺跡群やその遺跡から20kmほど離れたところにある千歳市の丸子山遺跡で発掘されている。それも周辺の諸動物に対しての防御策で、永年築かれて来た成果とみられている。敵対を余儀なくされる大勢力が育つ環境になく、その防御のためのクニまで必要としていない。それでも北海道から青森に掛けて畑作もあり、狩猟と漁労を主体にした木器・石器と鉄器を併用した文化圏があった。
 知床半島の南東半を占める目梨郡(めなしぐん)羅臼町の植別川遺跡(うえべつがわ)の続縄文文化時代の墓から、銀の飾りのついた刀子(とうす)が出土している。それと並行する本州の弥生時代では銀は用いられていない。北方の続縄文の人々は、新潟辺りまで出向き、毛皮と鉄素材などの交易していたが、銀製品は北周りのルートで伝わった可能性が高い。石狩低地帯以東、道東北部を経由しサハリンからもたらされたものとして、琥珀製玉類が出土している。
 弥生中期、北九州・山陰地方や近畿方面では、戦いの痕を留めるいくつもの遺跡が遺存する。後期になると、やがて収束へ向かい2・3世紀になると西日本では石器が使われなくなる。青銅製であれば遺存するから、ごくわずかに鉄製の鍬や斧が出土している。実に日本列島の主要な地域に鉄器が完全に普及したのがこの時代であった。
 弥生中期から後期に移ると、列島各地で、それぞれ独特の盛土をもつ墓が出現する。東日本では横浜市都筑区港北ニュータウン内の歳勝土遺跡(さいかちど)では、墓域を四角く溝で区画した「方形周溝墓」が群集し、島根県安来市西赤江町深廻の仲仙寺九号墓(ちゅうせんじ9ごうふん)のように、裾廻りに石が張り巡らされる「四隅突出墓」が富山県から西の日本海側沿いに展開し、岡山地方では弥生中期後半以降、「長方形台状墓」と呼ばれる溝を巡らさないで墳丘基部に石を張る長方形の盛土を特徴とする墓が目立つ。この台状墓では墓葬礼時の祭器として壺型土器と、その器台となる台形の土器が発達し、後期になると墓前祭が盛大となり、実用を離れ次第に大きさを増していった。

 紀元前3世紀頃、北九州と近畿地方では、同じ頃、両地域とも「方形周溝墓」が作られている。北九州では、この墓制は長く続かず、代わって大型の素焼きの土器に手足を折り曲げて入れ、地下を掘り埋葬する甕棺墓が隆盛を極める。佐賀県吉野ヶ里遺跡では、そうした甕棺墓に混じって、ちょっとした盛土ができる。そこには複数の甕棺が一緒に埋葬されていた。

 纒向石塚墓は桜井市太田字石塚に所在する。盛土された円墳で長径が約60m、高さは5m位、周囲に幅20mあまりの周濠をもつことが確認された。周濠内から鶏形木製品(にわとりがたもくせいひん)2点、弧文円板(こもんえんばん)1点、大量の鋤・鍬のほか、多くの土器群が出土したが纒向1類の完形土器もあった。石塚古墳の周濠の最下層から出土したヒノキの板材や残存する辺材部から2世紀末葉とされた。纒向石塚墓の周濠の一ヵ所が掘り残され、そこから濠外へとつながっていた。これが古墳時代の幕開け的予兆となる。
 福岡県小郡市津古の生掛遺跡(しょうがけ)からも、周濠の一ヵ所が残る同じような円墳が発見された。石川県加賀市分校町のカン山古墳群でも、同様の濠跡と堀残しがみられる。千葉県市原市の神門4号墓でも、福岡県の杵ヶ森遺跡でも丸い墳丘に突出部がある。
 2世紀末葉前後、九州から東北福島にかけての広範囲で、周濠を掘り、それを盛土にし、丸い墳丘とし、堀残した突出部を近くの集落との連絡通路とする墓制が共有されていた。その墳丘に遺存する土器は、殆どが近畿系庄内式の流れとみられる2重口縁の加飾壷で、福岡県の生掛の壺は底が抜け、千葉県の神門4号墓の壺には、胴部の下の方に小さな穴が空けられていた。纒向遺跡の研究者は、この段階の墳丘墓を「纒向型古墳」と呼ぶ。
 この「纒向型古墳」から、それまで弥生遺跡では見られなかった縦長の5角形の鉄鏃が共通して出土する。それより後世となる三角縁神獣鏡を大量に出土する京都府木津川市山城町椿井の椿井大塚山(つばいおおつかやま)の前方後円墳古墳から、この流れであろうが粗製の5角形鉄鏃が発掘されている。東日本最古級の3世紀末築造の前方後方墳である長野県の弘法山古墳でも、東海系の土器を伴出していながら、5角形の鉄鏃を副葬している。
 この5角形鉄鏃の出土例を辿れば、瀬戸内海沿岸に片寄り、纒向から発する軌跡を描けば、岡山県の浦間茶臼山古墳、広島県の大迫山古墳・石槌山一号墳( いしづちやま)等々、山口県の国森古墳と繋がり、韓国金海市の大成洞29号にまで達する。
 更に上記の墓跡各々からは、三角縁神獣鏡の出土例はないが、かなりの頻度で、中国王朝漢の中期から後期の時代に属する小さな中国鏡が、1枚程度であるが伴出している。当時、既に円墳が東日本を含めて時代の潮流となり、大陸との交易を前提としなければ説明がつかない5角形の鉄鏃と前漢時代の鏡が副葬される事例が通常となっている。

 自然界から採掘する鉱物資源から、目的とする鉄元素を分離するのが製錬(Smelting)で、その技法には種々あるが、高品位の製錬を特に精錬(Refining)という。弥生時代の鉄精錬遺跡は、わずかに瀬戸内の中国地方で発見されている。到底、日本列島の旺盛な鉄需要はまかなえなかった。鉄製の武器・道具の優位性は、石器を一切放棄させるほどに際立って有効であった。比較的容易に入手できる石器の使用をあえてやめ、当時の日本列島の膨大な需要を賄う鉄鉱山を採掘し、それを精錬し量産している。纒向遺跡では、3世紀後半に属する鉄器を鍛冶する資料と痕跡が見つかっている。近畿では、何ヵ所かの遺跡から最古級の鉄の鍛冶資料が確認されている。
 徳島市蔵本町の徳島大学蔵本キャンパス内にある弥生集落跡「庄遺跡」から、弥生時代末期、3世紀前半の鉄器の鍛冶遺構が見つかった。鞴の羽口や鍛冶作業のよる鉄の残片など約50点と鉄鏃2点などが共伴した。鍛冶遺構は縦横約3mの正方形で、深さ約0.2mの規模があり、その中央には直径約1.5m、深さ約0.2mの円形部分があり、炭が一面を覆っていた。鉄を高温で加工するための炉跡であった。
 平成19(2,007)年から発掘調査が行われた兵庫県淡路市黒谷にある鍛冶工房跡、五斗長垣内遺跡(ごっさかいと)で弥生時代後期の大型鉄製品が出土した。長さ20㎝、幅5㎝、厚さ3㎝、重さ564g、弥生時代後期の鉄器とみられる。全体が錆ており用途は不明である。工房用とみられる竪穴建物跡も新たに8棟出土し、それ以前に発見された2棟を加えると当時代の鍛冶工房跡としては最大規模である。このうち円形の竪穴住居7棟と方形の竪穴住居1棟では、床面の土が強い熱で赤焼けており、鍛冶工房の炉跡と確認された。建物跡からは鉄鏃、鉄板の裁断片など鉄製品45点をはじめ、石鎚31点、鉄床石なども遺存していた。
 邪馬台国は、その精錬した鉄の輸入ルートと合わせて、大陸で育まれた種々の異文化の貴重品と情報を入手する国際的交易体制を確立した。
 やがて墓葬礼用の短い前方部と埋葬部の一段高い円墳を備える形式が、纒向の地に巨大な箸墓古墳を発祥とする前方後円墳として完成され、古墳時代の序章となった。それは、多くの他地域の集団が、纒向政権と敵対するよりも、友好を求めて積極的に接触してきた成果であった。弥生中期までは、戦争を統合の手段としてクニグニを形成してきたが、後期後半には各々地方に割拠する広域的支配の拡大に優先して、長距離交易集団に積極的に参入するようになる。それにより朝鮮南部から北九州や山陰にかけて、日本海物流ルートが完成されていく。

