◆ 総論 縄文時代草創期 縄文時代期早期 縄文時代前期 縄文時代中期
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 ① 長江文明の暦年 | ② 日本の稲の伝来 | ③ 長江の稲作と都市文化 | 長江の良渚文化 |

 長江文明
① 長江文明の暦年 
 四大文明とはメソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、黄河文明ですが、これらの四大文明はいずれも半乾燥地帯の大河の中下流域で誕生し、麦作農業と牧畜に生業の基盤を置いた畑作牧畜型の都市文明でした。それは、麦作農業地帯のパンを食べる民族が開いたもので、湿潤地帯の稲作農業地帯は、都市はおろか文明とは、ほど遠いと考えられていました。
 ところが近年、中国長江流域からB.C.4,000年頃の都市文明の存在を示す巨大な遺跡が発見されました。きっかけは、長江下流域の浙江省良渚(りょうしょ)遺跡での巨大な基壇とすばらしい玉器の発見でした。
 この稲作と漁労に生業の基盤をおいた長江(ちょうこう)文明の解明により、長江文明が四大文明とはまったく異質の文明で、その起源は遥かに時代を遡り、人類文明の起源ともいえ、なお且つ、日本・朝鮮の文明に圧倒的な影響力が及んだことを実証するものでした。
 長江文明が稲作漁労に生業をおいた文明であることから、稲作技術を受入れ、稲作を主体にした農耕文化を営む日本を含むモンスーンアジアにおける、文明の重要なルーツがそこにはあると考えて間違いはありません。
 長江文明とは中国長江流域で起こった古代文明の総称ですが、文明の時期としてB.C.18,000年頃からB.C.1,000年頃迄で、後の楚・呉・越などの祖にあたると考えられます。
 また稲作などは、長江文明から直接、海を渡って、弥生時代よりさらに早い段階で、日本に伝わってきたことが分かってきました。古代の船の能力からして、長江下流域から黒潮、対馬海流の潮流に乗って、九州にたどり着く方が、船足の遅い当時の船で、朝鮮半島から急流の対馬海流を横切るより、日数を要せず、寧ろ安全で確実でした。
 長江中流域では、土器作りを伴う定住生活が、既にB.C.16,000年前に行われていたようです。この事実の確証が得られれば、日本の縄文土器文化の淵源が、またもや塗り換わります。但し、定住生活といっても、山間丘陵地の洞窟だったようです。そして原始的な雑穀焼畑の1つとしての陸稲とみられますが、B.C.12,000年の遺跡で、その痕跡が検出されました。
 長江中流域、湖南省?(れい)県の彭頭山(ほうとうざん)遺跡で、1986年に、河姆渡(かぼと)遺跡よりも遥かに遡るB.C.7,000年の稲籾が発見されました。その彭頭山遺跡の西方の城頭山(じょうとうざん)古城遺跡から、B.C.4,500年の水田遺構が発見されたのです。それは環濠集落を伴う水田稲作農耕でした。
  水田稲作の契機となたのが、アジアモンスーンの弱体化です。アジアモンスーン地域では、特に夏期、海洋から湿った空気が流れ込み、亜熱帯地域であっても豊富な雨量に恵まれて、夏でも乾燥しません。それが弱体化すると、急速に乾燥化が進みます。その対策として、城壁の背後に溜池を造成して灌漑水を確保する必要に迫られたのです。
 水田稲作により生産性が飛躍的に向上します。その理由を述べると・・・・
    Ⅰ  稲の根圏が長期間にわたって多湿状態に保たれます。
    Ⅱ  昼間暖まった水が夜間に保温の役割をし、その生育を促進します。
    Ⅲ  雑草防除です。通常の植物は、水田では根の呼吸が妨げられるため、生育することができません。
    Ⅳ  連作障害は植物の根から出た成分や、病原菌が蓄積されることが原因になっています。
       水田では、多量の浸透水で植物から出た成分が洗い流され、病原菌の殆どが酸素不足で十分に生育できません。
