年貢米の輸送にも利用され、それから発展し甲府藩をはじめとして信州諏訪藩領・松本藩領の米蔵もこの河岸に置かれていた。 富士川の高瀬舟には、船尾の立板中央部に穴があって、そこから艫舵を出していた。 絶え間なく流れる様子を表した「隈無し(クマナシ)」を、その名の由来としている。 鎌無川を地元では「深渕」と書き「フカンボチ」と呼んでいた。
鰍沢の富士川風景 富士川の高瀬舟 蔦木の鎌無川、この上流直ぐが蔦木宿 蔦木の国道20号の上が信州往還道

富士川通船と中馬    Top

 江戸時代後期、米沢藩主の上杉鷹山が家臣に「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」と教訓として詠み与えたという話は有名である。
 武田信玄は「為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ」と、よく詠んでいたという。
 
  山々の をとこぶり見よ 甲斐の秋                        高浜虚子
  本陣の子の わが友と いにしえの 蔦木の宿を 歩む夕暮れ       与謝野晶子
  しらじらと 並木の本の 石の樋(ひ)が 秋の水吐く 蔦木の宿かな    与謝野晶子
   (与謝野晶子は、明治年間、蔦木の宿本陣の最後の主・有賀源六の3男・精(つとむ)の案内で、旧蔦木宿を見分した後、古刹の三光寺に宿泊した。その際に詠む。
目次 
 1)富士川開削
 2)富士川通船
 3)富士川通船の御蔵米
 4)富士川舟運と南塩
 5)内陸舟運を支える中馬
 6)内陸舟運の役割
 7)明治以降の富士川通船
 8)富士川物貨運搬営業規則では

 1)富士川開削
 
熊本県の球磨川、山形県の最上川と日本三大急流の一つである富士川は、東海道随一の急流であったが、他方、甲斐国と駿河国を結ぶ主要な交通路「川の道」でもあった。年貢米や商品物資を出きるだけ安く、しかも 大量に運搬する手段として、富士川舟運が考えられた。
 徳川家康は、駿河と甲斐を結ぶ富士川に舟運を拓こうと、慶長12(1607)年京都の豪商角倉了以(1554~1614)に水路開発を命じた。了以、玄之(はるゆき)の親子二代の努力により、慶長17年正月に鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町、富士川右岸)、青柳(右岸、鰍沢町の北隣)、黒沢(左岸、鰍沢町の南隣)の富士川三河岸から駿河岩淵(庵原郡富士川町)まで18里(72km)に舟運を通じさせた。
 了以の工事のおかげで舟が航行できるようになるが、工事は当時の技術では難工事を極めた。了以は前年に京都・嵯峨の間にある大堰川(保津川下流)の開削工事に成功、河川開削・土木事業家として有名になったばかリであった。
 了以は、舟運に危険をもたらす悪流と岩石の排除に取り掛かった。川中の根深岩は、岩上で火を焚くだけ焚き、そこへ一気に冷水を掛け亀裂を発生させて砕き割り、あるいは櫓(やぐら)を組んで頭上に先のとがった鉄棒を据えて、一挙に落下させて粉砕する。また分流する流れに、竹で編んだ籠に石を詰める蛇籠(じゃかご)を積み上げて、流れを変えるなどの工法をとった。
 工事は多くの困難を乗り越えて進み、その間、船を造り、舵(かじ)と櫓の操縦を教え、8月には通船が開始された。 最初、甲州鰍沢の人達は、富士川を溯航する一団が乗る高瀬舟を見ても、「舟」と認識できなかった。
 甲府盆地の縁辺を東西から流れる笛吹・釜無の2川は、盆地の南端で合流して富士川と呼ばれる。富士川はここより南流して駿河湾に注ぐが、笛吹・釜無合流点の南、鰍沢・青柳・黒沢の通称3河岸から河口に近い岩淵までの距離72km、標高差348m、平均勾配千分の3.4である。
 日本3大急流の1つの富士川は、慶長12(1607)年角倉了以によって水運が開かれるまで、交通・運輸のためにはまったく利用されていなかった。富士川は急流過ぎて、地元民は舟を知らない、川を利用するすべを知らない村人達であった。  
 それが甲州鰍沢から駿州岩淵までの18里をわずか半日で下り、人々を驚かせた。それ以前は中馬で3日もかかっていた。 舟は底が浅く、平板で見た目が薄いことから「笹船」「高瀬船」ともいわれた。「鰍沢村御用留」の享保15(1730)年の船体の記録には、「長さ七間弐尺(ab.13.2m)、横一六尺(ab.4.8m) 、深さ弐尺八寸(ab.0.8m)」とあり、それが明治年代にも引き継がれている。 一方川を上がるのは難渋し、舟首に引き綱を結び引っ張りながら川の中や河原を歩き4日から5日かけて上がった。 特に断崖絶壁や急流の個所では船頭は岩の上を飛び回る、軽業を演じなければならなかった。これら船頭は「北向き船頭」と呼ばれ、綱を引きながら黙々と北に向かう男達の過酷な姿があった。