 纒向の地は、農業を生業にしない人が集まる都市であった。国際交易を中心とする経済の高度化により分業化が進み、手工業品を製造する各種の工人・「有無を交易」する商人とその運搬人・纒向政権の官吏と地方勢力の出先機関の人々などが生活を共にする大都市となった。
 纏向にある全長約280m、日本列島で最初の巨大な前方後円墳・箸墓(箸中山)古墳の築造は、邪馬台国が、その富と権力を誇示するためというよりも、その政権の成立と、その政権に属するクニグニの連帯のモニュメントであった。
 箸墓の地に巨大な前方後円墳が築かれるが、秦始皇帝陵やクフ王ピラミットとは違い、大きさを問わなければ東北地方中部から九州南部にいたる日本列島各地で、その有力者がこぞって築造する嚆矢となった。やがて3千を超える数となる。墓葬礼にしてもほぼ同形式をなぞったようになる。それが邪馬台国政権の一員として参加できた各地首長の矜持と権威の証になっていた。

9)卑弥呼の統治制度
 卑弥呼が駆使した道教は、「能以鬼道惑衆」を意訳すると、魏志倭人伝自ら「其の会同・坐起には、父子男女別無し。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。その人寿(にんじゅ;人の寿命)は、あるいは百年、あるいは八、九十年を考つ(保つ;長生す)。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌(とき;ねたみや忌み嫌う)せず、盗窃せず、諍訟少なし。其の法を犯すや、軽き者は其の妻子を没し、重き者は其の門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相(互いに)臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、国々市あり、有無を交易し、大倭を使わし之を監す。」とあり、魏は邪馬台国を蔑視はしていないようで、「婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。」
 「足相臣服」の通りであれば、その評価は民度と統治共に称賛に値する。むしろ魏を超えていた。
 「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察す。諸國これを畏憚(いたん)す。常に伊都国を治め国中において刺史(郡国の監察官)の如くあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣(まい)り、および郡の倭国に使するや、皆津に臨み伝送文書・賜遺の物を捜露(点検)し、女王へ詣っても、差錯を得ず。下戸が大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説き、あるいは蹲(うずくまり)りあるいは跪(ひざまず)き、両手は地に拠り、之が恭敬をなす。対応の声を噫(あい)という、比して然諾(ぜんだく;承諾)の如し。」とある。邪馬台国は外交とそれに伴う交易物を滞りなく管理していた。

 伊都国は「東南陸行五百里にして伊都国に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世々、王有るも皆女王國に統属す。郡使の往来常に駐る所なり。」とある。
 倭に派遣された帯方郡使が、朝鮮半島のおける倭領土の北岸あった釜山付近の狗邪韓國の湊から対馬の上島に渡り、壱岐を経由し東松浦半島の東方の加部島を眺めながら九州に最初に上陸する。それが末盧国であった。現在の佐賀県唐津付近で弥生時代の遺跡として桜馬場遺跡がある。弥生時代中期からA.D.1世紀あたりの後期の甕棺墓地で、その豊富な副葬品から、宇木汲田遺跡、柏崎遺跡、桜馬場遺跡と続く、3代にわたる弥生後期の「末廬国」の王墓とされている。
 末廬国から「東南」へ「陸行五百里」で伊都国に至る。伊都国は従来、福岡県の糸島半島の深江が比定されていたが、原田大六は3世紀の中頃の深江付近が湿地帯で、伊都国の中心になりえなかった、という。
 「常に伊都国を治め国中において刺史の如くあり。」、邪馬台国が外交交易の窓口として、邪馬台国から遠離する先進地を、北部九州諸国の検察・民事上の要地としていた。「三国史記」の「新羅本紀」には、「戸数は1,000余戸あり、長官を爾支(にき)、副官を泄謨觚(せもこ)、柄渠觚(ひここ)といい、帯方郡使が常駐。」とあり、この地にある三雲南小路王墓(みくもみなみしょうじ)はB.C.1世紀中ごろと推定されるほか、井原、平原(ひらばる)遺跡などで原始王墓がみられる。伊都国の王墓は、三雲、井原、平原と変遷し、卑弥呼が登場する3世紀には、福岡県糸島郡前原町にある平原が伊都国の王都だったようだ。平原遺跡がある畑から、鉄素環頭太刀、瑠璃勾玉、四面の日本最大(直径46.5cm)の大鏡・内行花文八葉鏡(ないこうかもんはちようきょう)など、多数の遺物が出土している。
 『魏志倭人伝』に「男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身し亦以て大魚・水禽を厭(はら)う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東に在るべし。」と記される。
 「夏后少康」とは、夏の中興の英主とされている「少康」のことである。「夏后」とは、この場合、夏王朝の帝の后の意味ではない。「大字典」によれば「后」は、人と一と口の合字で、天下に号令する君のことである。中国最古の歴史書の書経(しょきょう)には、天子を「后王(こうおう)」と称し「樹后王君公承以大夫師長(后王君公を樹て、承{うけたまわる}に大夫師長を以てす。)」と記している。
 小康の子が「会稽の東を統治したが、その遥か東の海上に」倭があるとしている。陳寿が著した『三国志』は、極めて簡略で難解である。そのため中国でも理解し難く、南朝宋の裴松之(はいしょうし;372~451年)が、注で補っているほどである。それだけその漢文の解読が難しい。
 陳寿は建興11(233)年~元康7(297)年の人で、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた文官である。当時の倭は、九州以南の海上にあると認識していた。陳寿の記述にも時代の限界と伝聞に頼らざるを得ない危うさがある。

 7世紀中頃、唐の李延寿が著した『北史』倭国伝には「漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、國人共立為王。無夫、有二男子、給王飲食、通傳言語。其王有宮室、樓觀、城柵、皆持兵守衛、為法甚嚴。」とある。
 「後漢の光武帝の時(25-57年)、遣使が入朝、大夫を自称する。安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という。
 霊帝の光和中(178-184年)、その国は乱れ、遞(たが)いに攻伐しあい、何年も君主がいなかった。名を卑彌呼という女性がいた、よく鬼道を以て衆を惑わす、国人は王に共立した。夫はおらず、二人の男子がおり、王に飲食を給仕し、言葉を伝達する。その王は宮室におり、楼観、城柵、皆武器を持って守衛し、法は甚だ厳しく為されている。」

