一、古墳時代の土器 | 二、古墳時代の王墓 | 三、纏向遺跡 | 四、雄略天皇の時代 |
五、フネ古墳 | 六、その他の諏訪の古墳 | 七、青塚古墳 |
一、古墳時代の土器
古墳時代の展開は、 3世紀中葉より4世紀の初頭ごろにかけて出現した古墳によってそれの上限が設定され、6世紀半ば以降の群集墳の盛行が終焉
に向かった7世紀の末葉ごろをもって一応の下限と理解されています。この間における時代の展開の目安として土器型式の認定による年代決定が行われていますが、その対象とされている資料は土師器(はじき)です。
古代における食生活の主要な必需品は、縄文時代以来、変わらず土器でした。ただ古墳時代から平安時代にかけて、弥生土器に代わって土師器と須恵器が日常的な容器となります。この他にも灰釉陶器や緑釉陶器が登場しますが、庶民的焼き物ではありません。
土師器は弥生時代の技術を受け継いだ素焼きの日常的土器です。土師器とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代から奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のカワラケに取って代わられるまで生産された素焼きの土器です。ちなみに、埴輪も土師器です。 古墳時代には土師部(はじべ)という部民により生産されていました。多く生産されたのは甕等の貯蔵用具ですが、多孔質で水がしみ出し易く、緻密で堅牢な須恵器の方が、液体の貯蔵に向いています。調理具には耐火性に優れた土師器が用いられます。炊飯具としては、米を蒸す甑(こしき)があります。
小さな焼成坑を地面に掘って焼成するので、密閉性はなく酸素の供給が充分な酸化炎で焼成され、そのため、焼成温度は須恵器より低温の600~750度で、橙色ないし赤褐色を呈し、須恵器にくらべ軟質です。9世紀中頃までは坏や皿などの供膳具にも生産されていました。土師器の土器形式として庄内式(摂津庄内遺跡を名祖遺跡とする)とか布留式(奈良県天理市布留遺跡から出土)とか命名され、庄内式土器の方が古い段階の土師器とされています。この庄内式土器の段階では定型化した大型の円墳は未だ出現していない、古墳出現以前の土器です。須恵器とほぼ同時期に生産されています。土師器の技法は弥生式土器の延長線上にあり、弥生式土器と区分するのは困難な場合が多いのです。ただ弥生式土器は地域色が強く、土師器は倭王権の統制を受けたため、同じような意匠・技法による土器が全国的に分布しています。東日本で6世紀にカマドが普及します。これにより煮炊き用の甕が長胴化し、平安時代には、その長胴に鍔状の突帯を廻らし、カマド専用の羽釜(はがま)が登場します。
須恵器(すえき)とは、日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器で、青灰色した硬質の焼き物です。その起源は、5世紀の朝鮮半島南部の伽耶にあり、土師器より高級な品として扱われました。朝鮮半島から製作技術が伝わった当初は、もっぱら畿内で焼かれていました。初期の国内製作の須恵器は、半島のものと区別をつけにくいほど似ていますが、用語としては日本で製作された還元炎焼成の硬質の焼物だけを須恵器といいます。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれています。
?土師器までの土器が日本列島固有の特徴を色濃く残しているのに対し、須恵器は全く異なる技術を用いて製作されました。それまでの土器が野焼きで作られていたため、焼成温度が低く、酸素が充分に供給される酸化炎焼成となったため、表面の色は赤味を帯び、肌理(きめ)も粗い、それに対し、須恵器は窖窯(あながま)を用い1,100度以上の高温で還元炎焼成します。窖窯という丘陵斜面に構築された燃焼室・焼成室・煙道部(えんどうぶ)からなる窯炉(ようろ)によって焼成されます。 閉ざされた窖窯の中では、酸素の供給が不足しますが、高熱になり燃焼が進みます。燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素と水になるところ、一酸化炭素と水素が発生します。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪う、つまりは還元することで二酸化炭素と水になるのです。特徴的な色は、粘土中の赤い酸化第ニ鉄が還元されて、酸化第一鉄に変質するために現れます。
考古学的には、須恵器の出現は古墳時代中期の4世紀後半から、後期初頭の5世紀末頃のものが圧倒的に多いのです。この時期、朝鮮半島からの渡来人が列島に、過去に例の無いほど流入してきたのです。その渡来人が韓式土器群をもたらします。韓式土器には軟質土器と陶質土器があって、後者が須恵器の祖形となり、轆轤成形で窖窯による高温の還元炎で焼成する高級土器です。
日本で最初に須恵器生産が始まった窯跡として、大阪府堺市南部、和泉市、岸和田市にまたがる丘陵地帯に分布する陶邑(すえむら)窯跡群で、大阪府が群を抜いて多いのです。その中でも河内地域に集中しています。ついで多いのが奈良県、岡山県で、次に福岡県の小隈・山隈・八並窯跡群が知られています。 やがて大阪府堺市南部とその周辺に、「陶邑(すえむら)」という須恵器生産の一大センターが出現します。その陶邑窯跡群は、仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群の南側に分布していることから、倭王権の管理のもとで、同じ規格の製品を生産するよう技術指導がなされていたのです。そのような「品質管理」の状況を物語る遺跡として、堺市の深田遺跡や大庭寺(おおばでら)遺跡が挙げられますが、 6世紀代に列島各地に須恵器窯が造られ量産化されます。これらの須恵器窯でも、陶邑様式の須恵器が生産されていて、列島的規模での規格化の力が働いていたようです。須恵器生産においても、倭王権の陶部(すえつくりべ)が主導的役割を果たしていたと考えられます。やがて陶邑では須恵器を焼けなくなります。500年間にわたり燃料としての木を取りつくし、近くで調達できなくなったからかといわれています。
古墳時代の須恵器は、主に祭祀や副葬品に用いられていたため、初めのうち古墳からの出土に限られます。普及が進む後期になると西日本の集落からも出土し、西日本では須恵器、東日本では土師器が優勢という地域差が現れもします。基本的には、煮炊き用には、土師器の甕が多く用いられ、須恵器は、祭祀ように用いられる事が多いようです。
400年前後の第一波の渡来人が持ち込んだものは、須恵器以外にその後の列島の生活スタイルに画期となるものが多いのです。それまでには、列島に存在しないカマドと、カマドでの煮炊き用・特殊土器です。竪穴住居にカマドを備え、その上に長胴の甕や把手付き鍋を据えて、甕にはさらに甑(こしき)を入れて蒸し器とします。やがて倭人の生活文化として定着します。
列島には4世紀代まで、馬が生息していません。5世紀初頭、渡来人により馬と馬具がもたらされ、乗馬の風習が列島に伝播します。また鋲留(びょうどめ)した甲冑の技術、耳飾りや刀剣の柄などの金属製品に、金メッキをする金銅技術などが、新しい鍛冶技術や金工技術とともに伝来します。
奈良時代後期、9世紀以降になると、土師部と須恵器工人集団(陶部;すえつくりべ)との交流が活発になり、轆轤技術の発展により、轆轤土師器、土師質土器などと呼ばれる両者の中間様式の土器が多量に作られるようになります。日常品としての土師器や須恵器は、器形の大小深浅の変化が乏しくなり、量産的定型化が進み、製作も実用本位で粗雑になります。新たに釉薬を施した『緑釉陶器』や『灰釉陶器』が、特定の産地を中心に流通します。
『緑釉陶器』は平安時代の焼き物です。その名のとおり、緑色の釉薬をかけた陶器ですが、釉薬の原料が一風変わっています。表面を覆うガラス質は主に「鉛」で、緑色を出す成分は「銅」です。鉛や銅は、比較的低温で溶ける柔らかい金属です。一般に言われる釉薬は1200℃を超える高温が必要であるのに対し、鉛を主成分とする釉薬は800℃程度ですむので、焼き物の技術が未熟な時代のわが国に、まず導入されたのが鉛釉だったのです。 導入当時、奈良時代の鉛釉は、派手で、三色を色鮮やかに塗り分けた『三彩』という陶器でした。唐の『唐三彩』を真似て作り始めたもので『奈良三彩』と呼ばれますが、それは通常の生活とは無縁の、水注・蓋つき壺・枕など支配者の特注の豪華品でした。のち唐三彩に替わり『越州窯青磁』が輸入されるようになると、今度はその青磁色に惹かれ、「秘色」と賞賛したわが国では、それに似た「緑」色のみを三彩から取り出し「緑釉陶器」として独立させます。器形も青磁を真似て食膳に上るような碗や皿を作るようになり、次第にそれが主体となって大量生産へと移行します。これが平安時代の緑釉陶器です。
