『古事記』出雲国譲り
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 目次
 1)建御雷神
 2)建御名方神の敗北
 3)大国主神が願った出雲大社
 4)出雲大社の宇豆柱が出土
 5)出雲の祭祀

 本居宣長の『古事記伝』三之巻で語られる「さてすべての迦微(かみ)」とは、古御典(いにしえのみふみ)等に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、そのほか何にまれ、尋常(よのつね)ならず、すぐれたる徳のありて、可畏(かしこき)物を迦微とは云ふなり」とある。
 その一方では「神と申す名の義(こころ)は未だ思ひ得ず」としている。更に「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪(あし)きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、
 さて人の中の神は、先づ懸けまくも
(かけまくもかしこき;口に出して言うのもおそれ多い)天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は遠つ神とも申して、凡人(ただびと)とは遥に遠く、尊く可畏く坐しますが故なり、かくて次々にも神なる人、古も今もあることなり、又天の下に浮(う)けばりてこそあらね、一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、
 さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、雷は常にも鳴る神神鳴りなど云へば、さらにもいはず、龍樹靈狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、(中略)又虎をも狼をも神と云ること」とあり、 虎・狼をも含めて、鳥獣木草のたぐひ海山など、「龍樹霊狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり」と、日本の神は万物生命信仰が基本にありと力説する。
 宣長は「さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代と云うなり」と解き、新井白石が『古史通
(こしつう)』で「神とは人なり」と断言する説と共通する。


 
  1)建御雷神
 『古事記』第十二話「葦原中国(あしはらのなかつくに)への使者の派遣が、再び失敗した。天照大御神は『今度はいずれの神を遣わせればよいか』と尋ねた。思金神(おもひかねのかみ)と諸々の神が申し上げた。『天安河(あめやすのかわ)の上流の天石屋(あめのいわや;高天原にある岩窟)にいます伊都之尾羽張神(いつのおはばりのかみ)を遣わすべきです。若しこの神でなければ、その神の子、建御雷之男神(たけみいかづちのおのかみ)を遣わすというのはどうでしょうか。
 (伊都之尾羽張神は、『古事記』の神産みの段において、伊邪那岐命が迦具土神(かぐつちのかみ)を斬ったときに使った十拳剣(とつかつるぎ)の名前として登場する。神名としては天之尾羽張神(あめのおはばりのかみ)という。伊都之尾羽張神についた迦具土神の血から、建御雷之男神などの火・雷・刀に関する神が化生している。
 『日本書紀』の葦原中国平定の段の本文で、武甕槌神が登場する際、天石窟に住む神である稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)の四世の孫であると記されている。稜威雄走神は天之尾羽張神の別名と見られる。「伊都」「稜威」は威力のことである。「雄走」は「鞘走る(さおはしる)」の意で、切っ先が鋭く反(そ)る鋭利な刃であることを示す。
 尾羽張」は「尾刃張」で、鋒の両方の刃が張り出した剣の意味である。「天」は高天原に関係のある神であることを示す)  
 ただ伊都の尾羽張神が、天の安河を逆
(さかしま)に塞(せ)き上げて、道を塞ぐため、他の神が行くことができません。そこで水を渡れる天迦久神(あめのかく;かくは鹿児の転嫁で、鹿は水を泳ぐ)を遣わし、伝えさせるべきです』。
 それで天迦久神を遣わし、天尾羽張神を尋ねさせると『恐れ多いことです。お仕えいたします。しかしながら、この度は、吾が子、建御雷神
(たけみかずづち)を遣うべきです』と、吾が子を使者として献上した。そのために天鳥船神を建御雷神に副えて遣わした(天鳥船;あめのとりふね;鳥のように天空を飛行する船を神格化した。建御雷神は鳥船に乗って天翔(あまかけ)る)
 こうして、この二柱の神は出雲国の伊那佐の小浜
(いざさのおばま)に降り立った。伊那佐へは3度目となる、天つ国からの遣いであった。
 十掬剣
(とつかのつるぎ)抜き、波の穗がしらに柄を下に逆さに立てて刺し、その剣先に胡座をかいて、大国主神に向って問いかけた。
 『天照大御神と高木神
(たかぎのかみ;天孫ニニギの外祖父)の命(仰せ)により遣わされた使者が聞く。汝が主として領有する葦原中国は、我御子が統べる国とのお言葉を賜った。このことをどう思う』。
 すると答えて『僕
(やつかれ)は、引退の身であれば申し上げられません。我子の八重言代主神(やえことしろぬし)がお答えすべきでしょう。然しながら、鳥遊びをし、魚を取りに御大之前(みほのさき;美保ヶ崎)に出掛けていて未だ帰って来ません」。
 