2)富士川通船
 
富士川舟運は、江戸幕府の年貢米を江戸に回送することを主たる目的として開かれたのだが、近世における経済発展に応じ、甲州のみでなく信州から駿州を結ぶ物資輸送ルートとして、約300年間、物資輸送・交通の大動脈としての役割を担ってきた。当時、甲州から駿河まで、徒歩で2日を要した行程が6時間ほどで到着できた。 富士川舟運の主な積荷は「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、下げ米は信州、甲州にある幕府天領からの年貢米(御城米;おしろまい)、上げ塩は瀬戸内の塩が中心だった。
 瀬戸内海の塩は、塩の上物として江戸時代には、広く利用されていた。大船で海路、清水湊へ運ばれ、その港から蒲原へ小船で移送され、蒲原からは馬で岩淵まで運んだ。岩淵からは当然、鰍沢までは舟運となる。
 塩は一俵六貫目(12.5kg)入りで、一艘積荷は40俵止めとなっていた。岩淵から鰍沢への上りに4~5日を要した。 下り荷の御城米は甲州廻米と呼ばれ、岩淵から陸路蒲原浜(かんばらはま)に運ばれ、ここから小舟で清水湊に送られ大型船に積み替えて江戸表に向かった。
 清水市の巴川岸には「甲州廻米置場跡」の石碑が立ち、これを今の世に伝えている。やがて諏訪高島藩の御蔵米、穀物、農産物等の積み出しも盛んになる。
 上り荷は、塩、海産物、砂糖、瀬戸物、後に甲斐の物産品として果物、煙草、織物等があり、鰍沢を中心とする、物流ターミナルが形成された。  
 富士川通船が始まり、鰍沢、青柳、黒沢河岸の3河岸には、常に数百艘の船が浮かび、富士川を航行する船数は、500~560艘に及んだという。一艘の船に船頭4人とすれば、約2,200余人の船頭が従事していた事になる。大量の米が陸揚げされる岩淵ではこの御城米4,000俵も入る板倉が何棟も並んで喧騒を極めていた。また3河岸には、塩蔵や米蔵が立ち並び、特に鰍沢河岸付近には、諏訪高島藩や松本藩等の塩蔵や米蔵が、他を圧倒していた。
 鰍沢河岸の高島藩の米蔵は「諏訪領米御詰蔵」と呼ばれ、延宝元(1673)年に雨宮与一右衛門の屋敷地に建てられた。奥行4間(ab.7.2m)、間口8間(ab.14.4m)の茅葺きで、収容量は2千俵であった。両藩の領内から中馬で鰍沢へ運ばれた年貢米の内、船積みされて江戸へ送られるものは江戸御廻米といわれた。通船開始以降江戸時代を通して、重要な中馬稼ぎとなった。高島藩の廻米は鰍沢の諏訪問屋、本町の樋口喜三郎方で集荷され、船積みされた。  
 現在、樋口家に伝わる「諏訪因幡守様御用綴(つづり)」は、寛延元(1748)年から天明4(1784)年までの廻米綴りでる。寛延元年11月の項には、御廻米300俵とあり、同年11月2日の項では、諏訪御蔵米500俵、同年12月の項には、諏訪御蔵米300俵とあり、同年の廻米合計は1,100俵であった。翌2年の合計は2,220俵、宝暦2(1752)年では合計は4,500俵と倍増し、幕末の万延元(1860)年、高島藩の町御蔵より8,039俵、在御蔵より2,290俵と大量の御蔵米が鰍沢へ輸送されている。なお、天明3(1783)年の全国的な大飢饉の際にも、御蔵米が船積みされている。