    Ⅴ  洪水時に土壌流失をくいとめます。水田地帯では古くから、濁水灌漑と呼ばれる方法がとられています。
       洪水の濁水には、肥沃な土壌が混入しているので、その濁水を水田に引き込む構造になっています。
       逆に畑では洪水によって肥沃な土壌が、流出してしまいます。
 日中共同で発掘調査した湖南省城頭山遺跡からは、B.C.4,300年頃の城壁の内側にB.C.4,000年前の中国最古の祭壇が発見されました。その城頭山遺跡からは王宮と神殿、そして焼成レンガを敷き詰めた基壇や道路が発掘されました。その都市は、稲作の豊穣を願う宗教的祭祀が、都市機能を運営する上で重要な役割を果たしていました。その点、畑作牧畜型文明の都市が、交易を主たる機能とする消費経済型であったのとは異なります。
 寄生虫卵や昆虫化石の分析による汚染の程度から、この城頭山遺跡には、最大2,000人が生活していたとみなされています。木材分析の結果からこの城頭山遺跡に暮らしていた人々は、現在の雲南省や貴州省に住み、フウの木を崇拝する少数民族の苗族であったことが明らかとなりました。
② 日本の稲の伝来
 玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡は、湖南省道県にあり、B.C.14,000年頃~B.C.12,000年頃の洞窟遺跡で、1993年と1995年に発掘されました。稲の籾殻が見つかっていますが、農具が未発見で、栽培稲かは確定できていません。
 仙人洞・呂桶環(せんにんどう・ちょうようかん)遺跡は、江西省万年県で、1993年と1995年に発掘されました。B.C.12,000年頃の旧石器時代末期から新石器時代初期にかけての洞窟遺跡です。石器や大型動物の骨による骨製器や、丸底土器の破片、栽培稲の痕跡が発見されました。それにより、中国の農耕が、他地域から伝播して来たのではなく、中国に起源があり、なお且つ、最古のものの一つであったことが確認されました。
 八十ダン(はちじゅうだん)遺跡は、湖南省澧(れい)県で1996年に発掘され、B.C.8,000の籾殻が検出、それは栽培稲の形態でした。
 四川省巫山県大渓(たいけい)遺跡は、B.C.4,500年頃~B.C.3,300年頃の文化で、彩文紅陶といわれる紋様を付けた紅い土器が特徴で、後期には黒陶・灰陶も登場します。それまで、水の補給を考えて、住居地は水辺が適地とされていましたが、灌漑農法の確立により、大規模な農耕が出来る平野部へ移動します。
 屈家嶺(くつかれい)文化は、湖北省京山県で1950年代に発掘され、稲の跡が発見された、B.C.3000年代前半の文化です。長江の支流、漢水の流域で、武当山、荊山、大別山等に囲まれた、河南や陜西の省境の近くです。仰韶(ヤンシャオ;ぎょうしょう)文化との地理的関わり合いが推測されます。土器では、直径90cmの鍋、高脚が40cmある鼎、口径50cmを超える甕等で、器壁が1㎜から2mmの薄さですから、轆轤の使用が想定されます。
 石家河(せつかが)文化は、屈家嶺文化から発展し、B.C.2,500年頃に、湖北省天門県石家河に大規模な都城を造営します。湖北省天門市を中心とするB.C.3,000~2,000の文化で、長江中流域最大級の都城遺跡です。この都城壁は南北1.3Km、東西1.1Kmという大きさで、城外から水を引き込み、運河として使用した跡があります。中心部には宮殿址と思われる遺構もあって、土器、塑像、紡績の用具、玉器が出土しています。石家河の住民は苗族とされ、黄河流域の部族と抗争したのはこの頃と考えられます。黄帝に代表される黄河流域の勢力と死闘を繰り返しました。
 中国古代の三皇時代、伏羲(ふっき・ふくぎ)氏、女渦(じょか)氏、神農(しんのう)氏・三代の苗族の首長が、稲作文化を伴い、中原まで長江文明の支配領域を広げますが、B.C.2,500年頃、中華に五帝時代の最初の帝・黄帝が、黄河文明の最初の英雄として登場します。