(「鳥遊び」は、祭儀の一つで、出雲氏の国造の代替わりごとに、天皇の前で「出雲国造神賀詞(かんよごと)」という服属の誓詞を奏上し、合わせて「生き御調の玩び物(いきみつきのもてあそびもの)」として生きた白鳥が献上された。「魚を取り」も供物として「すずき」を捕った。)
 すると、天鳥船神を遣わし、八重事代主神を召して来させた。建御雷神が問い賜うと、父の大神に向って語った。「恐れ多いことです。この国を天つ神の御子に奉ります」というと、今自分が乗ってきた船を踏みつけひっくり返した。
 天の逆手
(あまのさかて;天に向かって手の甲を打つ)を打ち合わせて、船を青葉の柴垣(ふしがき)に変えて、その神籬(ひもろぎ;神が宿る神座)の中に隠れてしまった(柴を布斯;ふし;と訓む)」。
 伊那佐は出雲国風土記では伊奈佐とあり、否か諾か、国譲りを迫られたことに因む地名。また原文にある「宇志波祁流
(うしはける)」とは、その地を我が物として領居することをいう。
  八重事代主神は、建御雷神の国譲りの問いに、父の大神に向って答えている。その無念さを忖度している記述である。
  青柴垣は柴で囲まれた聖域とされ、現在では毎年4月に美保神社で「青柴垣神事」が行われている。
  「天逆手矣」に八重事代主神の無念さが明かされている。呪詛の念が込められていた。


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  2)建御名方神の敗北
 「かくして、建御雷神は大国主神に訊ねて『今、汝の子事代主には、既に、申し述べた。他に何かを申す子がいるか』と問うと、これに答えて『まだ我子建御名方神がいます。この他にはいません』と申していると、その建御名方神が、千引石(ちひきのいわ;千人引きの大岩)を手末に撃(たなすえにささ;手の先/指の先に支)げながら、やって来て言った。
 『誰だ、我国に来て、こそこそと物を言うのは、それならば力競べをしよう。先ずは、吾が先にそなたの手を取ろう』という。
 建御雷神が、その手を取らせると、忽ち立ち氷
(たちひ;氷柱)に変わった。また直ぐに剣の刃となった。それで恐れて身を引いた。
 反対に、建御雷神が建御名方神の手を取らんと所望して握り返した。まるで展葉したばかりの葦を取るように、握り潰して、体ごと投げ放った。
 直ぐに、建御名方神は逃げ去った。その後を追って、科野国の州羽海
(すわのうみ;諏訪湖)に追い詰めた。まさに殺そうとすると、建御名方神は『恐ろしい、吾を殺さないでくれ。此の地以外には、どこにも行かない。また吾も父の大国主神の言いつけを違えることはしない。八重事代主神の言いつけにも従う。この葦原中国は、天つ神の御子の御意思に従い献上します』」。

 建御名方神は今も諏訪大社の大柱で坐す。「みなかた」は「水潟」の意であるから、諏訪湖を神格化した、この地方の国つ神である。それが『古事記』だけに、しかも突然、大国主神の子、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の系譜を継ぐ天つ神の子孫として登場する。そのうえ無残な敗北を帰して逃亡し、神として言うべきでない「恐」を発して、建御雷神の攻撃を免れている。
 「神誓」とう服属の誓いにより、建御雷神は「言向け和した」として許した。それなのに、大国主神を国つ神の代表のように扱い、諸々の矛盾を生じさせている。
 その後、建御名方神の子孫とされる諏訪氏は、単なる「祝部」の長に過ぎないはずの「大祝」を称号として、自らを「現人神」して祀らさせた。
 藤原不比等は、鹿島神宮の祭神建御雷神を分祀勧請し、春日大社を創建した。その不比等こそが、『古事記』を監修した当時の政権の実力者であった。『古事記』では、中臣・藤原氏の祖神天児屋命
(あめのこやねのみこと)は、天照大神が、天の岩戸に隠れた際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに、布刀玉命(ふとだまのみこと)とともに鏡を差し出した、とあり、その後、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に従った五神の一柱となるが、存在感に乏しい。不比等は、そのため『日本書紀』でも大活躍する建御雷神を祖神にする。
 極めて不自然であるが、その記紀に表れる神話自体が、考古学的な史料からみれば、多くの矛盾をはらんでいた。なぜ、3世紀中葉に栄える、巨大政権であったはずの卑弥呼に関連する記述がないのか。