 「國人共立為王」とは、『三国志』扶余の条で「尉仇台死、簡位居立。無適子、有孽子麻余。位居死、諸加共立麻余。(尉仇台が死に簡位居が立った。彼には嫡子がなく、庶子の麻余がいた。位居が死に、諸加(重臣は六畜{ろくちく}に因み、即ち馬加・牛加・豬加・狗加などを官名とした)は麻余を共立した。)」とある。
 また高句麗本紀でも「伯固薨、國人以長子拔奇不肖、共立伊夷謨爲王。(伯固が薨じると、国人は長子の拔奇を不肖だとして、伊夷謨{弟}を王に共立した。)」とある。
 「共立」とは卑弥呼が部族同盟の結果、女王となったのではなく、嫡子でない者を擁立した時に使われる言葉であった。『魏志倭人伝』は「卑弥呼の死後、男王が立ったが邪馬台国の人々が服さなかった。その結果、内乱となり千人ほどが死んだ。そこでふたたび卑弥呼と同族の女性、十三歳の台与(いよ)が立てられた。ようやく国が治まった。」とする。卑弥呼の死後、部族同盟により台与が女王になる時には「立」と記された。

 三国志の魏志倭人伝に「その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞(言葉)を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵器を持して守衛す。」
 「景初二(238)年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将(も)って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、(親魏倭王卑弥呼に制詔す(せいしょう;詔を下す)。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝遠きを踰(わた)る所に在り、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印と紫綬を仮(預け)す。装せよ、帯方の太守に封付し綬を仮す(預ける)。汝、その綏で種人を撫し、勉めて孝順をなせ。」と。

10)卑弥呼時代の国際情勢
 卑弥呼が擁立された時代、魏の明帝が、景初2(238)年に遠征軍を派遣して、公孫氏を滅ぼし、楽浪・帯方2郡を接収して朝鮮半島に進出した。同年6月、既に倭の女王に擁立されていた卑弥呼は、すばやい対応で帯方郡に使者を送り、詔書・『親魏倭王』の金印・鏡100枚などが与えられた。魏より『親魏倭王』の称号を得て、敵対する東国の狗奴国などに対して優位に立とうとしたようだ。
 公孫氏は、黄巾の乱以降の後漢末期の混乱期、宮廷で権勢を握っていた董卓(とうたく)により、中国東北部の遼東太守に任じられた。その公孫度以来、勢力を拡大して自立を強め、漢の郡県の統制が及ばず荒廃しきっていた朝鮮半島を支配した。まずは現在の平壌付近にあった楽浪郡を統治下に置いた。卑弥呼は素早く建安年間(196~219年)には、公孫氏に朝貢していた。
 後漢の帝国支配が瓦解し、中国本土は魏・呉・蜀の3国が鼎立(ていりつ)する。当時、遼東を制する公孫氏は、隣接する北方に台頭する高句麗の圧力の中、魏と呉の権力抗争に翻弄される。

 黄巾の乱後の中平6(189)年、後漢の地方官だった公孫氏で最初に遼東の太守になったのが公孫度で、中平6(189)年以後、後漢王朝から遼東半島を拠点に「海外の事」を委託された。公孫康、公孫淵と3代、約50年間、遼東半島と朝鮮半島中西部の楽浪郡・帯方郡まで勢力下に置き、南は南漢江(ナムハンガン)で韓と、東は東、東北は高句麗、西北は烏丸・鮮卑、西南は漢・魏の幽州に接した。楽浪郡は現在の北朝鮮、平壌(ピョンヤン)周辺、帯方郡はその南、黄海道鳳山郡(ファンヘドPONGSANGUN)あたりにあった。公孫度の子公孫康は、204年、楽浪郡の南に帯方郡を設置、韓に勢力を拡大したが、依然として後漢に服属し、左将軍の官位を授けられていた。
 遼東半島(りょうとうはんとうL)は、中国遼寧省南部にある中国第2の大きさの半島で、遼東という名称は、遼河の東岸にある半島という意である。朝鮮半島の北西に近接し、満洲南部から海を挟んだ対岸の山東半島へ向かって西南西へ展開する。半島の付け根には、現在、朝鮮民主主義人民共和国の北朝鮮との国境を流れる鴨緑江と、そこから遥か西北の遼河が流れる地域までで、半島部は西を渤海、南東を西朝鮮湾、南を黄海に囲まれている。沿海には島が多く、良好な漁場となっている。その北限は遼河と鴨緑江の河口を結んだ線とされている。北東から千山山脈が半島を貫き、永年の侵食で低い丘陵となっているが、全体に山勝ちで平野部が少ない。半島先端に大連市があり、東北最大の貿易港である。当地には海軍基地がある。

 東夷伝の韓の条では「健安中(196~220年)、公孫康は屯有県(楽浪郡に属する県)以南の荒れ地を分かちて、帯方郡となす。公孫摸、張敞らをつかわし、遣民を収集し、兵を興して韓濊を討つ。舊民は稍(暫く)出ず。この後、倭韓は遂に帯方に属す。」とあり、この時以降、倭は韓と同時期に公孫氏が支配する帯方郡の管轄下に入った。
 公孫淵は遼東郡の太守・公孫康の子であったが、父が死去したときはまだ幼年であったため、後を継げず、やがて成人し、228年、父の後を継いで太守となっていた叔父の公孫恭に対しクーデターを遂げ、太守の座を奪うと城内に幽閉した。公孫淵が4代目に就任すると、魏の皇帝・曹叡(そうえい; 明帝)から揚烈将軍の官位を与えられた。
 黄初元(220)年、曹操が没し曹丕が帝位につき、魏を建国する。謚は文帝である。これにより後漢が滅亡した。黄初3(222)年、魏の呉王であった孫権も、独立して皇帝を称した。
 孫権は、制度的には、魏の外臣であった公孫淵に自立を促した。232年には、孫権は公孫淵に上表文を奉呈させ、燕王に柵封した。これにより魏の背後を脅かそうとした。孫権は、翌233年、臣下の反対を押し切って張弥・許晏・賀達を遼東に派遣した。ところが公孫淵はこの使者を殺害して魏の2代皇帝曹叡に送り、随行の軍隊と財宝を奪った。これにより公孫淵は 太守と持節(軍令違反者に対する専断権)の地位に加え、大司馬・楽浪公に叙任された。それは魏の一時的な懐柔策であった。
 234年、蜀の諸葛亮(孔明)が攻めてくると司馬懿は、徹底的な防衛に徹した。諸葛亮も屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣したが、諸葛亮は陣中で病没し、蜀軍は撤退せざるをえなくなった。この結果、蜀漢との西方戦線が好転し、一気に公孫氏討伐の機運が盛り上がった。

