長江文明
長江の良渚文化
その後の調査・研究により、この長江の稲作農業は「萌芽期(BC10000-9000)」、「耕前期(BC7000-5000)」、「耜耕(しこう;
耜はスキ)期(BC5000-3000)」、「犁耕(りこう)期(BC3000-2000)」の4期に区分されるようになります。
最初に発掘された 河姆渡(かぼと)遺跡の稲作は「耜耕期」にあたり、牛や水牛等の肩胛骨製の鋤が、水田を耕起して水平にするのに使われています。
この遺跡からは大量の稲籾等が出土しているので、長江中下流の広い範囲で水田稲作が行われていたことが分かりました。
河姆渡遺跡より、後世の良渚文化は、長江の下流・太湖流域周辺を中心とした、B.C.3,300~B.C.2,000年の遺跡です。農具の進歩が著しいようで、犁耕(りこう)が行われていたようです。犁(すき)は、鋤と音が同じですが、水牛等に引かせて耕起する用具ですから、生産力はかなり向上します。黄河流域で、犁(すき)が遺物として出土するのは、はるか後世の「戦国時代」になります。ただし、「商」時代の卜辞(ぼくじ)に、犁の文字があります。商の人は、良渚文化の人々より、随分と遅れますが、牛耕を既に行っていたのです。
水田稲作は生産性と効率性の高い農業です。稲作によって余剰とゆとりが生まれます。余剰の蓄積は、他の生産財との交換を求めるようになります。ゆとりは、食料以外の生産を可能にします。交換製品の増産と品質向上により、分業が興ります。専門職人の登場です。良渚文化時代、職人は主に土器や玉器や絹の生産に従事します。
高度な製品は、他の集団との物々交換を可能にします。広域に展開する交換経済は、消費市場を中心とした都市を整えていきます。世界的に見てもB.C.3000頃は、高度な都市文明が興った年代です。やがて、多くの余剰を持つ者と持たない者、勤勉と技術力の差が、貧富の差を広げ、富裕層を登場させます。富裕層は、自らの財産とそれを生む技術を守る必要性が生じます。そこで城壁都市が建造されたのです。
このころの遺跡からは、石斧等の鋭利な武器が大量に出土するようになります。富の争奪が、戦争を惹き起こしたのです。そして軍事力に勝る勢力は、周辺の都市に侵攻して、それらを吸収し、さらなる巨大な都市を形成していくようになります。屈家嶺(くつかれい)文化や良渚文化が、丁度この時期にあたります。
河姆渡遺跡ばかりではなく、長江中流域の湖南省高廟遺跡や上流域の三星堆(さんせいたい)遺跡等、長江流域の稲作民の遺跡からは、丸木舟や櫂等と一緒に鯛や鮫の骨、鯨の背骨も出土しています。彼らの生活は、『史記』の李斯伝に「百越の民」と記され、道教文献の『荘子』や『南華真教』には、「越人は断髪文身(髪の毛を短く切り体に刺青をする)」とあるように、操船による漁労と稲作を生業にしていたのです。
こうした稲作・漁労の生活は、次の「犁耕期」(日本では縄文時代中期)になると、農具は骨耜から石犂になり、稲作農業は大きく発展し、その範囲も長江の南北に拡大し、それとともに水運も発達して、中国最初の都市文化として知られる「良渚(りょうしょ)文化」が形成されます。
浙江省呉興県東南7㎞の銭山漾の東南岸から 銭山漾遺址(B.C.3300~B.C.2600)が、1934年に発見されました。高床住居で、農業は稲・胡麻・空豆・真桑瓜・野生の桃・サネブトナツメ・ヒシ・瓢箪・落花生等が栽培されていました。
木製で長さ118.5㎝、握る部分は直径4㎝の米搗き用の杵、カラムシから採った繊維の織物の狩猟漁撈の網具、世界最古の絹織物の帯と糸も検出されました。養蚕を裏付ける重要な発見でした。竹等を使った敷物・笊やアンペラ(敷物)・籠・箕・木の鉢等、今日でも通じる日常品の出土でした。
