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 東アジアにおける民族移動
 中国の戦国時代は、秦の統一で終息しますが、戦乱を避けるため、東方の燕、斉等の人々は、遼東を経て朝鮮半島に向かいました。中には、黄海を船で渡る人々もいたでしょう。秦が中国を統一しても、この移民の流れは、止まることがなったようです。始皇帝による過剰な使役と官僚的法治体制に耐えられず、自暴自棄になって流民化します。引き続き朝鮮半島に向かったようです。
 戦国時代末期の長平の戦(ちょうへいのたたかい)が有名です。B.C.260年に秦と趙が長平(現在の山西省高平県の近く)にて激突した戦いです。将軍・趙括は大軍を頼んで数に劣る秦軍を一気に叩き伏せようと、秦の本陣に向かって突撃します。秦の上将軍・武安君白起は退却するとみせかけ趙軍を誘い出し、伏兵をもって趙軍を分断、そしてそのまま趙軍の援軍および糧道を断ってしまいます。 趙の士卒は兵糧の補給を欠くこと46日におよび、内部でひそかに殺しあって食うにいたります。
 趙軍は、秦が囲む塁壁に攻撃をかけて脱出しようとし、4隊を組織し、数度脱出を試みますが、すべて失敗します。趙括は最後の手段として、自分の旗本及び精鋭軍を率いて自ら奮戦しますが、秦軍はこれを射殺します。 残る趙兵46万はやむなく降伏します。
 秦の勝利に終わりますが、戦後に秦の白起将軍は、降伏した趙兵46万人を穴埋めし処刑します。小児240人だけが、趙に帰ることを許されたと、趙の国力が一気に衰える契機となりました。 白起は、数10万の降卒をかかえると、反旗を翻した時の危険を考え、皆殺しをしたのです。
 中国戦国時代の戦国の七雄と呼ばれる七大国の人口統計の記録はありませんが、司馬遷の『史記』によれば、秦・楚の兵力は百万、魏は70万、あとの四カ国は数十万ずつだったと述べています。仮に強国だった趙と斉の兵力をそれぞれ80万、小国だった韓と燕をそれぞれ50万と仮定すると、趙兵46万人を穴埋めし処刑すれば、趙はその兵力の過半数以上を失ったことになります。この時代、平民歩兵が主力ですから、その経済的生産要員も過半数以上が消滅したことになります。 趙は再起不能の状態になり、人々の多くは、流民となったでしょう。
 『戦国時代』(B.C.403年−B.C.221年)になると、鉄器農具の発達で農業生産力が一挙に増大し、官僚的君主独裁の法家主義を確立した秦が、旧態依然として国内の権力闘争に明け暮れる中原諸国に、圧倒的優位の軍事力を背景に侵攻してきます。
 斉の滅亡で、秦は始皇帝26年(B.C.221年)、中国史上初めて天下を統一しますが、秦の末、全国的規模で、農民の爆発的蜂起が発生し、秦の全国的官僚統治機構が寸断されます。早くも2世皇帝3年(B.C.207年)には、項羽劉邦により咸陽を陥され、足かけ15年で滅亡します。 その間、燕、斉、趙の民は、動乱避けて、地続きの朝鮮に数万の単位で移動したようです。この時期の朝鮮の王が、箕准でした。彼は朝鮮に流入する数万の流浪の民の亡命を認め、半島西部の地区に住まわせます。一方、中国山東地方の諸勢力も、その東北を窺う余裕がありません。その東北部と朝鮮半島北部の穢系部族連合も、その間、順調に国力を付けていたようです。
 秦末期、陳勝・呉広の乱が起きると項羽は項梁(項羽の叔父)に従い造反軍に参加しました。陳勝は秦の章邯軍に敗れ、逃走中自分の馭者に首を切られます。すると、項梁は楚王家の末裔を祭り上げ「楚王」とし大いに勢威を奮いますが、秦の章邯の奇襲によって戦死します。