 黄帝は、まず天子・神農氏一族を「坂泉の野の戦」で滅ぼします。以後、神農氏の子孫に代わり天子となり、その時代の苗族の英雄・蚩尤(しゆう)と琢鹿(たくろく;河北省と遼寧省の省境付近)の野で戦い勝利します。
 以降五帝時代となりますが、当時、黄河流域は寒冷化に直面し、農耕民の耕作地の放棄といった事態にいたるまで悪化します。この後、黄帝時代以降の中原の五帝勢力は、軍事力を以って長江流域を支配し、亜熱帯地方の稲作文明の生産力に依存するようになります。
 この時既に、丸木舟や櫂など駆使した海洋民族でもあった苗族の難民が、黒潮の潮流にのり日本に漂着したようです。その時に野生種の「イネ」が生息しない日本に、「イネ」が始めてもたらされたのです。
③ 長江の稲作と都市文化
 長江下流域の浙江省余姚市河姆渡鎮浪墅橋村の河姆渡(かぼと)遺跡が、1973~78年にかけて2,810㎡が発掘されました。遺跡はB.C.5,000~4,000と推定され、四つの古文化層を重ね、厚さは4m位になります。高度な稲作文化を物語る圧倒的な出土量でした。 1973年の発掘だけで、遺跡からの稲の籾の量は150トンにのぼったと報告されています。その上、保存状態が良好で“7000年前の文化の寶庫"とまで称されています。大量の稲籾、籾殻、稲の茎等が、豆類やはと麦等の栽培植物と一緒に70cmを超える層で堆積し、その中には稲作工具である木製の鋤や木製の柄を付けた170個余の水牛の肩胛骨製の鋤が混在していました。また第二文化層で発見された木造の浅水井戸は、中国最古の井戸遺跡でした。
 河姆渡の先住民は既に水稻栽培を行ない、その住居は高床式でした。高床式住居を、中国では「千欄」といいます。第四文化層で大量の杭、梁、柱等の木材を発見、それは千欄式長屋の建造用材で、中国で最も古い「ほぞ構造」でした。つなぎ合わせる木材双方に、凸部と凹部を加工して、差し込むというものです。「ほぞ構造」と干欄式建築は、多雨な長江以南地方の代表的な建築形式だと判明しました。
  大量の動物骨も出土、象、犀、虎、狼、熊、鹿、猿、貝、亀、鰐等と各種の魚類、烏類の骨でした。同時に、犬・豚・鳥ばかりでなく、水牛の家畜化も行われています。
  遺物には、石器の他に大量の骨で作った器具、たとえば骨の矢、笛、針、鑿等の用具が入念に研磨され、陶器の斧、罐、鉢、盆、盤等が精巧に作られています。
 その豊富な原始芸術品は、彩陶、木のオール、玉と象牙の藝術品、最古の漆制品、各種玉器等、多分野にわたっています。大量の陶器、骨器の図案には、花紋、鳥紋、猪紋、稻葉紋、月、太陽等があリ、原始芸術の粋を集めたものといえます。
 発見当時、世界最古の漆器として話題を呼んだ河姆渡遺跡の赤漆塗り木製椀(わん)でしたが、河姆渡文化圏の遺跡群では、漆製品は少なく、質的にも粗雑で、良渚文化に至って多種多様、且つ高度な漆製品が作られるようになります。ただ、河姆渡から良渚へと、漆の起源を知る重要な手掛かりです。
 青々とした森と河川に囲まれた長江流域の稲作・漁労民は、太陽・樹木・鳥・目玉などを崇拝していました。河姆渡遺跡の象牙に刻まれた「双鳳朝陽文」にみる、太陽の火炎を中心に二羽の鳥が向かい合っている図は、そうした稲作民の信仰を象徴しています。
 太陽の軌跡は、いつの時代であっても、稲作農民の生産のメルクマ-ルです。いつ種籾を播き、いつ苗床をつくり、いつ田植えをし、いつ刈り取るかという農作業は、極めて綿密な気象分析が必要であり、その指標が太陽の循環です。
 鳥の姿は、長江流域の鵜飼漁とも結びついていますし、日々なじんでいた大切な食糧源でもあったでしょう。目玉信仰は、神々の目であり、人の目であり、野生動物の目でもありました。それは意識の表象として、五感の働きが研ぎ澄まされている古代人にとって、十分に観念的に捉えられていたのでしょう。
