江戸期の諏訪民俗史   Top

安国寺から干沢城址 千野の古跡を流れる宮川 御作田御狩祭の豊平御作田 湖東新井から八ヶ岳を見る

 犁(すき)載せて 帰る小船や 梅の花  小平雪人(こだいら せつじん;諏訪郡湖東村出身。明治、大正、昭和の俳人。)
 冬晴や 八ケ岳を見 浅間を見       高浜 虚子          

 目次
 1)街道整備
 2)間の宿
 3)柏原村の蓼科山論
 4)入会論争
 5)諏訪湖辺新田開発 満水堀
 6)八ヶ岳山麓新田開発
 7)綿から生糸へ
 8)養蚕と生糸
 9)寒天
 10)諏訪鋸
 11)氷餅

1)街道整備
 
戦国時代の領国支配で、大名は本城から国境に至る主要道路に伝馬を常備する宿駅を設けた。古代、奈良時代・平安時代からの駅馬・伝馬の制度に倣って整備されていった。戦国時代には特に伝令飛脚兵糧輸送には不可欠であった。この宿駅に人馬を提供し、その管理労役に当たる者が伝馬役と呼ばれた。諏訪では武田氏が伝馬宿を指定した。
 武田氏最古の史料、天文9(1540)年に佐久の海之口に出されたものが残る。武田信虎の時代に整備されだしたことがわかる。天文11(1542)年以降40年間にわたり諏訪を支配した信玄の時代には「伝馬」と彫られた朱印伝馬手形に捺印するようになった。武田勝頼が天正6(1578)年5月、「諏方十日町宛伝馬定書」を出している。上原城下に栄えた町の一つである十日町(茅野市上原)に宛てて、87名の伝馬役と8名の印判衆を定めたもので、これにより武田氏は伝馬役を勤めるべき伝馬宿を指定した。「御印判衆」は単なる朱印を押すためではなく、伝馬役を補佐し馬役・人役も兼ねていたとみる。当時であれば軍事目的が主であったから、兵馬を徴収する軍役的機能が強かったと考えられる。「定書」と「御印判衆」の部分に武田家の印である龍丸朱印、裏には紙の継ぎ目ごとに勝頼の印である獅子角朱印が押されている。天正9(1581)年には小県郡大門郷にも「定書」を出している。
 伝馬の使用は公用で「御印判」を所持する者に限られた。 永禄11(1568)年に出された「馬壱疋之口付銭之事」があり、甲府から木曽福島までの宿駅が以下のように記されている。
 府中台ヶ原(山梨白州町)-蔦木青柳上原下諏方塩尻洗馬贄川奈良井藪原福島

 慶長6年(1601)から徳川家康は、江戸を中心とした5街道を官道に指定して整備を命じた。それは幕府直轄の公用優先の街道で、宿場・伝馬・助郷を常備する。甲州奉行を兼任する大久保長安を中心に、中山道の整備が開始された。中山道は、日本橋を基点として板橋から大津まで69駅131里11町で、慶長9年に永井白元本多光重が命を受け1里塚を作った。この道は和田峠を越して下諏訪に入り、東堀村から旧塩尻峠をぬけて、木曽路に入る。これにより諏訪地域には下諏訪宿が置かれるようになった。下諏訪宿は中山道で唯一温泉が湧き出る宿場で、温泉の湧き出る箇所を結んで旅籠が発達した為に、Uの字に曲がった宿場となった。中山道で最も険しいとされる和田峠を控えた宿場でもあったため、多くの旅人で賑わった。
 和田峠は5里18町と道のりは長く、また中山道第一の高く険しい峠であった。それで約20町(2Km)ごとに桶橋西餅屋東餅屋等の茶店を設け、その補助として年1人扶持(米4俵)を与えられた。また茶屋は立場(たてば;街道沿いで人夫などが籠などを止めて休息するところ)として人馬の乗換えにも利用された。 また、江戸の日本橋から内藤新宿を通り甲府に至る表街道・甲州道中が慶長7年から9年ごろまでに整備された。その後数年して中山道の下諏訪宿と合流する甲州道中の裏街道として整備された。内藤新宿を第一宿に、甲府に通じた甲州道中も5街道の一つ、それが伸びて下諏訪宿で中仙道と交わった。最初は 「海道」と書いたが、正徳6(1716)年に日光道中と共に甲州道中」と呼ばれた。表街道に38宿、裏街道に7宿、合わせて45の宿場があった。
 裏街道には甲州の韮崎(山梨県韮崎市) 、台ヶ原(山梨県北杜市;旧・北巨摩郡白州町)、教来石(きょうらいし;山梨県北杜市;旧・北巨摩郡白州町)の宿場があり、教来石には山口番所が設けられていた。諏訪地域の宿場としては、蔦木宿(富士見町)、金沢宿(茅野市)、上諏訪宿(諏訪市)、下諏訪宿(諏訪郡下諏訪町)があった。甲州道中を使用して江戸へ参勤交代をする大名は、飯田藩(堀 大和守 2万石)、高遠藩(内藤 駿河守 3万3千石)、高島藩(諏訪 伊勢守 3万石)の3大名で、前者2大名は金沢峠を越えて、金沢宿・蔦木宿を経て江戸に出た。
 時折御茶壷道中や地方に領地を持つ旗本が通行する街道であった。御茶壷道中とは、将軍用のお茶を、宇治から江戸へ運ぶ行列を言う。9代将軍・家重の頃までは、中山道を下諏訪まで来て、上諏訪を通る甲州街道を使った。金沢宿・蔦木宿を経て、甲府から笹子峠を通って大月から都留に到り、秋元侯の居城・城山の3棟の御茶壷蔵に納められた。御茶壷道中は、将軍御用なので将軍と同格に扱われた。大名行列さえも道を避けさせた。
 元禄2(1689)年5月の幕府の触書には、藩主が御茶壷をお迎えすること、往還は一切認めない、見物も無用とある。子供等は、お通りのとき不都合が生じないように、「トッピンシャン」と家の中に閉じ込められた。 童歌は御茶壷行列が去った後の子供達の解放された喜びを、「ぬけたらどんどこしょ」と飛び跳ねる様子で表現した。
 延宝8(1680)年の行列は、奉行16人茶筒19荷長持ち3棹(さお)、乗物2挺(ちょう)、乗懸(道中馬の両側に明荷(あけに)という葛籠(つづら)を2個わたし、さらに旅客を乗せて運ぶ)40駄付荷32駄軽尻(からじり;手荷物を5貫目(18.8キロ)までの人を乗せた)12匹分持(ぶもち;諸々の実務をする下役か?)15人の陣容であった。宿場では、その上に駕籠10挺と伝馬人足110人、伝馬17匹を用立てている。さらに高島藩は、御馳走として人足46人、馬32匹を提供し、警護役60人を出動させ、甲州境まで送り出している。
 貞享4(1687)年6月の「御納戸日記」に「六日御茶壷、湯之町下諏訪御泊りに付き、湯之町並びに金沢へ御馳走役人例年の通り相詰る、七日新町まで御使者井手八右衛門遣うさる」とある。そして金沢宿で弁当になる。御馳走役人笹岡角兵衛が接待した。8日、一行を台の原まで送った。御茶壷への進物として青鷺、蕨漬け、塩雉を差し上げている。
 日光例幣使は、毎年家康の命日に、京都から日光に参拝する勅使であるが、往路は中山道で、復路が東海道であったから、4月8日に下諏訪宿に泊まる。一行は50人前後で、4月1日に京を発ち、近江草津宿から中山道 を進み、上野国群馬郡倉賀野宿(高崎市倉賀野町)から「日光例幣使道 」に入った。例幣使の一行は「金幣」を納めた、葵の金紋付きの黒革長持を中心に例幣使が座乗した輿や随員が乗った駕篭が続く。16日は幣帛を奉納し、帰路は日光道中で江戸に出て、東海道で京に戻った。この一行は、賃料・宿料を払わないどころか、出掛けに草鞋銭を要求した。貧窮にあえぐ公卿の旅稼ぎであった。
 例幣使の一行は横暴 の限りを尽くし、とりわけ中山道から離れた日光例幣使道に入るとその増長振りは言語道断であった。 乗っている駕籠をわざと揺すり金品を要求する行為は、強請(ゆすり)」の語源になるくらいである。
 宿場や沿道の民家は雨戸を閉め、節穴は紙で目張りをすることが命じられ、宿場は「昵懇金(じっこんきん」を用意して強請に対処した。一行は江戸に出ると、日光より持ち帰った前年の金幣を細かく刻み、江戸表の緒大名屋敷に送りつけ金品を要求もしている。
 一度に設置されたわけではなく、5街道が整備され、本街道と脇往還に宿駅を設け、徳川家光の時代寛永年間(1624~1643)には伝馬制度が整えられた。宿場では公用人馬継立てのため定められた人馬を常備し、不足のときには助郷を徴するようになった。常備の人馬は東海道が百人百匹、中山道は50人50匹であった。下諏訪宿も50人50匹であった。裏街道の金沢宿・蔦木宿等では、25人25匹であった。また、公務の宿泊、休憩のため問屋場本陣脇本陣等の伝馬屋敷が置かれた。宿場の仕事の指揮運営するのが問屋であった。会所とも伝馬所とも呼ばれる問屋場を経営し、貨客輸送の継ぎ立てをした。荷が送られてくると、賃銭を定め伝馬役や人足に渡し、旅人には伝馬や人足、駕籠の手配もしていた。将軍が出す御朱印や幕府が出す御証文(みあかしぶみ)を所持する公卿、大名から駄賃は得られないが、それ以外の公用には、公定の「お定賃銭」があって、それを伝馬役や人足の賃料とし、高札場の「人馬賃銭札」に、その賃銭が記載された。大名の参勤交代等では、一定数までは無賃であった。
 これでは宿場の維持運営費は賄えない。公用以外の一般旅行者にも人馬を提供し、その駄賃が伝馬役問屋場の収入になった。この場合の一般賃銭は旅行者との合意で決められ、これを相対賃銭といい、お定賃銭のほぼ2倍程に設定された。
 伝馬賃銭規定では早くも天正(1581)9年、武田勝頼の時代に、塩尻の大門郷で「1里1銭」の定めがある。寛永19(1642)年の「下諏訪宿定」には、「下諏訪から和田まで駄賃1駄に付き161文軽尻(空尻;からじり;人を乗せる場合は手荷物を5貫目18.8kまで、人を乗せない場合は本馬ほんまの半分にあたる20貫目まで荷物を積むことができた。)97文人足80文。塩尻へは82文、50文、人足は41文、帰馬は同前。」とある。延宝3(1675)年、正徳(1711)元年、寛政10(1798)年、安永3(1774)年、文政(1823)6年と、その都度2割、3割増となり、慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争の勃発、明治維新の年には、「下諏訪から和田まで駄賃1駄に付き2,639文軽尻1,718文人足1,319文塩尻へは1,225文、793文、人足は609文」と急騰し、明治2年にも更に高騰し、明治5年伝馬制は全廃された。