3)富士川通船の御蔵米
 
高島藩は東筋、西筋、下筋、5千石に分けていた。茅野市域の大部分は「東筋」に属し、諏訪盆地の南東部から山浦、原山まで含んでいた。西筋は西山沿いの有賀、真志野、大熊、田辺、神宮寺、新井、高部、安国寺、茅野、坂室、二久保、船久保、北久保、田沢、丸山から立場川以東の境筋までを指していた。下筋は角間川周辺の上諏訪から下諏訪町、岡谷市一帯に及んでいた。5千石は、元和元(1615)年4月から始まる大阪夏の陣に際し、諏訪頼水は甲府城の守備に就き、子の忠恒は手兵540人を率いて上方へ出陣した。その軍功として、元和4年、筑摩郡の塩尻峠の北方、田川右岸一帯の13ヵ村、5千石を加増された。高島藩はこれを5千石領と呼んだ。
 高島藩は東筋、西筋、下筋、5千石の4ヵ所に代官所を置き、御勝手方役所の責任者である賄役(まかない)の指示下で米穀の出納を扱わせた。代官所は、村方からの貢租の米や雑穀を徴収すると、小和田湯小路(諏訪市)にある御蔵で保管した。元禄12(1699)年、御蔵は、現在の諏訪市末広町の第一駐車場の所へ移された。この正米(しょうまい;現物の米)には、早渡りと計米(はかりまい)があった。「早渡り」は代官所の指示で、年貢収納開始前に直接家中に届けられた。
 「計米」には、地域によっては、代米と称する大豆、蕎麦、油荏(あぶらえ)もあり、「大豆代米」、「蕎麦代米」、「油荏代米」等といわれた。「計米」の場合、9月に村方へ申し渡され、それに応じて、村は何百何拾何俵と記した請証文を提出した。それが村内の有力百姓に割り当てられ、通常、俵単位で納められた。その中に殿様の御膳米があれば、一粒ごとの選別となり難渋を極めた。
 「計米」は代官所の町御蔵に納める場合と、東筋や西筋の村々では、在御蔵(郷蔵)で預かる事が多かった。郷蔵米は、後日藩からの指示で、「御蔵移し」といって町御蔵へ運び入れるか、甲州の鰍沢河岸の御蔵や甲府へ移送した。それは廻米として鰍沢から江戸へ送られるか、他所払いと言われ、鰍沢や甲府で売り払われた。
 高島藩では、4斗俵が基本であった。寛政3(1791)年から廻米は、何故か3斗6升となった。恐らくは、通船積荷の廻米の基準が確定したと考える。それで年貢時に、廻米予定の貢米は、別納された。
 廻米は村方の役儀として鰍沢河岸の御蔵へ駄送させられたが、藩から駄賃は支払われ、中馬稼ぎとなっていた。
 川を利用すれば陸路の難を避け、海岸線と甲府盆地を最短距離で結ぶことができる。このため、3河岸からは、甲府盆地はもとより諏訪・伊那・松本等からの廻米・雑穀等が送りだされ、その戻り荷として岩淵を経て塩を初めとする海産物等がこの方面に送られ、輸送はもちろん交通上も極めて重要な役割を担っていた。
 富士川で特に重要視された積荷は、一国幕領ともいえる甲州から江戸浅草の米蔵に送られた下り荷の貢米と諏訪・伊那・松本等各藩の廻米と、陸部に送られる上り荷の塩であった。これらの輸送は、下りの場合、3河岸から岩淵間を高瀬舟で送り、岩淵から蒲原浜と小金浜の間を駄送に頼り、蒲原浜から清水湊間を小廻船で送り、上りの場合もまったく同じ方法で清水と3河岸間を輸送されていた。  
 この貢米輸送に従うことから、3河岸および岩淵は、幕府より諸種の特権を与えられていた。その主なものが、3河岸による富士川全川での舟および船頭の支配と河岸場の独占、岩淵による駄送の宰領と塩販売の独占であった。
 廻米も江戸後期になると、町人の請負とする事例が生じる。文化6(1809)年11月、上諏訪桑原町の亀屋長右衛門は、御勝手方役所に江戸屋敷御用米を請負、村方から鰍沢までの駄送2駄1綱に付き1分4匁5分の駄賃と、鰍沢から江戸屋敷までの定式駄賃を得たいと述べている。    
 その米は、鰍沢で売却し、高島藩江戸屋敷の需要米は「美濃、尾張、三河、遠江、或いは上州館林等の上米」を購入して、江戸屋敷へお届けすると願い出た。終に、江戸屋敷御用米までもが、商品化され、御廻米問屋に払い下げられた。翌年11月、長右衛門は、尾州の御蔵米を買い取り、そこから高島藩江戸屋敷へ上納している。長右衛門の差し出した請け書から、「長米(御膳米)62俵、御籾子(実)50俵、蕎麦14俵、米2,800俵」と、その際の上納の内訳が知られる。