 こうした太陽や鳥や目玉の信仰は、河姆渡遺跡ばかりではなく、長江中流域の湖南省高廟遺跡や上流域の三星堆(さんせいたい)遺跡にもみられます。それと同時に各地の遺跡から丸木舟や櫂などと一緒に鯛や鮫の骨、鯨の背骨も出土しています。それは彼らが稲作民であると同時に漁労を営む海の民、川の民であったことを示しています。
 長江文明は、初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明とは起源を異にし、農耕も独自の発展過程をたどっています。長江文明の発見から、ジャポニカ米の稲の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られ、日本の稲作の源流と見られています。
 その後、1988年に彭頭山(ほうとうざん)遺跡が発掘されました。湖南省?県の洞庭湖の西に広がる?陽平原にあるB.C.7000~B.C.5000年の稲作文化遺跡で、環濠集落であり、住居跡、ごみ捨て場、墓、丸底土器、炭化した稲粒や籾殻が発掘されました。種子を一様に直播をする散播(さんぱ)農法が行われて、中国に於ける最古の水稲とされています。


長江の良渚文化
 その後の調査・研究により、この長江の稲作農業は「萌芽期(BC10000-9000)」、「耕前期(BC7000-5000)」、「耜耕(しこう; 耜はスキ)期(BC5000-3000)」、「犁耕(りこう)期(BC3000-2000)」の4期に区分されるようになります。
 最初に発掘された 河姆渡(かぼと)遺跡の稲作は「耜耕期」にあたり、牛や水牛等の肩胛骨製の鋤が、水田を耕起して水平にするのに使われています。 この遺跡からは大量の稲籾等が出土しているので、長江中下流の広い範囲で水田稲作が行われていたことが分かりました。
 河姆渡遺跡より、後世の良渚文化は、長江の下流・太湖流域周辺を中心とした、B.C.3,300~B.C.2,000年の遺跡です。農具の進歩が著しいようで、犁耕(りこう)が行われていたようです。犁(すき)は、鋤と音が同じですが、水牛等に引かせて耕起する用具ですから、生産力はかなり向上します。黄河流域で、犁(すき)が遺物として出土するのは、はるか後世の「戦国時代」になります。ただし、「商」時代の卜辞(ぼくじ)に、犁の文字があります。商の人は、良渚文化の人々より、随分と遅れますが、牛耕を既に行っていたのです。
 水田稲作は生産性と効率性の高い農業です。稲作によって余剰とゆとりが生まれます。余剰の蓄積は、他の生産財との交換を求めるようになります。ゆとりは、食料以外の生産を可能にします。交換製品の増産と品質向上により、分業が興ります。専門職人の登場です。良渚文化時代、職人は主に土器や玉器や絹の生産に従事します。
 高度な製品は、他の集団との物々交換を可能にします。広域に展開する交換経済は、消費市場を中心とした都市を整えていきます。世界的に見てもB.C.3000頃は、高度な都市文明が興った年代です。やがて、多くの余剰を持つ者と持たない者、勤勉と技術力の差が、貧富の差を広げ、富裕層を登場させます。富裕層は、自らの財産とそれを生む技術を守る必要性が生じます。そこで城壁都市が建造されたのです。
 このころの遺跡からは、石斧等の鋭利な武器が大量に出土するようになります。富の争奪が、戦争を惹き起こしたのです。そして軍事力に勝る勢力は、周辺の都市に侵攻して、それらを吸収し、さらなる巨大な都市を形成していくようになります。屈家嶺(くつかれい)文化や良渚文化が、丁度この時期にあたります。

 河姆渡遺跡ばかりではなく、長江中流域の湖南省高廟遺跡や上流域の三星堆(さんせいたい)遺跡等、長江流域の稲作民の遺跡からは、丸木舟や櫂等と一緒に鯛や鮫の骨、鯨の背骨も出土しています。彼らの生活は、『史記』の李斯伝に「百越の民」と記され、道教文献の『荘子』や『南華真教』には、「越人は断髪文身(髪の毛を短く切り体に刺青をする)」とあるように、操船による漁労と稲作を生業にしていたのです。