 公卿、大名が泊る宿が本陣であった。脇本陣は本陣の予備にあてた宿舎で、伝馬役は、公的な貨客輸送を負担する百姓の課役で、人馬を継ぎたて荷物等を運搬する。伝馬役を負う百姓を「馬借」と呼んでいた。ただ大人数の場合、宿場常備の人馬では負担しきれなくなると、近郷の助郷(すけごう)の村々から応援させた。この助郷は、参勤交代等交通需要の増大につれ助郷制度として恒常化し、元禄時代に確立した。初期の下諏訪宿助郷は近隣の村々と記されるのみで、村名がないが岡谷市内の殆どが負担していたようだ。寛文5(1665)年の「下諏訪御書上」には15ヵ村、高685石、馬数合わせて15匹とある。
 元禄7(1694)年助郷村が確定し、道中奉行から助郷帳が渡され、定められた伝馬役が課せられた。24ヵ村が下諏訪宿の助郷村となった。その前年、下諏訪宿問屋が岡谷村は宿から遠く不便、友之村と替える事が願い出され、以後、岡谷村は定助(じょうしゅく)から加宿郷となった。「助郷」の名称は初期には、「定助」と呼ばれ、元禄になると「加宿」と替わるが、助郷村を指す「定助郷」の名は残った。それ以外の御朱印や千人以上の大通行時に割り当てられる村を、「大助郷」或いは「加宿郷」といった。
 下諏訪宿の24ヵ村助郷高は、下ノ原村318石、東山田村286石、西山田村610石、東堀村954石、西堀村212石、追川村605石、小口村402石、大和村320石、高木村226石、留部村219石、三沢村253石、小坂村209石、花岡村81石、橋原106石、鮎沢村65石、新倉村427石、今井村165石、下桑原村619石、上桑原村1,116石、神戸村440石、岡之谷村803石、福嶋村378石、赤沼村398石、飯島村397石の合計9,609石である。
 金沢宿の助郷は、御射山神戸、栗生、木船、菖蒲沢、柏木、払沢、埴原田、矢ヶ崎(塚原も含む)、横内、新井の10ヵ村であった。
 街道を通行する者は、人足や馬を使う場合、付け通すことは許されず、宿場ごとに人足や馬を替えなければならなかった。それが宿場の収入となった。これらの公用のための労役、業務で、宿場経営としての利益を上げることは難しかったが、幕府は地子(屋敷年貢)や諸役の免除、各種給米の支給、拝借金貸与など種々の特典を与えることによって、宿場の保護育成に努めた。
 ほかに一般旅行者を対象とする旅籠木賃宿茶屋商店等が建ち並びび、その宿泊、通行、荷物輸送等で利益をあげた。また、高札場も設けられていた。
 宝暦9(1759)年12月10日の「郡方日記」に、上諏訪町、金沢町、蔦木町から、間の宿(あいのしゅく)が往来の旅人を留めているので、留めないようにして欲しいと、願い出た事が記されている。間の宿とは正規の宿場間にある間の村で、旅人を休ませ茶と煮物等を出す小屋のような物である。宿場経営の権益を守るため、道中奉行は、宿泊はもとより食事を出す事も禁じていた。上記の「願い出」に対して、町奉行は「間の村」にあたる富部高木大和上桑原神戸上原茅野坂室?(とちのき)、下蔦木等の村の役人を呼んで、旅人は「宿場」を利用するから「間の宿」では留めてはならないと申し渡している。
 文化2(1805)年7月、道中奉行は「伝馬宿の外の間の村々」に対して、正徳5(1715)年、享保8(1723)年と既に「触れ」を出している筈なのに、煮売茶屋を旅人の宿としたり、茶立女を置いて旅籠にしたり、近在の馬を使い荷物を付け送る駄賃馬にしたり、近来それがみだりになっている。本宿の障(さわ)りとなるので、本人はもとより名主や年寄までの曲事(くせごと;それを罰する)とする。また「立場」は人足の休息場であって、そこで旅人に食事を提供してはならない。と厳しく申し渡している。
 宿場は幕府の道中奉行の指揮下にあった。五街道とその脇往還における宿駅の取締り、助郷の監督、道路・橋梁等の修復、並木管理、宿場の公事訴訟の吟味等、道中関係全てを担当した。その職掌は、宿場入用にあてるため、天領に賦課された税・御伝馬宿入用(ごてんまじゅくにゅうよう)を、5街道の問屋・本陣に給米し、宿貸付、助郷割替も扱い、極めて多岐に亘っていた。
  参勤交代の制度は、3代将軍家光が大名統制の1つとして寛永(1635)12年の「武家諸法度」で定められ、翌19年に整備された。参勤交代の往還の道筋は諸大名ごとに厳しく指定された。結果、東海道は159藩中山道は34藩日光道中は6藩奥州街道は17藩甲州街道は3藩、その5街道以外の水戸街道は25藩とされた。
 
 文化6(1809)年9月23日に伊能忠敬は和田峠から上諏訪方面を測量し、同8年4月19日に三河から伊那を測量して諏訪に至り、甲州街道を測量しながら江戸に帰った。
 文政3「1820」年、十返舎一九が甲府から諏訪に旅をし、さらに伊那の大出に向かった。その『滑稽旅賀羅寿(こっけいたびがらす)に、蔦木町から上諏訪町への途中を「上の諏訪より一里半ばかり手前にて日暮れたり。くらやまを辿り行くに往来もなく道のほど淋しく、やうやう上の諏訪に着きにける。」とある。
 小田原の役後、徳川家康は関東8ヵ国に移封された。それに伴い、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の徳川氏配下の領主もこれに従った。諏訪頼忠は武蔵の羽生(はにゅう)、奈良梨、蛭川(ひるかわ)の地、1万石を与えられた。豊臣秀吉は配下の部将達に、信濃国の領主として分与した。諏訪郡は日根野高吉が支配した。高吉は文禄元(1592)年、高島城の築城に着手した。しかし日根野の統治は、高吉の子吉明の代、慶長6(1601)年下野国壬生に1万2千石で移され減封に終わった。高吉は築城と伴に城下町を建設している。文禄元年、奈良屋仁右衛門が上原郷から移り、翌2年には上原の町家を移築させている。寛永元(1624)年には城下町が完成し、上諏訪町、又は新町と呼ばれた。
 高島藩は城下町の発展を最優先にした。次いで下諏訪宿、金沢宿、蔦木宿の3宿の商業を保護した。それにより間の村々を初め在の村々には、諸品の商問屋を許可しなかった。古着の販売、造り酒屋、糀(こうじ)製造販売等が禁じられている。文化4(1807)年7月の「触れ書」で、織物類、陶器等の焼き物類、椀や膳等の木曾物、乾物類、小間物等の日常必需品までもが、在の村では販売を禁止されていた。
 それで十返舎一九が行く、茅野村や上原沿いの甲州道中が「くらやまを辿り行くに往来もなく道のほど淋しく、やうやう上の諏訪に着きにける。」となった。
 文化13年には、その規制も緩和され、在の村にも店が並ぶようになる。茅野村の東茅野の商店が、江戸末期の嘉永年間(1848~54)の「西筋諸商人名前留」に、56筆43人の店が表記されるようになる。上川右岸の横内村と川を挟み、その左岸に東茅野が甲州道中沿いに発展していた。西茅野は宮川を隔てた位置にあって、商店の発展はなかったようだ。「西筋諸商人名前留」には「揚酒屋(あげざけや) 」をよく見る。12筆ある。その業種説明に関しては、明治5年の「高島領諸運上留書」にある。それには「在郷村々にて酒小売りの者」とある。「猪口場(ちょこば)」、現在の居酒屋、一杯呑み屋の姿はない。「豆ふや」が3筆ある。江戸時代初期、豆腐は将軍の食事に供される贅沢品で、その中期になるまでは、庶民は特別な日にしか食べることができず、製造も禁止されていた。それが3筆、江戸末期の茅野村の商店街にあった。「店売(みせうり)」4筆と「小店(こみせ)」29筆がある。前者は紙類、下駄、傘、小間物等百品ほど売る、いわゆる「よろずや」とみる。後者は文字通りの品数の少ない店であった。「活渕(いけす)」は川魚店で水槽を備えていたようだ。「棒てい」が5筆ある。「棒手振り」と呼ばれる、店を持たずに、天秤棒で商品を担いで売り歩く商い人であった。「菓子小売」が2筆ある。団子、飴、おこし、果物類の販売とみる。桜餅は向島の長命寺門番の山本新六が考案し、享保2(1717)年に店を開き江戸で大流行した。茅野村でも売られていれば嬉しい。
 「西筋諸商人名前留」に付箋が付けられている。江戸時代の特徴を叙述に示す重要な史料でもある。それによると、小店が
「店売」になりたいとの「願い出」を出しているのが3人、「棒てい」から「小店」への「願い出」が1人いる。「小店」への運上は5百文、「店売」への運上は8百文、それでもさらなる販路の拡大を期待できる茅野村東茅野の商店街の商い状況であった。