 魏の年号である青龍3(235)年の銘を表記する「方格規矩四神鏡」が、京都府の北、丹後市の大田南五号墳から出土した。それには「玄武」「青龍」「朱雀」「白虎」の4神の瑞獣が線描されていた。銘文は時計回りに七言句で、「青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右虎辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石宜侯王」と鋳造された39文字が並んでいた。それにより、本鏡は意図的に復古的な意匠を模倣した日本国内で作られた倣製鏡か、楽浪郡で製作された舶載鏡とみられた。青龍3年が倭の国にとっても緊張を迫られる国際情勢となり、一方、日本海側の丹後で鏡が出土している意味の重要性が理解される。
 景初2(238)年、公孫淵が太尉司馬懿(しばい)の討伐を受け国都襄平を包囲され、一族ともに滅ぼされたのが8月であった。同年6月には、既に卑弥呼は曹叡に遣魏使を遣わしていた。この件に関して、新井白石を始め、いろんな説が紛糾しているが、合理的に説明できる資料は、未だ発見されていない。ただ、卑弥呼の対応が、極めて迅速で確かなようで、寧ろ、中国の史書に即して解釈する方が、正解ではないかとおもわれる。
 魏の征討に際し、先の233年に楚を裏切りながら、公孫淵は呉の孫権に援軍を求めた。それに対して、孫権は書簡を送り「司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如し。」と伝え、結局兵を派遣しなかった。その後公孫淵は、司馬懿が下策と評した籠城を行って大敗した。その当時、魏の実権を握る司馬懿に対抗する勢力は、中国及び周辺国には存在していない。
 結果は明らかで、公孫淵の魏に対しての対応は、余りにも無謀で、国都・襄平は取り囲まれで、なす術がなかった。この時代、戦乱の地は、限定されていた。司馬懿は、苛烈な性格の人であった。襄平を制圧すると公孫淵父子やその高官達を斬り、その後、遼東に入り、中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、15歳以上の成年男子7,000人を皆殺しにし、その首で「首観(観は楼閣の意)」を築いたといわれている。公孫淵の首は洛陽に送られ、洛陽に留まっていた兄の公孫晃の一族も死を賜ることになり、遼東公孫氏の殆どが滅亡した。先代の公孫恭は、公孫淵が討たれた際には城内に幽閉されており、これを知った司馬懿は、公孫恭が太守であった時代には魏に忠実であったとしてこれを釈 放した。
 景初2(238)年、魏が公孫淵率いる公孫氏を完膚なきまで滅ぼした。卑弥呼は「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。」と素早く対応している。
 それまで服属していた公孫氏が滅亡し、朝鮮半島の現在でいえば、平壌を中心に平安南道に広がる楽浪郡と黄海南道と黄海北道に展開する帯方郡を魏が平定した。
 魏志倭人伝は「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて國邑をなす。旧(もと)百余國。漢の時朝見する者有り、今、譯(述;の)べら使(し)めれば三十國に通(とど)く。 郡より倭に至るには、海岸に循(したが)い水行し、韓國をへて、乍(あるい)は南し、乍は東し、其の北岸の狗邪韓國に至るに七千余里。」と冒頭に記す。狗邪韓国は金海付近とされる。その国内には鉄鉱山に関連する自前の施設を有するほどに、朝鮮半島南部とは密接な関係にあって、魏の朝鮮半島にまで及ぶ支配は切実であった。急いで、卑弥呼は魏と君臣関係を築こうとした。
 魏はそれに応え「汝が来使の難升米・牛利、遠きを渉り、道路を勤め労(くるし)み、今以て、難升米を率善中郎将となし、将(且つ)牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見し労みに賜わり、遣いを還す。今以て、絳地(赤い地)交竜錦五匹・絳地縐粟罽(すうぞくけい?;ちぢみ織り絨毯)十張・((あかね)絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢の直(あたい)に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華(けい;ちぢみ)五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装い封して難升米・牛利に付す。還り到らば受を録し(記す)、悉く以て汝が國中の人に示し、國家が汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」とある。
 「その八(247)年、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史(さいそうえんし;国境守備隊長?)張政等を遣わし、因って詔書の黄幢をもたらし、難升米に拝(官)を仮せしめ(官を授けること)、檄を爲(つく)りてこれを告喩す。」
 倭人伝の未尾に、張政の帰国の記事がある。その帰国を送って、倭国の使が中国の都、洛陽に至った。その記事で倭人伝は終っている。その帰国年時は書かれていないが、彼の到来と帰国の間に、女王卑弥呼の死やそれにつづく倭国内の混乱のあったことが書かれており、そのあと、13歳の女王、壱与が倭国の王として即位したことが書かれている。  (この壱与の即位のさい、張政が"後立て"となっていたようである)

11)卑弥呼の鬼道と古墳の関係
 卑弥呼はなにも、鬼道を行って衆を惑わしたわけではない。その鬼道とは、祖霊祭祀が主で、不老長寿・富貴繁栄・病平癒など現世利益的宗教観も加え、それが神仙界から観想してみせる中国の道教と混交する宗教観となったのであろう。
 神仙思想では「壺中有天(こちゅうてんあり)」『後漢書』といい、壺の中に別世界があるとする。卑弥呼やその一族の倭人達が、その神仙思想を本に具現化した王の墓式こそが、前方後円墳とよばれる「壺形」であった。中国や朝鮮半島の当時の最先端の文化を共有する新勢力が、旧来の在地勢力の文化を一掃したようだ。
 纒向遺跡が古墳時代のスタートである事は、今や揺ぎ無いが、その始原が箸墓遺跡か箸墓石塚遺跡か未だ定まらない。
 纒向遺跡から僅か北西6kmにある唐古・鍵遺跡の昭和52(1977)年の調査では、弥生後期初頭の土器とともに銅鐸鋳型とみられる石型1点と土型多数、鞴羽口(ふいごはぐち)、坩堝(るつぼ)などが発見された。そのため、鍵に近接する田原本町八尾の鏡作神社(かがみつくり)の性格がにわかに注目されてきた。唐古・鍵遺跡出土の銅鐸の鋳型とその関連施設などにより、銅鐸の工房があったとみられている。纒向文化の出現により銅鐸の工人は、その技術を活用し鏡作りに吸収されたようだ。
 鏡は天照大神の御魂であり、天照大神の御神体そのものでもあった。その新興勢力に、鏡作り工人衆はあらがえず、却ってその技術力により、天照大神を具象化する鏡作り人として厚遇されていたようだ。
 卑弥呼の時代の鏡は、三角縁神獣鏡でるが、その鏡は、3世紀の土器と共伴する事例が無く、代わりに画文帯神獣鏡が10点近く出土している。三角縁神獣鏡に描かれる図柄が、道教思想を具象化したもので、この当時以降から古墳時代初期に鏡の愛好者が急増する契機となった。漢末期から三国時代へと絶えまない中国大陸の戦乱と荒廃に耐えられず多くの流民が、道教徒と鏡の工人を交えながら日本列島に流入したのであろうか。
 道教の神仙信仰も中国の国情・民情と深いつながりがある。道教は多神教で、およそ数百種の神がいる。古代の母系氏族社会の自然崇拝・トーテム崇拝・女性崇拝・祖先霊魂崇拝というような原始宗教がそのまま残り、天を敬い祖先を崇めた周代の礼教の影響もあり、万物有霊論から生み出された、さまざまな守護神や職能神もある。中国では、その神霊体系に古い天神崇拝が加わり、世の中には妖魔や悪鬼がいて、人々はそれらの仕業と考える天災・人災に脅えながら生活していた。
 纒向遺跡には、箸墓古墳を代表とする6基の最古の前方後円墳が横たわっている。その一つホケノ山古墳は箸墓古墳東方の山裾、纒向扇状地の南端にあたる、河岸段丘上に位置し、全長約80m、後円部径60m、前方部長20mの前方後円形で葺石が施されている。前方部裾にはわざわざ葺石を外したうえで木棺墓が追葬されていた。卑弥呼が亡くなったとされる魏の正始9(せいし;248)年との一致が注目され、邪馬台国大和説の補強材料になっている。
 ホケノ山古墳の木棺は、石造りの部屋に安置され、その中には木の部屋があるということで『石囲い木槨』呼ばれている。
 天井の上にはさらに石が積まれて長方形の壇が築かれ、そのまわりに初瀬川の粘土を使って纏向で製作された10数個の2重口縁の加飾壷が周囲に配置されていた。各地の前方後円墳では、円筒の上に壺を合体させ、古墳のくびれ部分・前方部の4隅や主軸線上に配置し、壺の向こう側に被葬者の世界がある結界として、それ以上の立ち入りは他界空間に踏み入る行為として禁忌されていた。この思想を創始したのが卑弥呼であった。