良渚文化は、長江の下流・太湖流域周辺の優れた古文化で、B.C.3,300~B.C.2,000年の遺跡です。1936年に余杭市の良渚鎮で初めて発見されましたので、良渚文化と称されました。その文化の大規模な繁栄ぶりから、城壁があって当然ですが、それと思われる小高い土塁に、版築工法の跡が発見されました。
良渚文化は、浙江省余杭県良渚鎮一帯を中心とする一連の遺跡文化の総称ですが、その範囲は、長江デルタにある巨大な湖・太湖を中心に、南は銭塘江(せんとうこう)を越え、北は江蘇省北端に及び、西は無錫を含む広範な地域に亘っています。
良渚の西北西5~6㎞の莫角山では、宮殿が発見されました。農民を徴集、使役した大規模な土木建築で、3万㎡に及びます。ここは杭州平野の西方の天目山から平野に移る境界です。巨大な基壇があり、日干し煉瓦づくりの神殿がそびえたち、屋根や柱は朱色や黒色で鮮やかに彩られ、明らかに中国最初の都市の存在を示しています。1936年頃から発掘が始まり、400近い遺跡が発見されました。
良渚遺跡群は余杭市良渚、安溪、瓶鎮の三鎮にまたがっていて、新石器時代晩期の人類の生活址であり、莫角山遺跡を中核とする村落、墓地、祭壇等の各種の遺址が50余ケ所あリ、代表的な遺物は黒陶と玉琮・玉鉞・玉壁等を主とする玉器と絹製品で、分業化もなされ空前の制作レベルに達しています。精緻な玉工芸は、当時の手工業が、高度な技術を背景にしていたことを示しています。その他の漆器、絹や麻の織物製品、象牙製品等も、当時の生産品が一定程度の先進性と、文化的潜在力を表しています。
B.C.2,000年の良渚文化圏にある桐郷市姚家山遺跡で、良渚文化晩期の墓地6ケ所を発掘しました。これらの墓地からは、玉鉞、玉壁、玉錐形器などの器物200点近くが出土しました。特に、玉製の除草農具が初めて出土したことが注目されます。長さ10cm余り、幅約4cmの玉器で、弧形の刃と背は「凸」形に突起しています。この玉器は、良渚文化特有の農具ですが、玉器ですから祭祀具か礼器であったのでしょう。
1980年代以降、反山、瑶山、匯観山等において、高台塚と祭壇遺跡で一組となる、貴族階層専用の墓地が発掘されました。殉死者を伴う墓も発見されています。これら貴族の墓は、大部分が人工的に土を盛って造った大型墳墓で、その大部分が広くて大きい墓穴、精緻な葬具を備え、精美に作られた大量の玉製礼器が副葬されていました。
これと対照的なのが、徐歩橋、千金角、平邱、呉家埠、廟前等の遺跡に見られるは、小型の平民の墓でした。それらは埋葬用に、特別に造成された墓地を持たず、居住地区の周囲に散在しているだけで、墓穴は狭くて小さく、副葬品も、貧弱な陶器や小さな玉の飾り物だけです。これらのことから、良渚社会には既に、身分と貧富による格差がはっきり現れていたことがわかります。
さらに莫角山に、大型建築遺跡が発見されました。それは、原始氏族社会を凌駕する、ある種の王権力によって、初めて達成できるものです。先述の大型墓の造営工事量は莫大で、特に莫角山のように、当時の人々が通常必要とはしないような大型墳墓を目の当たりにすると、良渚文化期の人々の造営能力に感服する前に、使役された平民の生活状態に不安を禁じ得ません。まして当時の日本は縄文時代中期です。恵まれた自然資源と気候に支えられ、家族的な集落生活を送っていた時期です。それに反して、このように大規模な造営工事は、苛烈な支配秩序によってしか、成し遂げられません。
貴族階層の暴君的な圧制が想像されます。良渚文化期において、氏族と部落には高い王権力的指導者がすでに出現しており、大量の労働力を組織し、こうした大規模造営工事を実行したのでしょう。