 その後は項羽が楚軍の首領となり咸陽へ向けて北進を開始します。途中、秦軍に河北の居城信都を包囲されていた趙の張耳陳余の救援要請を受け、趙へと向かい、秦正規軍の章邯将軍が率いる20万超の大軍と鉅鹿で戦います。
 当時、秦軍が兵力的に圧倒しており、それが完全に包囲する鉅鹿を見て、しかも率いるのは数々の反秦軍を敗走させた名将の章邯です。趙救援に駆けつけた各国の反秦軍も手を出せません。 しかし項羽は、まず秦軍の食料運搬部隊を襲い、糧道を絶ち、秦軍を飢えさせ、次いで項羽の兵士に鉅鹿城までの3日分の兵糧のみを渡し、黄河を渡ると船を沈めさせます。3日で決着せねば全滅あるのみと、兵は決死の覚悟となります。
 その時の包囲軍の大将は、秦の天下統一を決定づけた対楚戦争の勝利将軍・王翦(おうせん)の孫、王離でした。項羽は、まず黥布に2万の兵を与え、王離軍に突撃させます。項羽も、自ら先頭にたって突撃をし、王離軍の南部戦線の司令官・蘇角を馬上にて切り捨てます。 こうして数では5倍強であった敵を潰走させ、乱戦の中、王離を捕虜とします。最後の秦軍の将・渉間(しょうかん)も、兵の潰走を止められず、数騎しか残りません。かたわらの家に入り、火を放って死にます。項羽軍は、更に勢いのまま秦軍を攻め、総大将の章邯も降伏させます。
 この戦いで項羽率いる楚軍の恐ろしさを目の当たりにした各国の反秦軍は、項羽を恐れ自ら進んで項羽の傘下に入ります。こうして項羽は名実ともに反乱軍の総大将となります。
 この時20万以上の捕虜がいましたが、捕虜の中に暴動の気配が見えたので、新安という所で、深夜、捕虜の野営地を三方から襲い、パニック状態にさせ、谷底に追い落とし、これを全て穴埋めし殺してしまいます。この行為が、のちに劉邦の項羽討伐への大義名分になりました。
 これ以前、陳勝が殺された時、項梁は、諸方の流民軍に「(せつ)において大会同をしょう」檄を飛ばします。その斉の薜に向かう途中、項梁軍の項羽は、襄城(河南省)を陥落させますが、何千という降伏兵を、すべて穴埋めにして殺しています。生かしておくと、自分達の食料が減るからです。
 項羽には人徳が無く、咸陽陥落後も趙、斉等の諸国で反乱が生じます。特に斉の田氏一族は、戦国末期、その去就定まらない楚に幾度も裏切られて、楚を信用しません。かつて楚も、軍を率いる項梁に斉が援軍を送らなかったために、章邯の秦軍に囲まれ、叔父の項梁が敗死しました。 以来、項羽も斉を嫌います。項羽は斉でも、連戦連勝しますが、またしても降伏した兵士を穴埋めにします。斉の人々の反感は高まるばかり、鎮圧してもすぐさまゲリラ的に蜂起します。項羽も疲れたでしょうが、斉の人々も困窮したことでしょう。
 その後の楚漢戦争の彭城(ほうじょう;徐州市)の戦いでは、劉邦率いる漢軍は大敗して、10万の兵士が雎水(しょすい)に追い落とされ、その大量の死体により川がせき止められたといわれています。 こうした秦統一過程から漢楚の戦乱の最中、どれほどの流民が、朝鮮半島にあったのかは、具体的に通算は不能ですが、秦の侵攻により斉と燕の流民、“数万の人々”が流入したといわれています。それが度々発生しますから、移民の数の大きさは計り知れません。 しかもこの大量の移民の到来は、先進技術を伴っていましたから、明らかに朝鮮半島に対する開発を速めたとみられます。