12)銅鐸時代の終焉
 俗に『魏志倭人伝』といわれるが、他にもある『魏書』と区別するための便宜的な略称で、本来、『三国志』には『魏志・呉志・蜀志』の3志があり、『魏志』にも『本紀』、『列伝』があり、続いて『外国伝』が記されている。この『外国伝』にある『匈奴伝』など諸外国伝の最後に『烏丸(うがん)・鮮卑・東夷伝』が書かれ、そのまた最後に『倭人条』が詳述されている。

  「其國本亦以男子爲王 住七八十年(7,80年経て) 倭國亂相攻伐暦年 乃共立一女子 爲王名曰卑彌呼 年已長大」
 240年 魏使が卑弥呼に印綬を授ける謁見の年、卑弥呼を「年巳長大」と記している。西晋の陳寿が太康年間(280~289)に書いた『三国志』には、他に「曹業継逮年已長大」とあり、「曹(文帝)の業を継ぐに逮(およ)ぶや年已長大」と記されている。 この時文帝が即位した年齢は34才であり、陳寿の「長大」とは、中年(30-40才)であった。卑弥呼は、『魏志倭人伝』で、特別に東夷の蛮国の倭人と記録されているわけでなく、何故か日本人が勝手に漢文を、自虐的に解釈している。

 卑弥呼の新興勢力は、かなり熾烈に既存の文化と対峙し徹底した破壊行為を行った。纒向の大型建物の西側の直下にある溝から銅鐸片が出土し、飛鳥時代の川の中からも発見されている。三輪山の南方、桜井市脇本の脇本遺跡からも銅鐸のかけらが出土している。纒向からほぼ2㎞離れた桜井市北西部の大福遺跡からも壊れた銅鐸が、再加工のためか、鞴の羽口の道具などと一緒に発見されてもいる。そればかりか、銅鐸の中には意図的に土を詰め、穴を掘ってあたかも埋葬するかのように埋めているものもあった。
 愛知県渥美町椛(なぐさ)地区からは、新しいタイプの大きな2つの銅鐸のかけらが、それぞれ離れて散乱した状態で出土していた。全部は揃わなかったが、砕いて溶かして再利用する工程段階にあったようだ。古代但馬にある兵庫県豊岡市日高町久田谷の久田谷遺跡(くただに)から117片の銅鐸破片が出土した。本来は一体とみられ、合わせれば7.7kgあり、全体の4分の1程度の分量のようだ。故意による加熱や打撃の痕跡を留めていた。明治維新当初の廃仏毀釈に通じる、徹底した「銅鐸に象徴される弥生の神々の抹殺」であった。

 銅鐸は中国の銅鈴が起源とされながら、形状が類似するものが大陸では見つかっていない。また、朝鮮半島には、朝鮮銅鐸と言われる文字も絵もない小型のものが出土している。それらの影響を受け、日本の銅鐸は弥生時代、独自に発達したようだ。
 1世紀末ごろを境にして急に大型化する。この大型化した銅鐸には、近畿式と三遠式の2種がある。近畿式は大和・河内・摂津が産地で、三遠式は濃尾平野を中心に生産された。近畿式は、近畿一帯から東は遠江、西は四国東半、北は山陰地方に文化圏を広げている。三遠式は、北は信濃・東は遠江、西は濃尾平野に広く分布し、例外的に伊勢湾東部・琵琶湖東岸・丹波北部の日本海岸にも伝播していた。それぞれの銅鐸は2世紀前半に盛んに製作され、弥生時代が終末期を迎える3世紀半ばになると近畿を中心に忽然と消滅する。

 庄内式土器は大阪府豊中市庄内の庄内遺跡を標式遺跡とし、これを纏向Ⅱ・Ⅲ式土器(210年~270年)と称することもある。庄内式土器を代表する煮炊き用の甕形土器は、器面を、刻み目を付けた叩き板で叩きながら丁寧に形を整え、内面は篦削りによって極薄にし、その厚さを1~2mm程度に仕上げられる。その薄く削る技法が、後の古墳時代の土師器に引き継がれていく。この庄内式土器の手法に影響されながら、各地特有の意匠を施す土器に変異しながら、関東、北陸地方から北九州一円にまで波及していく。それ以前の狭い分布圏を対照的とする個々の弥生文化圏を跨ぐ、広域的な政治経済圏が形成された初源であるとみられる。
 庄内式土器と大きな古墳の築造が、銅鐸破壊のメルクマール(merkmal)となる。銅鐸とその鋳型は、実験的研究によれば、容易に細かく叩き割れないことが明らかになっている。それでも各地で細かく割られ、更に執拗に埋められている。一方、奈良県桜井市の大福遺跡では、銅鐸の中に土を入れて穴を掘り埋めていた。絶対的権力者に表向き従わざるを得ないが、信仰は捨て難く埋めて隠す集落の事例も20例近くある。
 銅鐸はB.C.2世紀頃作られ、大きさは12cm~1mを越すものまで種々あった。弥生中期の終わりごろの紀元前後、それまでの銅鐸が埋められ新しい銅鐸が出現した。1世紀頃には高さ60cmが通常であったが、その後大形化され、2世紀には1mを超え、さらには現存する最大のものは、滋賀県野洲市野洲町大岩山で明治14(1881)年に出土した1号銅鐸で、高さ144cm・重量45kgに達している。その直後、突然、鋳造が止まった。

 邪馬台国の女王卑弥呼であれば、倭連合と東海地方を根拠とする狗奴国の戦いが想定される。両勢力とも卑弥呼が登場する前までは、共通するように銅鐸を祀っていた。纒向遺跡では、外来の土器が30%位あり、そのうちの50%が東海系である。その土器も運搬用や装飾に拘る祭祀用ではなく、纒向の地に長期間滞在を前提にした煮炊き用の甕が一番多かった。
 濃尾を中心とした勢力が、卑弥呼が率いる邪馬台国と対峙していたとすれば、当時共に先進文化圏として進取の気風を持ち続け、その間、常に両勢力が深く交流している様相を示す諸遺跡の遺物構成とかなり矛盾が生じる。
 小銅鐸は関東でも多く出土しているが、1世紀末に大形化された銅鐸は天竜川流域と千曲川流域を南北に結ぶラインが東限であったようだ。天竜川流域と千曲川流域を超えると習俗や祭祀が異なっていたようだ。