奈良三彩が朝廷で限定生産されたのに対して、緑釉陶器の生産地は全国に散らばり、その製品も広く流通します。とはいえ、生産開始当初の平安時代初期は一定の範囲にとどまり、生産地も限られています。一大消費地である平安京の近郊と、窯業の伝統国である尾張国(愛知県西部)、そして鉛・銅の一大生産国である長門国(山口県西部)の3ヵ所です。のちに生産地は広がり、平安京のある山城国から丹波へ、尾張から三河・美濃・近江へ、長門から周防へと、国を越えて拡大し、それぞれ個性的な緑釉陶器を焼くのです。ただ長門・周防の緑釉陶器生産だけは、他国とは異質で、他の産地では、青磁に似せることや、器の頑丈さ、大量生産などを目指して、釉薬をかける前の土器を窯でしっかりと焼き締める方向に発展します。
長門・周防では、一貫して素焼きの柔らかい素地で通し、生産量・流通量も他産地の製品に比べて極端に少なかったことが、近年の発掘調査によってわかっています。特に周防国の緑釉陶器は流通した痕跡が乏しいのです。これといった焼き物の伝統のない長門国で緑釉陶器が焼かれ始めた原因は、釉薬原料の豊富さ以外に考えられません。国家事業である銅銭の鋳造および銅・鉛の採掘が、当時いずれも長門国内で行われ、長門は全国の銅・鉛が集まる状況にありました。銅銭の鋳造所が長門から周防に移転したために、周防でも緑釉陶器を作るようになったのに違いないのです。銅・鉛に精通した技術者が、周防の国の緑釉陶器には深く係わり、長門・周防の緑釉陶器が、青磁を意図したとは思えないほど、華奢でやわらかい印象を受けるのは、銅・鉛の柔らかさをよく知っていたからです。陶土よりもロクロよりも窯よりも、まず釉薬あり、焼き物としての価値や生産効率を度外視した、独創的な焼き物が、長門・周防の緑釉陶器といえるかもしれません。
茅野市では、「緑釉陶器」は「山寺遺跡」と「判ノ木山西遺跡」の住居址で、破片が検出されたにすぎません。諏訪地区では、「緑釉陶器」は祭祀や葬送儀礼用として、極めて貴重な土器だったのです。塩尻市平出遺跡の水瓶は有名です。
平安時代に入っても、依然として土師器が使われ続ける一方で、須恵器は壺(つぼ)や甕(かめ)・鉢(はち)などの容器類が中心となります。その一方で、多色の釉薬をほどこした奈良三彩が姿を消して、再び緑一色の緑釉陶器となりました。また新たに、高い温度で焼かれた、緑白色の釉をかけた灰釉陶器(かいゆうとうき)も、この平安時代からから作られるようになります。緑釉陶器や灰釉陶器は、ともに都などで使われることが多かったのですが、次第に地方でも使われるようになり、特に灰釉陶器は東日本にかなり広く流布しました。その後、鎌倉・室町時代には、瀬戸・常滑・越前・信楽・丹波・備前など、現代でも有名な焼き物の産地で、生産がおこなわれるようになります。ただし、瀬戸などで灰釉や鉄釉(黒褐色の釉)をほどこす焼き物は作られるものの、一般には釉がかけられない焼き物が主流となります。以前、盛んに生産されていた鉛を原料とする緑釉陶器は、この時代には生産されなくなります。その一方で、土師器は皿類を中心に、須恵器も擂鉢(すりばち)などが使われ続けることになります。
須恵器はこれまでの土器とは異なり、先述するようにロクロによって仕上げられた硬質土器で、「窖窯」という丘陵斜面に構築されたる窯炉(ようろ)によって焼成されます。 東海地方では、本市の南方に位置する猿投窯(さなげよう)において5世紀の中頃に生産が確立されます。猿投窯では、7世紀末頃になると、この須恵器に恒常的に自然釉(しぜんゆう)が掛かりはじめ、8世紀中頃には 意図的に窯内の火前に置いて焼成された原始灰釉陶器(げんしかいゆうとうき)に発展し、そして9世紀になると、日本で初めて植物の灰を 釉薬(ゆうやく)とした灰釉陶器の生産に成功します。 『日本後紀(にほんこうき)』の弘仁 6年(815)の条にみられるいわゆる「弘仁瓷器(こうにんしき)」は、緑釉陶器(りょくゆうとうき)のことを指していますが、緑釉陶器の生産技術を応用することにより、 灰釉陶器の生産が確立したと考えられています。灰釉陶器の窖窯は、燃焼室と焼成室の境に分炎柱(ぶんえんちゅう)が設けられた幅の狭い寸胴形(ずんどうがた)をしており、瀬戸市域には約10基存在しますが、古代猿投窯(こだいさなげよう)の拡散によって瀬戸窯(せとよう)ばかりでなく東海地方各地に拡がっています。分焔柱とは燃焼室の直後に、炎を左右に分けるための土でできた大きな柱です。 壁に沿って炎を通し、焼むらを少なくするための工夫です。長年の経験から工夫され、炎が安定することにより、微妙な焼成が、より成功率が高くなったのです。 この12世紀初期 平安末期から鎌倉時代にかけての分炎柱の技術が、日本の独創であり猿投で開発された技術だったのです。 当時の灰釉陶器には、大小の椀を始め深椀(ふかわん)・輪花椀(りんかわん)・段皿(だんざら)・耳皿(みみざら)・折縁皿(おりふちざら)・広口瓶(ひろくちへい)・短頸壺(たんけいこ)など様々な器種がみられ、灰釉陶器ばかりでなく緑釉陶器の素地(きじ)となる椀・皿類の焼成を行ったことが知られています。
なお、11世紀中頃になると、灰釉陶器は器種のバラエティーは乏しくなり大小の碗や片口鉢(かたくちばち)を主体とする生産に移行しますが、11世紀の終わり頃になると、東海地方の灰釉陶器(かいゆうとうき)の生産者はほぼ一斉に施釉技法(せゆうぎほう)を放棄し、無釉(むゆう)の碗・皿・鉢類を主体とするいわゆる山茶碗(やまぢゃわん)生産に転換します。瀬戸窯(せとよう)においてもそれは例外ではなく、専らこの山茶碗を生産した窖窯が市域全域に、200基ほど存在し、室町時代にかけて生産を行っています。
茅野市における灰釉陶器は、10世紀後半から11世紀初めにかけて、藤原道隆・道兼・道長の三兄弟が先後して政権を掌握する藤原一族全盛時代
、土師器などとともに日常生活用具として、広く用いられています。ほぼ同時期の灰釉陶器の所有率は、高部では8%、阿弥陀堂で45%、判ノ木山東18%、判ノ木山西51%、金沢北44%、頭殿沢42%とかなり浸透しています。興味深いのは、判ノ木山西遺跡では第15号住居址ではただの1個しか出土しませんでしたが、第13号住居址では大量54個が発掘されています。灰釉陶器の非庶民性が垣間見られます。高部遺跡の第8号住居址からは、土師器や須恵器と共に、中国渡来の白磁皿が出土しています。中国宋からの渡来品です。
古墳時代とは、一般に3世紀中葉すぎから7世紀末葉までの約400年間を指しますが、中でも3世紀中葉過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の世紀ともいわれます。前方後円墳が造られなくなった7世紀には、方墳・円墳・八角墳などが造り続けられ終末期と呼ばれています。
3世紀の後半から奈良盆地に、前代より格段に規模が拡大した王墓と見られる前方後円墳が出現し、4世紀の初めには河内平野に巨大古墳が築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳も出現します。つづく5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになります。
それが、6世紀末から7世紀初頭にかけて、日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなります。これは、倭王権が確立し、地方の統治組織ができあがり、継体天皇の時代より始まる国造や伴造の任命、屯倉の設置、部民体制の拡充などにより、旧来の首長層の権力が衰えて、多数の農民を恣意的に動員し、大規模な墳墓の建造を成し遂げる事が不可能になったからです。そのうえかつては、首長の支配下にあった有力農民層が自立化し、家族墓化した古墳の造営主体となります。こうして古墳は、首長墓よりも家族墓へと意識変革が生じ、古墳を造営する主体が増加し群集墳を爆発的に増加させるのです。 この後しばらくの間、方墳や円墳が造り続けられ、大王の墓も特別に八角墳(はっかくふん)として築造されます。八角墳は古墳時代の終末期の7世紀中葉以降に造られた正八角形の古墳です。奈良県高市郡明日香村の天智天皇陵・御廟野古墳(ごびょうのこふん)、天武・持統合葬陵・野口王墓古墳などが知られています。八角墳は、舒明天皇の墓から始まりますが、日本の大王墓の固有の型式で、その陵墓と考えられます。
それは大王墓として、大規模な敷地を要する前方後円墳の建造が、畿内では用地不足の事態に至り限界に達します。薄葬令、大化2年(646)に出された詔は、長文であり、内容から4部に分けられるが、その第一に述べられているのが、この「薄葬の詔」です。初めの部分は制定の意義を述べ、中国の文献を適当に混ぜ合わせて作文しています。後半は、葬制の内容を具体的に記し、従来の墓の規模を極度に縮小し、簡素化することが要点です。そこで一般にこの葬制を「薄葬制」と呼びます。中大兄王子は『大化の改新』後の翌年、天皇家以外の豪族が巨大な古墳を造営することを戒め、葬礼や造墓について身分ごとに規定した法令を発令します。これが『薄葬令』で、天智天皇の娘の持統天皇が、歴代天皇最初の火葬例となりました。
3世紀中葉から4世紀初め頃を古墳時代前期、4世紀末から5世紀を古墳時代中期、6世紀初めから7世紀の半ばごろまでを古墳時代後期としています。しかし、実際の古墳の築造は、畿内・西日本では7世紀前半ごろ、関東では8世紀の初め頃、東北地方では8世紀の末頃でほぼ終わります。