高度な文化を育成しながら、その権力階層の余りにもの奢りが 、権力の堕落を生み、華中の英雄的首長・黄帝の侵攻になす術が無かったのではと思われます。その時始めて、大規模な軍事力の存在を知ったことでしょう。
ここで、良渚の玉器を代表する玉琮を研究します。後世、その工芸文化が高く評価され、その後の中原王朝時代にも、その影響を受けた優れた玉琮が、大きさと高さが違っても数々製作されています。
良渚文化期の玉琮は、後代と異なり直径が20㎝、高さは50㎝を超えることはありません。人間が手に捧げ持つのにほどよく合わせて製作されています。極めて精緻に作られていて、その玉器の神獣人面文様の絵柄は、羽のついた帽子をかぶった人間が、怪獣の巨大な目玉に触れている構図です。明らかに河姆渡から受け継いだ太陽信仰、鳥信仰、目玉信仰などの観念を集約していて、その文化を伝承していた事実に驚かされます。
玉琮は、王の権力を表わすものです。四角い筆立てのような外形をしています。方柱形の内側は円筒形にくりぬかれています。円は天を表徴し、そこを神の居場所と定めます。その天を囲んだ四角い外形は大地、すなわち人間界を表します。玉琮を持つ者は、天の神と交信できる王権が宿る存在を示します。良渚文化は、祭政一致の神巫(かみなぎ)社会であり、ピラミット型の支配構造が、確立しています。
また、こうした玉器や土器の表面には、文字らしき記号が多く刻まれ、亀甲文字の先駆ではないかと思われます。良渚遺址では、1936年の発掘当時、9 種類の刻画符号が出土しています。
春秋戦国時代によく玉璧が登場します。ヒスイ文化の発祥地・日本で在ってもその熱狂振りは、なかなか理解ができません。巨万の富の象徴で、天を表わす円をかたどり、真ん中に穿けた円径の穴を通して、魂を天に送り還します。大?口文化灰陶の図象記号に似た複合体の玉璧符号も見られます。
良渚文化の遺址には次のようなものがあります。
瑤山祭壇墓は、1986年、浙江省餘杭県、反山遺跡から東北に約5㎞の瑤山で、天目山山系に属した背丈の低い山で、中腹から祭壇が見つかりました。長方形に赤土を小高く盛り、突き固め、周囲には黄土を敷きつめています。11基の墓穴からおびただしい数の玉製品の首飾・腕輪・帯留・冠が出土しました。頭の先から爪先まで、その神聖な玉にくるまれていました。このことから、玉葬墓とされています。大型の軟玉製品には、細い刻線を使った細密な装飾紋が刻され、有孔円盤状の器の璧も見つかりました。
呉江龍南遺址は、揚子江下流の太湖の南、銭山漾の東北50㎞の呉江龍南で発見され、3段階の文化が重なっていました。一番下の層は、一つ前の段階から良渚文化に変化する時期のもので、住居跡の一部が発見されたのみです。
次の層は、良渚文化早期のもので、当時東西に流れる川を挟んで、合掌造りの屋根・井戸など住居跡が多く発掘されました。川の水流は幅約3m、深さ4m弱で、鏃・漁網の錘・魚貝の死骸などが出土しました。北岸の屈折した所に幅40~50㎝、高さ40㎝ほどの土を敷き固めた、非常に堅い堤防も見つかりました。北側には円い竪穴の豚小屋、川岸で水仕事をする場所から砥石、貯蔵用の竪穴、蒲を編んだ敷物・紡錘車なども発見されました。
陶器は、鼎・高杯・鉢・蓋などで、鉢から脂肪等を検出され、スープを作っていたと想像されます。円と各辺が内反りの三角形か三叉形を組み合わせた紋様があり、河姆渡文化の「双鳳朝陽文」に通じます。灰色・焼き上がった時に煙でいぶして表面を黒くしたもの・橙色等のもので、轆轤(ろくろ)で成形しています。
靴形石器は、包丁として使用したと思われます。大型の靴形石器は農具で、山西龍山文化で豚と一緒に出土しました。他に有孔石斧、歯がない下駄(スリッパ)も見つかりました。