 北信の千曲川沿いにある中野市柳沢の柳川遺跡では、銅鐸5個と銅戈8個が一つの穴からまとまって出土した。銅鐸は5点とも21~22㎝前後と規格化され、表面の文様などから紀元前2世紀ごろに作られた古いタイプのものであった。銅戈は1号が九州型、2~8号が大阪湾型であった。
 長野県埋蔵文化財センターは、2012年5月23日、「近畿型の銅戈と九州型の銅戈とでは、スズの割合が異なることが新たに分かった。 スズは、近畿型の7本など11~15%と割合が高いグループと、九州型の1本など5%以下の低いグループに分かれた。」と報告書を発表した。
 柳川遺跡は、長野盆地と飯山盆地の境にあり、新潟の高田平野に通じ日本海に出る。おそらく、長野や飯山盆地の複数の集落が所有していた青銅器が一括して埋納された場所とみられる。
 柳川遺跡の礫床木棺墓は、小石を敷き詰め、遺体を板で四方に囲って盛り土をする埋葬法で、長野県の北部に多い墓制である。弥生時代中期に属する、長さ推定2.8m、幅2.2mの大型の1号墓があり、それを囲むように長さ1.5m前後の通常規模の墓が17基出土した。さらに北側約40mの地点で2基が発見され、計20基となった。

13)卑弥呼がいた纒向都市
 愛知県埋蔵文化財センターが調査を指導する沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)の高尾山穂見神社・熊野神社旧境内地にある高尾山古墳(辻畑古墳;つじばたけ)が、日本最古級の前方後方墳の可能性があると平成21 (2009)年発表された。高尾山の前方後方墳は南北約62m、東西推定35mである。方墳の埋葬施設内には1本の木を抉った舟形木棺があった。しかも撹乱の痕跡がなかった。周濠の底からは、祭事に使われたとみられる高坏1点が割れた状態で見つかった。その破片の殆ど全部分が採取され、高さ20cm、直径25cmの杯状の器に円錐形の脚部があり、その底面の最直径が約12cmあったと判明した。
 出土土器には在地系はもとより、濃尾、北陸、近江、関東などの外来系土器も遺存していた。中国製の銅鏡2、鉄槍1、鉄鏃、、勾玉1などや朱塊も共伴した。周溝内からは廻間2式~3式の土器が多量に出土したため、3世紀第3四半期の築造とされる長野県松本市の弘法山古墳と同年代とみられている。副葬品の鏡は割られていた。現在でも、静岡以東では最大の古墳である。
 静岡県浜松市中区伊場の伊場遺跡は、天竜川西岸にあり、弥生時代後期の三重の環濠を巡らした集落跡などが発掘されている。その東岸にある静岡県袋井市は、『国造本紀』にある「久努国」や『和名抄』にみられる「遠江国山名久努」に比定されている。三遠式銅鐸の分布も濃尾方面に片寄りがあるが、高尾山古墳の発掘調査などから、狗奴国は濃尾よりも更に東の西三河にする説も台頭してきている。

   纒向遺跡では、その同時代に属する竪穴住居が殆ど発掘されていない。纒向の盛期、市場の繁栄を経済的基盤として政治的にも勢威を揮う時代、建物といえば掘立柱形式であった。この当時、中央に屹立する政権を営む地方の権力者達は、地べたに座す住居を好まず、高床の掘立柱建物に住いしていた。纒向遺跡内では掘立柱建物用の柱穴が、掘れば必ずというほど無数に出土するという。
 纒向では外来系の甕と纒向の土で焼いた甕との比率は、7:3の割合といわれている。本来、各地の遺跡では搬入元の土を使うケースがほとんどで、奈良県の唐古鍵遺跡(からこかぎ)では外来系土器は3%位で、東海地方でも7割位が尾張で、一部伊勢の土が混ざる程度で、土器の胎土は、在地かその近辺で産するものが主であった。
 纒向の人々は、一定期間は定住するが、ある程度の期間が過ぎれば故郷へ帰る事が多く、絶えず入れ替わっていたようだ。
 多くの商人と随行する運搬人や首長とその駐在員が、様々な物資を土器などに入れて纒向に運び入れて、炊飯器となる「甕」で炊いたご飯を、各々が集う掘立柱建物から『畝傍山』・『耳成山』・『香具山』の大和三山や纒向川・大和川の風景を眺めながら食べていたようだ。やがて他に都が移り、時代のエリート階層が去ると竪穴住居が出現する。古代から政治の中枢がある所の市場が賑わった。

 纒向遺跡でも築造年代が4世紀後半と考えられている直径20m前後の円墳、もしくは前方後円墳の可能性もある、箸中ビハクビ古墳と同様、数少ない4世紀代の箸中イヅカ古墳の墳丘は、歴年削平され尽くされ、地表からは全くその存在が確認できない状態にある。墳形は馬蹄形周濠を持つとみられ、後円部の直径は45~50m、全長は100mを超える、かなり大きなものであった。 確認された周濠の幅は10m前後で、多くの埴輪や木製品・土器などが出土しており、築造年代は4世紀後半が有力である。纒向は少なくともヤマトの政治経済の中心ではなくなっていた。

14)纒向時代の遺物
 『三国志』の『魏書』東夷伝倭人の条、いわゆる魏志倭人伝は、「南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬(いきま)有り、次を彌馬升(みます)と日い、次を彌馬獲支(みまかし)と日い、次を奴佳醍(ぬはだい)と日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の傍國(中心地からはずれた所にある国)は遠絶にして得て詳らかにすべからず。
 次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。
 その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。」という。

 この一連の記述や考古遺跡分析から、狗奴國は邪馬台国より東方とみられる。 「正始元(240)年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎(もたら)し、金帛・錦・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩に答謝す。」
 「その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑(赤糸と青糸により目を緻密に固く 織った平織り)・緜衣(緜は綿の本字)・帛布(はくふ;絹布)・丹・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。その六年、詔して倭の難升米に黄幢(はた)を賜い、 郡に付して授を仮せしむ。」
 纒向遺跡には、代表的な纒向型前方後円墳と呼ばれる箸墓古墳以外に、纒向石塚古墳・矢塚古墳・ホケノ山古墳、勝山古墳、東田大塚古墳があり、その出現期に日本列島で最初に築かれた地域である。前方後方墳ではメクリ1号墳がある。ヤマト政権が最初に「都宮」を置いた地でもある。
 上記のホケノ山古墳では、出土遺物の多くが二重口縁壷や小形丸底鉢などの土器であるが、画文帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅきょう)が1面と、破片化した内行花文鏡(ないこうかもんきょう)などの鏡片や、素環頭太刀1口を含む鉄製刀剣類・鉄製農工具、多量の銅鏃・鉄鏃などが出土している。
 桜井市纒向学研究センターでは、遺物や埋葬施設の構造などからホケノ山古墳の築造年代は3世紀中頃と考えられている。纒向の尾崎花地区では数少ない絹製品が出て、高さ幅共に約3.4cm、厚みは2.4cmある平織りの巾着であった。何か有機質の物を包んだ後、口の部分は糸を束ねた紐で結ばれていた。箸墓古墳の濠の上層部から、4世紀初めの物とみられる乗用馬の木製鐙(あぶみ)や、大陸性の銅鏃をまねた木製の矢尻などが出土している。
 また小規模な墳丘であるメクリ1号墳は、纒向遺跡で確認された唯一の前方後方墳である。墳丘は全長29m、後方部の長さは19.5m、前方部の長さ9.5mで、後世の削平により埴輪や葺石は遺存せず埋葬施設も確認できていない。幅約4mの周濠からは多くの土器が出土しており、庄内3式期(3世紀中頃)~布留0式期(3世紀後半)の築造と考えられている。纒向型前方後円墳の規格を踏襲していることから、纒向に常駐し続けた東海地方の有力者一族が被葬者で、纒向の地を愛しながら故郷も忘れ難く、それを偲ぶ縁が哀れである。