 その流れは、朝鮮半島を経て、あるいは直接、黄海、東シナ海を渡航した難民も相当いたでしょう。中国の先進技術と文化を帯同してきた難民は、日本に新たな文明を発生させました。 B.C.300年頃からはじまった日本の弥生文化は、低湿地帯利用の水田稲作文化であり、青銅と鉄を同時期に受け入れた金属文化でした。その上、数は少ないのですが、ガラスの使用も認められ、素朴な紡織技術も伝承されています。
 わが国の周辺国が、相当に発達した文化水準に達し、それが中国や朝鮮半島北部の部族国家の連合体から、集権的な国家形態の統一につながり、その過程で、かつて経験しない大規模な争闘が生じました。それが民族的な大移動を呼びました。わが国にも、朝鮮半島を主に、南は中国江南の地から、北は東北の沿海州から高い文化水準を伴って、流入してきました。 それは侵略的な征服を目指す大規模なものではありません。
 通常、征服軍は男主体で、侵略が成功すれば、その地域の男を殺戮するか、奴隷にし、女には子を産ませて、自軍の増殖を図ります。また部族単位の大集団での流入であれば、それ相当の大陸独自の生活用具とコロニーの発見があって当然です。当時の日本の遺跡からは、その痕跡が今のところ認められません。むしろ、せいぜい村落単位か、多くとも小部族集団で、 それを構成する家族を伴っての移住だったのでしょう。ただ、その時代の大陸の状況から、かなりの頻度で、難民・流民の侵入があったようです。
 当時の日本は、1万年を超える縄文時代の終焉期を迎え、大きくその人口を減らしていました。世界的に見て、新石器文化は、農業か牧畜を生業の主体にして発展します。しかし日本では、縄文土器文化を育くみましたが、その生業は、旧石器時代と変わらない、狩猟・漁労と植物採集が主体で、辛うじて焼畑による原始農耕が営まれていたに過ぎません。
 縄文中期には、気候の温暖化で、採集食料資源に恵まれ、この頃になると里芋、山芋、瓢箪、瓜、緑豆、粟等の原始農耕も全国的に行われ、人口は飛躍的に増大します。
 それが後期あたりから、世界的に寒冷化が進み、自然資源の再生産能力の低下と、過度の動植物の採集による食料資源の極端な枯渇を招きました。その上、この時代の畑には、特別に肥料を施す知識も痕跡もありません。焼畑農耕に頼るだけです。自らの拠り所であった森林資源を焼き尽くします。
 縄文晩期になると、寒冷化がその極限に達します。かつては、中部地方以北の落葉広葉樹林帯に囲まれ、鹿、猪を中心とした動物達、湖川の豊富な魚介類、保存食として安定的に供給されていた団栗、栗、胡桃、栃の実等の森林資源が、過去の獲れる時に獲るといった乱獲と破壊により、縄文時代を長きに亘って支えてきたものが、すべて失われてきます。
 特に山間部は最悪でした。諏訪地方では、縄文中期、多くの集落で密集状態になりますが、晩期になると無人状態になります。関東地方の山間部もそれに近い状態になります。辛うじて、青森県つがる市の亀ヶ岡遺跡のように海岸に依拠し、豊富な海洋資源に頼れる地域が、縄文時代、最後にして最高の文化を咲かせます。
 このような縄文時代壊滅の時に、水稲技術集団が、集落家族単位で、各地に断続的に進入して来たのです。弥生時代の前期と中期、各地域で独自性文化を生みます。むしろ実質的に石器が中心でありながら、青銅器は祭祀用とされ、農具に鉄器が採用されます。弥生中期の墳墓の福岡県井原や佐賀県唐津の甕棺出土品からみると、すでに銅製品より鉄製品が中心になります。
 鉄器は、前期から中期、さらに後期へと、所有者は一部勢力者に限りますが、それでも急速に実用素材として、急速に普及します。ただ充分検証しなければならないのが、日本は火山国で酸性土壌、湿潤多雨です。鉄器、木器、骨角器類は、腐食し痕跡を残しません。