 こうした稲作・漁労の生活は、次の「犁耕期」(日本では縄文時代中期)になると、農具は骨耜から石犂になり、稲作農業は大きく発展し、その範囲も長江の南北に拡大し、それとともに水運も発達して、中国最初の都市文化として知られる「良渚(りょうしょ)文化」が形成されます。 浙江省呉興県東南7㎞の銭山漾の東南岸から 銭山漾遺址(B.C.3300~B.C.2600)が、1934年に発見されました。高床住居で、農業は稲・胡麻・空豆・真桑瓜・野生の桃・サネブトナツメ・ヒシ・瓢箪・落花生等が栽培されていました。 木製で長さ118.5㎝、握る部分は直径4㎝の米搗き用の杵、カラムシから採った繊維の織物の狩猟漁撈の網具、世界最古の絹織物の帯と糸も検出されました。養蚕を裏付ける重要な発見でした。竹等を使った敷物・笊やアンペラ(敷物)・籠・箕・木の鉢等、今日でも通じる日常品の出土でした。
 良渚文化は、長江の下流・太湖流域周辺の優れた古文化で、B.C.3,300~B.C.2,000年の遺跡です。1936年に余杭市の良渚鎮で初めて発見されましたので、良渚文化と称されました。その文化の大規模な繁栄ぶりから、城壁があって当然ですが、それと思われる小高い土塁に、版築工法の跡が発見されました。
 良渚文化は、浙江省余杭県良渚鎮一帯を中心とする一連の遺跡文化の総称ですが、その範囲は、長江デルタにある巨大な湖・太湖を中心に、南は銭塘江(せんとうこう)を越え、北は江蘇省北端に及び、西は無錫を含む広範な地域に亘っています。
 良渚の西北西5~6㎞の莫角山では、宮殿が発見されました。農民を徴集、使役した大規模な土木建築で、3万㎡に及びます。ここは杭州平野の西方の天目山から平野に移る境界です。巨大な基壇があり、日干し煉瓦づくりの神殿がそびえたち、屋根や柱は朱色や黒色で鮮やかに彩られ、明らかに中国最初の都市の存在を示しています。1936年頃から発掘が始まり、400近い遺跡が発見されました。
 良渚遺跡群は余杭市良渚、安溪、瓶鎮の三鎮にまたがっていて、新石器時代晩期の人類の生活址であり、莫角山遺跡を中核とする村落、墓地、祭壇等の各種の遺址が50余ケ所あリ、代表的な遺物は黒陶と玉琮・玉鉞・玉壁等を主とする玉器と絹製品で、分業化もなされ空前の制作レベルに達しています。精緻な玉工芸は、当時の手工業が、高度な技術を背景にしていたことを示しています。その他の漆器、絹や麻の織物製品、象牙製品等も、当時の生産品が一定程度の先進性と、文化的潜在力を表しています。
 B.C.2,000年の良渚文化圏にある桐郷市姚家山遺跡で、良渚文化晩期の墓地6ケ所を発掘しました。これらの墓地からは、玉鉞、玉壁、玉錐形器などの器物200点近くが出土しました。特に、玉製の除草農具が初めて出土したことが注目されます。長さ10cm余り、幅約4cmの玉器で、弧形の刃と背は「凸」形に突起しています。この玉器は、良渚文化特有の農具ですが、玉器ですから祭祀具か礼器であったのでしょう。
 1980年代以降、反山、瑶山、匯観山等において、高台塚と祭壇遺跡で一組となる、貴族階層専用の墓地が発掘されました。殉死者を伴う墓も発見されています。これら貴族の墓は、大部分が人工的に土を盛って造った大型墳墓で、その大部分が広くて大きい墓穴、精緻な葬具を備え、精美に作られた大量の玉製礼器が副葬されていました。
 これと対照的なのが、徐歩橋、千金角、平邱、呉家埠、廟前等の遺跡に見られるは、小型の平民の墓でした。それらは埋葬用に、特別に造成された墓地を持たず、居住地区の周囲に散在しているだけで、墓穴は狭くて小さく、副葬品も、貧弱な陶器や小さな玉の飾り物だけです。これらのことから、良渚社会には既に、身分と貧富による格差がはっきり現れていたことがわかります。
 さらに莫角山に、大型建築遺跡が発見されました。それは、原始氏族社会を凌駕する、ある種の王権力によって、初めて達成できるものです。先述の大型墓の造営工事量は莫大で、特に莫角山のように、当時の人々が通常必要とはしないような大型墳墓を目の当たりにすると、良渚文化期の人々の造営能力に感服する前に、使役された平民の生活状態に不安を禁じ得ません。まして当時の日本は縄文時代中期です。恵まれた自然資源と気候に支えられ、家族的な集落生活を送っていた時期です。それに反して、このように大規模な造営工事は、苛烈な支配秩序によってしか、成し遂げられません。