 桜井市大字太田での纒向遺跡第61次調査で確認された3世紀前半のV字溝の埋土よりベニバナが検出された。ベニバナの用途には染料や漢方薬・紅など種々ある。纒向遺跡のものはその花粉量が非常な多いことから、染織用の染料の廃液を溝に流したと考えられている。 ベニバナは本来日本には自生しない植物で、しかも素人が草木染めのレベルでは染色はできず、おそらく染織など最新技術を持った渡来人が優遇され、纒向を拠点とし交易品として広域市場に出し、それが時流に適い活況を呈したとみられる。纒向に集う各地方の首長層が、中央政権の政治的な情報収集に努めながら、大陸系の高度な技術品と鉄素材の交易に励みながらも、その技術を調査研究するため、職能集団を同行していたようだ。
 纒向遺跡では3世紀後半、鉄を鍛冶する遺構が数ヵ所、点在して発掘されている。その後、淡路島黒谷の五斗長垣内遺跡(ごっさかいと)の発掘調査では、23棟もの竪穴式建物跡が見つかった。そのうち、鍛冶炉がある建物が12棟あった。ここから多くの鉄製品が出土した。鉄器作りは、想像以上に大規模で、集落単位で工業生産的に行われていた。日本では、弥生時代後期に鉄器の使用が始まるが、精錬された鉄素材を朝鮮半島の狗邪韓国に頼る鉄器生産が、どのようにして行われたかを知る貴重な遺跡である。

15)卑弥呼の死
 「魏志倭人伝」が記す卑弥呼の墓は「径百余歩」とある。それは直径150mの値となる。それほどの巨大古墳は、九州全域で発掘されていない。だが直径150mは、箸墓古墳の後円部の直径に近い価を示す。「魏志倭人伝」の「大作冢(つか)」を「大きな墓を作った」とも、「大いに墓を作った」とも解される。

 纒向の箸墓遺跡やホケノ遺跡からは、「布留0式(ぜろしき)」の特徴が濃厚な土器が出土している。250300年代とみられる。最近では、国立歴史民俗博物館でも、纒向の遺物の出現分析を報告している。箸墓遺跡の周濠から出土した土器に付着した“お焦げ”を炭素14年代の測定法で分析した結果、それは260頃と卑弥呼が死んだ年代と重なっていた。

 「魏志倭人伝」が記す卑弥呼の墓は「径百余歩」とある。それは直径150mの値となる。それほどの巨大古墳は、九州全域で発掘されていない。だが直1mは、箸墓古墳の後円部の直径に近い価を示す。「魏志倭人伝」の「大作冢(つか)」を「大きな墓を作った」とも、「大いに墓を作った」とも解される。

 纒向の箸墓遺跡やホケノ遺跡からは、「布留0式(ぜろしき)」の特徴が濃厚な土器を出土している。250300年代とみられる。最近では、国立歴史民俗博物館でも新たな遺物の出現分析を報告している。箸墓遺跡の周濠から出土した土器に付着した“お焦げ”を炭素14年代の測定法で分析した結果、それは260頃と卑弥呼が死んだ年代と重なった。


 「その八(247)年、太守王官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史(さいそうえんし;国境守備隊長?)張政等を遣わし、因って詔書の黄幢をもたらし、難升米に拝して仮せしめ(官を授けること)、檄を爲(つく)りてこれを告喩す。」
 「卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう;つか)を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。」
 魏志倭人伝によれば卑弥呼は247年か248年に死亡した。「その死するや棺有れども槨無く、土を封じて冢を作る。始め死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主哭泣(こっきゅう;号泣)し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中に詣りて澡浴(そうよく;体を洗い清める)し、以て練沐(れんもく;練絹の喪服に改め、沐浴する)の如くす。」と詳細に記されている。
 桜井市纒向学研究センターでは、ホケノ山古墳の築造は3世紀中頃とみている。平成9(1997)年5月、主体部の後円部中央から石積木槨(長さ約7m、幅約2.7m、高さ1.1m)が発掘された。その中に刳抜式木棺(くりぬき式)が収められていた。コウヤマキ製で、長さ5m、幅1mもあり、木槨の周囲には河原石が積み上げられていた。古墳時代初期の竪穴式石室に先行するものであった。そのコウヤマキ製の刳抜式木棺の破片を、放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果、卑弥呼の死亡年代と重なるようだ。ただ卑弥呼の出身国が、必ずしも邪馬台国とは断定できない。纒向以外の故地に墓所を構えたとも考えられている。

16)卑弥呼死後の邪馬台国と狗奴国
 「更更(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王と爲(な)し、國中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す。」
「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。」

「 軍司令官、張政の倭国長期滞在」の記述に注目される、倭国の都・邪馬台国が隣国を支配する際に、狗奴国の攻撃を受け危機に陥った。そのため卑弥呼が、帯方郡に救援を求めた。帯方郡は、魏の朝鮮半島と倭国に対する政治・軍事上の拠点であり、現在の韓国の首都、ソウル近辺と見られている。
 このときの帯方郡の太守は王頑であった。彼は卑弥呼の求めに応じ、張政などの武官を倭国に派遣した。
 壱与の治世期間にあたる3世紀後半は激動の時代であった。
『三国志』魏志倭人伝は、「その八(247)年、太守王頑官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼(ひみここ)と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣で、相攻撃する状を説く。」とあり邪馬台国と狗奴国が対立関係にあったことを示している。

 考古資料によれば、この時代、邪馬台国と拮抗する大勢力の狗奴国は、東海西部の濃尾平野にあったとようだ。
 S字甕(S字状口縁台付甕;えすじじょうこうえんだいつきかめ)は濃尾平野低地部で、廻間(はさま)様式とともに誕生した台付甕であった。おおむね2世紀前葉から5世紀前葉まで続く祭祀には欠かせない壺が土師器に繋がっていく。口縁部は基本形的には3回ある「S」字状に屈曲し、厚さを極めて薄くし、器面に刷毛目を付け、その熱効率を高め、従来の甕と比べると短時間で煮沸が可能になっている。
 S字甕を製作する際の混和材には、三重県の伊勢の北にある一志郡を流れる雲出川(くもず)の砂礫などや尾張低地部の粘土も補充的に使われている事が次第に明らかとなってきた。古代大和朝廷が、常に意識していた出雲と並ぶ伊勢が、ここに登場した。
 S字甕は、甕の器面に文様を描く赤彩されたパレス壺・概ね瓢箪型のヒサゴ壺・高杯などの他の濃尾系土器とともに、3・4世紀の列島に広範囲に、しかも質量ともに豊富に伝播する。その経路の基本は4つあり、西への太平洋海路・東山道・北陸道と瀬戸内海路などがある。S字甕は、まさに壱与の時代で、その3世紀中葉、上越・信濃や上毛野・相模・関東の総と、更に邪馬台国の本拠地の大和と吉備にまで達している。
 3世紀中葉は、恐らくは卑弥呼の時代で、近畿地方の庄内式土器よりも格段に速く、邪馬台国に敵対する狗奴国の文化が邪馬台国の周辺国に及んでいたようだ。さらに各地域では各国王が居館を構え自立し、その地域独自の墳墓を造営していく。それ以後、日本列島の王から中国への遣使が途絶える。