4)富士川舟運と南塩
 
舟運の役割は甲斐国中の御城米を川下げすることが第一であったが、商業用の物資の運輸と一般旅人の乗船にも大いに利用された。なかでも甲州・信州の塩の移入は重要で「上がり荷」として扱われ、「四人立ち」で溯航した。「四人立ち」とは一人が先頭、一人が舵をとり、二人は岸を歩きながら曳く方法であった。塩以外の移入品としては塩魚、砂糖、瀬戸物、綿糸・綿布、琉球表等があり、移出品としては米、薪、生糸類等が鰍沢から岩渕に運ばれた。「下げ米、上げ塩」と言われ、富士川通運の船荷の主流であった。
 富士川舟運で鰍沢に荷揚げされた瀬戸内を中心とする塩の大部分は、鰍澤塩と名入れされた叺(かます)に入れられた。それは「南塩」とも呼ばれ、鰍沢から中馬で、当時、塩の中継地として殷賑を極めた韮崎宿に出た。中馬ようの馬宿が、50軒以上も軒を並べていたという。ここから諏訪への入り口・下蔦木まで2筋あって、一日約6里(24km)の行程であった。
 通常は甲州道中で、釜無川沿いの川筋を台ヶ原(山梨県白州町)、教来石(きょうらいし;白州町)、下蔦木の各宿を通した。釜無川の洪水と、その危険がある時に利用されたのが逸見路(へんみじ)で、青坂を上り、新府城付近を抜け、重久(韮崎市)、富岡、渋沢、下蔦木の原路を通した。甲州道中と逸見路の分岐には、「右逸見路、韮崎まで無宿(宿場が無い)」の道標があるが、現在、この道筋の多くが廃道になっている。今では、甲州道中の諏訪郡と山梨県の県境は、富士見町国界(こっかい)と白州町の上教来石で、その県境の釜無川には国界橋(こっかいはし)が掛かる。そして中馬は瀬沢(富士見町)、中新田(原村)、穴山、芹ヶ沢、湯川、柏原等の原路を北上し、大門峠を越える大門道を付け通した。その道は善光寺道でもあった。
 一方、金沢宿に出て、金沢峠から藤沢谷を通り高遠経由して伊那、飯田方面にも向っている。金沢宿は追分宿でもあり、上ノ諏訪から下ノ諏訪を経由して塩尻峠を越えた。
 金沢宿には江戸時代、3~4軒の塩問屋があり、馬宿も56軒あった。馬宿1軒で20匹ほどの中馬が繋げたというから、宿全体で百匹となる。その往来は、金沢宿を一層繁栄させた。
 富士川舟運以降、北塩と呼ばれた日本海方面の塩は、諏訪地方では流通しなくなっていた。
 諏訪の中馬は鰍沢で塩を付け出し、金沢宿の塩問屋で、敷金と駄賃を受け取っていた。天保13(1842)年6月、上諏訪の清水町の塩問屋から町役人に出された「塩問屋値段書上」には
一、鰍沢塩 2俵 此升6斗 代3貫6百8拾4文
一、4百3拾6文  鰍沢より駄賃
一、24文     御当所口銭
一、48文     仲買利
   〆て4貫2百文
「右の通りの値段にて、百文に付き1升4合2勺8才に相当。小売は百文に付き1升4合売りを仕りたく願い上げ」とある。
 富士川通船と中馬の商品物流での重要な役割は、明治以降も変わらず、諏訪から鰍沢への下り荷は、「米、薪炭、穀類、綿、三椏(みつまた;和紙;日本の紙幣は今日も三椏を原料としている)、紙類等」で、鰍沢からの上り荷は「塩、天草、砂糖、煙草、生魚、豆粕、乾物、雑貨等」であった。

5)内陸舟運を支える中馬
 
安永2(1773)年の「御郡中惣馬扣(ひかえ)帳」には、高島藩領内の総馬数4,927匹で、そのうち中馬が74%を占め、3,679匹と記している。また、その中馬の56%、2,042匹が茅野市域で飼われていた。更にその68%、1,389匹が高島藩から、甲州札、江戸札の鑑札を受け、鰍沢をも含む甲州と江戸方面での中馬稼ぎをしていた。
 安永2年7月、諏訪郡の中馬総代から幕府へ「諏訪郡有馬並びに江戸中馬、信州甲州上州三州中馬書上」が差し出され、各村の中馬数とその方面別の内訳が記されている。主に甲州追い中馬と江戸追い中馬であったが、その前文に江戸追い中馬札があれば、江戸追いはもとより、信州、甲州、上州、三州、尾州へと追うことが出来た様子が窺える。
 埴原田、塩沢、中村、新井、笹原、穴山、菊澤、山田、田沢、丸山、木船等各村に残る、宝暦13(1763)年3月の幕府の御普請役元締米倉幸内と御普請役高橋八十八が、伊那街道沿いの宿場と中馬村との争いに、信州、甲州、上州、濃州、三州、尾州と広く出張調査した際、諏訪郡内各村が提出した報告書がある。
 それには村高、人別、家数、馬数、中馬の行き先と道程が記され、極めて重要な資料となっている。そこに載る諏訪郡内の中馬の行き先は「下諏訪、福島、岡谷、松本、高遠、飯田、上田、上州倉賀野、鰍沢、甲府府中、郡内谷村(やむら;都留市)、郡内通り江戸、駿州沼津、相州小田原、三州岡崎、尾州名古屋等」が見られる。もう一札の報告書には、諏訪郡の米、麦、小麦、蕎麦、大豆、小豆、油荏、油粕、酒の9品が、甲州、府中、鰍沢、軽井沢、飯田、木曾、松本の7ヵ村へ付け通して、売り払われ、煙草、麻布、苧(お)の3品は、名古屋、岡崎、江戸の3ヵ所へ送られている事が記されている。
 上伊那の馬子1人の中馬は3匹追い、下伊那の中馬は4匹追いであったが、諏訪では普通2匹追いであった。諏訪の場合は、天明7(1787)年の申し渡しや、寛政3(1791)9年の定書で1綱2匹に制限されていた。それで安永2年の茅野市域の馬子従事者は、1,021人と推定できる。
 同年の各村の中馬数は、多い順で矢ヶ崎塚原と北大塩が137匹、南大塩115匹、茅野89匹、槻木75匹、古田68匹、横内67匹、穴山67匹であり、北山の芹ヶ沢65匹、湯川45匹、柏原48匹であった。
 中馬付け通しには、中馬追い、荷主、荷送り地の問屋、荷受け地の問屋との間で契約が必要になる。それが荷送り地の問屋が発行する送り状となり、中馬の荷、荷主、荷送り地、駄賃、中馬追いの名が記入された。中馬追いは、荷と送り状を荷受け地の問屋へ届けて駄賃を貰った。その駄賃は、荷送り地の問屋と中馬追いとの相対で決められた。それで中馬と宿場の争いに、商人が中馬方に味方した。商人とって、中馬の付け通しの駄賃は、宿継ぎと比べて、半額に近かったからであった。高遠から飯田間は、3駄当たりの駄賃が700文から1貫100文であった。1匹の中馬の積み荷の重量は、軽尻並みの24貫~28貫までであった。
 藤沢村の中馬の宝暦年間(1751年~1763年)の例で、諏訪と高遠領境から江戸までの往復駄賃は3貫100文余りで、甲府までの往復では916文であった。宿場の駅継ぎでは、それが、それぞれ5貫700文余り、1貫828文となる。
 中馬には、中馬追いの保証金・敷金の制度があった。荷物を受託する時、荷送り地の問屋に荷の価格の7割~9割を渡し、付け通し後、荷受け地の問屋から駄賃と共に敷金の返済を受けたのであった。中馬稼ぎには最低でも、数両の資金の用意が必要であった。