2)間の宿

   めでたさも 中くらいなり おらが春  
   これがまぁ つひのすみかか 雪五尺  小林一茶

 岡谷市鶴峯公園から川岸地区を眺める

 岡谷村は塚間川右岸の扇状地に、中世以前から発生した農業集落であった。鎌倉時代には岡谷地方の西山山麓の集落、中屋、中村、今井から岡谷を経て橋原に出ると、小坂と繋がる鎌倉街道に出、一方岡谷村は川岸から天竜川左岸の集落をぬって上伊那平出に通じる。交通の要衝として中世には、諏訪大社の宮関が設けられ、近世には間の宿として発展する。
 江戸時代初期、中山道は下諏訪から東堀、今井を通って、小井川、岡谷、三沢を経て、小野峠を越えて上伊那郡の小野盆地に入り、飯沼川沿いから牛首峠(うしくびとうげ)を越え木曾の桜沢に抜ける小野街道を利用していた。この小野通りの開発は大久保長安の意図による。当時の松本藩の2代藩主石川(玄蕃頭)康長が、中山道が自領を通る事を嫌い、縁戚関係にある長安に依頼した事による。また木曾代官の山村道祐が米を小野から仕入れている事に、便宜を図ったからともいわれている。
 当初のルートには、小野峠牛首峠の2峠の難路があり、道筋に集落がなく、伝馬の手当てに不便をきたした。なお工事は高島藩諏訪氏、飯田藩小笠原氏、高遠藩保科氏らに命じられた。
 慶長18(1613)年、長安と娘が縁戚関係にあったことから大久保長安事件に連座し、更に領地隠匿の咎を受けて康長は、弟の石川康勝、石川康次とともに改易された。長安も失意の中、没すると、翌19年には、中山道は塩尻峠越えとなった。
 慶長9(1604)年に、江戸日本橋からの56里塚が小井川丸加印刷所横にあったものが、塩尻峠越えとなると、より北側に移り中村と今井の間の集落横川に移された。 塩尻峠も、一里余り人家がなく、参勤交代も難渋したので、諏訪側の今井村と塩尻側の柿沢村との間に、御小休所(茶屋本陣)が置かれた。
 中山道沿道の村々、特に東堀村や今井村は発展した。甲州道中沿いと異なり、高島藩を通る中山道の間の宿は、下諏訪宿から牽制されず順調に発展していた。今井村は峠の手前でもあり、伝馬の課役は多かったため、準宿の扱いを受けていた。名主は毎年2俵の給米、諸役免除、「百姓屋敷」20軒が高免許の保護を受け、後に新屋敷27軒が追加されている。
 当時、本陣のみならず旅籠、木賃宿も屋敷と呼ばれた。各地に残る峠下の「屋敷」に関わる地名は、殆どがこれに当たる。したがって「百姓屋敷」とは、「間の宿」の旅人宿であった。馬、駕籠の継ぎ場としての「立場」はなかったが、諸大名が休憩する「御小休所本陣」があった。現在「今井六郎太宅」に、その遺構が残る。
 岡谷村は東堀で中山道から分かれて、伊那道に通じる脇往還としては、最適な間の宿であった。平出を過ぎ伊那谷を下り、杣路峠を経て三河足助を経由し岡崎に至る三州街道に繋がる。中山道には木曽福島に関所がある。伊那道から神坂峠を越えれば通行手形はいらない。三河、尾張方面への重要な裏街道であった。
  明和8(1771)年文化2年「岡谷村明細帳」に馬継場や問屋、高札場が記載されている。そこには、宿場で馬を用立て、輸送の指図をした宿役人の「馬差」に、「壱人御給米地頭より米壱石」とある。準宿として既に、充分機能していた。岡谷村は天正の『造営帳』で、岡野屋に諏訪下社が「宮関」を設け、関銭を徴収している事が知られる。既に中世交通の要衝であったことが分かる。文化12(1815)年10月、村役人の提出した願書に、「問屋、馬指に御給米のあること、また毎日馬4疋、人足8人、御先触持2人が出勤している」とある。「御先触持」とは、役人や貴人が道中する際、前もって沿道の宿場に、人馬の継ぎ立てや休泊等を準備させる宿役人である。準宿の程度が知れる。「宿」となるには、高千石が必要であった。岡谷村では達しえず、周辺の小尾口、上下浜、新屋敷、間下村を枝村とした。そして問屋は代々、照光寺前の「林八郎右衛門」が世襲していた。