 貴族階層の暴君的な圧制が想像されます。良渚文化期において、氏族と部落には高い王権力的指導者がすでに出現しており、大量の労働力を組織し、こうした大規模造営工事を実行したのでしょう。
 高度な文化を育成しながら、その権力階層の余りにもの奢りが 、権力の堕落を生み、華中の英雄的首長・黄帝の侵攻になす術が無かったのではと思われます。その時始めて、大規模な軍事力の存在を知ったことでしょう。
 ここで、良渚の玉器を代表する玉琮を研究します。後世、その工芸文化が高く評価され、その後の中原王朝時代にも、その影響を受けた優れた玉琮が、大きさと高さが違っても数々製作されています。
 良渚文化期の玉琮は、後代と異なり直径が20㎝、高さは50㎝を超えることはありません。人間が手に捧げ持つのにほどよく合わせて製作されています。極めて精緻に作られていて、その玉器の神獣人面文様の絵柄は、羽のついた帽子をかぶった人間が、怪獣の巨大な目玉に触れている構図です。明らかに河姆渡から受け継いだ太陽信仰、鳥信仰、目玉信仰などの観念を集約していて、その文化を伝承していた事実に驚かされます。
 玉琮は、王の権力を表わすものです。四角い筆立てのような外形をしています。方柱形の内側は円筒形にくりぬかれています。円は天を表徴し、そこを神の居場所と定めます。その天を囲んだ四角い外形は大地、すなわち人間界を表します。玉琮を持つ者は、天の神と交信できる王権が宿る存在を示します。良渚文化は、祭政一致の神巫(かみなぎ)社会であり、ピラミット型の支配構造が、確立しています。
 また、こうした玉器や土器の表面には、文字らしき記号が多く刻まれ、亀甲文字の先駆ではないかと思われます。良渚遺址では、1936年の発掘当時、9 種類の刻画符号が出土しています。
 春秋戦国時代によく玉璧が登場します。ヒスイ文化の発祥地・日本で在ってもその熱狂振りは、なかなか理解ができません。巨万の富の象徴で、天を表わす円をかたどり、真ん中に穿けた円径の穴を通して、魂を天に送り還します。大?口文化灰陶の図象記号に似た複合体の玉璧符号も見られます。
 良渚文化の遺址には次のようなものがあります。  瑤山祭壇墓は、1986年、浙江省餘杭県、反山遺跡から東北に約5㎞の瑤山で、天目山山系に属した背丈の低い山で、中腹から祭壇が見つかりました。長方形に赤土を小高く盛り、突き固め、周囲には黄土を敷きつめています。11基の墓穴からおびただしい数の玉製品の首飾・腕輪・帯留・冠が出土しました。頭の先から爪先まで、その神聖な玉にくるまれていました。このことから、玉葬墓とされています。大型の軟玉製品には、細い刻線を使った細密な装飾紋が刻され、有孔円盤状の器の璧も見つかりました。
 呉江龍南遺址は、揚子江下流の太湖の南、銭山漾の東北50㎞の呉江龍南で発見され、3段階の文化が重なっていました。一番下の層は、一つ前の段階から良渚文化に変化する時期のもので、住居跡の一部が発見されたのみです。
 次の層は、良渚文化早期のもので、当時東西に流れる川を挟んで、合掌造りの屋根・井戸など住居跡が多く発掘されました。川の水流は幅約3m、深さ4m弱で、鏃・漁網の錘・魚貝の死骸などが出土しました。北岸の屈折した所に幅40~50㎝、高さ40㎝ほどの土を敷き固めた、非常に堅い堤防も見つかりました。北側には円い竪穴の豚小屋、川岸で水仕事をする場所から砥石、貯蔵用の竪穴、蒲を編んだ敷物・紡錘車なども発見されました。
 陶器は、鼎・高杯・鉢・蓋などで、鉢から脂肪等を検出され、スープを作っていたと想像されます。円と各辺が内反りの三角形か三叉形を組み合わせた紋様があり、河姆渡文化の「双鳳朝陽文」に通じます。灰色・焼き上がった時に煙でいぶして表面を黒くしたもの・橙色等のもので、轆轤(ろくろ)で成形しています。
