諏訪大社裏山武居城跡 武居城から諏訪湖方向 桑原城東曲輪 桑原城主郭址
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 1)武士階層の登場
 2)毛抜形太刀と俘囚との関連

1)武士階層の登場

貞観4(862)年、備前国の進官米を積む船が、瀬戸内海の海賊に、その米80斛(こく)が略奪され、運京の綱丁(こうちょう)11人が殺害された。貞観11(869)年、新羅海賊が博多津(はかたつ)に夜、来襲し豊前国の運京物を略奪し、即座に撤収した。大宰府が発兵追捕したが、間に合うものではなかった。貞観17(875)年5月、下総俘囚の乱を「飛駅奏言(ひえきそうげん;天皇への緊急報告)」してきた。元慶(がんぎょう)(883)年、筑後守・都御酉(みやこのみとり)殺害事件も夜であった。部下が駆けつけたときは、群盗は立ち去っていた。この事変に対して政府は、「官兵」を発してとか、「兵」「人兵(にんぺい)」「人夫」等を動員して鎮圧せよと、「発兵勅符」「追捕官符」を下す。やがて朝廷は、これらの争乱に対して、「飛駅奏言」は律令に規定される緊急事態に限定し、国解で太政官に言上せよ、指示している。政府としては、国衙が捕亡令(ほもうりょう)罪人追捕規定に基づく、国解による追捕官符の「人夫差発(にんぷさはつ)」で人兵や人夫を動員せよと命じている。それは「発兵勅符」よりも、受領の軍事裁量権で「人夫差発」を布告し、いくらでも軍兵を、その専権で動員できる自治的権能を与えようとした。中央政府は、地方政治が中央を支える重要性を認識していながら、その目配りを地方官に委譲し続けた結果、在地領主として台頭する武士階級の成長を許し、姑息な手段を駆使してそれを阻みながら、やがては本来的な政治能力を失っていった。

中央政府は動乱の度ごとに、「官兵」、「人兵」、「人夫」等の動員を命じるが、既に、延暦11(792)年に軍団兵士制を廃止している。その後の「官兵」、「人兵」、「人夫」等はどこにいたのか。百姓庶民をかり出し、彼らは重税にあえぎ疲弊しきっている。まるで奴僕の如き体と称されている。国司による軍事訓練はなおざりにされ、私的に酷使されるだけで、律令制度下では軍兵として、一人として実践的戦力になりえなかった。天長3(826)年11月3日の太政官符 (だじょうかんぷ)に「兵士の賎 奴僕と異なるなし。一人点ぜられば、一戸随って亡ぶ」とある。律令制下、重い税、役の負担で貧窮し切った民の姿があった。