3)柏原村の蓼科山論
 慶長18(1613)年の郡内の村名と村高等が記される「諏訪郡高辻帳」には、郡内72ヵ村とある。この村を「古村」といった。江戸時代の初め多くの新田が開発され、それに伴い多くの新規の村が誕生した。慶長14(1609)年の富士見町の立沢新田、翌15年の原村の中新田、元和元(1621)年の湖東上新井の東方、下赤田新田等、岡谷方面では小梅沢新田、若宮新田、萩山新田等、初期50年間に大部分の新田が成立した。
 初代高島藩主頼水が、荒地の回復と新田の開発を、藩政の重点の一つとし、荒地の再開発と逃散した民の召し還しを勧めたことによる。
 新田の開発は、広大な原山が第一で、次が渋川と柳川間の高原台地であった。そして幕末まで、それ以前の古村は「何村」と呼ばれ、新田の村里には村を付けず「何新田」と呼んだ。
 上社の外記大夫(げきたいふ;儀式の執行などを司る権禰宜)であった茅野家に伝わる鎌倉前期の嘉禎3(かてい;1237)年の奥書(おくがき)のある『祝詞段(のりとだん)』に、「武居ノ鎮守・藤島明神・若宮サンソン・武居蛭子・守矢之大神・戸澤トノ、大熊ニ七御社宮神・大天白・十二所権現、マジノ(真志野)ニ野明・立テ権現・クルミ澤ノ御社宮神、有賀之郷ニニウリ・ニウタイ(女躰)・チカト(千鹿頭)・若宮小式原・渡リ御社宮神、小坂鎮守ヲタイ(小田井)ニ鎮守、花岡三ノウ駒澤鎮守、白波ノ大明神ニチヨノ御神楽マイラスル」とある。祝詞段とは諏訪神社の神楽歌で、村落名と神社名を列記しているのが特長である。
 11世紀後期からは平安時代後期となり中世に移行したとみる。『吾妻鏡』の文治2(1186)年3月12日の条に信濃国の「年貢未済荘々注文」の記録があり、年貢を納めない荘園として28の御牧名が記されている。律令制の「信濃16牧」が28牧に増えていた。それは牧が隆盛発展したからではなく、荘園化される過程で細分化されたのである。荘園化されても左馬寮が本家であったであろうが、その権力は失墜し、馬等の貢納がなくなり、田畑化が進み「牧」の名も消えた所が増えていた。山鹿牧の名がきえて「大塩牧」の名の初出となる。「大塩牧」が荘園化されても、引き続き馬の飼育が組織的に営まれいたかは不明だが、農地として開墾は進められたようだ。『祝詞段により鎌倉前期の早い段階で、牧の使役から解放され、農耕集落が登場してきたことが分かる。『祝詞段』で知る北山浦の村落は、福沢埴原田北大塩湯川柏原飛岡中村南方(南大塩)、古田(小泉山の北、柳川右岸)であった。
 承久元(1219)~2年の由来書とみられる『根元記』には、「有賀郷にチカト、上原郷(茅野市ちの上原)にチカト、埴原田(茅野市米沢埴原田)にチカト」とある。
 宝治3(1249)年、上社大祝諏訪信重から幕府へ提出された訴状、「大祝信重解状」には、現在の岡谷市内の「山田郷」と「小井河」の名がある。 鎌倉時代、既に諏訪郡内各地に集落があり、それが成長して中世の郷村となり、近世の村落へと発展した。
 中世の郷村内は専ら耕作に従事する農民と、その上層にある農民は、小領主として普段は農事にあたるが、武士化していく傾向が強かった。秀吉は「刀狩」により兵農分離を徹底し、村を単位とする検地によって、本百姓を中心とする農村支配体制を確立した。江戸時代、高島藩内の村々は藩の下部組織として、貢租と課役の負担をするが、その自治も認められる自治体としての存在でもあった。用水の水利権入会地の採草と採薪権諏訪湖の漁業権等も村単位に属していた。村は共通の神を祀り鎮守の祭礼を行い、団結を維持した。
  茅野市北山の柏原村も古村で、貞享2(1685)年当時の記録には、鰍原(かじかはら)村とも柏原村とも書いている。古くは梶ヶ原村ともいわれた。鰍原の地名の起こりは、鰍が棲む清流のある原、鰍蛙(かじか)が鳴く里、あるいは、「人が住むぎりぎりの山辺」を「河内」と呼ぶ事が多いが、その「河内原(かわちはら)」が転じた等の諸説があり、いずれもが当てはまる山村に見える。単に「柏」や「梶」の原に由来するだけとも思えてくる。
 柏原村も刈敷、秣、燃料、建築材料等の入手のため、現在の白樺湖・池の平や八子ヶ峰を越え、蓼科山西麓の麦草平まで草木を取りに行っていた。特に、麦草平では古来より7、8月になると、柏原村の民は小屋を建て、炭焼窯を営み生業としていた。しかし、その地域の境界をめぐって、小諸領佐久郡芦田村との争論が、度々起こっていた。それがやがて蓼科山論に発展する。
 慶安3(1650)年9月28日付けで、小諸藩佐久郡芦田等5ヵ村から「謹言上(つつしんでごんじょう)」と幕府へ訴え出ている。その後8ヵ村となる。その中で「かじか原の庄屋弥兵衛麦草にて13年前(寛永14年)に材木を盗み伐り候所を」芦田村の御鷹見の者が目撃し、材木を焼き捨て弥兵衛の馬2匹を没収した。それ以後「当年、諏訪御領分かじか原の者共、わがままに麦草御鷹山にて材木伐り候に付き」高島藩へ訴えたが、採り上げないので幕府へ訴えたという。
 麦草は芦田等5ヵ村の山で、代々小諸の領主が巣鷹を下した御鷹山であった。巣鷹とは巣にいる鷹の雛で、これを捕らえて鷹狩り用に飼育した。
 昭和30年(1955)年4月1日 、芦田村・横鳥村・三都和村が合併し、立科村が発足している。立科町の前身である。小諸藩は、小諸市中心部のほか、依田信蕃とその子依田康国の城主時代の歴史的経緯から立科町の芦田付近までを領有していた。
 天和2(1682)年徳川綱吉の時代、柏原村から幕府への口上書に、延宝4(1676)年辰年の早朝、芦田村の人々「数百人の人数を催し、鉄砲67拾挺(ちょう)先立て色々道具を持ち来たり、炭焼小屋に押し寄せ時(鬨;とき)の声を揚げ鉄砲撃ち懸け」たとある。その小屋あった、諸道具、衣類、米飯、2千俵等を奪い、火を放った。芦田村の人々の憤りは激しく、また用意周到で多勢に無勢、一旦は引き下がる。翌日柏原村の衆は、「麦草平と申す処にて、鰍原9箇村の者、先規によりて7、8月に成り候へば、小屋を書け置き炭を焼き薪を取り候て渡世を送り申し候」と芦田村の庄屋にかけ合うが、相手しない、それで小諸藩に訴えた。ところが芦田村は既に江戸へ「先規の境より諏訪領へ1里廿7町踏み込み、琵琶石附近を境」と主張し出訴していた。琵琶石附近とは、八子ケ峰の裾野、白樺湖南側で小さな渓流が流れている。
 これにより柏原村は幕府評定所より返答書の提出を命じられ、江戸へ出府した。延宝5(1677)年8月21日の高島藩「大納戸日記」に「帷子1つずつ、諏方より参り候百姓5人に下され候、南大塩十三郎、北大塩吉兵衛、芹ヶ沢長兵衛、久左衛門、弥左衛門」とある。当然評定所事件であるから、江戸へ出府し高島藩の助力を、願い出たのであろうが、「帷子1つずつ」を下賜され激励されただけであった。まして「芹ヶ沢久左衛門、弥左衛門」とは、天和2年の口上書に柏原村の庄屋と年寄りで署名している。「大納戸日記」の誤りであるが、高島藩の認識と応援もその程度が限界であった。
 速くも延宝5(1677)年9月25日、幕府評定所8人の署名押捺により、絵図と裏書で裁許が下された。それには「同国諏訪郡鰍原村、北大塩村、南大塩村、堀村、久保田村、鷹目村、塩之目村、山寺、日向村、立科山境論の事糾明せしめ」と関係した村9村の村名が載る。対外的な争論であるので、利害関係する村数を増やしたと見える。しかし当時の村名を知る重要な史料となる。
 評定所は町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中1名で構成され、これに大目付、目付が審理に加わり、勘定所留役が実務処理を行った。 次いでその裁許状には「諏訪領より、さいの河原境の由これを申すと雖も、明暦3(1657)年万治3(1660)年麦草近所より小諸領塩沢村八重原村、堀水2筋掘り取り候ところ諏訪領異論に及ばず」とある。かつて塩沢と八重原村が塩沢汐八重原汐を掘った時、諏訪の村からは、何の異論も出ていないという。塩沢村は現在の立科町塩沢で、塩沢汐は女神湖の下流域に、未だその名を留めている。東御市の八重原区はかつての北御牧村南西部にあり、立科町に接していた。八重原台地は、雨量が少なく、江戸時代に立科町の蓼科山麓の水源から汐を引き、水田を開発した。
 「その上、深沢川の橋、芦田8ヶ村先規懸け来たり候儀、芦田村の者16年以前寅年の証文、之を差出、証拠分明候、且又立科山叢祠(そうし;草むらなどにある祠)の神主芦田村居住の条、旁々以て小諸領理運(りうん)也」と小諸領である事が理に適っている。そして「即ち小諸領申す所の屋しが峰境これを定めおわんぬ、向後諏訪領の者境越し立科山の内へ入るべからず、後鑑(のちかがみ)として絵図面境筋これを引き、各々印形を加えて双方へ下し置く間、右の旨永く遺失せざる者也」とはっきりと裁許している。絵図の境界に黒筋を引いて明確に示している。その黒筋は八子ヶ峰の峰を下り、池の平琵琶石までとされた。しかし分杭は打たれなかった。敗訴以降も幾度か口上書を差し出して入る。しかも依然として侵入して鎌を奪われたりしている。結局、芦田村や大門村から木を買い、炭を焼くようになり、明治以降もそれが続いた。
 元禄時代(1688~1703)には、諏訪郡内に千石内外の村々が発展してくる。矢ヶ崎、上桑原、下桑原、真志野、上金子、文出(諏訪湖畔近く宮川両岸)等の村々である。山浦は南大塩一村であった。

4)入会論争
  諏訪と伊那の境には釜無山系入笠山・守屋山真志野山と南北に伸び、諏訪では西山という、急斜面の地形ながら古くから集落が発達していた。その尾根を越えた伊那側は緩斜面で裾野が広いが、集落が点在する状態であった。そして伊那地方は古代にあっては諏訪の国に含めることが多く、中世でも諏訪氏と同族の支配下にあったため境界線がはっきりしていなかった。さらに諏訪の住民は、古代から当然のように尾根を越えて、建材として木を伐採し、燃料として薪炭用に、田畑の肥料・牛馬の飼料として草・笹・柴(薪:たきぎ:に使う雑木の小枝など)・萱など採取してきた。
 天正のころ棚瀬川の峡谷・(くぬぎ)(だいら)には鉱山があって、真志野村から盛んに採鉱の人がはいった。同時に真志野村から後山に開拓者が入り、天正18(1590)年の「真志野村外山畠帳」には、筆数300、高96石3斗8升の記録が記載されている。しかし椚平鉱山が廃鉱になると放置された。
 関が原後、徳川家より共に旧領に帰封された諏訪氏が、保科氏と初めて領地を接すると、諏訪の領民が昔からの慣行として、尾根を越えて、後山椚平上野板沢覗石沢底(さそこ)などの守屋山西南山麓に入り、草木を採取することが、伊那側との境界論争を呼ぶようになった。諏訪の領民は往古からの領有を主張して、江戸の評定所高遠藩と争うこととなった。幕府は評定所での解決は無理と知って、飯田藩主小笠原秀政に解決を依頼した。秀政は信濃の諸大名と図り、西山の稜線から伊那よりに大分寄った後山・椚平・上野・板沢・覗石までもの領有を高島藩に認め、諏訪の領民の主張よりの裁決をした。しかし、高遠領民の納得は、当然得られず後々までも争いが生じた。それで藩相互の解決は当然無理で、幾度となく江戸へ出ての訴訟となり、その莫大な費用負担が領民に課せられた。
 一例として片倉山山論の事件がある。諏訪領民は神宮寺宮田渡上金子中金子福島赤沼飯島高部小町屋安国寺中河原新井の12ケ村と高遠領の片倉御堂(みどう)垣外(がいと)の2ケ村との長年の山論である。当初は草木採取はさほど問題にならなかったが、諏訪領民のそれが頻繁になるにつれ大問題となった。
 元禄3(1690)年、真田伊豆守の家臣・久保田義太夫による伊那と諏訪の山野境界の高遠検地の際、双方とも長年の慣行というだけで、確たる証拠なく、片倉村側では「高島領12ケ村から毎年山手米(山野使用料)を受け取り、入会場所は4ケ所だけである」と申し立てた。高島領12ケ村は「4ケ所以外に数ヶ所、入会地がある」と反論した。久保田義太夫は実地検分の結果「大海道(杖突海道)から北西は分杭から本沢まで絵図面通り入会、大海道から東南は沢水ないし小道上場通りよけまで、それから東作り道まで見通し、その間の北東の内入会」と、双方立ち会い境界確認して手打ちとなった。これにより双方の名主・長百姓が連署し、取替手形(元禄3年7月「差上申一札之事」)を交換した。この片倉山山論で、諏訪側12ケ村の総費用は143貫178文となり、翌年8月15日に遠近、村高等で各村割り当てが決まり、最高は高部村の75貫文、神宮寺村は15貫40文であった。同年諏訪側12ケ村は、それぞれ山手米を納めている。一方御堂(みどう)垣外(がいと)は、諏訪高部・福島の両村から山手米1石2斗5升3合と口米3升8合を受けている。
 その他、他領との境界論争では、塩尻境界論争がある、70年も争い寛文5(1665)年に採決された。佐久境界論争では、蓼科山麓で慶安年間(1648から1652)から始まり、鉄砲を撃ちかける事件まで生じたが、延宝5(1677)年に裁許状が下りた。八ヶ岳論争は、甲州との国境問題で、寛永年間(1624~1644))から争い正保(1645)2年3月に裁許状が下された。但し、一応、裁許を下されたものの、依然として後々まで入会地闘争は続いた。
 山野は人類が存続するための糧であり、一切の生活資源であることは、今日と変わりない。それが古代か中世へと文明の発展と共に利用価値が増すと同時に、生産増による消費が拡大する一方、地域々々の権力者の領有が進み、自由に採取できる環境が狭まれてきた。
 現状は、江戸時代、次第に開拓が進み農地が増え、その結果、文化の発展がすすむと城下町・宿場町・門前町の建設が促進され、その建材として日常の燃料、田畑の増大に伴う肥料としての苅敷(山野の草または樹木の茎葉を緑のまま田畑に敷きこむことをいうが、かつて地力維持の重要な手段であった。)、家畜の飼料等の需要が急速に増した。その上、初代藩主・頼水、2代・忠恒、3代・忠晴と新田開発が盛んになされた。結果、諏訪湖周辺のみならず、広大な八ヶ岳山麓一帯にも、多くの新田村が出現した。しかも供給源の原野は開墾され、山野も乱獲が進み、荒廃していった。その上、中洲や芦原(あわら)も開拓され草地が減少した。慣習的に共同利用されていた内山(うちやま;自村が権利をもつ山野)だけではまかなえきれず、他村・他領の山野にまで侵さざるをえなくなった。
 山手米を納めて、境界線・採取物・採取道具・時期・順番・入山道等を細かく誓約させられて、地元村との入会権の確保がなされたが、それも需要の増大により守りきれず、新たな紛争へとつながった。
 高島藩領内の入会紛争は、藩の奉行所で扱われ裁許されたが、長引きがちで費用がかさむ上、奉行所まで幾度も出かけなければならず、その労力も大変であった。元禄のころになると仲裁人として扱人(あつかいにん)が現れ、内済で解決して扱人共々の連署で誓約されるようにもなった。
 だが隣接する高遠藩伊那領松本藩等の他領との入会紛争となると、江戸の評定所の裁定となり、江戸へ出掛けての訴訟のため農民の費用・労力の負担は大変なものであった。高遠藩との争いで、そのとき生じた借金の返済ができず神宮寺名主与次右衛門は家屋敷を失っている。