 靴形石器は、包丁として使用したと思われます。大型の靴形石器は農具で、山西龍山文化で豚と一緒に出土しました。他に有孔石斧、歯がない下駄(スリッパ)も見つかりました。
 次の層では墓場の埋葬品に差が見られ、身分格差を示しています。また、大腿骨に骨製の鏃が深く刺さったものがあり、鏃の威力を示す例とされます。
 浙江省、反山(たんざん)墓地は、1986年の調査で支配者層のものと思われる11基の墓から、玉琮等3,000点を越す玉器、漆器等が発見されました。全体に赤漆を施した木杯に小さな玉を多数埋め込んだものなども出土しています。
 澄湖湖底遺址は、蘇州東南15㎞の澄湖の湖底から発見されました。井戸は、底にシジミの殻を敷き、直径数10㎝の大木を二つに割って中をくりぬき、あわせて井戸の側としました。また、石斧が、木の柄がついたまま出土しました。数種の壺の周辺には原始文字が刻まれています。
 良渚文化圏では、比較的多くの石製農具がまんべんなく発見されています。その中でも出土件数の多い、三角形石犂(すき)は、泥水田を翻耕するのに有効な農具であって、湖沼と小川の多い長江下流域において、犂耕が確立していたことを裏付けています。
 犁耕農業の段階にまで発展していたことは、古代農業における一大進歩であり、このことが、生産力の飛躍的な発展をもたらし、手工業の発展を促進しました。これにより製陶、玉細工、紡織等の手工業部門が農業から分離することとなります。
 馬橋(まきょう)文化は、良渚文化が衰退した後、太湖周辺でそれに取って代わった文化です。土器や玉器の表面に、記号らしきものが刻まれていて、商の甲骨文字に先行する文字であるという説もあります。
 こうした古代都市は、すでに四川省の龍馬古城遺跡や三星堆(さんせいたい)遺跡、湖北省の石家河遺跡や湖南省の城頭山遺跡などにも、その旧い原型がみいだされ、そのいずれにも城内に川が引き込まれています。
 広範な地域に集散する四百近くの遺跡からは、夥しい玉器や陶器・漆器とともに絹や麻の織物、紡錘車などが出土しているので、石犂による農業の発展を基盤に、手工業がかなり高度に発達していると考えられます。その上、複数の木製の櫂の出土は、湖と河川と運河による水上交通が盛んだったことの証明です。
 これらの遺跡が示すように、長江流域の越系氏族はたんなる稲作農民ではなく、水上生活をも発達させた海洋民であり、中国最初の王国とされてきた「夏王朝」(BC2000-1600)が誕生する前夜に、都市文明を開花させていました。

 長江都市文明・良渚文化は、水田稲作を経済的基盤において、高度な玉文化を生みだしますが、何故か?消滅します。遺跡の上層が洪水堆積層になっていることを根拠に、洪水で滅びたといわれています。確かに長江流域の、B.C.2,000-B.C.1,500年頃、気候が温暖湿潤となり、降水量が増えています。しかしながら、良渚文化圏は、治水によって運河を張り巡らせ、日本の九州ほどの地域を治めた巨大な国家です。 さらに、広域で多岐に亘る文化力を有し、多種の生業領域を持つ文明が、大洪水程度の自然力で壊滅するとは、考えられません。
 雲南省や貴州省にいる苗(ミャオ)族は、現代中国では少数民族ですが、彼らこそが長江文明人の子孫です。彼らの神話で「北方からやってきた黄帝と戦い、祖先はみんな首をはねられた。その赤い血がフウの木の赤い葉になった」と語り継がれています。苗族は、フウの木を神殿の列柱に使かい、生命樹として崇拝しています。
 中原の黄河文明の英雄・黄帝が、軍を従え南下してきます。対抗して武装化しますが、長い戦乱で鍛えられた諸侯軍団が相手では、武器装備と戦術両面で劣り、劣勢を強いられます。しかしいきなり壊滅したのでは、ありません。黄帝以下の五帝時代を通して戦い続けています。やがては、難民として雲南や貴州の奥地に逃げ込まざるをえなくなります。