追捕勅符追捕官符で、乱の鎮圧の先頭となって戦うのは、受領とその子弟・従者であった。乱が大規模化すれば、国内から広く動員をする。私出挙と直営田を経営する富豪層と郡司の中から、乗馬が巧みで武芸に優れた者、当時「勇敢者」「武芸人」等と称されていた人々であった。しかし彼らには、武芸に専念できるゆとりもなく、国衙も未だ、武芸が練達になるような特典を与えていなかった。しかし、やがて彼らの中から、在地領主化し武士化していく階層が誕生する。或いは国衙自体の権能も弱まり、受領の館とその機関としての「所」が地方の国政の中心になると、受領の郎党達も、職能化し武士が主体となっていった。
 元慶2(878)年3月、前年来の干魃による飢饉もあって、出羽国で反乱起き、秋田城等を焼く。朝廷軍は数千の兵士を進発させ、鎮圧に当たるが、蝦夷の賊徒千余人の奇計により壊滅した。5月2日、陸奥国と出羽国の両国の飛駅使(ひえきし)が、京に官軍の壊滅を告げる。陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に任命し終息を命じた。保則のその時の至言がここにある。「一もて百に当りて、与(とも)に鋒(ほこのさき)を争ひがたし。如今(いま)のことは、坂(従三位坂上大宿禰田村麻呂)将軍の再び生まるといえども、蕩定すること能はじ。もし教ふるに義方(義にかなった正しい方法)をもてし、示すに威信をもてして、我が徳音(とくいん)を播(ほどこ)し、彼の野心を変ぜば、尺兵(せきへい;短い武器)を用ゐずして、大寇自らに平かならむとまうす。」
 律令軍団制の実情は、集められた農民兵を、国司や軍毅が私的に使い、弓馬の訓練を疎かにした結果、藤原保則に「蝦夷兵一人に百人の軍団兵士があったても勝負にならない」と言わしめた。
 天智2年、白村江の戦いで、陸戦では唐・新羅の軍に、倭国・百済の軍は破れ、海戦では、白村江に集結した1,000隻余りの倭船のうち400隻余りが炎上するという大敗北に遭う。この戦だけで兵士1万余りが、半島で消失している。その後律令下、軍団制を布く。しかし実体は変わらず、肝心の兵士達が、天皇権による重税と過酷な課役で疲弊しきっていた。その上、軍事訓練なぞできるはずもなかった。また訓練を施す指導者自体が、なおざりにされていた。
 元慶2年の出羽のこの緊急事態に、東海・東山道の諸国と共に、信濃国から30人の「勇敢軽鋭の者」が選ばれた。御牧の牧司が主体であった。彼らは牧馬の飼育だけでなく、馬上、山野を駆け巡り狩猟にも勤しみ、騎馬弓術に長けていた。更に移配された俘囚達と接し、その武技を学んでいた。陸奥へ徴用され、実戦の中、刀術も進化した。彼らこそ諏訪武士の発祥といえる。
 
 寛平・延喜の時代、東国では諸国の富豪層からなる「 僦馬の党(しゅうばのとう)」が群盗化し蜂起する事態が頻発した。寛平5(893)年から6年にわたって、対馬や九州北部が新羅の海賊に蹂躙されている。寛平7(895)年、京畿内でも群盗が蜂起し、延喜4(904)年3月、安芸守伴忠行(とものただゆき)が京中で射殺されている。全国的な騒乱状態であった。この時代初めて押領使が制度化され、それまで鎮圧責任を負った受領は、押領使にそれを任せた。押領使の制度こそが延喜の軍制改革であった。押領使は追捕官符を与えられた受領の命を受け、国内武士を総動員して反乱の鎮圧にあたった。荘官としての王臣家人であっても、武勇に秀でた者は、国衙の動員命令には応じなければならない。押領使は将門の乱後は、常置制度化された。

この時代、私営田を営み在地領主として武士が、有力な実力階層として既に育っていた。その一方、摂関家に奉仕し多大な出費によって、その地位を得た受領達が、地方に対して過酷な収奪にはしり、財の蓄積に励んだ。その的となったのが、「勇敢者」「武芸人」「富豪層」と呼ばれる武士達の私営田であった。将門純友の乱に際しては、その理不尽さに反発する将門や純友に与力した者達と、朝廷側に靡き、その鎮圧による勲功で出世を得ようとする2勢力に分かれて戦った。

武士達は、乱後、有能な武将であった将門や純友が、無残な末路を遂げた姿を知り、その後100年間、武士による大規模な反乱は生じなかった。藤原秀郷のように寛平・延喜の東国の乱に際し、下野国押領使として軍功を挙げ、受領の支配を拒絶し下野国に絶対的な勢力を確立した武士も育っていた。その後、将門の乱でも最大の勲功者となり、俘囚が立ち去った後代、超人的な武芸・騎馬戦法を確立した武士でもあった。しかし源平一族以上の実績を挙げながらも、下野、武蔵両国守を務めた後、下野国にとどまり在地の経営拡大に専念したため、武家の棟梁になりえなかった。但し、その子孫は東北平泉に藤原3代の栄華を築きあげた。