 濃尾平野からは2世紀末~3世紀初頭、愛知県清須市廻間(はさま)の廻間遺跡で前方後方型墳が出現している。推定される墳長25m、後方部19m、前方部長8m、前方部幅9.5mあり、その周溝は墳丘と相似形で、溝幅は5.5mあり、溝内には廻間Ⅰ式前半の壺・甕・高杯・鉢などが収められていた。
 尾張地方の北西部、岐阜県との県境の一宮市開明(かいめい)にある西上免古墳(にしじょうめん)では、墳長40.5m、後方部25m×24.5mの前方後方墳型の遺跡である。幅が7~8mの周溝は墳丘と相似形で溝内から多くの土器が出土し、その中に在地系のパレス壺と畿内系とみられる庄内式期の加飾壺もあった。それらの前方後方墳が、東海地域の部族社会で独自に誕生した墳丘墓である。それは、伊勢湾沿岸で出現し、主に東日本地域に広がる特徴的な墳丘墓であった。3世紀の濃尾を含む東海に、卑弥呼の邪馬台国を脅かす勢力、狗奴国が存在していたという説が次第に有力となっている。西上免古墳に祀られる者こそが、卑弥呼と対峙した狗奴国王と推定する説も多い。

 信濃の最古の古墳は、松本市大字出川町(いでがわ)の中山丘陵先端部にある前方後方墳で、それが弘法山古墳である。墳長66m、高さ7mで、埋葬施設は長さ5mの河原石積みの竪穴式石室で天井石がない特殊な構造である。その礫槨内の副葬品は三角縁四獣文鏡4面、鉄剣3口、鉄斧(てっぷ)1個、鉄鏃24本、銅鏃1本、(やりがんな)1本、銅鏃1本、ガラス小玉738と豊富な遺物があり、墳頂部の石室直上付近から、祭器として供献された壺・高杯・手焙(てあぶり)などの土師器が多数出土した。その大半が濃尾系で廻間2式前半に比定され3世紀第3四半期とみられている。邪馬台国壱与の時代、弘法山古墳に代表されるように、南信は狗奴国の影響下にあったようだ。
 中野市一本木の高遠山古墳では墳長55mの前方後円墳が調査された。墳丘は南北を軸に築造されている。後円部には新旧2基の埋葬施設がある。槨内の古い1号棺の内法(うちのり)は長さ約4mあり、箱形の刳抜式木棺で、墓坑の北側と円形中央部の両サイドは石積みされていた。鉄剣4、銅鏃4、鋤鍬先1、刀子1、1、管玉4、ガラス小玉5、土器類16点が出土した。
 新しい方の2号棺は、土坑内の礫床上に厚さ6~7㎝の木炭がぎっしりと充填された槨内にあり、その割竹形木棺は内法の長さ約6mと推定される。鍛造有袋鉄斧1・1・鉄刀子1だけが出土した。土坑の一方の小口に平石を立て、両小口上を複数の平石で覆っていた。平石は槨の側面上にも少し並べてあり、その上に木蓋が敷かれていたようだ。木棺の脇に箱清水式甕が、木棺の真上には廻間(はさま)3式初頭の東海系高杯が置かれていた。高遠山古墳は4世紀前半の築造とみられている。
 信濃の初期古墳は、東海系とみられる前方後方墳(美濃・尾張系)の弘法山古墳の存在が大きかったが、近年の古墳の再調査で、北信の前方後円墳(大和・河内系)の高遠山古墳が再評価され、3世紀以降、畿内で大和政権が国家形成される過程で、その勢力が北信から進出し、信濃国内では、その勢力圏が錯綜した。同様な事が関東でも生じ、上総でも、各々の古墳群が両勢力の複雑に拮抗する様相を呈している。
 「箱清水式土器」は善光寺の北にあたる、長野市箱清水の箱清水遺跡を標式遺跡とする弥生時代後期の土器群をいう。千曲川流域を中心に信濃の広い地域で発達し、壷・坏・鉢・甕・甑(こしき)などと、それ以前と比べて器種も豊富である。文様は壷と甕に、中部高地型櫛描(くしがき)文と呼ばれる独特の方法で描かれ、供膳用の土器の器面が赤く塗られることも特徴の一つである。上田市常田の下町田遺跡では壺が、上田市の上田原遺跡では高杯が、その器面に赤い彩色が施されている。

17)邪馬台国時代の関東情勢
 同時代の関東地方の様相も複雑であった。2世紀末の「倭国乱」は関東でも同様にあった。しかしそれも終息し、3世紀初めには、関東の環濠集落は消滅する。平和な時代の訪れで集落を囲む濠は埋められたようだ。

 関東は2世紀後半の弥生後期以降、東海西部との結び付きが強まる。それは3世紀初頭にも継続し、やがて有力な首長を登場させでようで「乱」が終息していく。3世紀中葉には前方後方墳の首長墓を出現させる。ここでも東海系の首長の東征がなされていたのか。前方後方墳は特に上総と上野に集中し、木更津市請西千束台(じょうさいせんぞくだい)にある高部古墳群の内の2基から後漢鏡が出土し、関東では最古とみられている。
 30号墳は全長約34・5mあり、斜縁二神二獣鏡・鉄槍・朱塊・手焙形土器が出土した。君津郡市文化財センターでは、東海系の高坏などの廻間2式1段階の出土土器から、古墳の築造時期を3世紀でも210年~250年頃と判断した。32号墳は全長27mの前方後方墳で、その出土した廻間式土器により3世紀の第2四半期と特定された。その埋葬施設の大方形部に安置された木棺から四獣鏡片・鉄槍・朱塊が発見された。30号墳と32号墳は、墳形・埋葬施設・副葬品などから木更津市の請西地区を本拠とする2代が継承する首長墓とみられている。
 千葉県市原市の神門古墳群(ごうど)の埋葬者は東海系の首長ではなかったのか。その理由は、3世紀前半に東海の王が濃尾・北陸・信濃・関東を結ぶ勢力を有していたからである。その勢力は縄文時代から南関東に分布する楕円形の小判形住居を、東海系の4隅が丸い隅丸形住居に替えるほどの入植者を送りこんでいた。その証が東京湾沿岸の遺物に、祭祀の際お神酒を注ぐために供される濃尾系のS字甕・ヒサゴ壺・パレス壺・高杯など供膳用土器が広く分布している事から明らかである。
 2世紀末の「倭国乱」により、関東への外来系土器の流入を減少させた。市を開く余裕もない争乱があり、交易ルートの秩序も維持できなかったようだ。この時代に東海と畿内を中心とした2大勢力があり、互いに拮抗する勢力となった。その過程で南関東地方は濃尾勢力に属する東端の地域となった。

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