6)内陸舟運の役割
 
内陸舟運の開発は、幕府、領主あるいは富有な商人等によって行われたのであるが、その目的とするところは、公用諸荷物及び商品輸送にあった。その輸送品目中最も多量に輸送されたものは米であった。そのうち特に領主により徴収された年貢米は、封建家臣団に現物で支給され消費されたが、その多くは江戸を初めとする消費都市の発展により、大阪を中心とする全国的市場が形成されたため、これら大消費都市に送られることとなり、内陸舟運および廻船の重要積荷となった。またこの他には、諸藩より大阪等の蔵屋敷に送られる特産物、内陸部の必要とした塩などがあったが、いずれも極めて重要な積荷であり、公用諸荷物として、その輸送の確保がはかられた。
 内陸舟運による諸荷物輸送のためには、積荷の取扱者である河岸問屋を設け、舟運の現業に従事する船頭と船を確保しなくてはならない。これら内陸水運のために必要な河岸及び河岸問屋・船頭・船等についてどのようであったか。
 富士川河岸および河岸問屋であるが、幕府あるいは諸藩の手によって公用諸荷物の輸送のため設置されたもの、また地場産業の発達や商品流通路にあって、町人や農民による投資で設置されたものがあった。
 これらの河岸および河岸問屋と領主との間は、幕藩体制が確立される過程で、河岸及び河岸問屋が領主支配に組込まれ、封建的従属関係が成立していった。領主側からは、河岸及び河岸問屋に対し蔵屋敷の指定、河岸場の免租、廻米等公用船の建造費の補助、あるいは建造用材の提供、廻米等保管のための番銭の支給、公用諸荷物の運賃の支払い、通船のための水路改修維持費の負担等の保護が加えられ、その上に諸種の特権が付与された。これに対し河岸問屋側は、領主に対し廻米を初めとする公用諸荷物の輸送、公用交通の際の労役負担、その他運上と呼ばれる一種の租税の負担等の奉仕を行なっていた。
 これら河岸問屋の業務についてみると、陸付けされてきた諸荷物を船積みし、舟で送られてきた諸荷物の陸付を受託する。河岸問屋はこれらに必要な敷地と倉庫を持ち、ここに受託した諸荷物を保管し、そのための口銭や、保管料としての庭銭・蔵敷料を徴収し、自己の収入とした。また荷主からは船賃・駄賃を徴収し、これを船持や中馬追いに渡す等の事を行い、運輸の斡旋と倉庫業を兼ねた営業を行なっていた。
 他方舟運の現業に従事するのは船持あるいは船持船頭、あるいは船持に雇われた船頭や舟乗水主(かこ)であった。船持は、当初から水運を目的に船持になった者の他、船持に雇われた船頭から船持に成長した者、あるいは水田用の田舟や漁舟をもって一時的あるいは長期的に舟運に従事する船持船頭等、形態は様々であった。
 またこの内陸舟運のために使用された舟についてみると、上流域では、小鵜飼舟(こうかいぶね)・部賀舟(べかぶね)等とよばれる積載量が少ない比較的小型のものが使われ、中・下流域ではやや大型となり高瀬舟・胴高舟(どうたかぶね)等積載量の大きいものが用いられていた。小鵜飼舟は舵が無く、櫂や帆で進み、急流を上る時には網を挽いた。小鵜飼舟は構造が簡単な分、建造費が安かった。高瀬舟は、江戸初期、角倉了以(すみのくらりょうい)が、徳川家康の命により全国の河川交通の開発に携わった際、吉井川の高瀬舟を規範としたといわれている。