2)毛抜形太刀と俘囚との関連

『六衛府』は『諸衛(しょえ/しょえい)』とも言い、左右の近衛兵衛衛門の総称である。 また、近衛が内裏の内側を警衛するのに対し、内裏の外側を警衛する兵衛・衛門は、総称して『外衛(げえ/がいえ)』とも言う。
 兵衛は兵衛府(ひょうえふ;つわもののとねりのつかさ)の四等官(しとうかん)以外の武官で、宮門の守備、行幸・行啓の供奉(ぐぶ)等にあたり、左右両京内の巡視などを司った。左右2府があり、左兵衛は宣陽門、右兵衛は陰明門(おんめいもん)を陣とした。 四等官のほか兵衛400人が所属した。
 衛門は宮城諸門の警備、部署の巡検、行幸の先駆けなどにあたった。衛門の陣は衛門府の官人の控え所で、左衛門の陣は建春門に、右衛門の陣は宜秋門(ぎしゅうもん)の内にあった。大同3(808)年左右衛士府(えじふ)に併合、弘仁2(811)左右衛門府となった。職員の多くが検非違使(けびいし)を兼任した。

平安中期以後に、別当蔵人頭蔵人出納小舎人(こどねり)非蔵人雑色(ぞうしき)等、職制が整っていく。蔵人所は事務を行う場所のことで、内裏校書殿(きょうしょでん)の北部に置かれた。
 嵯峨天皇はその秘書官・内侍司(ないしのつかさ)の長官・尚侍(ないしのかみ)の薬子の変へと繋がる平城上皇との対立があり、退位した上皇が旧都平城京へ移るに際し、そのの愛妾藤原薬子も同行した。天皇は、その秘書等の手足を欠いて行政実務に支障をきたした。新たな秘書役として大同5(810)年に藤原冬嗣巨勢野足(こせ のたり)蔵人頭(くろうどのとう)に、清原真野らを蔵人に任命したのが蔵人所の始まりである。その蔵人所の下で、天皇の在所・清涼殿の殿上の間には官位4位・5位の殿上人が交代で宿直する。 一方、庭を警護する兵士は、清涼殿東庭北東の御溝水(みかわみず)の落ち口、「滝口」と呼ばれる近くの渡り廊を詰め所にして宿直したことから、清涼殿警護の武者を「滝口」と呼ぶ様になる。またこの詰め所は「滝口陣(たきぐちのじん)」等と呼ばれた。なお、蔵人所は令外官のため、滝口それ自体も官職ではない。
 平安時代10世紀の京では兵仗(ひょうじょう;戦闘用の実用の武器)、特に弓箭(弓矢)を帯びることは正規の官吏である武官以外には許されていなかったが、『日本略記』によると貞元2(977)11月9日に「滝口の武者」が弓箭を帯びて宮中に出入りすることが許されている。これによって「滝口の武者」は朝廷が公式に認める「武士」となるが、滝口は無位であり、それに勤仕し実績を積み、そこから8つの中央行政官庁、中務(なかつかさ)式部省治部省民部省兵部(ひょうぶ)刑部(ぎょうぶ)大蔵省宮内省等、8省の4等官(しとうかん)制の、せめて第3等官である(じょう)を、或いは左右衛門少尉を経て、検非違使等を目指します。そしてうまくいけば従5位下に叙爵、少なくとも6位程度の六衛府の武官を目指すのが平安時代後期の武士主導層の姿だった。こうして天皇に近侍する武士として頭角を現し、やがて諏訪武士をはじめ各地の地方武士を郎等化し、武家の棟梁家としての地位を確立する。鎌倉時代、将軍家郎等が「御家人」と呼ばれるようになる。