 この時代、諏訪は葦原中国の東の果てとみられていたようだ。


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  3)大国主神が願った出雲大社
 「建御雷神は出雲に再び戻り、大国主神に訊ねた。『汝の子の、事代主神・建御名方神の二柱の神は、天つ神の御子の命(みこと;御言)に従い、背かないと誓った。しかしながら、汝の気持ちはどうだ』。
 それに答え『吾が子、二柱の神が申した通り、吾も背かない。この葦原中国は、御言に従い総てを献上した。ただ吾が住む所だけは、天つ神の御子が、天つ神として日継ぎする所に足る、壮大に高く聳える天の大殿
(おおどの)のように、底深く磐根(いわね)に達する宮柱を太くして建て、高天の原に届くほど氷木(ひぎ;屋根の両端で交叉させた部材)を高だかくして、しかるべく整え賜われば、吾は百(もも)ほどではないが八十ある幽界の一画に隠れ鎮まる。
 また吾が子ら百八十神
(ももやそがみ;数多の神々)は、八重事代主神が、神々の前後で率先して任い奉れば、それに背く神は現れまい(八十坰手;やそくまで;八十は多数、坰は隅、デは場所を示す名詞につく接尾語、クマデとは幽界)』と申した。

 その申す通り、出雲国の多芸志
(たぎし;出雲市武志町?)の小浜に、天つ神が舍(やど)るような館を造り、水戸神(みなとのかみ)の子孫・櫛八玉神(くしやたま)を膳夫(かしわで;調理人)として、天御饗(あめのみあへ)を差上げる時に言祝(ことほぎ)を唱えた。
 櫛八玉神は、鵜に化して海底に潜り、底の埴
(はに;粘土)をくわえて出て、天つ神に奉げる八十の平皿(ひらか;カは容器の総称)を作り、海草の茎を刈り取って燧臼(ひきりうす)を作り、海蓴(こも;この海草の名はホンダワラかアオサ)の茎で燧杵(ひきりきね)を作って、別火(浄火)を鑽(き)り出して唱えた」
 
(火を鑽り出すには、燧臼の板に穿った小穴に、先の尖った棒状の燧杵をもみ込み発火させた)

 『この吾が所の燧火
(ひきりび;すいか)は、高天の原の神産巣日御祖命(かむむすひのみおやのみこと)が、とだる(トダルのトは十分、タルは足るで、十分に整った意)ほど壮大で高く聳える天つ神の新しい館で、竈の煤が、長々(八拳;やつこぶし)と垂れさがるほど炊き上げ、地(つち)の下の底石根(そこついわね;地の底にある岩)まで焼き固めほど燃え続けた。

 𣑥縄
(たくなわ;楮で作った縄)を、(延縄漁;はえなわりょう;のように)千尋に縄を打ち伸ばし、海人(あま)が釣る口が大きい尾翼鱸(をはたすずき)をざわざわと寄せ上げて、その口に竹を差し込み、遥か遠く登る、天つ神への魚料理として献上した』と詞章として唱えられた。
 建御雷神は、高天原に昇り帰り、天照大神に葦原中国を言向け和したと復命した」。

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  4)出雲大社の宇豆柱が出土
 平成12(2,000)年の発掘調査により、鎌倉時代の出雲大社の本殿の棟を支える棟持柱(むなもちばしら)が出土した。古来、宇豆柱(うづばしら)と呼ばれた。
 柱の材質は杉であった。1本の柱の直径は、1.3mもあり、それが3本束ねられて、その直径が約3mにもなる巨大な柱が、3カ所で発見された。しかもその三本が近接して出土した。境内の下を流れる豊富な地下水により、奇跡的に当時の形が留められていた。
 直径が最大で約6mもある柱穴には、人頭大かそれ以上の大きな石が、ぎっしりと埋め込まれてあった。それにより掘立柱の基礎構造が明らかになった。
 出土した柱は、出雲大社の宮司千家国造家
(せんげこくそうけ)に伝わる出雲大社の本殿の設計図、「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」の描画と類似していた。そこには、3本の柱が、金の輪で1本に縛られ、それが9セット描かれてあった。出雲大社に伝承する本殿の構図と、ほぼ合致した。
 宇豆柱に穿かれた穴は、運ぶにあったて縄を引っかけるためであった。柱の表面を削る手斧
(ちょうな)と呼ばれる工具で加工された痕跡もあった。また、ベンガラが検出された。出雲大社の本殿は、朱色だった。
 宇豆柱の科学分析調査や文献記録などから、鎌倉時代前半の宝治2(1,246)年に造営されたと考えられている。