5)諏訪湖辺新田開発 満水堀
 
 頼水が諏訪に戻って最初に着手した1つに諏訪湖の開拓であった。水深の浅い諏訪湖は、少し水位を下げただけで、中筋方面にも、下筋方面にもたくさんの水田ができる。また湖面をさげることは、従来の水田の水害予防にもなった。頼水は高島城の水城としての要害を犠牲にしても、干拓を進めた。
 まず釜口の北側にもう一つの排水溝を作り、天竜川に2筋の湖水の出口を作った。これが元和元(1615)年完成の満水堀である。 この時、釜口に島が残った。弁天社があったので、弁天島と名づけられた。これにより湖岸周辺にたくさんの葦原の湿地ができた。盛り土をして水田とし、いままでの湿田が良田に変わった。 新堀・満水堀のお蔭でできた新田も、地形状、夏季の洪水時期になると水没の被害が続出した。さらに水位を下げようと、弁天島の中央を穿ち排水溝を増設した。天竜川への排水は3筋となった。弁天島は2つの島に割れた。北側を浜中島、南側を弁天島とした。このころには、高島城の天守閣の石垣に寄せていた諏訪湖の波も遠く退いて、辺りは広大な水田となっていた。水田が広がれば、洪水の被害も拡大した。平成の現代でも、水田あとに広がった市街地が、大雨が続くと冠水することが稀でない。
 一方、その当時、八ケ岳山麓の高原台地・山浦地方にも新田開拓が活発に進んでいた。そのためかつての広大な山林が消滅して、益々下流の諏訪湖畔の洪水の被害が広がった。被害をこうむる天竜14ケ村は、釜口の薮刈、川浚い、流水ゴミの始末に結束して働いた。天明・文化には大規模な天竜川浚い(さらい)の工事が行われた。
浜中島の撤去
 文政14(1831)年、徳川家斉の時代、水野忠成(みずの ただあきら)が老中首座となり、田沼時代をはるかに上回る空前の賄賂政治が横行した。諏訪では史上類のない大洪水が発生、大凶作となった。藩は有賀村の伊藤五六郎に来年中を条件に、浜中島の撤去を請け負わせた。時に、五六郎22歳。藩の許可を得て、長さ15m、幅3mの大船を作った。乞食その他の浮浪者を集めて、浜中島を崩した土を大船に乗せ、有賀村近くの湖畔の湿地を埋めた。そこに6町歩の田圃ができた。今日の中曽根の一部「五六郎田んぼ」と語りつがれている。延べ1万6千人と1年を要して天保元(1830)年12月に完成した。 この完成後も、水害は広がるばかりであった。新たに広がる湿地をみれば、人々はそこを埋め、新田を作り部落ができる。地形状の欠点はそのままであった。

 弁天島は葛飾北斎が描く富士36景の1つ、名勝の地であり、その弁天社は家老・千野家の篤い信仰を受けていた。明治元年9月、藩主・忠誠は、14ケ村の弁天島撤去の願いを受けて、14ケ村請負で許可した。半月で完成した。 この結果、頼水の頃、527.2Kmの流域があった諏訪湖の面積は、14.322Km となった。しかし短期の氾濫は終らない・・・・・

6)八ヶ岳山麓新田開発
 八ヶ岳の西斜面は中腹から緩やかで、南の釜無山系まで、広大な裾野を形成していて、その一帯を総称して「原山」と呼んでいた。「旧蹟年代記」には、「総名原山の地、大堺は嶽山(八ヶ岳)迄、南は高(立)場川迄、この川中に堺塚あり、原山地柳川の川中堺、西は宮川を堺、下は新井村赤田新田三本松迄、夫より上原村の九頭(くず)井宮(いのみや)より見通し、北は中道、槻木沢、東うけの咽(のど)と祓(はらい)沢(ざわ)鬼場川堺云々」と記されている。
 頼水は諏訪湖の新田開発と同時に、八ヶ岳山麓の干拓も始めている。南に立場川・北に柳川の2河川の中の総称原山の地にある原村一帯は、当時広い荒野であった。古くから諏訪神社上社の神野(こうや)として、諏訪明神の御狩場として神聖視され、押立(おしたて)御狩の神事(5/2)、御作田(みさくだ)御狩の神事(6/27)、御射山御狩の神事(7/27から)、秋庵(あきお)御狩の神事(9月下旬)等があり、3月には神使御頭祭(おこうおんとうさい;酉の祭)の御贄の鹿も原山神野で求められていた。古代より鍬を入れてはならないとされていた。また水源が少なく農耕に適さなかったことも事実であった。ただ採草だけは許されていたようであった。 それでも、鎌倉時代の承久元(1219)年の「諏訪十郷日記」によって、田沢青柳等神野周辺に村ができ始めたことが知られる。
 室町時代の「諏訪大明神画詞」には、粟沢神乃原中沢(なかつさわ)等の村名が見られる。それでも御射山社周辺の神野は手付かずだった。 頼水は藩の重要政策の新田開発に、原山に目をつけ神野の開拓を命じた。 慶長15(1610)年正月、遂に原山新田中新田)が誕生した。青柳の金鶏金山の抗夫が、金山閉鎖後、生活の糧を得るために成功させた事業だった。 原山新田に与えた頼水自筆の定書(さだめがき)等が現存する。 慶長15年正月である。

 一、 原山新田の儀は四カ年の内つくりとり致すべく候事
 一、 役永く免許せしめ候事 3月6日付け 定
 一、 地は四カ年荒野たるべきこと(4年間無税)
 一、 役免許のこと(お伝馬、川除け、道普請の課役免除)
 一、 走者一切停止のこと
 一、 方五十町の間草木わき郷の者にとらせまじきこと(薪、草などの採取地の保証)
 一、 次通り新町通るべく候、上道はきりふさぎ、人通らざるとうに仕るべきこと