古墳時代前期の3世紀の後半には、西日本各地に特殊な壺形土器、器台形土器を伴った墳丘墓(首長墓)が現れます。その後、前方後円墳のさきがけと位置付けられる円墳、出雲文化圏特有の四隅突出型墳から変化した大型方墳が代表的であり、最古のものは島根県安来市の大成古墳と位置付けられ、前期には珍しい素環頭大刀が出土しています。 以後、富山をはじめ石川、福井と北陸においても、9群15基の四隅突出型墳丘墓が出現します。福島県耶麻郡塩川町の舘ノ内遺跡の周溝墓も、4隅が綺麗に伸びた四隅突出形墳丘墓です。北陸のものと同様、貼り石は検出されていません。出雲から北陸を北上した四隅突出型墳丘墓の築造は、北陸で貼り石を持たない墳丘墓として登場し、更に北上してこの会津においてもその影響のもとに築造されたのです。それから少し経ち、奈良盆地に大王陵クラスの大型前方後円墳の建設が集中します。
埋葬施設は竪穴式石室で、副葬品は呪術的な鏡・玉・剣・石製品のほか鉄製農耕具が見られ、この頃、円筒埴輪が盛行し、土師器が畿内でつくられ、各地に普及し、その後、器財埴輪・家形埴輪が出現します。 古墳時代中期の5世紀は「巨大古墳の世紀」と呼ばれますが、前方後円墳がもっとも巨大化する時代です。畿内では、4世紀末ころ、王墓クラスの大型前方後円墳が奈良盆地から河内平野に移り、さらに巨大化し、人物埴輪が現れます。大阪府羽曳野市 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(伝応神天皇陵、420m)、畿内の盟主墓 大阪府堺市 大仙(だいせん)古墳(伝仁徳天皇陵、486m)など最大規模の古墳が出現します。地方でも、岡山市 造山(つくりやま)古墳(360m)、 岡山県総社市 作山(つくりやま)古墳(286m)、群馬の太田天神山(おおたてんじんやま)古墳(210m)などが造られます。これは畿内のほか岡山、群馬の一部の地域の現象で、それ以外の地域はむしろ中期の方が、規模が縮小するのです。それと同時に、前期に大型古墳が築造されていた地域で、突然築造が止まり、別の新興地とでもいえる地域に古墳が造られます。
?信州でも善光寺平南部に、4~5世紀代の前方後円墳が多く築造されています。これらの古墳の副葬品は、舶載鏡を含む27枚余の鏡が集中して出土して、呪術的性格に富む器物も多く、このことから大和政権支配下の有力豪族の所在地がここにあったと推定されています。時期は崇神朝の頃で、「阿蘇家略系図」の古代科野国造の記録にも符合し、4~5世紀代の科野の首長は科野直氏で、その本拠は善光寺南部であったのです。それが、5世紀中葉以降、飯田地方に、前方後円墳が22基以上築造されます。青銅鏡だけでも59枚出土していて、 善光寺平南部の27枚をはるかに超えています。この前方後円墳の中心地の移動は、倭王権に服属する信濃の有力地方豪族の本拠地が飯田盆地へ移った事と軌を一にします。即ち、科野氏一族・金刺氏の台頭です。
5世紀の倭王権は、倭王家を中心に葛城・和珥(わに)・平群(へぐり)・的(いくは)・蘇我・大伴・物部など畿内諸氏や、筑紫・出雲・吉備・紀・上毛野(かみつけの)氏などの有力地方豪族が同盟を結ぶ連合政権です。政治組織も整ってはいないので、地方を統治する制度もありませんでした。地方官としての国造や、その国造領内に設置された倭王権の統治拠点としての屯倉が制度化されたのは、継体・欽明朝の6世紀前半です。それまでは倭王権に服属する有力地方豪族の一族の有力者が、従者を伴い王宮に出仕し、倭王に直接仕えるのです。その見返りは、須恵器の焼成技術や新しい鍛冶技術と金工技術など先進技術の伝承であり、首長の権威を高める舶載中国鏡や碧玉製腕飾(わんしょく)・装飾太刀・冠などの威信財及び先進文物と鉄素材の入手でした。また地方に戻れば、倭王との直属を誇示し、その地位を高める事ができたのです。また5世紀代では、大伴・物部などの中央諸氏のみならず、筑紫・上毛野・吉備・紀などの地方豪族までも、軍事指揮官として国内はもとより朝鮮半島までにも、軍兵を率いて遠征しています。「書紀」には、上毛野氏の先祖が朝鮮半島に将軍として、しばしば遣わされる記述も見られます。応神紀には百済に派遣され、書(ふみ)氏の始祖・王仁(わに)を伴って帰還します。仁徳紀には新羅軍を戦い、4つの邑(むら)の人々を捕虜にして戻ってきます。その過程で先進技術者としての渡来人を、本拠地の上毛野地方に住まわせて、その技術の伝承をさせています。当然、倭王の承認を受けてのことでしょう。群馬県箕郷(みさと)町の下芝谷(しもしばや)ツ古墳が、この地域に居住した渡来人集団の首長墓なのです。古墳の副葬品は、杏葉(ぎょうよう)やf字鏡板付轡など馬具類、甲冑(かちゅう)類、金製装身具とともに金銅製の飾履などです。
5世紀初頭、朝鮮半島から鋲留(びょうど)め技法による甲冑が伝来します。同時に鉄族が古墳時代で最大に重みを増し、その威力をまします。5世紀半ばになり、畿内の大型古墳の竪穴式石室が狭長なものから幅広なものになり、副葬品に、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなります。この時期に、被葬者である首長の性格が、司祭者から武人へとより強まるのです。またこの頃大阪南部で、須恵器の生産が始まり、曲刃鎌やU字形鋤先・鍬先が現れ、 5世紀の終わりには、畿内の一部に先進的な群集墳が出現します。大型古墳に家型石棺が取り入れられるようになります。
古墳時代後期 6世紀の前半には、南東九州地方や北部九州の古墳に横穴式石室が盛んに造られるようになります。関東地方にも横穴石室を持つ古墳が現れ、北部九州では石人・石馬が急速に衰退します。 古墳時代後期の大王陵 は、今城塚古墳(大阪府高槻市、継体陵、墳丘長190m)、 河内大塚山古墳(雄略天皇陵、大阪市松原市、墳丘長335m)、 前方後円墳最終段階の大王陵 見瀬丸山古墳(みせまるやまこふん、欽明陵と推定される、全長318m、奈良県橿原市)、 敏達陵古墳(びだつりょうこふん、全長100m未満、大王陵最後の前方後円墳)などです。 6世紀後半になり、北部九州で豪華絢爛な装飾壁画と精巧な内部施設を有する装飾古墳が登場し、埴輪が畿内で衰退し、関東で盛行するようになります。西日本で群集墳が盛んに造られます。
古墳時代終末期 全国的に6世紀の末までに前方後円墳が造られなくなり、畿内でも、方墳や円墳がしばらくの間築造されていた時期を古墳時代の終末期と呼んでいます。 終末期古墳の代表的なものに、 春日向山古墳(大阪府南河内郡太子町磯長谷古墳群、用明天皇陵、63×60mの方墳) 、山田高塚古墳(大阪府南河内郡太子町磯長谷古墳群、推古天皇陵、63×56mの方墳) 、石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村島庄、蘇我馬子の墓と推定、一辺約50mの方墳、全長19.1mの横穴式石室)、 牧野古墳(奈良県北葛城郡広陵町、敏達天皇の第一皇子で、舒明天皇の父・押坂彦人大兄【おしさかのひこひとのおおえのみこ】の墓である可能性が高い、径43mの円墳)、 ムネサカ1号墳(奈良県桜井市、中臣氏一族、径45mの円墳)、 峯塚古墳(奈良県天理市、物部氏一族、径35mの円墳)、 高松塚古墳、 キトラ古墳 などです。
弥生時代末期に、北部九州を中心とする政治勢力と奈良盆地東南部を中心とする政治勢力が存在していたことが、その遺跡から判っています。このいずれかが母体となって3世紀半ばまでに倭王権が成立したと考えられていますが、現在までの考古学の成果は、奈良盆地勢力が吉備政権・出雲政権・紀州政権・群馬の上毛野政権などと連合して倭王権へ成長したことを強く示唆しています。北部九州の勢力が奈良盆地勢力を制圧し、奈良盆地へ東遷したとする見解もあり、いまだに魅力のある学説も展開されていますが、次第に支持を失ってきています。
3世紀の初め、奈良盆地の東南、奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯、三輪山と巻向(まきむく)山に挟まれた扇状地に、纏向(まきむく)遺跡が忽然と現れます。それは革命的ともいえる、従来の巨大弥生集落とは、その規模と性質において異質な都市の誕生です。遺跡の規模は巨大で、大規模な運河の造成が行われ、両岸をヒノキの矢板で護岸した運河跡は、幅5m、深さ1m、その距離200m以上にわたる巨大水路が発見され、総延長2.6kmに及ぶことが分かりました。纏向遺跡からは、実際に運航した物資運搬船をかたどったミニチュアの木製引き舟が、多数出土しています。また溶鉱炉と送風装置である鞴を結ぶ送風管、その口径の大きな鞴羽口(ふいごはぐち)や鉄滓(てつし)、その他鋳造関連製品が出土し、当時既に、高温鍛冶炉を使い高度な金属器生産が行われていた事が分かりました。また大量に出土した土器の15%が、ヤマト以外の地方で製作された搬入土器でした。 それは南九州から南関東にまで及ぶ広がりがあります。搬入元の出身地を調べてみると、約半数の49%が東海系の土器で、北陸系と山陰系が17%、河内系が10%、吉備系7%、関東系5%、近江系5%、西部瀬戸内系3%、播磨系3%、紀伊系1%となります。さらに平成8年の調査では、韓式系土器も出土しており、朝鮮半島の土器も纒向へ運ばれていたのです。その搬入土器の有様によって、当時の王権の広がりとその緊密度が知られます。