7)明治以降の富士川通船
 明治政府は内陸水運への消極的態度を大幅に改めることとなるのは、各駅陸運会社を廃し、全国的な運輸機構を確立しようとする陸運再編の動きに伴っていた。この陸運再編の動きは各駅陸運会社設立の当初から既にあったが、それは、各駅陸運会社が、近世以降の宿場問屋の地域的な継立に過ぎず、全国的な継立組織ではなかったことによる。政府にとって各駅陸運会社とは別に全国的運輸機構を育てる事が、国家統一を完成し近代化する上にも不可欠であった。
 この全国的運輸機構を確立するためには、陸運と結びつき相互に補完する関係にある内陸舟運を除外する事はできなかった。政府は内陸舟運に対しも、積極的な施策を練ることとなった。
 陸運元会社と各駅陸運会社との合併は、政府の方針にもかかわらず、必ずしも順調に進まなかった。しかし、この合併を決定づけ陸運再編が果たすため大きな役割を成しえたのは、明治6(1873)年6月27日に発せられた太政官布告第230号であった。
 「本年9月1日ヲ限リ私ニ物貨運送ノ業ヲ営候儀一切令(太政官令)ニテ禁止候条、以来右営業致度者ハ陸運元会社ヘ入社或ハ合併候歟(か)又ハ其規則資本等詳細ヲ具状(ぐじょう;詳しく事情を書き述べること)シ管轄庁ノ調査ヲ経テ駅逓頭ノ免許ヌ可受事」
 この布告の適用範囲について、陸運のみに限るものか否か、翌7月滋賀県より太政官に伺いとして提出された。これについて太政官より8月31日付をもって「伺ノ趣海運ヲ除ノ外水陸運輸営業ノ者都テ(すべて)本年第230号布告ニ基キ照準措置可致事」と指令が与えられた。海運を除き水陸運輸業者すべてに適用されることが明確にされた。
 この布告により各地に派遣された陸運元会社の社員により合併が進められ、一方、各府県もこの布告の目的を達成するために行政指導が行った。山梨県では、明治7年10月18日、山梨県権令藤村紫朗は陸運元会社社員が、合併交渉のため来県する際、各戸長に合併協議が成立した後は、各駅陸運会社は解散するように達し、この結果、同年12月県下42駅が陸運元会社総代宮下直右衛門と合併・入社の約定を結んだ。
 山梨県の場合、陸運に関しては元会社との合併は、明治8年末の時期までと遅れるが、富士川水運に関しては、明治6年6月の230号の布告後、間もない9月8日山梨県により「結社規則相設ケ営業可致就テハ右規則相立来ル十五日迄可申出事」という富士川3河岸、鰍沢・青柳・黒沢の船持に対する指令で「十五日迄可申出事」と督励している。
 この短時日をもって会社設立は不可能であった。3河岸関係者からは追って会社設立を届けでる旨の報告があり、実際に設立願書が出されたのは10月になった。この願書は11月、山梨県より大蔵省に禀議され、翌明治7年1月25日認可された。ここに富士川運輸会社が創業した。
 富士川運輸会社の場合、陸運元会社とは別の会社として設立認可された。しかし、政府には全国的な水陸運輸機構確立の意図があり、河岸が陸運元会社と合併あるいは同社に入社する事を期待していた。このため各地の河岸は、各駅陸運会社と同様、陸運元会社に入社或いは合併していった。
 明治6(1873)年9月下総国猿島郡境町にあって陸運元会社により水陸漕運が開始された。ここは日光東街道の中央に位置し、東北地方から江戸に達する物資の中継をする利根川の河岸として発達してきた水陸運輸の要地であった。政府の後援を得て、陸運元会社側の積極的な働きかけがあったと考えられる。この境町への進出は、後の陸運元会社の利根川・鬼怒川・荒川水系水運進出への先駆けとなり、その後明治10年日本最初の国産外輪蒸気船第1通運丸の就航へと発展する基礎となった。通運丸は石川島播磨重工業の前身である石川島平野造船所(本社は現在の東京都中央区にあった)で建造された。明治10(1877)年に就航した第1通運丸から第42通運丸まで建造された。喫水が浅く、内陸河川の航行に適していた。 大正期、利根川、江戸川を颯爽と往来していた外輪蒸気船通運丸の第一歩であった。
 