 実に細やかな内容から、頼水の新田開発の意気込みが知れる。 この新田開発を実地に指導し援助したのが、弟・二ノ丸家老・頼雄であった。 現在も、中新田の人々は、頼水・頼雄を氏神様として祀っている。 寛永8(1631)年、11月21日、山田新田(茅野市玉川)が藩から新田完成の認定を受けている。つづいて元和元(1615)年以降の原村では、八ッ手新田を初め、払沢・柏木・大久保・菖蒲沢・雀ヶ森・室内等、80余りの新田が成功している。慶長から寛永・正保・慶安(1648~1651)の頃迄である。
 当時、肥料を自給するため、水田はその3倍、畑には2倍の草地が必要であった。採草地を開墾すれば、益々自給が困難になってきた。
 原山に入会権を持つ村は、北山浦を始め宮川沿いの古村や、大熊・神宮寺・宮田渡・赤沼・神戸・飯島・上金子・下金子・福島など63ケ村に及んでいた。
 原山草論の始めは、貞享(じょうきょう)5(1688)年の立場川東広原の草場論で、立沢村が中新田の入会を排除しようとした。郡奉行の吟味で「先規の通り」と裁許されている。
 中筋の田部・飯島・上金子・中金子・下金子・福島・新井の7ケ村は古来持山がなく、原山、富士見方面に入会をしていた。2代藩主・忠恒のころには、田作りのため早草刈を願い出ていた。結果、高部からうえの新井・粟沢から、木之間釜梨平(かまなしだいら)・乙事(おつこと)から高森まで、御林の外はかまい無く刈り取りを許された。
 それが正徳元(1711)年6月、郡奉行へ提出した口上書によれば、「御射山神戸山居くね(屋敷林)は、前々から刈敷用に夏草を刈り取りしていたが、当春、急に制限された。それに中筋の者には御憐れみをもって茅野の御林刈敷を下されたが、これも茅野・金沢の内林として拒まれ、木之間釜梨平の入会は、神戸村に限り、中筋の者には刈らせないといわれた」と訴え出ている。この結末は不明だが、原山は広いが、多くの入会村が入り組み、文政・天保・嘉永(かえい)と草論が絶えず、そのつどの訴願状や裁許状が残されている。さらに原山草論を複雑にしたのが、中筋の飯島・上金子・中金子の村々が、柏木・菖蒲沢・木船周辺に山畑・林畑・下田など開墾をし検地を受け、それぞれ(税率)が決められていた事にもよる。
 享和3(1803)年、新開畑が秣場(まぐさば)を狭めるとして、「新開畑潰し願い」が出されている。
 諏訪は固い地盤の上にあり、意外にも地震の損害は、赤沼(諏訪湖の南側、四賀の平坦地にあった村。ここにはカッパが住むと言われていた茅葉「ちば」ケ池があったと言い伝えられているように、渋水で赤く濁った湿地があちこちにあったので、赤沼と呼ぶようになった。)・島崎に例外的に記録される。火災も城下町に発生してるが、それほど多くはない。諏訪の災害の最たるものは、河川の洪水と湖水の氾濫であった。四囲の名だたる山岳から流れる各所の河川は、諏訪湖に集まるが流出口は天竜川のみ、少しの長雨でも水害が発生する。まして多年の治水工事よる大規模な新田開発の結果が、水害の規模を益々拡大するという皮肉を生んだ。 また江戸時代全国的に多発した冷害の被害は、高冷地のため諏訪郡は頻度も程度も激しかった。蕃は随分郡民思いの対策を講じている。その結果が、江戸時代一揆の発生がなかったという稀有な蕃となりえたのだろう。 蕃の施策は、新田の冠水が頻繁な村には、定納を求めず、年々、検見(けみ)してこれを定めた。小和田村(諏訪市役所の北側・大手辺り)にいたっては村高がなかった。 飢饉のときは、粥の炊き出し、富裕者に翌年の苗の支給を求めた。

7)綿から生糸へ                             
 
諏訪の家内工業は、早くから発達している。その大きな理由は、高冷地のために気温が低く、雨量が少なく米作にも適さないばかりか、他の作物の農業生産力が低かったため、副業に依存せざるを得ない状態であった。 主な副業に綿打小倉織(諏訪小倉)等の綿業があった。 室町時代の末ごろから棉の栽培とともに綿織が盛んにいた。戦国時代の16世紀前半、河内・和泉・摂津(大阪周辺)と三河・伊勢(名古屋周辺)で木綿栽培の産地化が進む。そのころ、庶民の一般的な衣服は麻であったが、綿織の普及が広がるにつれて、綿を衣服として使用することが多くなった。安土桃山時代・16世紀中頃になると、大阪で実綿(みわた;種がついたままの綿)・繰綿(くりわた;綿繰り車にかけ、種の部分を取り去っただけの、まだ精製していない綿)・織物関係の問屋が出現して分業かが始まる。しかし綿の庶民衣料としての本格化は江戸時代に入ってからのことである。 諏訪でも多少の栽培があったが、隣の甲州の北巨摩郡の逸見(へみ)筋に多く、諏訪の人々は、農閑期には綿打(わたうち)の賃稼ぎに出掛けた。
 綿打とは綿打弓(弓形で弦には、牛の筋か鯨のひげを用いる)で繰綿をはじき打って、わたの不純物を除きながら柔らかくする作業で、元手いらず冬稼ぎであった。 17世紀前半 綿問屋の伊勢商人が江戸・大伝馬町へ進出するようになると、庶民の衣服は、麻から木綿に変わるほど出まわるようになった。17世紀中頃 綿問屋が繰綿を江戸や北国筋に輸送するようになると綿製品の生産地が各地に出現するようになる。こうして商人が物流の担い手になると、生産の分業化が進み、綿布は反物として全国に流通し始めるようになった。17世紀末頃には、東北地方でも大阪から江戸に送られた繰綿を、商人を仲介にして、糸・布等に加工する生産に携わるようになった。
 18世紀になると、江戸や東北では、関西地方の綿古着の大消費地になっていた。 諏訪でも、元文・寛保(1740ころ)には、甲州から繰綿を仕入れて、居ながら綿打する人が多くなり、そこからよりこを作り、糸を紡ぎ、自家用衣料を作るだけでなく、現金収入を求めてより質のよい製品の生産に励むようになった。繰綿・製品を斡旋する問屋もでき、それにあわせて労力を広く集める専業綿織業者の工場もできるようになった。その綿織は諏訪小倉とよばれ、帯地袴地羽織地足袋裏等が作られた。殊に袴地は諏訪平(すわひら)と呼ばれ、江戸表や京大阪にも流行った時期もあり小倉織は藩の収入源ともなった。 棉花生産も、元禄年間(1688~1703)ごろには、畿内から瀬戸内地方・東海地方へ広く普及した。棉作は有利な商品作物として,ことに摂津・河内・尾張・三河で盛んになり、幕末のころには、全国生産のうち約30%を産したという。
  これらの製品は実綿・繰綿・綿布などの商品となって大坂に集荷され,商人の手をへて全国の市場に販売された。繰綿は江戸時代の重要商品で、正徳4(1714)年には、大阪から他地方へ移出された物資15品目中の7位で、その扱い高は銀4,299貫の金額になっていた。棉作の普及とともに,綿織も農閑期の商品生産として広く行われて綿織生産拡大の基盤となっていった。これを背景として前述のように麻から木綿へと庶民衣料の変革がひきおこされた。
 佐藤信淵の『経済要録』(1827)のなかで綿織物について「綿布は河内をもつて上品とし、畿内諸地及び豊前小倉・伊勢松坂等古来高名あり、其他武州青梅・川越・埴生・八王子・下総結城・眞岡及び三河・尾張・芸州・阿州等,皆夥しく白木綿を出す、旦つ近来下総八日市場・上州桐生等より,聖多黙(さんとめ)を始として種々の綿布を夥しく産出するを以て土地富貴し、人民頗る蕃息(はんそく;盛んにふえること)せり、且又薩摩木綿と称するものあり、甚だ精好にして世人これを珍重せり、然れども比れ亦、琉球製にして、糸及び染法共に皇国の物と異なり、開物に志ある者は、宜しく此法を学で織出すべし」と記している。これは江戸時代後期の綿織産地である。次に生産形態をみると、当初はいざり機(ばた)であったが、生産性の高い高機(たかばた)が、後期に入ると専業綿織業者に採用されるようになった。
 いざり機は地面に低く坐して織る機械であった。アイヌの機と共通している、極めて単純な構造で、わが国で最も原初的な機織り機といえる。五体で織り、機に張るたて糸を腰当てに結びつけ、腰の力で張り具合を調節し、よこ糸は、筬(おさ)で打ち込んだ後、樫材でできた重さ600g、長さ55cmの杼(ひ)でさらに打ち込む。高機も手織機(ておりばた)の一種で、大和機又は京機ともいう。木製のもので、織手の位置その他全体の構造がいざり機より高くなっているのでこの名がある。

 綿織業は農閑余業的農家の生産を基礎としていたから、自給的生産から商品生産へと変わっても小規模経営のままであった。その殆どが、生計を補完する経営で、市場と物流を握る商人の支配下に置かれていった。
 幕末ごろには、従来の小商品生産段階から発展してマニュファクチュアと呼ばれる生産の形態をとる機業が、尾西・泉南・足利・桐生等で部分的に現れてきた。安政の通商条約以降、外国から安価で品質の一定した機械製綿糸が導入されるに従って国内産の手紡績(てぼうせき)は衰退し、棉作農家は打撃を受けた。明治20(1887)年ごろには機械紡績の勃興とともに原料綿は、外国に依存し、国内の綿作農家は姿を消した。 横浜開港以来の生糸業興隆に伴い、それに転業するものが多くなった。 諏訪の小倉業も文政の頃から急成長したが、天保13(1842)年頃を境にして生糸の時代へと変わっていった。