その遺跡の規模が東西約2km・南北約1.5kmとずば抜けて大きく、全国的にみても当時の農耕集落でこれだけの面積を有する所は、纒向をおいて他にありません。後世の平城宮に勝るとも劣りません。土器と共に各地域から纒向へ人々が集まり、交流と交易が盛んに行われていました。 纒向遺跡から出土例として鍬が少なく、当時土木工事を行う際に最も使用頻度が高かったとされる鋤の出土が圧倒的に多く、古墳の築造や矢板で護岸された水路の建設など、大規模な土木工事が頻繁に行われ、大規模な都市建設がいっきになされたとおもわれます。 辻地区から周りを柵で囲んで正しく西面する妻入りの掘立柱建物と、これに企画性をもって附随する建物が発見され、巻野内地区からは、谷川の水を引込み浄化した水を祭場にもたらしたとされる導水施設も発見されています。纒向には、祭祀色・政治色を備えた施設が多くあったのです。一方、唐古・鍵遺跡など弥生時代を代表する環濠集落が突如消滅し、多数の小規模の散村へと広がります。集住が進む3世紀前葉から、日本最古の全長100m前後の前方後円墳が築造され始めます。3世紀後葉、全長280mの前方後円墳・箸墓(はしはか)古墳が築造されます。纏向遺跡の全盛期時代にあたります。遺跡北側には黒塚古墳・行燈山(あんどんやま)古墳(崇神天皇陵)・渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳(景行天皇陵)などがあり、遺跡内には箸墓古墳をはじめ、纒向石塚古墳・勝山古墳・矢塚古墳・東田(ひがいだ)大塚古墳・ホケノ山古墳が存在し、これら一帯は大和(おおやまと)古墳群の範疇に含まれています。一方東側には、三輪山・巻向山・瀧王山が聳え、これらの山々から珠城山(たまきやま)古墳群を通り、西側の纒向遺跡に向かって緩やかな傾斜地が広っています。
飛鳥に都がおかれていた時代の推古16年(608)、遣隋使(けんずいし)小野妹子(おののいもこ)を送って大和朝廷にやって来た隋使・裴世清(はいせいせい)ら一行は、難波津から舟で大和川をさかのぼり、初瀬(はせ)川から三輪山麓の海柘榴市(つばいち)に上陸し、飛鳥の宮へ至ったと、日本書紀に記されています。海柘榴市は纒向遺跡の直ぐ南で、椿市観音のある金屋付近です。古墳時代前期の河内には、大和川・淀川の河口付近に潟湖(せきこ)である河内湖があり、それで難波津から外洋船から川舟に乗り換え、大和川から初瀬川と遡り、当時の港市だった海柘榴市で上陸したのです。また、万葉集に残る、藤原京から初瀬川、佐保川を経由して平城京造営を行うようすを詠んだ歌の中には、「・・・隠国泊瀬(こもりくはくせ)の川に船浮けて、わが行く川の川隈(かわくま)の八十隈(やそくま)おちず・・・」とあります。「川隈の八十隈」とは、川に数多くの曲がり角がある意味ですから、奈良盆地の川が、複雑に曲がりくねっていたことが分かります。同じく、万葉集には、「・・・四の船 船の舳(じく)並べ・・・」との表現もあり、この頃、川の水量が非常に豊富であったのです。
ヤマトの初期の都宮が纒向周辺に集中しています。10代崇神天皇の磯城瑞籬(しきみずがき)宮、11代垂仁天皇「纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)」や12代景行天皇「纒向日代宮(まきむくひしろのみや)」などが存在しています。さらに雄略の長谷(泊瀬)朝倉宮、欽明の師木(磯城)島大宮(金刺宮)などもあります。
倭王権の最初の都宮が営まれた場所なのです。
?科野国で最初の古墳、松本市南部の中山丘陵北端の弘法山古墳は、3世紀末か4世紀初頭に築造された全長66mの前方後方墳で、古墳としては全国的にも古く、主体部の竪穴式礫槨(れきかく)石室内から副葬品として、鏡・鉄剣・銅鏃・ガラス小玉があり、その石室上部から古い土師器が出土しています。弘法山古墳は前方下に水田が広がる丘陵先端に築造され、所謂「国見ケ丘」的立地です。
? 前方後円墳と呼ばれる巨大な墓を各地の有力な豪族が造るようになった背景は、畿内の大きな勢力が強力な軍事力をもって東日本を支配下に治めたからです。古墳は畿内勢力圏、すなわち大和朝廷に服した印か、あるいは派遣されてきた将軍の残したものということです。 諏訪地方では唯一、6世紀後半の青塚古墳が、諏訪郡下諏訪町青塚にある横穴式石室をもつ前方後円墳で、長さ57m、前方部高さ8m、径40m、後円部高さ8.1m、径34mが前方後円墳の姿を明確に残します。岡谷のスクモ塚古墳(東堀)も平地に築かれた前方後円墳である可能性があるといわれています。
倭王権の成立期に、従前のものをより凌駕した大規模な前方後円墳が奈良盆地を中心に登場しています。弥生末期には、畿内・吉備・出雲・筑紫などの地域ごとに、特色ある墓制が展開していましたが、前方後円墳には、それら各地域の特色が融合された様子が見られ、倭王権は各地域の政治勢力が連合したことによって成立したと思えるのです。 倭王権は、大和地方を本拠として、卑弥呼の時代から本州中部から九州北部までを支配したと考えられます。
中国の『晋書』に、「266年倭の女王壱岐が西晋に使者を派遣」の記述以降、倭国の関係記事が中国史書から見出し得なくなります。その約1世紀半もたった、5世紀の初めの413年(東晋・義熙9)に倭国が貢ぎ物を献じたことが、『晋書』安帝紀に記されます。421年(宋・永初2年)に『宋書』倭国伝に「倭王の讃」の記事が見えます。これ以後、倭王に関する記事が中国史書に散見されるようになり、讃以下、珍・済・興・武と続きます。これが「倭の五王」です。倭の五王は、日本書紀に見える天皇に比定されており、必ずしも個々の比定は定まっていませんが、倭王武は雄略天皇であることは確実でしょう。武が中国皇帝に上表した文書には、先祖代々から苦労して倭の国土を統一した事績が記されています。埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した鉄剣銘や熊本県玉名市江田船山古墳から出土した大刀銘から雄略天皇の治世の一端が知られます。「杖刀人(じょうとうじん;典曹人【てんそうじん】と同義)」とあることから、まだ「部(べ)」の制度が5世紀末には成立していなかったことも分かります。「杖刀人」とは「刀を杖つく人」です。いつも刀を身に帯びて、大王に直接仕え、その身辺警護に当っていました。後世、6世紀の金刺氏のように、欽明天皇の金刺宮に仕え、金刺舎人となり金刺直の姓を給うのです。同族の他田氏は、敏達天皇の御名代である他田(おさだ)舎人部の伴造家となって他田直姓を賜ります。島根県松江市岡田山古墳から出土の鉄刀銘「額田部臣(ぬかたべのおみ)」からは、6世紀の中頃には部民制の施行されていたことも知られます。また、大臣・大連の制度ができ、葛城氏、平群(へぐり)氏、巨勢氏、蘇我氏などの有力氏族出身者が大臣となります。大連には大伴氏・物部氏が選ばれていました。氏と姓の制度がある程度成立していたようです。
安康天皇3年(456年)8月、安康天皇が眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されます。安康は弟の大泊瀬(おおはつせ)皇子、後の雄略天皇の縁談話のこじれから、大草香(おおくさか)皇子を殺害し、その妻の中蒂(なかし)姫を自分の妻にします。中蒂姫の連れ子の眉輪王は、後にそれを知り、安康の寝首をかいて殺害します。これを知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦(やつりしろひこ)皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦(さかいのくろひこ)皇子 ・眉輪王をも殺そうとします。この2人は相談して当時最大の実力者の葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込みます。大泊瀬皇子はその引渡しを要請しますが、円大臣はそれを拒みます。皇子は円大臣の居館を軍兵で包囲します。大臣は娘の韓姫(からひめ)と宅7区(やけななところ)の献上を条件に助命嘆願をしますが、大泊瀬皇子は居館に火を放ち、3人共に焼き殺してします。5世紀に倭王家と姻戚関係を結び、外戚として勢威を振るった葛城氏は、ここに滅びます。さらに、葛城氏の血を引く市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ、仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)を狩に誘い謀殺し、その弟の御馬皇子(みまのみこ)は、待ち伏せし、三輪の磐井のほとりで戦い、捕らえて処刑します。政敵を一掃して11月に大王の座に就きます。
即位後、平群真鳥(へぐりのまとり)を大臣に、大伴室屋(おおとものむろや)・物部目(もののべのめ)を大連(おおむらじ)に任じて、軍事力で専制王権を確立した雄略天皇の次の狙いは、連合的に結び付いていた地方国家を大和政権に臣従させることでした。特に最大の地方政権・吉備氏に対して反乱鎮圧の名目で弱体化させます。具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや )が、天皇を呪詛していたとして、物部氏の率いる兵により滅ぼされます。
吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の妻・稚姫(わかひめ)を雄略が奪ったうえ、「任那国司」に任じ中央から遠ざけます。それを恨み「任那」と百済で「反乱」を企てますが失敗します。さらに討伐して吉備政権の弱体化を進めます。雄略天皇の崩後479年、稚媛は自分が産んだ星川(ほしかわ)皇子を王位につかせようとして挙兵しますが、大伴室屋と東漢掬(やまとのあやのつか)が鎮圧して、大和政権の優位を決定的にします。『日本書紀』によれば、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ・469年)や伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ・474年)をも討伐しています。
対外関係では、雄略天皇8年(464)2月に倭軍が高句麗を破り、9年5月には新羅に攻め込みます。新羅を撃破し続けたが、将軍の紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が戦死し、指揮系統が乱れ退却します。『三国史記』新羅本紀によれば、倭人が462年5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年2月にも侵入してきますが、新羅がこれを打ち破ったと述べています。
20年(476)に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年(477)、大王は百済に任那を与えて復興したとされていますが、『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年9月に高句麗に百済は都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都しています。この他、南朝の宋から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して、養蚕業を奨励したとされています。479年4月、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子・未多王(まつたおう)に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させます。同行し兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍をもちいて、高句麗を討ったとされています。
22年(478)白髪皇子を皇太子とし、翌23年(479)8月、大王は病気のため崩御します。 5世紀末の倭王武、即ち雄略天皇のときに、南朝の宋と決別します。天皇は、独自の天下観をうち立て、列島の君主として初めて、自らを「治天下大王(ちてんかだいおう;あめのしたしらしめすおおきみ)」と称します。以後、倭政権は中国の柵封体制から離脱し、独自の半島外交を行います。
天皇号の成立時期は、7世紀末葉の天武・持統朝の時代です。1998年、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で「天皇」と書かれた木簡が発見されています。天武天皇の時代のものです。天武が初めて天皇号を称し、没後の持統天皇の時に法制化されたのです。
雄略天皇の「治天下大王」の「治天下」は、本居宣長の『古事記伝』以来、「天(あめ)の下(した)治(しら)しめす」訓読みしますが、「天の下治(おさ)めたまう」と読む傾向にあります。「天」とは中国では、宇宙を主宰する至上神「天帝」で、地上の運命をも支配します。日本では「天(あめ)」、即ち天上世界の高天原です。そこには様々な個性を持った神々が住み、地上世界の造物主として存在し、王権の守護神であり続けます。従って、「天下」とはヤマトに居る大王が、その王権を及ぼす全域を指します。「大王」は「おおきみ」と読み、王のなかの大なる存在で、倭政権内の首長層の中の最大実力者をいいます。理念的には、倭連合政権を支える有力首長と同列で、その盟主に過ぎません。天武・持統朝の時代に確立する「現神(あきつみかみ)」、即ち「この世に現れた神」としての天皇観はありません。ただ、「大王」が天つ神の子孫の天孫に当たるといった観念はあったでしょう。しかし天照大神の直系の子孫であるから、自らも神として地上を支配する皇統思想を宣するまでには至っていませんでした。
1968年、埼玉県行田市の稲荷山古墳から鉄剣が出土しました。1978年、その錆だらけの鉄剣のX線写真が撮られ、隠れていた115文字の金象嵌の銘文が判読できたのです。それにより、雄略天皇の5世紀後半の時代、有力地方豪族はその一族の子弟を王宮に出仕させ、「杖刀人(じょうとうじん)」として直接大王に近侍させていた事が分かりました。杖刀人とは「刀を杖つく人」で、刀を常に帯びて、大王の親衛隊として仕える武官です。一族を代表して、その家臣と周辺の中小豪族の子弟とを合わせて杖刀人の部隊を編成して、ヤマトに赴き大王直属の部隊を構成していたのです。
雄略天皇の母で允恭天皇の皇后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は、忍坂(おしさか)宮に居住していました。現代の奈良県桜井市にありました。その宮は、姫の出自である息長(おきなが)氏出身の后妃やその御子により使われ続けられます。この宮の経営のため各地に、刑部(おさかべ;押坂部)と呼ばれる名代・子代が設営されます。刑部の伝領は、継体天皇や敏達天皇の皇子時代の日常生活を支え、敏達の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫、舒明天皇の父にも当たる 押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)から舒明へ、その孫の中大兄皇子(後の天智天皇)らへと引き継がれて、大化の改新後に国家に返納されます。
4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえます。現在の中国吉林省集安(しゅうあん)、鴨緑江の北岸・高句麗の旧都、国内城(こくないじょう) の地に、高さ6mの偉容を誇っています。全部で1800字ほどもあり、その碑文の「辛卯(しんぼう)年条」の一節で、倭の活躍を記述しています。王碑の「辛卯年条」の解釈について、辛卯の年(391)よりこのかた、倭が海を渡って攻めてきて、 あっという間に百残(高句麗にとっての百済の蔑称)・新羅などを破り、 倭の臣民、すなわち属国にしてしまった、それは日本人の民族意識を大いに高揚させる内容です。それは、辛卯年条が、 広開土王の戦績を誇張する「前置き文」の位置を占めているからです。 則ち碑文は、もともと百残・新羅は高句麗の「属民」で、高句麗に朝貢してきていたのに、倭が辛卯年以来、しばしば海を渡ってきて、百済を破り、新羅を□□して、両国を倭の「臣民」としてしまった。 そこで、広開土王は、396年に自ら水軍を率いて、倭の「臣民」となった百済を討伐した・・・ と続きます。 このあと、さらに、「残主(百済王)」が王に跪き、「奴客」となる事を誓った、と言う記述があります。そのため倭が百残・新羅を臣民にした、という内容でなければならない事が解ります。一時的にではあるが、倭が百済・新羅両国を「臣民」とし、高句麗への朝貢を妨げた事を出兵理由にしたかったのです。碑文は広開土王の武勲を強調することに主眼があり、そのために一定の誇張が含まれています。 例えば、百済・新羅両国は、もともと高句麗の「属民」で、以前から「朝貢」してきていた、 とあるが、これを文字通りの事実と見る事は出来ません。 したがっての「百残を破った」ということや、 百残・新羅両国を「臣民」としたという表現なども、文字通りに受け取る事はできません。 しかし、だからと言って、内容は根も葉もない虚構と見る事も、勿論できません。 碑文の中で、倭は時として百残・新羅を勢力下に置き、 両国の背後にあって、終始、高句麗と対立する強大な勢力として描かれています。 これらは、広開土王の功績を際だたせる意図からですが、一定の事実に基づいた記述である事も否めません。 その証拠に、百済が倭と和通したとする399年の記事は、 他に裏付けがあり、具体的には百済が倭に質を送った事もあります。 碑文の核となる事実は、やはり存在していたのです。4世紀の後半に高句麗の南下政策は本格化し、新興国の百済・新羅・伽耶諸国、さらに倭政権に重大な侵害となって、半島の最初の動乱期となります。国家存亡の危機に、百済や伽耶諸国は、倭国に救援を求めます。倭国にしても、半島からの先進文物や必需物資の調達ルートの確保は、王権の維持のため不可欠で、積極的に半島南部に派兵します。広開土王碑によれば、倭軍は洛東江(ナクトンガン)の右岸に所在した金官国を足がかりにして、東は新羅領内に進軍し、西は現在のソウル付近・旧帯方郡辺りで高句麗軍と戦火を交えます。