 山梨県の富士川運輸会社への保護は、基本的に「富士川通船規則」「富士川物貨運搬営業規則」の施行に依拠した。  山梨県による富士川運輸会社設立の勧奨は、太政官布告に基づくものであることは既に述べた。この布告の意図の1つは、運輸会社設立によって、輸送の安全と事故の際の加害弁償費を確実にすることにあった。山梨県としては富士川運輸全社を通して、輸送の安全と危難に際しての補償を期待した。富士川筋にあっては3河岸に限らず、いずれの者でも「船持勝手」と定めながらも、富士川運輸会社規則17条に、同社開業の上はその指揮に服することが義務づけられた。同社の鑑札を持たない船には、諸荷物の積渡しをしないと定めることも認めた。
 しかし、船持自身の才覚によって富士川の水運に従事してきた長年の伝統は、一片の布告等によって変るものではなかった。そのため「其他ノ河岸々々ニ於テ暗ニ一己(いっこ:自分だけ)ノ異論ヲ主張シ依旧通船取扱不相立」というのがその実状であった。そこで県は明治7年7月7日、富士川流域の第30区、第31区正副区長と、鰍沢・青柳両村正副区長に対し、塩・諸荷物取扱人は「悉皆右運輸会社ニ致入社同社規則践行不取締無之様可致」ことを説輸するよう命じている。
 山梨県により富士川運輸会社への入社を強制し、富士川運輸会社を通して運輸の安全を計る事を命じても、「眼前ノ利ニ迷ヒ終ニ多数ノ荷物人員等ヲ積乗セ取締瓦解ノ象状」であった。生活と一体化した庶民の営みを、「下方協議」による取締りで、富士川運輸会社に任しても成果があがらずとして、県は強力な施策をうち出した。「此上ハ県庁ニテ規則方法ヲ設ケ諸荷物積込数量人員乗組ノ定額取締相付候外無之且富士川危険ノ場所等漸次浚堀割等ニモ致着手後来通船ノ安穏保全」する決意を固めることとなった。そして、その費用の財源として、富士川筋に船改所を置き、通船に課税することとして「富士川通船規則」を定めた。
 この通船規則は,明治8(1875)年4月29日山梨県より内務省に禀議提出され、同年5月14日許可を得て、翌6月15日より施行された。そしてこの施行と同時に船・船頭の調査が行われ、その開廃業についてはその都度、県に届けでることを義務づけた。
 この通船規則の施行によって、富士川運輸会社の間接的管理から、県は富士川の水運を直接管理し、より安全の確保をはかった。その「富士川通船規則」が、富士川運輸会社に幸いした。積荷の量や乗客等の人数は同社の実状を踏まえていたし、通船税についても影響をうけるほど高額ではなかった。むしろ通船税収入が富士川筋改修費にあてられ、同社の改修費負担が軽減された。さらに通船税徴収のための切符の発売が同社に委託され、同社の公的地位を向上させ、一段と「御県庁ノ御保護」が加えられる結果となった。また通船規則によって、富士川での取締りが強化された結果、安全性が高まった。
 明治11(1878)年3月13日山梨県により丙26号「富士川物貨運搬営業規則」が施行された。
 同規則は、同年2月6日山梨県より内務省と禀議されているが、その禀議書によれば、この規則制定についての主旨は明らかである。 先に明治8(1875)年に施行された通船規則には、営業規則・保険請負の内容に関して定めていなかった。難船等により人命貨物の損害が生じても、運輸業者や船頭も「他人ノ痛痒ニ付シ漠然トシテ憂戚(ゆうせき;憂い悲しむ)ヲ加ヘサル如」状態であった。危難時における人命救助と貨物の損失防止が最優先で、それを運輸に携わる者の使命にする事が「緊急ノ急務」であるとしている。明治6年の太政官布告第230号の意図する危難弁償のための保護請負について規定をより強化する事が、その制定目的であった。

8)富士川物貨運搬営業規則では
 
第1条で、富士川によって物貨運搬営業を行うものは、県庁の允可(いんか;許可)を得たものに限ると定め。
 第2条に允可を得るためには、保険請負の準備・規則等を整備することが必要とした。
 第3条では、允可を受けた物に、その準備相当の不動産を県庁に納め営業を行うとした。
 第4条、営業者は保険請負の景況調査を受ける。
 第5条、万一保険請負の実施・貨物運搬の取扱いに不正のある場合は営業を停止。
 第6条、富士川での物貨輸送のための船持・船頭は、允可をうけた営業者に付属して営業を行わなくてはならない。
 第7条、通船規則第1条、4条、5条に違反し、乗船人数、積載量を超えた者に対する過怠料は、允可を受けた者の責任とする。
 