8)養蚕と生糸                             
 
蚕は紀元前から生糸を吐き出す昆虫として飼われていた。我国には中国からの渡来人により大化の改新の頃もたらされた、関西から関東へと、さらに平安時代には全国に普及したものとみられる。 自給用の衣料生産として養蚕は古くから行われていた。明和年間(1764~1771)になると生糸の商品生産が始まる。 高島蕃は国産を奨励するため、文政7(1824)年桑苗の無償無制限給付の廻状を出した。これによって、天保年間(1830~1843)には、養蚕・糸とりが農家に広く普及した。 副業の発達により原料である繭が地元で得られたことは、大きな利点でもあった。また、文化文政(1820)頃には山梨県から繭を買入れたという記録があるので、既に他からの入手ルートもあったようだ。 続いて、「燃料である薪が手に入りやすかったこと」「動力として水車が利用できたこと」もあげることができる。交通が不便であった時代、これはかなり重要なことで、工業原料が乏しい日本では、その殆どを輸入に頼るが、その海外からの手当て、船積みと通関書類作成、国内輸送等の手間が省けた経済効果は大きい。
 一般的に、四方を山に囲まれた長野県は工業の発展には不利である。しかし、製糸業のように、加工しやすい原材料が近くにあるので、逆に有利になる。 もう一つの大きな理由は、諏訪が江戸期、重要な物流拠点であった事、中仙道、甲州街道等、常に上方と江戸を結ぶ街道交通の要衝にあった。この東西を結ぶ幹線道路によって、上方や江戸方面と生糸や綿製品の取り引きをすることができた。
 京都方面へ販売する生糸を一般に登せ糸(のぼせいと)というが、享和年間(1801~1803)頃には、西陣に需要が増えて、この登せ糸の販路が拡大した。安政6(1859)年以後の横浜開港に神奈川から、いち早く生糸の輸出をすることができたのは、このような生糸の販路が早くに確立していた事が挙げられる。この時の生糸の相場の急騰が、さらなる養蚕、製糸の増産を促し、明治以降の発展につながった。 以上の他、周辺に山間僻地が多く、その忍耐強い勤勉な労働力が集め易かった事、郡民が好奇心旺盛で、片倉製糸紡績株式会社の前身片倉組に代表される進取の気性に富み、世界の動きに敏感であったこと等もあげられ、様々な理由が重なって、諏訪の製糸業は発達していくことになった。
  養蚕、製糸は、耕地に恵まれない小坂村(岡谷市)・花岡村で早く、それが次第に広がった。製糸工場も立ち上がり、慶応2(1866)年には、上諏訪の問屋に糸会所もできた。そのころの郡内1ヵ年の生産量は2,600余貫、そのうち最大の200余貫を商ったのが友之町(下諏訪町)の又四郎であった。彼は家屋敷も名請地もない人であった。 このころの製糸器械はいわゆる上州坐繰機で、坐繰(ざぐり)製糸といい1人が座って糸を繰る方法が主流であった。幕末から明治にかけて諏訪地方に広く普及したものだった。坐繰機の普及にともない、ごくわずかではあるものの、マニュファクチュアの発生が見られるようになった。  明治初期には、3~5人という小規模な坐繰りの家内工業が行われており、近隣の部落からも取子を雇うようになった。 この頃、インドからの天竺糸や良質の唐糸が入ってくるようになり、同じ副業であった綿業は衰退した。
 綿業に携わっていた人々の中には、輸出によってその市場が拡大された製糸業へと転じる人もいた。 幕末には群馬・福島地方で生糸が多く産出された。長野の諏訪湖でも養蚕はおこなわれ、横浜開港(1859)にともない横浜に生糸を出荷している。
 幕府・藩の財政建て直しとか、明治政府の殖産興業の奨励の意図もあったが、農民の自立ということも大きい。米・麦中心の自給・自足経済から、酒、煙草、塩などが専売制になり現金がないと満足な生活が営めなくなる貨幣経済に農民が巻き込まれてきた。
 養蚕は老若男女の家内労働で現金を稼げる副業として畑を桑畑に変える人が増えてきた。蚕の種は江戸時代には信州(長野)は上州(群馬)を抜いていた、輸出もヨーロッパにしていた。明治に入ると養蚕業は信州全域に普及し、桑園面積は明治18年1万、23年2万、41年4万、昭和5年には8万町歩に達した。明治34年には群馬、明治41年には福島をこえ日本一になった。繭の生産は明治16年に群馬の2倍、福島の3倍にもなった。 明治末期には諏訪湖近くから山岳地方にまで養蚕は普及し、我国での生糸生産は、昭和5(1930)年には40万トンと史上最高になった。現在は1万トン、30万農家が3,000農家に激減した。現在は中国が世界の7割のシェア、日本は輸入国に転じた。
 蚕の卵は食物の種子に似ている、そのため蚕種とも呼ばれる。それを孵化させ桑畑で栽培した桑の葉を摘んで餌をやる。やがて繭を作る、1匹で桑の葉を25g、サラダボール1杯分を食べ、吐き出す糸は1,500mもある。繭の中の蚕は蛹(さなぎ)になってから湯につけて蚕を殺し糸を巻き取る。

9)寒天
①諏訪地方の寒天
 寒天は天草・おご等の紅藻類に属する海藻の煮凝り(いわゆるトコロテン)を凍結脱水し、不純物を除き乾燥したもので、およそ350余年の歴史をもち、日本で初めて発明された食品である。
 しかし、トコロテンを食料として用いた歴史はさらに古く、平安時代に中国大陸から伝えられた。当時の宮廷や高貴な人々の贅沢な食品であった。このトコロテンから寒天とする手法を発見したのは、徳川時代に伏見で本陣を営んでいた美濃屋太郎左衛門といわれている。
 正保4(1647)年冬、参勤交代の途上宿泊した島津公をもてなす為に作ったトコロテン料理の残りを、戸外に捨てたところ厳冬であったため数日後に白状に変化していた。それに興味をもち、冬の夜の寒さと、日中の日ざしに交互にさらされ、自然乾燥してできたのでは、と考え、これをヒントに透明な寒天を開発した。この製造に取り組み、後に「トコロテンの干物」と名付けて販売を始めたのが起こりといわれている。したがって、当時はまだ「寒天」の名はなく「ところてんの干物」と呼ばれていた。
 そして承応3(1654)年、臨済正伝32世、中国明末、清初の高僧隠元が試食し、「仏家の食用として、清浄無垢しかも美味、これに勝るものなし」と賞賛して、寒中に作られるから「寒天」と命名したと言われている。
 明和年間(1764~1771)には、大阪商人・宮田半兵衛が、伏見の寒天製造法を習得し、製法を改良し郷里の摂津・城山で工業化に成功した。その後しばらく、上方の名物として「寒天」は、関西地区で盛んに作られる様になった。寒天の使用によって練羊羹が完成され、圧倒的な人気を博した。
 穴山新田(茅野市玉川)の小林粂左衛門(くめざえもん)は、諏訪小倉織の行商として関西地方を廻っているうちに、天保8(1837)年、丹波国(京都府北部)の寒天の製造に着目した。冬期が長く、寒さが厳しい地元の諏訪でも、寒天作りは、最適な農家の副業と考えた。2年間ほど、丹波に留まり製法を学んだ。故郷の玉川村へ製法を持ち帰り、早速次の年から、地元で寒天作りに励んだ。
 当初は、家内だけの寒天製造であったが、道具もそろい弘化2(1845)年からは、子之神新田(ねのかみしんでん;玉川)の(白川)万歳と共同して、大阪方面から天草を仕入れ、製品は甲府や江戸へ送り出した。嘉永4(1851)年ころには、中河原村(宮川)の (浜)冨蔵、坂室新田(宮川)の (今井)芳太郎の2人も、寒天製造を始めた。いずれも自主生産で、出荷だけを共同にした。
 日中は晴れても日が短く、夜間冷え込む信州の気候は、寒天作りにうってつけであった。また、雪や雨が少なく水がきれいな諏訪地方は、寒天作りに最高の舞台であった。こうして、諏訪地方の寒天作りは農家の冬の間の副業として定着し、日本一の寒天が作られるようになった。生産地が、諏訪であれば冬の農家の余業として、遠隔地への出稼ぎ負担も解消されるため、人手に難渋することもなかった。
 それ以来150年たった今も、角寒天のほとんどが茅野のかつての坂室新田村で生産されている。諏訪では天保年間より農家の副業として発展した。茅野市を中心とした地域で、毎年12月中旬から翌年の2月中旬頃まで製造される期間限定の特産品で、夜間-5度~-8度に下がり、日中は+5度~10度で、晴天の日が多く日照時間が短いから適度に融解される。雪や雨が少ないからよく乾燥され、豊富で良質な井戸水により不純物のない寒天ができた。

②寒天業の推移
   粂左衛門が寒天製造を始めてから12~13年目の嘉永6(1853)年2月、「中河原留蔵等寒心太(かんてん)許可願」が、高島藩奉行所に提出されている。それによると、製造期間は寒の12月中旬から2月中旬までの2カ月間で、製品の不出来は取り捨てられ、上物だけを甲州と上野へ、信濃国内では、上田と善光寺平へ販路を広げている。寒天の用途は、羊羹屋、菓子屋、料理屋等であった。また諏訪郡中の寒天業者は、現在営業許可を得ている11株とし、生産の過剰回避のため新規参入を認めないで欲しい、その11名の運上として5貫500文を上納すると願っている。
 ところが、2年後の安政2(1855)年2月、先の11名中6名が奉行所へ、近年、天草が払底し高値のため休業すると願書を提出している。寒天は楽な製造販売業ではなかったようだ。
 万延元(1860)年8月の「道中日記覚書」は、白川万蔵が、伊豆から江戸へ、天草を仕入れに出張した際の日記である。51両2朱518文を所持し、8月16日、子之神新田を発った。甲州台ヶ原(山梨県北巨摩郡白州町)と鰍沢(北巨摩郡鰍沢町)で2泊後、鰍沢から富士川通船で約72km、岩淵(静岡県庵原郡富士川町)で下船、その日は吉原(清水市葭吉原)で1泊、翌日は沼津を経由し、天城峠を越えて下田港へ出て、現地の天草問屋に支払いを済ませている。それから江戸へ向かい、問屋から房総三宅島新島の天草を仕入れて帰郷している。
 荷造りされた天草は清水湊へ運ばれ、その港から蒲原へ小船で移送され、蒲原からは馬で岩淵まで運んだ。岩淵からは当然、鰍沢までは舟運となる。鰍沢からは中馬で子之神へ付け通しであった。
 文久元年の万蔵の「万日記」には、日本海側越後からの買い入れ2ルートも記されている。糸魚川から信州大町⇒松本⇒塩尻⇒下諏訪⇒上諏訪の問屋を経て子之神へ入る。直江津からは高田⇒関川⇒柏原⇒牟礼(むれ) ⇒和田峠⇒下諏訪を通している。なお、この「万日記」には、角寒天と細寒天(糸細寒天)が記されている。
 このことは、諏訪の寒天製造の沿革から、当初の天草の仕入れルートが、遠隔の関西にあり、その物流費の負担が大きかった。それが富士川通運の利用により、当初の業者が脱落する原因となった天草払底し高値という事態が解消された。また越後ルートの要である糸魚川、直江津等の問屋も、その仕入れの多岐化に多いに貢献した。販路も、諏訪特産の寒天は、品質がよいため信濃のみならず、甲府、江戸、富山へと販路が拡大した。また寒冷地の諏訪では、農家の余業に適し、人手も得やすかった事が、盛業となる要因ともなった。
 ここで諏訪の寒天製造は成長拡大をする。安政7(1860)年になると、かつて11株だった寒天業者は21株と成長している。5年後の慶応元(1865)年11月、そのうち5名は、高島城下にも店を構える仲買人に指定されている。それから5年後、慶応元(1865)年11月、「寒天仲間帳」は、25名の寒天業者の名が載り、これ以上同業が増えないように奉行所へ願い冥加金の提供も申し出ている。
 嘉永6(1853)年既に、寒天業者11名を11株として運上を毎年上納するようになっているから、この時の冥加金は、献金的なものと考える。冥加金は本来、献金的なもので、税率の定めがない一時金といえたが、高島藩の場合、商・工・漁業等の営業を許可する代償として、毎年、賦課されるようになり租税の一種となった。ただ単に冥加というと、献金・権利金・租税という3つの場合が想定される。
 茅野市域に盛業する寒天製造は、明治時代になり中央線が開通すると、飛躍的に発展した。