半島戦乱に倭軍を派兵しますが、その見返りは過去に例のない、はるかに多くの技術者や知識人が、先進文物を伴って派遣されてきたのです。それ以外にも戦乱を忌避し、主体的意志で帰化した人も大勢いました。倭漢氏(やまとのあやうじ)や秦氏などの集団が、雄略朝以前に渡来して、倭王権の下に組織化され、その独特の版築土木技術と灌漑技術により、沼沢の地・河内を湾岸都市へと変えていったのです。八尾市の久宝寺(きゅうほうじ)北遺跡や亀井遺跡では、大規模な堰や護岸施設の遺構が発掘されています。
応神天皇は実在した初期の大王です。その在位は4世紀後半から5世紀初頭と考えられ、高句麗の英雄・広開土王の年代です。記紀は共に、応神朝に最初の集中的な渡来人の来朝があったと記しています。倭漢氏や秦氏の祖が、集団を率いて帰化したのです。その後王仁(わに)が渡来して、太子に典籍を教授したとも記述しています。4世紀末葉、大王墓がもっとも大型化します。倭国はこの時代、飛躍的に躍進したのです。半島の先進知識人や技術者などが、鉄素材や先進的必需品・馬それに伴う馬具などを伝承し、その一切を掌握する倭政権の列島文化に画期を与えたのです。
5世紀になると半島伝来の農具が普及し、これ以降、列島の農具の基本形が定まったといわれています。現在と同形の稲刈りガマや鍬・鋤の刃先に取り付ける「U」字形鉄器などの鉄製農具などの普及により単位収穫量は向上し、土木灌漑技術の伝承により土地の開墾が進み、集落数も増大します。この頃です。須恵器が普及し、竪穴住居内の壁面にカマドが据えられます。
高句麗の長寿王は427年に首都を国内城から平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定させると、百済に対する圧力を加えます。丸都(吉林省集安)から平壌に遷都したことは、父の広開土王が決した南下政策の、さらなる強化ともいえます。高句麗は、平壌に都を遷すと、新羅や百済、さらに百済を援軍する日本軍と戦って朝鮮半島の大半と遼河以東までに勢力を拡大し、高句麗の最大版図を達成します。高句麗の長寿王は、475年9月に、兵3万を率い百済の首都漢城(ソウル特別市)に攻め入ります。これに対して百済は、北魏に高句麗攻撃を要請しますが既に遅く、やむなく新羅と同盟を結びため、蓋鹵(がいろ)王は、子の文周を新羅に派遣して救援を求めます。10月に新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、既に首都・漢城を落とされ、蓋鹵王は城門を出て逃げる途中、殺されていました。王都漢城を失った当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(ウンジン;忠清南道公州市)に遷しますが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかったようです。
東城王(とうじょうおう)は百済の第24代の王であり、『三国史記』によれば、第22代の文周王の弟の昆支の子としています。名と系譜については異説が多いのですが、王位につくと直ちに、文周王を暗殺させた兵官佐平の解仇(ヘグ)が反乱を起こすと、真老を徳率(4等官)から兵官佐平(1等官)に昇進させ、解仇を討伐させ殺します。
王権と国力の回復に努め、外征にも成果を挙げた東城王でしたが、在位の晩年には暗君と化し、499年に大旱魃が起こって民に餓死者が続出しても、国倉を開いて民に施す事を許さず、漢山(京畿道広州市)の民2千人が高句麗領に逃亡します。それにも拘らず500年には王宮の東に高さ5丈もの楼閣を築き、その池で珍鳥を飼うなどの奢侈にふけります。さらに同年にも旱魃が発生しますが、世情をも省みず、側近とともに楼閣で一晩中の酒宴に興じます。こうした状況のなかで501年11月、衛士佐平のハク加(ハクはくさかんむりに白)の放った刺客に刺され、12月に死去します。
東城王が暗殺された後、武寧王が首都熊津で即位します。武寧王はしばしば漢江流域に対する高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えています。521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表し、これにより梁から「使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍」などの爵号を与えられます。国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せます。しかし6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させます。このような中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(サビ;現・忠清南道扶余郡)へ南遷します。これは百済の北方領土が、高句麗や新羅より蚕食され、南方(全羅道方面)へ拡大せざるをえなかったのです。
この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと日本書紀にみえ、磐井の乱(527年)として扱っています。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が重くのしかかって反乱となったと考えられます。前の5世紀は「巨大古墳の世紀」とよばれますが、この時期に古墳が巨大化するのは、倭王権の畿内と吉備氏の岡山・上毛野氏の群馬などの一部で、多くの地方首長の古墳は、中期のこの5世紀になると、前期より規模が縮小します。磐井の乱を契機にして、安閑(531年-535年)・宣化(535-539年)・欽明(539-571年)の各王朝を通じて、地域国家から脱して初期国家体制を形成していきます。欽明朝では、戸籍が造られ、国造・郡司の地方官を置き、前身的な国家機構が整備されます。また、この欽明朝では仏教の伝来があります。538年に百済から伝来します。『日本書紀』は、552年に伝わったと書いていますが、他の史料から編者の改変があったとみられます。仏教伝来については、蘇我氏と物部氏とが争いが生じます。
6世紀前半に、倭王権の地方支配が確立すると、畿内中央の有力豪族に対しても革新は及びます。6世紀以降の地方豪族は、一族の子弟を舎人(とねり;大王の近習)・靫負(ゆげい;武人)・膳夫(かしわで;料理人)などの伴として宮に出仕します。出仕した伴は中央の伴造の配下に置かれ、王宮で奉仕します。そして王宮の大王家の后妃や御子の生活を支えるため、5世紀代の名代・子代にあたる部が各地に設定されます。その呼称も宮号+部に改められます。忍坂宮の刑部、檜隈(ひのくま)宮(宣化;せんか)の檜隈部、金刺宮(欽明)の金刺部、他田(おさだ)宮(敏達)の他田部などです。要するに、その組織は宮に出仕する伴と、伴の在所で宮の経済基盤となる部とで構成されたのです。
欽明天皇は571年に亡くなり、治世32年間の幕を閉じますが、王権のもとには、ウジを持つ物部氏・大伴氏・蘇我氏などがいて、臣・連・国造・郡司などの職掌が確立されます。地方では、吉備氏系氏族がウジ・臣をつくるなど、各地の豪族が部などをつくり、勢力を伸張させます。
大伴氏失脚後の宣化朝の536年に蘇我稲目が大臣になり、欽明天皇の引き立てもあり蘇我氏が勢いを増し、崇峻朝(587年-592年)では蘇我馬子が大臣に再任され、政権の中枢を握ります。大臣は馬子一人ですし、大連は大伴氏と物部氏でした。大伴氏は金村の失脚により大連からはずされました。物部守屋は587年に用明天皇死後間もなく、馬子率いる守屋討滅の兵により射殺され滅びます。ここに大臣・大連体制は崩壊します。廐戸皇子は摂津国に四天王寺を建立します。大阪府大阪市天王寺区です。物部氏の領地と部曲(かきべ)は両分され、半分は馬子のものになります。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためです。また、半分は四天王寺へ寄進されました。 崇峻天皇は蘇我氏の血を引く大王ですが、592年、蘇我馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて殺害します。
稲目(いなめ)・馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)と蘇我氏が政治上重要な地位を占めた時代が645年(皇極天皇4年)の乙巳(いつし)の変までの約半世紀間続きます。古墳時代前期から中期のはじめにかけて、中国の華北では、五胡十六国の時代(316~439)であり、統一国家がありません。古墳時代中期から後期には、中国では五胡十六国時代が終わり、北魏・東魏・西魏・北斉・北周と続く北朝の時代ですが、倭政権と華北との外交や交易などについては史料上みられません。 それは倭政権と同盟関係にあった百済の敵対国・高句麗が北朝と友好関係を結んでいたことと、百済の外交策が南朝よりだったからです。南朝との関係では、倭の五王が冊封関係にあったことが知られています。