『三代実録』によれば、貞観11(869)年5月、新羅の海賊船2隻が博多に侵入し、豊前国の年貢の絹綿を略奪し逃走した。この時海辺の百姓5、6人が懸命に戦ったのに、統領や選士は惰弱で役に立たなかったという。この報せに朝廷は、当然大宰府を譴責するが、その対応策に「今後は、降伏した蝦夷である夷俘(いふ)を動員して火急に備えさせよ」とある。延暦11(792)年、軍団兵士制は廃止されていたが、たった海賊船2隻にすら対応できる組織的軍事力が存在せず、少数精鋭の夷俘の武技に頼るしかなかった。大宰府は管内俘囚を動員して対処している。事件後、大宰府は朝廷に、100人ずつ2班の俘囚常備軍を編成し、1ヵ月ごとの交替勤務として、要所の防備に当たらせたいと申請している。その後、諸国の受領は俘囚を積極的に召集し、群盗海賊等の鎮圧に当たらせた。

同時に徴募された「勇敢者」「武芸人」「富豪層」達は、彼らの蕨手大刀を駆使する疾駆斬撃の戦法と弓馬の技術を目の当たりにして、その騎馬個人戦術を磨き中世武士として成長していった。日本刀は律令軍制下使用されていた直刀から進化したのではなかった。蕨手大刀の刀身を50cmから70cm位にし、柄には毛抜形の透かしを施した毛抜形太刀(けぬきがたたち)の最古の物が、長野県塩尻市宗賀(そうが)で出土している。10世紀代と推定されている。毛抜形太刀は毛抜形の透かしに、指をかけて柄の握り力を向上させ、共鉄柄(ともがねづか)の反りを強めて、斬撃時の衝撃を弱めるとともに、切っ先迄流れるように深く切り込めるため斬撃力が増した。その太刀は、蕨手大刀とは違い、神社に奉納された伝世刀も含め、関東以西でしか発見されていない。

毛抜形太刀は、元慶出羽俘囚の乱で、毛抜形蕨手刀の斬撃力の凄味に接し、乱後それまで蕨手刀を用いていた武芸達者な官人や勇敢富豪層に普及し、寛平・延喜の東国の乱や九州北部の新羅海賊の来襲等で実戦を経験するうちに、刀身の長寸と長柄の有利さが分かり改良されたのが、毛抜形太刀と考えられる。天慶の乱では、既に実用されていたとおもえる。

1970年、将門の本拠に近い茨城県結城郡八千代町で、9世紀後期の製鉄遺構が発掘されている。寛平・延喜の東国の乱以降の反乱状態の最中、坂東の鍛冶師はその武器需要と、改良要請に十分応えられる環境にあったといえる。そして毛抜形太刀は六衛府官人の制式太刀となった。

摂関期になると畿内在住の有力武士は蔵人所の名簿に登録され、政変時等に内裏への武士召集に使われるようになる。また延喜年間以降、延喜勲功者及びその子孫は、勲功を足がかりに土着し勅旨牧・御牧の別当として、或いは権介に抜擢された。受領も俘囚が立ち去った後の国衙軍事力として、広大な公田の請作をさせ、私領開発にも便宜を与え、強力な武士団の形成をはかった。これにより特に東国では、武士が幅を利かせるようになった。

彼らは受領による国衙支配に協力しながら私営田を拡大し、やがては武芸練磨を口実に山林原野を狩場とする狩猟特権も認められた。後世、諏訪武士として成長する過程で、現在の原村一帯の森林未開の地を、荘官あるいは在地領主の狩場として、弓馬の鍛練の台地として、国衙から認められていたのも、不可欠な武力として認知されていたからであった。それが諏訪大社上社の御射山祭と、その鹿狩神事に繋がった。

やがて大祝家諏訪氏も諏訪郡上社領の荘官でありながらが、その管理地を事実上支配継続する過程で、領主としての自覚と独立心に目覚めていく。
 長野県の下高井郡木島平村の根塚遺跡(ねつかいせき)は、3世紀後半の遺跡である。そこからは、「渦巻文装飾付鉄剣(うずまきもんそうしょくつきてっけん)」が出土している。蝦夷の蕨手刀と同様、刀身と柄が一体の共鉄柄で、柄によって反りが生じている。朝鮮半島の南の伽耶の太刀である。蝦夷文化の早熟と、東北アジアとの親密性朝鮮半島ルートとの直接的影響を軽視してはならない。

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