次の層では墓場の埋葬品に差が見られ、身分格差を示しています。また、大腿骨に骨製の鏃が深く刺さったものがあり、鏃の威力を示す例とされます。
浙江省、反山(たんざん)墓地は、1986年の調査で支配者層のものと思われる11基の墓から、玉琮等3,000点を越す玉器、漆器等が発見されました。全体に赤漆を施した木杯に小さな玉を多数埋め込んだものなども出土しています。
澄湖湖底遺址は、蘇州東南15㎞の澄湖の湖底から発見されました。井戸は、底にシジミの殻を敷き、直径数10㎝の大木を二つに割って中をくりぬき、あわせて井戸の側としました。また、石斧が、木の柄がついたまま出土しました。数種の壺の周辺には原始文字が刻まれています。
良渚文化圏では、比較的多くの石製農具がまんべんなく発見されています。その中でも出土件数の多い、三角形石犂(すき)は、泥水田を翻耕するのに有効な農具であって、湖沼と小川の多い長江下流域において、犂耕が確立していたことを裏付けています。
犁耕農業の段階にまで発展していたことは、古代農業における一大進歩であり、このことが、生産力の飛躍的な発展をもたらし、手工業の発展を促進しました。これにより製陶、玉細工、紡織等の手工業部門が農業から分離することとなります。
馬橋(まきょう)文化は、良渚文化が衰退した後、太湖周辺でそれに取って代わった文化です。土器や玉器の表面に、記号らしきものが刻まれていて、商の甲骨文字に先行する文字であるという説もあります。
こうした古代都市は、すでに四川省の龍馬古城遺跡や三星堆(さんせいたい)遺跡、湖北省の石家河遺跡や湖南省の城頭山遺跡などにも、その旧い原型がみいだされ、そのいずれにも城内に川が引き込まれています。
広範な地域に集散する四百近くの遺跡からは、夥しい玉器や陶器・漆器とともに絹や麻の織物、紡錘車などが出土しているので、石犂による農業の発展を基盤に、手工業がかなり高度に発達していると考えられます。その上、複数の木製の櫂の出土は、湖と河川と運河による水上交通が盛んだったことの証明です。
これらの遺跡が示すように、長江流域の越系氏族はたんなる稲作農民ではなく、水上生活をも発達させた海洋民であり、中国最初の王国とされてきた「夏王朝」(BC2000-1600)が誕生する前夜に、都市文明を開花させていました。
長江都市文明・良渚文化は、水田稲作を経済的基盤において、高度な玉文化を生みだしますが、何故か?消滅します。遺跡の上層が洪水堆積層になっていることを根拠に、洪水で滅びたといわれています。確かに長江流域の、B.C.2,000-B.C.1,500年頃、気候が温暖湿潤となり、降水量が増えています。しかしながら、良渚文化圏は、治水によって運河を張り巡らせ、日本の九州ほどの地域を治めた巨大な国家です。
さらに、広域で多岐に亘る文化力を有し、多種の生業領域を持つ文明が、大洪水程度の自然力で壊滅するとは、考えられません。
雲南省や貴州省にいる苗(ミャオ)族は、現代中国では少数民族ですが、彼らこそが長江文明人の子孫です。彼らの神話で「北方からやってきた黄帝と戦い、祖先はみんな首をはねられた。その赤い血がフウの木の赤い葉になった」と語り継がれています。苗族は、フウの木を神殿の列柱に使かい、生命樹として崇拝しています。
中原の黄河文明の英雄・黄帝が、軍を従え南下してきます。対抗して武装化しますが、長い戦乱で鍛えられた諸侯軍団が相手では、武器装備と戦術両面で劣り、劣勢を強いられます。しかしいきなり壊滅したのでは、ありません。黄帝以下の五帝時代を通して戦い続けています。やがては、難民として雲南や貴州の奥地に逃げ込まざるをえなくなります。
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