諏訪地方の4~6世紀のムラは、新井南(小坂)・海戸遺跡にわずかに知られているだけで、はっきりしません。 弥生中期から出土する方形周溝墓は、伊那谷では40例を超えます。周溝墓は、弥生中期以降の墓制ですが、諏訪地方では、弥生期に属する周溝墓の発見は未だにないのです。 諏訪市本城遺跡の方形周溝墓と円形周溝墓は古墳時代初期です。それが古墳時代中期まで続き 諏訪の西山の山上部で、古墳時代初期の周溝墓が見られ、上社に近い湯ノ上地籍には、フネ古墳や片山古墳があります。周溝墓は周囲の溝を掘り上げた土を内側に盛るだけの低い盛り土の墓で、中央の土壙に遺体を埋葬します。副葬品は一般的に殆どなく、片山古墳と一時坂古墳では、周濠の底から中腹まで葺石(ふきいし)をして、外観を装飾しています。さらに5世紀末から6世紀初頭になる一時坂古墳には、多数の副葬品がみられます。
フネ古墳は、昭和34年、農耕中発見された古墳で、守屋山山麓の丘陵上にあり、地籍は諏訪市神宮寺で標高800m、東側丘陵下に上社本宮、西の同標に片山古墳があります。諏訪湖面から 40mの比高となり、この地の字名は「舟(ふね)」です。丘からは、西は湖北一帯、東は八ヶ岳全山が眺望できます。築造時期は5世紀前半の中期古墳に属します。
フネ古墳の築造地は、諏訪湖盆や八ヶ岳を一望する「国見ケ丘(くにみがおか)」ともいえる丘陵上にあり、被葬者を単なる首長霊としてではなく、国の守護霊として祀り、それを継承する意思と、その首長一族が後世に、国の祭祀権と支配権を継承させていく意思とにより、現世における権力の誇示を顕現させたものと考えられます。
このフネ古墳と同じ型の古墳が、諏訪湖の西南山地・茅野市高部にあります。狐塚1号・2号古墳です。前宮西側の火焼山の中腹の畑で発見されました。直刀・鉾・鉄剣・土師器・須恵器・勾玉などが発掘されています。ただ狐塚1号の主体部は耕作により既に破壊されていました。
フネ古墳の丘陵上は、東西15m、南北25mと広くはないが独立した丘で、墳丘としての盛り土はありません。根菜類の耕作の最中に発見され、埋葬土も耕作土層と同じでした。墳形は丘陵先端を利用していて、地形の影響があるものの方墳と見えます。
古墳の埋葬部(槨)から東槨、西槨の2棺が発見されました。槨はほぼ中央に北から30°東に頭部を向け、東棺は幅60cm、長さ6mで、西棺は幅70cm、長さ5.5mです。これらの細長い棺は、底がU字形で、側壁は部分的に湾曲して立ち上がっていることから割竹形木棺(わりだけがたもっかん)形式と考えられています。2つの棺は両端が揃って埋葬されておらず、西棺が南方向に寄っていることから、埋葬時期の違いが想定されます。2つの棺の北側に共に、?(やりかんな)が横に置かれています。?は、木材の表面を削り仕上げをする、世界に類のない日本独特の道具です。古代、中世、近世にかけて広く使われてきました。しかし、今日では儀式道具などで目にする程度で、室町時代に現在の台鉋(だいかんな)ができ、過去の道具となりました。今でも、木地師といわれる人は轆轤で使うヤリ状の道具をカンナ
と呼んでいます。考古学では、槍のような形をした削りナイフをヤリカンナとしていい、このナイフは刃先が両側に付いて、先が尖っている点に特徴があります。
フネ古墳の特徴は、① 山上の見晴らしがよい台地に築造されている。② 葺き石の周溝を備える。③ 主体部は墳頂にあって、木管を直葬している。④ 副葬品は鉄剣・内湾する直刀・鉄鏃・勾玉・ガラス小玉など。⑤ 墓前で祭祀を行い、使用した土器類を周溝に供献する、などです。
副葬品は東槨に鉄剣・刀子(とうす;後世の小刀)・玉類が多く、西槨は?製獣文鏡(ぼうせいじゅもんきょう)・剣・直刀(ちょくとう)・工具・青銅製品等があります。地方としては豊富な副葬品です。特に当時の諏訪地方に例のない大量の鉄製品と初めての青銅製品の出土でした。両槨から青銅の鏡・鉄釧(てつくしろ;ブレスレット)・鈴そして鉄製の蛇行剣(だこうけん)が発掘されました。
蛇行剣は剣身がS字状に4曲ないし5曲している剣で、長剣で刃幅も広く、厚さもあります。鍔は鹿角(ろっかく)を用い、鞘は布・革製を用いたと考えられます。実用にはほど遠いくねくねと曲がった刃で、その様子から「蛇行剣」と呼ばれています。宮崎・鹿児島 などを中心に、これまで全国約50カ所で出土し、栃木県小山市の桑57号墳の例が北限です。5世紀から6世紀にかけて、南九州の地下式横穴墓から見つかるケースが多く、「播磨国風土記」では、土から出てきた刀を鍛えたところ、蛇のように曲がったため驚き、朝廷に献上した、とあります。既に当時からその意味が分からなくなっていたのです。
上村俊雄・鹿児島国際大教授は「地下式横穴墓に葬られたとされる隼人(はやと)の剣だ。数が非常に少ないので、リーダー格の人物の持ち物か。邪悪なものから被葬者を守る『辟邪(へきじゃく)』として副葬した」とみています。隼人は、もともと日向・大隅地方など南九州に居住していた人々です。南九州から畿内に連れて来られた隼人は、政府の建物の守衛や「隼人舞」と呼んだ歌舞を奏するなどの職務に当たったとされています。置田雅昭・天理大教授(考古学)は、「大和朝廷に軍事集団として組み込まれていた隼人が戦いの前の儀式の模擬戦で使った刀では」と推測しています。インドやインドネシアにも、士族の儀式用として蛇に似た形状の刀「クリス」が伝わっています。古来、竜は蛇と同じという見方があり、「蛇行剣の出土地は、全国でも竜蛇信仰の顕著な地域」と指摘する民俗学者もいます。台湾では蛇は先祖の象徴といい、日本では先祖の墓を守護するとして、蛇行剣を副葬したのでしょうか。
鉄斧が西槨の頭部から出土しています。『日本書紀』に征東将軍に「斧鉞(ふえつ;おのとまさかり))を授ける」とあり、鉄斧は古来武器であって、埋葬者は地方の小国家を統一した首長と考えられます。
釧は弥生時代より腕輪として、祭祀権を有る者が装着していました。西槨から鉄製と青銅製の釧、東槨からは鉄釧が、いずれも槨の中央部で発見されています。同時に発掘された小玉、銅鈴などと共に腕にはめられていたとみられています。
両槨から出土した青銅鏡は小形の変形獣文鏡(へんけいじゅもんきょう)で、他に出土例がありません。鉄製鉾・鎌・鹿角柄(ろっかくえ)刀子(柄に鹿角を用いた剣)・?などは、県内では最古のものです。
直刀は素環刀太刀(そかんとうたち)を含め7本埋葬されていました。素環刀太刀は西槨の西側から発見され、全長91cmの柄頭(つかがしら)に環状金具を取り付け、刃は内反りで切っ先が三角形で丸みのない鰤切先(かますきっさき)で、県内古墳からは他に発掘例はありません。全国的にも稀で、4世紀代に舶載された輸入品とみられます。環頭太刀とは、頭部が環状になった太刀のことです。環頭太刀は、刃のある実用の武器でもありますが、舶載品ですから首長(王)の権力と財力を示す意味もありました。そのため環の部分に金を貼ったり、象嵌(ぞうがん)が施されたりしています。装飾の何 もない太刀を素環頭太刀と呼びます。姫路市東南部の5世紀後半の宮山古墳(みややまこふん)の第2主体部の石室から発見された環頭太刀には、銀が貼られ象嵌が施された立派な 太刀でありながら、刃が施された実用可能な刀でした。環頭は刀部とは別に作られ、鍛接 されたものです。この環頭に銀を貼り、中央に飛び出したつくしの頭のような文様を持つ突起は 金で別に作られ、銀でかしめ留めされています。倭政権が成立すると、綺麗に飾った環頭太刀を地方の豪族に贈り、王権を誇示したと考えられています。フネ古墳の素環刀太刀の由来は、不明ですが、鉄剣に優れた文化を発揮した出雲が4世紀、倭政権に屈しますが、まつろうことをいさぎよしとしない民と軍を率いて諏訪に新天地を求めてきた建御名方命の姿が髣髴されます。
フネ古墳の副葬品はその種類・量共に豊富で、県内でも突出しています。その築造年代は5世紀の中期古墳に属しますが、その埋蔵品は、全国的に初期古墳に盛んに副葬された呪術性の高い蛇行剣・変形獣文鏡・鹿角柄(ろっかくえ)刀子・青銅鈴に特色があります。その上、フネ古墳など、諏訪地方の初期の周溝墓が西山にある意味は大きいのです。西山地区は南に深い山々を背負い、日照時間が短く、水温の低い湧水、急峻な山地で米作には向かず、諏訪地方でも別して住みよくはありません。実際、弥生時代の遺跡は少ないのです。一方、弥生文化の流入地で、その遺跡の質量ともに豊富な湖北岡谷には、弥生時代の豪族の出現はあったが、初期古墳時代に、その周溝墓の発見は見られません。
当時、西山には、諏訪とその背後の杖突峠と有賀峠を越えた上伊那を同時に統一した英雄の存在があり、農耕儀礼を司祭しながら、政治権力を保持していたのではないかと思われます。上伊那はのちの和銘抄の諏訪国に含まれ、毎年の上社大御立座神事(かみしゃおおみたてまししんじ)の際の神使巡幸の宗教的な勢力圏内にありました。周溝墓の被葬者になりえる首長層に、武力と呪術性に傑出した人物が現れ、政治的に広く統治し、後世の礎となる業績があり、それが神格化されて諏訪を一望するフネ古墳に埋葬されたのです。