同規則の第1条に、県庁の允可をうけていない者、富士川では運輸の営業が行えないことと定められている。施行された明治8(1875)年、その有資格者は富士川運輸会社ただ1社であった。同規則の施行後は、同社の同業者はもとより、河岸問屋の系譜をひく諸荷物取扱人も、運輸現業者の船持・船頭も、富士川では独自に物貨運搬営業が行えない。富士川運輸会社の分社として同社に組込まれるか、同社の船持あるいは船頭として従事するしかなかった。
 富士川で唯一の適格会社となった富士川運輸会社は、競争相手であった諸荷物取扱人を自社の分社として組織化し拡大する一方、彼らを株主として増資を引受けさせた。未だ自前の船や船頭を持たず、基本部分で弱体であったが、船・船頭を完全に自社に従事させ、分社の拡大とともに営業基盤が整備強化され、自社発展の契機となった。
 分社数の増加の様子は、最初に分社規則が作られ、本・分社の関係が明確になる明治8(1875)年12月の段階では、南部出張所共に23分社があった。明治13(1880)年11月には61分社に急増している。しかしも、分社の本社への従属は強化され、特に明治12年の分社規則の改正では、富士川運輸会社の付属船であるから、その規則に反した時は、営業を差止められても異存のないことを誓約させられている。この誓約書の署名者は富士川の全域に及んでいる。
 富士川運輸会社の通船の範囲も、近世では、鰍沢・青柳・黒沢の通称3河岸の反対により河岸を設けることのできなかった地域にも及ぶ。その上流、笛吹川流域の石和まで、釜無川流域では韮崎まで広がっている。静岡県下にも河岸が急増していった。その河岸の支配をも強めて行く。河岸の差配人の選任権を本社が握り、種々の干渉が加えられ、一方的に本社の経営に奉仕させられる傾向も強まった。
 明治11(1878)年3月13日山梨県による「富士川物貨運搬営業規則」が施行された後、船持・船頭と富士川運輸会社との関係も大幅に変っている。同親則の施行直後、同年3月22日富士川運輸会社に付属する船頭437名より、同社に対して7ヵ条の誓約書が提出されている。それによると船持・船頭は、運輸会社の諸貨物を運搬するために舟を造り、営業する者であるから「悉皆同社へ申出同社ノ名儀ヲ以テ検印相願営業」するものと明記している。したがって新造船を持ち営業するにあたっては、同社に誓約書を提出し、「富士川通船規則」と「富士川物貨運搬営業規則」の順守を義務付けられる。同年12月には今まで会社負担であった瀬浚(せざらい)費用は船頭の負担となり、会社の経常費としての積立てはやめられた。
 富士川運輸会社の地位はさらに高まり、同社の営業は一層発展していった。同年4月、富士川運輸会社から山梨県に提出した「運輸会社一覧」によれば、1株あたりの純益金が25%ある。
 
 
取扱量は明治10年が、諸荷物約83,300個、魚類約16,800個、計9万個であった。明治14年は諸荷物約67,500個、魚類18,000個、計67,500個である。
 両年度を比較すると、この間魚類以外の諸荷物と取扱い個数は、かなり減少している。それは拡達(こうたつ)会社と称する水運会社が、12月同じ鰍沢に設立され、富士川での同社の独占が破られた年であった。拡達会社の前身ともいうべき送達のための会社として、内外用達会社が鰍沢に設立されたのは、明治11(1878)年11月のことであった。
 しかし、売上減であっても収益は2倍に増加していた。同社設立の当初見込んでいた塩移入については、見込み程には達しなかったが、諸荷物や魚類の移入が増大し、その他貸付金金利などの予定外の諸収入も加わったため、塩移入の手数料等の収入の減少を埋め、増益となっていた。
 こうした好況は、当初塩に比して二次的取扱い荷物と考えられていた諸荷物や魚類の取扱量が増大したことによる。それは取扱い品目の多様化による恩恵であった。特に砂糖等と共に横浜や清水港を経由して鰍沢に送られてくる石油・鉄といった品物の増加は、諏訪、松本等の後背地での商品需要の高まりによる品目の多様化と経済圏の拡大等を端的に示している。当時の富士川運輸会社の発展は、国内経済の近代化へ離陸によるものと、国際的商品流通とも深い関連があった。
 明治14(1881)年、同社の競争相手として、拡達(こうたつ)会社と称する水運会社が、12月同じ鰍沢に設立され、富士川での独占が破られた。
 拡達会社の前身ともいうべき送達のための会社として、内外用達会社が鰍沢に設立されたのは、明治11(1878)年11月のことであった。しかし、山梨県によって、手船(てぶね)による委託荷物の運搬が禁じられている。富士川運輸会社と違い、山梨県より允可を受けた会社ではなかった。ところが、その後、翌明治12年5月3日太政官布告第16号をもって、明治6年の太政官布告第230号が廃止され、事情は一変し富士川筋に新しい運輸会社設立の気運が興り、ついに拡達会社の設立をみた。
 拡達会社の他にも明治22(1889)年に、甲斐運会社が鰍沢に設立され、富士川水運の同業者間の競争はますます激しさを増していくこととなる。しかし、同年東海道線が静岡まで開通し、岩淵駅が2月、蒲原駅が翌年3月に開業することにより、富士川水運は一層重要さを増し、活況を呈した。その後約10年間が富士川水運の最盛期となる。
 明治36(1903)年八王子・甲府間に中央線が開通する。甲府盆地及び南信方面への物流は、東海道線から富士川を通るコースから、中央線ルートに変わり、富士川水運は急速な衰退を迎える。
 この衰退する富士川水運に追討ちをかけるかのように、大正4(1915)年以降富士身延鉄道が次第に路線を延長し、昭和3(1928)年、ついに富士・甲府間が全通し、ここに富士川水運の歴史が閉じられる。
 富士川運輸会社も、この間大正11(1922)年、創業50年を機に廃業していた。諏訪地方の中馬稼ぎも急速に影を潜めていった。

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