 平安時代中期に編纂された児童向け学習書といわれる『口遊
(くちずさみ)』には、「雲太(うんた)・和二(わに)・京三(きょうさん)」と記されている。これは、日本の建造物では、出雲大社の本殿が1番、東大寺大仏殿が2番、平安京大極殿が3番という意味だ。
 出雲大社の口伝では、上古32丈(約97m)、中古16丈(約48m)、その後8丈(約24m)という(1丈は3.0303m)。
 古代の出雲大社の本殿は、今より格段に高く、しかも、『古事記』で大国主命が武御雷命に「唯僕住所者、如天神御子之天津日継所知之登陀流」と願った通り、日本一高い建造物であった。
 それは、『古事記』が、漢文式和文体で記されたことを示す、文章例でもある。万葉仮名で「登陀流(とだる)」とある。トは「十分に」、タルは「足る」で十分に整っている意味の「ヤマト言葉」である。


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  5)出雲の祭祀
 出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に天の御舎(あめのみあらか・神聖な神殿)を造り、水門の神の孫・櫛八玉神(くしやたま)が鵜と化して海に潜り、粘土を採って祭具となる皿を作り、海藻の茎で火鑚臼・火鑚杵を作って神聖な別火を鑚り出して天御饗(あめのみあえ)を料理し、言祝(ことほぎ)の詞を唱えながら献上した。
 「出雲国の多芸志の小浜に天の御舎」とは、後世の国庁正殿の機能を果たしていたようだ。出雲市武志町
(たけしちょう)には板御膳原(いたごぜんばら)という地名があり、膳夫神社蹟という碑が建っている。櫛八玉神(くしやたま)が祀られていたという。膳夫神社は、度々、洪水で被災したため、明治44年、近くの「鹿島神社」に合祀された。
 天御饗とは、被征服者が征服者の天つ神に対しておこなった服属儀礼としての御饗と解釈される。
 出雲国造の末裔である出雲大社宮司家の千家
(せんげ)では、その世継の神器として、出雲の熊野大社(島根県八束郡八雲村;現松江市)から燧臼・燧杵を拝受する。燧臼は約1m×12㎝×3㎝の桧の板、燧杵は長さ80㎝、直径2㎝の卯木(うつぎ)の丸い棒である。燧杵を燧臼に立てて、両手で力強く錐揉む、その摩擦で煙が出始め、やがて発火する。
 新嘗祭など祭祀用の調理に用いる別火として神聖視されている。熊野大社では、平素、鑚火殿
(さんかでん)で保管し、鑚火祭の時にこの燧臼と燧杵を出雲大社の宮司に授け渡す。
 江戸後期の万葉集の注釈書である「万葉集略解
(まんようしゅうりゃくげ)」では、𣑥縄の「𣑥」は「楮{こうぞ}」の誤りとしている。
 漢文式和文体で「𣑥縄之、千尋縄打延、為釣海人之」とは、今日の「延縄漁
(はえなわりょう)」である。延縄とは、漁具の形体を称し、1本の幹縄に多数の枝縄(これを延縄と呼ぶ)をつけ、その延縄の先端に、それぞれ釣り針をつける。延縄漁は古来の漁法で、延縄を漁場に仕掛けた後、しばらく放置してから延縄を回収して収獲した。
 海人が釣った鱸を、敗北した大国主族が献上した。鱸は出雲では最も神聖な海の幸とされた。その大国主が、絶望のあまり発する最後の言葉が「口大之尾翼鱸
(をはたすずき) 打竹之」であった。
 「大国である出雲国が、竹(建御雷神)に打(討伐)たれた」とし、その最後を「尾翼鱸にかけて、とをとを(登遠遠登遠遠に)終わった」と表現した。大国主の無念さが、如実に明かされている。
 建御雷神が、高天原に昇り帰り、天照大神に報告する「言向け和す」とは、武力によらず、言葉の力で相手を平定した、という意である。大国主命が「八十ある幽界の一画に隠れ鎮まる」結末と、大きな違和感があるのは、なぜだろう。

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