10)諏訪鋸
 鋸の製造は、江戸時代、諏訪、上田、小諸等で盛んであったが、文化2(1805)年、諏訪高島藩の招きにより、江戸で有名な鋸鍛冶師、中屋甚九郎が諏訪に移住して藩御用の鋸製造に従事するようになると、多くの弟子が山浦地方に集まり生業にすると、諏訪地方はたちまち信州を代表する鋸産地となった。
 日本の中部地方とその以北の鋸業は、江戸時代中期以降、中屋(なかや)と二見(ふたみ)家の2系統が主流となり、近年に至っている。甚九郎は中屋系で、江戸に在住当時は6代目中屋甚九郎と呼ばれていた。初代中屋甚九郎は正保年間(1644~48)、江戸銀座2丁目で中屋という屋号で鋸製造を始めた。現在の東銀座周辺は、かつて木挽町と呼ばれる地域だった。江戸初期に、江戸城大修理に従事する木挽職人(鋸引人夫)を住まわせたのが地名の由来という。宝永年間(1704~12)、3代目甚九郎の時代、京橋へ移った。
 その後6代目甚九郎の時、高島城下小和田村(こわた)の大工伊藤権右衛門が、江戸藩邸の番匠(大工)として、甚九郎の鋸を愛用し、その巧みさに感心し、諏訪移住を勧めた。甚九郎は、家業を弟の彦兵衛に譲り、文化2(1805)年9月、諏訪へ移住した。二之丸騒動落着後後嗣となった高島藩7代藩主忠粛(ただかた)は、甚九郎に鋸製造の一家をたてさせ、鋸鍛冶取締役とした。その時に藤井の姓を賜ったようだ。当時、高島藩の鍛冶取締役は、刀匠の川上甚左衛門であった。

  甚九郎は、城下の清水町に住み鋸製造に励む一方、技(わざ)の研鑽や弟子の養成に努めている。修行が終わり鋸鍛冶を開業する弟子には「甚」か「九」の字を授け、独立資金が不足する者には、貸し与え支援をした。甚九郎の直弟子は、上古田村の小尾九郎兵衛、南大塩村の宮下九平、穴山新田の長田甚四郎、山田新田の河西甚五郎、粟沢村の甚八、武津村の宮坂甚三郎、大熊村の関甚五右衛門、上浜村(岡谷市)の清水甚兵衛等、諏訪郡内各地に広がった。多くの門人が独立開業して互いに品質や技術を競い合い、産額が増えると、鋸商が全国に販路を広げ、諏訪地方は新潟県の三条市兵庫県の三木市と並ぶ鋸産地に成長し、全国に質のよい「諏訪鋸」の存在が知られるようになった。
 金山神社(かなやまじんじゃ)の祭神は金山比古神(かなやまひこのかみ)で、現在は諏訪大社上社東門の南側、境外に石の祠が残っているだけだが、甚九郎の時代には、上社の神宮寺村(諏訪市中洲)桔梗屋前に祀られてあった。この神は鞴(ふいご)の守護神として、鍛冶職人や金物を扱う商人から尊崇され、毎年11月8日、金物関係者が集い神前にて祭事が行われた。甚九郎は、その機会を利用して金山講を主宰して、互いの技の実験を語り合い、技術の向上を図っている。「諏訪鋸」の発展は、開祖藤井甚九郎の研究努力と、その技術の継承者弟子の養成に負う事が大きい。
 諏訪の鍛冶職人、甚九郎たちが、文化年間以降、使用した砂鉄は、みな出雲国安来(やすき)産の玉鋼(たまはがね)であった。鋼は幾度も鍛錬を繰り返すことにより、玉鋼の中にある不純物を除去し、より硬くより曲がりにくい鋼ができる。その作業は夜明け前に仕上げるのを原則にした。鋼の焼けた色の具合を見分けるのには、暗い内がよかったという。原料の玉鋼の入手は、当初は飯田の問屋を通したが、やがて大阪⇒江戸⇒岩淵(静岡県庵原郡富士川町)⇒鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)⇒諏訪という、富士川通船ルートを利用するようになった。
 甚九郎は、天保14(1843)年7月、61歳で逝去した。その子の甚九郎の技術も秀抜で、その名声は信濃のみならず、甲斐、越後、上野、飛騨等に広まり、その地方からも弟子が集まるようになった。
 明治前半には、諏訪地方の鋸業者が580余軒にのぼったと伝えられている。明治初期以来続く北海道開拓に、最もよく使われたのが、諏訪鋸でもあった。諏訪鋸は切れ味のよさと、その鍛造と技巧の妙とで全国に知られた。なお、昭和初期ごろから「信州鋸」と呼ばれるようになり、昭和58年、長野県知事により「長野県指定伝統的工芸品」とされた。
 「諏訪鋸」は、当初、甚九郎鋸といわた刃渡り58cm等の山林用大鋸が主であった。幕末から明治初年にかけて、郡外から新たな種類の鋸の製造技術が導入されてくる。大工用の両刃鋸・胴付鋸は、山田新田(茅野市玉川)の田中米吉が小県郡上田鍛治町(上田市)の中屋七左衛門より、同じく穴山新田(茅野市玉川)の牛山猶勝が佐久郡小諸の中屋竹造より習得して諏訪地方へ広めた。胴付鋸は、片側のみに刃が付いている片刃の鋸で、反対側の背と呼ばれる部分に鋸板(のこいた)、または鋸身(のこみ)そのものを補強する背金(せがね)を付けた。「諏訪鋸」の種類の増加は、各地からの需要を拡大させ、鋸の製造技術の発展に拍車をかけた。当時の鋸製造は小規模な手工業で、同一工場内での終始一貫生産で、焼入れは主人が担当して自分の銘を刻んだ。その製品に対する誇りと責任ある姿勢が、「諏訪鋸」を普及させる結果を呼んだ。

 鋸鍛冶は、ある一定の低温で冷やし、その冷えが最適だと、切れ味と硬度が増すといわれている。それで冬季に優良な製品が生まれるといわれている。鋸の鍛造に適した標高760m以上の八ヶ岳山麓の低温は、鋸の品質を向上させる一方、諏訪地方の農家にとって、「諏訪鋸」は長い冬の副業として多いに役立った。諏訪鋸の鍛造に必要な良質な松炭や栗炭が、周囲の山林から豊富に産出されたのも、この地に鋸製造が根づいた要因でもあった。
 明治時代には、山林用として手曲(刃部と柄部に角度がある)類、手伸び類等、大工用として両刃、片刃、先丸、畔引き(精密加工用の鋸で、刃渡りは1.5寸から5寸までと小型)等、特殊用途の炭切り、氷引き等、需要に応じた工夫もなされている。原料入手や資金調達も地区問屋の台頭で容易となり、販売も鋸製造者以外にも、鋸の行商人や問屋により、販路も関東、関西方面へと拡大して行った。
 手打ち製造をモットーに品質や技術を一途に追求する伝統を守ってきた信州鋸は、切れ味、耐久性、使い勝手、すべてに優れた逸品で、手打ちと機械を併用するようになった現在でも、多様な現場で鋸を使うプロのめがねに適う道具として高い評価を得ている。

11)氷餅
 
氷餅(こおりもち)とは、冬の寒い時に作るもので、朝晩の冷え込みが厳しく、日中は晴れて乾燥する諏訪地方独特の気候の下、凍結と解凍を何日も繰り返して徐々に乾燥させて干し上げて作るもので、寒天凍り豆腐と並ぶ諏訪地方の厳冬期の特産品である。
 江戸時代の氷餅は、高島藩の藩士らによって保存食、携帯食として作られていたが、やがて蕃の独占事業になり、城の本丸に製造所があり、徳川幕府への献上品とされ、他藩主の贈答品にもなった。また家臣に下賜されることもあった。そのころは1年に10俵から15俵の米を消費する程度であった。 農家では、戦前、6月の農繁期に、冬作っていた氷餅を凾(かん)から取り出し、茶碗に入れて熱湯を注ぎ込むだけで、とてもおいしく、猫の手も借りたいくらい忙しい時の休息時に、簡単にでき、しかも栄養のあるものとして、どこの家庭でも大寒を中心に餅をついて作って保存食としておいた。
 今では、氷餅を細かく砕くとキラキラ光る雪粒のように見えることから、和菓子店では菓子の表面にまぶす装飾材として使われることが多い。 明治以降、農家にも生産が普及したが、食生活の変化などに伴い、今では数軒の業者が主に和菓子の材料向けに生産しているだけとなっている。ただ、自家消費のために氷餅を作る家庭は、今も少なくない。氷餅を砕いて器に入れてお湯を注ぎ、砂糖を加えるなどして離乳食や病人食、子供のおやつにする。

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