弥生時代、稲作農耕文化の定着が進みますが、元々亜熱帯植物であり外来種である稲が、寒冷地の東北地方以北で国内最高の品質を誇れるようになったのは、昭和も戦後の稲の改良研究の成果によるものでした。今から2,000年前、よやく天竜川流域の岡谷地域からはじまり諏訪周辺に、本格的な稲作文化が定着します。しかしながら、山間部であり低地は沼沢で耕地適地に恵まれず、高冷地のため水耕稲作の生産性は上がりません。縄文時代とさして変らない生活を営んでいました。一方、水耕稲作の文化は、先進地の北九州から、内陸部の列島の気候温暖な地へ伝播し、急速に開発発展しています。
縄文時代中期以降、より顕著になる種々の宗教色を主体とした共同体の行事、その主催者は弥生時代になると農耕儀礼を統率する神と一体の司祭者として、その首長の地位を確立します。神性を確立した首長の地位は世襲され、死去すれば、その霊は統率地の守護霊となり神格化され、古墳で葬送儀礼を行います。それが初期古墳です。それが共同体内で種々の権力闘争が発生すると、その血統による継続支配の確立を絶対化するため神格化させ、さらにその権力誇示しようとして古墳の巨大化と威信財で装飾し様式化がなされていきます。フネ古墳には、その原初的な起源が推察されます。その副葬品と立地の特異性から、天竜川上流と、その水源・諏訪湖周辺の農業祭祀権を握り、広く政治的に統治した英雄の存在が想定されます。
岡谷でもっとも古い古墳は、現在わかっているものでは、湊小坂の糠塚古墳で6世紀前半期のものです。諏訪地方でもっとも古い、古墳時代中期の初めの5世紀前半の築造であるフネ古墳は、諏訪市有賀に近く、諏訪湖盆地南西部の諏訪市中洲神宮寺フネ地籍で守屋山の一支脈、宮山の台地上にあります。南方約200mには諏訪神社上社があり、全国的にも発見例が少ない蛇行剣二本が出土しています。湖北地区にはこのような古い古墳は造られませんでした。岡谷にあるたくさんの古墳は、湊小坂の糠塚古墳は特別として、そのほとんどが、日本の国家としての体制が確立した7~8世
紀初頭に造られたものです。今井・横川・中屋・中村の山の手山麓に築造された横穴石室の小円墳には、たくさんの武器の直刀、鉄鏃と馬具とで飾られた有力者が葬られています。
釜石(かまいし)古墳は、永明寺山南に突出する小丘陵の山腹、標高は860mあり、かなり急な山腹を利用した3mほどの円墳だったようです。明治年間、当時の地主・矢崎松治氏が開墾したとき、赤メロウの勾玉や出雲石の管玉が発見されたのが発端です。昭和24年諏訪史談会が再発掘します。入り口から奥にかけて大きな平石があって、それ以上発掘できませんでした。おそまつです、その後その石材を使用するため割って除去したところ、多数の遺物が出土し、石室内の構造も分かってきました。そして割って除去した大きな平石は、石室の蓋石だったのです。羨道部には焚き火跡があり、木炭が出土しています。石室は奥行き4.5m、入り口部の幅は2,8m、奥壁の幅は3mの長方形です。
昭和26年の東の沢の改修工事などにより、現在では石室の基礎石と側壁の1段だけが残っていたようです。保存されている遺物は、メロウや水晶や滑石製の勾玉・碧玉(へきぎょく)製管玉・水晶製切子玉・ブルーのガラス製丸玉などの玉類、金銅(こんどう)製金環、直刀、小刀子(しょうとうす)、刀装具、完形の轡(くつわ)、精巧な鉄製咬具(かこ)、鉄鏃、薄手で硬質焼成の須恵器、高坏(たかつき)の土師器などです。釜石古墳の成立年代は、7世紀前半と推定されています。
直刀3本が副葬されていますが、特に環刀太刀は金・銀・青銅で外装が施され、柄の握り部は銀糸の、いわゆる銀モールが巻かれています。柄頭は金銅製獅噛文環頭柄頭(こんどうせい・しがみもん・かんとう・つかがしら)で、鋳出しされた獅子の頭部です。獅子が立て髪を獅子に左右に逆立て、両目をむき出しにし、両牙を鋭く突き出し、髭も左右に波立たてています。鞘口(さやぐち)金具とその鞘部の責(せめ)金具3個とも、金・銀・青銅を用い華麗に加工されています。この環刀太刀の出土例は、諏訪地方では釜石古墳が唯一です。当地方の古墳出土の太刀は、大部分が実用的な黒造りの太刀で粗製のものが多いのです。ただこの環刀太刀は、柄の握り部をいれても50cmしかなく、武力と財力を誇示し、権威を装飾する物と思われます。そのため2本にしても、かなりの精巧な装飾を施した立派なものです。尚、出土品は現在、尖石考古館に保管されています。
諏訪地区の各地遺跡群の中で、興味深いのが、権現林(ごんげんばやし)遺跡です。南大塩の尾根状台地、標高は915mです。
樋沢古墳は前宮に向かって左、畑の中に盛り上がり、高さ5m径12mの円墳で、前宮古墳群最大の大きさですが、残念ながら原形が崩落した
後の計測値です。茅野市に現存する古墳でも最大です。
山の神古墳は、前宮の左手の林(古)道から急坂を山に向かうと、右の林の中にあります。一見ただの石組みで、開口部からのぞくと石室内が見え、被葬者は不明です。
諏訪中学校の敷地内で発見され、一時坂古墳 (いっときざかこふん)は、昭和57年に発掘調査された古墳で、今から6世紀の豪族の墓と考えられ、鉄剣・玉類など多くの副葬品をはじめ、当時お墓の前で行われた祭りに備えられた土器が、並べられたままの状態で出土しました。
片山古墳 (かたやまこふん) 諏訪市湖南大熊地籍にある山上に築造された直径約24メートルの円形古墳で、副葬品は鉄剣や内反(うちぞり)の直刀、青銅鏡、鉄鏃、土製紡錘車、勾玉、管玉などが出土しています。
下諏訪町青塚古墳は、諏訪地区でただ一基の横穴式石室をもつ前方後円墳で、諏訪大社下社秋宮と春宮の中間にあり、湖北の盆地を一望する明神山丘陵の突端にあります。いわゆる「国見ケ丘」です。埋葬者は諸説あるが、一番信憑性のある説として、藤森栄一の金刺氏の有力者説が妥当と考えられます。築造は発掘された円筒埴輪から6世紀後半といわれています。
藤森栄一は前方後円墳の諏訪地方の北上は、金刺氏一族と馬匹(ばひつ)文化の北上に伴うものとみます。これにより6世紀中頃より横穴式古墳(第Ⅱ期古墳)が諏訪地方にも築造され、フネ古墳型の第Ⅰ期古墳は見られなくなります。この事は、フネ古墳型古墳の築造が廃止され、天竜川中流域の馬匹と騎馬兵を有する金刺氏の墓制に転換した結果であると考えられます。
「海北道中」とは、九州から朝鮮半島・大陸に通ずる海上の道のことです。その途上、玄界灘の無人島・沖ノ島で、4世紀後半以降、倭王権が主宰する祭祀が行われます。倭王権がそれまで北九州勢が独占していた半島との交流ルートを掌握した証です。倭王権は伽耶諸国・百済と軍事同盟を結び、軍事援助を行う見返りに、先進文物や必需物資・威信財などの供与をえていたのです。
百済の武寧王は、継体天皇6年(512年)に、伽耶諸国の上哆唎(オコシタリ、現在の全羅北道鎮安郡及び完州郡)・下哆唎(アロシタリ、忠清北道錦山郡及び論山市)・娑陀(サダ、全羅南道求礼郡)・牟婁(ムロ、全羅北道鎮安郡竜潭面)の四県を併呑し、7年(514年)には己汶(コモム、全羅北道南原市)・滞沙(タサ、慶尚南道河東郡)の地をそれぞれ支配します。百済は大伽耶連盟の盟主の伴跛(はへ)国と戦闘になり、倭王に軍事援助の要請をします。継体天皇9年(515年)、百済を支持し物部至至(ちち)連が率いる軍隊を派遣しますが、帯沙江(たさこう;蟾津江【ソムジンガン】)河口で伴跛軍と戦い敗退します。532年、金官(慶尚南道金海【キメ】市付近】)国主の金仇亥(きんきゅうがい)が新羅に投降し、金官国は滅亡します。
6世紀中頃からの欽明・敏達天皇の時期、朝鮮半島では伽耶諸国が滅亡し、その前、527年には筑紫に磐井の乱が起こり、大和朝廷内部には蘇我氏と物部氏の確執が生じ、国内の政治は混乱を極めていました。そこで大陸対策と内乱の備えとして、強力な騎馬軍団の備えを必要としていたのです。方策は東国の適地に飼馬地(牧場の原型)を置き、国造の子弟を舎人として上番させることでした。科野での飼馬は、飯田経由で朝廷に輸送されます。後に飼馬地は「御牧」として発展します。諏訪郡では、山鹿牧(茅野)・塩原牧(茅野)・岡屋牧(岡谷)・宮処牧(上伊那)・平井出牧(上伊那)・笠原牧(上伊那)・萩倉牧(下諏訪町)が存在しました。 舎人は主に東国から上番させますが、欽明天皇の舎人は宮殿の金刺宮に仕え、ここの舎人たちは「金刺」の姓を名乗ります。その子・敏達天皇の舎人は他田(おさだ)宮に仕えたことにより、「他田」姓を賜ります。
岡屋牧は延喜5年(905)に『延喜式』に正式な官牧として記録されます。その前後の時代、湖北一円の牧・岡屋牧による経済的なうるおいにより、それを支配する集団の居住地が発達していきます。長地榎垣外(えのきがいと;長地中屋)→片間町(かたまちょう;長地東堀)→金山東(長地東堀)と続き繁栄する大集落遺跡の登場です。甕・壷・杯・坩(まり;椀)など、焼成がよく堅緻なつくりの良質な須恵器が多量に出土し、合わせて貴重な二彩の陶器や灰釉陶器、貨銭(かせん;新の王莽時代の古銭)なども発見されました。
その直前に登場してきたのが、全長76mの前方後円墳・青塚古墳の被葬者でした。畿内の古代中央集権政治の専制下、諏訪地方に君臨するため、その政治権力者が、湖北の地を最初の本拠としたのです。この一族は奈良時代の末期に至っても、川岸地区の鬼戸窯で焼かせた埴輪で、青塚古墳を修復していました。同じ頃、海戸集落(岡谷天竜町)の人々は、食器に須恵器も使えない貧しい生活に困窮していました。
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